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第2回3000字小説バトル
Entry9

ルビー

作者 : 一之江 [いちのえ]
Website : http://www05.u-page.so-net.ne.jp/qd5/s-kumiko/
文字数 : 3000
 ストッキングの端を膝の上まで引き上げて、ガーターベルトの金
具にはめ込む。洗面所から男の声がする。
「何」
「ちょっと頼む」
 男の背後から近付く自分の姿が鏡に映る。化粧は剥げて髪は乱れ
たまま。
「何かご用ですか」
「ちょっと釦はめてくれない?」
「こんなの着ちゃって」
 襟の後ろの小さな釦をはめてやる。男は細い櫛で髪をとかす。
「何時?」
「まずいわよ、急がないと」
 私は男から離れると床に落ちたスカートを拾い上げて、素早く両
足を通す。ショルダーバッグを抱えて、男の背中を追う。扉を開け
て逃げるように部屋から出て、エレベーターの前に立つ。

 上りのエレベーターの中では私の頬まで手を伸ばす男も、下りの
中では決してそんなことはしない。大抵、いつもそうだった。そう。
そういうものだ。
 不謹慎なことをまた私は考えている。会議に向かうエレベーター
の中で、これよりは一回りも二回りも小さい箱の中での出来事を思
い出している。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、人さし指の関節を自
分の頬に軽くあててみる。エレベーターが止まる。私は慌てて腕を
下ろす。
 扉が開いてチャコールグレーのスーツを着た彼が乗って来る。私
の顔を見て、軽く笑う。笑みを返す。扉が閉まる。
「聞いたよ」
「へえ。早いのね」
「少しは相手を選べよ」
「選んでるわよ」
 彼は私にまっすぐ視線を下ろす。私は一瞬見返して、そしてやは
り視線を逸らす。
「趣味が悪いぞ」
「前からよ」
「そうか」
「そうよ」
 私は無理して笑ってみせる。きっと醜い顔に違いない。だけど関
係ないよ、と心の中で呟いてみる。今さらそんなこと、この人には
関係ない。
「もっとかわいい笑顔だったよ」
 エレベーターが止まる。扉が開く。
「ふざけるな」
「え」
「ふざけるな」
 扉の全開より一瞬早くエレベーターを下りて、私は会議室に向か
って大股で歩く。髪が揺れて耳元でばさばさ鳴る。パンプスの踵が
廊下を蹴る音に妙に苛つく。目の前のドアノブを勢いをつけて回し
て引く。
 一歩踏み込んで出席者の視線を浴びるとき、もうそんなことはす
っかり慣れているはずなのに、晒し者になったような悪寒が体中を
走る。私は歯を食いしばってまわりを見渡してから席につく。ため
息を一つ、誰にも聞かれないようにゆっくりと。目を閉じて微笑ん
でみる。瞼の裏に自分の笑顔を描いて、それに追いついてみようと
する。遅いかも知れない。細いため息がまた一つ。議長が口を開く。
私は目を開けて、胸ポケットからクロスのボールペンを引き抜き、
ペン先を手元の資料の上ですべらせる。ただ、機械的にすべらせて
ゆく。
 まあ、縁がなかったんだよ。
 彼はキャビンマイルドの灰を、指先でトントンと落としながら言
った。行きつけの居酒屋のカウンターで。私の顔は見なかった。た
だ横顔を見せるだけだった。そうね、と私は答えた。やたらに瞬き
をして、目の前の琥珀色を湛えたグラスの映像をぶれさせて遊んだ。
 あまり長引かせると君だって困るだろう。
 琥珀色のウイスキーグラスの表面の滴を、私は瞬きで飛ばしてみ
ようとする。さらに細かく瞼を動かす。口の端がなぜか自然に震え
始める。喉が痛い。酔っているから、と私は思った。今頃になって
酔いが全身に隙間なく染み通ってきたのだ。いつか、醒める。
 いつのまにか、資料の上のペン先が止まっていた。微かに首を横
に振る。まだ、醒めないか。

