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第4回3000字小説バトル
Entry4

彼女の存在

作者 : beebeeGirl [ビービーガール]
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文字数 : 2856
 私は、確かにあの日、山根さんの奥さんに会った。時折り、その
ことを思い出すのだけれど、山根さんには、まだ、言っていない。
面倒とか、山根さんにそのことを知られるのが怖いとか、そんなこ
とではなくて、ただ、私にはわからなかったのだ。起きたことはと
てつもなく大きなことにちがいなかったのだけれど、私の中で、現
実感をともなわなくて、ひっそり、としか存在していなかった。

 午前の診察を終えて、私は昼をとらずに、気になっていた患者さ
んのカルテに目を通していた。すると、「先生、山根さんが来られ
ているんですけど」、と出かける前の格好をした看護婦の藤谷さん
が教えてくれた。
 私はよく久美さんの相談相手になっていた。私が大学病院に勤め
ていた頃の恩師の姪にあたる久美さんは不妊に悩んでいて、それが
元というわけではないのだけれど、精神を不安定にさせていた。彼
女はいつも、「もう、私に関係することなんかどうでもいんですけ
ど、でも、なにか、すがっていなければいけないような気がするん
です」、と押し出すように言っていた。その気持ちしか彼女の中に
存在しないように言うのである。そんなことを口にする患者さんは
決まって自殺願望を持っている。私はすっぽりとエネルギーが抜け
落ちた患者さんに同情し、医者としての使命を感じながら接するの
だけれど、彼女は決まって、「彼の幸せの足手まといにはなりたく
ないんです、だから彼が悲しむようなことはしません、彼にも、先
生にも約束しますから」、と言うのである。私はただただそのこと
を願い、彼女の頭に渦巻いている漠然とした不安を取り除こうとし
ていた。
 彼女はさっぱりとした顔で診療室に入ってきた。
「すいません、診察時間を過ぎているのに」
「いいのよ、気にしないで」
 彼女にイスをすすめ、どことなく幼さが残る彼女の表情を見た。
無理やりではなく、ゆっくりと調節されていった落ち着いた表情を
見て安心ができた。私が、どう調子は?、と切り出すと、
「このところ良くて、睡眠時間も長くとれて、自分も普通に生活で
きるじゃない、って思うことができるんです。憂鬱な気持ちの自分
を忘れようとおもえば、忘れられるような気にもなって、身の回り
のことが頭に入ってくるんです」
「調子いいじゃない、ちゃんと顔にもあらわれてる、生き生きして
るもん。でも、くれぐれも張り切りすぎないでね」
「はい、それは自分でもしっかりと気をつけてます」
「もう、そろそろ暖かくなってくるから、のんびりと散歩なんかも
いいかもね。気持ちが良くなってくると、普段気づかないようなこ
ととか、気づいたりすることってあると思うんだけど、なにか身の
回りや、普段目にするもので気づいたこととかあった?」
「気づいたことですか? そう、気づいたというわけではないんで
すけど、なにかを始めてみようかと思ってて、ほんとに、三、四日
前に、どこでもいいんですけど、大学で外国語を学んでみたくなっ
てきたんです。英語だけは自信があるので、ほかの、まだ一度も行
ったことがない国の言葉も勉強さえすれば話せるようになる気がし
て」
「外国語かぁ〜、うん、なにかに取り組むということはいいことだ
から、私も応援する。どこかの国の言葉を身につけて、どこかの国
の人たちと会話して、多分、世界はやっぱり広いなぁ〜、なんてダ
イレクトに感じたりして、もっともっと自分自身が感じているもの
よりも世界は広いはず、みたいなことを考えるようになって、いい
ことよ、いい考えだと思う」
 彼女の中で、ゆっくりと、新しい芽がぽつぽつと顔を覗かしてい
る、そんなふうに、私には思えた。
「まだ、このこと、主人には言っていないんです。なんとなく反対
されるような気がして。やっちゃあだめ、っていうのじゃあなくて、
いまは、まだ、のんびりしていたほうがいいよ、って言われそうな
気がして。先生、いまの私の状態を主人に説明して欲しいんです。
先生から言ってもらえると、主人も、そうなんだ、ってすぐになっ
とくしてくれると思うんです」
 と彼女は、先生だったらきっとこの気持ちわかってくれる、とい
う想いを込めて私の目を見て言った。
「ご主人は心配性なの? のんびりしたほうがいい、なんて言って
くれるってことは、ちゃんと久美さんの病気のことを理解している
ってことだから、久美さん自身が気持ちを、まず、伝えてみたほう
がいいんじゃないかな。もし、それでだめだったら、三人でもう一
度話し合う、このほうが、久美さんにとっていいと思うんだけど」
 彼女が少しずつ、本来の彼女のエネルギーを取り戻し、安定する、
そうなるためには、彼女自身にとって、冒険みたいな試みをする必
要がある。
「なんか、わかってもらえないような気がして」
「ご主人の気持ちはご主人に訊いてみないとわからないでしょ?」
「はい……」
「いいというか、だめというか、それはわからない。でも、まず、
訊いてみないと」
「はい、そうですね、じゃあ訊いてみます」
「うん、ご主人に訊けたら、どうだったか、ちゃんとおしえてよ」
「はい」

 あの日のカウンセリングはこんな感じだった。彼女は、意気込む
でもなく、思いつめるでもなく、いつものように帰っていった。
 でも、彼女は自殺をした。
 私は、なにもかも、身体も、記憶までも、どこかに、圧倒的な力
で持ちさらわれたような気持ちになった。

 私は青色の間接照明が照らし出す天井を見ている。すぐ横で山根
さんの繰り返し返事をしているようないびきが聞こえる。いつもは
感じたことのない、どうしようもなく懐かしい音にそのいびきは聞
こえた。どこまでも遠くにいってしまっていたひとが、いつのまに
か、すぐそばに立っていた、そんな感じ。けれども、私のそばに立
つひとなんているはずがない。私が勝手に今の自分の気持ちから逃
げたくてすがっているだけ。
 からだの向きを変えても山根さんのいびきには変化がなかった。
そのまま横に進みベッドから出ると、自分の二本の脚をしげしげと
眺め、自分がこの世で接触している部分を確認しようとした。そこ
にはなんにもなくて、宙に浮いているみたいに、感触がなく、一歩
も前に進めないような気がした。こんなときには、別の、たとえば
明日の予定なんかを考えてみると、少しでも、いまの気持ちを変え
ることができるような気がしたけど、もう頭の奥のほうまで入り込
んでいるのだから、結局、意識してしまって、何も変わらない。あ
まりにも遠くにある天体といっしょで、この気持ちのほんとのとこ
ろを追求していくと、まったく未知のものが出現し、とまどい、よ
ろこび、その本質に悩み、私自身のこととしてだけではなく、ひと
が最低な生き物と決めつけ、ひとりで安心しそうになる。
 音が聞こえない、どうして聞こえないのかわからないまま立ち上
がり、薄暗い隅にある冷蔵庫からよく冷えたウーロン茶をとりだし
て飲もうとすると、うまく飲むことができずに、ウーロン茶が頬を
つたって床にこぼれた。私はなんだか急に悲しくなってきて、その
場にうずくまり、泣いてしまった。