第2回3000字小説バトル
Entry4
「そのマニキュア、いい色ね」 おとなしい姉にしては珍しく、派手な色のマニキュアをしている 事に気づいた渚は、テーブルの上で頬杖をつきながら、キッチンに 向かい料理を作っている楓に話しかけた。 楓はOL、渚は大学生、お互い親元を離れ上京し、それぞれ一人暮 らしをしていた。今、渚が楓のマンションにいるのは他でもなく、 楓に呼び出されたからである。また例の事についての相談かと思っ たが、その顔はいつになく晴れやかだった。 「そう、ありがと」 料理をする手を止めて、その爪がよく見えるように手をひらひら させると、「私、この色、結構気に入ってるんだ」と付け加えた。 楓が気に入っているといった色は、まるで太陽のように赤く、雪 のように輝いていた。ただ、おかしな事にそのマニキュアは、右手 の、一本だけきれいに伸ばされた小指の爪にしか塗られていなかっ た。 「このマニキュアはね、女の魅力を最大限に引き出すマニキュアな のよ」 そう言って、テーブルで今や遅しと料理を待つ妹にくすりと笑いか けると、楓は再び調理器具を手に料理を再開した。 渚があまりにも不器用すぎるというという意見もあるが、姉の料 理ははっきり言って美味い。姉の愚痴を聞くのは良い気持ちではな かったが、普段の食生活をコンビニで過ごしている渚には、楓の手 料理を食べれるだけで姉の愚痴を聞く価値はあった。それに、同じ 女として、姉の気持ちが分からない訳ではない、ずっと信じていた 男に裏切られたのだから。 渚は無邪気に料理を作る姉の後ろ姿を見て、思わず健気だなと思っ た。死ぬほど怨んでいたはずなのに。今の姿から推測すると、おそ らく問題が解決したのだろう。問題解決、それは彼を受け入れたの か、拒んだのか。いずれにしろ、そう簡単に気分を切り替える事が できるような決断ではない、無理に明るく振る舞っているような気 がしてならなかった。 「……ねえ、お姉ちゃん」 「なに?」 明るい笑顔が振り向く。 「なんで右手の小指にしかマニキュアを塗ってないの?」 ここ最近、ずいぶんご無沙汰になっていた姉の晴れやかな顔を見 ると、渚は聞きたい事も聞けず、質問の内容をとっさに変更した。 「ああ、これ?」 再びマニキュアが塗られている右手を渚の前でちらつかせる。 「だって、他の指じゃ駄目なんだもん、爪が短すぎて、ぜんぜん駄 目だったんだ」 爪が短いと不格好である、とでも言いたげであるが、そんな物なの だろうか?、小指だけという方が、かえって不格好なのではないの だろうか。疑問はあったが、深くは追求しない事にした。もしかす ると、この事が姉を立ち直らせた何らかの要因かもしれない、もと の元気な姉に戻ってくれるのならば、たとえ少女時代に流行った、 くだらないまじないや迷信でもよかった。 小指の爪だけを伸ばして、真っ赤なマニキュアをぬると恋がうまく いく。 一昔前まではそういう話にも敏感だったが、果たしてそんな恋の魔 法があっただろか? そんな事を考えている間に、渚の目の前には楓が作った料理が並べ られる、今日のメインはハンバーグ、姉がもっとも得意とする料理 であった。テーブルの上には続いて二人分のサラダとスープ、そし て炊き立ての御飯が並べられた。焼き立てのハンバーグからはおい しそうな湯気が立ち上り、渚の胃と舌を激しく刺激した。すぐにで も食べてしまいたかったが、料理を作った当の本人を差し置いて食 べる事はできない。渚は楓が椅子に座るまでの一連の動作をぼうと 眺めながら、いただきますの合図を今や遅しと待ち望んでいた。 「渚ちゃん」 すでに胸の前で手を合わせ、姉に続いて「いただきます」と言う 準備を万端にしていた渚は、突然名前を呼ばれ、面を食らったよう な顔を楓に向けた。 