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第3回3000字小説バトル全作品・結果一覧


#題名作者文字数
1カレー佐藤ゆーき2800
2近年、地獄事情ひろ猫2935
3寒い冬にコートを脱いだら風邪ひいた小林知恵2910
4現実が紙屑になる瞬間厚篠孝介2451
5最後のひとおーぎや2976
6地下道をぬけて吾心2999
7囚人たち逢澤透明3000
8追憶岡嶋一人2966
9二度目の初恋カミュ2983
10(作者希望により削除)--
11幼児回収業者紅緋 蒼紫2861
12トリックスターうめぼし2994
13akoh2984
14大保険時代羽那沖権八2970
15乳の罠 鮭二3000
16甘い生活一之江3000
17グミのペンギン越冬こあら2959
18Wanna be free AS A BIRD?川辻晶美2999

第3回3000字小説バトル
Entry1

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カレー

作者 : 佐藤ゆーき
Website : http://www.d2.dion.ne.jp/~syuki
文字数 : 2800
 その時、彼女の記憶の中で何かが引っかかったがそれが何なのか
は分からなかった。
「どうしたの?」
「うん、カレーのにおいがちょっとね」
「なんかおかしい?」友人がまた訊いた。
「そうじゃないけど」
「お昼休み短いんだから早く食べましょ」
 社員食堂、友人、いつもの当たり前の光景だが、どうしてこんな
ところでこんなものを食べながらこんなくだらないおしゃべりをし
ているのだろう。目眩のような感覚とともに時間や空間、自分自身
についての意識が薄くなっていくような気がした。
「ねえ、いい男の後ろ姿を見た時ってどう思う?」
 その言葉は無意識のうちに発せられた。
「え?どうって言われても」
「私はその後ろ姿でいい男って分かる男が振り向いた時、本当はい
い男じゃなかった
らいいのにって思うわ」
「どうして?」
「だってその男はきっと私のものになんてならないし、例えなった
としてもそうなるまでに私は傷ついたり苦しんだりしなくてはなら
ないから、いっそのことその男がいい男じゃなかったら私は何も思
い煩わなくていいもの」
「変なの。でもあなたはもてそうなのに」
「私って完璧主義なのかもしれない。いろんなことを途中でぶちこ
わしちゃうし」
「どういうこと?それって反対じゃないの」
「完璧主義って英語でAll or Nothingって言うじゃない。全か無か。
でも私って100%になるまで努力することが出来ないから全部ぶ
ちこわして0にしちゃうの。100にするのはしんどいしかと言っ
てそこそこで満足することが出来ない。だから0を望むの。まあ言
ってみれば完璧主義の落ちこぼれかな」
 仕事に戻ってからも彼女はいらいらしていた。早くこんなところ
から出ていきたかった。でもどうして?出ていってどうしたいの?
それが分からない。目の前には処理しなくてはならない伝票が山積
みになっていた。彼女は自分を落ちつかせた。そうよ、
まだその時じゃないわ。

 その日は金曜日、彼と会う日だった。いつもの店で待ち合わせを
して、たいていは二時間かそこらは一緒にいる。
「ジントニックを」
「私も」
 いつも一杯目はジントニックだった。
「社員食堂っていう所ででお昼食べたことある?」唐突に彼女は言
った。
「ないな」まるで今日は社員食堂について話すことが決まっていた
かのように平然と彼は答えた。
「私、なんだかあそこ嫌い。安くて、味も悪くなくて、おばさんも
いい人だけど。うーん、嫌いって言うのとは違うかな。なんだか違
和感があるって言うか、そんな感じ」
「今日はなにを食べたの?」
「カレーライス」
 また彼女の中で何かが引っかかった。鼻の奥でつーんとカレーの
においがした気がした。何かが思い出せそうで思い出せない苛立ち
から彼女は会話に集中できなかった。それから二杯のお酒と軽い食
事の間に彼女はそれを気にすることをやめた。
「人工呼吸ってしたことある?あのマウス・トウ・マウスっていう
やつ」 
「いや、したこともされたこともないな」 
「私はされたの。二カ月前、プールで溺れて意識を失ったときに知
らない男の人に助けられたの」
 彼女ははじめてそのことを彼に話した。 
「泳ぐのは得意だったのにその時はなぜか溺れてしまったの」
「人工呼吸ってどんな感じ?」彼は彼女の方を見ずに訊いた。
「そんなの覚えてないわ。だって意識がなかったんだもん」
「その後泳ぐのが怖くなかった?」
 訊きながらも彼はその答えに興味を持っているようではなかった。
ただそう訊くのが正しい方法だとでもいうように淡々と言葉を発し
た。
「全然、水の中ってとても素敵。いくらたくさんの人が同じプール
に入っていても、水に潜ったら自分だけの世界にいるように感じる
の」
 その時はじめて彼女は今日の自分はしゃべり過ぎだと感じた。同
時にほんの少しの沈黙が生まれた。ほんの少しの沈黙なのに適度の
アルコールによって研ぎ澄まされた神経がそれを何倍にも感じさせ、
周りの雑音が彼女に迫ってくるようにように思えた。
「君が君の人生の中で楽しいと思えること、それを行う価値がある
と思えることってなんだい?」
 彼が訊いた。
「うーん、お酒を飲むこと、泳ぐこと、おもしろい小説を読むこと、
他にもありそうだけれども今思い浮かぶのはこれくらい」
「それは違うんじゃないかな。それらはたぶん君にとってただの暇
つぶしにしかすぎないんじゃないかな」
 遠くをみるような目で彼が言った。
「どういうこと?」
「うまくは言えないけれど、それらのことは君が君の人生という膨
大な時間を生き延びていくために時間を浪費するに値すると思って
いるだけなんじゃないかな」
「じゃああなたにとってそうじゃない本当に楽しいことってなに?」
「僕にも分からない」

 タクシーの中で二人は無言だった。でもそれは珍しいことでも気
まずいことでもない。彼と彼女の間にはそれがなくてはならないと
いうこと、それによって縛られることなどは何もない。でもそれ以
上のものも何もない。今は彼女はそれで満足していた。彼がふと口
を開いた。
「今日僕が言ったことは気にするな。ちょっと酔ってたんだ」
 うそだ。彼は酔ってなんかいなかったし、例え酔っぱらっていた
としても何の意味もないたわ言なんか彼は絶対口にするはずがない。
彼は完璧だった。でもその時の彼は二人の間にある何かによって必
要に迫られてタクシーの中でそんなことを言ったのではないかと思
い彼女はいらいらした。彼には自分の放った言葉に対して彼女に気
を遣って欲しくなんかなかった。
 そして彼女のマンションの前で一人でタクシーを降りた時、彼に
対して何かを言おうとしたが、何か言ったら決して100にはたど
り着かない苦しみに支配されそうだったので言うのをやめた。
「おやすみ」
 それだけ言ってタクシーの中の彼を見た時、彼は完璧な彼に戻っ
ていた。
 
 部屋に戻り、シャワーを浴びて化粧を落とし、冷蔵庫の中のミネ
ラルウォーターを一口飲んで彼女はベッドに入った。すぐに意識が
身体から離れてどこかへ落ちていくのを感じる。その完全に眠りに
落ちる前のまどろみの中で彼女は自分が溺れたときの夢を見ていた。

 急に体が重くなる。千メートル泳ぎ続けても平気だったのにその
時はなぜか手足が動かない。息が苦しくなる。死ぬという恐怖がお
そってくる。でも私は知っている。この後私は知らない男の人に助
けられるのだ。ほら、私はプールサイドに引き上げられる。私を仰
向けにして気道を確保する。男の人の顔が近づいてくる。でも顔は
分からない。男の人の口が私の口をふさぐ。その口から微かなカレ
ーのにおいがする。

第3回3000字小説バトル
Entry2

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近年、地獄事情

作者 : ひろ猫
Website :
文字数 : 2935
 気まぐれに吹く突風に舞い上げられ、細かい砂が容赦なく目の中
に入ってくる。痛い。見渡す限り白い海、と言ってもここは海では
ない。まるでその様であるかに見える広大な砂漠の真中である。な
ぜ真中であると思うのかと言えば、それは私がもうかれこれ十時間
近くも歩きつづけているというのに、民家どころか雑草さえも生え
ていないからである。
 白砂に月の光が反射してきらきらと光る、確かに美しい。いや、
そうに決まっている。ただそれも、この飢えと渇きの前にはこの上
なく虚しいだけなのである。
 つい今しがた私は死んだ。いや、正確には車に跳ねられたのだか
ら殺されたと言うべきなのかもしれない。
 生前は友人達と「天国とはどのようなところなのか」というきわ
めて神秘的な問いについて、しばしば語り合ったものである。まあ
半分は酒を飲みながらの与太話のようなものなのだが、それにして
も人間は十人十色、百花繚乱と言うべきか、かくも多種多様な考え
を持っているものなのかとまったく驚かされた。ある者は「自分以
外は女しかいないハーレムのようなところだ」と言い張るし、また
ある者は「コンビニのようなところに世界中の酒が並んでいて、そ
れが全てたったの10円で取り放題なのだ」と言う。なぜ10円なの
かはいまだに定かではないが、それを聞かずにあの世に来てしまっ
たことが心残りなのは間違いない。
 とにもかくにも、か様にきらびやかな意見が飛び交う中、私は
「天国とは一面白砂に覆われた不毛の砂漠であり、昼が一日のちょ
うど半分、そして夜になれば黄金の月がのぼり大地を星屑の海であ
るかのように美しく照らし出す、そんなところだ」などと気取った
ことを言っていた。知恵誇りのするタイプであった。で、今にいた
る。果たして天国に来られたことを喜んでいいものかどうか。生前、
私はあまり良いことをしなかった。
 遠くの方からざっく、ざっくと砂を踏む音が聞こえてくる。よく
よく目を凝らしてみると、なんとラクダに乗った日本人ではないか。
なぜ日本人だと思うのか、それはここが天国であり、そうでないと
私はさらに困窮する羽目になるからである。生前、英語はからきし
駄目であった。
「おーい、そこのラクダに乗った人」
 私は大声を上げて駆け寄っていった。
「おお、同士よ。何かお困りか」
 ちょっと変人である。しかし、今の私に選択肢などあろうはずが
ない。私は迷わず問いかけた。
「ここはどこなのでしょう。やはり天国なのでしょうか。そのラク
ダはどこに居ったのですか……」
 男の答えは概ね次のようなものであった。
「ええ、ここは天国であり、このラクダは私の所有物です。生前、
天国にはラクダが住んでいるものと確信しておりましたから」
 どうやらこの男も私と同じく、天国について少々こまっしゃくれ
た解釈をしていた一人らしい。ただこの男の場合知恵誇りではなく、
生まれながらにして少し変わっているという点において、私とは一
線を画している。
 やがて月が沈み、砂漠には容赦なく真昼の陽光が降り注ぐ。
「ねえあなた。私も少しぐらいそのラクダに乗せてくださいよ。昨
晩から歩きどおしで、筋肉痛がひどくって」
「いや、こいつはひとこぶだから・・・・・・」
 けちである。
 いい加減、嫌気がさしてきた頃、遥か彼方に馬鹿でかいオアシス
が見えた。なぜだか分からぬが、これは先ほどまで幾度となく信じ
て裏切られた蜃気楼ではなさそうである。我々は疲れも忘れ懸命に
走った。途中、砂に何度も足をとられひっくり返りながらもどうに
かこうにかたどり着いた。紛れもなく本物のオアシスである。夢中
で飛び込もうとする二人に、誰かが突如話しかけた。
「あんたらやめといたほうがええよ。そいつらとんでもなく獰猛じ
ゃけん」
 声の主はオアシスの真中にいた。美しい人魚たちに囲まれて、さ
ながらリゾート気分である。そして足下に目を移すとそこには三メ
ートルはあろうかという恐ろしげな怪魚が、所狭しとうようよして
いるではないか。
「あなた、いったいどうやってそこまで行ったのですか」
 やりきれないというように私が問いかけると、その男は「はじめ
から居ったけん」と事も無げに言ってきた。どうやらこの男も我々
と同類らしい。ただ人魚とオアシスと食い物がある点において、我
々よりも遥かに恵まれているのである。まあ、あの怪魚はさほど美
味そうではなかったが・・・・・・。それにしてもうらやましい。
私も人魚に囲まれたかった。いや、それが無理にしてもせめてラク
ダぐらい……。
 そんなことを考えながら我々はオアシスを後にした。そして太陽
が西の空に傾きかけた頃、我々は信じられないものを見つけてしま
った。遠くから見るとそれは四角い箱の様に見えたのだが、近づい
てみるととんでもなく大きく、そうさちょうど平安神宮の鳥居ぐら
いの真っ黒い鉄扉だった。木製の古びた表札には、こともあろうに
「ここが地獄の一丁目」と乱雑な字で書いてあった。ちなみにその
表札は一般家庭の物とほぼ同じくらいの大きさであった。我々はし
ばし見詰め合い、お互いの意思の疎通を図った。この時点で、もは
や我々は天国に対する未練を微塵ほども持ってはいなかった。あの
人魚たちを除いては……。
 かくして私は土方作業に精を出している。元々が土建屋だけに作
業もさほど辛くはない。食い物さえもなかった天国に比べたら、三
度の飯が食え、おまけにご飯に限りおかわり自由のこちらは百倍幸
せである。強制労働とは言うものの、それは個人の主観の問題であ
って、やってるほうがやらされてると思わなければこれ文字通り自
主労働、ボランティアなのである。
 ただ、生前の土方作業とは若干性質が違うようである。普通、土
方作業は水道管を通したり、下水管を通したりする為のものだと思
うのだが、ここでは掘ることは掘るがそれをそのままにしてしまい、
何に利用するという訳でもないのである。まあこのへんが強制労働
の、強制労働たる所以なのかもしれないのだが……。
 ところでかのラクダに乗った友人はというと、彼は適正試験の結
果コンピュータープログラミングという、私には到底不可能な仕事
に従事している。無論これも強制労働である。
 それはさておき、そこの同僚に彼が聞いた話が実に興味深い。我
々が数ヶ月前に通った場所は、紛れもなく天国であるというのだ。
そして天国とは普遍的、客観的事実に基づくものではなく、個々の
人間の潜在意識の中に存在しそれがどうやら映写機のようなもので
映し出される幻のようなものであるらしい。もちろんのこと全ての
人間が天国に行ける訳ではなく、皆様ご存知の通りの取捨選択がか
の人によって行われるのである。ただ近年、若者の自主性欠落によ
り強制労働を強制と感じる人間はきわめて稀なのだそうだ。つまり
は天国と地獄の対比により、地獄の苦しみを如実に罪人どもに味あ
わせてやろうという、地獄側の苦肉の策だったのである。「ああ、
そうと知っていれば」と嘆いてはみるものの、やはり強制を強制と
感じない私にとって、多少の労働と鞭打ちはあるものの、ここが幸
せな新天地であることに変わりはないのである。

第3回3000字小説バトル
Entry3

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寒い冬にコートを脱いだら風邪ひいた

作者 : 小林知恵
Website :
文字数 : 2910
 ある寒い朝、全校集会の行われた体育館の片隅で僕は貧血を起こ
して倒れた。この冬一番の寒さで低血圧の僕の体は必至に眠気と寒
気に耐えようとしていたのだが、そんな事はお構いなしに僕の体は
寒く静かな体育館に大きな音を響かせ床に倒れた。遠のく意識の中
聞こえてきた校長先生の話はこうだった。
『私の左手には沢山のしわがある。それらには頭脳線、生命線、感
情線などと名前が付いていて、それを見れば一目でどういう人間か、
どういう生き方をしてきて今後どういう人生をたどるかが解るのだ。
私のしわはそれはたいそう立派なものでそれは私がどれだけ素晴ら
しい人間かを表わす。諸君達もぜひ見習って私のような素晴らしい
手相を手に入れていただきたい』
難しい事を話していたが、僕なりに解釈した所、このような事を話
していた。
 僕は床に寝転がり生徒の隙間から見上げる校長先生はとても不細
工だと思った。


「片桐また倒れたね」
「最近いつもじゃん」
長い全校集会が終わりじっとしている事に耐え兼ねていた生徒達は
冷えた足先をかばいながら足早に教室に向かった。沙織は寒さで軽
い頭痛を感じていた。
「そう言えば片桐って保険室の城崎とできてるらしいよ」
「嘘。それほんとー」
「やっぱ家庭とか複雑だといろいろとヒズミができるんじゃない?」
「片桐の家、再婚したとかいって。」
「しかもお母さんが旦那さんにべたべたらしいよ、しかも旦那さん
すごい金持ちらしいし。」
「奪われた母の愛を求めて、そしてたどり着いたところが城崎?」
「複雑だね」
「難しいね」
沙織はガラスに張った水蒸気の隙間から見える外の景色を見ていた
太陽が水蒸気に乱反射し上手く外を見る事はできないが暖まってき
た生命達は徐々に解けて水浸しになっていた。
「沙織、どうしたの?」
「そうだよ、さっきから黙って」
友達の美紀と由紀が心配そうに顔を覗き込んだ。
「頭が痛い」
沙織はさっきから二人の話し声があまりにも大きく頭に響くので少
しいらいらしていた。
「保健室いってくる」
沙織は熱い目の裏を押さえた。ここにあの水蒸気の付いたガラスを
当てたら気持ちいいだろうと思った。

