第4回3000字小説バトル
Entry19
妻の事故死はさほど不審なことではないとして、佐伯を狼狽えさ せたのは、その妻が実は妊娠していたという事実だった。 御存知なかったのですか、と怪訝そうな顔で医者に告げられたと きから、佐伯の心の中にはどんよりとした闇が広がっていった。妻 が知らなかったということはあり得ないというのが、医者の説明だ った。しかし自分は知らされていなかった。なぜ、という疑問も滑 稽だと思える、当然の推測が佐伯の心中でなされた。彼は唖然とし た。自分の妻に限って、というありふれた誤解にとらわれることに 抵抗を感じながらも、彼はやはり、その思いを打ち消せなかった。 妻は真面目な女だった。朝食の支度から夕食の後片付けまで、一 日家のことに関わっているだけの女だった。たまに女友達と出かけ るというときでさえ、夫にその外出の許可を求めた。もっと遊んだ らいいじゃないか、と佐伯が笑うと、ええだけど、と曖昧な微笑を 浮かべながら答えた。だって別に外に出ても楽しいことなんかない んだもの。 あるいはそれは、彼女一流の演技だったのかも知れない。自分に 男がいることを必死に隠すための策だったのかも知れない。しかし、 あの無邪気な表情の裏にそんな別の顔があったとはどうしても佐伯 には信じられなかった。大体、だからこそ、そういう彼女を傷つけ たくないと思ったからこそ、自分には諦めた女だっていたのだ。 あの女はどうしてるだろう、とふと佐伯は考えて、あさましいと 自分を嗤った。 そんな茫漠とした不安な気持のまま、それは例えば星のない夜に、 目的地も方位もわからないまま、ひとり小舟で海を渡るようなもの だったが、それでも佐伯は櫂を漕ぎ続けなければならなかった。通 夜も葬式も、彼が動かなければ物事は進まなかった。 佐伯は自分の身の置き所を心の中で訝しんだ。妻を失って悲しみ にくれる夫の姿も自分であったし、裏切られたのかも知れないとい う疑惑に苦しみ悶え、果ては妻を憎む夫の姿も自分であった。そし て、どっちつかずの境地のままに妻を送りださなければならない非 情なプログラムに歯を食いしばって耐え忍んだ。誰にも打ち明ける ことなどできないのだ。 弔問に訪れた男たちにいちいち猜疑の目を向けそうになる自分を、 叱りながらあるいはけしかけながらも、結局は何も得ることもなく、 表面的にはあくまでも無難に弔いの儀式は終わり、いくらか平穏な 日々が再び佐伯の身辺に取り戻されると、彼はそのときになって、 初めて自分の苦しみに没頭することになった。中途半端ではない、 自分が抱えた闇との決着を図ろうとした。 日記というものがあれば、彼はそれを真っ先に探しているのだっ たが、あいにく妻はそのようなものをつけていなかった。仕事をや めてからは手帳すら持ち歩かなかった。何か記録といえるようなも のは家計簿だけだった。 まさかこんなところに、と思いながらも佐伯は縋るような思いで、 妻が残した几帳面な文字の羅列に目を注いだ。にんじん、ピーマン、 なめこ、豆腐、ぶり。妻の角張った筆跡が示しているのは、佐伯に も馴染みのある日常食卓にのぼるものばかりだった。料理されたそ れらを前に、妻が微笑んでいる図が彼の脳裏を過った。く、と嗚咽 が込み上げてくる。と、いかにも馬鹿げた行為を自分がしているよ うな気持に迫られる。自分が汚らわしく思われてくる。 ねえ、と妻は佐伯に訊いたものだ。赤ちゃん、欲しくない? う ん欲しいね、と佐伯は答えた。でもまだ急ぐこともないだろう。そ のうちきっとね。まだ早い時期の話だった。そういえば、そうだ。 妻のそんな台詞はいつからか聞かれなくなった。なぜ。 