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第1回3000字小説バトル
Entry3

ノイズはいらない

作者 : 君島恒星 [キミジマコウセイ]
Website : http://www.hello.co.jp/~kimi3
文字数 : 2965
 僕は音楽マニアでも、サウンドマニアでもない。ただ、オルフ作
曲の「カルミナ・ブラーナ」をいい状態で聞きたいだけなのだ。ダ
イナミックレンジの大きな曲なので、忠実な再生は困難を要する。
ダイナミックレンジとは、最大音と最小音のレベル差をいう。クラ
シック音楽ほど、ダイナミックレンジは大きいといわれているのだ。
 この「カルミナ・ブラーナ」を好んで聴いていたのは、同級生の
紀子だった。僕は中学の入学式で初めて見た、紀子の姿に一目惚れ
をしていた。気の弱い僕は交際を断られるのを恐れて、遠くから見
ているだけ。人知れず高まっている僕の気持ちを知ることなく、紀
子は二年になると僕の前から消えていった。
 引っ越してしまったのだ。
 引っ越しの前に、紀子の自宅近くを歩いていた時に聞こえてきた
のが「カルミナ・ブラーナ」だった。力強く、やさしいその曲調は、
僕を紀子の家の前まで引き寄せた。紀子はステレオの前に置いてあ
るソファーに身体をゆだねて、目を閉じながら聞いていた。僕は、
少し開いていた窓から覗きに没頭してしまった。曲に合わせて、ち
ょっとした指の悪戯と恍惚の表情をする紀子に…
 その姿が、網膜に焼き付いた。
 当時は曲名がわからなかったので、必死になって調べまくった。
数えきれないほど試聴したCDとレコードの残骸と共に、ようやく
曲名を探し当てることができた。本人に聞くことはできなかった。
紀子の姿を覗き見したことは、罪なことだと思っていたからだ。
 紀子は半年後、引っ越し先で交通事故により亡くなった。僕は三
日三晩涙を流しながら、曲を聴き続けた。その時から「カルミナ・
ブラーナ」を聞くことによって、僕の脳裏に紀子が蘇ってくるよう
になった。紀子は淋しそうにしているが、僕に気が付くと、はちき
れそうな笑顔で、やさしく抱き締め、解放感へと導いてくれた。そ
れから「カルミナ・ブラーナ」を聴いているときだけが、紀子と逢
えるときになった。
 社会人になっても、紀子の想いは絶えることがなかった。CDや
レコードで、世に出ている「カルミナ・ブラーナ」のほとんどを聞
き終わった頃、サンプリング周波数48KHzのDATによる、ス
タジオ録音テープが手に入った。大学の友達が録音スタジオに就職
して、内緒でデジタルコピーしてくれたのだ。もちろん、個人での
楽しみ以外には使わない。DATはサンプリング周波数がCDより
も高いので、よりよい音で再生することができる。
 この頃から、ノイズのない状態で曲を聞くと紀子がよりよく鮮明
に現れるようになった。反対にノイズがあると現れなくなったのだ。
 ノイズが嫌いになっていた。
 思い切ってマンションのリスニングルームを防音室に改良するこ
とにした。
 部屋の回りにクッション材を詰め、その中にスタジオ仕様の部屋
を作った。部屋の中でリスニングルームがクッションによって浮い
ている状態だ。これによって部屋の中の音は外には漏れない。外の
音も聞こえないだろう。 聞きたいのは スタジオ録音の「カルミナ
・ブラーナ」だから、そのスタジオに近い部屋を作れば忠実に再生
してくれる。それによって紀子も、より美しく僕の目にうつること
だろう。
 楽しくなってきた。
 僕は没頭し、貯金を注ぎ込んだ。
 部屋に新たに購入した再生機器を運び込んだ。DATはスタジオ
仕様のスチューダー製で、アンプはマッキントッシュの特別仕様、
周波数特性はほとんどフラットというすぐれものだ。スピーカーは
