| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 月・魂 | 厚篠孝介 | 2871 |
| 2 | ガソリンスタンド | 林 忠由 | 2815 |
| 3 | 結婚の理由(わけ) | 岡嶋一人 | 2820 |
| 4 | マジックネイル | うめぼし | 2996 |
| 5 | 蛙の手 | ニコ | 2812 |
| 6 | ロマネスクA | 伊藤右京 | 2970 |
| 7 | エンドレス・イブ | 君島恒星 | 2950 |
| 8 | さるかにの水 | TAKUTO | 3000 |
| 9 | ルビー | 一之江 | 3000 |
| 10 | 末期症状 | 羽那沖権八 | 2859 |
| 11 | 年の瀬 ★ | 鮭二 | 3000 |
| 12 | 狼娘と微熱少年 | 越冬こあら | 3000 |
| 13 | 進化 | 磊落っく | 2998 |
| 14 | 音痴が街にやってくる | 逢澤透明 | 2991 |
| 15 | 四次元の扉 | 夏蜜柑 | 2845 |
月が余りに青かったので彼はいつもより少し早く外へ出た。 夏の夜はすでに月の青と混ざり合った薄闇に変わっている。 寺の門までは長い石段を下らねばならない。 濃紺の甍を越えて、丘陵に広がる竹林は朝露に濡れて雪の様に光り、 風にさらされる度、海面の様に光りは弾けた。 境内へ続く石段を降りて行く。水を含んだ冷気が石段や杉の並木か ら染み出て寺を包んでいた。 Hの坊主頭が朝露に濡れて光っている。 寝不足と空腹に憔悴した目でお堂を振り返る。 広い枯山水の庭、青く錆びた鐘。空っぽの賽銭箱。どれもが理由な く彼の勘に触った。 Hは大学生である。彼はある良家の令嬢と恋に落ち、彼女を孕ませ た。 彼女の両親は娘の妊娠を許さず。強制的に子供をおろさせ、Hの両 親にも責任を迫った。Hの父は二度と息子がこんなことをしないよう にと体裁をつける形で旧知の住職にHをしばらく預けたのだ。 伸びた毛を昨日切ったから、こんな生活ももう二ヶ月になろうか。 後姿は音も無く朝霧の立ち込めた杉林の間に消えて行った。 この朝の勤めは本来、寺の小坊主の仕事で、Hは寺の掃除と食事の 手伝いとお使い、夜の見回り、読経が仕事であった。 けれどHは自ら望んでこの朝の門開きを引き受けたのだ。 階段が終わって門が現れる。小さな門だ。この門をHは七時間も前 に閉めたばかりである。 湿った閂を外し、門を開く。門をあけても道が少し広くなるぐらい で、杉林の道はまだ続いている。 ちょうどその位置からは今まで杉林に邪魔されて見えなかった月が 見えた。 みるみるうちに青さを増す空の中でも月はまだ空の穴の様に簡単に 見つけることが出来た。 懐から雑誌の切抜きを取り出し、月にすかしてみた。 それは「地球の出」という有名な写真だ。 アポロ八号が月の上空から撮った写真で、灰色の大地の向こうから 青い地球が昇ってくる様子が映っている。 Hはなぜかこの写真に惹かれた。地球がまさに生きているのだと月 の荒涼とした大地や背後の闇が教えてくれる。 Hは昔、父親から地球は丸いのだと聞かされたが、信じる事が出来な かった。 父は地球が生きているのだと言った。緑に覆われた星は地球以外に なく、人は地球以外では生きられない。その証拠に月は美しいが灰色 の死んだ星なのだと。 父の言葉はHの心に地獄を思い浮かばせた。人の魂は天に昇ると言 うが、その先は月ではないか?そんな思いが浮かんできた。月の砂漠 の上では青白い魂が無数に漂い覆い尽くしているのではないか?魂は 地球へと帰りたがるが、重力に縛られて漂うだけなのだ。 Hは漠然と恐怖を感じた。 この「地球の出」という写真ほど、彼の幼い日に思い描いた想像を 具現化した物はなかった。 毎日、魂達は暗闇の向こうから地球が昇ってくるのを見てうめいて いるのではないか? Hは閂を門の脇に立て掛けると、写真をしまって階段を上り始めた。 中絶の同意書にサインして以来S子には会っていない。 「婚姻届じゃなかったね」 S子が自嘲を漂わせて言った。妊娠が分かった時に用意した婚姻届の ことを言っているらしかった。 S子は憔悴しきっていたが、涙は枯れ果てたらしく、ただつぶやく 様に言った。 彼女の両親に事情を話し、誠意を持って話し合えばきっと分かって くれる。そう信じていた。 けれどそれはしょせん都合の良い夢でしかなかった。テレビや小説 の世界を一つの常識と勘違いしていただけだった。 S子の父親は断固として認めなかった。土下座をした私を父親は二 三度蹴りつけた。 母親は夫が手を出せばそれを止めたがそれ以上の事はしようとしな かった。S子はただ泣いていた。 世の中にそんな差別などないと思っていた。少なくとも日本では階 級の差というのはあまり意味を持たないと思っていた。 けれど家具輸入会社社長の家と二流会社の係長の家とでは結婚など 簡単に認められるはずがなかった。 ただ恐怖に頭を床にこすりつけ、動かないHの姿に父親はますます 激昂して、彼は湯呑の茶をHに浴びせ、続けてHに向かって投げつけ た。背中に鈍い染みるような痛みが走った。それでも動かないHを父 親はもう一度蹴り上げた。S子が飛び出して父親を止めるとS子はH に逃げろと叫んだ。 Hはゆっくり顔を上げた。激昂する父親、それを必死で止めるS子、 それなのにHは冷静な気持ちで二人の顔を眺める事が出来た。 他人事のような、ゆっくりと流れる景色だった。 父親が娘を突き飛ばした。 私は反射的に体を反らすとS子の家から逃げ出した。 鳥達の鳴き声が林を包んでいる。足から伝わる湿った苔の柔らかい 感触が心地よい。 境内まで戻ってくると小坊主が庭を掃いていた。小坊主はHを見る と頭を下げた。 物静で賢そうな顔つきだ。今は夏休みで一日中寺にいる。盆も近い 今が一番忙しい時期で、彼は毎日住職とともに檀家を回っている。 近くの家の子だそうだが、母親はなく、父親も数年前に他界したの で、祖父母は彼の同意を得て、彼をこの寺にいれたそうだ。 彼もゆくゆくはこの寺を次ぐのだろう。 このゆったりとした美しい寺を継げるならそれも悪くないとHは思 ったりした。 山頂に近い寺の屋根にはすでに日が差して、鋭く光っている。 朝の読経が始まった。 住職が座り、その後ろに小僧、Hの二人が並んで座る。木魚の音が 山間の寺に響く。 Hは単なる罰という以上に読経に没頭していた。経は懸命に覚えた し、写経も毎日欠かさずに行っていた。 それはただただ、一度も見ることなく魂になった赤ん坊への謝罪だ った。 同意書にサインをするとS子は何も言わずに部屋を出ていった。 その日のうちにS子は子供をおろした。 Hは何の悪意もなく純粋にS子と暮らす事を願っていた。子供が出 来たと言われた時は驚いたが就職も内定していたし、学校を辞めてで もS子と子供を養って行きたいと願っていた。 読経の最中に目をつぶると、きまって部屋を出て行く時に振り返っ たS子の顔が浮かんでくる。 侮蔑を含んだ咎めるような目、心にひりひりしみる目だ。 最初の読経が終わった。住職が軽く咳払いをすると、すぐにまた木 魚を叩き始めた。 頭に響く木魚と経の振動。日が昇って外には光りが満ち溢れ、寺全 体が暖まって軋みを上げた。 外が明るくなればなるほど仏像は鮮明な闇に覆われて、香の煙を纏 う。 仏の顔はますます慈悲深く、たおやかに見える。 これほど仏の顔が美しいとHは思っても見なかった。彼は別に信心 深いわけではなかった。神の存在を信じてもいなかった。ただ仏を見 ながら経を唱えていると、今に動き出すのではないか、と思ってしま う。 朝食を済ませると住職は檀家をまわるために小僧を連れて出て行っ た。 Hは一人山奥の寺に残された。寺という場所に人の生気が満ち溢れ ているのもおかしい。 寺は人の死を受け入れる場所なのだから、むしろ死の匂いに溢れて いて当然だ。 自然の中にあり、人は自然の中に帰って行くのだと思わなければ、 とてもこんな場所にはいられない。 鎌と手拭を持ってHは墓場の雑草を刈りに向かった。 もう外は十分暑く、やがて迎える盆の騒々しさは今の静けさを余計 に強調した。 かがみこんで一人雑草を刈り始める。 ただひたすら草を刈りつづけた。 おろされた子どこに葬られたのだろうか?S子の両親も鬼ではない だろうから、無縁仏にはなっていないだろう。 生ませるべきだった。いまさら後悔しても始まらないけれど。 あの時S子が投げたあの痛い目はやはり一人の人間の物でなく、娘 か息子かも分からないもう一人の人間を代弁していたに違いない。 半分は私で半分はS子の存在。生まれる前に死んでしまった人間の 悲しい目だ。 羊水の中から無理やり引き出されて月へと行った人間の決別の目だ。 Hは鎌を地に置き、うずくまったまま懐から「月の出」を取り出し て眺めた。 容赦ない日の光が背中を刺した。 乾いた地べたを涙が何度も打った。 Hは立ち上がって空を仰いだ。 月は日の光に薄く消されかけていた。 今ごろ月の大地では地平線のかなたから青い地球が昇っていること だろう。 魂はあの星に戻るその日を待ちわびながら弱い重力にすら逆らえず、 ただ生前の思いを宿しながら漂っている。 すまない。そう思った時、ひどい耳鳴りがした。
他にもいろいろあったが、結局家から一番近いところに落ち着い た。僕のバイト先の話だ。時給もそこそこだし、何より面接してく れた店長の印象がよかった。たぶん親父より歳は上のはずだが、白 いつなぎを着て咥え煙草で黙々と車の整備をしている姿は、粋なほ ど決まっている。 スタンドは、片側二車線の国道沿いにある。しばらく行くとシャ トルポートハイウェイの入り口があるので比較的交通量は多いが、 近所にはセルフサービスの安いスタンドがわんさかあるので、そん なに忙しいわけでもない。仕事としては、車の点検や整備のほうが 多いかもしれない。 「おい、これどうやるかわかるか?」 店長は、優しくはないがそんなに厳しくもない。教え方は手取り 足取りですごく丁寧だ。それもそのはず、店長以外には僕しかいな いことが働き始めてわかった。バイト先の新たな出会い、みたいな のを期待していた僕にとっては、ちょっとショックだった。一週間 ほど研修をして、僕は制服と帽子を渡された。 中学で軽乗用三種の免許を取ったので、僕自身機械にも少しは明 るい。今はまだ言われた仕事をこなすだけで精一杯だが、そのうち 役に立つことがあるだろう。 最初のお客さんがやってきた。いきなり外車だ。確かフォードE Uのピットとかいうモデルだと思う。 「い、いらっしゃいませ」 丸い車はするすると国道から入ってきて、ラバーコーティングさ れた地面をするすると矢印に沿って停まった。 「マンタンね」 このセリフだけは今も昔も変わらない。 「はい、わかりました」 小気味よく返事をしてから、車の後ろに回ってコンセントモジュ ールの位置を確認した。僕の尻の上辺りから延びているアースケー ブルが、しっぽみたいで邪魔でちょっと恥ずかしいが、仕事だから しょうがない。 分厚い防電手袋をパンと叩き合わせて、天井からぶら下がってい るケーブルプラグを手繰り、切り欠きを合わせて車のコンセントに 差し込む。少し力を入れて押し込むと、後ろでブザーが鳴って地下 のジェネレーターが動きだした。防電靴越しに、その鈍い振動が伝 わってくる。セルフとは違って、スタンドのジェネレーターは大容 量だ。バッテリーセルへ一気に叩き込む。 僕は深呼吸をして、ケーブルプラグのトリガーを引いた。 「充電完了っ」 何の衝撃も振動もなく、呆気ないくらいに充電は終わった。スタ ンドメーターを確認してプラグを外し、お客さんにその旨を告げて、 僕はT字型の読み取り機を手にした。お客さんが窓越しにカードを 示すと、ピッと鳴って支払が終わった。 「ありがとうございました」 初めての外車は、するすると国道へ戻っていった。 「ふうーっ」 溜息をついて振り返ると、つなぎ姿の店長が口をへの字に曲げて 腕組みして立っていた。 「もっと、声を大きく出さないと」 怒るときもどこか諦めたような静かな口調なので、あまり怒られ てるという気がしない。 「そんなんじゃお客さんに聞こえねえよ」 研修の時からそうだったが、大きな声で接客しろという店長の言 葉に、僕はどうも合点がいかなかった。細かいことだが、未だにガ ソリンスタンドと言うのも合点がいかない。電気スタンドではさす がにマズイだろうけど、もっと他の言い方があってもいいようなも のだ。 「ま、いいや……」 店長はぼそっと呟いて、咥え煙草で頭を掻きながら整備車庫へ戻 っていった。 僕は少しだけ腹が立った。自分では充分大きな声を出しているつ もりだった。確かに、国道には車がひっきりなしに通っているが、 聞こえるのはタイヤの擦れる音と風切り音くらいで、声を大きく出 す必要性が全く感じられない。むしろスタンドのBGMのほうが大 きいくらいだ。それも古臭いユーロビートだから始末に負えない。 「なんだよ、ったく……」 不満そうな顔を帽子で隠しながら、先刻の支払の確認をしている と、妙な地響きがしてきた。それはだんだん大きくなって、こちら へ近づいてくるようだった。僕は思わず道路のほうへ出ようとした。 「うわっ」 一台の車が、スタンドに入ってきた。物凄い音が車から聞こえて いる。故障かもしれないので店長を呼びにいこうとすると、その車 の運転手に呼び止められた。 「ねえ、ここ、ガソリンある?」 車の音でよく聞こえなかったが、その若い男の人は確かにそう言 った。それにしてもうるさい車だ。腹の底から震えるような轟音が 響いている。 「少々、お待ちください、店長呼んできます」 「え?」 「店長呼んできます!」 そう言って振り向くと、ポリタンクを持った店長がやってきた。 「助かったあ」 男の人はそう言うと、何やら車の操作をした。静かになった。 「この辺ぜんぜんなくってさあ、あっても電気ばっかりで、助かり ましたよ」 「R32だね、こいつぁ」 「じいちゃんの車なんですよ」 店長は、男の人と二言三言話してから車の後ろに回った。