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第2回3000字小説バトル
Entry10

末期症状

作者 : 羽那沖権八 [わなおきごんぱち]
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文字数 : 2859
 がりっ。
 音を立てて、プラスチックに傷がついた。
 透明な結晶は固い。
 ゆっくりと結晶をすり潰すと、白い粉になっていく。それから粉
を集め、一センチほどの筋にした。
 細いストローの片方を粉にあてがい、もう片方を鼻の穴に添え、
一気に吸い込んだ。
 鼻の粘膜から粉の成分が吸収されていく……。
「ふぅ……」
 赤井三郎の頭は、もやが晴れるようにすっきり覚醒して行った。
覚醒剤の名前通りに。
「さて、仕事に戻るか」
 赤井はトイレの個室から出て、鏡を見る。今の彼の顔は、憂鬱そ
うだった五分前とは全くの別人だった。明るく元気良く自信に満ち、
取引先の相手にも好印象を与えること間違いなしに見える。
 現に、クスリを使い始めてから、成績は段違いだった。リストラ
の圧力も、いつの間にか消えてしまった。
「でも、中毒になる前に、やめた方がいいんだろうな……」
 ぽつりと――だが、クスリのお陰で割と明るく赤井は呟いた。

「いやあ、今日も契約取れて、よかったよかった」
 浮かれ気分で、赤井は八畳一間のアパートに帰ってきた。
 帰り道で買った弁当を開ける。
「いっただっきまーす」
 クスリも程良く切れ、食は進んだ。
「あー旨い。仕事もうまく行くし、気も楽だし、これならグラム二
万円でも充分元が取れるってもんだよなぁ。やめられないねぇ」
 独り言を言いながら、箸を動かす。
 ――と、その時。
 妙な視線を感じた。
「?」
 ふと見ると、テーブルの向こうに幼い女の子が座って、彼をじっ
と見ていた。
「??」
 女の子は赤井と目が合うと、にっこり微笑んだ。歳の頃は四、五
歳、髪はおかっぱで、血色のいい赤い顔をしており、着物を着てい
る。
「いつの間に入ったんだ?」
 だが、女の子は何も喋らない。
「不法侵入だの何だの言う気はないが、こんな夜遅くにどうした?
 親が心配するから帰れ?」
 聞こえているのかいないのか、女の子はただ微笑んでいた。
「しょうがないな。家はどこだ? 連れてってやるから」
 赤井は、立ち上がると女の子の手を掴んで立ち上がらせようとし
た。
 ところが。
「え?」
 女の子に触れることはできなかった。まるで、煙を掴もうとして
いるかのように、指先が素通りした。
「な、ななぁ!?」
 女の子は『分かったか』とでもいいたげに、にんまり笑った。
「や、やばい」
 赤井の表情は凍り付いた。
「げ、幻覚だ……」

「そ、そんな馬鹿な……」
 翌日出社した赤井は、机についたままで、呆然と呟く。
 幻覚は覚醒剤依存の末期症状。
「……まさか、こんなに早く」
 この一ヶ月ほど、仕事も忙しく使うことが多かったが、それほど
強烈な依存症になっているとも思えない。
「どうした赤井、元気ないな。らしくないぞ」
 隣に座っていた同僚の村田が小声で尋ねる。
「な、なんでもない」
 赤井は無理に笑いを浮かべ目の前の書類を漫然と見つめながら、
周囲を伺う。
 女の子も幻覚も見えない。
「そ、そうだよな。まさか、こんな段階で見えるわけが……」
 彼は固い笑いを浮かべた。

