第4回3000字小説バトル
Entry10
台所。 流し台の引出しの中で、「妻楊枝」は多くの従者を従えて幸せに 暮らしていた。夫は「輪ゴム」である。彼もまた、多くの従者を従 えていた。 悲劇はなんの予告もなしにやってくる。 猫である。突として現れたそれは、運悪く開いていた引出しの中 から楊枝の集団をものも言わずに蹴散らし飛ばすと、一陣の風のご とくに走り去った。そうして中空に舞わされ、乾いた悲鳴をあげて 台所の床へと打ち落ちる楊枝たちの中に、どうやら妻楊枝の姿もあ った。 話を聞きつけた夫輪ゴムは直ちに救出隊を編成した。自らがその 陣頭式をとり、すぐ脇の割り箸の群れを瞬く間に一丁の割り箸鉄砲 へと作り変えさせる。そして息をもつかずにそのまま弾丸、夫輪ゴ ムは荒涼たる台所へと飛び立った。 ほの赤い泉の水がピシャリと跳ねた。無事着水したわけである。 目の前では「刺身の妻」が嘆いていた。彼女が身をからして流し出 した涙はその足元に泉を作り、そしてその泉は、今は亡き彼女の恋 しい夫の名残血にほの赤く染まっていた。 夫輪ゴムは、その未亡人に向かってはばからず妻のことを聞いた。 無論彼とて憐憫の情を感じずにはいられなかったのであるが、それ 以上に、今の刺身の妻の姿に明日の己の姿が投影されているように 思えて、勢い非情にならざるを得なかったのである。 けれども、刺身の妻はうつむいたまま首を振るばかりであった。 「せめて、なにか手がかりだけでも……」 「なぜそんなにむきになりますの? 無駄ですよ。今頃はもう……」 ようやく口を開いたと思えば、その答えは自己の絶望をことさら に強調させるだけのものであった。いらだたしくある。 「無駄なものか! 彼女は生きて、どこかできっと助けを求めてい る」 「やめましょう。それより……」 そこでふっと言葉を切って、静かに、妖しく、刺身の妻は夫輪ゴ ムの足元によろめきすがった。 「それより同じ境遇同士、過ぎ去ったことはいっそ忘れて、二人で 新しい生活を始めませんか」 艶かしい口調でとんでもないことを言う。もちろん夫輪ゴムがう なずくわけもない。 「馬鹿な! 奥さん、いくら悲しいからって、血迷ってはいけませ んよ」 「血迷ってなどいるものですか。私は生まれ落ちたときすでに『刺 身の妻』と定義されているのです。その定義を打ち破ろうというの です、そんなこと、悲壮なまでの覚悟がなくちゃ言えやしません。 迷っているのはむしろあなた、なんの束縛もないくせに、くだらな い倫理観にとらわれうらうらしているあなたではないのですか」 さらに続ける。強気一転、お涙頂戴である。 「けれど、それでも、あなたに救って欲しいのです。救ってくださ るでしょう? この悲しみ、あなたには分かっていただけるはずで すもの」 「しかし俺には妻があります」 「ではあなたは私がどうなってもいいのですね。今こうして生きて 苦しんでいる者よりも、安らかに眠っている者のほうが大切なので すね。酷い方です」 刺身の妻は、出ない涙を搾り出して弱々しくつぶやいた。 「酷いもなにも、それなら俺の妻をすでに亡き者のごとくに語って いるあなただって酷いじゃないか!」 刺身の妻のあまりに身勝手な言い分にいよいよ苛立ちも頂点に達 した夫輪ゴムは、語気を強めて反論した。そしてそれは同時に、刺 身の妻にも火をつけた。 「酷くはないわ! あなたの奥さんはもう死んだのよ。諦めなさい。 そして私と暮らしなさい」 「まだ言うか! この薄情女!」 「まあ! 私の気持ち、全然分かっていないのね。この苦しみ、夫 のことを思いやる余裕なんてありゃしないのよ!」 「そんな……」雷鳴が轟いた。天地が動転した。 