第3回3000字小説バトル
Entry16
頬の火照りが空気の冷たさを、より精確に伝えているような気が した。鋪装でならされたあぜ道の端を帰る。歩きにくかった。一歩 を踏み出すごとに、胴体をすっぽりと包んでいる絹織物がその一歩 を阻んだ。大らかに軽快に足を運ぶ事を許さないその意地悪な布切 れが足首を軽く叩き続けるのに、もどかしい思いが起ってため息が 漏れた。おとなしく足袋に納まっている自分の足さえ恨めしいわた しに、初めて履いた草履も同情的ではなかった。 晴天だけがわたしの味方だった。あぜ道には、わたしの他には人 も車も見当たらなかった。だけど真中を歩くのは躊躇われた。何だ かそれは、とてもわたしにはできない芸当に思われた。 背後から微かに音が聞こえた。と思っていると、その音はわたし の一歩を嘲笑うかのような加速で大きくなり、それに呼応して鋪装 された地面が震え、その一歩を止めた。 わたしは少し後ろを振り返ったまま、あぜ道の端で立ち尽くす。 トラックが太いタイヤから土埃を濛々と上げて、すぐ横を走り過 ぎていった。真新しいショールで口許を覆いながら、その遠ざかる 車体の後ろ姿をぼんやりと眺めた後、わたしは又ため息をついて辺 りを見渡した。視界は広かった。何もなかった。真冬の澄んだ空気 が、薄群青の空をかなり低いところまで運んでいた。 田んぼなのだった。冬の田は、稲束の刈り取られた跡を乾いた土 に広げているだけだった。 田んぼ、と呟いて、歩を進めようとした途端、その足を止めた。 再びわたしは自分のまわりを眺めた。田んぼ。瞬間、一面日に照 らされてきらきら光る水田の姿が、すぐ目の前に現れた。 「あたし、田んぼが好きなの」 はっとして視線を動かすが、何者もそこにはいない。いるのは、 わたしだけだった。遠い日のわたしの声だった。 「田んぼ?」と彼はおかしそうに目を大きく見開いて、わたしを見 た。 「うん、田んぼが好きなの」 「好きってさ、どういうふうに?」 大学の正門前の冷房の効いた喫茶店で、わたしたちは向い合って いた。 「好きって、だから、見ているのが好きなの。飽きないんだわ、田 んぼ、いつまで見てても」 わたしはストローでアイスココアを啜りながら、彼を上目遣いに 見た。彼は目を細めて笑っていた。わたしは、ああ、と一言胸の中 で呟いてから続けた。 「夜のね、田んぼも好き。蛙がね、鳴くのを聞くのが好きなの」 「へえ」と、彼はまた笑った。 わたしたちはそんなふうに、容易く甘い時間にひたる事ができた。 たまの喧嘩も、心地よい連弾をいざなう序奏になるだけだった。 喧嘩の終わりに大抵わたしは泣いた。彼はわたしの頬をつたう涙 を唇で拭いながら囁いた。田んぼ、見に行こうか。 夜中、中古自動車は鋪装されたあぜ道を見つけて、その端に止ま った。わたしたちは降りて、蛙の鳴き声に耳を傾けた。一面ぎっし り蛙だらけなのではと思われるような大合唱を聞いていると、わた しの気持ちは妙に落ち着いて、朧な彼の顔を微笑んで見上げた。 そして、キスをした。一瞬、蛙の鳴き声がやんだ。ねっとりとし た夏の夜風が耳たぶを撫でていった。 クラクションが突然鳴った。わたしはおどろいて一歩後ずさり、 あやうく畦から落ちそうになった。目の前を乗用車が通り過ぎてゆ く。青いセダンを呆然と見送って、わたしはまた歩き出した。 彼の中古車も鈍い青色だった。そして、目の前にある田は水のな い刈り取られた後の田で、今は夏ではなく、冬、正月の三日だった。 ぜひお正月にと、夫の母は強い口調でいった。昨年の秋、まだ式 を挙げる前のある日だった。わたしは、たとう紙の上の薄紅色をし た訪問着を眺めながら曖昧に頷いた。