| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 矛盾 | とっぽ | 2814 |
| 2 | クイズマスター | ニコ | 1969 |
| 3 | ほくろ | 佐藤ゆーき | 2990 |
| 4 | 彼女の存在 | beebeeGirl | 2856 |
| 5 | 歯痛 | しょーじ | 2999 |
| 6 | 特ダネ | 成田秀人 | 2955 |
| 7 | 優しい青年 | 太田勇 | 2967 |
| 8 | 雨、のち6月 | うめぼし | 2960 |
| 9 | 価値 | 厚篠孝介 | 2986 |
| 10 | 台所の情景 | akoh | 3000 |
| 11 | その恋、買います! | 百内亜津治 | 2996 |
| 12 | おかえり | 更羽 | 2914 |
| 13 | 緋色幻影 | 幸野春樹 | 2941 |
| 14 | 遠い残照 | 川辻晶美 | 3000 |
| 15 | 空猫猟 | 羽那沖権八 | 2987 |
| 16 | あかり | 三月 | 3000 |
| 17 | 濡れ落葉と呼ばれる頃に | 竜胆姫 | 2989 |
| 18 | 仕事 | Default | 3000 |
| 19 | 妻の恋人 | 一之江 | 3000 |
| 20 | 空を飛ぶその男を見よ | 越冬こあら | 3000 |
| 21 | 磁場コップ ★ | 鮭二 | 3000 |
| 22 | 光る雲 | 太郎丸 | 3000 |
| 23 | アマチュア魔術 | アキラ | 2991 |
僕は木下が嫌いだったんだ。 木下というのは、会社の同僚でありライバルだった。 木下は僕よりも優秀で女の子にだってもてるんだ。くやしかったん だ。何をやってもあいつに勝つことができない。あいつさえいなけ れば、僕は上司に毎日のように小言を言われないですむ筈だったん だ。 あいつさえいなくなれば・・・・・・。 勤務を終えて、女の子と話をしている木下を尻目に一目散にバス 停へ向かって歩き始めた。 まだ冬の寒さが風によって伝わってくる。 ふと気がつくと前から怪しい男がやって来る。帽子を深くかぶり、 サングラスをかけて、コートを羽織っていてどうみても普通の人に は思えなかった。私を凝視している。 コートの男は何かを考えてるようだった。 「はじめまして、こんにちは」男の太い声が響いた。 びっくりして挨拶をしたが、わけがわからない。 「あ、あのー、すいませんがどちらさまですか? 」 思い切って聞いてみることにした。 「私はボディーガードをしてる者です。失礼ですが、誰かに狙われ たりしてませんか? 私はどんな人でも完璧に守り切りますよ」 僕はびっくりしてその男を見ていた。 「どうですか? 絶対守ってみせますよ」 僕はやっとのことで「いえ、すいません、まにあってます」とだけ 男に言った。 「そうですか、それでは名刺を渡しておきますので御用のときはい つでもどうぞ」とだけ言って、名刺を渡し消えていった。 なんだったんだ? へんな商売もあるもんだ。でも、僕には関係 の無いことだ。僕はくしゃみをしながらバス停に向かった。 次の日、やはり風邪をひいてしまった。運悪く薬を切らしていた。 弱った体で薬局に向かった。 「せっかくの日曜日なのについてないなー」 愚痴をこぼしながら歩いていたら、喫茶店でかわいい女の子と話を している木下を発見した。木下の家はたしかこの辺では無い筈だ。 わざわざ女の子のために、そして知ってる人にばれないようにこん なとこにいるんだな? 僕はそう考えた。くやしかった! なぜ木下ばかり僕より幸せになるんだ?なんであいつに勝てない んだ? 嫉妬心を燃やしていたら、ふと、怪しい男が近づいてきた。 「はじめまして、私は殺し屋です。失礼ですが、誰かを殺したいっ て思ってませんか? 私はどんな人物でも完璧に殺しますよ」 僕はびっくりしてその男を見ていた。「どうですか?絶対殺してみ せますよ」 なんなんだ? 