第2回3000字小説バトル
Entry15
すぐに彼女だとわかった。 帰宅ラッシュでごった返す地下街を抜けて、駅の改札口まできた ときだった。人の流れに逆らって、むこうから歩いてくる派手な女 性。 ――祥子。 私はすぐに目を伏せた。 「あれえ? 仁美?」 甲高い声に、周りの人が振り返る。私は視線を上げ、目の前に立 つ彼女を見た。 「久しぶりい」 茶色に染めた長いウエーブヘアに厚ぼったい化粧、鮮やかな青の スーツにブランドもののバッグ。どう見ても会社員には見えないの に、私は思わず「会社の帰り?」と聞いてしまった。 「これからバイトなんだ」 田宮祥子はそっけなくそういって、じろじろと無遠慮に私を見た。 今日の私は着古したグレーのセーターに黒のパンツ。そして相変わ らずの薄化粧。 「ちょっとお茶しない? あたし、まだ少し時間あるんだよね」 断る理由はいくらでもあった。でも、気づいた時には頷いてしま っていた。 地下街の喫茶店で、祥子はコーヒー、私は紅茶を注文した。彼女 はすぐにバッグから煙草とライターを取り出し、慣れた手つきで火 をつけた。 あれから、もう十二年たったのだ。 祥子の白い指先に挟まれた煙草をながめて、あらためて思った。 時は止まらない。体育館の横のトイレで煙草をつきつける彼女の手 を打ち払い、逃げ出してから十二年。 「いつ……帰ってきたの?」 高校を卒業してから彼女が町を出たという噂は、人づてに聞いて 知っていた。男が一緒だということも。その男性とは、別れたのだ ろうか。 「半年くらい前かなあ」 「いま実家にいるの?」 「ううん。市内にワンルーム借りた」 祥子が窓の外へ視線を移した。地下街を流れる人々の波は途切れ ない。急ぐ先に何があるのか――ふとそのことに思い至ったとき、 私の足はいつも止まりそうになる。 昔はさあ、こんなふうによく二人でお茶したよね。学校の帰りに さ。彼女が呟く。そうだったかしら。たぶん、違う。それはきっと、 私ではないほかの誰かだ。だって私たちが親友だったのは、中学一 年の夏までだったんだから。あの頃の私たちは、二人だけで喫茶店 になんか入れなかった。 「仁美はいま、なにしてんの?」 ウエイトレスがコーヒーと紅茶を運んできた。 「ただの会社員」 「事務とか?」 「そう。平凡でしょ」 ぎゃははは、と祥子が大声で笑う。何がそんなにおかしいんだろ う。 「いいじゃん。私みたいに、この年でフラフラしてるよりかはさ」 シルバーのマニキュアを塗った指が、テーブルの上の灰皿を引き 寄せる。 「幼稚園の頃、私は泣き虫でさ。いつもあんたにひっついてたの、 憶えてる?」 体が小さくて動作が鈍くて、いつもいじめられていた女の子の幼 い姿は容易に思い出せた。だけど顔だけが、記憶の中でぼんやりと かすんでいる。 「小学校では一年から六年までずっと同じクラスだったんだよねえ」 泣き虫で、私がいなきゃなにもできなかった小さな女の子は、小 学校に入ってしばらくするとすっかり別人みたいになった。よく笑 った。よく走った。よく嘘をついた。あんなに弱虫だったのに。 ううん。本当に弱かったのは私のほう。祥子がいないとなにもで きなかったのは私。ひとりでは、新しい友達さえ作れなかった。悔 しくて、でもひとりになる勇気がなくて、私はいつも祥子のそばに いた。何をやるのも祥子と一緒だった。そんな自分が嫌でたまらな かった。 「ねえねえ、憶えてる?」 十分ほどとりとめのない話をしてから、ふいに祥子が煙草をもみ 消し、身を乗り出した。 「何を?」 「小学校のさ、四次元につながる階段」 薄もやのかかった記憶のページに、一瞬にして色鮮やかな思い出 が浮かび上がる。あれは旧校舎のいちばん奥にあった階段。北側の 窓からは陽が射さず、いつも暗くてじめじめしていた。私たち六年 四組の教室は旧校舎の端にあったけれど、夏休みが終わって二学期 に入ると、急に誰もその階段を使わなくなった。 「四次元につながってるらしいよ」 いつもまっさきに噂話を聞きつける由紀ちゃんが、声をひそめな がら事の真相を教えてくれた。 「いちど四次元の世界へ迷い込んだら、二度と戻ってこられないん だって」 だから、六年生の二学期から卒業するまでの半年間、私たちはい つも南の渡り廊下を渡って新校舎まで行き、新校舎の階段を利用し ていたのだった。 「くだらないわよね」 私は笑い飛ばそうとして、やめた。祥子が笑っていなかった。 「続きがあるの、知ってた?」 低い声でささやき、慎重に私の顔を覗きこむ。 「続きって……?」 「あの噂には続きがあったんだよ。四次元へは、いつでもつながっ ていたわけじゃない。一階から三階まで合計九十九回往復したとき、 四次元へ通じる扉が開くっていう」 「知らないわ」 「私、やってみたんだ」 コーヒーはすでに冷めかかっているのだろう。湯気が消えていた。 彼女は一度もカップに口をつけていない。 「ひとりでね。合計九十八回、きっちり数えたわ」 「……」 「あと一回で、四次元への扉が開く」 私の手は、いつのまにか空になった紅茶のカップを握り締めてい た。店の中に響く話し声や笑い声が、フェードアウトしていく。窓 の外の流れは激しい。こうして流れから抜け出し立ち止まっていて も、時は止まっていない。何ひとつ変わらない。どこにも現実感が ない。 でも、あの頃は違った。 私たちの四次元の扉は確かにあった。 「結局、びびってやめちゃったけどさ」 うって変わった明るい声で、祥子が笑い飛ばした。そしてテーブ ルの上のシガレットケースから新しい煙草を取り出して咥えた。 「時々さ、思い出すんだよね。もしあの時四次元の扉を開いていた ら、今ごろ私は何をしてるだろうって……」 祥子が窓の外に目をむける。 「もうそろそろ……」 私が腕時計に目をやると、ようやくカップに口をつけた彼女はす まなそうに片手を上げた。 「ごめんね、急に誘って。私はもう少し時間つぶすわ。またね。バ イバイ」 あっさりといわれて、拍子抜けした。私は財布から紅茶代を出し てテーブルの上に置き、店を出た。そして流れに沿って歩き出した。 田宮祥子が死んだのは、それから一か月後だった。 私は、今になっておもう。 ――あの噂には続きがあったんだよ。 はたしてあれは、祥子の作り話だったのではないか。 当時いつも祥子と一緒にいた私が、噂の続きを知らないというの はどう考えてもおかしい。ましてや、九十八回も彼女がひとりで旧 校舎の階段を往復していたことに、気づかないはずがない。 祥子も、四次元の扉を探していた。 そのことに、私はあの日気づけなかった。いや、違う。気づいて いながら、気づかないふりをしたのだ。 そう考えたとき、全身にぞっとするような震えが走った。 気づいていながら……。 そう。私は、気づいていた。 あの頃の私は、祥子の抱える闇に気づいていた。だから。 ――九十九回往復したら、四次元の世界に通じる扉が開くんだって。 あれは、私が祥子についた嘘だ。 田宮祥子は小学校の屋上から投身自殺を図った。その場所は、旧 校舎の北の端だったらしい。