 保健室に入ると中はとても熱く私は急速に具合が悪くなるのが解
った。白いカーテンで遮られたベットが一つあり、そこに片桐は寝
ているのだと解った。沙織は片桐と同じクラスだったが話した事が
ない。いつも静かで、色が恐ろしく白く体の線が細いのでよく貧血
で倒れるというのも解る気がするのだった。
「どうしたの」
城崎は机から紅い顔を上げたずねた。
「風邪をひいたらしいです、頭痛がするんです」
「そう」
城崎はにこりと笑い。ベットを用意した。
「一応、熱計ってみる?あまりひどいようだったら先生に言って帰
ってもいいけど」
「少し休めばよくなると思います。今動くのはつらいです」
城崎はそれではどうぞと片桐の隣のベットを薦めた。私は靴を脱ぎ
白いシーツと布団の間に体を滑り込ませた。布団の中が冷たくて思
わずどきっとした。
「ゆっくり休みなさい」
「先生、暖房少し弱めてもらえませんか?」
「ごめんなさい、熱かったわよね」
城崎は慌てて暖房のスイッチを動かすと片桐のいると思われるカー
テンを指差し「そこに寝てる子がすごく寒がりなのよ。」といった。

 最近頭が重い。
 それは眠気にも似ていて、なのに目蓋を閉じても決してどこかに
消えるものではなく。徹夜した眠気を通りすごした感じである。頭
は冴えてるのにのに一つの事がじっくり考えられない。何も頭に浮
かんでこない。
 僕は目が覚めた。見慣れた保健室の白い天井が目に入る。どのく
らい寝ていたんだろう。また倒れたらしい。
 カーテンを開けると先生が気分はどうかと聞いてきた。先生はよ
ほど暑いのか頬が真っ赤だ。この部屋の温度は僕に合わせてあるせ
いだろう。
「片桐君、中間テスト白紙でだしたんだって?どうしてかしらね。
解らないワケないわよね」
先生は僕の肩に両手を乗せ小声で話した。
「だって出る問題知ってたじゃない」
先生は意地悪そうに笑った。
「先生、あれ手に入れるの大変だったのに。どうして解ってくれな
いのかしら」
 その時隣のベットから同じクラスの佐山沙織がでてきた。
「どう、調子は」
「だいぶ良くなりました。今日はもう帰ります」
「そう。担任の先生には言っておくわ」
「ありがとうございました」
佐山は居心地が悪そうに素早く部屋を出た。
「聴かれたかしら?」
それでも先生は意地の悪い笑顔を止めない。
「僕、心配なんでついていきます」
とりあえずここを出たかった僕は適当な理由をつけて部屋を出た。

 保健室で沙織は眠る事ができなかった。部屋が暑すぎたのだ。し
ばらくすると話し声が聞こえた。片桐と城崎の声だった。小声で良
く聞き取れなかったが、要するに城崎は片桐にテストの問題を見せ
たのだ。それ以上聴くのが恐くて思わず飛び出してしまったが失敗
だったなと思った。保健室を出ると片桐が追いかけてきた。校門ま
で送ってくれるのかと思ったら、門を出ると片桐は毛糸の帽子とマ
フラーと手袋をはめた。
「寒がりだね」
「なんで?」
「だってそんなに着込んで。保健室だって城崎が片桐が寒がるから
ってあんな暑さにしてあったんだよ」
沙織は少し意地悪な事をいったと思った。片桐は何も言わず私の右
を少し離れて歩いた。外の寒さは尋常ではなかったが保健室でほて
った頭を冷やすには丁度良かった。
「ちょっと待って」
片桐は道をそれて煉瓦の塀の奥を覗き込んだ。そこには三匹の黒い
子猫がいた。
「かわいいね」
沙織はしゃがんで一匹の喉をなでた。
「一週間ぐらい前に見つけてえさをあげたんだ」
「お母さんはいないの?」
「知らない」
片桐は一匹を取り上げ「おまえのお母さんはどこだ」と話し掛けた。
「片桐君、動物好きなの?」
「べつに好きじゃないよ。でもこんなかわいい小猫を嫌いだなんて
いう奴いないんじゃない?」
片桐は三匹を交互に取り上げすべての猫にキスをした。その動作が
とても人間味があっていつもクラスで息を潜めている片桐とは思え
なかった、沙織は面白くて小猫ではなく片桐に目を取られた。
「さっきの話聞いてた?」
沙織はあまり急だったので嘘がつけなかった。
「どうしたっていいよ。ずるい事をしたんだからそれ相当の罰があ
っても仕方ないよ。嘘をつく気はないよ」
「でも片桐が欲しがった訳じゃないんでしょ?」
「鞄に入ってたんだ。すぐに城崎先生だって解ったよ。先生ここん
とこ変なんだ」
「城崎とつきあってんの?」
「付き合ってないよ。先生は僕の事好きみたいだけど」
「みんな噂してるよ」
「人生の九割はくだらない事でできていて噂もそのうちの一つだよ。
僕はそんな事は気にしない」
ただ、現実に起こってしまった事はどんなにくだらなくても無視で
きないけどね。と片桐は笑った。
 片桐とは駅まで歩いき、その間にいろんな事を聞いた。中学の時
いじめられた事。お父さんが病気で死んで母が再婚をした事。再婚
相手は決して金持ちでもなく普通の男だと言う事。大きくなったら
猫を飼うという事。沙織が人生の後の一割は何ナノ?と聞くと「小
猫のかわいさかな」と答えた。
 沙織はこの事は誰にも言わないだろうと思った。片桐がかわいそ
うに見えたのかも知れない。でもこの気持ちも片桐の言う事のくだ
らない事に当てはまるならばそれは少し寂しいと思った。

第3回3000字小説バトル
Entry4

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現実が紙屑になる瞬間

作者 : 厚篠孝介
Website :
文字数 : 2451
 老人は長い間連れ添った伴侶を無くした後はする事も無く、毎日
海を眺めている。

 彼の人生は決して満ち足りた物ではなかった。彼は自分の人生を
大して価値のあったものだとは思わない。深く落ち込んだ細い目を
見れば分かる。

 自分の人生をかろうじて人生と呼ばせたのは妻の存在であったと
彼は信じている。妻の死でその価値も失われた。

 それは柱が折れ、傾きつつも微妙なバランスで形を保っている家
にも似ている。

 雪は降っていないが、冷たい風の吹く冬のある日。

 老人はそれでも海を眺めに外へ出る。

 老人は海全体を眺めているわけではない。彼が眺めるのは波打ち
際、砂浜の片隅に突き出た岩に寄せる波を眺めているのである。

 今日は寒いが、風で波が高く、沖では波を待つサーファー達の頭
が波間に見え隠れしている。

 いつもの場所に座り、いつもの岩に目を据えて、波を眺める。

 波というのは不思議で、二つと同じ物が無い。岩に当たって僅か
に水滴を上げるだけの波もあれば、岩を飲み込んでしまう波もある。

 老人の影が砂の上で黒い塊になっている。風が吹いても、影は変
わらない。

 窪んだ瞳は動かない。何を見ているのかと疑いたくなる。岩と変
わらない浜辺の物質の様である。

 上着から感じる自分の体温がなければ、たしかにそれは海辺の物
質に過ぎないかも知れない。

「おじいさん」

後ろから声をかけられた。さっきまで波間を漂っていた若者だ。厚
い上着を着ているが、唇は青く、髪は塩のせいでまとまりが悪い。

「毎日何を眺めているんですか?」

「波だよ」老人は岩を指差して言う。

若者は老人の隣に座った。若者は岩を見つめている。

二人とも何も語らない。ただ黙っている。

「あの波」

「え?」

「あの波は岩を呑み込んでしまうよ」

老人は海原に生えた鱗のような波のうねりの一つを指差して言った。

「見ていて御覧なさい」

若者はその波を見つめている。地平線の向こうからやってくる波の
うねりは陸に近づくに従って大きくなり、白波を立てて岩を飲み込
んだ。白い滴が飛んだ。

「本当だ」

「あの波はもっと大きい、そこまで寄せるだろう」

と今度は白い砂浜を指差した。

 果たしてその波は岩を越えて二人のすぐ前にまで寄せ、砂を黒く
縁取って消えた。

「波が読めるんですね」若者が言った。

「毎日眺めているからね」老人は少し嬉しそうに言った。

若者は紫の唇を触りながら、うねりを眺めている。だが無数に生ま
れるうねりのどれが大きく、小さいのか、判別できなかった。

 すごい才能だ。若者は思う。ちょっと見ただけで波の大小を見分
けられる。若者はサーフィンをするから、サーフィンをしない人に
とっては何とも無い特技も、多少の羨望を持って眺めることができ
た。

 若者は懐からタバコを取りだし、老人に勧めた。

「ありがとう」

老人は一本つまむと言った。

 若者は火を付けてやり、最期の一本をくわえた。空の箱を握りつ
ぶして砂浜へ投げた。

波が手を伸ばしてそれをさらい、自分の身体に浮かべて満足げであ
る。

 吹き出した白煙が風に流されて老人の髪に掛かり、乱れながら消
えた。

「海は要らないって言ってるよ」老人がぽつりと言った。

始めはその言葉の意味が分からなかった若者も、大きい波がタバコ
の空箱を波に乗せ二人の前において去ると、その意味が分かった。

 若者は立ちあがり、タバコの空を拾い上げるとまた老人の隣に座
った。

 二人は何も語らない。波の音と車の流れる音ばかりが二人の間に
流れている。

 波はその都度表情を変える。一として同じ波は無かった。

「波は人と同じでしょう」

老人が言った。

「寄せては返し、寄せては返す。ちょっと見ただけでは無駄に思え
る事を繰り返している。けれど波は砂を運んでこの浜を作り、岩を
少しづつ砕いている。海を人生に例えるなら波は毎日の出来事のよ
うな気がする」

 若者は不思議な表情でそれを聞いていた。青かった唇に僅かな赤
みがさしている。

 背後で若者を呼ぶ声がする。彼を迎えに来た女友達だった。

 若者はちょっとためらった。老人をこのままにして帰る事が気に
なったのだ。

「行ってあげなさい。若い時の想い出は大切にしなさいよ」老人は
海を見つめながら言った。

「唇が真っ青だよ、車の中に行った方が良いよ」と友人が言い、二
人は海に背を向けて歩き出したが、若者は踏みとどまった。

 さっきから、この情景をどこかで見たことがあるような思いにと
らわれたからである。

 高い波を一杯にため込んだ海、砂浜に突き出た岩、灰色に煙る空、
強い風、その中の老人の小さい背中、自分のつま先を堺に、違う世
界が広がっている様に見えた。

 「ここ」と「そちら」の関係は揺るぎ無い壁の様に高くそびえて
いた。

 若者は何か「究極のもの」を見た気がした。

 「そちら」から持ちかえったタバコの空箱を握り締めると、若者
のもやもやとした人生と言う物が、老人の背を吸収して、ある決意
に似た形で落ち着くのを感じた。

 誰でも持っている「現実」と「理想」の対立・緊張関係がやわら
ぐ気がした。

 その理由がまだ若い彼に分かるはずも無い。




「今度の波は高いよ」

老人が岩に向かって言った。

 波の一つ一つが時を刻んでゆく。波は時計の秒針よりも確実に時
間を刻む。

 この波がもっと遅ければ妻と一緒にいられる時間ももう少し長か
ったかもしれな
い。

 波は破壊者だ。老人は同時に思う。

 自分たちがあの岩ならば、波は少しづつ自分たちの運命を削って
いる。

 もしも波を止めて、幸せだけを閉じ込める事が出来たなら、どん
なに幸せだろう。けれどそれは人生を一色に染めてしまう。まった
く同じ波が来る海と同じだ。だとすれば人生は色褪せてしまうだろ
う。

「今度の波は小さいよ」

 老人は波に耐える岩に愛着を感じ、優しく言った。

「早く引き潮になるといいね、毎日波を受けて辛くないかい?」

老人は問いかけた。

岩は何も答えない。

新しい波が岩を打った。

老人は立ちあがり、岩の所へ歩いて行った。

 ゆっくり手を伸ばして岩に触れた。老人は始めて眺めつづけた岩
に触れた。

 岩はひどく冷たかった。

 老人は岩に着ている上着を掛けてあげたい衝動に駆られた。

 沖を見つめる。連なった小さい波の向こうに一際大きな波がこち
らに向かっていた。老人の窪んだ目はその波を見つめつづけている。
老人の足を低い波が濡らした。刺すような冷たさが足に染み渡った。

 大きさを増して行く波、沖のサーファー達はこれを逃さず、その
波に乗った。

波は岩に迫ってくる。

老人は岩をかばう様に身体を盾にした。

波が老人の身体を濡らす。

 黒いごつごつした岩を撫でながら老人は黙っている。

 寒さが老人の身体を突く、特に頬は凍った様に冷えた。

「涙でも流れれば頬だけでも温かいだろうにね」

老人は岩に話しかけている。

 沖を眺めると、再び大きな波がこちらに向かっている。

 老人はじっとしていたが、波が来る直前に岩を離れた。岩は波に
呑まれた。

 老人は悲しげに岩を見つめている。海に背を向けると歩き出した。

 寒さに囃し立てられながら老人は誰もいない家へと歩いて行った。

第3回3000字小説バトル
Entry5

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最後のひと

作者 : おーぎや
Website : http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2883
文字数 : 2976
「今、おまえが目にしている現実って奴は、おまえだけの現実なん
だ。例え俺がいなくなっても、なんの不都合もなく日常的に過ぎて
いくだろう。悲しいとか寂しいとかなんて、おまえだけの都合でし
かないんだ。あいつが死んだときにかわいそうだと思っただろう?
 残された幼子を見たときに心が痛んだだろう? おまえは、死ん
だのが自分じゃなかったことに喜び、心を痛めた自分に酔っている
んだ。嘘だと思うかい? 自分は違うと思うかい? でもな、所詮
この世界はおまえだけの世界なんだ。おまえが望み、おまえの世界
に反映される。おまえが思い描いた通りの世界が構築されているん
だ。もちろん、俺には俺の世界がある。いままで、俺の世界とおま
えの世界は交わっていた。でも、これが最後。終わりなんだ。おま
えの世界の中から、俺は完全に抹消される。ただ、おまえの手元に
は目覚し時計が残るだろう。ぷっつりと切れてしまうはずの世界の
中で、ほんとに唯一の接点だ。そろそろおまえも目を覚ますだろう。
それが最後になる。いいか、必ず説明書を読むんだ。俺の言いたい
ことがわかるはずだ。絶対に次……」

 カオルは目を覚ました。枕元の時計は7時03分。
 夢の中でリョータがなんか言ってたなあ。まあ、おかげで寝坊し
ないで済んだんだけど。
 あふぁあふぁとあくびをして、ぼさぼさの髪に手櫛を通してから
「さて」と立ちあがる。
 そういやあ、鳴らなかったなあ。せっかく立ちあがったからしゃ
がむのがだるくて、鈍く真鍮色に光る時計を右足の親指でつっつい
てみた。確かにベルはないんだけど、アラーム時刻を合わせるハリ
と、スイッチのON・OFFがある。てっきり目覚し時計かと思っ
たんだけど。
 リョータの声が耳にわずかに残ってる。
 説明書がどうたらこうたら言ってたなあ。でも、目覚し時計なん
て、わざわざ説明書読むまでもないじゃん。いまどき説明書読まな
きゃ使えないモンなんて……。あふぁふぁ。

 シャワーを浴びる。ゆっくりシャワーを浴びてる時間なんてない。
一限は語学だし、出席取られちゃうから遅刻はまずい。
 錆色がかった髪をさささっとドライヤで乾かす。化粧もロクにし
ない。口紅くらいは塗っとくか。
 脱ぎ散らかしたジーパンを拾い上げて脚を通し、乾いたTシャツ
を着る。首の後ろに手を回して、背中まである髪の毛を持ち上げる
ようにしてTシャツの外にだす。
 ルーズリーフとテキストをバッグに突っ込んで、はたと手を止め
た。説明書。授業中にでも読んでみようかな。