慌てて 煙草を消して、嬉しそうにポリタンクを抱え上げる店長の顔を、僕 は呆然と見ているだけだった。 辺りに、鼻をつく臭いが広がった。 「ガソリン……?」 店長が車に入れているのは、電気ではなくガソリンだった。とす るとこの車は、モーターでなくエンジンで動く車で、あの轟音はそ のエンジンの音だったのだ。 「あのう、ついでに車診てもらえませんか?」 その男の人は、呆然と突っ立っている僕に話し掛けてきた。 「あ……、は、はい」 反射的に返事してから、僕は逃げるように店長のところへ行った。 「て、店長、あのう……」 「工具箱取ってきてくれ」 そう言った店長の横顔は、子供のように嬉しそうだった。店長は 工具箱を抱えて、エンジンや足回りを徹底的にチェックした。僕は お客さんと一緒にただ眺めるしかなかった。 「よっしゃ」 車の下から、白いつなぎをオイルだらけにした店長が出てきた。 「丁寧に乗ってるね。まだまだいけるよ」 「そうですか、よかった」 「電装系もへたってるとこないし、触媒の取り回しもうまくやって あるから問題ないよ。ターボの焼き付きだけ気をつけてね」 聞き慣れない言葉が店長の口から次々と出た。僕はもう何の役に も立たない。 「久しぶりにいい音聞かせてもらったよ。よかったらまた来て」 男の人は、満面の笑みを浮かべて頭を下げた。払いを済ますと、 嬉しそうに車を一通り眺めて、もう一度頭を下げて車に乗り込んだ。 「ど、どうもあり……」 車のエンジンがかかって、轟音に僕の言葉は掻き消された。 「ありがとうございましたーっ!」 後ろから、店長の聞いたこともない大声が響いた。僕は思わず店 長を見た。 「……ほら、あいさつしねえか」 僕は、帽子を脱いで、車のほうに向き直った。 「あ、ありがとうございましたあっ!」 僕は、ありったけの力を振り絞って声を出した。ガソリンで動く 騒々しい車に乗った男の人は、手を振って国道に戻っていった。 車のエンジン音が遠く薄れていって、国道は静かになった。店長 は、工具箱をがちゃがちゃと片付けて整備車庫へ戻って行った。 また、古臭いユーロビートが耳につくようになった。
「アームチェアディテクティブって知ってる?」 ──ほうら、また始まった── 私は、恭子の言葉にそう思ったが、口に出しては言わなかった。 恭子とは見合い結婚をした。見合いの席で、お互いの趣味や生活 心情を聞くのは当たり前の話で、相手の印象が良ければ多少話をあ わせるくらいのことは誰だってやるだろう。 「恭子さん御趣味は?」 「はい、読書を」 「どんなものをお読みになるんですか」 「はい、ミステリーを」 「ほう、なかなか良い御趣味ですね」 「どんな家庭を望んでいられますか?」 「そうですねえ、長く一緒にいても疲れない、お互い空気のような 存在になれれば」 「そうですね。お互いが疲れないというのが良いですね」 私は、恭子をはじめて見た時からその容姿を気に入った。自慢の 様に聞こえるかもしれないが、はっきり言って彼女はとても美人だ。 スタイルも抜群である。水着でも着て砂浜を歩けば大多数の男が振 り返るに違いない。そんな魅力的な女性が、なんで私なんかと見合 いをしたのか不思議だった。取り立ててアピールできるほどのもの は何も無い。仕事も三流会社の総務部で日々机に向かって事務をし ているだけ。もちろん給料にしたって特別多いわけでもない。じゃ あ見た目に長身でかっこいいとか、男前かというと決してそんなこ とはない。彼女のように人に自慢できるほどの趣味があるわけでも ない。普通だったら、写真と経歴書を見ただけで 「何?この人。断ってよ」 と、言われるのが落ちでまさか見合いをしようとは思わないだろう。 ましてや、結婚なんて。でも、何をどう思ったか知らないが彼女は 私からのプロポーズをすんなり受け入れてくれたのだ。 結婚が決まると彼女の両親は家をプレゼントしてくれた。3LD Kの一軒家だ。こりゃあ、子供でも期待されているのかなと思って いたらそうではなかった。3LDKのうちの2Lは彼女の部屋にな ったのだ。 何故って、彼女の唯一の趣味の為である。その数、5千数百冊の 推理小説の山が、新居への引っ越しの時に運び込まれたのだ。新婚 生活数週間で、彼女がこれまで一人でいたわけがわかった。本の虫 だったのだ。明けても暮れても推理小説。話すことは小説のことか 作家のこと。見合いの席で「良い趣味だ」なんて言ってしまった以 上、文句も言えない。その上、「空気のような存在」にも同意して しまっている。家事はまったくやらないわけではないから始末が悪 い。もし、家事をやらないで本ばかり読んでいるのなら文句も言え るが。 数ヶ月の後、私はそんな女房が物足りなくなり、つい浮気をして しまった。相手は飲み屋のねえちゃんだ。ほんの遊びのつもりだっ たのだが、ついつい深みに嵌まってしまった。そしてある日、会社 から帰った私に女房は、読みかけの推理小説を片手に 「アームチェアディテクティブって知ってる?」 と聞いたのだ。 「ああ、知ってるよ」 と答えた私に彼女は言い始めた。 「じゃあ、私の質問に答えてくれる?」 「ああ、いいよ」 「先週の出張ねえ、あれ変でしょ」 「なんで?」 「総務部に出張なんてあるかしら。支店でもあれば別だけど」 「それから、昨日。貴方ガムを噛みながら帰って来たけど、ポケッ トにもどこにも、包み紙すらなかった。それにスーツが少しにんに く臭かった。貴方、お昼は日本そば食べたって言ってたじゃない」 「だ、だから?」 「まだあるの。今朝でかける時に、貴方かばんに靴下一足入れてた でしょ」 「何を言いたいんだ?」 「別に、ただそれだけ」 「それだけって?」 「いいわ、弁明させてあげる」 「弁明って?」 「今私の言ったことに合理的な説明をしてみせてって言ってるの」 「合理的もなにも、どう言ったら良いんだよ」 「合理的は合理的よ。別の意味なんて無いわ」 「俺に何を言わせたい?」 「真実をよ」 「どう言えば良いんだ」 「わかったわ、じゃあ聞いていてね。私の推理を話すから」 「あ、ああ」 女房の推理はことごとく当たっていた。出張と称して浮気相手と 一泊温泉旅行に行ったことも、彼女と焼肉屋に行ったことも、そし て、ホテルに行く前に会社で靴下を取り替えたことも。 「どう、合理的な推理でしょ。間違っていたら言ってちょうだい」 「そ、そりゃあ、お前、なんだ、そういう解釈もできると言うこと で」 「じゃあ、別の解釈もできるということなのね。どうぞ、聞いてあ げるわ」 本ばかり読んでいて私のことなどには関心が無いのではないかと 思っていた。私が、何をしようと何時に帰ってこようと彼女は推理 小説さえ読めればそれで良いのかと思っていた。しかし、それはど うやら間違っていたようだ。私の変化に気が付き、女の匂いを嗅ぎ 取っていたのだ。 この際、へたな言い訳をするより、全てを認めて謝罪したほうが 良いのではないかと思った。だが、こうなったのも女房が本ばかり 読んでいて、私には物足りなかったからなのだ。女房にもその責任 の一端はあるはずだ。 謝る言葉と責める言葉を半分ずつ考えながらも、ここは一つ、事 を荒立てない為にも下手に出て、女房に謝った方が良いと結論を出 し素直に 「すまなかった」 と言った。だが、女房は 「何が?」 と聞いてきた。どうやら私の口からきちんと言わせたいらしい。私 は半分開き直って全てを告白する事にした。 「だから、おまえの言う通り、俺は浮気をしていた」 「やっぱりね。ほら、私の推理が当たってたでしょ」 「お前の言う通りだ。弁解の余地も無い」 「弁解って」 「いあや、だから」 「合理的な弁解なら聞いてあげるけど」 「弁解に合理的も何も……」 「じゃあ、大正解だったわけね。よかった」 「えっ。よ、よかった?」 「だって、私の推理当たってたんでしょ」 「そりゃあそうだが」 「だから、よかったって言ったのよ。私もアームチェアディテクテ ィブとしては合格ね」 女房はそれだけ言うと、手に持った読みかけの小説に目を落とし 「やったね。当たってたんだ」 と独り言を言いながら、また本に没頭しはじめた。 翌日以降、女房は私の浮気のことについて何も責めたり、問い詰 めたりしなかった。男にとってこういう手段に出られると、かえっ て不気味である。不気味であるが、私の口から話をぶり返す気はし なかった。 「もしもし、お母さん。私、恭子。聞いて聞いて。この間ねえ。彼 の浮気を推理したら、ばっちり当たってたの。大正解だったのよ。 私、彼と結婚してよかったわ。ああいうなにが楽しみで生きてるん だかわからない人って、色々推理のし甲斐があるのよ。毎日が楽し みよ。うん、大丈夫。旨くやっていけるわ」 私には、彼女がなんで私なんかと結婚をしたのか不思議だった。 取り立ててアピールできるほどのものは何も無い。仕事も三流会社 の総務部で日々机に向かって事務をしているだけ。もちろん給料に したって特別多いわけでもない。じゃあ見た目に長身でかっこいい とか、男前かというと決してそんなことはない。彼女のように人に 自慢できるほどの趣味があるわけでもないし……
「そのマニキュア、いい色ね」 おとなしい姉にしては珍しく、派手な色のマニキュアをしている 事に気づいた渚は、テーブルの上で頬杖をつきながら、キッチンに 向かい料理を作っている楓に話しかけた。 楓はOL、渚は大学生、お互い親元を離れ上京し、それぞれ一人暮 らしをしていた。今、渚が楓のマンションにいるのは他でもなく、 楓に呼び出されたからである。また例の事についての相談かと思っ たが、その顔はいつになく晴れやかだった。 「そう、ありがと」 料理をする手を止めて、その爪がよく見えるように手をひらひら させると、「私、この色、結構気に入ってるんだ」と付け加えた。 楓が気に入っているといった色は、まるで太陽のように赤く、雪 のように輝いていた。ただ、おかしな事にそのマニキュアは、右手 の、一本だけきれいに伸ばされた小指の爪にしか塗られていなかっ た。 「このマニキュアはね、女の魅力を最大限に引き出すマニキュアな のよ」 そう言って、テーブルで今や遅しと料理を待つ妹にくすりと笑いか けると、楓は再び調理器具を手に料理を再開した。 渚があまりにも不器用すぎるというという意見もあるが、姉の料 理ははっきり言って美味い。姉の愚痴を聞くのは良い気持ちではな かったが、普段の食生活をコンビニで過ごしている渚には、楓の手 料理を食べれるだけで姉の愚痴を聞く価値はあった。それに、同じ 女として、姉の気持ちが分からない訳ではない、ずっと信じていた 男に裏切られたのだから。 渚は無邪気に料理を作る姉の後ろ姿を見て、思わず健気だなと思っ た。死ぬほど怨んでいたはずなのに。今の姿から推測すると、おそ らく問題が解決したのだろう。問題解決、それは彼を受け入れたの か、拒んだのか。いずれにしろ、そう簡単に気分を切り替える事が できるような決断ではない、無理に明るく振る舞っているような気 がしてならなかった。 「……ねえ、お姉ちゃん」 「なに?」 明るい笑顔が振り向く。 「なんで右手の小指にしかマニキュアを塗ってないの?」 ここ最近、ずいぶんご無沙汰になっていた姉の晴れやかな顔を見 ると、渚は聞きたい事も聞けず、質問の内容をとっさに変更した。 「ああ、これ?」 再びマニキュアが塗られている右手を渚の前でちらつかせる。 「だって、他の指じゃ駄目なんだもん、爪が短すぎて、ぜんぜん駄 目だったんだ」 爪が短いと不格好である、とでも言いたげであるが、そんな物なの だろうか?、小指だけという方が、かえって不格好なのではないの だろうか。疑問はあったが、深くは追求しない事にした。もしかす ると、この事が姉を立ち直らせた何らかの要因かもしれない、もと の元気な姉に戻ってくれるのならば、たとえ少女時代に流行った、 くだらないまじないや迷信でもよかった。 小指の爪だけを伸ばして、真っ赤なマニキュアをぬると恋がうまく いく。 一昔前まではそういう話にも敏感だったが、果たしてそんな恋の魔 法があっただろか? そんな事を考えている間に、渚の目の前には楓が作った料理が並べ られる、今日のメインはハンバーグ、姉がもっとも得意とする料理 であった。テーブルの上には続いて二人分のサラダとスープ、そし て炊き立ての御飯が並べられた。焼き立てのハンバーグからはおい しそうな湯気が立ち上り、渚の胃と舌を激しく刺激した。すぐにで も食べてしまいたかったが、料理を作った当の本人を差し置いて食 べる事はできない。渚は楓が椅子に座るまでの一連の動作をぼうと 眺めながら、いただきますの合図を今や遅しと待ち望んでいた。 「渚ちゃん」 すでに胸の前で手を合わせ、姉に続いて「いただきます」と言う 準備を万端にしていた渚は、突然名前を呼ばれ、面を食らったよう な顔を楓に向けた。 「私ね、彼のすべてを受け入れる事にしたの」 そして、その後に「今までいろいろ心配かけてごめんね」と付け 加え、やさしく微笑みかけた。その時、渚の胸にかかっていた靄が 一気に取り払われたような気がした。今、目の前にある笑顔は、強 がっている訳でもなければ、無理をしている訳ではない、紛れもな く、自然な物であるという確信が得られた。 「そうなんだお姉ちゃん。よかったね、ホントによかったね」 渚は楓に負けんばかりの笑顔を投げ返した。本当に嬉しかった、一 時は自殺でもしそうな勢いだった姉が元気になってくれた、今日の 食事は今までに無いくらいおいしい物になるだろう。気持ちが晴れ やかになると、食欲がより一層増し、渚はいただきますも言わずに 勢いよく楓の作ったハンバーグを食べ始めた。 異変が起こったのは渚がハンバーグを口に含んだその時だった。 いつもと違う食感と、そのひどい味に、渚は突如、吐き気をもよお した。 一体これは何なのだろう、今まで姉が料理を失敗した事など今ま で一度も無い、しかもハンバーグは得意料理のはずだ。これなら私 でも、もっとまともな物が作れる、どう考えても味付け以前の問題 だ。 ついに耐え切れなくなった渚は、口に含んでいた物を机の上へと 吐き捨てると、勢いよく席を立ち上がり、手で口元を覆いながら、 急いでトイレへと駆け込んだ。 