第4回3000字小説バトル
Entry6
大正十五年八月十日。その夏はうだるような暑さだった。 柳瀬は明治神宮内苑の東側の土手際に沿って歩いていた。柳瀬は 三年前に早稲田大学を卒業して、子供の頃からの夢だった新聞社に 就職した。故郷は福島の会津である。今は川向の清澄の下宿から築 地の本社に通勤している。 その日はデスクの命令で特ダネを取りに原宿まで飛んできたのだ。 その筋からの情報で、警視庁が警戒態勢に入ったらしいと、デスク に耳打ちされて、お茶も飲まずに社を出て、山手線に乗った。 内苑の土手から新駅の宮廷ホームの様子が見えるのかどうか、柳 瀬には分からなかった。半年ほど前、同僚と新橋の屋台で飲んでい たとき、明治神宮の土手からホームが見えるらしいという話を聞い たことを思い出したのだ。 柳瀬はカメラを左手に持ち、右手で薄の葉をしっかりとつかみ、 土手の斜面から覗き込んだ。しかし、ホームどころか、駅舎の屋根 さえ見えなかった。柳瀬の目に映ったのは、朝風になびく雑草ばか りだった。 そのとき、背後から鋭い声が飛んできた。柳瀬は驚きのあまり薄 を握っていた手をはなした。体の重心がずれて、転びそうになった。 逃がすなという声がした。強い力で足をつかまれ、勢いよく倒れた。 「貴様はアカか、それとも朝鮮人か」 警官はさんざん柳瀬を殴ってから、野太い声で尋問した。 「東京新報です。取材で来ました」 柳瀬は目を血走らせた警官を上目遣いで見ながら、声を震わせた。 「何の取材か」 「それは……」 柳瀬には答えられない。逆に、「ここで何をしているんですか」 と警官に尋ね返した。 「貴様、本官を愚弄するのか」 警官は警棒で力いっぱい柳瀬を殴った。額から血が流れた。 次第に流血の量が多くなるのを見て、警官の腰が引けた。 そのすきを狙い、柳瀬は上体を思い切りねじって、警官を払いの け、一目散に斜面を駆け下りた。 後ろから追いかけてきた警官は何かにつまずいて転んだのか、大 きな叫び声を上げて、斜面を滑り落ちた。 柳瀬はあと一歩で駅の構内になるぎりぎりの所まで来て足を止め た。落ちていった警官の姿は確かめられなかった。いつまでもここ にいるわけにはいかない。早く立ち去らなければと思ったときであ る。宮廷ホームに列車が入り、ほどなく大勢の人間が南の方から歩 いてきた。一群の男たちの中心に、こちらからは見えないが、誰か がいるように思えた。 柳瀬の背筋に冷や汗がすっと流れた。恐らく、いや、間違いなく あの男たちの垣根が崩れてくれれば、写真が撮れる。特ダネをもの にすることができる。 柳瀬の頭脳は勢いよく回転した。朝、デスクから原宿に行けと言 われたときは、何のことか分からなかった。デスクは細かな説明を しなくても、柳瀬が分かるだろうと思っている様子だったから、何 の取材ですかなどと聞けば、馬鹿野郎と怒鳴られたに違いない。だ から柳瀬は分かったふりをして出てきた。しかし、一群の男たちを 見たとき、デスクが自分を初めて信頼してくれたのだと思った。あ の男たちは宮内庁の役人と警視庁の私服だろう。 さっきの警官が柳瀬を見つけるのは時間の問題であった。だが、 柳瀬はたとえ逮捕されても、写真を撮りたいと思った。逮捕され、 フィルムを没収されれば、努力も無駄になり、自分も相当の刑罰を 受けることになるだろう。最悪の場合は去年の五月から実施された 治安維持法の対象になるかもしれない。 やめようか。いや、ここで尻尾を巻いて逃げれば、せっかく自分 認めてくれたデスクの気持ちを裏切ることになる。