夫輪ゴムは言葉を継ぐこともできずにいた。論じようにも、その 相手の姿が消えてしまっていたのである。自身も泉の外にはじかれ ていた。血生臭い泉に超然とした円形の波紋が広がって、それが却 って静けさを強調していた。 波紋が乱れる。 泉の底から浮いてきたそれを見て、夫輪ゴムはかつて感じたこと のないほどの高揚感をおぼえた。ほの白い光をまとっているかのご とくに泉に漂う、それはまごうことなき彼のよき妻だったのである。 夫輪ゴムは一心不乱に泉に踏み込み、妻楊枝を優しく抱きかかえ た。 「夫輪ゴム……」 小さな小さな声であった。おそらく一言を発するのも苦しいに違 いない。けれども妻楊枝は、美しく微笑んで夫輪ゴムを見つめてい た。そうして、苦しさなど微塵も感じさせなかった。それが却って 夫輪ゴムにはたまらない。 「いいんだ。俺のことなど気にせずに、苦しいときは苦しんでくれ。 そして元気になったなら、そのとき笑ってくれればいい」 けれども妻楊枝は笑顔をやめなかった。 「いいの。私はもう駄目。だから……。最後は綺麗に向かえたいの」 「絶望するのはまだ早い。おまえはまだ生きているじゃないか。駄 目なんて言わないでくれ」 刺身の妻の高笑いがかすかに耳に届く。見やれば、猫が台所を走 りまわっている。おそらく先ほどの天変地異の際に捕まえられたの であろう刺身の妻は、その口許に力なく垂れて気味悪いほど声高に 笑っているのである。夫輪ゴムはハッとした。 「おまえの仕業か、刺身の妻!」 刺身の妻は、猫の口にくわえられたまま高笑いを続ける。 さらに激しく問いかけると、刺身の妻は嘲笑うように大声で答え た。 「そうよ! あんたの幸せ奪ってやりたくて、たまたま近くに降っ てきたあんたの奥さんを泉に沈めてやったのよ!」 「馬鹿な! どんな道理があってそんなことをしやがったんだ!」 「復讐よ! 私だけ不幸であんたたちは幸せだなんて、そんな道理 もないじゃないのよ。すべての事を平等に見る絶対的な存在からし てみれば、私のしたことは当然与えられた権利に過ぎないのよ」 悪魔だ、夫輪ゴムは思った。全てを絶望の淵に追い込んで自らを 慰めるなど言語道断の行為である。そして、刺身の妻の悲嘆の仮面 に隠された蔑視・嘲笑の真実。騙されたという恥辱と屈辱が、夫輪 ゴムを支配する。 「あなた……。お願いだから許してあげて。あの人の気持ち、痛い ほど分かるもの」 妻楊枝のかすかな美しい声がする。散り逝くものの美しさ。 乱れた心でふと思う。それすらも、醜いエゴではないのか? 「復讐よ! 私の不幸をわけてやる」 「うるさい! 黙れ!」 「許してあげて……」 「分かった。分かったから……」 言葉が、いつ果てるともなく繰り返された。それを断ち切るは妻 楊枝の死。彼女は可憐に散った。 そして、その死は夫輪ゴムの心に新たな感情を落としていった。 それは例えば煙が広がるようにして、彼の心の中に広がっていった。 夫輪ゴムは勢い立ち上がり、激昂した様子で割り箸鉄砲を呼んだ。 「あの猫を撃つ!」 混沌。息苦しい。眩暈をさえ感じる。全てが漠然としていて、す でに爆発してしまった怒りなどという感情はあるにはあるが、それ が正当なものであるかは疑わしい。猫を撃つのも漠然とした意識に 他ならない。はっきりとした理由付けなど無意味である。 憤然と飛びかかる夫輪ゴムを、猫は嘲りのまなざし向けつつひら りと苦もなくかわした。夫輪ゴムはむなしく台所の床へ。 絶望を知った。 「畜生! 不幸だ! 絶望だ! 勝手な連中め、残された身にもな ってみやがれ。この絶望感、一体何処にやればいいのか、歯噛みし て耐えるしかないのか。ああ、俺は不幸だ!」 言う身勝手。 極論。 絶望は自愛である。