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第4回3000字小説バトル
Entry17

濡れ落葉と呼ばれる頃に

作者 : 竜胆姫 [リンドウキ]
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文字数 : 2989
 長い間、ただ堅実で人並みに幸せな生活を送ってきました。
四十年余り勤め上げた会社も一昨年に定年を迎え、今は妻と共に穏
やかな老後を過ごしています。まだ若い時分、妻が或る病にかかり、
とうとう私達の間に子供は産まれませんでしたが、それはかえって
私達夫婦の絆というものをより強くしたのではないかと思うのです。
 両親とは同居をせず、二人きりの家庭でしたが、私達は共働きと
いう型を取っていました。それは二十歳時分の私の稼ぎでは心許な
いという事も多少ありましたが、家庭ではない居場所が妻には必要
だと考え、二人で相談した結果の事でした。
 そうして共働きの生活が始まったのですが、変わった事と言えば、
朝食を私が作るようになった事ぐらいで、私にはこれといった大き
な変化はありませんでした。妻の方も「朝、ゆっくりと起きられる」
と笑っていたのを覚えていますから、思っていた程の負担は掛かっ
ていない様でした。時折、仕事の後に少し高めのレストランへ二人
で行くようになった事が、変わった事と言えるかも知れません。
 私達は充実した毎日を送っていました。同じ様な一日が繰り返さ
れるだけではありましたが、時間の流れの早さに焦りや苛立ちを覚
えない程に幸せな毎日を送っていたのです。しかし、そんな日常、
あるいは平穏な日々と呼べる毎日は、妻の両親の死、という形であ
っけなく終わりを告げました。
 私が四十八歳、妻が四十七歳のときでした。義父が倒れたと義母
から連絡があり、私達は直ぐに病院へ向かったのですが、義父は病
院に着く前に息を引き取ったという事でした。この事での心労が祟
ったのか、四日後、義母は後を追うように亡くなりました。この日
から妻は時折、今までとは違う一面を私に見せるようになりました。
今回の事は妻の胸に余程深い傷残したのでしょう。それから一月近
くの間、妻は一言も喋ることはありませんでした。まともに食事も
採らず、眠らず、幾ら私が話し掛けても返事が返ってくる事はなく、
私はこのとき初めて妻に対して苛立ちを、いえ、嫌悪感さえ抱いて
いたのかも知れません。
 妻が喋らなくなって一月が過ぎた或る日、私は食卓の椅子に座る
妻に向かい、
「散歩でもしないか?」
と誘いました。期待もしていない返事がやはり返ってこないことを
確かめると、わざと大きな溜息をつき、それを最後に妻に話し掛け
ることを止めました。勝手な事とは思いましたが、妻の勤めている
会社に辞表を出したのもこのときでした。
 それからの毎日は家にいることが苦痛で仕方なく、同僚と部下と
友人と、人を換え場所を変え、遅くまで飲み歩くことが増えていき
ました。少しでもあの灯りの無い、音の無い家で居る時間を避けた
かったのです。今の妻を見る度に今までの妻が思い出され、また現
実を突き付けられるのが辛かったのです。
 飲み歩く日が一月程続き、その日も家に着いたのは十一時をまわ
っていました。タクシーを降り、ふと、自分の家を見上げるといつ
もと様子が違う事に気付きました。かなりのお酒が入っていました
が、玄関に灯りが付いていたので、家の様子がいつもとは違うこと
は一目瞭然でした。何かあったのかと思い、慌てて玄関のドアを開
け、靴を脱ぎ散らして台所へと駆け込むと、そこには浴衣を着た妻
が流しに浸けた菊の花をじっと見つめていました。
「どうしたの」
私は妻に話し掛けました。話し掛けた後であっと思いましたが、妻
は何事もなかったかの様に
「お墓参りに行きません?」
