第4回3000字小説バトル
Entry12
その家は秋に取り壊されることに決まり、わたしは「見納めてお いで」と強く繰り返す祖母に負けて、一人で電車に乗った。 鈍行で三時間。寝過ごしそうになってあわてて下りた街は、既に ひとけがなかった。店仕舞いが早いらしい。一瞬無人かと思ってし まった、目の前を自転車が通りすぎていく。 夏の匂いがした。都心部で店を開く祖母にくっついて暮らすうち、 忘れていた匂いだった。 商店街を抜けて、地図の通りに歩く。迷いそうだ。 祖母に引き取られた時、わたしは物心がつくかつかないかだった。 一度も帰ることはなかったから、道を歩いても、よみがえる記憶な んてない。たどり着いた家にしても同じで、見るからに狭そうだと いう感想しか持てなかった。 錆色のトタンが張られている壁。屋根はくすんだ青。 平屋で、奥行きはあっても横幅がない。新築らしい家にはさまれ た格好はまるで、肩を竦めて萎縮してしまっているかのようだった。 住所のメモを照らし合わせ、鍵が合うことを確認しながら、まだ、 引き返してしまいたかった。 誰もがこの家を捨てて。帰ってきたのはわたし一人だ。 哀れでかわいそうな家。そのわたしでさえ、他人の家へ勝手に入 るように気持ちが悪い。玄関の、古いガラス戸を引き開けるときに は、「お邪魔します」と呟いていた。 ガラスタイル、よった布で編んだような雑多なマット。 薄暗い玄関は空気が悪くて、二分と居られそうになかった。汗ば む身体を拭いたくてたまらない。埃っぽい空気に纏わり付かれ、身 震いをした。たぶん、最後にそうじがなされたのは年忌のときだろ う。そのときもわたしは、ここへ来ることを拒みきっていた。 もう日が暮れるというのに。 布団やいろいろな、生活に必要な家具は置いてあるという話だっ た。けれどこの空気の中ではそれがどうだというのだろう。最小限 のものしか持たず、時間も考えずに来たことを悔やまなくてはいけ なかった。この家は無人なのだ。もう三年も。 しょうがない。 靴を脱いであがりこむと窓を片端から開けることにして、廊下を 渡った。右側の障子を開けて、小さい、畳と箪笥以外は何もない部 屋の窓を開けた。もののない部屋は壁ばかりが広くて、窓が小さく いびつに見える。外にはブロック塀と紫の花をつけた葵の木があっ た。敷居からそれを見返ったものの、なんとなく留まっていられな くて、わたしは機敏に動いた。 わかっていた。本当は、一番気持ちが悪いのは、中途半端に残っ ている人の気配だと。空気の中に生暖かささえ感じる気がして。 無人のくせに、そこかしこに痕跡が見つかる。手をついた柱に、 ステッカーが。ぼろぼろで絵柄が見えない。玄関のマットは手作り だった。 気持ちが悪い。 同じような部屋の窓をもうひとつ開けて、今度は廊下の突き当た り、ドアを開けて庭に面した座敷へ踏みこんだ。 お香の匂いが鼻を付いて、視覚の認識が遅れた。 心を飲みこまれた思いで立ち止まる。足が竦んだ。 当然閉めてあるものと思っていた、雨戸が開いていた。予想して いた暗闇でなく、西日の茜色が折り紙を折ったように射している。 縁側には少女が座っていた。大きな人形かと思った。白いワンピー ス。つやのある真っ直ぐな髪に、隠れていた顔がぎこちなく動いて こちらを向いた。 少女はわたしを見て、口を開いた。か細い声で言う。 「来ないで。みぃが消えてしまう。――消えたくないよう」 みぃ。それはわたしが小さい頃に呼ばれていた名前だった。祖母 がよく小さかったわたしの真似をして見せてくれたから、自分でも 「みぃ」と言っていたことを知っている。猫のような名だったと、 大きくなってからは思っていた。 少女はわたしだった。写真でしか見たことのない、「みぃ」が目 の前にいて口をきいていた。呆然とする一方で気がついた。 (そうだ、わたしはこの子を消しに来たのだ) あんたの家なんだから帰りなさい、と。今になって何度も繰り返 して聞かす祖母の手前、わたしは帰ってきた。でもこの家で暮らす 気なんて、はじめからない。一晩何も考えずに過ごして、それで帰 るつもりだった。 後のことは知らない。 もう二度と帰らない。 それで良かった。 一歩近づくと、本当にその姿がかすんで、少女が怯えて、わたし は戸惑った。 「消えたくないって?」 この家で暮らしていた頃の、わたし。希望にすがるような笑みを 浮かべ、頷いた。 一歩踏み出す。少女の姿はまた、擦れたように見えなくなりかけ る。わたしは後退った。踵を返して部屋を出て、廊下を渡り、玄関 でスニーカーを突っかけて外へ飛び出した。 飛び出したはいいけれど知らない街だ。どこへいっても景色は変 わらなかった。むちゃくちゃに角を曲がり、緑色のフェンスに隔て られた用水路に行きあたって、わたしは足をとめた。荷物も持って いなかった。 蜩の声が長く尾を引いて、水音に重なっていた。 水はフェンスの向こうで、勢い良く流れていた。コンクリートに 舗装された、茶色い水面は生き物のようにてらてらとして光ってい る。 (そうだ、縁側が好きだった) 身体を裏返して背をフェンスに預け、わたしは思い出していた。 あの、強く射す西日が好きだった。あの時刻にあの場所へ、その頃 持っていたビー玉やおはじき、果ては台所のガラスコップまで並べ て眺めるのが好きだった。光、光。その中に、影。 傍らにいたのは父だったか母だったか。遠すぎてそれすらもわか らない。わたしは故意に忘れようとしてきた。時とともに離れてい くものを、手繰り寄せようとはしなかった。そうするうちに完全に 思い出せなくなった。 だってそのほうがいい。 さっき目にしたばかりの頼りない笑みを、「みぃ」を思い浮かべ た。 「みぃ」は小作りで、可愛らしい少女だとはいえた。満面の笑みを 浮かべられたら、きっと愛された。 笑うこともあっただろうか。 少しでも、愛されていたんだろうか。 その考えは痛かった。いままで避けつづけて、ついに回答が出る ことも叶わなくなった問いだった。いまさら考えてなんになるだろ う。 振り返ると低い屋根の向こうに夏の空は、赤い色を残すだけで夕 陽はもう見えなかった。日が長いとはいえ、辺りの路地から闇に沈 んでいこうとしている。 消えてしまう。 ふと、思いが至った。 訊くことができるのかもしれなかった。「みぃ」になら。 わたしは再び走りだした。道を走り角を曲がり、古いアパートの 軒にある百日紅や、壁越しに見えるお堂に目をやり、路地へ入った。 最後の角を曲がって正確に家にたどり着いた。 座敷にはまだわだかまるような夕陽があった。かろうじてものの 輪郭が見えるほどの、余韻が残っている。 「みぃ」 走った後の、苦しい息の下で呼びかける。深呼吸をした。空気の 流れがある。風が通って、家の雰囲気はずいぶんと違って感じた。 不安を塗りこめるように、「懐かしい」という感情がやってくる。 その思いを。取り戻したがっているわたしがいたことを、はじめ て知った。いままで知らなかった。ずっと。 「――みぃは私」 家全体が笑った気がした。 両手を下げて、力を抜いた。わたしは無防備に、「みぃ」が戻っ てくる瞬間を待った。