トイレにたどり着き、便座に覆い被さるように倒れ込むと、便器 に顔を埋めて餌付き始めた。まだ何も食べていないせいか、口から は胃液しか出ない。胃が縮み上がりキリキリと痛む。 「はぁ……はぁ……」 胃から食道にかけて存在する物を、洗いざらいすべて吐いてしま うと、渚は幾分落ち着きを取り戻した。一体あれは何だったのだろ う、悪い夢でも見ているのだろうか。ユニットバスという狭い空間 で、自分の嘔吐物の匂いが、鼻孔を激しく刺激する。 いや、違う、これは嘔吐物の匂いなんかじゃない。今、この空間 を支配しているのは嘔吐物の酸味の効いた匂いとは明らかに違う。 異臭には変わりないが、何かが腐食したような匂いだった。そして その匂いは便器から漂う物ではない。渚の視線が防水カーテンで遮 られているバスタブへと移る。 この奥に何かある。 その匂いは明らかにそこから流れ込んで来ている。 渚は上体を起こすと、便座に手をついて立ちあがり、力なく腕を 伸ばすとカーテンをぐっと掴んだ。一呼吸をおいてカーテンを勢い よく引く。次の瞬間、渚の眼が大きく見開かれた。 「ひぃ!」 全身の筋肉が硬直するのと同時に、喉から思わず声が漏れる。バ スタブの中には見覚えのある男性が、裸のままで横たわっていた。 いつか姉に写真で見せてもらった男性。彼は今、何かを恐れるよう にその目を見開いたまま、醜い表情を形作っている。その傾いた頭 を支える首には、ちょうど頚動脈があるであろうと予測される部分 に、何か鋭い物で、何度も激しく引っかかれたような傷が開いてお り、そこから吹き出した血が、その傷口を中心とし、放射線状に男 の体を太陽のように赤く染め上げ、雪のように輝かせていた。腹部 には鋭い刃物のような物で一部の肉をえぐり取られた跡があり、そ の傷口は比較的新しい物のように見えた。 (彼のすべてを受け入れる事にしたの) 楓の言葉が頭の中で駆け巡る。 「……嘘だ、こんなの嘘だ……こんなことがあるはずはない……こ んな受け入れ方があるものか……」 もはや渚の意識はそこには無かった、視線を宙に舞わせながら何度 も「嘘だ」と呟き、力なくその場に座り込んだ。 リビングの方からは、食器がカチカチとこすれあう音が、絶間無く 鳴り響いた。
先生が黒板に白いチョークの粉を飛び散らせながら「明日は水着 をわすれない事」と書くと、教室中が喜びの声で一杯になった。先 生は静かにしなさいと注意したが、いったい何人の生徒がその声に 耳を傾ける事ができただろうか。一変して騒々しくなった帰りの学 活でハルは黒板の文字をノートに写す事なくランドセルの口を静か に閉めた。 ハルは家に着くと、ランドセルから鍵を取りだし、ドアに差し込 んだ。もう慣れたその動作はとてもスムーズで、部屋に入りテレビ のスイッチを入れてから部屋の明かりを入れた。 ハルはお母さんと二人暮らしをしていた。何では聞いた事はない が気が付くとお父さんというものはなかった。 ハルはめったに寄り道をしない子だったので、お母さんが帰って くるまでたいていテレビを見てすごした。そうしてまっていればじ きに原付バイクの音がして、そのエンジンの具合でお母さんが帰っ てきた事がわかるのだ。 「ただいま」 お母さんは無愛想にいった。無愛想だが本当はそんな人ではないと ハルは思っている。ただ、最近のお母さんはいつでも疲れているよ うに見えた。 「お母さん今日はご飯何?」 「今日はコロッケにする」 「私コロッケ大好き。ほくほくしているやつ」 そういうとお母さんは無理に笑った。お母さんの笑顔は貧弱だ。笑 っても空気が波一つ立てない。 「明日またプールがあるの。お母さん連絡帳に入れませんって書い て」 ハルが言うと。「わかった」と答えた。 お母さんはパートに出ているお店の惣菜コーナーでかってきたコ ロッケをレンジに入れた。その間にご飯をよそりレトルトのお味噌 汁の素にお湯を注ぐ。あっという間にできる。それには理由があっ て、お母さんは夕飯が終わると一息ついて夜勤に出かけるのだ。夜 勤といってもただの仕事ではない。お母さんは決して昼間にパート に行くときにはつけない香水を付け。真っ赤な口紅をしわしわの唇 につけてでていく。帰ってくるのは夜中だ。ハルはお母さんが帰っ て来ると冷たい空気が運んで来るお酒と香水の混ざった臭いで目を 覚ます事があるお母さんには夕方家にいる時間が二時間しかないの だ。 二人でテーブルを囲んでテレビを見ながらご飯を食べる。「ハル 肘を付かないでちょうだい。行儀が悪いでしょう。何度言ってもわ かんないのね」お母さんは低いトーンで言った。はーいと答えなが ら昨日の夕飯はなんだっけ、と考えた。春巻きだった気もするしか に玉だった気もする。どっちにしても今日と同じ味がした。 次の日、三四時間目にプールはあった。ハルは一度も学校のプー ルに入った事がない。重度の紫外線アレルギーなのだ。だから見学 者の過ごし方は十分よ く知っていた。プールサイドの草取りをする ように一応いわれていたが、それが強制される事はなく。ただ何を していてもプールサイドに座っていれば怒られる事はなかった。 プールには準備体操が終わり、生徒達がいっせいにプール入った。 たくさんの赤や黄色の帽子が水面に潜ったかと思うとまた出てきて 花火みたいだった。今日はとても天気がよくより一層プールが鮮や かになる。プールサイドのタイルは太陽によって鉄板のように暑か った。 ハルはタイルとタイルの間に栄えてきた草を手慰みにしてなでな がら、たいように合わせて日陰に移動した。日陰のタイルはとても 冷たい。ハルは日向と日陰の境界線に行き。わざと日の当たるタイ ルの上に足を置いて暑さを味わい、絶えられなくなると足を日陰で 冷ました。 テントの下にはそれぞれの理由で今日プールに入れなかった見学 者が何人かいたが、毎回そこにいるのはハルだけだった。 ハルはプールの縁に行き水を触った。思ったよりも暖かいプール の水はハルの腕を冷やした。あまり気持ちがいいのでしばらくそう していると先生がきて落ちたら危ないと注意され、しぶしぶテント の下に戻った。 座って腕を見てみるともう腕が真っ赤で湿疹が出ていた。 ある日、母はとても帰りが遅かった。。その日はひどく蒸し暑く 夕焼けが奇麗だったのに母は夕焼けが沈んでも帰ってこなかった。 ハルはぺこぺこのおなかをさすりながらボーっと天井の隅を見てい た。もう帰ってこないのかも知れない。電気の付いてない部屋はテ レビの画面が変わるたびに色を変えた。 やがて、待つ事にも疲れて眠気が襲っていたころ、聞きなれない 車のエンジンの音が聞こえて目が覚めた。聞きなれない音だったが それは家の前で止まって中から誰かが降りてきたようだ。 ハルは体中に力が入ったのがわかった。ドアを開けて見えたのは 母だった。母は手にたくさんのスーパーのビニール袋を持って。機 嫌良く「ハル、ごめんね。お腹空いたでしょう」といった。ハルは 笑顔で「うん」と答えたがすぐにその笑顔は引っ込んだ。母は誰か を中に招いたのだ「どうぞ上がって。何もないとこだけど。今ご飯 作るからその辺に、そうその座布団の上に。座っててくれる」入っ てきたのは色の黒いやせた若い男の人だった。ハルは急いで起き上 がると足を整え部屋の隅に寄った。 その男の人は、部屋をぐるりと見渡すと同じようにハルの事も見 た。母は台所に向かい、しばらく使ってないまな板と包丁を取り出 して何かをはじめ出した。男の人はさっきまで私が枕にしていた座 布団に腰を下ろしたが、その座布団はもう真ん中の綿が無くなった ぺっタンコな座布団だった。ハルは急な来客に所在なくその男の向 かい側に座った、男は 「野球見ていい?」 と男は私にではなく、台所にいる母に聞いてきた。 「ハルいいわよね」 ハルは何も言えなかった。大人の人と話すのが苦手だった。 「ハはっつ。黙ってるよ。いやなのかな」 「いいわよね。ハル」 母は台所から顔を出して笑顔で私を見た。その表情には愛想のよく ないハルを責めてるようにも見えた。男は野球中継の番組にチャン ネルをまわして缶を灰皿にしてたばこを吸い始めた。 「名前は?」 「ハル」と答えた 「ハル?漢字では」 「カタカナなの」 ハルは手がさみしくてどこに置いていいのかわからずずーッと正座 した足の小指を触っていた。時々近づいてくる蚊をたたこうとぱち んと音を立てたが一匹も捕まえる事はできなかった。 男はたくさん私の事を聞いてきたが、一言も自分の事は言わなか った。ハルも聞く事はできなかったが、色の黒い肌をしているとこ ろを見ると肉体労働者だろうと思った。髪の毛がぎらぎらと黒く黒 い肌をより一層貧弱に見せた。 母はいい臭いをさせながらお皿にハンバーグを乗せて持ってきた。 男は「おいしそうだ」と言い母は「私料理下手だから」と答えた。 その日、母は夜勤に出かける事なく、男はずいぶん遅くまで家にい た。母は大変機嫌がよく男が帰る時、家の外まで男を見送っていっ た。ハルはその男がご飯を口に運ぶたびシーシーと音を立てるのが 気持ち悪くてハンバーグを途中で残してしまった。 その次の日もプールは生徒達のにぎやかな声で埋め尽くされた。 一週間後には夏休みに入る。目の眩むような太陽の日差しを浴びて 真っ黒に日焼けした肌を見せびらかして、次々にプールに飛び込む。 見学者の待機するテントの下にもその熱気が伝わって、セミの鳴き 声に負けないぐらい大きな声でおしゃべりを始める女の子や男の子。 ハルはテントの柱に背中をもたれかけてとおくの空に浮かぶ入道雲 を見ていた。白い雲は青い空と相性がよく、分厚くってハルの頭上 にこぼれ落ちそうに思えた。 ハルは昨日の事を思い出していた。あの男のぎらぎらした髪の毛。 変に高かった母の声。ハルはテントの下を出た。太陽がじわりと肌 を焼くのが解った。先生が拡声器で三十分の休憩を告げた。生徒達 はいっせいにプールサイドに上がりそれぞれのバスタオルにくるま った。水面は生徒達の余韻を残し、いつまでも揺れて太陽を反射さ せた。その光はとても眩しくてハルは下を向いた。汗が背中をつた った。ハルの腕は赤くはれ赤ちゃんのほっぺたみたいだ。その腕に 顔を埋めながらハルはあの男の腕を思い出した。とても良く焼けた、 それでも貧弱な腕。 誰かが、ハルちゃんどうしたの?と声をかけた「具合が悪いの?」 ハルは顔をあげなかった。気が付くとハルの周りには人だかりがで きていた。「大丈夫?」とあちらこちらから声がかかるが誰の声だ か分からない。 「大丈夫?」 「大丈夫?」 顔のない声がハルを包む。それはこの世で一番思いやりのない言葉 に聞こえた。私はこのままでいたい。とハルは声に出したが、小さ なハルの声は誰の耳にも届かなかった。 空には真っ白な入道雲がどんどん膨らんでプールに影を落とした。 今日は雷が来る。早く雨が降ればいいのにとハルは思った。
その音色は既に終わった恋の悲しい記憶を呼び覚ます。全て、何 かに取り付かれたごとく、あいまいなバラードで、愛した女の姿を、 思い出せば、何かが壊れる、破壊音で、眠るのか。ジャズバラード で凍えた心を癒してくれ。何もかもが、終わってくれと、願うもの の、それは結局、古の昔の、寂しい場所での、記憶。 よもやもう会うこともないと思っていたある人物に合う機会に恵 まれた。その人物とは、彼が早稲田大学文学部在学中の頃に、バイ トで知り合ったのだが、付き合っているうちに、彼が普通の感性の 持ち主でないことに気付いた。まず、彼は殆ど大学に行ってなく、 何をしているのかさえも、あまりよく把握出来ないのだけれど、し かしながら、毎日といっていいほどに風俗街に行っていることだけ は知っていた。そこで一体何をしているのかは全くと言っていいほ どに、分からなかった。しかし彼が言うには、自分は寺山修司を尊 崇していて、満月の夜には、必ずストリップに行っている、とのこ とだった。 そんな彼と、久々会ったのだが、依然として彼の正体を知ること はなかったし、それにあまり興味がなかった。電話にて会おうと言 い出したのは彼の方だったし、そして何か意味ありげの口調で、裏 金が入ったとか、芸術的にはやはり俺は非凡な存在だったとか言っ ていたから、また何か新しい事でも始めたのだろうかと思い、会っ てみようとしたまでだ。 彼に会って、その皮肉った笑顔に疑念を懐いた。こいつは一体何 を企んでいるのかといったような。場所は駒沢にある地下の喫茶店 で、客は彼以外にはいなかった。店には、老いぼれたじじいが一人、 薄汚れた眼鏡越しにコーヒーをいれていた。 席についても、視線を合わせづらかった。それこそ二年ぶりだっ たにし、実際俺と彼は、大した仲でもなかったからだ。しばらくし て、いきなり彼は話し出した。 「俺とお前が初めて会ったのを覚えているか。あれはバイトでやっ ていたホストクラブだっただろ。お前は一週間も経たないうちに、 自分には合ってないとか言って辞めたけど、俺はその時既に一年は 続けていたんだよ、この仕事をさ。で、お前が辞めた後、いつもど うりに通っていて、そんなに人気はなかったが、それでも二人くら いは、俺を指名する女がいたんだよ、風俗女だったけどよ、二人と も。そん時は二十歳で、クラブの中ではそんなに若い方じゃあなか ったが、お前は俺より三つ上だから、やっぱその歳になってからじ ゃ続けるのは無理だっただろうな。お前とはその後しばらく連絡を 取り合っていたけど、何となくそれも終わってしまったよな。まあ そんなことはどうでもいいんだよこの際。で、そのクラブでのこと なのだけど、普段どうりにキャッチ終えた後、接客やってたらさ、 見なれない客がいて、フリーだったから、ホストの連中がここぞと ばかりに付いたのさ。結構歳いっている感じで、三十位に見えた。 俺も周りと同じくその女に付いて、くだらねえ話をして、盛り上げ ようと必死になった。女はその手の話には全く興味ない様子だった からカラオケやったりしたが、それにも全く乗ってこなかった。一 時間近く経つと、他のホストは別の客の席に行って、結局その席に は俺と、その女しかいなくなった。