「仕事なんかやめてさ」
 軽薄な男だ、と私は内心呆れながら聞いている。ありがたい申し
出とは、どうしても思えない。ただ滑稽なだけだ。
「いつまでも若くはないんだし」
「あたしの評判、聞いてないの?」
 男の顔がにわかに曇る。顔が曇る、とはよく言ったものだと私は
思う。
「そんなつもりはないって、わかってると思ってたんだけど」
「そうか」
 男は唸るような声で言ってうつむく。
「評判どおりだってことか」
「そう、ね」
 男は私の顔を見据える。汚らわしいものを見るように、眉をひそ
めて。何さ、寂しさを紛らわすための思いつきなだけのくせに。
「参ったね。そんな女は小説の中にしかいないと思ってた」
 女。負け犬の笑みを男は浮かべる。私は声にしないで悪態をつく。
あんたみたいにね、あんたみたいにボタンダウンシャツの似合わな
い男なんか、全然趣味じゃないのよ。デミタスカップを口元までゆ
っくりと運び、冷め切って苦いだけの液体をすする。ただ、たまに
小綺麗なレストランでコース料理を食べたかっただけよ。
 彼は、そんなところになど一度も連れて行ってくれたことがなか
った。だから。
 それでも喜んでついて行ったなんて、私も随分お安い女の子だっ
たわけだ。バカな女だ。この男をバカだと笑う資格がどこにあるだ
ろう。
 じゃさよなら、と店を出ると男は言った。さよなら、と私は答え
た。男は背中を丸めて駅へ歩いてゆく。ごめん、と私は気休めに呟
いて、男に背を向けてあてもなく歩き出した。

 あてもなくなんていうのは嘘なのだ。私はどこかへ急いでいる。
耳元で髪をばさばさ言わせて、早足で歩いている。何を今さら、と
声が出てはっとする。まったくだ。急にまた今さらどうして、そこ
に行こうとするのだろう。思いながらも足は止まらない。
 小さな路地へ私は入る。もうしばらく来ていないのに、その猥雑
な光景が作る空気に、すうっと体が馴染む心地よさを感じる。一軒
の飲み屋の看板の前で両足をそろえて佇む。やはりここまで来てし
まった。だけど一体どうするつもりなのか。何の計算もたっていな
いくせに。いつもそうなのだ。それでいつも笑われた。彼に。それ
でどうするつもりだったんだよ。言われて私は立ち竦む。いつもそ
うだった。
 行き場所なんかないんだよ。どこに行こうにも袋小路なんだ。
 それは私のことよ。あなたのことじゃない。私は心の中で叫ぶ。
いま、叫ぶ。放っといてよ、私のことなんか。私の気持ちのことな
んか。あなたは好きにしてればいい。いい人ぶらないで、今さら。
もう遅いんだから。
 がたつく引き戸を私は開ける。煙で濁った空気の向こうに、上着
を脱いだ彼の背中が見える。パンプスの音をたてて、私は近付く。
そこに立つ瞬間に彼が顔を上げる。私はまっすぐ彼を見下ろす。
 何が言いたかったのか、何を聞きたかったのか、それらは沢山あ
った気がするのに、口許には何事も上ってこない。私はただ黙って
彼の目を見る。彼は小さく舌打ちをしてから、カウンターに置かれ
た煙草とライターを胸ポケットにしまい、立ち上がる。
 勘定を済ませている間に一足早く外へ出た私の体を、いやらしい
温い風が撫でてゆく。私は小さく舌打ちする。引き戸が開いて彼が
姿を現す。
「なぜ、来た」
 ちらと私の顔に一瞥をくれてすぐに歩き出す。私は黙ってついて
ゆく。
「何か用なのか」
「別に」
 私は答えを投げつける。彼は人通りのない細い道に曲がる。
「どういうつもりなんだよ」
 立ち止まって私を振り返る。私は黙って見上げる。
「わからないのか。どうにもならないんだよ。そう、君は趣味が悪
すぎる。何も女房持ちなんかに執着するこたあないだろう」
「わかってるわよ」
 なま暖かい風を感じながらも、私の声は震えてくる。彼の手が私
の肩に触れる。私の体は支えを求めてそちらへ傾れ込む。
「遊びだったはずじゃないか」
「そのまま続けるだけよ」
 彼の首筋に自分の頬を押し付けながら、懐かしい汗の匂いを嗅い
で目を閉じる。バカな女だ、と耳元で彼が囁いた。