自分が新聞記者 を目指したのは、特ダネを取って、自慢したいためではないが、一 生に一度しかないような機会をみすみす逃すようでは、何のために 苦労して大学を卒業し、新聞社に勤めたのか分からないではないか。 柳瀬は左手で頬を二度、思い切り叩いてから、カメラを構えた。 就職祝いに故郷の父母がなけなしの金をはたいて買ってくれたドイ ツ製の最新式カメラである。 男たちの輪が崩れた。柳瀬は夢中でシャッターを切った。草が擦 れる音が近づいてきた。柳瀬はもう一度、シャッターを切った。あ そこだという声が聞こえた。柳瀬は振り返った。警官だった。 柳瀬はカメラをぎゅっと握り締め、立ち上がった。運を天に任せ て全速力で走った。体中の血が踊っていた。心臓が早鐘のように鳴 っていた。 本社に帰り、現像の係にフィルムを渡して、しばらく待っている 間、タバコを吸った。タバコを挟んでいる指が震え、止めようとし ても止まらなかった。現像係が目を輝かせて走ってきた。 「お姿が写っているよ。特ダネだぜ、柳瀬」 「ほんとうか。ありがとう。デスクに見せて来るよ」 柳瀬はまだ定着液が乾いていない写真をデスクの前に並べた。 「よし、これでいこう。記事もお前に任せる」 デスクは一番鮮明に写っている写真を選んで、柳瀬に渡した。 「聖上陛下御静養のため葉山御用邸へ」と見出しを作り、柳瀬は さっそく記事を書き始めた。過去の病状に関する記事なども参照し て、正確を期した。書き終わったのは締め切り五分前であった。 原稿を渡すと、デスクは「ご苦労さん、帰ってゆっくり休め」と 柳瀬の肩を叩いた。 翌朝、清澄の下宿で朝刊を開いた柳瀬の眉間に深い皺が寄った。 前からめくっても、後ろからめくっても、自分が書いた記事も写真 も載っていなかった。柳瀬は階段を軋ませて駆け下り、本社に電話 をかけた。 「柳瀬か。かけてくるだろうと思っていたよ」 宿直の記者が眠たそうな声で言った。 「おれの記事はどうなったんです」 「デスクも頭に来ていたよ。印刷にかける直前に上からストップが かかった。デスクが問い質したら、警視庁から記事差し止めの命令 があったという返答だった。なんでも、原宿新駅構内やその付近で の写真撮影は一切禁止するということらしい。もし、写真を載せた ら、うちの新聞自体を発行禁止にすると脅されたらしい。しかし、 どうしてうちの社だと分かったんだろうな」 「それは……」 柳瀬は警官に尋問されたとき、とっさに社名を言ってしまったこ とを思い出したが、そのことを打ち明ける勇気はなかった。 「どうした。元気だせよ。また、機会はあるだろうから」 電話の相手は、柳瀬が落胆して言葉をなくしたのだろうと、形ば かりの慰めを言った。 「新聞は真実を知らせる使命があるんですよ。警視庁に脅されて、 記事を差し替えるなんて、おれには我慢できませんよ」 柳瀬は本当のことが言えず、それを相手に悟られぬよう、わざと 強い語調で言った。 「待て。それ以上は言うな。クビを切られる。一日休みを取れよ」 電話の声は優しかった。 「一日と言わず、ずっと休みますから」 柳瀬は叩きつけるように受話器を置いた。 ※ それから三ヵ月後の十一月十一日、「お風邪の発熱から気管支炎 の症状」という容体発表があった。天皇嘉仁が死亡したのは、その 年の十二月だった。 柳瀬はデスクに言われて、号外記事を書いた。 聖上崩御 本日午前一時二十五分 【二十五日午前二時四十分宮内省発表】天皇陛下には今二十五日 午前一時二十五分葉山御用邸に於て崩御あらせらる 柳瀬が書いて日の目を見た最初の記事であった。