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第4回3000字小説バトル
Entry5

歯痛

作者 : しょーじ
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文字数 : 2999
 俺は待合室で、熱を帯び、大きく腫れた頬を押さえながら痛みに
耐えていた。
 ふた月ほど前から気になり出していたのだが、どうせ大した事は
ないとたかをくくり放っておいた。それが災いし、虫歯の侵攻はど
んどん進んだようである。この一週間はまともに飯を食えないばか
りか、痛みの為、ろくに眠ることもできなかった。ついに音を上げ、
20年ぶりに歯医者の厄介になる羽目となったわけである。
 こんな状態になってつくづく思うことは、いかに普段、歯が健康
である事の恩恵を忘れているか、ということである。食い物を、そ
れこそ固い物から冷たい物まで何不自由なく口いっぱいにほおばる
事のできる幸せを、それができなくなって初めて噛みしめるのであ
る。
 本来ならばガキの頃、あまりの歯の痛さに、夜中に一人しくしく
泣いたあの時に痛感しているはずであるのに、それ以来、歯痛とは
無縁だった俺はものの見事に忘れ去っているのだ。何という愚かな
事であろう。この記憶力の無さは、まるでニワトリではないか。俺
もあの下等な鳥類に劣らず、三歩歩いた時点でめでたく忘却してい
たのだ。
 今はただ、懐かしい。何の遠慮もしん酌もなく食物を摂取できる
健康が。上下の歯を容赦無く駆使して咀嚼し、えん下する運動が。

 俺の腰掛けている同じソファで、子供がトランポリンしている。
 小学校低学年とおぼしき男児。ちょうど俺が初めて歯医者に通っ
た頃の年格好だ。その子供が、じっと痛みに耐えている俺のすぐ横
でぴょんぴょん跳ねている。振動がソファを伝い、俺の身体に響い
て来る。ガキの振動と歯の痛み、最悪のハーモニーが俺を包み込む。
 母親は向かい側に座り、銀行や美容院に置いてあるお決まりの女
性週刊誌を読み耽っている。どうせ『食べながらのダイエット』と
か『三週間で美乳を作る』とかの広告にでも夢中になっているのだ
ろう。『もう夜は怖くない』かもしれない。
 待合室には他に人影はない。俺一人が迷惑をこうむっているのだ
が、この俺より若い母親は、我が子の振るまいを一向に気にもとめ
ないのだ。初めのうちだけ「駄目よお、コウくん」とか言ってたが、
それも雑誌に目をやったまま抑揚なく言い放っただけだから、コウ
くんの耳にはちっとも届かない。
 ちゃんと注意しろよな!と、俺はあらん限りの力を込めて母親に
非難の視線を浴びせ続けたが、ちっとも効き目がない。きっとこう
いう母親が一人パチンコに耽り、その間自動車に置き去りにした赤
ん坊を死に至らしめるのだろう。して見るとこのガキはよく生き残
ってきたものである。
(こんな馬鹿な親が増え続けたら、世の中はどうなってしまうのか)
 俺は日本の将来を憂いながら必死に歯の痛みとイライラに耐えて
いた。
 
 それにしても、この痛みはなんだろう。歯痛とはこんなに凄まじ
いものだったろうか。
 左上の奥歯を発信源として、そこから網の目に広がる神経が痛み
を伝達し、顔の片側半分をじゅうりんする。歯茎から頬へ、こめか
みへと頭蓋骨の中でびんびん響く。脳神経が侵されるのではないか
とさえ思える程だ。耳鳴りがしている気がするが、これは耳鳴りの
ような痛みなのだろうか。それとも、耳鳴りのような耳鳴りなのだ
ろうか。
 できることなら皮膚の下に手を突っ込んで、蜘蛛の巣状に拡がっ
た神経をズリズリと引きずり出してしまいたいものだ。こんがらが
った電気配線のように「痛みの素」を取り出せたら、どんなにスッ
キリするだろう。そしてできることなら、隣で跳ねているガキを誰
か静めて欲しい。どこかに連れ去って欲しい!地球の外へ放り出し
てくれっ!
 ガキがバランスを崩して俺の方へ倒れかかって来た。
(このガキャ〜〜!!)
 俺はついにぐわりと立ち上がった。母親もさすがにはっとしたよ
うに顔を上げたが、ただその直前に「山本さん、どうぞ」という、
俺の番を知らせる受け付けの声があったから、得心した様子で、す
ぐにまた『美乳を作る』に目を戻していた。
 俺は拳を握ったまま、鼻でゴーゴー息をしてたが、まさかガキを
ぶん殴るわけにもいかず、かと言ってこのままのさばらせておくの
もこ奴の将来の為にならぬと思い、ぎろりと一睨みして怯えさせて
から治療室へと入っていった。いつか、かどわかしてやろう。