 思い通りの急行に乗り、乗り継ぎも順調だったから、一限に間に
合った。夢にでてきた話をしてあげようと思って、いつも早く来て
るはずのリョータを探したんだけど、今日はまだ来てないみたい。
まあ、いいや。一番後ろの廊下側の席に座った。あてられる確率は
低いし、リョータが教室に入ってくればすぐに気付くはず。
 教授は、来るなり出席票を配る。リョータは来なかった。どうし
たんだろう。途中退室できないように最後に出席票を回収するから、
しかたなく退屈な授業に90分を費やさなければならない。それで
も、今日はヒマつぶしがあるから、いくらかマシなほうかな。

 これは目覚し時計です。未完成ですが、新しく開発した機能を搭
載しています。個体別波長同調機能と個体別波長同調解除機能のふ
たつの機能です。
 使用者がスイッチを入れたときに、個体別波長同調機能が働いて
使用者と同調し、視床下部に直接働きかけて視覚的に起きることを
意識付けすることができます。設定した時間になったときに、使用
者が睡眠状態にある場合には、直接脳に働きかけて睡眠状態を解除
します。使用者が睡眠状態ではない場合には、動作しません。また、
使用をやめる際には、スイッチを切ることで個体別波長同調解除機
能が働いて、使用者との同調が解除され、それまでの使用者の睡眠
状態にかかわらず、次にスイッチをいれるまで動作しません。使用
者の時分割波長を縦方向の波長エネルギーに変換し、波長池に蓄え、
それを動力源として時計機能が働いています。長期間使用しない場
合、時計機能が止まってしまうことになります。再びスイッチをい
れたときに、個体別波長同調機能が働いて、使用者の体内時計の時
刻から自動的に目覚まし時計の時刻を補正します。

 書いてあることがさっぱりわかんないや。なんだこりゃ。
 なんだか渋い色だったし、リョータにしてはなかなかしゃれたも
ん持ってんなあって思って、「これちょーだい」って言っちゃった
んだよなあ。
 ページをめくると、波長同調の理論について書いてある。読んで
もわからない。主語と述語の関係さえもつかみにくい。これ読むく
らいなら、まじめに英語の授業聞いてた方がマシなんじゃないかな。
なんだかバカバカしくなってきて、説明書をぱらぱらとめくってみ
た。
 走り書きがしてある。説明文が終わって、最後の4ページほど、
何も書かれてない白いはずのページに、走り書きがしてある。

 旧友である隅谷博士から、試しに使ってみるかと言われて、持ち
かえった。翌朝、実際に起きることができて、すばらしい目覚し時
計であることを実感する。夢の中で、博士が何か訴えていたが、こ
れが視覚的に目を覚まさせるという画期的な理論なのだと理解した。
 この感動を伝えようと、博士を訪れたところ、博士は不在だった。
 翌朝、同じ夢で目が覚めた。博士は全く同じに訴えている。どう
も様子がおかしい。目覚し時計のスイッチを切ることにする。
 ところが、翌朝も同じ夢で目が覚めた。どうしたのだろうか。個
体別波長同調解除機能が働いていないのではないだろうか。
 もう夢を見たくない。だから、設定時刻より前には起きているよ
うにした。最初に設定した時刻から変更することができない。これ
では毎朝同じ時間に起きなければならない。油断をすると必ず全く
同じ博士の夢を見る。
 つらい。

 友達にもらったと言って、弟がくれた。なかなかしゃれてるから、
喜んで使ってみたんだけど、知らない奴が夢に出てきて、たたき起
こされる。なんだかいやな目覚し時計だなと思って、説明書を読ん
でたら、ここにメモが残ってた。書き加えることにする。
 もしかしたら大変なものを使っちゃってるのかもしれない。

 試しに使ってみてと言われて、お姉ちゃんに返してもらったんだ。
翌朝、お姉ちゃんに起こされたんだけど、お姉ちゃんはいなくなっ
てた。あれは夢だったんだ。
 僕は怖くなって、近所のお兄ちゃんにあげることにした。

 しげるくんにもらった時計がこんなに恐ろしいとは思わなかった。
 しげるくんは、いなくなった。いや、俺の頭の中にいる。毎朝、
いる。毎朝いるのにもかかわらず、同じことしか言わない。ビデオ
を再生しているみたいだ。
 俺が推測するに、おそらく個体別波長同調解除機能は、個体別波
長削除機能として働いているのだろう。
 しげるくんをこれ以上見るのはつらい。でも、なにか方法がある
のかもしれない。どうすれば良いのか、よく考えなければ。おそら
く波長同調理論の中にヒントが隠されているはずだ。
 いままでいったいどれだけの人が、この時限のハザマをさまよっ
ているのか。
 助けたい。しげるくんも、目覚し時計を創った博士も。
 もしこのまま飲み込まれてしまうにしても、もっとも愛するカオ
ルの中で存在し続けたい。

第3回3000字小説バトル
Entry6

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地下道をぬけて

作者 : 吾心 [ゴシン]
Website : http://www.phoenix-c.or.jp/~seki/index/top.htm
文字数 : 2999
「騎手なんてものは最初が肝心だからなあ、勝ち癖というものを付
けなくちゃ」
そう言って親爺さんはあの馬に乗せてくれた。デビューは遅かった
がここまで二戦二勝、血統はそれほどでもないが、親爺さんの今年
一番の目玉だった。親爺さんというのは僕がお世話になっている厩
舎の調教師で、みんな親しみを込めて親爺さんとか先生とか呼んで
いる。
「なあに、かなり走りは荒っぽいが落とされないようにしがみつい
ていれば勝てるさ。馬に勝ちかたを教わってこい」
 そう言われて送り出されたが、結果は惨澹たるものだった。スタ
ートで出遅れてしまった僕は焦ってしまい、無理に内ラチ沿いへ行
こうとしたところ進路をふさがれ、あげく馬が立ち上がってしまい
落馬。しがみついているだけで勝てるレース、しがみついているこ
とができなかった。
 あの時の記憶は今でも映写機で見るように頭から離れない。襲っ
てくる激痛にうずくまっていると、遠くから寂しげな視線を感じた。
見るとあの馬がゆっくりとこっちに引き返して来ていた。そしてち
ょうど1ハロン先で立ち止まり、じっとこっちを見ていた。
−ごめん。

 今僕はリハビリ中だ。でもリハビリ中というのは名目で、本当は
とっくの前にケガは治っている。あの日から僕は馬に乗るのが恐く
なった、ただそれだけ、仮病だ。恐いのはケガだけではない。視線、
期待、まわりのもの全てのプレッシャーが恐い。そんなある日親爺
さんが見舞いに来た。
 あの馬のことを聞いてみると、あれから一勝もしていないという。
親爺さんが言うには、とたんに走り方が優しくなってしまったそう
だ。前のように力強い走りが無くなったのだと。
「まあ、あれもあそこまでの馬だったのかね。ごめんな、まだ経験
も無いおまえをあんな馬に乗せて」
−違う、違うんだ親爺さん、僕の方があいつをだめにしてしまった
んだ。
「三週間後あれを走らせてみて、だめだったら引退させようと思っ
ている。」
 引退、軽々しく使われる言葉だが、実績も血統も無い馬にとって
それは死を意味している。素質のある馬なのに、僕のせいだ。
「親爺さん、そのレース僕を乗せてください」
「ん?」と、親爺さんは僕の顔を覗き込んだ。しばらくの沈黙の後、
親爺さんは大声で笑いだした。僕は真剣だった。

「怖いんだろ、馬に乗るのが。仮病だって分かっていたよ」
全て見透かされていた。僕はうつむいているしかなかった。
「この馬の父馬を知ってるかい」
「いえ、乗ることばかりで血統までは」
「父馬に乗っていた騎手も、同じような苦悩を味わったんだ。G1
を制したこともある馬で、最強のコンビだった。だがあるレースで
騎手はミスをしてしまいあえなく落馬、馬の方も屈腱炎を起こして
しまった。騎手はもうその馬には乗せてもらえなくなった。馬の方
もそのケガがたたって全然結果を残せない。騎手は自分を責めたさ。
ぱっとしないまま馬は引退レースを迎えることになった。それを知
った騎手は馬主にお願いをした。最後にもう一度あの馬に乗せてく
ださいってね。怒られたり怒鳴られたりしても、何度も何度もお願
いに行った。結局は馬主の方が折れ、騎手はその馬の引退レースに
乗ることができた」
「それで結果はどうなったのですか」
親爺さんはしばらく考えた後、僕にこう言った。
「どうだ、その馬に会いに行ってみるか」

「おう、よう来たの。あいつに会いたいってかい」
牧場のおじさんは嬉しそうに僕を迎えてくれた。あいさつもそこそ
こに僕を馬小屋に案内してくれた。そこでこの父馬の話を聞かせて
くれた。

「うちみてえよ、貧乏牧場じゃ血統のいい馬を生産することなんか
できね。そん中から生まれてきたこの馬はまさに奇跡だべ。天皇賞
も余裕で勝って向かうとこ敵無しの馬よ。
 だが不幸が襲いかかってな、ケガしちゃったんだ。幸い程度は軽
いものだったが、とても元のようには走れね。だが馬主は引退させ
なかった。いくらG1を制したことがあるからって、血統の無い馬
を種牡馬にしても稼げね。馬主は無理にでも走らせて出走料を稼ぐ
方を選んだ。でもやっぱり勝てないわな。格下の相手でも勝てない。
俺はかわいそうで何度も馬主の所へ行ったよ。もうこいつを休ませ
てくれってな。でもこいつはボロボロになるまで走り続けた。
 その頃はうちの牧場も借金だらけで、俺は何もかも嫌になって首
でも吊ろうかと思っとった。そしてやっと迎えた引退レース。これ
を見届けてからでも遅くはないと思ってな。その時生まれて初めて
馬券を買った。こいつの単賞、その時に残った全財産、十万も無か
ったんじゃないかな。かつてのG1馬も単賞で万馬券、誰も期待し
ちゃいなかった。よりによって長距離レースの天皇賞。優勝したら
どうにか借金は返せたけれど、俺はケガをせず無事にレースを終え
てくれることだけを祈った」
「それで結果はどうなったのですか」
おじさんはいたずらっぽく笑った。
「俺の首はどうなってる。そうさ、こいつはまたもや奇跡を起こし
たのさ。全くこの馬はここの牧場の誇りさ。牧場の危機を二度も救
ってくれたのだからな。」

 その晩僕は牧場のおじさんの家に泊まった。おじさんは夜遅くま
で馬の話を聞かせてくれた。
「あいつの苦労はまだ終わっちゃいなかった。血統が悪いから種牡
馬としての価値はほとんど無い。うちであいつを引き取ったけど、
誰も種付けを頼みに来ない。仕方ねえからうちにいる牝馬に種付け
していたけど、それでも一頭か二頭が限度だ。
 でもよぉ、おめえが今度乗るあの馬、あの馬が生まれた時はびっ
くりした。あいつの生まれた時とそっくりでよ、それも育っていく
うちにもっともっと似てきてよ、あのドタッドタッていう走り方も
おんなじで。そりゃあ興奮したさ。デビュー戦もぶっちぎりで勝っ
て、二戦目もとんとんと順調に勝ってな。」
−そしてその後、僕は落馬したんだ。
「あ、いや、あれは何もおめえのせいでない。別に責めるつもりで
言ったんじゃ。いやあ、参ったなあ。」

 次の朝おじさんは駅まで見送りに来てくれた。
「またいつでも遊びに来な。あいつに会いに来てくれるというだけ
で、本当に嬉しいよ。」
そして笑いながら言った。
「今度あの馬から振り落とされたら、ただじゃおかないからな。あ
いつの種馬としての真価が、あの馬にかかっているのだからな。」
「そんなにプレッシャーかけないでくださいよ。」
「ははは、硬くなるなって。たかが馬だ、気楽に乗ってこい。レー
スの日には応援しに行くからな、気を付けて」
こうして僕はおじさんの所を後にした。

 レース当日、おじさんは約束通り競馬場に来ていた。本馬場へつ
ながる地下道の入り口におじさんはいた。いやあこの馬はあいつに
そっくりだ、と言った後、僕に
「調教師先生に、ちゃんと馬の乗りかたを教わっているかい。」
と、きいた。はい、と答えると。
「それはよかった。調教師先生も前は名騎手だったからな。何しろ
こいつの父馬とは一緒に奇跡を起こした、名コンビだったからな」
−え?
僕はびっくりした顔で親爺さんを見た。親爺さんは顔を真っ赤にし
て「余計なこと言うな」と照れ笑いをした。
「そんなことはどうでもいい、ちゃんと乗ってこい」
するとおじさんも
「この馬は血統は悪いかもしれないが、奇跡を起こす血が流れてい
る。がんばって奇跡を起こしてきてくれ」

 二人に見送られ、僕は地下道をぬけ本馬場に出た。ちっぽけなプ
レッシャーなんかに負ける気はしなかった。

第3回3000字小説バトル
Entry7

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囚人たち

作者 : 逢澤透明 [アイザワスケアキ]
Website : http://www.geocities.co.jp/Berkeley/2435/
文字数 : 3000
「料理、上手いんだね」と秀が後ろから声をかけた。私の腰に手を
回しながら。
 私は狭いキッチンに立ち、手早く大根を千切りにしていた。秀の
アパートに来るのはこれで三度目。でも料理を作るのは初めて。ぐ
うたらな女を母親に持ったおかげで料理には自信がある。
「小さい頃から作ってたの。母ひとり子ひとりだったでしょ。わた
しのママ、夜も働いてるし、料理下手だし」
「ふーん」気のない返事をしながら秀は手を私のおなかへ、そして
その手を徐々に上げてくる。
「やめてよ、これ作っちゃわないと、遅くなっちゃうでしょ。ほ
ら、お湯、煮立ってるから……」
 と言いながら、遅くなってもかまわない、今夜も泊めてもらおう
と考えている。どうせ、あんな家。帰ることなんかない。
「いいじゃん、ねえ、それ後でいいよ、しようよ」
 秀は一旦昇らせた手を降ろし、私のTシャツの裾をめくり上げ、
中に手を入れてくる。秀の少しがさがさした指の感触が直接おなか
の上でうごめく。
「くすぐったいよ。やめてよ。もう」
 幸せってこういうことを言うんだ、愛情ってこういうことを言う
んだ、きっと、そうだ。
 ねえ、秀。このままずっと居てもいい?
 毎日、料理作ってもいい?
「ん? 今、おまえ、なんか言った?」
「ううん。なにも」
「気持ちいいか?」
「……うん」
「ん? どうしたんだ」
「ううん。別に」
「どうした? おまえ……泣いているのか。どうしたんだ。気分で
も悪いのか」
「ううん。違うの……、違うの、秀、あのね」
「うん」
「ひとつ訊いてもいい?」
「ああ」
「あのね、あのね……」
 ねえ、秀、このままずっと居てもいい?
 毎日、料理作ってもいい?
 ああ、どうして声にならないんだろう。 
「なんだよ、早く言えよ」
「うん……。あのね、このまま明日も……」
「ピンポーン」
 とチャイムが鳴る。
 玄関の外から声が聞こえる。
「やっほー」と言うと同時に外の声はドアノブをガチャガチャいわ
せている。女の声だ。「あれ、いないのー?」
「あ、やべ」と微かに悲鳴をあげて、秀が私から手を引いた。私は
身体が凍り付いているみたいに動けないまま、じっと玄関を見つめ
る。
 チャラチャラという金属が触れあう音がしたと思うと、それがグ
サっという音になり、ドアのロックが回転した。
 外の女は鍵を持っているのだ。私の持っていないものを持ってい
るのだ。
 そして、ドアが開く。
 女の顔が隙間から見える。笑っている。
 女はまず茫然としている秀を見つけ、
「うわっ、やだあ、居るなら返事ぐらいしてよ、びっくりするじゃ
……」と言ったところで、私の存在を見つける。
 三人の男女がはち合わせ。
 女と、
 男。
 そして私。
「誰?」
 と私は訊いた。誰よりも早く。
 男は黙っていた。女は口を開こうとしている。
 させるものか。しゃべらせるものか。だから私は女よりも早くも
う一度訊いた。
「誰? 誰よ。この女、誰よ」
 男はうろたえて、ニヤけた顔を作ろうとする。
 いったいなんて言い訳するつもり?
 馬鹿にしないで。
「はは、あのさ、オレ……」
 この野郎、言い訳なんかさせるものか。騙してたくせに、嘘つい
てたくせに、いったいなんて言い訳するつもり、嘘で固めるくせ
に、都合のいいことばかり言うくせに……。いつもそうだ。いつも
そうだ。私に言い寄る男は……ああ、だめだ、抑えられない。
「いったい誰なのよ!」
 熱帯に棲む動物のように甲高い声をあげて、私は片隅にあった鍋
を掴み、煮えたぎった汁をそいつの顔に投げつけていた。