その女は確かに少し異質な感じ がしないでもなかった、今思えば。俺が何を聞いても殆ど声を出さ なかったし、この場を楽しんでいるようでもなく、かといって居づ らいというわけでもなさそうだった。そうやっているうちに、自分 も女もしゃべらなくなり沈黙だけがそこを流れるようになった。や ばいなあと思い、何とかしようと会話のねたを探していると、不意 に女が、あなた何をしている人なの、と聞いてきた。俺はその意味 がよく分からなかったから、どういう意味なのか聞くと、あなたの 顔、アーティスティックなのよ、と言った。そんなこと言われたの は初めてだ、と言うと、女は一枚の写真を見せてきた。そして、こ の写真はとても意味の深いものなの、と言い、あなたにあげるわ、 とそれをくれた。俺は何のことやらさっぱり訳が分からなかったが、 その場しのぎで、ああどうも、とそれをあっさりと受け取った。そ の後ほとんど何の会話もなく時は過ぎていき、見かねたホスト達が その場に入ってきて、俺はその席を離れた。やがて時間はそろそろ 終わりという頃になり、客達は夜明けの街へと帰っていった。その 時俺のところに例の女が来て、別れ際にこう言った。あの写真の名 は、ロマネスクAよ。それ以来毎晩のように俺は、奇妙な夢を見続 けた。決まって真夜中にそれを見て、目が覚めことが習慣になって いった。その夢とは、たとえばこんなふうだった。どこか遠い戦場 で、そこは最前線だから激戦が繰り広げられていた。そして俺は、 一人の兵士としてその戦闘に参加していたのだ。いつ死ぬとも分か らない状態。爆音が常に鳴り響き、閃光がその都度ひらめいた。そ して、もう一度、今度は向こうから飛んできた手榴弾が爆発した。 俺はそれを直撃して、爆風に飛ばされ、地面に叩きつけられた。全 身打たれ、意識が朦朧となってくる中で、最後の力を振り絞り向こ うに燃え上がる炎を見た。最後に、俺の視界に映ったのは、最前線 で炎上する火の光の中、真赤なドレスの女が、涼しげな様子で歩い ている姿だった。あるいは、こんな夢も見た。俺は一人、黒の愛車 でドライブしていた。運転していると雨が降りだし、ワイパーを入 れたが、次第に雨が激しくなってきて、前が見えにくくなるほどだ った。ようやくたどり着いた場所は、荒れ狂う日本海で、激しい雨 と寒さで、傘を持つ手が震えていた。一体何のためにこんなところ に来たのだろうと思い、眼の前に広がる荒れる海を見ると、そこに は、サーフボードで楽しそうに軽々と波乗りする、日焼けした少年 が映った。また別の夢で、俺はロック歌手になり、ステージの上で、 響くギターとドラムにのせて声を張り上げていた。スポットライト の内、心地よい汗と、そして歓声。だが、俺の目の前にあるのは、 鬱蒼とした薄暗い不気味な雑木林だった。そういった種類の変な夢 を断続的に見続けるうちに、それらに共通した特徴を見つけ出した。 それは、異なる二種類のフィルムが、重なっているということだ。 また、それと同時期に、ひどい神経痛に悩まされた。左半身がじわ じわと痛み、その苦しみは半端でなかった。俺は、悪夢と神経痛で、 混乱し始めた。だがそんな苦しみの中で、ようやくその原因をつか んだのだ。その原因は、見知らぬ女からもらった、あの写真だとい うことだ。あの写真をもらって、それを机の引出しにしまって時々 見るようになってから、奇妙な夢や原因不明の神経痛に悩まされ出 したのだ」 彼は長く話すと暫くの間、じっとテーブルの一点を凝視して動か なかった。ふと気が付いたように前に置かれたコーヒーを一口啜っ てから、俺の方を見て 「今の話、信じなくてもいいが、とりあえずこの写真はお前にあげ るよ」 と言って、一枚の写真を俺の前に置き、一言軽い挨拶をしただけで そそくさと外に出て行ってしまった。店の戸を押して出る時の彼の 表情は、どことなく晴れやかな感じだった。 俺は呆気にとられて彼の出て行った方を長い間見ていたが、ふい に思い出して、その置かれた写真を見てみた。 何のことはない。単なる黒猫の写真だった。
街にはハデなディスプレーと、ガンガンに流れるBGMが、クリ スマスムードを盛り上げている。 今年のクリスマスイブも、沙也加からの招待状に誘われて、彼女 の部屋の呼び鈴を押すことになった。 「いらっしゃい。沖田さん!」 笑顔の沙也加が、部屋の中にエスコートしてくれる。 やさしいしぐさが、男心をくすぐる。 クリスマスらしい赤のニットスーツが、身体の線を浮きあがらせ ている。大きな瞳と、ツヤツヤした唇、そして白い肌がいつも僕を そそる。沙也加は年をとらない永遠の女性なのだ。 「これ、プレゼント。僕が一番だった?」 クリスマス包装を椅子に置く。テーブルには十人分の料理が並ん でいた。 沙也加はワインを開けながら、上目づかいに僕を見て言った。 「あら? 知らなかったの? 今年は沖田さんと、青木さんだけな のよ。残念だわ。急に淋しくなって…」 ドキッとした。 「他の人は? 何かあった?」 「まあ、どうぞ一杯!」 沙也加はワイングラスにワインを注ぎ、空中で乾杯をした。 「メリークリスマス!」 ワイングラスを傾ける。まるで血のような赤ワインが、胃にしみ わたる。沙也加は、僕の持ってきたクリスマスプレゼントを開けな がら、話を続けた。 「佐藤さんは心不全で八月に亡くなったのよ。清水さんは癌で十月 に、水上さんは交通事故で十一月に…みんなまだ若いのに、急にど うしのかしらね?」 「知らなかったよ…僕は、会社倒産の後始末のために海外に出張し ていて、先週帰ったばかりだからね…みんな、残念なことをした…」 「このクリスマスイブのために帰ってきてくれたのでしょう? う れしいわ。わぁーすごい! とってもよく切れそうなノコギリだわ。 ありがとう!」 沙也加は大切そうに浴室の入り口に置いた。 玄関チャイムが鳴る。 「いらっしゃい! 青木さん!」 「やあ、メリークリスマス!」 部屋に上がった青木は、僕の顔を見ると安心した表情を見せた。 「沖田だけでも来てくれて助かったよ。今年は三人も死んでしまっ たんだ。沖田には連絡がつかないし…今年はひとりかと思って震え 上がっていたよ。会社が倒産したんだってな? 後始末は終わった のか?」 「とりあえず、迷惑を最小限度に押さえたよ」 「青木さんのプレゼントはこれ?」 沙也加は包みを開け始めた。 中には、牛刀が入っていた。 「ありがとう。きれいな牛刀ね。よく切れそうだわ。さあ、パーテ ィーを始めましょう」 僕たちは改めて乾杯をした。僕と青木はいつものように手が震え ていた。 ワインをガブ飲みして忘れようと思ったが、酔うこともできない。 青木と共謀して沙也加のグラスにどんどんと注いだ。沙也加はだん だんと、ろれつが回らなくなっていく。 これではいつもと同じだ。 酔った声で、沙也加が言った。 「もうこんな時間。そろそろかしら?」 ソファーに座っている沙也加の組んだ足から、黒いパンストにお おわれた、白いパンティーが見え隠れする。 僕と青木は目で合図をすると、沙也加を押さえ付けた。 「何するのよ! 嫌!」 全身で抵抗する沙也加の顔を殴った。 「騒ぐと殴るぞ!」 青木の言葉に、沙也加の大きな瞳から涙があふれた。 六年前は、五人で沙也加を強姦した。 大学を卒業する最後のクリスマスイブに、沙也加の部屋を提供し てもらい、ホームパーティーを企画した。男女十人が集まると沙也 加には嘘をつき、沙也加を強姦するパーティーを企画したのだ。当 日、沙也加は適当にごまかし、酒を飲ませ続けた。適度に酔い潰れ たところで、押さえ付けみんなで犯した。 沙也加は男に甘える女なのだが、特定の男をつくらないタイプだ った。イブの晩に集まった五人の男たちは、みんな沙也加に、振ら れた男たちだったのだ。 卒業の開放感も手伝っていた。 ところが、事態はとんでもない方向に進んでいった。沙也加を犯 した後、そのままベットに寝かし、僕たちはビールを飲んでいた。 ときどき沙也加を横目で見ては、自業自得だと納得しようとしてい た。卒業後の話に熱中していたとき、殺気を感じた。 沙也加が包丁を持って立っていたのだ。僕たちの目が包丁に集中 した。 「わたしは、あなたたちなんか嫌いなのよ。他の人の力を借りなく ちゃ何もできない男なんて、我慢できない。これがわたしの気持ち よ!」 沙也加は僕を見つめながら、手首に包丁を入れた。血液は勢い良 く、ドクンドクンと心臓の伸縮に合わせて天井に吹き出した。 「やっちまった!」 沙也加は崩れるように倒れこんだ。 破けたニットスーツの鮮やかな赤と、血の色が対照的だった。血 は空気に触れると鮮やかさを失っていく。 呆然としてはいられない。僕たちには未来がある。就職も決まっ ているし大学卒業ももうすぐだ。沙也加のために、全てを棒に振り たくはなかった。 死体を処理することにした。 できるだけ細かくして、ゴミといっしょに出すことにした。肉を 削ぎ落とし、筋をはがして、骨をノコギリで細かく切った。頭蓋骨 はカナズチで砕いた。脳味噌が飛びはねる。五人で一晩かかって解 体…部屋の掃除をして、それぞれ十一キロの肉を持って部屋を後に した。 その後、沙也加の親が捜索願を出したらしいが、事件は発覚しな かった。沙也加の住んでいたマンションは、老朽化のため半年後に 取り壊された。その時点で、あの事件は闇に葬られたと思っていた。 ところがその年のクリスマスイブの、ホームパーティーの招待状 が、僕たち五人に舞い込んだ。もちろん、沙也加からのものだった。 住所は取り壊されたマンション…五人で行ってみると、あのときの マンションが闇の中から出現した。イブの夜だけ異次元から現れる のだ。沙也加と共に… そしてパーティーが始まる。十時にみんなで、嫌がる沙也加を強 姦。そして沙也加の自殺。いまだに僕を見て手首を切る。死体処理 …十一キロの肉を持ってこの世に戻るのだ。あれから五年間、同じ 事を繰り返してきた。いままでは五人いたから、どうにか続けてこ れたが、今年は二人だ。 朝になっても、死体の処理は終わらなかった。高価な牛刀もノコ ギリも、切れなくなっていた。血と肉の匂いが汗と共に、身体にか らみつく。それでも二十五日の夕方にはどうにか処理し終わった。 でも、ひとり二十七・五キロの肉を処理しなくてはならない。大き な鞄に詰め込み、掃除をしてフラフラになりながら二人でマンショ ンを出た時には、二十六日の早朝になっていた。 青木がつぶやく。 「いつまで続くのかな?」 「沙也加が許すまでだろう…」 「身体大切にしろよな。俺ひとりになったらできないだろうから」 「お互いにな」 二人とも疲れ果てていた。 「じゃあ、来年…」 青木と別れて歩きだすと、車の急ブレーキの音が背中で聞こえた。 青木が車に跳ねられたのだ。急いで駆け付けたが、青木の首は百二 十度以上曲がり、息耐えていた。 朝日が眩しい。どうやって、どこまで歩いてきたかも覚えていな い。 とうとう、ひとりになってしまった。 来年も沙也加からの招待状はくるだろう。 避けられないことだ。ならば、とことん沙也加に付き合うしかな い。一度は惚れた女だ。 一年のうちに、慣れるしかない。 近くの公園で遊んでいる少女が見えた。 まずは、小さな子からだな… 僕は公園に向かって歩いていった。
「すると『さるかに合戦』で、柿にかけた水が今回のターゲットっ て事?」 「あぁ、そうだ」 俺は苦笑いして、呆れ顔のマリエを見た。 「さるかには、佐渡の民話とされているが、敵討ちになる前の話は、 長野県の猿沢村が発祥の地らしい」 「植物だけの成長液ねぇ」 巨漢のモーリスが、伸びをしながら欠伸口調でちゃちゃを入れた。 「しかも依頼主の話によると、持ち出された水の一部は、豆の木に も使われたという事だ」 「こりゃ、いいや」 佐助がニタッと笑った。 「目的の、水についてはいいな?」 「それより、場所が判ってて、何故我々が…?」 右前足を舐めながら、ワトソンが要点を突いてきた。 「うん。行けば判るが、今そこには建物がある。これだ」 プロジェクターで映し出されたスクリーンには、塀の高い建物が 正面から映っていた。門には『オメガ研究所』と書かれている。 「おっと。あれってヤバイ奴じゃなかった?」 寝そべったモーリスが、しっぽをパタンパタンさせて唸った。 「その通り。あそこに入って戻った奴はいないという噂もある」 マリエは俺に身体を摺り寄せ、しっぽを絡めてきた。 「ふん。それはそうと、水が出る場所の特定は?」 ワトソンが話を進めろと、しっぽで床を鳴らす。 「あぁ。これだ」 ポンと置かれた様に、3メートル程の高さの岩が、スクリーンに 映った。大写しになった岩の上の窪みには、水が溜まっている。 「ヒトは気づいてないのか?」 金色の左目を光らせ、ワトソンはヒゲの手入れをしている。 「雨水だと思っているようだ」 競争相手は、又イヌ族になるだろう事を知らせ、俺達は作戦を開 始した。 俺達は、配送会社に住むミーばあさんに調達して貰った車に乗り 込み、身体を休めた。 『そいつを捕まえろ』 気がつくと、周りをヒトが囲んでいた。手当たり次第に引っ掻い て戦ったが、結局捕まってしまった。放り込まれた檻の隣には、既 に仲間達がいた。逃げ出す方法を検討していると、マリエだけが檻 から連れ出され、扉の向こう側へ消えた。 「おい。もう着くぞ」 ワトソンが皆に声をかけている。目が覚めた俺は伸びをすると、 荷台から外の景色を覗いた。まったく嫌な夢を見ちまった。こうい う夢はよく当たる…。 着いた車から降りると、まずは仲間に挨拶。それが掟だ。 ちょうど通りかかったレディーに、俺は声をかけた。 (彼女、俺達ゃ東京から来たんだが、長老に挨拶したいんだがね) 女は目をパチパチさせ、ちょっと興奮した声で案内してくれた。 (おぅ。はるばる東京からのう) 長老が挨拶の終わった俺達を眺め回した。 (ところで長老。オメガ研究所へ行きたいんで、案内をお願いした いんですよ) 途端にざわついた。 (オメガって、あの、動物実験のかい?) (そうです) 長老は迷った様だが、ダンスというぶちを案内に付けてくれた。 俺達はダンスを先頭に山道を、走りに走った。昼を過ぎた頃、突 然ダンスが立ち止まった。 (わ・私が案内できるのは、こ・こここ迄です。この坂を下ると建 物が見えます…。そ・それがオメガです。そ・それじゃ…) 最後まで言わずに、ダンスは振り返りもせず、来た道を物凄い勢 いで帰って行った。 (なんだあの野郎。こんな所にほっぽり出しゃがって) 佐助は毒づいたが、オメガの恐ろしさが染み付いた彼らを、責め られはしまい。 坂を下ると、研究所の前だった。 突然イヌ供がまわりを囲んだ。風上だったから気がつかなかった が、どうやら奴等は入れないでいたらしい。俺達は仲間の身体を踏 み台代わりに、門を跳び超え中へ入った。身体の小さい佐助だけは 門の隙間から、中へとすり抜ける。 (おあい憎様) 俺達が奴等にしっぽを振っていると、バラバラとヒトが現れた。 「ミャー!」 俺達は慌てて逃げ出した。 『そっちにいるぞ』 気がつくと、俺は仲間とはぐれ、ヒトに囲まれていた。みんな大 丈夫だろうか。…だが、後は夢と同じだった。マリエはヒトに連れ られ扉の向こう側へ消えた。早く助けなければ…。俺は焦った。 気が付くと、オリの向こうにネズミがしゃがんでいた。 「おい、ネズ公。ちょっとここを開けちゃくれないか」 不埒にも、奴は歯向かった。 「おや、猫は喋れたのか。俺はもっと低能だと思ってたよ。だがな 頼み事をする態度じゃないねェ」 カチンと来たが、ここで怒ってしまってはチャンスが無くなる。 俺は内懐からソフトイカの束を出すと、オリの外に放った。 「これで、何とか頼むよ」 ネズ公は、俺を食うんじゃないぞと言いながら、オリを開けた。 本来はこんな奴にバカにされたままではいられないが、緊急の場合 だから目をつぶった。仲間をオリから出すと、マリエが連れ去られ た扉へ…。 隙間から滑り込むと、マリエはヒトに抱かれて食事をしていた。 どうやら切り刻まれる事はなさそうだ。さすがにペルシャは違う。 俺達はマリエに目配せし、部屋を抜け出した。マリエは機会を覗っ ていたが、結局逃げ出せたのは夜中だった。 脱出したのはいいが、外にはイヌ供が待ち構えていた。奴等もさ すがに中に入れた様だが、目的の水が高い所にあるので、確保出来 ないでいたらしい。準備もしていないとは、知能程度が知れるとい うものだ。 だが俺達も、奴らがいては近づけない。睨み合いが続いた。 東の空が赤くなり、夜が明け始めた。あせってきたのだろう。奴 らは秘密兵器を出してきて、膠着状態は終わった。 「ほーれ」 奴らの一人が、つり竿の先についたポンポンを目の前にぶら提げ た。 くーっ。我慢できない。どうしてもジャレてしまう。俺とワトソ ンは二人で、ポンポンを取り合った。 向こうでは、マリエが毛糸玉を前足で右や左に動かしている。佐 助やモーリスも、ネコじゃらしで操られていた。 俺は気力を振り絞り、隠していたホネを出すと、奴らの目の前に 掲げた。思った通りやつらの目は、早く投げてくれと輝いている。 俺がホネを遠くへ放ると、奴らは一目散に走り始めた。勝ちは貰 った。 「佐助、ワトソン。頼むぞ」 そう言うと、俺はボールとフリスビーも置いて、モーリスとマリ エを従え、目的の岩に向かった。 持ってきたビンになんとか岩の水を汲んでいると、イヌ供がやっ てきた。 さすがに数で有利なイヌ供だ、長い時間は騙せなかった様だ。 「そのビンを、こっちに渡して貰おうか」 俺は抱えていたポンポンを落とすと、ビンのふたを閉め、岩から 飛び降りた。 「ほらよ」 俺はビンを奴らに渡し、仲間同士で固まった。 イヌ供は岩に取り付き、各々小便をすると、ロープを掛けた。 何をする気か知らないが、もう直ぐヒトが起き出す。 イヌ供はロープを持ち、引っ張った。 倒れた岩は、以外にも、あっさり砕けてしまった。 奴らも水を奪われない様に考えたらしい。念入りなこった。 高笑いしてビンを持っているブルに、俺は声をかけた。 「今回は負けたよ」 「当たり前だ。イヌはネコより強いんだよ。ヒッヒッヒッ…」 俺は落ちていたホネを拾うと、奴に放った。 「ほら。プレゼントだ」 奴は目の前に放られたホネを、慌てて受け取った。 短い手が災いしたのか、ビンの水は地面に染みこんだ。 「おっと。引き分けだったね」 俺達は、さっさと研究所を後にした。イヌにもヒトにも、捕まり たくはない。 俺は、逃げる時に拾ったポンポンを、染みこんだ水と一緒に依頼 主に送った。後は彼らが分析するだろう。依頼は達成した。
ストッキングの端を膝の上まで引き上げて、ガーターベルトの金 具にはめ込む。洗面所から男の声がする。 「何」 「ちょっと頼む」 男の背後から近付く自分の姿が鏡に映る。化粧は剥げて髪は乱れ たまま。 「何かご用ですか」 「ちょっと釦はめてくれない?」 「こんなの着ちゃって」 襟の後ろの小さな釦をはめてやる。男は細い櫛で髪をとかす。 「何時?」 「まずいわよ、急がないと」 私は男から離れると床に落ちたスカートを拾い上げて、素早く両 足を通す。ショルダーバッグを抱えて、男の背中を追う。扉を開け て逃げるように部屋から出て、エレベーターの前に立つ。 上りのエレベーターの中では私の頬まで手を伸ばす男も、下りの 中では決してそんなことはしない。大抵、いつもそうだった。そう。 そういうものだ。 不謹慎なことをまた私は考えている。会議に向かうエレベーター の中で、これよりは一回りも二回りも小さい箱の中での出来事を思 い出している。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、人さし指の関節を自 分の頬に軽くあててみる。エレベーターが止まる。私は慌てて腕を 下ろす。 扉が開いてチャコールグレーのスーツを着た彼が乗って来る。私 の顔を見て、軽く笑う。笑みを返す。扉が閉まる。 「聞いたよ」 「へえ。早いのね」 「少しは相手を選べよ」 「選んでるわよ」 彼は私にまっすぐ視線を下ろす。私は一瞬見返して、そしてやは り視線を逸らす。 「趣味が悪いぞ」 「前からよ」 「そうか」 「そうよ」 私は無理して笑ってみせる。きっと醜い顔に違いない。だけど関 係ないよ、と心の中で呟いてみる。今さらそんなこと、この人には 関係ない。 「もっとかわいい笑顔だったよ」 エレベーターが止まる。扉が開く。 「ふざけるな」 「え」 「ふざけるな」 扉の全開より一瞬早くエレベーターを下りて、私は会議室に向か って大股で歩く。髪が揺れて耳元でばさばさ鳴る。パンプスの踵が 廊下を蹴る音に妙に苛つく。目の前のドアノブを勢いをつけて回し て引く。 一歩踏み込んで出席者の視線を浴びるとき、もうそんなことはす っかり慣れているはずなのに、晒し者になったような悪寒が体中を 走る。私は歯を食いしばってまわりを見渡してから席につく。ため 息を一つ、誰にも聞かれないようにゆっくりと。目を閉じて微笑ん でみる。瞼の裏に自分の笑顔を描いて、それに追いついてみようと する。遅いかも知れない。細いため息がまた一つ。議長が口を開く。 私は目を開けて、胸ポケットからクロスのボールペンを引き抜き、 ペン先を手元の資料の上ですべらせる。ただ、機械的にすべらせて ゆく。 まあ、縁がなかったんだよ。 彼はキャビンマイルドの灰を、指先でトントンと落としながら言 った。行きつけの居酒屋のカウンターで。私の顔は見なかった。た だ横顔を見せるだけだった。そうね、と私は答えた。やたらに瞬き をして、目の前の琥珀色を湛えたグラスの映像をぶれさせて遊んだ。 あまり長引かせると君だって困るだろう。 琥珀色のウイスキーグラスの表面の滴を、私は瞬きで飛ばしてみ ようとする。さらに細かく瞼を動かす。口の端がなぜか自然に震え 始める。喉が痛い。酔っているから、と私は思った。今頃になって 酔いが全身に隙間なく染み通ってきたのだ。いつか、醒める。 いつのまにか、資料の上のペン先が止まっていた。微かに首を横 に振る。まだ、醒めないか。 「仕事なんかやめてさ」 軽薄な男だ、と私は内心呆れながら聞いている。ありがたい申し 出とは、どうしても思えない。ただ滑稽なだけだ。 「いつまでも若くはないんだし」 「あたしの評判、聞いてないの?」 男の顔がにわかに曇る。顔が曇る、とはよく言ったものだと私は 思う。 「そんなつもりはないって、わかってると思ってたんだけど」 「そうか」 男は唸るような声で言ってうつむく。 「評判どおりだってことか」 「そう、ね」 男は私の顔を見据える。汚らわしいものを見るように、眉をひそ めて。何さ、寂しさを紛らわすための思いつきなだけのくせに。 「参ったね。そんな女は小説の中にしかいないと思ってた」 女。負け犬の笑みを男は浮かべる。私は声にしないで悪態をつく。 あんたみたいにね、あんたみたいにボタンダウンシャツの似合わな い男なんか、全然趣味じゃないのよ。デミタスカップを口元までゆ っくりと運び、冷め切って苦いだけの液体をすする。ただ、たまに 小綺麗なレストランでコース料理を食べたかっただけよ。 彼は、そんなところになど一度も連れて行ってくれたことがなか った。だから。 それでも喜んでついて行ったなんて、私も随分お安い女の子だっ たわけだ。バカな女だ。この男をバカだと笑う資格がどこにあるだ ろう。 じゃさよなら、と店を出ると男は言った。さよなら、と私は答え た。男は背中を丸めて駅へ歩いてゆく。ごめん、と私は気休めに呟 いて、男に背を向けてあてもなく歩き出した。 あてもなくなんていうのは嘘なのだ。私はどこかへ急いでいる。 耳元で髪をばさばさ言わせて、早足で歩いている。何を今さら、と 声が出てはっとする。まったくだ。急にまた今さらどうして、そこ に行こうとするのだろう。思いながらも足は止まらない。 小さな路地へ私は入る。もうしばらく来ていないのに、その猥雑 な光景が作る空気に、すうっと体が馴染む心地よさを感じる。一軒 の飲み屋の看板の前で両足をそろえて佇む。やはりここまで来てし まった。だけど一体どうするつもりなのか。何の計算もたっていな いくせに。いつもそうなのだ。それでいつも笑われた。彼に。それ でどうするつもりだったんだよ。言われて私は立ち竦む。いつもそ うだった。 行き場所なんかないんだよ。どこに行こうにも袋小路なんだ。 それは私のことよ。あなたのことじゃない。私は心の中で叫ぶ。 いま、叫ぶ。放っといてよ、私のことなんか。私の気持ちのことな んか。あなたは好きにしてればいい。いい人ぶらないで、今さら。 もう遅いんだから。 がたつく引き戸を私は開ける。煙で濁った空気の向こうに、上着 を脱いだ彼の背中が見える。パンプスの音をたてて、私は近付く。 そこに立つ瞬間に彼が顔を上げる。私はまっすぐ彼を見下ろす。 何が言いたかったのか、何を聞きたかったのか、それらは沢山あ った気がするのに、口許には何事も上ってこない。私はただ黙って 彼の目を見る。彼は小さく舌打ちをしてから、カウンターに置かれ た煙草とライターを胸ポケットにしまい、立ち上がる。 勘定を済ませている間に一足早く外へ出た私の体を、いやらしい 温い風が撫でてゆく。私は小さく舌打ちする。引き戸が開いて彼が 姿を現す。 「なぜ、来た」 ちらと私の顔に一瞥をくれてすぐに歩き出す。私は黙ってついて ゆく。 「何か用なのか」 「別に」 私は答えを投げつける。彼は人通りのない細い道に曲がる。 「どういうつもりなんだよ」 立ち止まって私を振り返る。私は黙って見上げる。 「わからないのか。どうにもならないんだよ。そう、君は趣味が悪 すぎる。何も女房持ちなんかに執着するこたあないだろう」 「わかってるわよ」 なま暖かい風を感じながらも、私の声は震えてくる。彼の手が私 の肩に触れる。私の体は支えを求めてそちらへ傾れ込む。 「遊びだったはずじゃないか」 「そのまま続けるだけよ」 彼の首筋に自分の頬を押し付けながら、懐かしい汗の匂いを嗅い で目を閉じる。バカな女だ、と耳元で彼が囁いた。
がりっ。 音を立てて、プラスチックに傷がついた。 透明な結晶は固い。 ゆっくりと結晶をすり潰すと、白い粉になっていく。それから粉 を集め、一センチほどの筋にした。 細いストローの片方を粉にあてがい、もう片方を鼻の穴に添え、 一気に吸い込んだ。 鼻の粘膜から粉の成分が吸収されていく……。 「ふぅ……」 赤井三郎の頭は、もやが晴れるようにすっきり覚醒して行った。 覚醒剤の名前通りに。 「さて、仕事に戻るか」 赤井はトイレの個室から出て、鏡を見る。今の彼の顔は、憂鬱そ うだった五分前とは全くの別人だった。明るく元気良く自信に満ち、 取引先の相手にも好印象を与えること間違いなしに見える。 現に、クスリを使い始めてから、成績は段違いだった。リストラ の圧力も、いつの間にか消えてしまった。 「でも、中毒になる前に、やめた方がいいんだろうな……」 ぽつりと――だが、クスリのお陰で割と明るく赤井は呟いた。 「いやあ、今日も契約取れて、よかったよかった」 浮かれ気分で、赤井は八畳一間のアパートに帰ってきた。 帰り道で買った弁当を開ける。 「いっただっきまーす」 クスリも程良く切れ、食は進んだ。 「あー旨い。仕事もうまく行くし、気も楽だし、これならグラム二 万円でも充分元が取れるってもんだよなぁ。やめられないねぇ」 独り言を言いながら、箸を動かす。 ――と、その時。 妙な視線を感じた。 「?」 ふと見ると、テーブルの向こうに幼い女の子が座って、彼をじっ と見ていた。 「??」 女の子は赤井と目が合うと、にっこり微笑んだ。歳の頃は四、五 歳、髪はおかっぱで、血色のいい赤い顔をしており、着物を着てい る。 「いつの間に入ったんだ?」 だが、女の子は何も喋らない。 「不法侵入だの何だの言う気はないが、こんな夜遅くにどうした? 親が心配するから帰れ?」 聞こえているのかいないのか、女の子はただ微笑んでいた。 「しょうがないな。家はどこだ? 連れてってやるから」 赤井は、立ち上がると女の子の手を掴んで立ち上がらせようとし た。 ところが。 「え?」 女の子に触れることはできなかった。まるで、煙を掴もうとして いるかのように、指先が素通りした。 「な、ななぁ!?」 女の子は『分かったか』とでもいいたげに、にんまり笑った。 