第4回3000字小説バトル
Entry15
猫が空を飛ぶようになって、七十年。 「そうか。話は大体分かった」 小野田雅彦の顔は、シミとシワだらけで、まるで岩のようだった。 「坂部さん、と言ったかな?」 小さな家の、これまた狭い畳敷きの部屋の中には棚が並んでおり、 ぎっしりと凧が詰まっている。その真ん中に座っている小野田は、 ほとんど家と一体化して見えた。 「は、はい」 スーツ姿の坂部直之は頷く。 「せっかくの機会だ、空猫猟を見て行っちゃどうだい?」 「え?」 思い掛けない申し出に、坂部は戸惑いの表情を浮かべる。 「いいんですか?」 「ああ。こんな小さな町じゃ、もうすっかり飽きられてな。誰も感 心してくれん」 小野田は声を出して笑う。 「でも、あんたも何度か見たか」 「いえ、伝統的な空猫猟は見たことありません」 「伝統的、か。まあ、他の奴より古いのは認めるが」 寂しげとも誇らしげとも取れる顔だった。 「さ、行くか」 「はい」 「そうそう、上着は脱いでおいた方がいいな。それにネクタイも」 「え?」 「空猫の爪は鋭いからな。せっかくの服が台無しになる」 「ああ、なるほど」 素直に坂部は上着とネクタイを外した。 小野田は、棚に並んだ凧から何のためらいもなく一つを取り出し た。 「夏猫はこいつがよく掴む」 アルミ合金の骨を使った凧には、薄いファインメタル織りの布が 張られ、ゆらゆら揺れる猫じゃらし風の尻尾が数本ある。さらに、 凧の中心の骨に、布に垂直な向きで金属の輪が直角に付いていた。 「へえ、綺麗ですね」 「空猫の懸賞金が高かった頃の流行りだよ」 彼は凧糸を二本凧に結ぶ。 「よし」 「え? これで終わりですか? トリモチと電池は?」 不思議そうに坂部は凧を眺める。金属部品で作られてはいるが、 機械は一切ない。 「本物の空猫猟師は、ずっとこれでやって来たのさ」 小野田は、凧糸の一本を引っ張る。 ――すっ。 目にも見えない早さで、音もなく金属の輪は締まった。 小野田の家から出ると、急に波の音が大きく聞こえ始めた。 手を伸ばせば届きそうな場所に海が見える。 「昔は海ももっと遠かったんだがな」 曇り空でなければ、水面は太陽の光を反射して美しく輝いたに違 いない。 「どこで捕るんですか?」 「空に区切りはないさ」 凧を持ったまま、小野田は空を見上げる。釣られて見上げた坂部 だが、空猫の姿は見えない。 「鳥を喰い尽くしたもんだから、港ばっかり狙いやがる」 誰に言うでもなく呟いて、小野田は凧を置いた。 「ふんっ!」 小さな気合いと共に、一気に糸を引く。 ばさっ! 凧は夏風を掴み一瞬のうちに浮き上がる。 坂部が感嘆の溜息を洩らす間もなく、凧はぐんぐん昇っていく。 小野田の手の凧糸玉が、みるみる小さくなり、凧も点にしか見えな くなってしまった。 「凄いですね」 決して風が強い日ではない。 「これぐらいのことで驚かれてもな」 照れと自慢の入り交じったような笑みを浮かべ、小野田は二本の 糸を操る。 「あっ」 目を凝らしていた坂部は、小さく声を上げた。 黒い点のようなものが、同じく点のような凧に近付いて来る。 「あれ、空猫ですか?」 小野田の返事はなかった。 表情が一瞬前とまるで変わっていた。獲物を狙う鋭い目は、高齢 を感じさせない。 小野田は、糸の一本を――確か、輪を開け閉めする方の糸を小刻 みに引っ張っている。すると、凧はまるで意思のあるもののように 動いた。 「舵と兼用なんですね」 独り言とも話し掛けているとも取れる声量で、坂部は呟く。 それから十秒ほどふらふら動いていた凧は、突然すーっと空猫か ら離れた。その動きに誘われるかのように、空猫は凧に猛然と突進 する。 「どっ!」 