インディーズバトルマガジン QBOOKS

第2回3000字小説バトル
Entry1

月・魂

作者 : 厚篠孝介 [あつしのこうすけ]
Website :
文字数 : 2871
 月が余りに青かったので彼はいつもより少し早く外へ出た。
 夏の夜はすでに月の青と混ざり合った薄闇に変わっている。
 寺の門までは長い石段を下らねばならない。
 濃紺の甍を越えて、丘陵に広がる竹林は朝露に濡れて雪の様に光り、
風にさらされる度、海面の様に光りは弾けた。
 境内へ続く石段を降りて行く。水を含んだ冷気が石段や杉の並木か
ら染み出て寺を包んでいた。
 Hの坊主頭が朝露に濡れて光っている。
 寝不足と空腹に憔悴した目でお堂を振り返る。
 広い枯山水の庭、青く錆びた鐘。空っぽの賽銭箱。どれもが理由な
く彼の勘に触った。
 Hは大学生である。彼はある良家の令嬢と恋に落ち、彼女を孕ませ
た。
 彼女の両親は娘の妊娠を許さず。強制的に子供をおろさせ、Hの両
親にも責任を迫った。Hの父は二度と息子がこんなことをしないよう
にと体裁をつける形で旧知の住職にHをしばらく預けたのだ。
 伸びた毛を昨日切ったから、こんな生活ももう二ヶ月になろうか。
 後姿は音も無く朝霧の立ち込めた杉林の間に消えて行った。
 この朝の勤めは本来、寺の小坊主の仕事で、Hは寺の掃除と食事の
手伝いとお使い、夜の見回り、読経が仕事であった。
 けれどHは自ら望んでこの朝の門開きを引き受けたのだ。
 階段が終わって門が現れる。小さな門だ。この門をHは七時間も前
に閉めたばかりである。
 湿った閂を外し、門を開く。門をあけても道が少し広くなるぐらい
で、杉林の道はまだ続いている。
 ちょうどその位置からは今まで杉林に邪魔されて見えなかった月が
見えた。
 みるみるうちに青さを増す空の中でも月はまだ空の穴の様に簡単に
見つけることが出来た。
 懐から雑誌の切抜きを取り出し、月にすかしてみた。
 それは「地球の出」という有名な写真だ。
 アポロ八号が月の上空から撮った写真で、灰色の大地の向こうから
青い地球が昇ってくる様子が映っている。
 Hはなぜかこの写真に惹かれた。地球がまさに生きているのだと月
の荒涼とした大地や背後の闇が教えてくれる。
  Hは昔、父親から地球は丸いのだと聞かされたが、信じる事が出来な
かった。
 父は地球が生きているのだと言った。緑に覆われた星は地球以外に
なく、人は地球以外では生きられない。その証拠に月は美しいが灰色
の死んだ星なのだと。
 父の言葉はHの心に地獄を思い浮かばせた。人の魂は天に昇ると言
うが、その先は月ではないか?そんな思いが浮かんできた。月の砂漠
の上では青白い魂が無数に漂い覆い尽くしているのではないか?魂は
地球へと帰りたがるが、重力に縛られて漂うだけなのだ。
 Hは漠然と恐怖を感じた。
 この「地球の出」という写真ほど、彼の幼い日に思い描いた想像を
具現化した物はなかった。
 毎日、魂達は暗闇の向こうから地球が昇ってくるのを見てうめいて
いるのではないか?
 Hは閂を門の脇に立て掛けると、写真をしまって階段を上り始めた。
 中絶の同意書にサインして以来S子には会っていない。

「婚姻届じゃなかったね」
S子が自嘲を漂わせて言った。妊娠が分かった時に用意した婚姻届の
ことを言っているらしかった。
 S子は憔悴しきっていたが、涙は枯れ果てたらしく、ただつぶやく
様に言った。
 彼女の両親に事情を話し、誠意を持って話し合えばきっと分かって
くれる。そう信じていた。
 けれどそれはしょせん都合の良い夢でしかなかった。テレビや小説
の世界を一つの常識と勘違いしていただけだった。
 S子の父親は断固として認めなかった。土下座をした私を父親は二
三度蹴りつけた。
 母親は夫が手を出せばそれを止めたがそれ以上の事はしようとしな
かった。S子はただ泣いていた。
 世の中にそんな差別などないと思っていた。少なくとも日本では階
級の差というのはあまり意味を持たないと思っていた。
 けれど家具輸入会社社長の家と二流会社の係長の家とでは結婚など
簡単に認められるはずがなかった。
 ただ恐怖に頭を床にこすりつけ、動かないHの姿に父親はますます
激昂して、彼は湯呑の茶をHに浴びせ、続けてHに向かって投げつけ
た。背中に鈍い染みるような痛みが走った。それでも動かないHを父
親はもう一度蹴り上げた。S子が飛び出して父親を止めるとS子はH
に逃げろと叫んだ。
 Hはゆっくり顔を上げた。激昂する父親、それを必死で止めるS子、
それなのにHは冷静な気持ちで二人の顔を眺める事が出来た。
 他人事のような、ゆっくりと流れる景色だった。
 父親が娘を突き飛ばした。
 私は反射的に体を反らすとS子の家から逃げ出した。