その色はとてもわたしには似 合いそうになく思えた。 「素晴らしいわ」と、だけど夫の母はいった。わたしは黙って笑顔 を作った。小さな頃から夫を可愛がっていた叔母というのが、その 可愛がっていた甥の、まだ面識もない嫁のために誂えたという着物 を、複雑な思いで眺めた。 「ね、これを着てぜひご挨拶に行ってらっしゃい、お正月に。きっ と喜ぶから」 頷くことしか許されていないわたしの正月の行事が一つ決まった。 なのに、その直前になって、その行事に参加できないといったのは 夫だった。 「駄目だ。仕事」 開業まもない夫は、今ここで私用を優先させたら顧客に顔が立た ないと言うのだった。わたしは内心途方にくれた。が、夫の事情は 理解したかった。 それで一人で出かけた。朝早くから美容院へと赴き髪を結われ、 薄紅色の訪問着を身にまとい、電車を乗り継いで、小さな駅から鋪 装されたあぜ道をとぼとぼ歩いて、夫の叔母の家に行った。玄関の 前で思いきり大きく息を吸い込んでから、引き戸を開けた。甘った るい煮物の匂いがぷうんと漂ってきた。 「ご苦労さん、どうだった?」 乗り換えの駅で掛けた電話で、夫はそういってねぎらってくれた。 「うん、まあなんとか」 わたしは笑い声を漏らしながら答える。 「いい人だったろ?」 「そうね」 こんな窮屈な思いをさせて、と訴えたい気持ちで掛けたのに、そ の一言がいえなかった。じっと見つめられ、この着物に相応しい女 かどうかを見定められているような気がしたことや、歳を訊かれて、 あることを急かされているような気がしたことも、いえなかった。 「ごちそう出た?」 「うん、飲まされちゃった。ちょっと」 「へえ、いいなあ」 わたしは苦笑する。 「疲れたろう。夕飯、どこかで食おうか」 「え、でも仕事」 「もう終わる。駅に着いたら電話しなよ。迎えに行くから。たまに は和服の女性と食事してみたいし」 一刻も早く着替えたいのに、と思いながらも微笑んで肯い、わた しは受話器を下ろした。 右上前を掌で僅かに押さえつけながら、ホームへの階段をおぼつ かない足取りで降りる。と、この階段で、と思い出した。 「こんなこといったら怒るかなあ」 「何」 わたしは訳がわからず、一段上の彼の顔を見上げた。 「怒らない?」 「え。うん」 「あのさあ」と、彼はにやにや笑っていった。 「女の子も乳首のまわりに毛が生えるんだね」 わたしは怒るどころではなかった。恥ずかしくて悲しくてうつむ いたまま歩けなくなった。ごめんごめん、という彼の声に答えるこ ともできなかった。 わたしはそのとき十九才で、まだ、一応、処女だった。 ふと見下ろすと、電車はすでに入線していた。心持ち上前を押さ えたまま、わたしは、手摺に沿ってゆっくりと階段を下った。 車内は空いていた。長い座席の一番端に腰を降ろすと、自然にひ とつ、ため息が漏れた。向いには初詣で帰りらしい若い男女が、楽 しげに会話をしながら座っていた。窓から射し込む西日でくっきり と切り取られた彼らの黒ずんだシルエットが、しばしば僅かに揺れ 動いた。彼はやさしい人だった。 彼はやさしいことにかけてはそつのない人だった。 また生えてる、といって、その短い毛を摘んだ。親指と人さし指 の爪で挟んで引っぱる彼の、その横顔を、すぐ眼の下に笑って見な がら、そのやわらかな頭髪をゆっくりと、わたしは撫で続けた。な かなか抜けない、と彼は歯で噛んで引き抜いた。微かな痛みが心地 よかった。結婚したいと思った。十年後も二十年後も五十年後も、 こんなふうに、この人に毛を抜いて欲しいと思った。 十九才のわたしにとって、結婚とはそういうものだった。 発車を報せる長いベルの後、がたん、と揺れて電車が動いた。