近頃何故こんなやつらとばかり会うのだ? ボデ ィーガードといいこの殺し屋といい・・・・・・ん? まてよ。 絶対に人を殺す殺し屋と、絶対に人を守るボディーガードか・・・ ・・・。もしかしたら、うまくいくかもしれないぞ! 僕は殺し屋に向かって聞いてみた。「絶対にどんなやつでも殺せる んですか?」 「はい。一ヶ月以内だったら必ず」「いくらですか? 」 「一千万です」「そいつは高いよ! 」 「安いですよ! 絶対にあなたには迷惑かけませんよ」 僕はついに決心して言ったんだ。 「絶対ですね? もし、あの男を殺せたら一千万払う! しかし、 もしできなかったら代わりに僕に一千万くれるか? 」と言って、 木下を指差した。 「いいでしょう。私は今まで一度だってミスしたことはありません よ。あの男ですね」 「あの男は木下ゆう・・・」言いかけて、男に口をふさがれた。 「説明は要りません。感情を入れたくないし、自分で調べるよ。で は一ヶ月後に! 」 と言って店の中に入ろうとしていた。「あ、あとねーもしお金払わ なかった時は殺しますからね」男は笑いながら去っていった。背筋 がぞっとした。 僕は急いで作戦を実行した。公衆電話に走り、名刺の番号に電話 した。 「K会社の木下祐二という男を一ヶ月間守ってくれ! 報酬は一千 万だ! しかし、もし失敗したら代わりに僕に一千万をよこすって いうのでどうですか? 」 電話ごしにあのボディーガードの声が響いた。 「いいですよ。私は今まで一度だってミスをしたことはありません から」 電話を切ると僕は急に安堵した。これでもう安心だ! もし、木 下が殺されたら、ボディーガードは守れなかったということになる から、一千万もらって殺し屋に渡せばよい。 もし、木下が何とも無かったら、殺し屋は失敗したということにな るから、一千万もらってボディーガードに渡せばよい。僕はまった く損をしないではないか!! ふふふ、どうなるのか楽しみだ! 次の日、会社で木下は女の子に囲まれていた。女の子の一人が木 下にしゃべっていた。 「木下さん、昨日女の子連れて歩いてるとこ見ましたよー、彼女な んですか? 」 そんな話できゃーきゃー盛り上がっている。木下は驚いた顔をして、 「え? 昨日? ち、ちがうよー知らないよー」などと言ってごま かそうとしていた。僕以外にも木下を見た人がいたのか、それにし ても嘘付くなんてなんてやつだ! ふん、まあいいさ。 そのうち自分が殺されるかもしれないのにいい気なもんだ。僕は木 下を無視してデスクに着いた。木下達はまだ話をしていて、ときど き「えーー! そうだったんですかー? 」 「すごーーい! みたーーい」という、女の子の黄色い声だけが聞 こえてきた。どうやら木下は女の子をうまく騙せたようだ。僕はじ っと我慢することにした。 そして、あれから一ヶ月後、木下は会社に来なかった。 まさかと思って仮病を使って家に帰った。すると郵便受けに二枚の 封筒が入っていた。 1つめは殺し屋からだった。 「任務遂行、現金用意サレタシ」 という請求書であった。ということはやはり木下は殺されたのか? ボディーガードは失敗したのか?そんなこと考えながらもう一枚の 封筒を開けた。ボディーガードからだった。 「任務遂行、一千万用意サレタシ」 という請求書であった。どういうことなんだ? 木下は生きてるの か?死んでるのか? 殺し屋は殺したと言うし、ボディーガードは守ったと言う。そんな ことあるはずない! とりあえず、落ち着くためにテレビをつけることにした。そしてそ こには・・・・・・。 「本日未明、K市で木下裕一さん(26)が何者かに殺されている ところを発見されました。第一発見者であり、双子の兄でもある木 下祐二さんの証言では、最近、黒い帽子、サングラスをかけ、コー ト姿の不審な人物が祐二さんの周りをうろうろしていたとの情報で す。引き続き警察では・・・・・・」 ここから先はもう僕の耳には入らなかった。 二枚の請求書だけが残った。
