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第3回3000字小説バトル
Entry15

乳の罠

作者 : 鮭二
Website : members.aol.com/Shakeji/papyrus.htm
文字数 : 3000
 乗合タクシーに乗っている間中、女は私の膝を触っていた。触っ
ていた? 「触っていた」と「手を置いていた」の中間辺り、女は
私の膝にそうしていた。
 私は忘年会の帰りで少なからず酔っていた。発車してまもなく車
が乱暴に左折した瞬間、女と私の半身が重なり合った。ふと下を向
くと、左膝に女の右手がのっている。女の目は閉ざされていて表情
を読むことはできない。しかし背筋は不自然にぴんと伸びていた。
眠ってはいないのだ。
 何かの間違いかもしれない。女に気付かれないように少し膝をず
らす。すると女の掌は滑るように膝の上を移動してきた。女の目蓋
が微かに揺れ、目尻に力が入った。
「どうしてそんなことをするの?」
 そう言っているような気がした。
 私は膝を元の位置に戻し、体の力を抜いた。まあいい。大した意
味はないんだ。そう思うと女の掌の感覚が次第に遠のいていった。
私は少なからず酔っていたのだ。目を閉じるとすぐに深い眠りが私
を包み込んだ。

 運転手の声で目を覚ますと、隣りに女はいなかった。私は膝のこ
となどすっかり忘れてタクシーを降り、ミチルのアパートへ歩き出
した。
 世の中不景気で、師走といってもかつての慌ただしさはない。淡
々と仕事は進み、週明けに何軒か挨拶回りをすれば、もう御用納め
となる。日中の日差しも冬らしくない。悪くない年の瀬だが、物足
りなさも感じる。
 台所に、いい按配に煮崩れた肉じゃがの器があって、酔いの覚め
かけた体の食欲をそそる。冷えたじゃが芋を頬張ると性懲りもなく
ウイスキーが飲みたくなる。静かに、私は台所を動き回る。動き回
りながら大掃除の手順を頭の中で反芻する。去年は手伝わず、ミチ
ルにひどく怒られた。私がかつて付合っていた女たちは、いずれも
熱心に掃除をするタイプではなかった。
 オンザロックを舐めながら、ラジオの深夜放送をヘッドフォンで
聞いていた。話している内容もかかっている曲も私には理解できな
かった。奇麗好きな女を好きになったのは歳のせいかもしれない。
私はラジオを消し、電気を消し、ミチルのベッドに潜り込んだ。寝
間着の上からミチルのパンティの線をなぞり、静かに眠りに落ちた。

 左膝にできた赤い斑点に気付いたのは次の夜だった。掃除をして
いる最中にどこかにぶつけたり、擦り付けたりした覚えはなかった。
私は湯船に浸かりながらミチルにその斑点を見せた。見せながら私
は不思議な気持ちになった。ミチルがそこに触れると、腹の奥に熱
っぽいくすぐったささえ感じた。そうした感覚は、やがて前夜の女
のイメージに集約されていった。
 次の晩、斑点はより鮮やかに、より立体的になっていた。どんな
形かと訊ねられたら、それは女性の乳首です、としか答えようがな
かった。
 それは見事な乳首だった。
 決してミチルの乳首が見事でないというわけではない。しかしそ
の乳首は、迂闊な相対評価を拒むような美しさを湛えていた。
 私たちはうっとりと私の左膝に誕生した美しい乳首を眺めた。不
意にミチルが、ため息を吐きながら湯船にぽっかりと浮かぶ私の乳
首に唇を寄せる
「おい、よせよ」
「だって」
 そう言ってミチルは目を潤ませた。私たちはかつてないワンダフ
ォーな興奮を感じ始めていた。
 寒気が忍び込む狭い浴室で、ミチルは私の膝乳首を舐め、私はミ
チルの胸乳首を舐めた。変な形で変なことをしているという共通認
識が互いの体内に潜んでいた変態に火をつける。私たちは何度も快
と楽の深淵にはまり込んでいった。
 ベッドの中で、私は幾分静けさを取り戻したミチルの体を抱き、
かつてパンティの線があった辺りを指でなぞりながらタクシーの女
の話を打ち明けた。
「べつに痛いとか痒いとかじゃないんでしょ?」
 そう言って妖しく笑うと、ミチルは更なる闘いを挑んできた。