そう思った途端、佐伯の目を「あいびき肉」の文字が刺した。苦 痛にねじ曲がる自分の唇を、佐伯は滑稽だと思いながらどうにもで きなかった。馬鹿馬鹿、と自嘲しながら彼は家計簿を捲り続けた。 はっと目を引き付けられたのは、一月ほど前のある日のページの 余白だった。 「今ごろ、こんな形で罪深さに怯えるようになるなんて」 突然あらわれた、意味を持ったその文章に佐伯は愕然とした。や はりそうなのか。そうだったのか。彼はもはや憑かれたようにペー ジを捲った。何ヶ月、およそ一年前まで彼は性急に時を遡った。 「ごめんなさい、あなた」 力なく醜くくねったその文字を見つけたとき、佐伯は眉間に皺を よせて目を固くつぶり、呻いた。家計簿を持つ手がわなわなと震え た。 ごめんなさい、あなた。妻の悲しげな、いや、というより哀れみ に近いと思われる表情が、鮮やかに佐伯の目に映った。何かに怯え ているように定まらない視線。確かにそんな顔を佐伯は度々妻に見 ていた。そうだ。そうだった。 一瞬の後、家計簿は壁に激しく打ち投げられた。佐伯は肩で荒く 息をつきながら、大股で仏壇に歩み寄った。このやろう、と彼は妻 の写真に向かって吠えた。お前、お前、そんな女だったのか。彼は 写真立てを掴むと、これも壁に叩きつけた。 派手な音と共に跳ね転がった写真立てを、荒い呼吸のまま暫く眺 めた後、彼は虚脱感に襲われて膝をついた。 仕方がないじゃないか。頬を涙がつたった。勝手なやつだ。でも 仕方ない。好きだったのか。どんな男だった。それさえ聞けない。 涙で滲むひび割れたガラスの中の妻の笑顔を見つめて、大きくため 息をついた。 佐伯の頭にかつての女の名がふと浮かんだ。 ちょっと痩せたな、と内心思いながら、佐伯は女を眺めた。別れ てから一年近く経っていた。躊躇いながら掛けた電話で妻の死を告 げると、女は一瞬絶句してから会うと言った。佐伯の心に久しぶり に明るみがさした。 女が墓参りをしたいと言ったことも、佐伯には好もしかった。自 分と並んで亡き妻に手を合わせる女に、佐伯は今後の人生の希望を 見い出した。かつて自分が仇としていた女の死を悼む彼女をしおら しくも感じた。 墓参りを終えて立ち寄った喫茶店で、女は煙草を吸った。いつか ら、と驚いて佐伯が訊ねると、やりきれなくて、と答えた。まだそ れほど短くなっていないそれを灰皿に擦り付けると、女は呆れたよ うな目で佐伯を嗤って喋り出した。 あなた、何も知らないんでしょう、と女は始めた。 奥さん、きっと何も言わなかったでしょうから。あなたが一番呑 気なのよ。あたし妊娠してたの知らないんだものね。 言葉もない佐伯が聞かされたのは、妊娠して途方にくれた彼女が、 すっかり冷たくなった佐伯憎さに、妻のところへ乗り込んだという 事実だった。 そしたらね、奥さん、どうしたと思う? 女は眩しげに目を細めてから続けた。 何度も何度も、許して下さいって畳に頭こすりつけてね。許して 下さい、お願いだから、諦めて下さい、子供はって。泣いてた。 拍子抜けしたわよ。そんなつもりじゃなかったから。負けるもん かみたいな感じだったの。馬鹿よね。奥さんたら、お願いだから子 供だけは勘弁してって。あたしに頼むって。主人には内緒でって。 佐伯の目に、涙ぐみながら背中を丸めて何度も頭を下げる妻の姿 が映った。ごめんなさい、と妻は言っていた。ごめんなさい、あな た。 佐伯の手からコーヒーカップが落ちた。 こんな形で罪深さに怯えるようになるなんて。 罪深さ。お前の罪? 何だって? 何のことだ! お前、何を悩 んでた! 馬鹿な! 馬鹿じゃないのか! 顔が真っ青よ、という女の訝しげに冷ややかな声が、佐伯の耳に ぼんやりと響いた。