「や、やばい」 赤井の表情は凍り付いた。 「げ、幻覚だ……」 「そ、そんな馬鹿な……」 翌日出社した赤井は、机についたままで、呆然と呟く。 幻覚は覚醒剤依存の末期症状。 「……まさか、こんなに早く」 この一ヶ月ほど、仕事も忙しく使うことが多かったが、それほど 強烈な依存症になっているとも思えない。 「どうした赤井、元気ないな。らしくないぞ」 隣に座っていた同僚の村田が小声で尋ねる。 「な、なんでもない」 赤井は無理に笑いを浮かべ目の前の書類を漫然と見つめながら、 周囲を伺う。 女の子も幻覚も見えない。 「そ、そうだよな。まさか、こんな段階で見えるわけが……」 彼は固い笑いを浮かべた。 「すぅーーはぁーー」 アパートの自分の部屋の前で、赤井は大きく深呼吸をした。 「家だけで見える幻覚なんてあり得ないもんな、うん」 自分に言い聞かせるように呟きながら、彼はドアノブに手を掛け、 恐る恐る廻した。 それから、ドアのそばにある電灯のスイッチを押す。 蛍光灯がまたたきながら灯り、部屋の中が明るく照らされた。 部屋の中には、人影も気配もない。 「はぁ、よかった、俺は正常だ……」 安心して、部屋に入りふと横を向いた時。 ドアのすぐそばの場所にいた女の子と、見事に視線が合った。 「!!」 赤井はぺたりとその場に腰を降ろす。 「な、なな、なんで、また幻覚が! 今日は一本もやってないぞ!」 彼の心中を知ってか知らずか、女の子はにっこりと微笑んだ。 「ば、ば、馬鹿な……」 赤井はバッグの中から、覚醒剤と吸引用ストローの入ったカセッ トテープケースを取り出した。 「じょ、冗談じゃない、俺はただ仕事の成績を上げたかっただけだ。 人間やめる気なんかねえ!」 恐怖に震える手で、ケースの中から覚醒剤の入ったビニール袋を 取り出す。 「こ、こんな」 彼は流し台の上で、ビニール袋を引き裂いた。 ステンレスの流し台の上に散らばった白い結晶を、大量の水で流 す。 「こんなにすぐに、中毒者になるなんて、聞いてないぞ!」 カセットテープのケースも叩き割り、ゴミ箱に放り込む。それか ら、クスリを売ってくれた知人の電話番号も携帯電話から消去し、 メモは焼き捨てた。 「他に、なんか、なんかないか!」 机の引き出しを全てひっくり返す。中身の一つが女の子の方に飛 んだが、素通りしただけだった。 「げ、幻覚め……」 ぶちまけられた引き出しの中身を漁り、買い置きの覚醒剤の袋を 引き裂き、先ほどと同じように流しに捨てる。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」 その様子を、女の子は不思議そうに眺めていたが、つ、といなく なってしまった。 「なんだ、お前クスリなんかやってたのか?」 昼休み、会社の屋上で赤井と共に昼食をとっていた村田が呆れ顔 をした。 「も、もうやめた。一ヶ月前すっぱりな」 赤井は応えながらコンビニ弁当を食べる。 「それにしても、子供の幻覚ねぇ」 「ああ。やめたってのに、たまに見えたりするんだ。フラッシュバ ックって奴かも知れねえ」 「本当かよ? そこまでひどいジャンキーには見えなかったぞ? 前に本で読んだが、幻覚なんかかなりの常習者にならないと見えな いんだろ?」 「俺もそのつもりだったが、身体の方が正直だったってとこかな… …」 「どんなペースでやってたんだ?」 「大事な商談の前とかに、一本な」 「注射か?」 「まさか。粉を吸うだけだ」 「効くのか?」 「ああ、とっても」 「ふーむ」 村田は何度か頷いていたが、ふと赤井を見た。 「ところで、幻覚ってのはその子供だけか? なんかこう、尾 けられてるとか、部屋の隅から虫が湧くとか、そんなのはなかった か?」 「そいういう例もあるらしいな。けど、俺は子供だけだ」 「で、その子供の特徴は?」 「ええとなぁ――」 赤井は、思い付く限りの特徴を話す。 「……それって、本当に幻覚だったのか? 何かの見間違いとか」 「見えるが触れなかったんだ。他になんだってんだよ?」 「ひょっとして、だが」 眉をひそめ、村田は首を傾げる。 「それって、座敷童じゃねえか?」 「座敷童?」 「ほれ、家に憑く幸せをもたらすって妖怪」 「妖怪? んなわけないだろ」 「でもなぁ」 「あーあ、あんな幻覚見ちまうとは、かなわないな」 弁当を食べ終えた赤井は伸びをする。 「もうクスリはこりごりだ」 「でも、座敷童にそっくりなんだがなぁ。一つぐらいいいこととか 起こらなかったか?」 「もうその話はやめろっての」 赤井は立ち上がった。 「大体、いいことどころか、クスリが使えなくなって成績も落ちて んだ」 「しかしなぁ。本当にないか?」 「ねえっての。さ、休み時間も終わりだ、外回り外回りっと」 とても、とても晴れやかに赤井は笑って、ゴミ箱に空の弁当パッ クを投げ捨てた。
真夜中の境内に、どこからともなくわらわらと人々が集まって来 て、11時50分を過ぎる頃になると、狭い参道が大方うめつくさ れる。神主をはじめ、白い装束を身にまとった人々の顔つきには、 神妙な中にも年に一度の書き入れ時といった興奮がうかがえる。 12時を回ってしばらくしても、列はなかなか前に進まなくて、 脇から照りつける焚き火の炎がいつまでも熱い。それでも私はじっ と、赤いうごめきを見つめている。ムツキの存在が火の熱さよりも くすぐったく思えたから。 ようやく列が動き出すと、ムツキは「タケヒコさん、小銭を」と 言って5円玉を私の手に握らせた。炎が一瞬遠ざかり、肩のそばに あるムツキの横顔が目に入る。 「ああ」と私は呟く。それが5円玉への返事であることを分かっ てもらうために、「神様とご縁がありますように、か」と付け足し てみる。列が少し進んで、ムツキは黙って丸い足を石畳の上に置い た。 みかんの皮が奥歯に引っ掛かってなかなか取れない。紅白歌合戦 を見ながら、私たちはみかんを17個食べた。駅前のスーパーでみ かんと一緒に切り餅を買った。元旦には、ムツキが雑煮でも作って くれそうな気がした。それにしても、みかんの皮を歯にくっつけた まま神様の前に進み出るのは、なんだか不謹慎な気もした。 12月29日の朝、見知らぬ女がベッドの中にいた。私は驚いて 起き上がり、激しく息をついた。カーテンを開け放ち、白い陽の光 浴びてもびくともせず、女は陽だまりにいる猫みたいにやすやすと 寝息を立てている。 私はひとまず台所に退却し、エコーをふかしながら女の寝姿を眺 めた。確かに昨夜はしたたか酔っていて、どうやって家に帰って来 たのか覚えていない。だからといって、そう簡単に見知らぬ女と一 緒に寝ているわけにもいかない。商売女があんなに無防備に寝てい るはずもない。 何か思い出せないものか。そう言えば鼻の奥がしみるように痛い。 昨夜もいつもの芸をやってしまったのか。それは煙草を鼻から吸っ て煙を両耳の穴から吐き出すというシンプルな芸だが、誰にでも真 似のできるものではない。 何とかそれが手掛かりにならないかと痛みを堪え、鼻の穴に煙草 を詰めてみた。耳から煙が立ち昇ってもなかなか思い出せない。仕 方なく、もう一方の鼻の穴にも煙草を詰め、火をつける。そして目 をつぶり、暗い意識をさかのぼっていく。鼻と耳の両穴から煙が立 ち昇り、目からは涙が流れ出た。見た目の壮観さにもかかわらず、 記憶は一向に蘇らなかった。 今となっては、ムツキとだいぶ前に出会っていたような気がする。 子供の頃。いつの時代の子供の頃かは分からない。「かもめかもめ、 かごのなかのとりは」で始まって、「うしろのしょうめんだあれ」 とみんなが声を合わせる。確かに4、5人の子供たちが私を取り囲 んでいたはずだった。しかし、目を開けると誰もいない。真後ろを 振り返ると、そこにムツキだけが立っている。 「みんな、どこへいったの?」 「わかんない。でもほんとうははじめから、私たちしかいなかった の」 ふと辺りを見渡すと、のどかな田園だった場所が、暗い森の中に なっている。道もなく、生きるものの気配もなく、私たちはその場 所にとり残されている。 女は目を覚ますと、上半身をもっさりと起こし、右、左、右と虚 ろに周囲を見回した。何ひとつ衣は着ていない。ベッドの下に、光 沢のある小さな布が落ちてる。おそらく、布団に隠された下半身も すべて裸であり、そういう状態の女と私は一緒に寝ていたのだ。や やあって女と目が合った。女の表情にも、裸の上半身にも、そうし た状況に有って然るべき緊張感が欠落していた。 「あなた、だれ?」と女は言った。 私は、仮にも30年近く生きてきた私という存在について、何を どう説明すればいいのか分からなかった。とりあえず現実的になろ うと思った。 「君は昨夜のこと、覚えてる?」 「下北沢で友達と飲んでた」 「その後は?」 女は首を振り、投げ出されたままの乳をようやく布団の中にしま った。 「ここは青梅だ」あくまで厳格に。「そして、下北沢からは遠い」 「そんなこと知らないわ。それより」と言って女は布団から片手を 出した。「ねえ、昨夜あたしに変なことしたでしょ?」 私は鼻の穴から吸い殻を抜き取った。 「ここは青梅です」私は早口になった。「僕は新宿、君は下北沢で 飲んでいて、今は青梅にいる。ただそれだけじゃないのかな。君は 裸のようだけど、自分で脱いだのかもしれないし」 女は即座に、落ち着いた口調で言った。 「それくらい分かるのよ。いつ、どこでが分からなくても、誰と寝 たのかくらい、ちゃんと分かるの」 朝に鳴く鳥が、チチチチと時を刻んだ。 「避妊してくれた? 昨日はだめな日だったんだけど」 私は女の顔をじっと見つめた。部屋に差し込む光が少しずつ濁っ ていく。朝に鳴く鳥は、1日に1度しか鳴かない。 女は別段腹を立てている風でもなかった。私がベッドの下に散ら かっていた衣類を手渡すと、じつにのんびりとそれらを身に付けた。 そして枕元の鏡を覗き込んで無造作に短い髪を整え、あくびをひと つした。不意に窓の外で、チチチチと鳴き声がした。私は慌てて鳥 の姿を探す。女が私の財布の中身を確かめている。 「何とか正月は迎えられそうね」と言って女は現金をシーツの上に 並べた。「このクレジットカードは使えるのかしら、ツダ・タケヒ コさん」 「きみ、ここに泊まるの?」 「大丈夫、ちゃんと生理がきたら出ていくから」 ガゴノナカノトリハ、イツイツデヤル? 私は記憶の糸を辿り続 けていた。どこかにヒントがあるような気がしたのだ。もう一度、 気を入れて煙草を鼻に詰め込み、目を閉じる。 しかし、女の言葉が糸を混線させる。掃除用具はどこにある、朝 ご飯は何にする、近所にスーパーはあるのか云々、現実を突き付け る。私はほどなく、有り合わせの材料で作った朝食を女と一緒に食 べている。 「ムツキって呼んでね。正月だから、ムツキ。いい名前だと思わな い? タケヒコさん」 私は引き込まれるように「ああ」と頷いていた。 5円玉を投げて、いちおう神妙な顔を作ってみる。ムツキはもう 目を閉じて神様に手を合わせている。切れ長の目の縁にやや力が入 って、微かに震えている。 背後に控える忙しないざわめきに押されて、私も目を閉じる。し かし、暗い目蓋の中に祈るべき言葉が浮かんでこない。とりあえず、 何でもいいじゃないかと思っても、その取りあえずが浮かばない。 何だか神様に試されているようで、辛くなって目を開けると、ムツ キがじっと私の横顔を見つめていた。 「後ろが、つかえてるから」 ムツキの手に引かれて、また焚き火の前までやって来た。 「タケヒコさん、ずい分長いこと祈ってたのね」 私たちは冷えきった両手を炎にかざした。 「あたしのことも祈ってくれた?」 「ああ」 「子供のことは?」 「子供?」 私はムツキとのいきさつがよく分からなくなっている。わずか数 日のうちに、それは私の日常になっていた。いや、もしかしたら、 ずっと昔から、「かもめかもめ」の昔からムツキと一緒に暮らして いたような気もするのだ。 「子供のことも、もちろん祈ったよ」 その続きは聞かずに、ムツキはふふ、と笑った。私もまた、紅く 染まったムツキの頬に、ふふ、と笑った。 すっかり暖まって、何となくいい気持ちになって、私たちは暗い 道を歩き始めた。
