インディーズバトルマガジン QBOOKS

第3回3000字小説バトル
Entry9

二度目の初恋

作者 : カミュ
Website :
文字数 : 2983
 昔はこんな笑い方をする人じゃなかった。いや、そうだっただろ
うか? 思い出せない。少なくとも、この人に会うまでは、すぐに
思い出せた。忘れたことなどなかったはずの、初恋の顔なのに……
いや、だからこそ、いざ実物を目にするとそのあまりのギャップに
霧散してしまうものなのか。
 記憶というものは曖昧で、しばしば自分の都合の良いように真実
をねじ曲げてしまう。この記憶も、長年の間に、自分の理想の恋愛
像に作り替えてしまったものなのだろうか? 英子は、まじまじと
目の前に座る新しい上司を見つめ、思った。
 この不況下の中で、たまたま見つけた良い仕事。何の気なしに応
募し、一発で面接に合格。そして初出勤。出会った男……初恋の頃
の記憶にない、シニカルな笑み。
 運命、宿命、天命……そう思うには、もう歳をとりすぎたのかも
しれない。だが脳裏にはそんな甘い言葉が駆けめぐる。
 男――織田は英子の履歴書を読んだのか、それとも読まなかった
のか、とにかく一度も目を会わせることなく、手に持った勤務マニ
ュアルを早口で読み上げている。口元に微かに人を、人生を舐めた
ような笑みを、張り付けながら。
「……これで勤務内容の説明は以上ですが――質問など、あります
か?」
「――いいえ」
「そうですか、では、がんばってください」
 男はそう言うと席を立ち、去り際、ポンッと英子の肩を叩いた。
 何故かそれだけで、織田に対して抱いていた不信感は払拭され、
彼女は、そんな自分が、ひどく安っぽい女だと嫌悪感を抱いてしま
う。
 だが、とっさに振り向き、見た織田の口元には、もはや皮肉った
笑みなどなく、まして親しみを帯びた微笑みもなく、ただ、仮面の
様な無表情の中に、わずかに押し殺した、圧迫された感情のような
ものを感じるのみだった。

☆

 愛情を、これ以上ないというくらい受けているくせに、子供は愛
情表現が、特に男女間では下手だ。男女の性別が現れ始めた小学生
中頃になると、それは顕著に現れて……定番のゴシップがクラスの
中に溢れはじめる。「誰々が誰々のことを好きだとか、嫌いだとか」
 そんな中、織田は兵庫から転校してきた。素直で、少し大人びた
織田は、たちまちクラスの人気者となり、そして関西弁を馬鹿にさ
れるとすぐ喧嘩をふっかけた。
 そんな中で、あまりクラスで目立つことのなかった英子には織田
が、大人というよりも、何か、大人のフリをしようと精一杯背伸び
をしているように見えた。そして何か、そこには切実な思いがある
ようにも感じた。洞察は推理となり、推理は想像となり、そして何
時しか、英子は無意識のうちに、いつも織田を見るようになってい
た。
 ――3ヶ月くらいすぎると、クラスの中に噂が立ち始める。「英
子は織田のことをいつも見てる」「好きなんじゃない?」形を持た
ず、当人に訊くこともなく、噂は一人歩きし……そんな中、英子だ
けは噂を耳にすることもなく、織田を見つめ続けた。

 事件が起こったのは、織田が転校してきてから二月くらいたって
からだった。放課後、帰る用意をしていると、英子の元に気の強い
ことで有名な女の子がやってきて、いきなり
「織田君のこと、どう思ってるの?」
 と、かなり強い口調で訊かれた。英子はどう答えて良いか分から
ず、そこで初めてこれまで自分が織田のことばかり見、考え、そし
てそれが、そういうことが恋なのだと知ることとなった。自覚して、
さらに英子は返答に困った。好きなのか、どうなのか、自分でも考
えたこともないのに、そんなこと、人に言えるわけがない。
「分からない」
 と答えると、女の子は「来て」と強引に英子の腕を引っ張った。
いつの間にか、女の子の取り巻きが英子の周りを囲み、抵抗するこ
とも出来ず、英子は近くの河原に引きずられるように連れて来られ
た。
 そしてそこには、織田がいた。予想できたことだ。

