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第3回3000字小説バトル
Entry1

カレー

作者 : 佐藤ゆーき
Website : http://www.d2.dion.ne.jp/~syuki
文字数 : 2800
 その時、彼女の記憶の中で何かが引っかかったがそれが何なのか
は分からなかった。
「どうしたの?」
「うん、カレーのにおいがちょっとね」
「なんかおかしい?」友人がまた訊いた。
「そうじゃないけど」
「お昼休み短いんだから早く食べましょ」
 社員食堂、友人、いつもの当たり前の光景だが、どうしてこんな
ところでこんなものを食べながらこんなくだらないおしゃべりをし
ているのだろう。目眩のような感覚とともに時間や空間、自分自身
についての意識が薄くなっていくような気がした。
「ねえ、いい男の後ろ姿を見た時ってどう思う?」
 その言葉は無意識のうちに発せられた。
「え?どうって言われても」
「私はその後ろ姿でいい男って分かる男が振り向いた時、本当はい
い男じゃなかった
らいいのにって思うわ」
「どうして?」
「だってその男はきっと私のものになんてならないし、例えなった
としてもそうなるまでに私は傷ついたり苦しんだりしなくてはなら
ないから、いっそのことその男がいい男じゃなかったら私は何も思
い煩わなくていいもの」
「変なの。でもあなたはもてそうなのに」
「私って完璧主義なのかもしれない。いろんなことを途中でぶちこ
わしちゃうし」
「どういうこと?それって反対じゃないの」
「完璧主義って英語でAll or Nothingって言うじゃない。全か無か。
でも私って100%になるまで努力することが出来ないから全部ぶ
ちこわして0にしちゃうの。100にするのはしんどいしかと言っ
てそこそこで満足することが出来ない。だから0を望むの。まあ言
ってみれば完璧主義の落ちこぼれかな」
 仕事に戻ってからも彼女はいらいらしていた。早くこんなところ
から出ていきたかった。でもどうして?出ていってどうしたいの?
それが分からない。目の前には処理しなくてはならない伝票が山積
みになっていた。彼女は自分を落ちつかせた。そうよ、
まだその時じゃないわ。

 その日は金曜日、彼と会う日だった。いつもの店で待ち合わせを
して、たいていは二時間かそこらは一緒にいる。
「ジントニックを」
「私も」
 いつも一杯目はジントニックだった。
「社員食堂っていう所ででお昼食べたことある?」唐突に彼女は言
った。
「ないな」まるで今日は社員食堂について話すことが決まっていた
かのように平然と彼は答えた。
「私、なんだかあそこ嫌い。安くて、味も悪くなくて、おばさんも
いい人だけど。うーん、嫌いって言うのとは違うかな。なんだか違
和感があるって言うか、そんな感じ」
「今日はなにを食べたの?」
「カレーライス」
 また彼女の中で何かが引っかかった。鼻の奥でつーんとカレーの
においがした気がした。何かが思い出せそうで思い出せない苛立ち
から彼女は会話に集中できなかった。それから二杯のお酒と軽い食
事の間に彼女はそれを気にすることをやめた。
「人工呼吸ってしたことある?あのマウス・トウ・マウスっていう
やつ」 
「いや、したこともされたこともないな」 
「私はされたの。二カ月前、プールで溺れて意識を失ったときに知
らない男の人に助けられたの」
 彼女ははじめてそのことを彼に話した。 
「泳ぐのは得意だったのにその時はなぜか溺れてしまったの」
「人工呼吸ってどんな感じ?」彼は彼女の方を見ずに訊いた。
「そんなの覚えてないわ。だって意識がなかったんだもん」
「その後泳ぐのが怖くなかった?」
 訊きながらも彼はその答えに興味を持っているようではなかった。
ただそう訊くのが正しい方法だとでもいうように淡々と言葉を発し
た。
「全然、水の中ってとても素敵。いくらたくさんの人が同じプール
に入っていても、水に潜ったら自分だけの世界にいるように感じる
の」
 その時はじめて彼女は今日の自分はしゃべり過ぎだと感じた。同
時にほんの少しの沈黙が生まれた。ほんの少しの沈黙なのに適度の
アルコールによって研ぎ澄まされた神経がそれを何倍にも感じさせ、
周りの雑音が彼女に迫ってくるようにように思えた。
「君が君の人生の中で楽しいと思えること、それを行う価値がある
と思えることってなんだい?」
 彼が訊いた。
「うーん、お酒を飲むこと、泳ぐこと、おもしろい小説を読むこと、
他にもありそうだけれども今思い浮かぶのはこれくらい」
「それは違うんじゃないかな。それらはたぶん君にとってただの暇
つぶしにしかすぎないんじゃないかな」
 遠くをみるような目で彼が言った。
「どういうこと?」
「うまくは言えないけれど、それらのことは君が君の人生という膨
大な時間を生き延びていくために時間を浪費するに値すると思って
いるだけなんじゃないかな」
「じゃああなたにとってそうじゃない本当に楽しいことってなに?」
「僕にも分からない」

 タクシーの中で二人は無言だった。でもそれは珍しいことでも気
まずいことでもない。彼と彼女の間にはそれがなくてはならないと
いうこと、それによって縛られることなどは何もない。でもそれ以
上のものも何もない。今は彼女はそれで満足していた。彼がふと口
を開いた。
「今日僕が言ったことは気にするな。ちょっと酔ってたんだ」
 うそだ。彼は酔ってなんかいなかったし、例え酔っぱらっていた
としても何の意味もないたわ言なんか彼は絶対口にするはずがない。
彼は完璧だった。でもその時の彼は二人の間にある何かによって必
要に迫られてタクシーの中でそんなことを言ったのではないかと思
い彼女はいらいらした。彼には自分の放った言葉に対して彼女に気
を遣って欲しくなんかなかった。
 そして彼女のマンションの前で一人でタクシーを降りた時、彼に
対して何かを言おうとしたが、何か言ったら決して100にはたど
り着かない苦しみに支配されそうだったので言うのをやめた。
「おやすみ」
 それだけ言ってタクシーの中の彼を見た時、彼は完璧な彼に戻っ
ていた。
 
 部屋に戻り、シャワーを浴びて化粧を落とし、冷蔵庫の中のミネ
ラルウォーターを一口飲んで彼女はベッドに入った。すぐに意識が
身体から離れてどこかへ落ちていくのを感じる。その完全に眠りに
落ちる前のまどろみの中で彼女は自分が溺れたときの夢を見ていた。

 急に体が重くなる。千メートル泳ぎ続けても平気だったのにその
時はなぜか手足が動かない。息が苦しくなる。死ぬという恐怖がお
そってくる。でも私は知っている。この後私は知らない男の人に助
けられるのだ。ほら、私はプールサイドに引き上げられる。私を仰
向けにして気道を確保する。男の人の顔が近づいてくる。でも顔は
分からない。男の人の口が私の口をふさぐ。その口から微かなカレ
ーのにおいがする。