  *

「治療代いくらだか知ってる?」と帰ってくるなり母は言った。六
畳間に置かれたコタツでテレビを見ている私に、いつもの調子で、
ずけずけと。
「……」
「なんか言うことないの? あんたの代わりに謝りに行ってあげた
んだよ」
「……」
「あんた、学校も行かない家事もしない、かといってアルバイトも
しないで、こんなことばっかりして……」
「……」
「まあね、でも、なんだかんだ言って、向うにも責任っていうか、
何か裏にあるから強く言えないみたいだったよ。警察沙汰にはした
くないみたい……前科じゃないけど何かね、訊かなかったけど……
ロクな奴じゃないね、まったく……あんな奴に騙されて、バカだ
ね、ほんとバカだね、あんた、子供のくせして背伸びしてさ。バカ
じゃないの」
「……」
「でも、火傷。あいつの顔、思いっきり水膨れしてたよ。気持ち悪
かったよ。医者は失明しないで済んで不幸中の幸いだって言ったそ
うだよ。とっさに目つむったんだね。反射神経はあるみたいだよ、
あいつ。他の神経はどうだかしらないけど。でも、あの顔じゃあ
ちょっとね、道歩くもつらいだろうね。ま、この『お美しい』娘を
弄んだんだから自業自得だけどね」
「……」
「ねえ、聞いてんの? 美しい娘や」
「……」
「ホントはこっちが慰謝料もらいたいぐらいだったけどね。しゃー
ないね。熱湯ぶっかけるなんて……ははは……あんた、やっぱりわ
たしの子だね。でもねえ、今度騙されるならさあ、もっと金持ちに
しといてよ……で、熱湯かける前にあたしに相談して……」
「……」
「まあね、ああゆうゴロツキみたいなチンピラみたいな奴だったか
ら、こっちも、はした金出してペコペコ謝るだけで済んだわけだけ
どね。ヤバい人の関係だったらあんた今頃東京湾に放り込まれてる
わよ。それでもわたし謝ったんだからね、ペコペコペコペコ、ペコ
ペコペコペコ、どうもすみませんすみませんすみません、ほんとロ
クでもない娘でって。謝るのどんな気持ちか……あんたも謝ってみ
なよ。馬鹿みたいにペコペコペコペコ、ペコペコペコペコ、どうも
すみませんすみませんすみませんって。土下座でさ」
「……」
「いいかげん、大人になってもらわないと……母ひとり子ひとりで
ここまで来たんだし、これからもさあ、二人でなんとか暮らしてい
かなきゃならないんだしね。力を合わせてさ。そうでしょう。ほん
とママだって毎日毎日仕事で疲れているんだから、あんたもさあ、
ちゃんと高校ぐらい卒業してさ……ん? どうしたの? あんた泣
いてるの?」
「……」
「……」
「ま、ママだって、騙されてたじゃないの」
「なによ、わたしのことはいいでしょ。今は……」
「酒ばっかり飲んでて、すぐに誰でも殴りつける、ろくでもないヤ
ツを家に連れてきて一緒に寝てたじゃないの。結婚するっていわれ
ていい気になってたじゃないの!」
「ちょっとやめてよ……」
「それで結局、騙されて、お金とられて……。ママもあたしといっ
しょじゃないのさ! バカじゃない。あんただって、バカじゃない
の。バカじゃない! バカな親からバカな娘が産まれるのは当たり
前でしょ! あんたのせいなのよ。みんなあんたのせいなのよ。こ
んなになるのは、みんなあんたが悪いのよ。あんたがまともな男見
つけられないからこんなことになるのよ。あんただけじゃなくて、
わたしにまでちょっかい出すような、ゲスな男ばっかり連れてくる
のよ。あんたは! それであんたはわたしの人生めちゃめちゃにし
たのよ。めちゃめちゃだわ! わたしのわたしのわたしのわたしの
……」
「もうやめて」
 母は泣いていた。
 ちくしょう、ちくしょう。
 こいつはすぐに泣くんだ。泣いたら許されると思っているんだ。
 母親め。
 この汚らしい街の一角で、私はこのメソメソした女とコタツを共
有して生きていくのだ。
 私はここから逃れられないのか。
 一生ここから
 逃れられないのか。

第3回3000字小説バトル
Entry8

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追憶

作者 : 岡嶋一人
Website : http://www.bekkoame.ne.jp/ha/nmatsuda/index.html
文字数 : 2966
『母ちゃんは、父ちゃんは畑仕事しか能がないと言う。そりゃあ、
おいらも学校でたらこんな殺風景な、山しかないような盆地から早
く抜け出したいと思ってるけど、休みの日に畑手伝うのは嫌いじゃ
あねえ。
 これも立派な仕事だと思う。学校の谷口先生も言ってた。
「一つのことをずっと、長く続けると言うことはとても尊い大事な
ことです」と。
 だから、母ちゃんが父ちゃんのことを何でそんな風にいうのかわ
からなかった。前は、村の寄り合いで酒呑んで返ってくる父ちゃん
は、いつも上機嫌だったし、時々、本当に時々だけど、キャッチボ
ールだって付き合ってくれた。トラックの運転も旨いし、力だって
おいらの何倍もある。タケのうちの父ちゃんは、酒呑むと、タケの
母ちゃんをぶつって言ってたけど、うちの父ちゃんがそんなことし
たのを見たことがない。優しいのとはちょっと違うかもしれないけ
ど。
 おいらが父ちゃんから教わったことは二つ。
"男は、簡単に泣いたり、笑ったり、怒ったりしちゃあいかん"
ということと
"男はぺらぺらしゃべるな"
っていうこと。
 おいらは、男のくせにおしゃべりなんだと。あんまりしゃべって
ると、父ちゃんが、
「みっともねえ」
って言う。だから、おいらあんまりしゃべらねえようにしてる。
 一度だけ、父ちゃんがすごく怒ったことがある。姉ちゃんが岩倉
の慎吾さんと、何だっけ、ほら二人で逃げること。ああそうだ、駆
け落ちだ。その駆け落ちをしようとした二人を駅の改札口でとっ捕
まえた時、おいらも父ちゃんと一緒にいたんだけど、あん時の父ち
ゃんはすげえ怖かった。黙って、姉ちゃんの髪の毛を引っつかんで、
引きずりながらトラックの荷台に押し上げて、慎吾さんが一生懸命
謝ってるのに、おいらに「乗れ」って言って……。
 家に着いてからが大変だった。姉ちゃんのこと素っ裸にして、本
当に素っ裸。パンツも取られてたもん。姉ちゃんは泣きながらその
まんま表にほっぽり出された。
「おめえにやるものはねえ。行くんだったらそのままで行け」って。
 結局、こんときは母ちゃんが姉ちゃんと一緒に父ちゃんに謝って
なんとかなったみたいだけど。確かあれ、姉ちゃんが17ん時だよ。
おいらが8歳だったから。後で、岩倉のおじさんも慎吾さん連れて
謝りに来てたみたいだけど、その後どうなったのかはおいらはしら
ねえ。母ちゃんに、子供はあっち行ってろって言われたから。
 本当にあん時の父ちゃんは怖かったなあ。でも、おいらが覚えて
るのはその1回だけ。

 父ちゃんがすごく笑ったのを見たこともある。姉ちゃんが、20
歳になって成人式だっけ。1月の15日に着物着るやつ。すごく綺
麗だった。母ちゃんは朝から赤飯炊いてくれた。おいら赤飯大好き
だから、おかわりしたら、
「こら、健太。こりゃあ本当は美知子のなんだぞ」って、父ちゃん
が馬鹿みたいに大きな声で笑った。おいらには何がそんなにおかし
いのか判らなかった。母ちゃんも姉ちゃんも一緒になって笑ってた
けど。でも、父ちゃんがこんなに笑ったのを見たのはそん時だけ。

 ここんとこ、ずっと父ちゃんは寄り合いにも行かないし、キャッ
チボールもしてくれなくなった。母ちゃんに言うと、「畑が忙しい
んだからしょうがないよ」って言うから、おいらにはそんなに忙し
そうには見えないって言ったら、「父ちゃんは畑仕事しか能がない
んだよ」って。
 おいら、父ちゃんが泣くのを見た。この間の日曜日にタケんちの
姉ちゃんが結婚式したんだ。あれ、ほらなんだっけ、花嫁さんがや
る格好、えっと、そうそう、文金高島田だ。すっげえ頭して、真っ
白な重そうな着物着て。
 タケの家から出てくる時、おいらも父ちゃんも母ちゃんも、近所
の人と一緒に手叩きながら見てた。そうしたら、父ちゃんが、急に
家に戻っちまった。母ちゃんは気が付かなかったから、おいら一人
だけで家に戻ってみた。
 父ちゃんは、奥の部屋の真ん中でうずくまって、
━━ うー、うぉー ━━
って。最初はどっか具合でも悪いのかと思ったけど、そうじゃなか
った。本当に涙流して声を出して泣いてたんだ。おいら、なんとな
く、見ちゃいけないものを見ちゃったような気がして、そっと家を
出て、母ちゃんのところに戻った。
「あれ、父ちゃんは?」
 母ちゃんに聞かれたけど、おいらは知らないって答えた。
「やっぱり見るのが辛いのかねえ」
 母ちゃんはぽつりと言った。

 おいらが、父ちゃんの泣くのを見たのはもう1回。おととしの6
月。雨の日だったからあれが涙だったのか雨だったのかはわからな
いけど、確かに父ちゃんは泣いていた。
 あの日の三日前の昼間、姉ちゃんは母ちゃんと大喧嘩してた。二
人して大きな声で怒鳴りあってた。おいらは隣の自分の部屋にいた
し、なんだか難しい話しをしてたから何をそんなに怒っているのか
わからなかった。父ちゃんは畑に行ってていなかった。そのうち、
喧嘩の声が聞こえなくなった。昼間、おいらも姉ちゃんも家にいた
んだから日曜日かなんかだったんだ。夕方になって、父ちゃんが畑
から帰って来た時には姉ちゃんはいなかった。夜になって駐在さん
が来て、姉ちゃんが死んでるって教えてくれた。神社の裏で首括っ
て死んだんだって。何でそんなことになったのか、おいらにはわか
らなかった。父ちゃんは慌てて出て行ったけど、おいらはタケんち
に行かされたから、その後どうなったのかはしらない。
 葬式の日、雨だった。おいらは学生服を着せられて、父ちゃんも
母ちゃんも、黒い着物着て。火葬場から戻って来て、ほら、なんて
いうんだっけ、皆でお酒飲んだりすげえ料理食ったり、えっと、あ
あ精進落としだ。それやってる時、おいらが、タケと端っこの方で
ジュース飲みながら寿司食ってたら父ちゃんが、裏庭に立ってるの
が窓越しに見えたんだ。おいら何してんのかなと思ってそっと裏庭
に行ってみた。父ちゃんの肩が震えてた。雨で着物もびしょびしょ
になってた。両方の手を強く握り締めて。

 父ちゃんは、テレビに出てくる東京の姿は造りものの嘘っぱちだ
って言う。おいらには、ここにいろって言う。造りものの町になん
か行くなって言う。姉ちゃんがいなくなって、おいら一人だからっ
て。タケんちの姉ちゃんは、結婚して東京に行った。タケも卒業し
たら東京に行くって言ってる』

「先生、これって先生のことですよねえ」
「ああ、そうだ」
「ここに出てくるタケって、うちの健史おじさんのことですか」
「ああ」
「じゃあ、先生は僕の父さん知ってるんですか?」
「えっ、ま、まあな」
「うちの母さんは、何にも教えてくれないんですよ」
「何にもって、名前ぐらいは聞いてるんだろう?」
「それも教えてくれない。何でなんだろう。先生、先生のお姉さん
て、何で自殺したんですか」
 私の引っ越しの手伝いに何人かの生徒が手伝いに来ていた。その
中の一人が、私の古い雑記帳を見付けだし、いつの間にか読んでい
たのだ。あれから20数年、去年おととしと、立て続けに親父とお
袋が死に、この家も広くなり過ぎた。
「なあ、そんなもの読んでないで、この本棚を運んでくれよ」
「はあい」
 旦那に捨てられて東京から戻ってきたタケの姉ちゃんは、女手一
つで息子を育てた。その息子を私が受け持つとは。
 私には言えなかった。その子の父親のことも姉の自殺の理由も。
 "岩倉慎吾"ふとそう呟き、今は亡き4人の家族に思いをはせ心の
中で手を合わせた。

第3回3000字小説バトル
Entry9

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二度目の初恋

作者 : カミュ
Website :
文字数 : 2983
 昔はこんな笑い方をする人じゃなかった。いや、そうだっただろ
うか? 思い出せない。少なくとも、この人に会うまでは、すぐに
思い出せた。忘れたことなどなかったはずの、初恋の顔なのに……
いや、だからこそ、いざ実物を目にするとそのあまりのギャップに
霧散してしまうものなのか。
 記憶というものは曖昧で、しばしば自分の都合の良いように真実
をねじ曲げてしまう。この記憶も、長年の間に、自分の理想の恋愛
像に作り替えてしまったものなのだろうか? 英子は、まじまじと
目の前に座る新しい上司を見つめ、思った。
 この不況下の中で、たまたま見つけた良い仕事。何の気なしに応
募し、一発で面接に合格。そして初出勤。出会った男……初恋の頃
の記憶にない、シニカルな笑み。
 運命、宿命、天命……そう思うには、もう歳をとりすぎたのかも
しれない。だが脳裏にはそんな甘い言葉が駆けめぐる。
 男――織田は英子の履歴書を読んだのか、それとも読まなかった
のか、とにかく一度も目を会わせることなく、手に持った勤務マニ
ュアルを早口で読み上げている。口元に微かに人を、人生を舐めた
ような笑みを、張り付けながら。
「……これで勤務内容の説明は以上ですが――質問など、あります
か?」
「――いいえ」
「そうですか、では、がんばってください」
 男はそう言うと席を立ち、去り際、ポンッと英子の肩を叩いた。
 何故かそれだけで、織田に対して抱いていた不信感は払拭され、
彼女は、そんな自分が、ひどく安っぽい女だと嫌悪感を抱いてしま
う。
 だが、とっさに振り向き、見た織田の口元には、もはや皮肉った
笑みなどなく、まして親しみを帯びた微笑みもなく、ただ、仮面の
様な無表情の中に、わずかに押し殺した、圧迫された感情のような
ものを感じるのみだった。

☆

 愛情を、これ以上ないというくらい受けているくせに、子供は愛
情表現が、特に男女間では下手だ。男女の性別が現れ始めた小学生
中頃になると、それは顕著に現れて……定番のゴシップがクラスの
中に溢れはじめる。「誰々が誰々のことを好きだとか、嫌いだとか」
 そんな中、織田は兵庫から転校してきた。素直で、少し大人びた
織田は、たちまちクラスの人気者となり、そして関西弁を馬鹿にさ
れるとすぐ喧嘩をふっかけた。
 そんな中で、あまりクラスで目立つことのなかった英子には織田
が、大人というよりも、何か、大人のフリをしようと精一杯背伸び
をしているように見えた。そして何か、そこには切実な思いがある
ようにも感じた。洞察は推理となり、推理は想像となり、そして何
時しか、英子は無意識のうちに、いつも織田を見るようになってい
た。
 ――3ヶ月くらいすぎると、クラスの中に噂が立ち始める。「英
子は織田のことをいつも見てる」「好きなんじゃない?」形を持た
ず、当人に訊くこともなく、噂は一人歩きし……そんな中、英子だ
けは噂を耳にすることもなく、織田を見つめ続けた。

 事件が起こったのは、織田が転校してきてから二月くらいたって
からだった。放課後、帰る用意をしていると、英子の元に気の強い
ことで有名な女の子がやってきて、いきなり
「織田君のこと、どう思ってるの?」
 と、かなり強い口調で訊かれた。英子はどう答えて良いか分から
ず、そこで初めてこれまで自分が織田のことばかり見、考え、そし
てそれが、そういうことが恋なのだと知ることとなった。自覚して、
さらに英子は返答に困った。好きなのか、どうなのか、自分でも考
えたこともないのに、そんなこと、人に言えるわけがない。
「分からない」
 と答えると、女の子は「来て」と強引に英子の腕を引っ張った。
いつの間にか、女の子の取り巻きが英子の周りを囲み、抵抗するこ
とも出来ず、英子は近くの河原に引きずられるように連れて来られ
た。
 そしてそこには、織田がいた。予想できたことだ。