と応えました。
「知っています? お盆には死んだ人達が帰ってくるのですよ」
私は妻の言葉に狂気を感じました。妻が喋っている事にさえ気付か
ず、気圧され、言われるままに首を縦に振っていました。
 私は用意されていた浴衣に着替え、部屋の電気も消さずに家を出、
妻と共に車に乗り込みました。車の中で妻は何も話しませんでした
が、死にに行くつもりだろうと感じていました。何時かはこんな日
が来るのではないかと、薄々感じてはいましたが、それとは裏腹に
酔いは一気に醒めていました。暫くして墓地に着いても私はまだ決
心が付かず、車から降りる事が出来ませんでしたから、「煙草を吸
いたいから」と、適当な理由をつけ妻を先に行かせました。そして
煙草の箱を持ったときに、初めて自分が震えている事に気が付きま
した。大きく震える手がどうしようもなく、くわえ煙草でゆっくり
と二本吸いましたが、手の震えは結局止まりませんでした。しかし、
決心は付きました。車からゆっくりと降り、下駄の音を小さく鳴ら
し、妻の待つ所へと向かいました。考える事など無かったのです、
私は今までずっと妻と共に生きてきたのですから。
 一面に広がる石の草原に灯籠がぽつりぽつりと灯り、ただ綺麗と
しか言い様のないこの空間が地獄の様にも天国の様にも見え、目前
にある死に畏怖を覚えるはずが、その中に妻の姿を見つけると、気
でも違ったのでしょうか、何だか口元が緩むのでした。
「もう、お参りはしてしまったのかい?」
妻は黙ったまま、首を横に振りました。
「じゃあ、一緒に」
と言いながら腰を落とそうとしていた私を、妻の言葉が止めました。
「その前に、一つ聞いてもらいたいことがあるの」
待っていた言葉に私は眼を閉じ、優しく応えました。もう覚悟はし
たのですから。
「何?」
「ごめんなさい」
「・・・うん」
「・・・父さんと母さんが死んでね、死んだ人とはもう二度と逢えない
っていう事がどういう事か初めて分かったの」
「・・・・うん」
「それでね、二人はもう居ないんだって、その事で頭がいっぱいに
なって、その事だけしか考えられなくなって、気付いたら私の側に
は誰も、あなたさえ、もういなかったの。本当に私、独りになった
んだなって、そう思うと不安で、怖くて、たとえ死んでなくても自
分の周りに誰もいなくなると、私はもう生きていないんだってそう
思って、これ以上独りで居ると消えてしまいそうで、死んでしまい
そうで、・・・だから、・・・だからお願い、私を一人にしないで、・・・ず
っと側にいて、・・・・・・・そして一日でいいから、私より長く生きてい
て欲しいの。・・・・もう一人じゃ・・・」
 妻は泣いていました。これが結婚して初めて見せる涙でした。私
などが思っていたよりも妻は、ずっと、ずっと強い人でした。寂し
さの余り自殺などを考え、死にたかったのは弱い私の方だったので
す。私は妻のせいにしなくては、一人で死ぬ事さえ出来なかったの
です。謝るべきは私の方なのです、ですから、・・・・ですから。
 ・・・涙が溢れてきて、もう頭がいっぱいになって何を考えればよい
のか、何と言ってやれば良いのかも分かりません。ただ、これまで
妻を想ってきた事が全て偽りのものに感じる程、妻を愛おしいと思
いました。

 帰りの車の中で私は少し照れながら
「いつも君の傍らに在りたい」
堅苦しい言葉でしたが、私はそう妻に伝えました。
「濡れ落ち葉と呼ばれる頃になっても?」
妻の意地悪な言葉に私は安堵と、懐かしさと、温もりを感じ、妻の
手をとりました。
「仲のいい夫婦って呼ばせるさ」

 それから間もなくして、死に対する極度の畏怖からでしょうか、
妻は脳に軽い障害を持つ事となり、それはゆっくりと進行して行き
ました。今ではもう正常な妻の姿を見ることは殆ど無くなりました
が、私達はただ流れてゆくだけのこの時間を幸せに過ごしています。