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第4回3000字小説バトル
Entry20

空を飛ぶその男を見よ

作者 : 越冬こあら [エットウコアラ]
Website : http://www.geocities.co.jp/Bookend/4129
文字数 : 3000
 二日続けて徹夜した俺の頭の中はウニのようになっていた。いや、
正確には一晩と半分の徹夜だ。一晩は、現在審議中の企画書作成の
為。もう半分は、その内容について課長との酒の入った討論の為。
企画は少々突飛なものであり、会議への提出は冒険的な要素を伴っ
ていた。最初のうちはなんのかんのと文句をつけていた課長も、後
半は随分と理解を示し、午前三時を回った頃には肩を組んだり握手
をしたり、大いに盛り上がり、この企画に大いに賛同してくれた。
企画書さえ会議を通れば、俺も日の当たる大通りを闊歩する事が出
来るだろう。課長には悪いが、企画の性格上それを操る俺は会社に
とって不可欠な人材となり、俺の方が先に部長に昇進するだろう。
午前十時を過ぎた会議室で窓際に陣取ったお偉方に向かって、俺は
熱弁を奮った。
「甚だ簡単な説明ではございますが、御審議のほど宜しくお願い致
します」俺の出番は終わった。昨晩の酒席での打ち合わせ通り、審
議中の質疑応答は課長が担当する。俺は黙って聞いていれば良い訳
だ。「何か御質問はございますでしょうか」課員の前での横暴な態
度を全く感じさせない課長の杓子定規な声が俺の説明を引き継ぎ、
会議は佳境に入っていった。
 お偉方の通り一遍な質問が続く。焦点のずれた質問や同じ説明を
繰り返させるだけの質問が多く、ほとんどの質問は議論の余地も無
く、課長が企画書の内容を繰り返すだけではけていった。そうして
いる間にも、俺のシーチキンのように疲れ切った肉体は、仕事を終
えた充実感を味わう喜びに向かっていった。「ああ、やっと……」
 しかし、安堵しかけた瞬間、一番のお偉いさんが口を開いた。そ
れは、あまりに唐突で、あまりに些細な問題であったが、いつもの
ように出席者全員が質問の内容よりも質問者に恐れをなして、会議
は大きく方向を変えた。それから約一時間、なんだかんだと重箱の
隅をつっつくような質問が繰り返された。質問のたびに他のお偉い
さんは頷き、課長はかしこまってろくに答えず、俺の神経は下ろし
金にすりおろされていった。
 ウニの頭とシーチキンの体を大根おろしの神経で支えつつ、それ
でも俺は打ち合わせ通り沈黙を保った。会議は終わり、承認は見送
り、企画は練り直して再度提出となった。しかし、練り直した企画
が承認された前例はなく、つまり俺の企画は事実上却下された。そ
れはあっけない結末だった。
 自席に戻った俺は、課長に呼びつけられ、課員達が刺すような視
線で盗み見る中、叱責され続けた。いい加減こうべを垂れているの
にも飽きた俺が顔を上げた時、俺は信じられない光景を見た。
 課長以下室内の人間全てが紙になっていたのだ。課長はちょうど
写真屋のポスターのようになって、不自然な動きを繰り返していた
し、盗み見ている課員諸君も等身大紙相撲のようなあんばいで机上
のコンピュータに対面していた。つまりそれは幻覚にすぎないのだ
が、紙になった課長の説教は何の迫力もなく、課員達の視線も俺を
突き刺す力を失っていた。「とっとと帰って、顔を洗って出直して
こい」という課長の言葉をその意味の通りに受け取って、俺は早退
した。俺の頭はもういかれちまっていたので、社内ですれ違う同僚
諸君も街を行き交う人々も駅員さんもお巡りさんもみんな紙になっ
ていた。
 昼下がりに辿り着いた我が家では紙の妻が洗い物をしていた。妻
は、徹夜明けで早退してきた亭主がどのような精神状態にあるのか
十分理解しているので、多くは問わず、睡眠をとることをすすめ、
