第2回3000字小説バトル
Entry5
先生が黒板に白いチョークの粉を飛び散らせながら「明日は水着 をわすれない事」と書くと、教室中が喜びの声で一杯になった。先 生は静かにしなさいと注意したが、いったい何人の生徒がその声に 耳を傾ける事ができただろうか。一変して騒々しくなった帰りの学 活でハルは黒板の文字をノートに写す事なくランドセルの口を静か に閉めた。 ハルは家に着くと、ランドセルから鍵を取りだし、ドアに差し込 んだ。もう慣れたその動作はとてもスムーズで、部屋に入りテレビ のスイッチを入れてから部屋の明かりを入れた。 ハルはお母さんと二人暮らしをしていた。何では聞いた事はない が気が付くとお父さんというものはなかった。 ハルはめったに寄り道をしない子だったので、お母さんが帰って くるまでたいていテレビを見てすごした。そうしてまっていればじ きに原付バイクの音がして、そのエンジンの具合でお母さんが帰っ てきた事がわかるのだ。 「ただいま」 お母さんは無愛想にいった。無愛想だが本当はそんな人ではないと ハルは思っている。ただ、最近のお母さんはいつでも疲れているよ うに見えた。 「お母さん今日はご飯何?」 「今日はコロッケにする」 「私コロッケ大好き。ほくほくしているやつ」 そういうとお母さんは無理に笑った。お母さんの笑顔は貧弱だ。笑 っても空気が波一つ立てない。 「明日またプールがあるの。お母さん連絡帳に入れませんって書い て」 ハルが言うと。「わかった」と答えた。 お母さんはパートに出ているお店の惣菜コーナーでかってきたコ ロッケをレンジに入れた。その間にご飯をよそりレトルトのお味噌 汁の素にお湯を注ぐ。あっという間にできる。それには理由があっ て、お母さんは夕飯が終わると一息ついて夜勤に出かけるのだ。夜 勤といってもただの仕事ではない。お母さんは決して昼間にパート に行くときにはつけない香水を付け。真っ赤な口紅をしわしわの唇 につけてでていく。帰ってくるのは夜中だ。ハルはお母さんが帰っ て来ると冷たい空気が運んで来るお酒と香水の混ざった臭いで目を 覚ます事があるお母さんには夕方家にいる時間が二時間しかないの だ。 二人でテーブルを囲んでテレビを見ながらご飯を食べる。「ハル 肘を付かないでちょうだい。行儀が悪いでしょう。何度言ってもわ かんないのね」お母さんは低いトーンで言った。はーいと答えなが ら昨日の夕飯はなんだっけ、と考えた。春巻きだった気もするしか に玉だった気もする。どっちにしても今日と同じ味がした。 次の日、三四時間目にプールはあった。ハルは一度も学校のプー ルに入った事がない。重度の紫外線アレルギーなのだ。だから見学 者の過ごし方は十分よ く知っていた。プールサイドの草取りをする ように一応いわれていたが、それが強制される事はなく。ただ何を していてもプールサイドに座っていれば怒られる事はなかった。 プールには準備体操が終わり、生徒達がいっせいにプール入った。 たくさんの赤や黄色の帽子が水面に潜ったかと思うとまた出てきて 花火みたいだった。今日はとても天気がよくより一層プールが鮮や かになる。プールサイドのタイルは太陽によって鉄板のように暑か った。 ハルはタイルとタイルの間に栄えてきた草を手慰みにしてなでな がら、たいように合わせて日陰に移動した。日陰のタイルはとても 冷たい。ハルは日向と日陰の境界線に行き。わざと日の当たるタイ ルの上に足を置いて暑さを味わい、絶えられなくなると足を日陰で 冷ました。 テントの下にはそれぞれの理由で今日プールに入れなかった見学 者が何人かいたが、毎回そこにいるのはハルだけだった。 ハルはプールの縁に行き水を触った。思ったよりも暖かいプール の水はハルの腕を冷やした。あまり気持ちがいいのでしばらくそう していると先生がきて落ちたら危ないと注意され、しぶしぶテント の下に戻った。 座って腕を見てみるともう腕が真っ赤で湿疹が出ていた。 ある日、母はとても帰りが遅かった。。その日はひどく蒸し暑く 夕焼けが奇麗だったのに母は夕焼けが沈んでも帰ってこなかった。 ハルはぺこぺこのおなかをさすりながらボーっと天井の隅を見てい た。もう帰ってこないのかも知れない。電気の付いてない部屋はテ レビの画面が変わるたびに色を変えた。 