「お集まりの紳士淑女の皆様。ここに居ります少女こそ、四千有余 年の間、世界各地で語り継がれた『人狼伝説』の生き証人、幻の 『狼娘』でございます。これまでは、満月の夜にしかその変身は見 られませんでしたが、有名大学の先生方のご研究の成果により、満 月に等しい光線を放つこの特殊ランプが発明され、この光線を照射 するだけで、奇々怪々な変身をご覧に入れられる運びと成りました。 さあさあ、とくとご覧あれ、ただ今娘の頭上の特殊ランプが灯りま す。あらあら不思議、清楚可憐な口許が耳まで裂けんばかりに広が って、涼しげだった瞳から獰猛な炎が燃え立って参るのがご覧頂け ますでしょうか。ほんの一瞬照射しただけでこれだけの変化をもた らすこの特殊ランプの光線を、テントの中で十分間照射したなら、 さて、どうなりますか。世紀の変身をテントの中でごゆっくりとご 鑑賞下さい」 シルクハットに黒マント、いかにも怪しげな中年男が壇上で叫ん でいた。その隣には、大きなガラスケースの中に狼娘が着席してい た。狼娘は、日本髪に和服、たすき掛けに鉢巻きを巻いて、ご丁寧 にフリルの付いた大型のエプロンを掛けていた。十七、八歳くらい だろうか、中年男のだみ声に合わせて特殊ランプが点灯する度に恐 ろしげな顔を作ってみせるが、その時以外はとても可愛らしい笑顔 をしていた。 微熱を理由に学校を早退し、私鉄に乗って自宅のある駅まで戻り、 改札を出ると駅前ロータリーの特設広場に見世物小屋がいくつも出 ていた。僕は時間潰しに一通り見て回った。「狼娘」の小屋の前に は、小一時間も立っていただろうか。その間に一度テントの中で世 紀のショーが催され、少女は変身を遂げたようだが、僕はもちろん 中に入ったりはしなかった。入場料が惜しいわけではなかった。イ ンチキは嫌いだったからだ。 「担任の先生がわざわざお電話下さったのよ。熱が出て学校早引け するの貴方、今学期になってから四回目でしょう。身体面というよ りも何か精神面で問題があるんじゃないかって、先生随分心配され てたわよ。大丈夫? 学校で嫌な事でもあったの? 誰かに意地悪 されてるんじゃないの? 知恵熱かしら? お医者様お呼びする? 登校拒否なの? まさかねえ。カウンセラーの先生の方がいいかし ら? 青少年非行電話相談……」 自宅のドアを開けてから自室のドアを閉じるまで、母は話しつづ けた。僕は、「疲れたから寝る」とだけ答えた。熱が出たのは事実 だったが、別に身体や精神に異常をきたしたわけではなかった。学 校は嫌な事だらけで、意地悪や仲違いは日常沙汰だったが、それく らいのストレスに負けるわけもなかった。要するに、今日は学校に いたくなかったので、熱を出して早退したのだ。そう、発熱ぐらい いつでも出来る。小さい頃からの鍛練の賜物として、僕の体には随 意発熱機能が備わっていたのだ。悪友からは「微熱少年」とも呼ば れていた。 夕方、部屋でゴロゴロしているのにも飽きて、遅刻して出かけた 塾からの帰り道、商店街を歩いていると、「三上君」と名前を呼ば れた。振り返ると狼娘が笑って立っていた。 「何故?」 「テレパシー、嘘、君学校の制服に名札付けたままだったじゃない」 「ああ」 「随分『人狼伝説』に興味が有る様ね。平日の午後、三時間も眺め ていた中学生は珍しいわ。」 「いいえ、学校を早退したんで、時間を持て余していたんです」い いや、君の笑顔に見惚れてたんだよ 「ズル休みね。ルール違反はいけないな」 「いや、本当に少し熱があって、調子が悪かったんです。それに 『人狼伝説』なんてインチキに決まってるし」 「インチキ? だって君、テントの中に入ってないでしょう。自分 で見てもいないでインチキだなんて判るの?」 「そんなのそうに決まってるじゃないですか」 「そう、そんな風になんでも決まってると思ってしまうのって、そ れはとても悲しい考え方だわね」 「あら、ミカったらこの街に来て三日でもう彼氏を見つけたの? それも年下の可愛い少年じゃない」狼娘の後ろから火吹き女が声を 掛けてきた。その後ろには、イタチ女と女占星術師も見えた。 僕は「じゃあ」とその場を足早に立ち去った。悲しい考え方なも んか。インチキはインチキだ。 それから一週間が過ぎた。僕は、狼娘の言葉が引っかかったわけ ではないが、欠席、遅刻、早退もせず、真面目に学校へ行き、クラ ブ活動に汗したりした。駅前を通るたびに狼娘の事が気になったが、 いまさらガラスケース越しに眺める気にもならなかった。 「……この沿線でも有数の高級住宅街であり、文教地区にも指定さ れている当駅の駅前ロータリーに、詐欺まがいの小屋掛け興行を誘 致するとは、たとえ一時的なイベントだとしても許されない事であ り……」スピーカーががなる。 「……市長は我々市民に、今時『狼男』や『イタチ女』を信じろと でも言うのか。第一、虚言により料金を受諾するは立派な犯罪行為 ではないか。公共性の高い駅前広場での犯罪行為に対して、警察が 手を拱いているのは、如何なものか……」地域報のコラムニストが 書き立てる。 新人市長の思惑は大きく外れ、市民は昔ながらの見世物小屋を楽 しむどころか批判が相次いだ。 犯罪行為とまで言われては、黙って見過ごすわけにもいかず、警 察の立ち入り検査、関係者への事情聴取が行われ、駅前ロータリー の見世物小屋は軒並み臨時休業となってしまった。 「三上君、また学校さぼってんの?」前と同じ商店街でまた、狼娘 に声を掛けられた。 「今日は勤労感謝の日ですよ」 「あっそうか。君あれから一度も見に来てくれないじゃないの。た まには遊びに来てくれないとお姉さん淋しいな。なあんてね」 「警察に調べられて、インチキがばれて、小屋閉めてるんでしょう。 もうすぐこの街からも追い出されちゃうんでしょう?」 「インチキじゃないし、ばれてもいないわ。でも、この街にはもう 居られないかもしれないわね。また場所を代えて稼ぐだけよ。世間 はね、好奇心の固まりだもの。何処でだって稼げるわ。まったく、 警察沙汰には参ったわね。ぜんぜん信じてくれないし、大学の研究 所に連れて行かれて、DNA鑑定だなんだって、色々検査されちゃ うし」 「検査の結果が出れば、今度こそはっきりするんでしょう?」 「そうね。結果が出れば……。世間なんていつでもそうよ。最初は ちょっとした恐いもの見たさ、でもすぐにそれだけじゃ飽き足らな くなって、全てを白日の下にさらけ出そうとする。そして、自分達 と違ったものをもて囃し、それに飽きると今度は恐ろしくなる。自 分達と違うことを毛嫌いし、根絶やしにしようとする。残酷なもの ね」 何だかおかしな話の行方に狼娘が何を示唆しようとしているのか 考えていると、いつのまにか、シルクハットに黒マントの中年男が 立っていた。それに気付くと狼娘は、「もう行くわ。三上君さよう なら。元気でね」と言った。 その夜、地元の警察に押し入った二人組みは、現金や武器弾薬に は見向きもせず、一直線に捜査資料の保管されている倉庫に向かい、 たまたま居合わせた捜査員を気絶させ、倉庫内の資料の約80%を 破壊した後、倉庫裏の窓を突き破り逃走した。 「捜査員は何故、手足や喉にイヌ科の哺乳類に噛まれたような歯形 が残る外傷を負ったのか」 「証拠物件の壊滅を目的としながら何故、倉庫に火を放つという簡 単で確実な方法を選択しなかったのか」 満月の夜だった。
男のメス化、女のオス化が進行し、男が女で女が男になってしまう という人種が急激に増加し始めた。それでもこの人種も生後約2~ 4年間は男は男であり、女は女である。つまり2歳から5歳までの 成長時期を境に性別の逆転現象が起きるのだ。 約150年程前から出てきたこの種の人間を、彼ら自身が人口の大 多数を占めることになった現在、自らを[進人類]と呼んでいる。 既存種よりも進んだ人類であるという事なのであろう。そして既存 の人類は[遅人類]と呼ばれている。そのうち彼ら[進人類]は、 自分達こそが最大にして最高の、天が与えた神の分身であると主張 し始めた。 そして、社会の法律や規律の対象としては人口の大多数を占める6 歳以上の人間について規定するという事になり法律等の変更もこの 30年程の間に一斉に行われた。 現在、立法の場の者はほとんどが[進人類]で占められている。 また彼らメス化した男性、オス化した女性共に成長すると生殖能力 を失ってしまう為に、生まれた赤ちゃんは逆転現象の兆候が現れる とすぐに性器及び生殖に必要な部分を全て摘出し、将来家庭を持っ たときにお互いがその摘出した生殖器を生殖装置にかけて子供を産 むという仕組みになっている。 国会では今年度の法律改正案の中に[遅人類]間の性交渉及び結婚 の禁止を盛り込むと発表した。旧態依然とした男は男としてだけの 女は女としてだけの気持ちしか分からないような両親のもとで育っ た子供が果たしてしっかりと成長できるのか、というのが[進人類] の意見である。勿論[遅人類]は猛反対をした。 「これは[遅人類]絶滅計画としか思えない。[進人類]といえど も一人で両性の気持ちが分かるとはいえない!」 議会内でもこの法案だけが厚い火花を散らし議論の的となった。 討論番組会場 [遅人類]間の性交渉及び結婚の禁止法案否定派の意見では、この 旧来の家庭と現在の家庭における離婚率の推移をフリップにして見 せ、その差は誤差といっていいほどしかないと主張する。 肯定派はその意見を聞いて、だからこそその後の子供のためにも片 親だけで父母の両面の気持ちからのアドバイスの出来る親であるこ とこそが重要だという。 否定派は言った。 「彼ら、いや私もですが[遅人類]の女性は我が子を受精から出産 の間自分のお腹の中で育ててゆくのです。我が子を身ごもりいたわ る気持ち、そして出産の痛みは子供との絆、まさに人間という動物 としての親子を親子足らしめる要素なのです。」 会場は一瞬嵐のようなざわめきが広がった。 法案肯定派のグループは鋭い目をさらに尖らせて反論する。 「何を言っているのですか。その痛みこそが我々人類がはるか昔に 持っていた罪悪への報いだったのですよ。私達[進人類]にはその 痛みは無い。罪は消え、解放されたのだ。これを素晴らしいと言わ ずに何といえばよいのだ。何が動物としてだ、下等動物じゃあある まいし。」 するとまた否定派が違うフリップを見せる。社会から異端視された 中での家庭において離婚率はきわめて低いのだというデータを開示 した。 肯定派は離婚率は低くても子供は不遇の日々を送ることになるだろ うと反論する。 討論は延々と続いたが、テーマごとの総括は決まって肯定派の[進 人類]がくくる。彼ら[進人類]は今や放送というメディアでも多 くの優先権、特権を握り、振り回しているのだ。 [遅人類]間の性交渉及び結婚の禁止法案はまもなく可決された。 [遅人類]とは生まれてから性別の逆転現象を体験しなかった人た ちなので、過去の解釈では決して変わった成長を遂げた異端ではな く自然のままの人間である。むしろ[進人類]こそが本当に進化し た人類なのかと疑う声もある。 やがて学校などでは多くの大人が予想していたことが起きた。 「やーい、男の成りそこないと女の成りそこないのこどもぉ!」 「なんだお前、お父さんのおっぱいもらってるんだろ。」 [遅人類]の子供達は、その絶対数が激減していることもあり、ま わりの子供達から冷やかされいじめられた。そして確かにこの子供 達は不遇の人生を送ることになった。私立の学校によってはこうい った子供を受け入れないところまで現れはじめた。 しかし、この[遅人類]の子供達はみんな[遅人類]として成長を 遂げ、普通の[進人類]カップルから生まれる子供達に比べ畸形率 や健康障害出現率がとても低く、かなりの賢さや運動能力も身に付 ける。こういったことが顕著になるとなおさら社会は[遅人類]に 対する締め付けをきつくした。 そしてここに不遇の人生を送り、両親を不慮の事故で無くした一人 の青年がいた。青年には特に名前は無かったが、仲間内からは[P M]と呼ばれている。いつも夜中に行動を始めるというのが彼のパ ターンで、仲間からの信頼は厚く、彼の目は暗闇の中の炎のような 温かさと存在感を持っている。とても言動に説得力があり[遅人類] に平和(Peace)を作り出し(Make)てくれる希望の存在 しても扱われている。彼は両手両足、脳みそに心臓、肺、肝臓、腎 臓、その他元来の人間としてもっているもののうちの多くと強烈な 統率力を持っていた。 [遅人類]がここまで差別をされ、制度や多数派による慣習に縛ら れた社会に一石、いや一発投じてやらなければならないと説き、彼 はさらに多くの同士を説得した。 彼らは全国で一斉にある建物を爆破する計画を練り始める。 「ただ一つを残してもいけない、全ての施設をくまなく調べ上げ、 占拠しなくてはならん。相手の出方次第では全てを焼き尽くすこと になる。それをやらなくちゃ僕達の未来は今よりさらに絶望的にな ってしまうだろう。今こそ僕達の本当の世界を作り上げようじゃな いか。やつらの急所に一発食らわしてやれ。」 集まった[遅人類]の2世、中には3世の小さな子までいた、は固 い結束を確かなものと見とめ各地へ散った。 生殖器及び関連器官保存・再生センター。 そこにはおびただしい数の男女生殖器が保存されている。 オス化した女性と、メス化した男性が幼児期に摘出した生殖器。 今この国を支配する人々はこのセンターなしに子孫の繁栄は永久に 不能なのだった。そしてさっき散っていった[遅人類]の若者達は 真っ暗なそのセンターに忍び込み、各センターを占拠した。 それと同時に、[遅人類]によるセンター占拠宣言がなされた。 [進人類]と[遅人類]の間にこのような軋轢があるとは思ってい なかった高圧的な[進人類]たちは、彼らが何に不満があるのかと 困惑していた。 彼らは[遅人類]たちのこれまで味わってきた苦い経験を聞かされ た。そして[遅人類]がこれからしようとしている計画を聞き、主 導権も何もかも握られた[進人類]たちは仕方なく[遅人類]たち に自分達と同じ権利を与えた。 [遅人類]の幸福と[進人類]の降伏のしるしとして占拠した者た ちは手当たり次第にそこにある男女生殖器を生殖装置にかけランダ ムな性交渉をさせていった。 中には[進人類]同士でありながら敵対する者同士の性交渉になっ ていたり、期せずして相思相愛の者同士の性交渉になっているもの もあった。そして[遅人類]の中には友好のしるしだとして[進人 類]の性器と性交する者もいた。 [PM]は[遅人類]の勝ち取った権利に喜んでいたが少し悲しん でもいた。彼には生殖能力はなかった。 時代を作り上げるものはそれが終わると姿を消した。 そして新しい世紀が始まった。
