第3回3000字小説バトル
Entry18
「珍しいものが手に入ったぞ」ジロウが興奮ぎみに翼を膨らませな がら言う。 「食べ物?」 「そう、胡桃。聞いたことあるだろう」 おじいさんが、若い時一度だけ食べたことがあるというその木の 実の名前を、僕は憶えていた。 「山へ行ったのか?」 彼の黒い羽の間から葉っぱが一枚、はらりと落ちた。 「かみさんに栄養つけさせなくちゃな。あやうく撃ち殺されるとこ ろだった」 もうすぐ、ジロウ夫婦の卵が孵る。 「二つあるから、お前んとこのじいさんにも食わせてやれよ」 僕はそのごつごつした丸い実を咥え、巣に戻った。今は使われな くなった灯台が僕ら一族の住み処だ。おじいさんの羽や足はすっか り弱り、もう自分で餌を取ることはできない。僕の差し出した木の 実を見ると、おじいさんは目を輝かせて殻をつつき、中の実をこり こりと噛った。そして、感慨深げに一息つくと、そっと目を閉じた。 また若い頃のことでも考えているのだろう。 もうずっと昔のこと。急速な土地開発が進み、山を追われた鴉た ちは、仕方なく住宅街の公園や学校に身を寄せた。慰み程度の緑は あっても、十分な餌をとれるはずもなく、彼らは人間の残飯を食べ るようになる。すえた匂いを放つ奇妙な味にようやく慣れた頃、一 人の人間が食事中の彼らに石を投げた。年寄りたちがわけもわから ず逃げ惑う中、血気盛んな若い鴉たちがそいつに立ち向かった。 「それが戦争の始まりだった」おじいさんが言う。何度も聞いた話 だ。天敵というものがいなかった僕らにとって、人間は生き残る為 に戦わなければならない最初の存在となったのだ。 途切れることなく道端に放り出される残飯のおかげで、増え続け る鴉に憤慨した人間たちは国際レベルでの鴉の一斉駆除に踏み切っ た。多くの仲間が捕えられ、巣に残った卵は始末された。山にも帰 れず、街にも住めなくなった彼らが向かう場所に選択の余地はなか った。海だけが残された聖域だったのだ。 そこには先住者がいた。水上にも、港にも、浜辺にも。海鳥と呼 ばれる、鴎たちだった。安住の地に突然現れたよそ者たちを、奴等 は「黒い魔物」と呼んで敵意を剥き出しにした。 先祖たちは岩陰でひっそりと暮らし始め、どうにか初めての卵を 授かった。若い鴎たちがそれを奪った。白く清楚なイメージとは裏 腹に、奴等は僕たち鴉よりもずっと悪食だ。 「それが第二の戦争」おばあさんが口を挟む。 海面に血が飛び散り、白と黒の羽毛が砂浜を覆った。種族存続の 危機に晒された彼らは、次の協定を結ぶことによって、海での共存 生活に合意した。 1.互いの卵を略奪することなかれ 2.血を流し合うことなかれ 3.つがい合うことなかれ 時折浜辺にやってくる人間たちは鴎たちだけに餌を与え、僕らを 忌々しそうな表情で睨みつけた後、視線を逸らした。餌は自分たち で調達するしかない。僕らは大きく羽を広げて身体全体を浮きのよ うにし、足先をばたつかせながら魚を獲る。けっこうな体力を使う。 僕やジロウの世代になると、羽はずっと柔らかく空気を含み易くな り、骨も強くなった分、海に浮くことはそう困難なことではなくな っていたけれど。 それでもここ最近になって、僕らに餌付けし始めた人間がいる。 初老の男と若い男の二人組だ。今日も目の前にパン屑が投げられた。 年寄りたちは決して気を許すなと言っていたけれど、好奇心旺盛な ジロウだけは止められない。彼は餌に飛びついた。 「びびるこたあないさ」彼は言う。「俺達に興味があるらしい。食 っておけよ」 けれど他の誰も彼らに近づくことはなかった。 ジロウの雛が孵った夜、一族全員が集まって、かわるがわる巣を 囲み、その姿を飽くことなく見守った。 