 ここからの記憶は、良く覚えている。最初に思い出すのは、近く
を流れる川。夕日が川面を照らしてキラキラと光っている。水が流
れる音に、風が枯れたススキを揺らすシャラシャラという音。
 織田は夕日を背に立っていて、逆光でシルエットしか、見えない。
まぶしさに目がくらんで、自分がどこにいるのか、分からないよう
な不安。ひどく緊張している。冬に差し掛かった午後の空気が、冷
たく、冷えた手を何度も握りしめた。
 河原はちょっとした児童公園になっていたが、遊戯で遊んでいる
子は見あたらない。公園のとなりのゲートボール場では何人かの老
人が、ゲームをしている。老人たちは無表情に玉をつつき、どこか
事務的な印象を受ける。それが楽しみでやっているのか、真剣にや
っているのか分からないが、そこから話し声が聞こえることはなか
った。そして打たれたボールが、ゲートに弾かれあさっての方向に
転がった時、
「ズバリ訊くけど、英子ちゃんって、織田君のこと好きなの?」
 漫然とゲートボールを見ていた英子は、ハッとして織田を見た。
 日没が近かった。さっき織田の背にあった太陽は、何時しか家の
屋根に隠れている。織田の表情は堅かった。最近良く目にする表情。
特に偶然英子と目が合った時に、浮かべる、表情を殺した顔。何か
切実な感情を、力ずくで奥に押し込めたような、眸。
「どうなの? 英子ちゃん」
 英子はカッと全身が熱くなるのを感じた。グッと拳を握りしめる。
「……嫌い」

 それから20年あまりが過ぎ、英子は織田と出会った。
 入社してから半年あまり、確実にこの男は初恋の織田のはずなの
に、織田は何も知らないかのよう。結婚もせず、恋人らしい噂もな
い。こうして飲み会の後、偶然二人きりになっても、織田はプライ
ベートな話題に乗ることはない。ないはずだ。
「織田君……」
 いつもは“さん”付けで呼ぶ名なのに、カマをかけてみる。織田
は何も言わない。ただ……
 何時の間にこんな所まで来たのだろう。この街にも、少し歩けば
こんな場所に出るものか。過去と全く同じというわけでもないけれ
ど……
 ここは、いつか見た川。
 少し幅は小さく、何より今は夕暮れじゃない。数少ない街灯の光
が、静かに川面を照らしてる。
「気づいてないなんて、どうして思う?」
「?」
 唐突な言葉。言葉を理解し、その意味を知った時、世界から色が
失せ、時が止まる。手が震え、胸は喜びに溢れ、そして急に怖くな
る。ここは何処だろうと感じる。日常から遠く離れてしまったよう
な不安、緊張。あの時と同じだと思い出す。
 夏の、あの時とは違う熱い夏。都会独特の粘り着くような熱気に
包まれながらも、英子は寒気を感じた。風が流れ、それは次第に強
くなる。川は、やや波が立ち、そして突然、突風が吹き荒れた。ふ
わっと髪が揺れ、少し引っ張られる。
 吹き荒れる風。あの時とは違う。今はお互い子供ではなく、意地
悪な女の子もいない。そして何より、英子は恋をしている。今、は
っきりと感じた。子供の頃の淡い恋心ではない。激しい、想い。初
恋の延長ではなく、子供の頃の織田ではなく、この男が。
 初恋は実らないというのは、それは本当の恋愛じゃないから。結
局、あの初恋は実らず、そしてこれは初恋とは全く違う、新しい想
いに違いない。
 英子は初めて、織田の目を見て言った。
「思い出した?」
「ああ」
 織田はそっけない。
「好きだった? あのころ」
「――さあな」
「じゃ今……は?」
 織田は少し、考えるふりをしていた。やがて、顔を上げる。少し
緊張した表情で、しっかりと仁王立ちで……
 そして言った……

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(作者希望により削除)


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幼児回収業者

作者 : 紅緋 蒼紫 [ユメルミ サルラ]
Website : http://www.freepage.total.co.jp/circle_led/
文字数 : 2861
 西暦2020年度・特別医務局発行『特医局の歴史:その発足と
歩み』より抜粋。
『……計画立案と法令の施行より3年を経て、ようやく需要に対す
る供給をまかなえるようになったのである。それも、すべては厚生
省から独立して計画を推進することのできる、我々『特別医務局・
第731研究室』の働きによることが大きいのである』

 西暦2017年4月1日付東京NEWSの見出しと記事より抜粋。
『日本人を救う希望の法令 本日施行!』
『先の異例の国民投票の結果可決された、通称「生命の泉法案」は
本日より「臓器移植の必要供給に関する第731法令」として施行
されることになり、日本国中の多くの臓器移植を希望する患者たち
を喜ばせている。
 この法令は西暦2000年より、日本国を悩ませていた先天的、
及び後天的内臓疾患者数の激増に対処するべく立案され、この法令
の施行により、臓器移植を待つ多くの患者に臓器を供給することが
期待される。しかし厚生省の見通しによれば、今後3〜5年は需要
と供給のバランスをとることに費やされるだろうとしている。
 法令施行に伴い、計画の立案から法案の起草、研究の推進を行な
うために設けられた特別医務局は公的機関として正式に設立し、中
でも、研究に大きな貢献をなした“第731研究室”には、独立研
究を続行する特別措置が与えられる。
 日本の国情を理解しない欧米各国からは、今回の法令施行に激し
い批難が浴びせられているが、一部の諸外国からは研究に関する提
携の打診を受けているという……』

 西暦2015年11月5日。NHK6時のニュースのインタビュ
ーより。
インタビュアー:今日は、先頃設立の運びとなりました「特別医務
局」から、第731研究室々長の石井秀樹さんに起こしいただきま
した。
石井:どうも、こんばんは。
インタビュアー:お若いんですね、ちょっと驚きました。
石井:こういった研究には年齢というのは余り関係ありませんよ。
作家や芸術家といったクリエイティヴな仕事と一緒ですから(笑)
インタビュアー:さて、さっそくですが、このたび国会に提出され
た「生命の泉法案」のきっかけをお作りになったのが石井さんだと、
うかがっていますが……
石井:ええ、まぁ。西暦2000年あたりから、日本には内臓疾患
者の数が激増したわけですが。原因は色々と言われてますよね、パ
ソコンや携帯電話等の電磁波の影響とか、あるいは自滅遺伝子の発
現とか、これがノストラダムスのいう“恐怖の大王”だとか。
 原因はどうあれ、現状をどうにかできないか……いつも考えてい
たんです。そこでひらめいたのが、今回の「生命の泉計画」なんで
す。
インタビュアー:そのひらめきのきっかけは?
石井:本当の偶然なんですよ。たまたま、ネット上で古いBBSデ
ータの集積を見つけましてね。そこで目にしたのが【幼児回収業者】
という言葉だったんです……

 西暦2020年4月1日施行。臓器移植の必要供給に関する第7
31法令より抜粋。
『この法令は臓器のみでなく、角膜、皮膚、骨髄等の「移植技術」
の確立したすべての部位に適用するものとする』
『……肉体的に健康であり、かつ内臓器に関する各種の検査を受け
「適合」とされた被告人のうち、極刑、あるいは無期懲役の判決が
下されたものは、本法令に基づき身柄を特別医務局へ送致され、基
本的人権の一切を一時剥奪するものとする。
 また、適合判定を受けた被告人のうち、極刑・無期懲役に及ばぬ
ものは、一部臓器の自発的提供により受刑を免れるものとする。一
部臓器とは「腎臓の片方」「肝臓の半分」「骨髄」「角膜」「一部
の皮膚組織」の5点を指すものとする』
『特別医務局内に【提供者受付窓口】を設置。自発的臓器提供者を
受け入れるものとする。自己申告による提供臓器の健康の度合に基
づき、規定の報酬を支払うものとする。また、自我確立前の乳幼児
に関しては、保護者の判断により【全部位提供】を受付けるものと
する』
『この法令の施行に伴い「堕胎」は重犯罪とし、これを犯すものは、
所定の検査の後に「適合」の判定を受け次第、自動的に“極刑”判
決が下るものとする』
『ただし『望まぬ妊娠』『事故による妊娠』など、当事者が出産を
望まぬ状況においては、所定の登録手続き後、特別医務局の判断に
よって【全部位提供】を受けるものとする。提供を受ける時期につ
いては「胎児段階」と「出産後」の2点とし、特別医務局が判断す
る。なお「出産後」の【全部位提供】の却下は認められない』
『【全部位提供】を受けた乳幼児・胎児は、即座に第731研究室
に送致され、【臓器牧場】にて成長しつつ、臓器提供の時期を図ら
れ、かつ今後の研究にて使用されるものとする。【臓器牧場】に入
るものは、手術に耐えうる年齢になり次第、大脳より海馬や言語中
枢を除去し、一切の人間性を抹消するものとする』
『ただし、遺伝子的に優良と認められた乳幼児は、男女共に健康な
子孫を残すために使用するものとする』
『【臓器牧場】はクラス100以下のクリーンルームであり……

 西暦2016年4月10日。「生命の泉法案」をめぐる異例の国
民投票実施。
 投票率75%。開票率40%の時点で賛成多数。

 西暦2016年4月11日。東京NEWS見出しより。
『空前の投票率! 賛成80%で法案可決!』

 西暦2020年12月――特医局よりの告知。
『乳幼児の全部位提供を連絡1本で! 面倒な手続きは入りません。
局員が【提供部位】を回収しに参ります!』
 ピンポーン。
 古臭いチャイムの音色が響いた。
 奈美絵は待ち構えていたように、そばで泣きじゃくっていた子供
の襟首をひっつかみ、玄関へと向かった。
 腰のあたりが重く、苦しい。
――今度は肝臓がおかしいのかしら? 早めに検査して移植待ちの
登録しなくちゃ。
 そんなことを考えながら、インターホンに口を寄せる。
「どなたですかぁ?」
「遅くなってすいません、特医局のものです。提供部位の回収に上
がりました」
 ドアを開けると、にこやかな顔の青年が立っていた。肩のあたり
に雪が積もっている。
「雪の中、ごめんなさいねぇ」
「いいえ、仕事ですから」
 言いながら、カバンの中から出したガーゼに薬品を染み込ませ、
泣き喚く子供の口と鼻をふさいでやる。子供は不意に泣き止んだか
と思うと、気を失ったように寝入ってしまう。
「いつもいつも、貴重な資源を提供してくださってありがとうござ
います。近頃はまた、先天的に疾患を持って生まれてくる子が多く
て……あ、こちらにサインをお願いします」
 奈美絵は書類を受け取りながら、彼が好みの顔立ちをしているこ
とに気づいた。
 軽くくちびるを湿すが、舌なめずりしたようにも見える。
「時間、大丈夫でしょう?」書類を渡しながら、肩の雪を払ってや
る。
「少し温まって行きません? コーヒーを入れるわ」
 局員は笑顔のまま、彼女の手を取った。
「コーヒーだけですか?」
「……いいわよ、提供部位を増やしたいなら」
 彼女は手を引いて、青年を室内へと招じ入れた。

 西暦2020年。
 人類の黄昏――。

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トリックスター

作者 : うめぼし
Website :
文字数 : 2994
 一体いつの頃からだろう。それはまるで幼い頃に見たマジックシ
ョーのように、マコトは手に触れる物を何もなかったかのように消
す事ができた。
 他人が聞くと「なんて便利な力なんだ」と、羨むかもしれない。
なにせどんな物でも消してしまうのだ、溜まったゴミや通行の邪魔
になる歩道の自転車、太陽の光を妨げる高層ビルに気に入らない人
間。邪魔な物は全部消してしまえばいいのだ。しかし、当のマコト
はこの力を疎ましく思っていた。なぜなら、何が消えてしまうかは、
マコト自身まったく見当がつかなかったからだ。
 確かにその力を完全に使いこなせれば、マコトには気に入らない
物など何もないという華々しい未来が待ち構えているのだ。産廃業
者にでもなれば、たちまち巨額の富を得る事ができるだろう。しか
し、マコトはそれを制御するすべを知らなかった。
 その力と長年共に過ごす事によって、ある程度は制御する事が可
能になったものの、まるで山の天気のように気まぐれなその力は、
ふとした時に突然発動するのだ。買ったばかりの漫画が読む前に消
える、飲んでいたジュースが中身ごと消える、勉強をしているとノ
ートが消える、ただのわずらわしさだけがマコトに付きまとい、嫌
な記憶だけがマコトの頭に残っていった。

 そんなある日、昼休みに親友のアキヒサとじゃれあっていると、
アキヒサの体が消えた。
 まるで手品のような一瞬の出来事だった。
 人が消えた事など今まで一度となかった。いくらなんでも人間は
消えないだろうとマコト自身も安心していたのに、アキヒサは消え
てしまった。
 周囲を一生懸命捜してみても、いくら名前を必死に叫んでも、そ
の日以来マコトはアキヒサの姿を見る事は無かった。
 中学三年、いちょうの葉が校庭に降りしきる晩秋の頃。
 今でもはっきりと残っている消えない記憶。
 次に消えるのは自分のこの力であって欲しいとマコトは強く思っ
た。

「で、そのアキヒサって子はどうなったのですか?」
 相変わらずのポーカーフェイスで淡々と話すマコトをまるでから
かっているかのように、サチコが笑って問いかける。
 二人で映画を見た後立ち寄ったファーストフード店の中、小さな
テーブルの上にパンフレットを広げ話を楽しむ二人。傍から見れば
ごく普通のカップルに見えるだろう。ただし、もう八月も半ばに差
し掛かろうというのにマコトが手袋をしている事を除けば。
 くるくると不自然な髯を生やし、黒いシルクハットをかぶったマ
ジシャンが常に着用しているような白く、のっぺりした手袋。これ
をはめる事によって手に触れた物をむやみに消してしまうという事
を防ぐ事ができた。
 まるで自分の体の一部のようにぴったりとフィットした消えない
手袋。
 アキヒサを消した時にアキヒサの代わりにその場に落ちていた物
だった。
 あの後、アキヒサが消えてしまったにもかかわらず、それに対す
る周りの変化は皆無に等しかった。普段通りの生活が淡々と続く。
まるで存在自体が消えてしまったように月日は流れていった。
「部長って、手品で人を欺くのは上手いくせに、嘘つくのは下手な
んですね」
 くすりと笑って手に持ったハンバーガーを美味しそうに頬張るサ
チコから視線を外し、残り少なくなったオレンジジュースをズズズ
と吸い上げると、視線を窓の外へと映し、軽く溜め息を吐いた。
 
 ちいさな物ならば新聞の競馬予想程度の確率で狙って消す事がで
きるまで力を制御可能になったマコトは、現在高校で手品部の部長
を勤めている。とはいえ部員はサチコを含んで5人という廃部寸前
の弱小集団ではあるが、マコトの名前は学内に知れ渡っていた。た
まに失敗はするものの、ハンカチで隠しもせずにコインやカードを
瞬時に消してしまうのだ。だれもがその種の全く分からないマコト
のマジックに魅了された。
「部長ぉ、そんな嘘ばっかりついてないで早く私に部長の手品の種
を教えて下さいよぉ」
 こそばゆい声が耳をくすぐる。
「誰にもばらしたりしませんからぁ。だから、ねっ、ねっ?」
 甘えるようなサチコの訴えをマコトは笑顔でさらりと流した。

「部長、手……つないで歩きませんか?」
 店を出た後、駅に向かって歩いていると、サチコが唐突にそんな
事を言った。自分の発言に照れているのか、サチコはうつむいたま
まマコトと視線を合わそうとしない。
 日曜の昼下がり、街中を男女が並んで歩いているからといって、
必ずしも恋人同士である訳ではない。だからといって互いに全く興
味がない訳でもない。
 そんなサチコの華奢な手をマコトはそっとやさしく包み込む。し
かし、その手はいとも簡単に振り払われた。
「こんな時くらい、手袋とってくださいよ……」
 少し怒ったような、それでいて少し寂しそうな声でサチコは呟く。
 アキヒサが消えて以来、マコトは手袋なしで人に触れた事はなか
った。もちろん相手が必ず消えてしまうという訳ではない、しかし、
消えないという保証はどこにもない。消えて欲しくない大切な物ほ
ど、その温度を感じる事ができないのだ。
 触れられなくてもいい、大切な物がそこに存在しているなら。今
までもそうやって納得させてきたのだ。しかし……
「部長?」
 一体どれほどの間考え込んでいたのだろう、うつむき加減に立ち
止まっていたマコトの顔をサチコが心配そうに覗き込んでいた。と、
突然互いに至近距離で目が合ったせいか、急に照れくさくなったサ
チコは頬を赤らめながらパッと体を反転させた。
「あ、あのですね……嫌ならいいんですよ。別にその、今まで通り
……」
 言葉の語尾が街の喧騒にかき消される。すこしぽっちゃりとした
サチコの背中がいつになく細く見えた。
「すみませんね、いきなり変な事言っちゃって!」
 何かを吹っ切るかのように勢いよく振り向いて、手品同様へたく
そな笑顔を投げかける。おかげでマコトの中でも何かが吹っ切れた。
 手を洗う時と手品をする時以外は取る事のない手袋をおもむろに
はがす。汗で少しじめじめとした手が大気にさらされ、開放感が体
全体に伝わる。
 消してなるものか。
 そう強く念じるとサチコにゆっくりと歩み寄り、その手をやさし
く、そして少し荒々しく握り締めた。
 突然の事にサチコは驚いた表情を見せたが「ありがとう」と小さ
く呟いてその手を強く握り返した。サチコの温度が手のひらを通し
てマコトの体中に駆け巡る。
 もう二度と放したくない、絶対に消したりはしない。コインやカ
ードとは違う大切な物だから……
 マコトとサチコの唯一の接点からマコト自身がらとめどなく溢れ
出るような気がした。