 正月休みが終わる頃になると、私は自分の膝乳首に何の違和感も
感じなくなっていた。ただ、スラックスを穿くとどうしても突起が
目立つので、ミチルの使い古しで膝ブラジャーを作ってもらった。
プールや温泉に行くならば少し大き目の絆創膏でも貼っておけばよ
いのだ。もし本当に何か面倒なことが起きたら切ってしまうくらい
簡単なことよ、とミチルは言った。医者に何と説明するかはまた別
な問題だが、ミチルの意見は私を大らかな気分にさせた。
 それに何より、細かな煩わしさはあるにせよ、ミチルと一緒に美
しい乳首を楽しめるのはかけがえのないことだった。

 それから3年が過ぎた。
 ある夏の日、私は家路を急いでいた。その頃私はいつも家路を急
いでいた。ミチルの体が臨月を迎えていたのだ。
 電車のボックスシートに腰をおろすとすぐに初老の男が向かいに
座った。男は膝の上にハンカチを広げ、上着のポケットからゆで卵
を取り出した。いとおしむように殻を剥き、惚れぼれとその白くつ
るりとした表面を眺めた。
「たべる?」と男は言った。
 私は少し眉をひそめ、姓名判断の本に目を落とした。
「おいしいのにな」
 男は卵に齧りついた。口の中で丁寧にそれを愛撫し、喉に流し込
むたびにくぅぅと愉悦の声を漏らした。たっぷりと時間をかけて食
べ終えると、またポケットから卵を出した。
「ほんとにいらない?」
 私は本を閉じ、腰を浮かせた。
「まあ待てよ。随分探したんだ」
 男は一転して低くドスのきいた声を出した。
「娘の乳首、返してもらおうか」
 そう言って父親は手にしていた卵を握り潰した。指の間からどろ
どろと液体が流れだす。生卵だったのだ。
 私は力なく腰を落とした。足ががくがく震え、膝の乳首が固くな
っていった。
「よくもこれまで玩んでくれたな」
 気付くと黒いスーツを着た頭の悪そうな男たちが取り囲んでいる。
私はあっけなく組み敷かれた。男たちは私のズボンを脱がし、左膝
を押さえ付けた。父親が私の足にまたがり、焦らすように膝ブラを
外しにかかる。やがて乳首が露わになると男たちの間からため息が
漏れた。
「ほう、これは見事だ」
 私の乳首はねっとりとした男たちの視線を浴びてさらに固くなっ
ていった。父親は慎重な手つきでその先端をつまみ上げると、鋭い
メスを根元にあてがった。ひやりとした感触が脳天に響き渡る。次
の瞬間、メスが滑らかに乳首をなぞる。血は流れ出したが痛みは感
じない。鮮やかに切り取られた乳首が幾重にもラッピングされてド
ライアイスの中に消えていくのを私は為す術もなく眺めていた。
 立ち去り際、「これでもくらえ」と大粒の梅干しを傷口にねじ込
まれると、私は痛みを感じる間もなく気を失った。

 意識が戻った時、私は自分の部屋のベッドにいた。左膝には包帯
が巻かれていた。私は重たい体を起こし、ミチルの姿を探した。ミ
チル、ミチル。返事はない。そして左膝には乳首がない。私は痛み
が残る膝を抱えて煙草を2本吸った。吸いながら自分の胸乳首を擦
ってみたが、ただ虚しくなるだけだった。
 しばらくして階段を上がる音が聞こえてきた。私にはミチルがい
る。お腹の中に子供がいる。私は左足を引きずりながらドアを開け
た。
「ミチル、俺たちの乳首が……」
 ミチルは黙って買物袋を床におろした。アパートの下で猫が鳴い
ている。ミチルが小さくため息をついた。
「夕飯、作ろうか」
 私が台所に立つとミチルはゆっくりと椅子に腰を下ろし、静かに
お腹を擦った。
「そろそろかな」
「まだまだよ」
「ゆっくりね」
 また猫の鳴き声が聞こえた。きっと雌猫に違いないと私は思った。