窓の無い白い部屋に千春は何人もの人が見守る中、椅子に座って いた。向かいには女の人が座っていて千春に質問を始めた。 「あなたの家族構成を教えてください」 「母と弟と、あとおばあちゃんがいました」 「お父さんは?」 「私が小学校に入る前に両親は離婚しました」 「いじめに遭った事は?」 「小学校二年生の時と五年生の時、五年生の時のはひどくってその 後は友達を作りませんでした」 「男性と付き合った事は?」 「ありません」 「処女?」 「違います」 「初体験はいつ?」 「中学二年の時です」 「相手は?」 「お父さんの知り合いです」 「相手の方はおいくつ?」 「当時30ぐらいだったと思います」 「どうだった?」 「解らない事だらけで不安だったわ、クラスに好きな男の子がいた んだけど最中はその子の事まったく思い出さなくって、後で一人で 泣きました」 「御両親は知っているの?」 「父は知っています」 「あなたはまだ若いのに風俗で働きたいと思う事はそれに関係があ るの?」 「どうでしょう」 「将来は何になりたい?」 「偉くなりたくない」 千春が店を出ると雪が降っていた、今年の初雪は真っ暗な空から 静かにおりてきて街のネオンが当たる所まで来るとその姿を不意に あらわした。 「どうりで今日はお客さんが少ないと思った」 千春は今日の稼ぎを数えながら歩き出した。お札の数を数え終え 顔を上げるとそこに若者が座ってお酒を飲んでいるのが見えた。 「こんばんは」 千春はその若者の顔が好きだったので声をかけた。 「何しているの、寒いしこんな所にいたら死んでしまうわよ」 若者は千春を見ると顔を下に向けた。 「僕は死なないよ、僕はロボットなんだもの」 「でも、寒いでしょう、良かったら私が飲み物をごちそうするから 日が出るまでそこですごしましょうよ」 千春は無理矢理若者をたたせると近くの24時間のファミレスに 連れていった。 「あなたのお名前は?」 「キク」 「住んでる所は?」 「無い」 「毎日どこで寝てるの?」 「いろいろ、公園のベンチや自販機の影、駅の改札の外あそこはい いね風も防げるし」 「本当にロボットなの?」 「そうだよ」 「信じると思う?」 「かってだよ」 「顔、いいわね」 「僕は嫌いだよこの顔」 「家も無くて不安じゃないの?」 「僕はロボットだからそんな事思わないよ」 「寂しくも楽しくも無いの?」 「悲しくもうれしくもない」 「じゃあ何のために作られたの?」 「僕は何かのために作られたんじゃなくて、僕は作られるために生 まれてきたんだ」 「よく、わかんない」 「いいよ、別に」 「私の目どう思う?」 「大きい」 「私の口は?」 「少し話しすぎる」 「私の白くて長い手足は?」 「ステキだと思うよ」 「私の着ている洋服は?」 「少しうすぎすぎるかな」 「ねえ」 「なに」 千春は冷めたコーヒーを一口飲んでキクの顔を覗き込んだ。 「あなたは本当にロボットなの?」 場所は再び白い個室。千春は今日も同じような質問をされる事に 限界を感じていた。 「風俗をやっていて楽しい?」 「楽しいとかじゃないわ、でも偉くなるよりはましね」 「知らない人の前で裸になる事に関してはどう思っているの?」 「気持ちいいわよ、私スタイルいいでしょう?私それだけは自信が あるの、でも他で見せる所ってないでよう?」 「お母さんは好き?」 「解らない」 「お父さんは好き?」 「解らない」 「弟は?」 「解らない」 「この世で一番好きなものは?」 「特に無い」 「自分の事は好き?」 「別に」 「どうしたら好きになれると思う?」 「解らない」 「未来は明るいと思う?」 「うるさいな」 千春は女のメモをするボールペンを奪うと女の目に当てた。 「それ以上言うとこのペンをぶっさすわよ。もう飽きたわここから 出してちょうだい、ここに入る限り私はあなたの質問に答えなけれ ばならないの。だから私をここから出して」 キクは自販機の横に座っている。昨日の雪は積もらなかったよう だ、都会で雪なんて積もる事なんてめったに無い、この街は白い雪 で隠される事なんて無いのだいつだってアスファルトはむき出しだ しネオンが埋もれる事も無い。キクが寒さと空腹でうとうとしかけ ていると一人の男がビデオカメラを回しながら寄ってきた。