やがて、待つ事にも疲れて眠気が襲っていたころ、聞きなれない 車のエンジンの音が聞こえて目が覚めた。聞きなれない音だったが それは家の前で止まって中から誰かが降りてきたようだ。 ハルは体中に力が入ったのがわかった。ドアを開けて見えたのは 母だった。母は手にたくさんのスーパーのビニール袋を持って。機 嫌良く「ハル、ごめんね。お腹空いたでしょう」といった。ハルは 笑顔で「うん」と答えたがすぐにその笑顔は引っ込んだ。母は誰か を中に招いたのだ「どうぞ上がって。何もないとこだけど。今ご飯 作るからその辺に、そうその座布団の上に。座っててくれる」入っ てきたのは色の黒いやせた若い男の人だった。ハルは急いで起き上 がると足を整え部屋の隅に寄った。 その男の人は、部屋をぐるりと見渡すと同じようにハルの事も見 た。母は台所に向かい、しばらく使ってないまな板と包丁を取り出 して何かをはじめ出した。男の人はさっきまで私が枕にしていた座 布団に腰を下ろしたが、その座布団はもう真ん中の綿が無くなった ぺっタンコな座布団だった。ハルは急な来客に所在なくその男の向 かい側に座った、男は 「野球見ていい?」 と男は私にではなく、台所にいる母に聞いてきた。 「ハルいいわよね」 ハルは何も言えなかった。大人の人と話すのが苦手だった。 「ハはっつ。黙ってるよ。いやなのかな」 「いいわよね。ハル」 母は台所から顔を出して笑顔で私を見た。その表情には愛想のよく ないハルを責めてるようにも見えた。男は野球中継の番組にチャン ネルをまわして缶を灰皿にしてたばこを吸い始めた。 「名前は?」 「ハル」と答えた 「ハル?漢字では」 「カタカナなの」 ハルは手がさみしくてどこに置いていいのかわからずずーッと正座 した足の小指を触っていた。時々近づいてくる蚊をたたこうとぱち んと音を立てたが一匹も捕まえる事はできなかった。 男はたくさん私の事を聞いてきたが、一言も自分の事は言わなか った。ハルも聞く事はできなかったが、色の黒い肌をしているとこ ろを見ると肉体労働者だろうと思った。髪の毛がぎらぎらと黒く黒 い肌をより一層貧弱に見せた。 母はいい臭いをさせながらお皿にハンバーグを乗せて持ってきた。 男は「おいしそうだ」と言い母は「私料理下手だから」と答えた。 その日、母は夜勤に出かける事なく、男はずいぶん遅くまで家にい た。母は大変機嫌がよく男が帰る時、家の外まで男を見送っていっ た。ハルはその男がご飯を口に運ぶたびシーシーと音を立てるのが 気持ち悪くてハンバーグを途中で残してしまった。 その次の日もプールは生徒達のにぎやかな声で埋め尽くされた。 一週間後には夏休みに入る。目の眩むような太陽の日差しを浴びて 真っ黒に日焼けした肌を見せびらかして、次々にプールに飛び込む。 見学者の待機するテントの下にもその熱気が伝わって、セミの鳴き 声に負けないぐらい大きな声でおしゃべりを始める女の子や男の子。 ハルはテントの柱に背中をもたれかけてとおくの空に浮かぶ入道雲 を見ていた。白い雲は青い空と相性がよく、分厚くってハルの頭上 にこぼれ落ちそうに思えた。 ハルは昨日の事を思い出していた。あの男のぎらぎらした髪の毛。 変に高かった母の声。ハルはテントの下を出た。太陽がじわりと肌 を焼くのが解った。先生が拡声器で三十分の休憩を告げた。生徒達 はいっせいにプールサイドに上がりそれぞれのバスタオルにくるま った。水面は生徒達の余韻を残し、いつまでも揺れて太陽を反射さ せた。その光はとても眩しくてハルは下を向いた。汗が背中をつた った。ハルの腕は赤くはれ赤ちゃんのほっぺたみたいだ。その腕に 顔を埋めながらハルはあの男の腕を思い出した。とても良く焼けた、 それでも貧弱な腕。 誰かが、ハルちゃんどうしたの?と声をかけた「具合が悪いの?」 ハルは顔をあげなかった。気が付くとハルの周りには人だかりがで きていた。「大丈夫?」とあちらこちらから声がかかるが誰の声だ か分からない。 「大丈夫?」 「大丈夫?」 顔のない声がハルを包む。それはこの世で一番思いやりのない言葉 に聞こえた。私はこのままでいたい。とハルは声に出したが、小さ なハルの声は誰の耳にも届かなかった。 空には真っ白な入道雲がどんどん膨らんでプールに影を落とした。 今日は雷が来る。早く雨が降ればいいのにとハルは思った。