「まさか……」 驚愕の声と感動のため息が、一晩中飛び交った。 それは生命の奇跡がこの世に生誕した記念すべき夜だったのだ。 「この前産まれた赤ちゃん、水かきがついていたんですって?」 「完璧なものじゃないけどね」 「すごい進化だわ」ジョナが感嘆の声を漏らす。 「そうだね」 「ねえ、時がたてばいろんなことが変わるのかしら」 「ああ。きっと」 その時、遠くで彼女を呼ぶ声が聞こえた。 「もう行かなくちゃ」ジョナはほんの数秒、悲しげな瞳を僕に向け はしたけれど、すぐにその輝く純白の翼を広げ、飛び去っていった。 彼女の姿が消えるまで、僕はその美しい姿に見惚れていた。 第三の戒律に背いて、僕たちは、恋におちていた。 フィンと名付けられたジロウの息子は、しばらくすると器用に水 の上を行き来するようになり、素早く小魚を捕らえては、大人たち を驚かせた。その様子を一番嬉しそうな表情で見ていたのは、他で もない、あの二人の人間たちだった。 そしてある日の午後、事件は起こった。僕がジョナとの逢引きか ら戻ると、ジロウの住み処である廃船のあたりがひどく騒がしいこ とに気づいた。嫌な予感を覚えて近づいてみると、そこには、捕獲 網の中で暴れているフィンの姿と、誇らしげにそれを見つめる二人 の男たちの姿があった。 「やりましたね、博士。世界中の生物学者が大騒ぎしますよ」若い 男が興奮して言った。 「そろそろこういった異変が起こると思っていたんだ。鴉に水かき か」 怒り狂ったジロウが二人の頭上を旋廻し、威嚇の声をあげている。 それでも奴等はおかまいなしに、大きな篭にフィンを移そうとした。 その時、凄まじい速さでジロウが男たちに突進した。初老の男がよ ろめき、若い方の顔が恐怖で引き攣った。鴉がいよいよ人間を殺す 最初の瞬間を想像し、僕は思わず目を瞑った。しかし、銃声に驚い て目を開けた僕が見たものは、何百もの赤い肉片となって海に散っ てゆく、ジロウの姿だった。 ジロウの死から、ひと月ほどたった頃、ジョナがそっと僕に告げ た。 「ねえ、出来ちゃったみたいなの」 「え?」 そんなことって……。けれど、フィンの例がある。考えられない ことではない。喜びよりも先に、僕の心は戸惑いと恐怖に埋め尽く された。戒律に反して産まれてくる罪の子。嘴はどんな形をしてい るのか。羽の色は? そして、完璧な水かきを持つ僕らの子供を、 仲間たちもあの二人組も見逃すはずはない。 「逃げよう」僕は羽を広げ、震えるジョナの身体を包んだ。 「ずっと南の方に、鳥類だけが暮す楽園があるらしいわ」 それは僕も聞いたことがある。ありきたりな伝説だ。誰も信じち ゃいない。でも、でもでもでもでもそれならば、南なのか北なのか、 右なのか左なのか、僕らの行くべき所は、どっちだ? (飛べよ)大気の微動の中に、その声を聞いた。僕らは驚いて空を 見上げた。空には境界線がなかった。山も街も海もなかった。不吉 な色をしていようと、ゴミを漁ろうと、僕もジョナと同じ、この空 を自由に羽ばたくことを許された、地球上唯一の生き物に違いない のだ。 (飛び立つしかないだろう)今度は、はっきりと聞こえた。ジロウ の声に似ているような気がした。 「行こう」 頷いたジョナの瞳に、透明の液体が光る。それを見た僕の視界も 霞んだ。初めての経験だった。これも進化のなせるわざだと、あの 学者たちは言うのだろうか。 遥かなる水平線が太陽を反射して輝いている。未知なる世界が、 僕とジョナに微笑みかけている、そう思えた。そして、芽生えたば かりの小さな生命は、僕らに海を越える力を、きっと与えてくれる に違いない。 眩しいほどにきらめく空へに向かって、僕らは、ゆっくりと翼を 広げた。