言葉の体を成していない気合いと共に、小野田は輪を締める糸を 引っ張った。途端に空の点は一つになり、不規則に暴れ始める。 「捕らえた……」 坂部は感嘆の溜息を洩らした。 ぐっと歯を食いしばった小野田は、足を踏ん張っている。 筋肉の衰えた、このまま飛ばされそうな細い身体。だが、小野田 の目は獲物を決して逃がさない、冷静な獣のよう。 絶対空猫は逃げられない。 坂部は確信した。 小野田は輪を締める糸を弛めぬまま、凧を支えている糸を操り、 三秒もしないうちに凧の態勢を整えた。 「おお……」 坂部の口から、無意識の声が洩れる。 空猫は横に飛び、凧から逃れようとした。だが、小野田は巧みに 糸を弛める。抵抗がなくなり、勢いが付き過ぎた空猫は止まろうと するが、その瞬間を突かれ、元いた位置に戻されてしまう。 上、下、左、右、前、後、あらゆる動きをして凧から逃れようと する空猫。しかし、小野田の凧糸さばきはその全ての動きを柔らか く受け流した。 そして空猫の動きが小さくなって来た頃。 「だっ!」 小野田は一気に糸を引き寄せる。 一瞬でも輪を締めている糸を弛めば、空猫は逃げるに違いない。 いや、二本の糸がたった一回ねじれただけでも、輪に締める力は伝 達されない。 しばらく引き寄せたところで、空猫が再び暴れ始めた。 すると、小野田は足をじっと地面に据え、再び動きを受け流す。 そして空猫を疲れさせ、また糸をたぐる。 そして、ついに凧は地面にふわりと降り立った。 「ふぎゃあああっ!」 凧には、輪で胴体を締められた白い空猫がくっついている。 小野田は輪から外した空猫の首根っこを掴み、箱に放り込み――。 ぱたん。 すかさず箱の蓋を閉じ、カギを掛けた。 中で空猫の暴れる音が聞こえる。 「凄いですね、なんて言うか……凄いですね」 「本当はな、降ろさないままで三匹は捕れるんだよ」 「そうなんですか?」 「ああ」 小野田は空猫を入れた箱の上に腰を降ろした。 「季節がな、悪い。空猫猟の季節は、俺が子供の頃から秋って決ま ってるからな」 「へえ」 「よく、田圃の上なんかに山ほど空猫が来て、雀や烏を捕ってたも んだよ」 「そうなんですか」 箱の中では、まだ空猫が騒いでいた。 「さて、こいつは逃がさなきゃならねえんだったっけな?」 小野田は箱の上からどいた。 「はい」 うつ向き気味で、坂部は答える。 「お役所ってのは勝手なもんだな、しかし。空猫が出始めてすぐは、 懸賞金まで掛けて殺してたもんを」 「ええ、それは」 「今は、一匹も殺すな、か」 苦々しげに小野田は箱を蹴る。静かになり掛けていた空猫が、ま た騒ぎ始めた。 「農業試験場から洩れた遺伝子汚染生物で、絶対悪じゃなかったの か? こいつは」 「で、ですが、空猫をこれ以上減らしてしまえば、空猫が鳥類を絶 滅させた時以上の生態系の変動が起こってしまいますので……」 「とと、すまねえ。あんたに八つ当たりすることじゃねえや」 ぴしゃりと小野田は自分の額を叩いた。 「ただの年寄りの愚痴だ、聞き流してくれ」 「いえ、お察しします」 声が喉に引っかる。坂部はぐっと奥歯を噛みしめた。 「正式な禁漁までどれくらいあったかな?」 明るい声で小野田は尋ねた。 「は、はい、来年度からの実施になりますので、あと八ヶ月です」 「そうか。まあもっとも、役所の懸賞金がなくなってからこっち、 空猫猟なんてしなくなってるからな」 小野田は箱のカギを外し、蓋を開けた。 ふわっ。 箱の中から飛び出した白い空猫は、瞬く間に天高く昇って行った。 捕まっていたことなどすっかり忘れてしまったかのように。 鳥一羽いない曇った灰色の空に、白い空猫はやけにはっきり、い つまでも見えていた。