不意に キクはカメラに向かって話し出した。 「僕はベジタリアンです」 男は静かにビデオを回した。 「僕は21歳です」 「僕は万引きをした事があります」 「僕は紅い花が好きです」 「僕は包茎です」 「僕は一日何本ものお酒を飲みます」 「僕は家がありません」 「僕はいつもここに居ます」 「僕は男の子です」 「僕はロッカーの中で産まれました」 キクはそのまましばらくレンズを見ていた。画面にはキクの顔が ただ映っている、なんか言いたそうにも見えるが本当は何も言う事 が無いのだ。男はそんなキクに飽きてしまったのかカメラを降ろし てどこかにいってしまった。キクだけがまたそこに残った。
僕は高級会員制スポーツクラブで働いている。ビルの一階はフレ ンチのレストラン、二階が人間ドックが受けられる診療所、そして 三階がスポーツジム、それらは全て会員の為のものだ。会員の九割 以上が企業の社長で残りはその家族、芸術家、弁護士、会計士など。 いずれにしても厳格な審査を通らないとその入会は認められない。 僕は某国立大学の教育学部体育学科を卒業してそこのジムで働き だして二年目だった。それまで会話どころか全く接したことのない そんな人種に運動を指導するなんて出来るかどうか不安だったが、 みんなそこにいる時は仕事を忘れてただのおじさんになっていた。 それに大部分の会員はこの不景気で仕事に疲れて、家では子供に相 手にされずにこのクラブに若い話し相手を求めてやって来ていたの で、口下手な僕にでもいろんな話をしてくれた。それはほとんどが 古き良き時代の自慢話だったが、僕には無縁だと思っていた世界を 垣間見ることが出来て刺激になった。 その森さんという会員も僕のことを可愛がってくれていろんなこ とを教えてくれた。ゴルフのバンカーショットの打ち方や、不良債 券が出来る原因、テーブルマナーなどエアロバイクに乗りながら身 ぶり手ぶりを交えて得意げに話しをしてくれた。 その日は筋トレのバタフライのマシンに座りながらこんな話をし てくれた。 「足の裏にほくろがあるとやばいって知ってるか?もともとほくろ は癌化しやすいんだが、足の裏のほくろは常に刺激を受けているか ら特に癌になりやすいんだ。ほくろが5cm位になるともう足首から 下を切断しないと命に関わる。とても恐い。実はおれも足の裏にほ くろがあるから医者に相談したら、心配ないと思うがそんなに気に するなら取った方がいいって言われた。だから今度レーザーで切っ てもらおうと思ってる」 僕は余計なことを聞いてしまったと思った。 「実は僕も足の裏にほくろがあるんです」 僕はそれを聞いてしまったがためにこれからほくろの影に怯えて 暮らさなければならないのかと憂鬱になった。 「よかったらおれが切りに行く時一緒に行くか?」 「またその時はよろしくお願いします」 僕は人より神経質な方だと思う。中学生の時に自分の髪が薄くな ってきているのではないかと思い込み、数カ月悩んだことがある。 毎晩鏡を二つ手にして、頭頂部から襟足まで欠かさずチェックして は大丈夫だ薄くなっていないと自分に言い聞かせていた。ちなみに 僕の髪は今でも黒々としている。 その森さんに足の裏のほくろの話を聞いた日も、家に帰ってシャ ワーを浴びてから自分の足の裏のほくろを見つめた。森さんはこう も言っていた。 「生まれつきあるほくろは大丈夫だけど、後から出来たほくろが特 に癌になりやすいらしい」 確か僕の足の裏のほくろは高校生の時に出来たものだと思う。ほ くろが後から出来るなんて知らなかった僕はその突然見つけた黒い しみを、小さな石か何かが皮膚に刺さったものだと思い込みカッタ ーで取り出そうとして失敗した。 「そのほくろを自分で取り除こうとして下手にいじって刺激すると 爆発的に癌化して広がっていくんだ」 森さんの言葉が僕の頭の中で響く。そのほくろはまるでマムシト カゲの眼のように無気味に僕を見つめた。マムシトカゲなんてそん な生き物がいるとしたらの話だけれども。 その晩は冷や汗を流して、速くなる自分の鼓動を感じながら十時 には布団に入り、神に祈りながら眠りについた。 