 ここからの記憶は、良く覚えている。最初に思い出すのは、近く
を流れる川。夕日が川面を照らしてキラキラと光っている。水が流
れる音に、風が枯れたススキを揺らすシャラシャラという音。
 織田は夕日を背に立っていて、逆光でシルエットしか、見えない。
まぶしさに目がくらんで、自分がどこにいるのか、分からないよう
な不安。ひどく緊張している。冬に差し掛かった午後の空気が、冷
たく、冷えた手を何度も握りしめた。
 河原はちょっとした児童公園になっていたが、遊戯で遊んでいる
子は見あたらない。公園のとなりのゲートボール場では何人かの老
人が、ゲームをしている。老人たちは無表情に玉をつつき、どこか
事務的な印象を受ける。それが楽しみでやっているのか、真剣にや
っているのか分からないが、そこから話し声が聞こえることはなか
った。そして打たれたボールが、ゲートに弾かれあさっての方向に
転がった時、
「ズバリ訊くけど、英子ちゃんって、織田君のこと好きなの?」
 漫然とゲートボールを見ていた英子は、ハッとして織田を見た。
 日没が近かった。さっき織田の背にあった太陽は、何時しか家の
屋根に隠れている。織田の表情は堅かった。最近良く目にする表情。
特に偶然英子と目が合った時に、浮かべる、表情を殺した顔。何か
切実な感情を、力ずくで奥に押し込めたような、眸。
「どうなの? 英子ちゃん」
 英子はカッと全身が熱くなるのを感じた。グッと拳を握りしめる。
「……嫌い」

 それから20年あまりが過ぎ、英子は織田と出会った。
 入社してから半年あまり、確実にこの男は初恋の織田のはずなの
に、織田は何も知らないかのよう。結婚もせず、恋人らしい噂もな
い。こうして飲み会の後、偶然二人きりになっても、織田はプライ
ベートな話題に乗ることはない。ないはずだ。
「織田君……」
 いつもは“さん”付けで呼ぶ名なのに、カマをかけてみる。織田
は何も言わない。ただ……
 何時の間にこんな所まで来たのだろう。この街にも、少し歩けば
こんな場所に出るものか。過去と全く同じというわけでもないけれ
ど……
 ここは、いつか見た川。
 少し幅は小さく、何より今は夕暮れじゃない。数少ない街灯の光
が、静かに川面を照らしてる。
「気づいてないなんて、どうして思う?」
「?」
 唐突な言葉。言葉を理解し、その意味を知った時、世界から色が
失せ、時が止まる。手が震え、胸は喜びに溢れ、そして急に怖くな
る。ここは何処だろうと感じる。日常から遠く離れてしまったよう
な不安、緊張。あの時と同じだと思い出す。
 夏の、あの時とは違う熱い夏。都会独特の粘り着くような熱気に
包まれながらも、英子は寒気を感じた。風が流れ、それは次第に強
くなる。川は、やや波が立ち、そして突然、突風が吹き荒れた。ふ
わっと髪が揺れ、少し引っ張られる。
 吹き荒れる風。あの時とは違う。今はお互い子供ではなく、意地
悪な女の子もいない。そして何より、英子は恋をしている。今、は
っきりと感じた。子供の頃の淡い恋心ではない。激しい、想い。初
恋の延長ではなく、子供の頃の織田ではなく、この男が。
 初恋は実らないというのは、それは本当の恋愛じゃないから。結
局、あの初恋は実らず、そしてこれは初恋とは全く違う、新しい想
いに違いない。
 英子は初めて、織田の目を見て言った。
「思い出した?」
「ああ」
 織田はそっけない。
「好きだった? あのころ」
「――さあな」
「じゃ今……は?」
 織田は少し、考えるふりをしていた。やがて、顔を上げる。少し
緊張した表情で、しっかりと仁王立ちで……
 そして言った……