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第3回3000字小説バトル
Entry4

現実が紙屑になる瞬間

作者 : 厚篠孝介
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文字数 : 2451
 老人は長い間連れ添った伴侶を無くした後はする事も無く、毎日
海を眺めている。

 彼の人生は決して満ち足りた物ではなかった。彼は自分の人生を
大して価値のあったものだとは思わない。深く落ち込んだ細い目を
見れば分かる。

 自分の人生をかろうじて人生と呼ばせたのは妻の存在であったと
彼は信じている。妻の死でその価値も失われた。

 それは柱が折れ、傾きつつも微妙なバランスで形を保っている家
にも似ている。

 雪は降っていないが、冷たい風の吹く冬のある日。

 老人はそれでも海を眺めに外へ出る。

 老人は海全体を眺めているわけではない。彼が眺めるのは波打ち
際、砂浜の片隅に突き出た岩に寄せる波を眺めているのである。

 今日は寒いが、風で波が高く、沖では波を待つサーファー達の頭
が波間に見え隠れしている。

 いつもの場所に座り、いつもの岩に目を据えて、波を眺める。

 波というのは不思議で、二つと同じ物が無い。岩に当たって僅か
に水滴を上げるだけの波もあれば、岩を飲み込んでしまう波もある。

 老人の影が砂の上で黒い塊になっている。風が吹いても、影は変
わらない。

 窪んだ瞳は動かない。何を見ているのかと疑いたくなる。岩と変
わらない浜辺の物質の様である。

 上着から感じる自分の体温がなければ、たしかにそれは海辺の物
質に過ぎないかも知れない。

「おじいさん」

後ろから声をかけられた。さっきまで波間を漂っていた若者だ。厚
い上着を着ているが、唇は青く、髪は塩のせいでまとまりが悪い。

「毎日何を眺めているんですか?」

「波だよ」老人は岩を指差して言う。

若者は老人の隣に座った。若者は岩を見つめている。

二人とも何も語らない。ただ黙っている。

「あの波」

「え?」

「あの波は岩を呑み込んでしまうよ」

老人は海原に生えた鱗のような波のうねりの一つを指差して言った。

「見ていて御覧なさい」

若者はその波を見つめている。地平線の向こうからやってくる波の
うねりは陸に近づくに従って大きくなり、白波を立てて岩を飲み込
んだ。白い滴が飛んだ。

「本当だ」

「あの波はもっと大きい、そこまで寄せるだろう」

と今度は白い砂浜を指差した。

 果たしてその波は岩を越えて二人のすぐ前にまで寄せ、砂を黒く
縁取って消えた。

「波が読めるんですね」若者が言った。

「毎日眺めているからね」老人は少し嬉しそうに言った。

若者は紫の唇を触りながら、うねりを眺めている。だが無数に生ま
れるうねりのどれが大きく、小さいのか、判別できなかった。

 すごい才能だ。若者は思う。ちょっと見ただけで波の大小を見分
けられる。若者はサーフィンをするから、サーフィンをしない人に
とっては何とも無い特技も、多少の羨望を持って眺めることができ
た。

 若者は懐からタバコを取りだし、老人に勧めた。

「ありがとう」

老人は一本つまむと言った。

 若者は火を付けてやり、最期の一本をくわえた。空の箱を握りつ
ぶして砂浜へ投げた。

波が手を伸ばしてそれをさらい、自分の身体に浮かべて満足げであ
る。

 吹き出した白煙が風に流されて老人の髪に掛かり、乱れながら消
えた。

「海は要らないって言ってるよ」老人がぽつりと言った。

始めはその言葉の意味が分からなかった若者も、大きい波がタバコ
の空箱を波に乗せ二人の前において去ると、その意味が分かった。

 若者は立ちあがり、タバコの空を拾い上げるとまた老人の隣に座
った。

 二人は何も語らない。波の音と車の流れる音ばかりが二人の間に
流れている。

 波はその都度表情を変える。一として同じ波は無かった。

「波は人と同じでしょう」

老人が言った。

「寄せては返し、寄せては返す。ちょっと見ただけでは無駄に思え
る事を繰り返している。けれど波は砂を運んでこの浜を作り、岩を
少しづつ砕いている。海を人生に例えるなら波は毎日の出来事のよ
うな気がする」