 数分後、マコトは通りの真ん中でただ一人立ち尽くしていた。
 手を離した訳ではない、人込みに紛れた訳ではない。しかし、い
くらあたりを見回してもサチコの姿は見当たらなかった。かわりに
真新しい白い手袋が足元に落ちていた。
 大切な物ほど消えてしまう。嫌な記憶だけが再び残り、いくら頭
を抱え込んでも消える事は無かった。
 その場に崩れ落ち、なりふり構わずひとしきり泣いた後、マコト
はサチコのかわりに落ちていた手袋をその手にはめる。やはり自分
の手にぴったりとフィットしたその手袋はマコトをいつものマコト
に戻した。手品師にはやはりポーカーフェイスが似合うのだ。
 夏の日差しが照りつける中、半袖シャツに白手袋という奇妙な格
好のマジシャンは、ただ一人で駅へと真っ直ぐ伸びる大通りを歩い
ていった。

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Entry13

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作者 : akoh
Website : http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/8896/
文字数 : 2984
 前を行くは棒をくわえた典雅なトンビ、後ろを追うは醜いヒステ
リーカラス。
 はたから見れば、まずはそんな感じだろうか。
 けれども、俺は断じてカラスなどではないのである。崖のある海
岸を優雅に空中旋回しながら、「ピーヒョロロ」と唄っているのが
お似合いの臆病なトンビである。
 なぜカラスになってしまったかというと、結論を言ってしまえば、
棒を取られたからである。前を行くトンビがくわえている棒である。
当然の話であるが、『鳥(とり)』から一本棒を取れば『烏(から
す)』になるわけである。トンビだって鳥だ。つまりは、俺はその
大切な棒を、前を行く盗人トンビに盗まれたために、トンビから一
瞬にしてカラスになってしまったというわけである。
 しかしながら、盗人トンビめなかなか速い。カラスになってもそ
の日の日暮れまでに棒を呑み込めば元に戻れると聞いているが、そ
ろそろ日も傾きかけているのである。悠長に追いかけっこなどして
いる暇はないのだ。だが、今は不慣れなこの体、その上羽根はほん
の優雅さも持ち合わせていないと来てやがる。ただ飛べればいいと
いう劣悪な妥協の元に存在する翼などでは、到底追いつけるわけが
ないではないか。盗人め、それを察してか余裕で振り向きほくそえ
みやがる。その目、黄金色の目、見下すようにぎょろつかせやがっ
て、同類を見る目じゃない。畜生! 俺はこのまま一生カラスか!
 あの輝く目は俺の誇りだった。鋭角の嘴も、青い空に映える、灰
色の羽根も。けれども、今の俺には何もない。ただの真っ黒いカラ
スだ。……惨めだ。そう思うと、力も入らない。
「太郎!」「次郎!」「助太刀いたす!」
 俺の左右を、二羽のカラスがするりと抜けた。どうやら俺は、単
独でトンビに向かう勇敢なカラスとみなされたらしい。
「やめてくれ! 違うんだ。俺はあんたらの仲間じゃない。俺はカ
ラスじゃないんだ」
 もちろん、鼻で笑われた。そりゃそうだ。この姿のどこがカラス
でないものか。
「ご遠慮なさるな。トンビは我らの共通の敵」
 奴ら、トンビとみると見境なく殺意剥き出しでかかってくる。鷲
や鷹にはへつらっているというのに。相手の力量を見て戦う。何た
る醜悪な精神! けれど、俺はそういう精神の持ち主に助けられよ
うとしている。それだけで、恥辱である。
 太郎は早くも盗人トンビの前に出ていた。盗人慌てて身を翻す。
だが、後ろからは次郎である。この挟み撃ち作戦は、カラスの常套
手段である。ひるんだところを、後ろから太郎がのしかかる。急な
重みに、トンビはうろたえ、ただむやみに羽根をばたつかせるばか
りであった。そこを、今度は前から次郎が攻撃。
「もういいんだ。やめてくれ」
「トンビに対して情けは無用!」
「そのとおり!」
 二羽のカラスは、俺にただ絶望感を与えるばかりだった。かの
「ゲーゲーゲーゲー」いうだみ声が、今はしっかりと解読できるの
である。カラスの声など、ちょっと前までは単なる野蛮な響きでし
かなかったのに! ばかりか、その二羽の区別さえはっきりとつい
てしまう。ああ、俺はカラスなのである。
「もうやめろ!」
 この声は、この俺の声は、野蛮か!
 自棄を起こして、俺はトンビの横っ腹に精一杯のスピードで突っ
込んだ。トンビは小さなうめき声を上げて、棒を落とした。もとよ
りその棒が目的だった俺は、自分がトンビの爪の射程内にいること
も忘れて棒の行方を追った。
「危ない!」
 次郎が俺の盾となり、トンビの爪を代わりに受けた。それから、
すぐに俺のほうを振り返り微笑。トンビの爪はそんな生易しいもの
じゃない。だのに、他人を気にかけるのか!
「この野郎、よくもやりやがったな」
 太郎が目を突つく。これで勝負あった。トンビは、元来の弱気の
虫が騒ぎ出し、一目散に逃げ出したのである。太郎と次郎は、逃が
すまいと追いかける。日の光に照らされて、黒い羽根から光沢が浮
き出る。なんたることか! 俺はそのかすかな光沢に、孔雀の面影
すら見てしまったのである。
「もういい! 追いかけなくてもいい!」
 俺の剣幕に気おされしたか、二羽とも渋々追うのをやめた。俺は
方向を転換し、棒の落ちた辺りを目指した。
「どうなさった。見かけぬ顔だが?」
 俺のよそよそしい態度に不信感を抱いたらしい。太郎が、さっと
俺の横まで来て聞いた。
「なにかお困りであれば、何なりとおっしゃってください」
 反対からは次郎である。
「なんでもありません。ちょっと落し物をしただけです。一人で探
しますから、放っておいてください」
 本音であった。これ以上カラスに同情されては惨めすぎる。俺は、
トンビである。けれど、ああ、こう叫ばなければ、俺は自分がトン
ビであるという自信を失いかけている。
「そう申されるな。我らは同志ではござらんか」
「同志?」
「そうです。ともにトンビを打ち倒せば、それだけで同志です」
 ゾッとした。『同志』と呼ばれたことにではない。俺は、そう呼
ばれてまんざらでもなかったのである。恐ろしい感情の変化が、俺
の中で起こっていた。
「分かりました。実は、この下の沼地に棒を落としてしまったので
す。憶えていますか。さっきのトンビがくわえていた棒です」
 『猫の手も借りたい』と言えばごまかしもきくのだろうか。しか
し、カラスになる前の俺が、いかな窮地に立ったとてカラスに助け
など求めたろうか。
「ああ、確かに妙な棒をくわえておりました。しかし、今日はお疲
れでしょう。また明日、改めて探しましょう」
「駄目です! 今日、日の暮れるまでに探し出さなければ意味がな
いのです」明日では無駄である。
「それはなかなか難しい話ですね」
「無理ですか?」
 太郎は、しばらく考えてから言った。
「次郎に同志を呼んできてもらいましょう。数十羽からのグループ
ですから、総出で探せばなんとかなるかもしれません」
「お願いします」
 もう考えるのはよす。今は危急存亡のときゆえ、なりふり構わず
カラスなどにも頭を下げているのだ、そういうことに決めた。
「では、我々は先に沼に降りて探し始めましょう」
 次郎を見送ってから、太郎と沼に降りる。思った以上にぬかるん
でいてなかなか見つかりそうにない。しかし、探さなければならな
い。
 気がつけば、沼の中にも、辺りの山の木々にも、無数のカラスが
集まっていた。沈みかけた日に空が赤く染まって、なんてことだ、
今初めて知った。
 静かな世界の到来を告げる一瞬の華やかさの中で、泰然と闇を先
導するカラス。その美しさ!
 虚勢をはることなど、もう駄目である。できそうにない。
「あった!」
 棒が見つかり、喚声が上がる。感じたままを言う。今まで聞いた
ことのないほど素晴らしい喚声である。
 その興奮の中、俺に棒が手渡される。これを呑めば、俺はトンビ
に戻れる……。
 辺りを見回した。すべてのカラスが、まるで自分のことのように
喜んでいた。
 いっそこのまま、という思いも脳裏をかすめた。しかし、やはり
俺はトンビである。自信を持って言う。「カラスは美しい」と思っ
たときに悟った。結局俺は、カラスを終始客観視していたではない
か。それだけで、十分カラスではない証拠だ。戻ろう。戻って、ま
た海の上をくるくる回ろう。そう決めた。
 太陽は、もう沈む。
 感慨深く、俺は棒を呑み込んだ。
 辺りでは、とても逃げ切れたものではない量のカラスが、ただた
だ奇妙な歓喜に揺れていた。

第3回3000字小説バトル
Entry14

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大保険時代

作者 : 羽那沖権八 [ワナオキゴンパチ]
Website :
文字数 : 2970
「いや、別に死んだあとに金なんか貰っても仕方ないんだが」
 四谷京作は、困り顔をした。
「そんなことはございませんのよ」
 中年過ぎと思しき女の保険外交員は、いかにも営業風の笑顔を浮
かべ、玄関にカラフルな資料を広げる。
「四谷様は三十四歳でいらっしゃいますから、結婚ももうそろそろ
でしょう?」
「結婚どころか恋人もいないがなぁ」
 京作は自分の禿げた頭を撫でる。
「ならなおさらですわ。終身雇用が崩れた現在、持ち家があって多
額の生命保険の掛かっている男性は、それだけでも安定性があって
魅力的ですわよ」
「説得力があるようなないような話だな。ともかく、俺は生命保険
で女を釣る気は……」
「それだけじゃございませんことよ。この生命保険は、特約をお付
けになれば、ガン、肝臓病、心臓病などの病気や、交通事故、ゴル
フ場での事故など、ありとあらゆる状況に対応できますのよ」
「ありとあらゆる?」
 いささか興味を引かれたらしく、京作は僅かに身を乗り出した。
「地震、とか火事も?」
「もちろんですわ。以前に地震特約をお付けになった自営業のお客
様がいらしたのですけどね」
 女は、アタッシュケースの中から、小さなファイルを取り出す。
中には、手紙が何枚も綴じられていた。
「ほら、ここに感謝のお手紙がございますでしょ? 契約してから、
ほんの数年であの震災がありましたのよ。それで、ご本人の入院費
どころか、入院中の収入、ご家族の葬儀代まで補償できましたの。
ほら、これがお礼状ですわ」
「へぇ」
 喜びの声が書かれた手紙に目を通しながら、京作は頷く。
「地震だけじゃありませんわ。ガン、ペスト、エイズとこれから先
の人生が六十年あったといたしまして、一度も何の病気にもならな
いということはございませんのよ」
「……言われてみれば。病気だけは付けた方がいいかな」
「いえいえ、もしも火事になったらそれこそ病気の比じゃありませ
んことよ?」
 いつ息継ぎをするのか、と思うほど流暢に女は喋る。
「はあ。火事ねぇ。確か火災保険には入ってたような?」
「それだけでよろしいんですの? 地震、雷、土砂崩れに火砕流と
世の中一夜にして財産を失ってしまうことはよくありますわ」
「ふーん。まあ、地震の保険はあればいいなぁとは思ってたから…
…」
「あら、地震だけでよろしいんですの?」
「でも、日本の災害って言ったら、地震が主だし」
「米国では当たり前の竜巻特約も付けてはいかがですの?」
「竜巻? それは身近なものでもないし」
「あら、そうでもないですわ。日本っていうのは、面積の割には米
国並に竜巻も多い国ですのよ。それに、台風も対象になりますわ。
しかも、スーパー竜巻特約にすると、渦潮から旋風で発生するかま
いたちまで、あらゆる渦災害に備えられますのよ」
「じゃあ、車輪も?」
「オホホホ、四谷様はご冗談がお上手ですわね。それは交通特約で
すわ」
「まあそうだろうな。でも、俺は免許持ってないしなぁ」
「あら、それこそ素晴らしいですわ。無免許の方は、掛け金が半分
ですわ。しかも、事故を起こした際の損害は百パーセント当社が補
償しますわ」
「へえ、半分で全額補償か」
「それから、これは新しい商品になってますけど、天気保険ってい
うのはいかがかしら?」
「天気?」
「あの時晴れていれば、なんて事ございますでしょ? 先物取引や
行楽地で自営業をなさってる方には大人気ですわ」
「俺は自営業者じゃないしなぁ。あ、でも雨で服が濡れたなんて時
は?」
「免責額にもよりますけど、もちろん対象になりますわ。これもス
ーパー特約にしますと、雷や台風も対象になりますのよ」
「え? さっき竜巻特約ってのが……」
「ええ。ですから、パック特約にすると、通常の掛け金の三割引き
で二つのスーパー特約が受けられますわ」
「なーるほど」
「他にも隕石特約はいかがかしら?」
「隕石?」
「隕石は、危険ですのよ?」
 女は拳を作って見せる。
「こんな小さな石でも、屋根を貫くんですの。頭蓋骨なんか紙同然
ですわ。もしも四谷様に当たったらと思うとわたくしは心配で心配
で」
「ま、まさか、そんな」
「安心なさってる方に限って危険なんですのよ? 絶対に当たらな
いとどうして断言できますの? 安全が証明できますの? 次の瞬
間、隕石が落ちてこないと言い切れますの? その時に一片の後悔
もしませんの?」
「そ、それは」
「ほんの僅かな掛け金で安心が買えると思えば安いものですわ」
「うーむ、言われてみれば……」
「それから、戦争特約はいかがでしょう?」
「戦争って」
「今後、戦争が発生した場合、戦地、銃後を問わず怪我や栄養失調、
化学兵器や放射能による身体障害などを全面サポートしますわ」
「でも、そんな時には国からの補助金も出るんじゃないか?」
「戦争中に国からの補助金が当てになるとお思いですの? そんな
もの無理に決まっていますわ。それどころか、もしも日本がまた負
けでもしたら、逆に増税だってされかねませんもの。ひょっとした
ら、お金が紙屑同然になるかも知れませんわ」
「そんな状況じゃ、保険会社だって駄目だろ?」
「いいえ。我が社は中華民国、ロシア、北朝鮮と、様々な国に本拠
地を持つ多国籍企業ですの。世界大戦の一つや二つ何の問題もござ
いませんわ」
「ふーん……」
 京作は『戦争特約』と書かれたパンフレットを開く。
「仮想敵国?」
「ええ。戦争状態になる可能性の高い国ほど、掛け金は高くなりま
すわ。でも、今の時代どこが攻めてくるか分かりませんもの、この
全世界対応型の『世界大戦パック』がお勧めですわ。掛け金が四〇
パーセントもお得ですのよ」
「なるほど、なるほど」
「それから、オプション商品で、『内戦パック』っていうのもあり
ますけど」
「なになに、過激派、終末論を掲げる宗教団体、自衛隊によるクー
デター、テロ等々か。うん、これも頼もうか――」
「それから、宇宙人特約はいかがですの?」
「う、宇宙人?」
 印鑑を取ろうと腰を上げかけていた京作は、まじまじと外交員を
見つめた。
「そうですわ。アブダクション期間の給与、攻撃を受けた際の損害、
宇宙船などの離着陸による農作物などの損害……」
「うーむ」
 京作は、ざっと資料を確認した。
「そうだなぁ」

 数日後。
「しっかし」
 同僚がリンゴの皮をむきながら、病院のベッドに横になった京作
を見る。
「お前の家の真上にUFOが着陸するとはなぁ」
「ああ」
 京作は、足と腕を片方づつ釣り下げられた格好でベッドに横にな
っている。顔色は良いが、表情に元気はなかった。
「家は潰れる、骨折はする、無断欠勤扱いで減俸になる。散々だ」
「ふーん。テレビの取材でもそんなこと言ってたなぁ――ほれ」
 むき終わった不格好なリンゴを、同僚は京作に手渡す。
「あー、これからどうすればいいんだ……」
 がしゅがしゅ音を立てて京作はリンゴを食べる。
「知らねえなぁ」
 素気なく答えながら、同僚は果物ナイフをちり紙で拭う。
「お前な!」
 京作は同僚を睨む。
「少しぐらい同情してくれたっていーだろうが! ったく、どいつ
もこいつも!」
「でもよぉ」
 同僚は自分の分のリンゴをかじった。
「保険かけてなかったんだろ? 自業自得じゃねえか」
「むー、それはそうだが」
 大きく京作は溜息をつく。
「来月からの保険の掛け金、どうやって払えばいいんだよ?」
「街金にでも借りれば?」
「あー、いっそ死んでりゃあ、しっかり保険も降りたってのに……」