次の日の朝は思ったよりも清々しく目が覚めた。試しにほくろの ことを思い出してみたけれども全然恐くはなかった。足首くらい切 らなきゃいけない時はいつでも切ってやる。だいたい後から出来る ほくろがやばいなら、例えレーザーで切ったとしてもその後からま たほくろが出来たらその度にレーザーとかいうSFチックなもので 僕は足の裏を切らなくてはならないのか。そんなのはごめんだ。そ れならこの最初のほくろと心中しよう。 僕はいつものようにマウンテンバイクに跨がり、会社へと向かっ た。八月の青空はそんな勇ましい僕を祝福してくれているようでと ても誇らしかった。会社に着いて更衣室で着替え、ジムに向かう前 にまずトイレに入って小便をしようとした。その時僕は見つけてし まった。僕のペニスの先の方でマムシトカゲの眼のように僕を見つ める小さなほくろを。 確かに森さんは足の裏のほくろがやばいって言っていたけれども、 刺激されるから やばいということならペニスの先の方だって使う度に危険度が増す はずだ。幸い僕には彼女がいなかったからそれを使わない為に誰か 他人に迷惑をかけることはなかった。しかし僕は自分の部屋のアダ ルトビデオを全部真っ黒いゴミ袋に入れて燃えないゴミの日に出し て、マスターベーションを一切断たなくてはならなかった。二週間 程したある明け方、僕は誰だか分からない芸能人の誰かとセックス する夢を見て中学生の時以来の夢精をした。パンツを脱いで洗濯機 に放り込みながら僕はとても惨めな気分になった。 それでも僕は死の恐怖に耐えながら禁欲的に毎日を過ごした。い やそれは死の恐怖ではない。ペニスが切り取られてしまうという恐 怖だ。足首が切り取られた姿は自分の中で悲劇のヒーローになり得 たが、ペニスが切り取られた自分はいい歳をして夢精するよりもは るかに惨めだと思った。 そんな毎日を過ごすうちに僕は、僕の人生の中でなんと女の子の 占める割り合いが大きいのだろうということに気付いた。二十代の 前半の男にとってそれはほとんど人生の目的そのものと言ってもい いくらいだと思う。それを封印した僕は何の起伏もない毎日を生き 延びるために酒の力に頼った。 その晩も僕はいつもの店のいつもの席に座り、ジントニックを飲 んでいた。もうその頃になると顔が綺麗でスタイルのいい女の子を 見てもどうとも思わなくなっていて、十分自分の欲望をコントロー ルできるストイックな自分に酔いしれていた。 でもその時、僕の視界の端に捉えられた女の子の姿に引かれるよ うに僕は振り向いた。 その女の子は壁際の二人掛けのテーブルに一人で座り、こちらに 背を向けて頬杖をついていた。それは完璧な後ろ姿だった。ものす ごい美人を想像させる後ろ姿でもそれが往々にして裏切られるとい うことを僕は十分承知していたが、まるでその後ろ姿は決して期待 は裏切らないわよとでも言っているかのようだった。 僕は立ち上がり、ジントニックのグラスを手にして彼女の方に歩 き出した。 正直に言って彼女の正面は僕をがっかりさせたが、その時の僕は もうそんなことはどうでも良かった。僕の人生の目的を、一番大事 なことを思い出させてくれた彼女に僕は感謝して、その後ろ姿を僕 は神の啓示だと思うことにした。 そのまま僕達はそこでカクテルを二杯か三杯飲んで、それがいつ もの当たり前のことのようにホテルに向かった。 僕は部屋に入るなり、シャワーも浴びずに彼女の服を脱がせた。 彼女も嫌がらなかった。そのままベッドに押し倒し、僕達はむさぼ りあった。僕は自分が自分でないようだった。新たな力を手に入れ た神の使いの獣のようだった。僕はそれまでの人生で覚えがないく らい女の子を悦ばせた。 終わった後に彼女はこう言った。 「すごい。こんなの初めて」 そんなことを言われるのは僕も初めてだったが、当然のようにこう 答えた。 「当たり前だよ。僕は命を削って君に歓びを与えているんだからね」