 20年ぶりに座る、歯医者の椅子。治療の為の機械もずいぶん進歩
したようである。昔は機械のいかつい姿を見て、サイボーグにでも
改造されそうな気がしたものだが、今はすっかりスマートにおしゃ
れになっていた。
 患者の気持ちをリラックスさせる為の工夫だろう、椅子に座ると
斜め前方に花瓶があり、真っ白な胡蝶蘭が飾ってあった。高いんだ
ろうな、と、つい下衆な勘繰りをしてしまう。胡蝶蘭の花冠を正面
から見て、蝿の頭を想像するのは俺だけではあるまい。
 先生は小柄な女医さんだった。マスクをしているから顔はよくわ
からないが、目を見るかぎりはかわいい感じがした。年の頃は、俺
より二つ三つ上といったところか。独身だろうか。
「うわあ、痛かったでしょうっ」
 俺の口の中を覗き込むなり、開口一番先生は言った。その声に少
なからず感嘆の響きが感じられ、俺は少し得意な気になった。
「Cの5くらいですかね」
 Cの意味も知らないくせに俺は知ったかぶりをして尋ねた。小学
生の頃体育館にみんな集められ、歯の検査を受けた時に覚えた付丁
である。先生はにっこり笑って、抜きます、と言った。この人も知
らないのかもしれない。
 麻酔の注射の後、先生はペンチのような道具で俺の虫歯を抜きに
かかった。かなりの力仕事らしい。うんと力んで引き抜こうとして
いるが、なかなかうまくいかなかった。どうやら俺の虫歯の根っこ
が、変な具合にねじれており、歯茎の肉に食い込んでいるらしいの
だ。
「きっと根性がねじれてるのね」
 罪のない笑顔で、先生は俺に言葉の暴力を振るってくれた。
 女性が力仕事で困ってるのを見て、俺も男のはしくれ、何か協力
したいと思った。あんぐりと口を開けた患者の頭を小脇にかかえ、
ペンチで虫歯をぐいとやったら、案外すぐ済むのではあるまいか。
少なくともこの小柄な女医さんよりは、俺の方が力はあるはずであ
る。
「手伝いましょうか」と言いかけて、やっぱりやめておいた。考え
てみれば患者は俺なのである。自分で自分の頭を小脇にかかえるこ
となど、アシュラ男爵か中国雑技団の子供でもあるまいしできるは
ずがない。
「ほら見て、この根っこ」
 ようやく引っこ抜いた俺の虫歯を掲げながら、女医さんが嬉しそ
うに言った。無事に仕事を終える事ができたのが嬉しいのか、それ
とも根っこの形が珍しいからそれが嬉しいのか、よくわからないが
たぶん後者だろう。たしかにそれは、ぐにゃりとねじ曲がっていた。
 俺の治療がすんだ頃、さっきの子供が美乳の母親に連れられて入
ってきた。
「思いっきり痛い目に合わせてやってください」
 悪魔の囁きを女医先生の耳に残して、俺は治療室を後にした。や
っぱり少しねじれているのかも知れない。

 晴れて虫歯は駆逐された。抜歯後の痛みがしばらく続くそうだが、
とにかく痛みの元凶は取り去ったのだから、これからは快方に向か
うのである。それを思うだけでも心は晴れやかってものだ。これで
旨いもんが好きなだけ食えるのだ。
 ガキの泣き叫ぶ声が、遠くに聞こえるような気がする。
 俺は意気揚々と歯医者の玄関を出る。
 大きく腕を振って三歩目を踏み出した。