紙の両手で布団を敷いてくれた。俺も幻覚相手に事態を説明するつ
もりもなく布団に入り、眠りについた。
 目を覚ますと、外はもう暗かった。布団を抜け出し、居間に入る
と妻と娘が夕食を食べていた。二人とも紙のままだったことに俺は
軽いショックを受けた。試しに娘の肩に触れてみた。その手触りも
質感も正真正銘の紙だった。どうやら俺は、五感全てがいかれちま
ったようだ。おそらく急速な回復は見込めないだろう。心に諦めが
広がった。それは安堵に近い感情だった。
 紙人間の夕食はとても奇妙なものだった。三次元の御飯と味噌汁、
焼き魚と白菜の漬物等が、ひとたび紙人間の口に入ると紙の一部と
なって、その存在感を無くしていった。卓袱台に座り、寝ぼけまな
こで観察を始めた俺に気づいて、妻は台所に立った。俺は自身の空
腹にやっと気づいた。
 あったかい御飯と味噌汁、焼き魚と白菜の漬物等の作用により、
空腹は癒され、シーチキンは急激な回復を果たしたが、大根おろし
とウニ頭の方は全く回復の兆しを見せず、未来の絶望を暗示し続け
ていた。卓袱台に肘を突いたまま動かない亭主に話しかける事がど
んなに危険か十分理解している妻は、しばらくテレビを見た後、娘
と風呂に入った。
 この幻覚が続くようならば、俺は病院に行くしかない。こんな奇
抜な症状を有する病は奇病、難病の類に相違いなく、長期の療養を
要するだろう。有給休暇を使い果たして、後は休職、もしくは退社。
あの企画が通らないような会社に長く勤めても仕方が無いが、収入
の道が断たれるのは辛い。いや、幻覚は幻覚。そんなに長く続く訳
はない。神経が十分休まれば自然に治るに違いない。二、三日ゆっ
くりすればきっと……頭の中で明と暗のシミュレーションが繰り返
された。どのくらいそうしていただろう、俺は妻と娘の風呂がいつ
もより長く、いつもより静かな事に気が付いた。そしてもう一つの
事に気付いた時、俺は妻と娘の名を叫び、急いで風呂場の戸を開け
た。
 悪い予感はピタリと当たり、風呂の湯にはもろもろに溶けた紙が
意味を失って浮かんでいた。「これは、どういう事なんだ」幻覚の
くせに本当に溶解してしまうなんて。俺の混乱は一気にピークに達
し、俺は嘆き、叫び、街に飛び出した。俺は走った。商店街まで走
ると、家路を急ぐたくさんの紙人間に遭遇した。人波を逆行して走
り続ける俺に大勢の紙人間がぶつかってきた。そいつらはクシャッ
と音を立てて、悲しいくらいに紙だった。俺はもう何も解らず、何
も考えず、ただただ走り続けた。
 翌朝、俺は公園のベンチに目覚めた。結果的に俺を起した騒がし
い犬を連れたおばさんは、やはり紙で出来ていた。俺は立ち上がり、
歩き始めた。空はどんよりと曇っていた。
 やがて仕事に向かうサラリーマンやOLが増え始め、俺もその列
に加わっていた。みんな一様な急ぎ足で駅に向かって行く。みんな
一様に鞄と傘を携えていた。
 ぽつぽつと降り始めた雨に俺はこの物語の全てを悟った。全ては
幻覚であり、幻覚は幻覚でない。俺はゆっくり歩みを止めて暗い空
を眺めた。だんだんと勢いを増す雨に俺は静かに両手を広げた。俺
を避けて歩み続ける紙人間たちは、あるものは足から、あるものは
肩からだんだんと溶け始めていった。俺は雨に吸い寄せられるかの
ように宙に浮き、ゆっくりと飛翔を始めた。紙人間はぐにゃぐにゃ
になって、歩きながら倒れていった。倒れた紙人間の上に次の紙人
間が倒れて重なった。俺はだんだんと高度を増し、溶けていく人間
たちを見下ろした。この物語はこんなに簡単な仕組みになっていた
のだ。もうウニでも大根おろしでもシーチキンでも紙人間でも幻覚
でもなくなってしまった俺は全ての事を理解して、高度を上げてい
った。
 街行く人よ、溶けゆく人間よ、空を見よ。俺を見よ。儚い物語の
結末を見よ。そして、空を飛ぶその男を見よ。