 若者は不思議な表情でそれを聞いていた。青かった唇に僅かな赤
みがさしている。

 背後で若者を呼ぶ声がする。彼を迎えに来た女友達だった。

 若者はちょっとためらった。老人をこのままにして帰る事が気に
なったのだ。

「行ってあげなさい。若い時の想い出は大切にしなさいよ」老人は
海を見つめながら言った。

「唇が真っ青だよ、車の中に行った方が良いよ」と友人が言い、二
人は海に背を向けて歩き出したが、若者は踏みとどまった。

 さっきから、この情景をどこかで見たことがあるような思いにと
らわれたからである。

 高い波を一杯にため込んだ海、砂浜に突き出た岩、灰色に煙る空、
強い風、その中の老人の小さい背中、自分のつま先を堺に、違う世
界が広がっている様に見えた。

 「ここ」と「そちら」の関係は揺るぎ無い壁の様に高くそびえて
いた。

 若者は何か「究極のもの」を見た気がした。

 「そちら」から持ちかえったタバコの空箱を握り締めると、若者
のもやもやとした人生と言う物が、老人の背を吸収して、ある決意
に似た形で落ち着くのを感じた。

 誰でも持っている「現実」と「理想」の対立・緊張関係がやわら
ぐ気がした。

 その理由がまだ若い彼に分かるはずも無い。




「今度の波は高いよ」

老人が岩に向かって言った。

 波の一つ一つが時を刻んでゆく。波は時計の秒針よりも確実に時
間を刻む。

 この波がもっと遅ければ妻と一緒にいられる時間ももう少し長か
ったかもしれな
い。

 波は破壊者だ。老人は同時に思う。

 自分たちがあの岩ならば、波は少しづつ自分たちの運命を削って
いる。

 もしも波を止めて、幸せだけを閉じ込める事が出来たなら、どん
なに幸せだろう。けれどそれは人生を一色に染めてしまう。まった
く同じ波が来る海と同じだ。だとすれば人生は色褪せてしまうだろ
う。

「今度の波は小さいよ」

 老人は波に耐える岩に愛着を感じ、優しく言った。

「早く引き潮になるといいね、毎日波を受けて辛くないかい?」

老人は問いかけた。

岩は何も答えない。

新しい波が岩を打った。

老人は立ちあがり、岩の所へ歩いて行った。

 ゆっくり手を伸ばして岩に触れた。老人は始めて眺めつづけた岩
に触れた。

 岩はひどく冷たかった。

 老人は岩に着ている上着を掛けてあげたい衝動に駆られた。

 沖を見つめる。連なった小さい波の向こうに一際大きな波がこち
らに向かっていた。老人の窪んだ目はその波を見つめつづけている。
老人の足を低い波が濡らした。刺すような冷たさが足に染み渡った。

 大きさを増して行く波、沖のサーファー達はこれを逃さず、その
波に乗った。

波は岩に迫ってくる。

老人は岩をかばう様に身体を盾にした。

波が老人の身体を濡らす。

 黒いごつごつした岩を撫でながら老人は黙っている。

 寒さが老人の身体を突く、特に頬は凍った様に冷えた。

「涙でも流れれば頬だけでも温かいだろうにね」

老人は岩に話しかけている。

 沖を眺めると、再び大きな波がこちらに向かっている。

 老人はじっとしていたが、波が来る直前に岩を離れた。岩は波に
呑まれた。

 老人は悲しげに岩を見つめている。海に背を向けると歩き出した。

 寒さに囃し立てられながら老人は誰もいない家へと歩いて行った。