「ダメダメ、『とーたーん』じゃなくて『トゥタウン』。しかも音 程がずれてる」とトナカイは俺の間違いを容赦なく指摘する。 「いいじゃないか、ちょっとぐらい」と俺はうんざりして返す。 「ダメです! 去年約束したでしょ。ちゃんと歌えるようになるっ て」 「そうだっけ?」 「そうです。さあ、もう一回」 「えー、もういいよ。もう二十回も練習したし、一応雰囲気は出て るんだから、そんな細かいこともういいじゃないか」 「ダメです! 正確に歌えなくて恥ずかしくないんですか、さあも う一度」 「しゃーないなあ、♪ユベラオチャ…… わあっ! なんだよ、急に急降下すんなよ」 「急に降下するから急降下なんです。日本語も上手くなって下さ い。さあ仕事ですよ。南町三丁目、滝川晴子(8)光太郎(6)の 父、政義(36)があそこにいます。ほら、もうすぐおもちゃ屋の 前を通りますよ。さあレッツゴー!」 「なにがレッツゴーだよ。歌、練習するんじゃないのかよ」 「ごちゃごちゃいってないで早くしてください!」 「わかったよ、あれね、あのちょっとひょろっとして頭が薄くなり かけてる人」 「そう! シナリオNo.9『おもちゃ屋で思い出す』ですよ。わかっ てますか?」 「わかってるよ。さっき、ちゃんと確認したじゃないか、だから… …」 「ほら早く行かないと!」 「へいへい」 俺は、そのひょろっとした帰宅途中のサラリーマン滝川氏と同じ ような格好のサラリーマンに変身して、彼の背後にそっと降り立っ た。そして、急ぎ足で彼を追い抜き、おもちゃ屋のショーウインド ウの前で、ハッと驚いた顔をして立ち止まる。 「お、そう言えば、もうそろそろクリスマスだな。息子になんか 買ってやらんとな」 と彼に聞こえるように俺は言う。 横目で滝川氏をちらりと見る。彼も立ち止まり「あ、クリスマス か、しまった忘れてた。思い出してよかったあ。ホッ」というよう な顔をしてショーウインドウを見ている。 よしよし。 そこに絶妙なタイミングで若い女の子の二人連れが通りかかり、 ひとりがショーウインドウの中を指差す。指差した先には、大きな 赤い鼻のトナカイが得意げにポーズを取っている。バカかあいつ は。 「あ、ほらほら、あのトナカイ見て」と指差した女の子が言う。 「え? ああ、きゃはは、なんか赤い鼻大きくて間抜けー」ともう 一人。 「ねえー、なんかバカだよねー」 キャハハハと笑いながら二人は去っていく。 俺も吹き出しそうになる。 女の子から目を離して、もう一度滝川氏を見ると、彼と目が合っ てしまう。あわててショーウンインドウに目を移す。 やばいやばい。 しかし、彼も女の子のセリフが気になっている様子。 二人の女の子はこちらのシナリオにはないとんだハプニングだっ たが、おかげでトナカイさんは滝川氏の心をがっちり掴んだよう だ。 俺はすかさずおもちゃ屋に入り、そのトナカイのぬいぐるみを滝 川氏の目の前でさっと持ち上げて、レジに持っていく。 おもちゃ屋の店主の爺さんは俺たちの仲間なので、シナリオ通り 何も言わずにトナカイにリボンをかけてくれる。 俺がトナカイを小脇に抱えて店を出ると、入店してくる滝川氏と すれ違う。これからは爺さんの仕事だ。 「あ、あのトナカイを……」 滝川氏が爺さんに話し掛けるのを背中で聞きながら、俺は路地裏 に隠れ、トナカイのリボンを解いてやる。 「ふう、上手くいったな」 俺はトナカイに声をかける。 「あの女の子たち。いったいなんなのよ! 間抜けとかバカとかっ て私に向かってなんてことを! あんたも笑ったでしょう」 「いやいや、笑ってなんていないよ」 「いいや。笑ってた」 「笑ってないって」 「今、笑ってるじゃない」 「まあまあ、悪気があったわけじゃないし。可愛いってことだよ」 「ふん」 よし。トナカイの機嫌を沈めるには、お世辞攻撃に限る。効果て きめんだ。 「ほら、おもちゃ屋見てみろよ。爺さん、滝川氏に説教している ぜ。『クリスマスにプレゼントするのは、おもちゃではないのでー す。なんだと思いますか。あーいでーす。愛する気持ちをプレゼン トするのでーす』とかなんとか言ってるぜ、きっと」 「はいはい、じゃあ次の仕事ね」 「なんだよ、ひと休みさせてくれよ」 「何言ってんの。ほんとになまけものなんだから。二十四日まで日 がないんだから急がないと。はい、行きますよ。今度は南町二丁目 山口和哉(7)の母、藍子(43)。場所はここから一キロ離れた 団地のスーパーです」 「シナリオは?」 「No.53『スーパーで歌を歌う』です」 「はあ、いよいよ歌ね。おれ、音痴なんだけどなあ」 「ちゃんと練習しないからです。冬以外は寝てばっかりなんだか ら」 「バカ言え、ちゃんと働いてるぞ。シナリオおぼえたり……」 「おぼえたり……なんですか。他に何かしたんですか」 「いやっ、まあ、ねっ♡」 「ねっ♡、じゃないでしょう。制服をクリーニングに出したり、ス ケジュール組んだり、橇のメンテナスしたり、全部、私がやったん じゃないですか。そんなことトナカイにやらせますか、ふつー。し かも、土壇場になって橇壊しちゃうし」 「いや、あれは……壊したんじゃなくて、勝手に壊れたんだよ」 「とにかく、ずっと怠けて来たんだから、今ぐらいちゃんと働いて ください」 「いや、だから働いてるだろ。……ああ、わかったよわかったよ。 そんなに睨むなよ。はいはい、歌ね。歌うあほうに見るあほう、同 じあほなら歌わなにや損損、てか、イテッ。鼻で叩くなよ、鼻で… …」 サンタクロースが子供たちに直接プレゼントを渡すのをやめ、間 接的にプレゼントするようになってからずいぶんと経つ。サンタク ロースが必ず所属しなければならない世界聖者連合会が決めたこと なので従っているが、俺には良くわからない。人間社会の急速な変 化に対応するため、また深刻なサンタの人材難、および財政難に対 応するためだというが、余計に仕事がややこしくなっているだけ じゃないかという気がする。まあ、入るべき煙突もないし、深夜に 忍び込むと警察やらアコムやらに捕まりかねないこの日本じゃあ、 こういう方法はそれなりに意味があるのだろうが。 ま、なんにしろ、とにかく子供が喜んで、大人が喜んで、みんな がハッピーになってくれれば言うことはない。 それが俺の喜びだし、トナカイの喜びなのだ。 「じゃあ、行くか」 俺はサラリーマンから、赤い制服へ変身し、トナカイに飛び乗 る。移動中は制服姿でなくてはならないと規則で決められている し、橇は壊れてしまったので、トナカイにまたがっている。かなり 間抜けだが、しかたがない。 景気でもつけるために、へたくそな歌でも歌うか。 「そうれ、♪まっかな、おっ鼻の-、トナカイさんわあ……」 「スーパーで歌うのはその歌じゃありません。そういう歌だけはす ぐにおぼえるんだから、まったく……」 「また、そんなこと言って。いっしょに歌わないの?」 「え? もちろん歌いますよ。当然でしょ」 「そうこなくちゃ、いくぞ」 せーの! ♪まっかな、おっ鼻の-、トナカイさんわあ いつもみんなーのー、わあらーいもの!? 「ん?」 「え?」 「いま、音、はずしただろ」 「そんなことありません! 絶対にありません!」 「顔まで赤くすんなよ。赤いのは鼻だけで充分だぞ」 クリスマスまで、あと少し。 仕事が終わるまでには、トナカイのやつにもプレゼント、用意し とかないとな。
すぐに彼女だとわかった。 帰宅ラッシュでごった返す地下街を抜けて、駅の改札口まできた ときだった。人の流れに逆らって、むこうから歩いてくる派手な女 性。 ――祥子。 私はすぐに目を伏せた。 「あれえ? 仁美?」 甲高い声に、周りの人が振り返る。私は視線を上げ、目の前に立 つ彼女を見た。 「久しぶりい」 茶色に染めた長いウエーブヘアに厚ぼったい化粧、鮮やかな青の スーツにブランドもののバッグ。どう見ても会社員には見えないの に、私は思わず「会社の帰り?」と聞いてしまった。 「これからバイトなんだ」 田宮祥子はそっけなくそういって、じろじろと無遠慮に私を見た。 今日の私は着古したグレーのセーターに黒のパンツ。そして相変わ らずの薄化粧。 「ちょっとお茶しない? あたし、まだ少し時間あるんだよね」 断る理由はいくらでもあった。でも、気づいた時には頷いてしま っていた。 地下街の喫茶店で、祥子はコーヒー、私は紅茶を注文した。彼女 はすぐにバッグから煙草とライターを取り出し、慣れた手つきで火 をつけた。 あれから、もう十二年たったのだ。 祥子の白い指先に挟まれた煙草をながめて、あらためて思った。 時は止まらない。体育館の横のトイレで煙草をつきつける彼女の手 を打ち払い、逃げ出してから十二年。 「いつ……帰ってきたの?」 高校を卒業してから彼女が町を出たという噂は、人づてに聞いて 知っていた。男が一緒だということも。その男性とは、別れたのだ ろうか。 「半年くらい前かなあ」 「いま実家にいるの?」 「ううん。市内にワンルーム借りた」 祥子が窓の外へ視線を移した。地下街を流れる人々の波は途切れ ない。急ぐ先に何があるのか――ふとそのことに思い至ったとき、 私の足はいつも止まりそうになる。 昔はさあ、こんなふうによく二人でお茶したよね。学校の帰りに さ。彼女が呟く。そうだったかしら。たぶん、違う。それはきっと、 私ではないほかの誰かだ。だって私たちが親友だったのは、中学一 年の夏までだったんだから。あの頃の私たちは、二人だけで喫茶店 になんか入れなかった。 「仁美はいま、なにしてんの?」 ウエイトレスがコーヒーと紅茶を運んできた。 「ただの会社員」 「事務とか?」 「そう。平凡でしょ」 ぎゃははは、と祥子が大声で笑う。何がそんなにおかしいんだろ う。 「いいじゃん。私みたいに、この年でフラフラしてるよりかはさ」 シルバーのマニキュアを塗った指が、テーブルの上の灰皿を引き 寄せる。 「幼稚園の頃、私は泣き虫でさ。いつもあんたにひっついてたの、 憶えてる?」 体が小さくて動作が鈍くて、いつもいじめられていた女の子の幼 い姿は容易に思い出せた。だけど顔だけが、記憶の中でぼんやりと かすんでいる。 「小学校では一年から六年までずっと同じクラスだったんだよねえ」 泣き虫で、私がいなきゃなにもできなかった小さな女の子は、小 学校に入ってしばらくするとすっかり別人みたいになった。よく笑 った。よく走った。よく嘘をついた。あんなに弱虫だったのに。 ううん。本当に弱かったのは私のほう。祥子がいないとなにもで きなかったのは私。ひとりでは、新しい友達さえ作れなかった。悔 しくて、でもひとりになる勇気がなくて、私はいつも祥子のそばに いた。何をやるのも祥子と一緒だった。そんな自分が嫌でたまらな かった。 「ねえねえ、憶えてる?」 十分ほどとりとめのない話をしてから、ふいに祥子が煙草をもみ 消し、身を乗り出した。 「何を?」 「小学校のさ、四次元につながる階段」 薄もやのかかった記憶のページに、一瞬にして色鮮やかな思い出 が浮かび上がる。あれは旧校舎のいちばん奥にあった階段。北側の 窓からは陽が射さず、いつも暗くてじめじめしていた。私たち六年 四組の教室は旧校舎の端にあったけれど、夏休みが終わって二学期 に入ると、急に誰もその階段を使わなくなった。 「四次元につながってるらしいよ」 いつもまっさきに噂話を聞きつける由紀ちゃんが、声をひそめな がら事の真相を教えてくれた。 「いちど四次元の世界へ迷い込んだら、二度と戻ってこられないん だって」 だから、六年生の二学期から卒業するまでの半年間、私たちはい つも南の渡り廊下を渡って新校舎まで行き、新校舎の階段を利用し ていたのだった。 「くだらないわよね」 私は笑い飛ばそうとして、やめた。祥子が笑っていなかった。 「続きがあるの、知ってた?」 低い声でささやき、慎重に私の顔を覗きこむ。 「続きって……?」 「あの噂には続きがあったんだよ。四次元へは、いつでもつながっ ていたわけじゃない。一階から三階まで合計九十九回往復したとき、 四次元へ通じる扉が開くっていう」 「知らないわ」 「私、やってみたんだ」 コーヒーはすでに冷めかかっているのだろう。湯気が消えていた。 彼女は一度もカップに口をつけていない。 「ひとりでね。合計九十八回、きっちり数えたわ」 「……」 「あと一回で、四次元への扉が開く」 私の手は、いつのまにか空になった紅茶のカップを握り締めてい た。店の中に響く話し声や笑い声が、フェードアウトしていく。窓 の外の流れは激しい。こうして流れから抜け出し立ち止まっていて も、時は止まっていない。何ひとつ変わらない。どこにも現実感が ない。 でも、あの頃は違った。 私たちの四次元の扉は確かにあった。 「結局、びびってやめちゃったけどさ」 うって変わった明るい声で、祥子が笑い飛ばした。そしてテーブ ルの上のシガレットケースから新しい煙草を取り出して咥えた。 「時々さ、思い出すんだよね。もしあの時四次元の扉を開いていた ら、今ごろ私は何をしてるだろうって……」 祥子が窓の外に目をむける。 「もうそろそろ……」 私が腕時計に目をやると、ようやくカップに口をつけた彼女はす まなそうに片手を上げた。 「ごめんね、急に誘って。私はもう少し時間つぶすわ。またね。バ イバイ」 あっさりといわれて、拍子抜けした。私は財布から紅茶代を出し てテーブルの上に置き、店を出た。そして流れに沿って歩き出した。 田宮祥子が死んだのは、それから一か月後だった。 私は、今になっておもう。 ――あの噂には続きがあったんだよ。 はたしてあれは、祥子の作り話だったのではないか。 当時いつも祥子と一緒にいた私が、噂の続きを知らないというの はどう考えてもおかしい。ましてや、九十八回も彼女がひとりで旧 校舎の階段を往復していたことに、気づかないはずがない。 祥子も、四次元の扉を探していた。 そのことに、私はあの日気づけなかった。いや、違う。気づいて いながら、気づかないふりをしたのだ。 そう考えたとき、全身にぞっとするような震えが走った。 気づいていながら……。 そう。私は、気づいていた。 あの頃の私は、祥子の抱える闇に気づいていた。だから。 ――九十九回往復したら、四次元の世界に通じる扉が開くんだって。 あれは、私が祥子についた嘘だ。 田宮祥子は小学校の屋上から投身自殺を図った。その場所は、旧 校舎の北の端だったらしい。
作品受け付け/1999年10月10日~11月28日
作品発表/12月1日~
人気投票受け付け/12月1日~12月20日
結果発表/12月25日
第2回3000字バトルチャンピオンは
鮭二さん作『年の瀬』に決定です。
鮭二さん、おめでとうございます!!
| 作品 | 票 |
|---|---|
| 年の瀬(鮭二) | 3 |
| 音痴が街にやってくる(逢澤透明) | 2 |
| 結婚の理由(わけ)(岡嶋一人) | 1 |
| 月・魂(厚篠孝介) | 1 |
| 四次元の扉(夏蜜柑) | 1 |
| ロマネスクA(伊藤右京) | 1 |
| 狼娘と微熱少年(越冬こあら) | 1 |
| ガソリンスタンド(林忠由) | 1 |
●年の瀬(鮭二)
●音痴が街にやってくる(逢澤透明)
●結婚の理由(わけ)(岡嶋一人)
●月・魂( 厚篠孝介)
●四次元の扉(夏蜜柑)
●ロマネスクA(伊藤右京)
●狼娘と微熱少年(越冬こあら)
●ガソリンスタンド(林忠由)
感想票をお寄せいただいた皆様と参加作者の方々へ。
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