私は、確かにあの日、山根さんの奥さんに会った。時折り、その ことを思い出すのだけれど、山根さんには、まだ、言っていない。 面倒とか、山根さんにそのことを知られるのが怖いとか、そんなこ とではなくて、ただ、私にはわからなかったのだ。起きたことはと てつもなく大きなことにちがいなかったのだけれど、私の中で、現 実感をともなわなくて、ひっそり、としか存在していなかった。 午前の診察を終えて、私は昼をとらずに、気になっていた患者さ んのカルテに目を通していた。すると、「先生、山根さんが来られ ているんですけど」、と出かける前の格好をした看護婦の藤谷さん が教えてくれた。 私はよく久美さんの相談相手になっていた。私が大学病院に勤め ていた頃の恩師の姪にあたる久美さんは不妊に悩んでいて、それが 元というわけではないのだけれど、精神を不安定にさせていた。彼 女はいつも、「もう、私に関係することなんかどうでもいんですけ ど、でも、なにか、すがっていなければいけないような気がするん です」、と押し出すように言っていた。その気持ちしか彼女の中に 存在しないように言うのである。そんなことを口にする患者さんは 決まって自殺願望を持っている。私はすっぽりとエネルギーが抜け 落ちた患者さんに同情し、医者としての使命を感じながら接するの だけれど、彼女は決まって、「彼の幸せの足手まといにはなりたく ないんです、だから彼が悲しむようなことはしません、彼にも、先 生にも約束しますから」、と言うのである。私はただただそのこと を願い、彼女の頭に渦巻いている漠然とした不安を取り除こうとし ていた。 彼女はさっぱりとした顔で診療室に入ってきた。 「すいません、診察時間を過ぎているのに」 「いいのよ、気にしないで」 彼女にイスをすすめ、どことなく幼さが残る彼女の表情を見た。 無理やりではなく、ゆっくりと調節されていった落ち着いた表情を 見て安心ができた。私が、どう調子は?、と切り出すと、 「このところ良くて、睡眠時間も長くとれて、自分も普通に生活で きるじゃない、って思うことができるんです。憂鬱な気持ちの自分 を忘れようとおもえば、忘れられるような気にもなって、身の回り のことが頭に入ってくるんです」 「調子いいじゃない、ちゃんと顔にもあらわれてる、生き生きして るもん。でも、くれぐれも張り切りすぎないでね」 「はい、それは自分でもしっかりと気をつけてます」 「もう、そろそろ暖かくなってくるから、のんびりと散歩なんかも いいかもね。気持ちが良くなってくると、普段気づかないようなこ ととか、気づいたりすることってあると思うんだけど、なにか身の 回りや、普段目にするもので気づいたこととかあった?」 「気づいたことですか? そう、気づいたというわけではないんで すけど、なにかを始めてみようかと思ってて、ほんとに、三、四日 前に、どこでもいいんですけど、大学で外国語を学んでみたくなっ てきたんです。英語だけは自信があるので、ほかの、まだ一度も行 ったことがない国の言葉も勉強さえすれば話せるようになる気がし て」 「外国語かぁ〜、うん、なにかに取り組むということはいいことだ から、私も応援する。どこかの国の言葉を身につけて、どこかの国 の人たちと会話して、多分、世界はやっぱり広いなぁ〜、なんてダ イレクトに感じたりして、もっともっと自分自身が感じているもの よりも世界は広いはず、みたいなことを考えるようになって、いい ことよ、いい考えだと思う」 彼女の中で、ゆっくりと、新しい芽がぽつぽつと顔を覗かしてい る、そんなふうに、私には思えた。 「まだ、このこと、主人には言っていないんです。なんとなく反対 されるような気がして。やっちゃあだめ、っていうのじゃあなくて、 いまは、まだ、のんびりしていたほうがいいよ、って言われそうな 気がして。先生、いまの私の状態を主人に説明して欲しいんです。 先生から言ってもらえると、主人も、そうなんだ、ってすぐになっ とくしてくれると思うんです」 と彼女は、先生だったらきっとこの気持ちわかってくれる、とい う想いを込めて私の目を見て言った。 