「すぅーーはぁーー」
 アパートの自分の部屋の前で、赤井は大きく深呼吸をした。
「家だけで見える幻覚なんてあり得ないもんな、うん」
 自分に言い聞かせるように呟きながら、彼はドアノブに手を掛け、
恐る恐る廻した。
 それから、ドアのそばにある電灯のスイッチを押す。
 蛍光灯がまたたきながら灯り、部屋の中が明るく照らされた。
 部屋の中には、人影も気配もない。
「はぁ、よかった、俺は正常だ……」
 安心して、部屋に入りふと横を向いた時。
 ドアのすぐそばの場所にいた女の子と、見事に視線が合った。
「!!」
 赤井はぺたりとその場に腰を降ろす。
「な、なな、なんで、また幻覚が! 今日は一本もやってないぞ!」
 彼の心中を知ってか知らずか、女の子はにっこりと微笑んだ。
「ば、ば、馬鹿な……」
 赤井はバッグの中から、覚醒剤と吸引用ストローの入ったカセッ
トテープケースを取り出した。
「じょ、冗談じゃない、俺はただ仕事の成績を上げたかっただけだ。
人間やめる気なんかねえ!」
 恐怖に震える手で、ケースの中から覚醒剤の入ったビニール袋を
取り出す。
「こ、こんな」
 彼は流し台の上で、ビニール袋を引き裂いた。
 ステンレスの流し台の上に散らばった白い結晶を、大量の水で流
す。
「こんなにすぐに、中毒者になるなんて、聞いてないぞ!」
 カセットテープのケースも叩き割り、ゴミ箱に放り込む。それか
ら、クスリを売ってくれた知人の電話番号も携帯電話から消去し、
メモは焼き捨てた。
「他に、なんか、なんかないか!」
 机の引き出しを全てひっくり返す。中身の一つが女の子の方に飛
んだが、素通りしただけだった。
「げ、幻覚め……」
 ぶちまけられた引き出しの中身を漁り、買い置きの覚醒剤の袋を
引き裂き、先ほどと同じように流しに捨てる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
 その様子を、女の子は不思議そうに眺めていたが、つ、といなく
なってしまった。

「なんだ、お前クスリなんかやってたのか?」
 昼休み、会社の屋上で赤井と共に昼食をとっていた村田が呆れ顔
をした。
「も、もうやめた。一ヶ月前すっぱりな」
 赤井は応えながらコンビニ弁当を食べる。
「それにしても、子供の幻覚ねぇ」
「ああ。やめたってのに、たまに見えたりするんだ。フラッシュバ
ックって奴かも知れねえ」
「本当かよ? そこまでひどいジャンキーには見えなかったぞ? 
前に本で読んだが、幻覚なんかかなりの常習者にならないと見えな
いんだろ?」
「俺もそのつもりだったが、身体の方が正直だったってとこかな…
…」
「どんなペースでやってたんだ?」
「大事な商談の前とかに、一本な」
「注射か?」
「まさか。粉を吸うだけだ」
「効くのか?」
「ああ、とっても」
「ふーむ」
 村田は何度か頷いていたが、ふと赤井を見た。
「ところで、幻覚ってのはその子供だけか? なんかこう、尾
けられてるとか、部屋の隅から虫が湧くとか、そんなのはなかった
か?」
「そいういう例もあるらしいな。けど、俺は子供だけだ」
「で、その子供の特徴は?」
「ええとなぁ――」
 赤井は、思い付く限りの特徴を話す。
「……それって、本当に幻覚だったのか? 何かの見間違いとか」
「見えるが触れなかったんだ。他になんだってんだよ?」
「ひょっとして、だが」
 眉をひそめ、村田は首を傾げる。
「それって、座敷童じゃねえか?」
「座敷童?」
「ほれ、家に憑く幸せをもたらすって妖怪」
「妖怪? んなわけないだろ」
「でもなぁ」
「あーあ、あんな幻覚見ちまうとは、かなわないな」
 弁当を食べ終えた赤井は伸びをする。
「もうクスリはこりごりだ」
「でも、座敷童にそっくりなんだがなぁ。一つぐらいいいこととか
起こらなかったか?」
「もうその話はやめろっての」
 赤井は立ち上がった。
「大体、いいことどころか、クスリが使えなくなって成績も落ちて
んだ」
「しかしなぁ。本当にないか?」
「ねえっての。さ、休み時間も終わりだ、外回り外回りっと」
 とても、とても晴れやかに赤井は笑って、ゴミ箱に空の弁当パッ
クを投げ捨てた。