「私ね、彼のすべてを受け入れる事にしたの」 そして、その後に「今までいろいろ心配かけてごめんね」と付け 加え、やさしく微笑みかけた。その時、渚の胸にかかっていた靄が 一気に取り払われたような気がした。今、目の前にある笑顔は、強 がっている訳でもなければ、無理をしている訳ではない、紛れもな く、自然な物であるという確信が得られた。 「そうなんだお姉ちゃん。よかったね、ホントによかったね」 渚は楓に負けんばかりの笑顔を投げ返した。本当に嬉しかった、一 時は自殺でもしそうな勢いだった姉が元気になってくれた、今日の 食事は今までに無いくらいおいしい物になるだろう。気持ちが晴れ やかになると、食欲がより一層増し、渚はいただきますも言わずに 勢いよく楓の作ったハンバーグを食べ始めた。 異変が起こったのは渚がハンバーグを口に含んだその時だった。 いつもと違う食感と、そのひどい味に、渚は突如、吐き気をもよお した。 一体これは何なのだろう、今まで姉が料理を失敗した事など今ま で一度も無い、しかもハンバーグは得意料理のはずだ。これなら私 でも、もっとまともな物が作れる、どう考えても味付け以前の問題 だ。 ついに耐え切れなくなった渚は、口に含んでいた物を机の上へと 吐き捨てると、勢いよく席を立ち上がり、手で口元を覆いながら、 急いでトイレへと駆け込んだ。 トイレにたどり着き、便座に覆い被さるように倒れ込むと、便器 に顔を埋めて餌付き始めた。まだ何も食べていないせいか、口から は胃液しか出ない。胃が縮み上がりキリキリと痛む。 「はぁ……はぁ……」 胃から食道にかけて存在する物を、洗いざらいすべて吐いてしま うと、渚は幾分落ち着きを取り戻した。一体あれは何だったのだろ う、悪い夢でも見ているのだろうか。ユニットバスという狭い空間 で、自分の嘔吐物の匂いが、鼻孔を激しく刺激する。 いや、違う、これは嘔吐物の匂いなんかじゃない。今、この空間 を支配しているのは嘔吐物の酸味の効いた匂いとは明らかに違う。 異臭には変わりないが、何かが腐食したような匂いだった。そして その匂いは便器から漂う物ではない。渚の視線が防水カーテンで遮 られているバスタブへと移る。 この奥に何かある。 その匂いは明らかにそこから流れ込んで来ている。 渚は上体を起こすと、便座に手をついて立ちあがり、力なく腕を 伸ばすとカーテンをぐっと掴んだ。一呼吸をおいてカーテンを勢い よく引く。次の瞬間、渚の眼が大きく見開かれた。 「ひぃ!」 全身の筋肉が硬直するのと同時に、喉から思わず声が漏れる。バ スタブの中には見覚えのある男性が、裸のままで横たわっていた。 いつか姉に写真で見せてもらった男性。彼は今、何かを恐れるよう にその目を見開いたまま、醜い表情を形作っている。その傾いた頭 を支える首には、ちょうど頚動脈があるであろうと予測される部分 に、何か鋭い物で、何度も激しく引っかかれたような傷が開いてお り、そこから吹き出した血が、その傷口を中心とし、放射線状に男 の体を太陽のように赤く染め上げ、雪のように輝かせていた。腹部 には鋭い刃物のような物で一部の肉をえぐり取られた跡があり、そ の傷口は比較的新しい物のように見えた。 (彼のすべてを受け入れる事にしたの) 楓の言葉が頭の中で駆け巡る。 「……嘘だ、こんなの嘘だ……こんなことがあるはずはない……こ んな受け入れ方があるものか……」 もはや渚の意識はそこには無かった、視線を宙に舞わせながら何度 も「嘘だ」と呟き、力なくその場に座り込んだ。 リビングの方からは、食器がカチカチとこすれあう音が、絶間無く 鳴り響いた。