第3回3000字小説バトル
Entry15

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乳の罠

作者 : 鮭二
Website : members.aol.com/Shakeji/papyrus.htm
文字数 : 3000
 乗合タクシーに乗っている間中、女は私の膝を触っていた。触っ
ていた? 「触っていた」と「手を置いていた」の中間辺り、女は
私の膝にそうしていた。
 私は忘年会の帰りで少なからず酔っていた。発車してまもなく車
が乱暴に左折した瞬間、女と私の半身が重なり合った。ふと下を向
くと、左膝に女の右手がのっている。女の目は閉ざされていて表情
を読むことはできない。しかし背筋は不自然にぴんと伸びていた。
眠ってはいないのだ。
 何かの間違いかもしれない。女に気付かれないように少し膝をず
らす。すると女の掌は滑るように膝の上を移動してきた。女の目蓋
が微かに揺れ、目尻に力が入った。
「どうしてそんなことをするの?」
 そう言っているような気がした。
 私は膝を元の位置に戻し、体の力を抜いた。まあいい。大した意
味はないんだ。そう思うと女の掌の感覚が次第に遠のいていった。
私は少なからず酔っていたのだ。目を閉じるとすぐに深い眠りが私
を包み込んだ。

 運転手の声で目を覚ますと、隣りに女はいなかった。私は膝のこ
となどすっかり忘れてタクシーを降り、ミチルのアパートへ歩き出
した。
 世の中不景気で、師走といってもかつての慌ただしさはない。淡
々と仕事は進み、週明けに何軒か挨拶回りをすれば、もう御用納め
となる。日中の日差しも冬らしくない。悪くない年の瀬だが、物足
りなさも感じる。
 台所に、いい按配に煮崩れた肉じゃがの器があって、酔いの覚め
かけた体の食欲をそそる。冷えたじゃが芋を頬張ると性懲りもなく
ウイスキーが飲みたくなる。静かに、私は台所を動き回る。動き回
りながら大掃除の手順を頭の中で反芻する。去年は手伝わず、ミチ
ルにひどく怒られた。私がかつて付合っていた女たちは、いずれも
熱心に掃除をするタイプではなかった。
 オンザロックを舐めながら、ラジオの深夜放送をヘッドフォンで
聞いていた。話している内容もかかっている曲も私には理解できな
かった。奇麗好きな女を好きになったのは歳のせいかもしれない。
私はラジオを消し、電気を消し、ミチルのベッドに潜り込んだ。寝
間着の上からミチルのパンティの線をなぞり、静かに眠りに落ちた。

 左膝にできた赤い斑点に気付いたのは次の夜だった。掃除をして
いる最中にどこかにぶつけたり、擦り付けたりした覚えはなかった。
私は湯船に浸かりながらミチルにその斑点を見せた。見せながら私
は不思議な気持ちになった。ミチルがそこに触れると、腹の奥に熱
っぽいくすぐったささえ感じた。そうした感覚は、やがて前夜の女
のイメージに集約されていった。
 次の晩、斑点はより鮮やかに、より立体的になっていた。どんな
形かと訊ねられたら、それは女性の乳首です、としか答えようがな
かった。
 それは見事な乳首だった。
 決してミチルの乳首が見事でないというわけではない。しかしそ
の乳首は、迂闊な相対評価を拒むような美しさを湛えていた。
 私たちはうっとりと私の左膝に誕生した美しい乳首を眺めた。不
意にミチルが、ため息を吐きながら湯船にぽっかりと浮かぶ私の乳
首に唇を寄せる
「おい、よせよ」
「だって」
 そう言ってミチルは目を潤ませた。私たちはかつてないワンダフ
ォーな興奮を感じ始めていた。
 寒気が忍び込む狭い浴室で、ミチルは私の膝乳首を舐め、私はミ
チルの胸乳首を舐めた。変な形で変なことをしているという共通認
識が互いの体内に潜んでいた変態に火をつける。私たちは何度も快
と楽の深淵にはまり込んでいった。
 ベッドの中で、私は幾分静けさを取り戻したミチルの体を抱き、
かつてパンティの線があった辺りを指でなぞりながらタクシーの女
の話を打ち明けた。
「べつに痛いとか痒いとかじゃないんでしょ?」
 そう言って妖しく笑うと、ミチルは更なる闘いを挑んできた。

 正月休みが終わる頃になると、私は自分の膝乳首に何の違和感も
感じなくなっていた。ただ、スラックスを穿くとどうしても突起が
目立つので、ミチルの使い古しで膝ブラジャーを作ってもらった。
プールや温泉に行くならば少し大き目の絆創膏でも貼っておけばよ
いのだ。もし本当に何か面倒なことが起きたら切ってしまうくらい
簡単なことよ、とミチルは言った。医者に何と説明するかはまた別
な問題だが、ミチルの意見は私を大らかな気分にさせた。
 それに何より、細かな煩わしさはあるにせよ、ミチルと一緒に美
しい乳首を楽しめるのはかけがえのないことだった。

 それから3年が過ぎた。
 ある夏の日、私は家路を急いでいた。その頃私はいつも家路を急
いでいた。ミチルの体が臨月を迎えていたのだ。
 電車のボックスシートに腰をおろすとすぐに初老の男が向かいに
座った。男は膝の上にハンカチを広げ、上着のポケットからゆで卵
を取り出した。いとおしむように殻を剥き、惚れぼれとその白くつ
るりとした表面を眺めた。
「たべる?」と男は言った。
 私は少し眉をひそめ、姓名判断の本に目を落とした。
「おいしいのにな」
 男は卵に齧りついた。口の中で丁寧にそれを愛撫し、喉に流し込
むたびにくぅぅと愉悦の声を漏らした。たっぷりと時間をかけて食
べ終えると、またポケットから卵を出した。
「ほんとにいらない?」
 私は本を閉じ、腰を浮かせた。
「まあ待てよ。随分探したんだ」
 男は一転して低くドスのきいた声を出した。
「娘の乳首、返してもらおうか」
 そう言って父親は手にしていた卵を握り潰した。指の間からどろ
どろと液体が流れだす。生卵だったのだ。
 私は力なく腰を落とした。足ががくがく震え、膝の乳首が固くな
っていった。
「よくもこれまで玩んでくれたな」
 気付くと黒いスーツを着た頭の悪そうな男たちが取り囲んでいる。
私はあっけなく組み敷かれた。男たちは私のズボンを脱がし、左膝
を押さえ付けた。父親が私の足にまたがり、焦らすように膝ブラを
外しにかかる。やがて乳首が露わになると男たちの間からため息が
漏れた。
「ほう、これは見事だ」
 私の乳首はねっとりとした男たちの視線を浴びてさらに固くなっ
ていった。父親は慎重な手つきでその先端をつまみ上げると、鋭い
メスを根元にあてがった。ひやりとした感触が脳天に響き渡る。次
の瞬間、メスが滑らかに乳首をなぞる。血は流れ出したが痛みは感
じない。鮮やかに切り取られた乳首が幾重にもラッピングされてド
ライアイスの中に消えていくのを私は為す術もなく眺めていた。
 立ち去り際、「これでもくらえ」と大粒の梅干しを傷口にねじ込
まれると、私は痛みを感じる間もなく気を失った。

 意識が戻った時、私は自分の部屋のベッドにいた。左膝には包帯
が巻かれていた。私は重たい体を起こし、ミチルの姿を探した。ミ
チル、ミチル。返事はない。そして左膝には乳首がない。私は痛み
が残る膝を抱えて煙草を2本吸った。吸いながら自分の胸乳首を擦
ってみたが、ただ虚しくなるだけだった。
 しばらくして階段を上がる音が聞こえてきた。私にはミチルがい
る。お腹の中に子供がいる。私は左足を引きずりながらドアを開け
た。
「ミチル、俺たちの乳首が……」
 ミチルは黙って買物袋を床におろした。アパートの下で猫が鳴い
ている。ミチルが小さくため息をついた。
「夕飯、作ろうか」
 私が台所に立つとミチルはゆっくりと椅子に腰を下ろし、静かに
お腹を擦った。
「そろそろかな」
「まだまだよ」
「ゆっくりね」
 また猫の鳴き声が聞こえた。きっと雌猫に違いないと私は思った。

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Entry16

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甘い生活

作者 : 一之江 [イチノエ]
Website : http://www05.u-page.so-net.ne.jp/qd5/s-kumiko/
文字数 : 3000
 頬の火照りが空気の冷たさを、より精確に伝えているような気が
した。鋪装でならされたあぜ道の端を帰る。歩きにくかった。一歩
を踏み出すごとに、胴体をすっぽりと包んでいる絹織物がその一歩
を阻んだ。大らかに軽快に足を運ぶ事を許さないその意地悪な布切
れが足首を軽く叩き続けるのに、もどかしい思いが起ってため息が
漏れた。おとなしく足袋に納まっている自分の足さえ恨めしいわた
しに、初めて履いた草履も同情的ではなかった。
 晴天だけがわたしの味方だった。あぜ道には、わたしの他には人
も車も見当たらなかった。だけど真中を歩くのは躊躇われた。何だ
かそれは、とてもわたしにはできない芸当に思われた。
 背後から微かに音が聞こえた。と思っていると、その音はわたし
の一歩を嘲笑うかのような加速で大きくなり、それに呼応して鋪装
された地面が震え、その一歩を止めた。
 わたしは少し後ろを振り返ったまま、あぜ道の端で立ち尽くす。
 トラックが太いタイヤから土埃を濛々と上げて、すぐ横を走り過
ぎていった。真新しいショールで口許を覆いながら、その遠ざかる
車体の後ろ姿をぼんやりと眺めた後、わたしは又ため息をついて辺
りを見渡した。視界は広かった。何もなかった。真冬の澄んだ空気
が、薄群青の空をかなり低いところまで運んでいた。
 田んぼなのだった。冬の田は、稲束の刈り取られた跡を乾いた土
に広げているだけだった。
 田んぼ、と呟いて、歩を進めようとした途端、その足を止めた。
 再びわたしは自分のまわりを眺めた。田んぼ。瞬間、一面日に照
らされてきらきら光る水田の姿が、すぐ目の前に現れた。
「あたし、田んぼが好きなの」
 はっとして視線を動かすが、何者もそこにはいない。いるのは、
わたしだけだった。遠い日のわたしの声だった。
 
「田んぼ?」と彼はおかしそうに目を大きく見開いて、わたしを見
た。
「うん、田んぼが好きなの」
「好きってさ、どういうふうに?」
 大学の正門前の冷房の効いた喫茶店で、わたしたちは向い合って
いた。
「好きって、だから、見ているのが好きなの。飽きないんだわ、田
んぼ、いつまで見てても」
 わたしはストローでアイスココアを啜りながら、彼を上目遣いに
見た。彼は目を細めて笑っていた。わたしは、ああ、と一言胸の中
で呟いてから続けた。
「夜のね、田んぼも好き。蛙がね、鳴くのを聞くのが好きなの」
「へえ」と、彼はまた笑った。
 わたしたちはそんなふうに、容易く甘い時間にひたる事ができた。
たまの喧嘩も、心地よい連弾をいざなう序奏になるだけだった。
 喧嘩の終わりに大抵わたしは泣いた。彼はわたしの頬をつたう涙
を唇で拭いながら囁いた。田んぼ、見に行こうか。
 夜中、中古自動車は鋪装されたあぜ道を見つけて、その端に止ま
った。わたしたちは降りて、蛙の鳴き声に耳を傾けた。一面ぎっし
り蛙だらけなのではと思われるような大合唱を聞いていると、わた
しの気持ちは妙に落ち着いて、朧な彼の顔を微笑んで見上げた。
 そして、キスをした。一瞬、蛙の鳴き声がやんだ。ねっとりとし
た夏の夜風が耳たぶを撫でていった。
 クラクションが突然鳴った。わたしはおどろいて一歩後ずさり、
あやうく畦から落ちそうになった。目の前を乗用車が通り過ぎてゆ
く。青いセダンを呆然と見送って、わたしはまた歩き出した。
 彼の中古車も鈍い青色だった。そして、目の前にある田は水のな
い刈り取られた後の田で、今は夏ではなく、冬、正月の三日だった。
 
 ぜひお正月にと、夫の母は強い口調でいった。昨年の秋、まだ式
を挙げる前のある日だった。わたしは、たとう紙の上の薄紅色をし
た訪問着を眺めながら曖昧に頷いた。その色はとてもわたしには似
合いそうになく思えた。
「素晴らしいわ」と、だけど夫の母はいった。わたしは黙って笑顔
を作った。小さな頃から夫を可愛がっていた叔母というのが、その
可愛がっていた甥の、まだ面識もない嫁のために誂えたという着物
を、複雑な思いで眺めた。
「ね、これを着てぜひご挨拶に行ってらっしゃい、お正月に。きっ
と喜ぶから」
 頷くことしか許されていないわたしの正月の行事が一つ決まった。
なのに、その直前になって、その行事に参加できないといったのは
夫だった。
「駄目だ。仕事」
 開業まもない夫は、今ここで私用を優先させたら顧客に顔が立た
ないと言うのだった。わたしは内心途方にくれた。が、夫の事情は
理解したかった。
 それで一人で出かけた。朝早くから美容院へと赴き髪を結われ、
薄紅色の訪問着を身にまとい、電車を乗り継いで、小さな駅から鋪
装されたあぜ道をとぼとぼ歩いて、夫の叔母の家に行った。玄関の
前で思いきり大きく息を吸い込んでから、引き戸を開けた。甘った
るい煮物の匂いがぷうんと漂ってきた。
 
「ご苦労さん、どうだった?」
 乗り換えの駅で掛けた電話で、夫はそういってねぎらってくれた。
「うん、まあなんとか」
 わたしは笑い声を漏らしながら答える。
「いい人だったろ?」
「そうね」
 こんな窮屈な思いをさせて、と訴えたい気持ちで掛けたのに、そ
の一言がいえなかった。じっと見つめられ、この着物に相応しい女
かどうかを見定められているような気がしたことや、歳を訊かれて、
あることを急かされているような気がしたことも、いえなかった。
「ごちそう出た?」
「うん、飲まされちゃった。ちょっと」
「へえ、いいなあ」
 わたしは苦笑する。
「疲れたろう。夕飯、どこかで食おうか」
「え、でも仕事」
「もう終わる。駅に着いたら電話しなよ。迎えに行くから。たまに
は和服の女性と食事してみたいし」
 一刻も早く着替えたいのに、と思いながらも微笑んで肯い、わた
しは受話器を下ろした。
 右上前を掌で僅かに押さえつけながら、ホームへの階段をおぼつ
かない足取りで降りる。と、この階段で、と思い出した。
「こんなこといったら怒るかなあ」
「何」
 わたしは訳がわからず、一段上の彼の顔を見上げた。
「怒らない?」
「え。うん」
「あのさあ」と、彼はにやにや笑っていった。
「女の子も乳首のまわりに毛が生えるんだね」
 わたしは怒るどころではなかった。恥ずかしくて悲しくてうつむ
いたまま歩けなくなった。ごめんごめん、という彼の声に答えるこ
ともできなかった。
 わたしはそのとき十九才で、まだ、一応、処女だった。
 ふと見下ろすと、電車はすでに入線していた。心持ち上前を押さ
えたまま、わたしは、手摺に沿ってゆっくりと階段を下った。
 車内は空いていた。長い座席の一番端に腰を降ろすと、自然にひ
とつ、ため息が漏れた。向いには初詣で帰りらしい若い男女が、楽
しげに会話をしながら座っていた。窓から射し込む西日でくっきり
と切り取られた彼らの黒ずんだシルエットが、しばしば僅かに揺れ
動いた。彼はやさしい人だった。
 彼はやさしいことにかけてはそつのない人だった。
 また生えてる、といって、その短い毛を摘んだ。親指と人さし指
の爪で挟んで引っぱる彼の、その横顔を、すぐ眼の下に笑って見な
がら、そのやわらかな頭髪をゆっくりと、わたしは撫で続けた。な
かなか抜けない、と彼は歯で噛んで引き抜いた。微かな痛みが心地
よかった。結婚したいと思った。十年後も二十年後も五十年後も、
こんなふうに、この人に毛を抜いて欲しいと思った。
 十九才のわたしにとって、結婚とはそういうものだった。
 発車を報せる長いベルの後、がたん、と揺れて電車が動いた。

第3回3000字小説バトル
Entry17

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グミのペンギン

作者 : 越冬こあら [エットウコアラ]
Website : http://www.geocities.co.jp/Bookend/4129
文字数 : 2959
 ピンク色の丘には、青いタイル張りの池があり、一羽のペンギン
が棲んでいる。ペンギンの体はツルツルで、半透明の緑色をしてい
て、ちょうどお菓子のグミで出来てるみたいだ。昼間は楽しく水浴
びをしたり、のんびり日向ぼこをしたり、夜には池に浮かんで眠る。