 鳥達の鳴き声が林を包んでいる。足から伝わる湿った苔の柔らかい
感触が心地よい。
 境内まで戻ってくると小坊主が庭を掃いていた。小坊主はHを見る
と頭を下げた。
 物静で賢そうな顔つきだ。今は夏休みで一日中寺にいる。盆も近い
今が一番忙しい時期で、彼は毎日住職とともに檀家を回っている。
 近くの家の子だそうだが、母親はなく、父親も数年前に他界したの
で、祖父母は彼の同意を得て、彼をこの寺にいれたそうだ。
 彼もゆくゆくはこの寺を次ぐのだろう。
 このゆったりとした美しい寺を継げるならそれも悪くないとHは思
ったりした。
 山頂に近い寺の屋根にはすでに日が差して、鋭く光っている。
 朝の読経が始まった。
 住職が座り、その後ろに小僧、Hの二人が並んで座る。木魚の音が
山間の寺に響く。
 Hは単なる罰という以上に読経に没頭していた。経は懸命に覚えた
し、写経も毎日欠かさずに行っていた。
 それはただただ、一度も見ることなく魂になった赤ん坊への謝罪だ
った。

 同意書にサインをするとS子は何も言わずに部屋を出ていった。
 その日のうちにS子は子供をおろした。
 Hは何の悪意もなく純粋にS子と暮らす事を願っていた。子供が出
来たと言われた時は驚いたが就職も内定していたし、学校を辞めてで
もS子と子供を養って行きたいと願っていた。
 読経の最中に目をつぶると、きまって部屋を出て行く時に振り返っ
たS子の顔が浮かんでくる。
 侮蔑を含んだ咎めるような目、心にひりひりしみる目だ。
 最初の読経が終わった。住職が軽く咳払いをすると、すぐにまた木
魚を叩き始めた。

 頭に響く木魚と経の振動。日が昇って外には光りが満ち溢れ、寺全
体が暖まって軋みを上げた。
 外が明るくなればなるほど仏像は鮮明な闇に覆われて、香の煙を纏
う。
 仏の顔はますます慈悲深く、たおやかに見える。
 これほど仏の顔が美しいとHは思っても見なかった。彼は別に信心
深いわけではなかった。神の存在を信じてもいなかった。ただ仏を見
ながら経を唱えていると、今に動き出すのではないか、と思ってしま
う。

 朝食を済ませると住職は檀家をまわるために小僧を連れて出て行っ
た。
 Hは一人山奥の寺に残された。寺という場所に人の生気が満ち溢れ
ているのもおかしい。
 寺は人の死を受け入れる場所なのだから、むしろ死の匂いに溢れて
いて当然だ。
 自然の中にあり、人は自然の中に帰って行くのだと思わなければ、
とてもこんな場所にはいられない。
 鎌と手拭を持ってHは墓場の雑草を刈りに向かった。
 もう外は十分暑く、やがて迎える盆の騒々しさは今の静けさを余計
に強調した。
 かがみこんで一人雑草を刈り始める。
 ただひたすら草を刈りつづけた。
 おろされた子どこに葬られたのだろうか?S子の両親も鬼ではない
だろうから、無縁仏にはなっていないだろう。
 生ませるべきだった。いまさら後悔しても始まらないけれど。
 あの時S子が投げたあの痛い目はやはり一人の人間の物でなく、娘
か息子かも分からないもう一人の人間を代弁していたに違いない。
 半分は私で半分はS子の存在。生まれる前に死んでしまった人間の
悲しい目だ。
 羊水の中から無理やり引き出されて月へと行った人間の決別の目だ。
 Hは鎌を地に置き、うずくまったまま懐から「月の出」を取り出し
て眺めた。
 容赦ない日の光が背中を刺した。
 乾いた地べたを涙が何度も打った。
 Hは立ち上がって空を仰いだ。
 月は日の光に薄く消されかけていた。
 今ごろ月の大地では地平線のかなたから青い地球が昇っていること
だろう。
 魂はあの星に戻るその日を待ちわびながら弱い重力にすら逆らえず、
ただ生前の思いを宿しながら漂っている。
 すまない。そう思った時、ひどい耳鳴りがした。