アルティックの劇場システムに近い、マンタレイホーンシステムを
購入した。周辺機器は使わない方が、音の劣化がないのでいいのだ
が、パラメトリックイコライザーをDATとアンプの間にセットし
た。再生不良の周波数をカバーするためにだ。
 まずはピンクノイズという低周波から高周波まで含まれている音
を流し、アナライザーという周波数測定器にかけてみた。スピーカ
ーの再生音が耳を刺激する。測定器の画面に再生周波数の波形が確
認できた。案の定500Hz近辺が2dbほど低くなっている。こ
のあたりはスピーカーの特性だ。2ウエイだとユニットのクロスオ
ーバー周波数あたりが、高くなっていたり、低くなっている。そこ
をイコライザーで調整して、特性をフラットにするのだ。
 柔らかく身体全体を包み込んでくれる、リスニングチェアーも特
注品にした。これで何時間でも聞いていられるだろう。あのときの
紀子みたいに…
 いよいよ再生してみる。
 スタートしたところで、不快感が襲った。
 紀子の面影が脳裏の中でうまく再生できない。紀子は中学生のま
まではなかった。僕と同様に紀子の面影も成長しているのだ。だか
ら紀子と逢うには大変な集中力が必要だった。
 紀子が現れないのは、ノイズのせいだった。
 DATの走行音が気になったのだ。暖まったアンプの膨張音も耐
えがたい。
 僕は防音室の中に、ノイズのでる器材を入れる小さな防音室を作
ることにした。外に出そうとも思ったが、器材のイルミネーション
がここちいい刺激になっているので、見えるところに置いておきた
かった。
 業者に発注すると、三日で出来上がってきた。
 改めて再生してみる。でも、曲が始まってすぐに止めた。
 響きが違うのだ。
 多すぎる。
 部屋の中は吸音素材を使っているのだが、足りないようだ。
 僕は決心をした。
 この部屋を無響室にしてしまうのだ。音の反射のない壁にする。
そうすれば、収録されている音が忠実に再生される。
 今度は一週間の工事となった。
 かなりの投資だと心に刻みながら、再び再生の時を迎えた。
 無音の状態からダイナミックな大音量が響きわたった。メーター
のイルミネーションもここちよい。紀子が中学生の姿から成長して、
僕に微笑みかけたところで、両耳をふさぎながら消えた。
 ノイズが耳にさわったのだ。
 何の音だろうか? 全ての音は遮断したはずではないか? 再生
をストップして耳をこらす。
 その音の正体がわかった。
 これだけの投資をしておいて、このまま妥協するのは許せなかっ
た。迷いはしなかった。紀子と逢うためにはこうするしかないのだ。
 僕はナイフを持ち込み、リスニングチェアーに座った。そして自
分の心臓にゆっくりと差し込んだ。気になる音は、自分の呼吸音で
あり、血液の流れる心臓の収縮音だったのだ。
 血液が勢い良く飛び散った。スピーカーにだけはかからないよう
に注意した。しだいにその量が弱々しくなってきた。
 まだ聞こえる。
 あと少し・・・
 一生に一度しかない瞬間、その瞬間を見逃さないように、最後の
力をリモコンの指先にこめようとした。でも指が思うように動かせ
ない。
 だめか! その時、紀子が現れた。子供をあやすような目で見つ
めながら、僕の指に紀子の指をそえてくれた。僕の指は紀子の指と
重なった。
 無音の中「カルミナ・ブラーナ」が聞こえ始めた。
 と、その時気がついた。一切のノイズを削除したにもかかわらず、
曲の中にノイズが入っていたのだ。でも、何もできなくなった今で
は、割り切るしかないだろう。曲内のノイズは演奏の一部なのだと
…
 前向きな考え方をしたとたん、記憶と想像の紀子の姿が終わりの
ない映像となって、めまぐるしく僕のかすかな意識を刺激した。
 心地よかった。
 曲は何度もリピートするだろう。
 他の誰にも聞こえない大音量で…