「あのですねえ、よく聞いて下さい。ええと、息子さんはですねえ、
とても楽しい夢を見ておられます。現実の生活よりもずっと幸福な
夢の世界にいるんだと思われます。心が幸福に満たされているので、
何の不満も欲求も起こらず、覚醒する理由やきっかけが見出せない
で居るのだと思われるのです」気の弱そうな研究員は持参したアタ
ッシュケースを膝の上にのせたまま、両親を前に恐る恐る説明を始
めた。
「……で、これが息子さんの夢の映像の一部を再現した写真なんで
すが、ええっと、よくご覧になって下さい」アタッシュケースから
出された数枚の写真を見せられても、両親は要領を得ず、無言のま
まだった。

 二週間ほど前の水曜日の朝、息子は起きてこなかった。前夜遅く
まで勉強して、きっと疲れているんだろうから、今日は学校を休ま
せて、眠りたいだけ眠らせてやろうと思っていたら、本当に眠りた
いだけ眠ってしまって、夜になっても翌朝になっても起きてこなか
った。何度起しても眠りから覚めない息子を見兼ねて、三日目に母
親が医者を呼んだ。
 ただ眠っているだけの患者を相手に、医者は幾つかの検査をした
が、特に異常は発見できず、当座の栄養補給の為に点滴をした後は、
成す術も無く、尿瓶を置いて帰っていった。
 その後、食事を口許に運べば咀嚼する事、時々薄目を開けてトイ
レに通う事がわかり、何とか最低限の生活は続けられたが、やはり
心配な両親は、ご近所に相談したり、電話帳を調べたりして、『大
原睡眠研究所』の存在を知り、原因の分析と対策を依頼した。
『大原睡眠研究所』は多額な前渡金と引き換えにこの気弱そうな研
究員を派遣してきた。研究員は一週間、毎日家に通ってきて、息子
の体に色々な器具を取り付けて検査を行ない、先程よりそれらの結
果を報告していた。

 写真にはピンクの丘に青い池、それに浮かぶ緑色の物体が示され
ていたが、全体にぼやけていて、いかにも胡散臭かった。息子の身
を案じる父親の顔に不安の色が浮かび、それがだんだんと不満の色
になり、怒りへと変貌する直前、研究員は説明を再開した。
「こ、この真ん中に浮かんでいるのがグミのペンギンなんですが、
息子さんがこのグミのペンギンを見ている事で幸福感を得ているの
か、グミのペンギンと遊んだりしているのか、もしくは息子さん自
身がグミのペンギンに変身されているのかは現在調査中なんです。
でも、グミで出来たペンギンなんて可愛いですよね、へへへ」ここ
まで話した研究員に父親は短く効果的な罵声を浴びせた。父親はそ
の後しばらく怒鳴り散らして研究員に以下の二点を要求した。

1.現状分析に留まらず、早急に解決策を提示する事
2.解決策は、提示に留まらず、速やかに実行する事

 結局、息子を夢から連れ戻すには息子の夢に入って行くしか方法
は無い事。同じ夢に入って行くには、血縁が深い事が第一条件とな
るので、両親のうちどちらかが息子の夢に入って行き、息子を目覚
めさせる必要がある事が険悪なやり取りの末に明らかになった。

 研究員は気を取り直して、アタッシュケースから小さな瓶を取り
出した。
「これが我々スタッフが開発しました同一夢誘発ドリンク『夢中く
ん』でして、このドリンクを15ccほど飲んで、ベットに入って
頂くと、かなりの可能性で……」研究員がそこまで説明した時点で
父親はドリンク剤を引ったくり、飲み干していた。
「あああっ、飲んじゃいましたね。まあ何とかなるでしょう。でも、
気をつけて下さいよ。ミイラ取りがミイラにならないように」
「俺の息子はミイラじゃない」と言い終わらないうちに父親は鼾を
かいていた。

「……ですから、私はですねえ、十分に説明を申し上げたかったの
です」三日後、件の研究員は母親と対峙していた。
「説明はいいですから、ドリンク剤を出して下さい」泣きはらした
目を三角にして母親が懇願した。
「いいえ、あのう、そういう風にはいかないんです。グミのペンギ
ンは、どうやら息子さんばかりかお父様も虜にしてしまったようで
すので、ここは今一度、現状の分析作業を行ない、各国の研究、報
告事例とつき合わせた検討を行ないませんと、ああっ何をなさいま
す……」
 母親は研究員のアタッシュケースを奪い取ると中から小瓶を取り
出して一気に飲み干してしまった。

 グルグルと天井のシャンデリアが回る。その度に観衆から拍手と
どよめきが沸き上る。舞踏会は今クライマックスを迎えていた。そ
の中心で母親はグミのペンギンと踊り続けていた。母親は自分を苛
めた意地悪な姉たちや継母を今度こそ見返してやる事が出来ると満
足していた。
 ああシンデレラ。これこそ母親の幼い頃からの夢だった。グミの
ペンギンのツルツルした肌触りがまた、とても心地良かった。
「ちょっと待って、このままじゃ私まで虜になってしまうじゃない
の」母親はおとぎの世界に埋没してしまいそうな意識を必死に奮い
立たせて考えた。
「このままじゃ負けてしまうわ。私のホームグラウンドに誘導しな
くては」母親はぎゅっと目を閉じて、ぱっと開いた。
 母親はグミのペンギンと台所に立っていた。鍋にはじゃが芋、玉
葱、人参、牛肉が煮立っていた。
「なんでホームグラウンドが台所なのよ」と思った瞬間、舞踏会に
戻っていた。グミのペンギンに抱きしめられると、甘い香りに蕩け
そうになった。思わずグミを舐めてみた。体中に甘い幸福感が広が
った。しかし、母親は最後の力を振り絞って叫んだ「肉じゃが!!」
再び台所に戻った。
「いいこと、グミのペンギンさん。あなたが夢を叶えてくれて、幸
福の味がする事はよっくわかったわよ」脇から鍋を覗き込んでいた
グミのペンギンに向き直った母親が早口に言った。
「でもね、私たちの幸福はそんなもんじゃないの。現実は苦しい事
や悲しい事がいっぱいあって、国や会社や家族や親戚が私たちの生
活を引っ掻き回して、ちょうどこの鍋の中のようにあっちへ行った
り、こっちへ行ったり、浮いたり沈んだりをいつまでたっても繰り
返していなくちゃならないけれど、それをもう嫌って言うほど繰り
返しているうちに、気がつくと、ほんのちょっとだけいい香りがす
るのよ」母親は涙目を三角にして続けた。
「その仄かな香りが幸福で、だから、そりゃあ少しだけだけど、で
もそれが本当の幸福だから、それが大切なんだから、だから、お願
い、ペンギンさん、お父さんと息子を私に返してちょうだいよ……」
グミのペンギンの手が母親の手に触れた。母親はぎゅっと目を閉じ
た……。

「あのう、お目覚めですか? ははは、よかったですねえ……」気
がつくと気弱な研究員がいた。母親は勝ったのだった。

 夕食は肉じゃがだった。久しぶりに親子三人の笑顔が並んだ。息
子はまだ少しぼうっとしていた。父親はそんな息子を見つめてニコ
ニコしていたが、心の中では寝室に隠した玉手箱を今夜こっそり開
けてみようかどうしようかと迷っていた。
 母親はそんな父と子を満足げに見つめていた。そして、片方だけ
置いてきたガラスの靴を思っていた。

第3回3000字小説バトル
Entry18

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Wanna be free AS A BIRD?

作者 : 川辻晶美 [カワツジアサミ]
Website :
文字数 : 2999
「珍しいものが手に入ったぞ」ジロウが興奮ぎみに翼を膨らませな
がら言う。
「食べ物?」
「そう、胡桃。聞いたことあるだろう」
 おじいさんが、若い時一度だけ食べたことがあるというその木の
実の名前を、僕は憶えていた。
「山へ行ったのか?」
 彼の黒い羽の間から葉っぱが一枚、はらりと落ちた。
「かみさんに栄養つけさせなくちゃな。あやうく撃ち殺されるとこ
ろだった」
 もうすぐ、ジロウ夫婦の卵が孵る。
「二つあるから、お前んとこのじいさんにも食わせてやれよ」

 僕はそのごつごつした丸い実を咥え、巣に戻った。今は使われな
くなった灯台が僕ら一族の住み処だ。おじいさんの羽や足はすっか
り弱り、もう自分で餌を取ることはできない。僕の差し出した木の
実を見ると、おじいさんは目を輝かせて殻をつつき、中の実をこり
こりと噛った。そして、感慨深げに一息つくと、そっと目を閉じた。
また若い頃のことでも考えているのだろう。

 もうずっと昔のこと。急速な土地開発が進み、山を追われた鴉た
ちは、仕方なく住宅街の公園や学校に身を寄せた。慰み程度の緑は
あっても、十分な餌をとれるはずもなく、彼らは人間の残飯を食べ
るようになる。すえた匂いを放つ奇妙な味にようやく慣れた頃、一
人の人間が食事中の彼らに石を投げた。年寄りたちがわけもわから
ず逃げ惑う中、血気盛んな若い鴉たちがそいつに立ち向かった。

「それが戦争の始まりだった」おじいさんが言う。何度も聞いた話
だ。天敵というものがいなかった僕らにとって、人間は生き残る為
に戦わなければならない最初の存在となったのだ。
 途切れることなく道端に放り出される残飯のおかげで、増え続け
る鴉に憤慨した人間たちは国際レベルでの鴉の一斉駆除に踏み切っ
た。多くの仲間が捕えられ、巣に残った卵は始末された。山にも帰
れず、街にも住めなくなった彼らが向かう場所に選択の余地はなか
った。海だけが残された聖域だったのだ。
 そこには先住者がいた。水上にも、港にも、浜辺にも。海鳥と呼
ばれる、鴎たちだった。安住の地に突然現れたよそ者たちを、奴等
は「黒い魔物」と呼んで敵意を剥き出しにした。
 先祖たちは岩陰でひっそりと暮らし始め、どうにか初めての卵を
授かった。若い鴎たちがそれを奪った。白く清楚なイメージとは裏
腹に、奴等は僕たち鴉よりもずっと悪食だ。

「それが第二の戦争」おばあさんが口を挟む。
 海面に血が飛び散り、白と黒の羽毛が砂浜を覆った。種族存続の
危機に晒された彼らは、次の協定を結ぶことによって、海での共存
生活に合意した。
  1.互いの卵を略奪することなかれ
  2.血を流し合うことなかれ
  3.つがい合うことなかれ

 時折浜辺にやってくる人間たちは鴎たちだけに餌を与え、僕らを
忌々しそうな表情で睨みつけた後、視線を逸らした。餌は自分たち
で調達するしかない。僕らは大きく羽を広げて身体全体を浮きのよ
うにし、足先をばたつかせながら魚を獲る。けっこうな体力を使う。
僕やジロウの世代になると、羽はずっと柔らかく空気を含み易くな
り、骨も強くなった分、海に浮くことはそう困難なことではなくな
っていたけれど。
 それでもここ最近になって、僕らに餌付けし始めた人間がいる。
初老の男と若い男の二人組だ。今日も目の前にパン屑が投げられた。
年寄りたちは決して気を許すなと言っていたけれど、好奇心旺盛な
ジロウだけは止められない。彼は餌に飛びついた。
「びびるこたあないさ」彼は言う。「俺達に興味があるらしい。食
っておけよ」
 けれど他の誰も彼らに近づくことはなかった。

 ジロウの雛が孵った夜、一族全員が集まって、かわるがわる巣を
囲み、その姿を飽くことなく見守った。
「まさか……」
 驚愕の声と感動のため息が、一晩中飛び交った。
 それは生命の奇跡がこの世に生誕した記念すべき夜だったのだ。

「この前産まれた赤ちゃん、水かきがついていたんですって?」
「完璧なものじゃないけどね」
「すごい進化だわ」ジョナが感嘆の声を漏らす。
「そうだね」
「ねえ、時がたてばいろんなことが変わるのかしら」
「ああ。きっと」
 その時、遠くで彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「もう行かなくちゃ」ジョナはほんの数秒、悲しげな瞳を僕に向け
はしたけれど、すぐにその輝く純白の翼を広げ、飛び去っていった。
彼女の姿が消えるまで、僕はその美しい姿に見惚れていた。
 第三の戒律に背いて、僕たちは、恋におちていた。

 フィンと名付けられたジロウの息子は、しばらくすると器用に水
の上を行き来するようになり、素早く小魚を捕らえては、大人たち
を驚かせた。その様子を一番嬉しそうな表情で見ていたのは、他で
もない、あの二人の人間たちだった。

 そしてある日の午後、事件は起こった。僕がジョナとの逢引きか
ら戻ると、ジロウの住み処である廃船のあたりがひどく騒がしいこ
とに気づいた。嫌な予感を覚えて近づいてみると、そこには、捕獲
網の中で暴れているフィンの姿と、誇らしげにそれを見つめる二人
の男たちの姿があった。
「やりましたね、博士。世界中の生物学者が大騒ぎしますよ」若い
男が興奮して言った。
「そろそろこういった異変が起こると思っていたんだ。鴉に水かき
か」
 怒り狂ったジロウが二人の頭上を旋廻し、威嚇の声をあげている。
それでも奴等はおかまいなしに、大きな篭にフィンを移そうとした。
その時、凄まじい速さでジロウが男たちに突進した。初老の男がよ
ろめき、若い方の顔が恐怖で引き攣った。鴉がいよいよ人間を殺す
最初の瞬間を想像し、僕は思わず目を瞑った。しかし、銃声に驚い
て目を開けた僕が見たものは、何百もの赤い肉片となって海に散っ
てゆく、ジロウの姿だった。

 ジロウの死から、ひと月ほどたった頃、ジョナがそっと僕に告げ
た。
「ねえ、出来ちゃったみたいなの」
「え?」
 そんなことって……。けれど、フィンの例がある。考えられない
ことではない。喜びよりも先に、僕の心は戸惑いと恐怖に埋め尽く
された。戒律に反して産まれてくる罪の子。嘴はどんな形をしてい
るのか。羽の色は? そして、完璧な水かきを持つ僕らの子供を、
仲間たちもあの二人組も見逃すはずはない。
「逃げよう」僕は羽を広げ、震えるジョナの身体を包んだ。
「ずっと南の方に、鳥類だけが暮す楽園があるらしいわ」
 それは僕も聞いたことがある。ありきたりな伝説だ。誰も信じち
ゃいない。でも、でもでもでもでもそれならば、南なのか北なのか、
右なのか左なのか、僕らの行くべき所は、どっちだ?
(飛べよ)大気の微動の中に、その声を聞いた。僕らは驚いて空を
見上げた。空には境界線がなかった。山も街も海もなかった。不吉
な色をしていようと、ゴミを漁ろうと、僕もジョナと同じ、この空
を自由に羽ばたくことを許された、地球上唯一の生き物に違いない
のだ。
(飛び立つしかないだろう)今度は、はっきりと聞こえた。ジロウ
の声に似ているような気がした。
「行こう」
頷いたジョナの瞳に、透明の液体が光る。それを見た僕の視界も
霞んだ。初めての経験だった。これも進化のなせるわざだと、あの
学者たちは言うのだろうか。
遥かなる水平線が太陽を反射して輝いている。未知なる世界が、
僕とジョナに微笑みかけている、そう思えた。そして、芽生えたば
かりの小さな生命は、僕らに海を越える力を、きっと与えてくれる
に違いない。
 眩しいほどにきらめく空へに向かって、僕らは、ゆっくりと翼を
広げた。

バトル結果

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作品受け付け/12月15日〜1月28日(終了)
作品発表/2月1日〜
人気投票受け付け/2月1日〜2月20日(終了)
結果発表/2月28日



第3回3000字バトルチャンピオンは
鮭二さん作『乳の罠』に決定です。鮭二さん、おめでとうございます!!
晴れて、グランドチャンピオンの誕生です!!



作品
乳の罠(鮭二)3
(akoh)2
グミのペンギン(越冬こあら)2
幼児回収業者(紅緋蒼紫)1
二度目の初恋(カミュ)1
寒い冬にコートを脱いだら風邪ひいた(ニコ)1
トリックスター(うめぼし)1
甘い生活(一之江)1
追憶(岡嶋一人)1


乳の罠(鮭二)

(akoh)

グミのペンギン(越冬こあら)

幼児回収業者(紅緋蒼紫)

二度目の初恋(カミュ)

寒い冬にコートを脱いだら風邪ひいた(ニコ)

トリックスター(うめぼし)

甘い生活(一之江)

追憶(岡嶋一人)



感想票をお寄せくださった皆さんご苦労様でした。感謝。