「ご主人は心配性なの? のんびりしたほうがいい、なんて言って くれるってことは、ちゃんと久美さんの病気のことを理解している ってことだから、久美さん自身が気持ちを、まず、伝えてみたほう がいいんじゃないかな。もし、それでだめだったら、三人でもう一 度話し合う、このほうが、久美さんにとっていいと思うんだけど」 彼女が少しずつ、本来の彼女のエネルギーを取り戻し、安定する、 そうなるためには、彼女自身にとって、冒険みたいな試みをする必 要がある。 「なんか、わかってもらえないような気がして」 「ご主人の気持ちはご主人に訊いてみないとわからないでしょ?」 「はい……」 「いいというか、だめというか、それはわからない。でも、まず、 訊いてみないと」 「はい、そうですね、じゃあ訊いてみます」 「うん、ご主人に訊けたら、どうだったか、ちゃんとおしえてよ」 「はい」 あの日のカウンセリングはこんな感じだった。彼女は、意気込む でもなく、思いつめるでもなく、いつものように帰っていった。 でも、彼女は自殺をした。 私は、なにもかも、身体も、記憶までも、どこかに、圧倒的な力 で持ちさらわれたような気持ちになった。 私は青色の間接照明が照らし出す天井を見ている。すぐ横で山根 さんの繰り返し返事をしているようないびきが聞こえる。いつもは 感じたことのない、どうしようもなく懐かしい音にそのいびきは聞 こえた。どこまでも遠くにいってしまっていたひとが、いつのまに か、すぐそばに立っていた、そんな感じ。けれども、私のそばに立 つひとなんているはずがない。私が勝手に今の自分の気持ちから逃 げたくてすがっているだけ。 からだの向きを変えても山根さんのいびきには変化がなかった。 そのまま横に進みベッドから出ると、自分の二本の脚をしげしげと 眺め、自分がこの世で接触している部分を確認しようとした。そこ にはなんにもなくて、宙に浮いているみたいに、感触がなく、一歩 も前に進めないような気がした。こんなときには、別の、たとえば 明日の予定なんかを考えてみると、少しでも、いまの気持ちを変え ることができるような気がしたけど、もう頭の奥のほうまで入り込 んでいるのだから、結局、意識してしまって、何も変わらない。あ まりにも遠くにある天体といっしょで、この気持ちのほんとのとこ ろを追求していくと、まったく未知のものが出現し、とまどい、よ ろこび、その本質に悩み、私自身のこととしてだけではなく、ひと が最低な生き物と決めつけ、ひとりで安心しそうになる。 音が聞こえない、どうして聞こえないのかわからないまま立ち上 がり、薄暗い隅にある冷蔵庫からよく冷えたウーロン茶をとりだし て飲もうとすると、うまく飲むことができずに、ウーロン茶が頬を つたって床にこぼれた。私はなんだか急に悲しくなってきて、その 場にうずくまり、泣いてしまった。
俺は待合室で、熱を帯び、大きく腫れた頬を押さえながら痛みに 耐えていた。 ふた月ほど前から気になり出していたのだが、どうせ大した事は ないとたかをくくり放っておいた。それが災いし、虫歯の侵攻はど んどん進んだようである。この一週間はまともに飯を食えないばか りか、痛みの為、ろくに眠ることもできなかった。ついに音を上げ、 20年ぶりに歯医者の厄介になる羽目となったわけである。 こんな状態になってつくづく思うことは、いかに普段、歯が健康 である事の恩恵を忘れているか、ということである。食い物を、そ れこそ固い物から冷たい物まで何不自由なく口いっぱいにほおばる 事のできる幸せを、それができなくなって初めて噛みしめるのであ る。 本来ならばガキの頃、あまりの歯の痛さに、夜中に一人しくしく 泣いたあの時に痛感しているはずであるのに、それ以来、歯痛とは 無縁だった俺はものの見事に忘れ去っているのだ。何という愚かな 事であろう。この記憶力の無さは、まるでニワトリではないか。俺 もあの下等な鳥類に劣らず、三歩歩いた時点でめでたく忘却してい たのだ。 今はただ、懐かしい。何の遠慮もしん酌もなく食物を摂取できる 健康が。上下の歯を容赦無く駆使して咀嚼し、えん下する運動が。 俺の腰掛けている同じソファで、子供がトランポリンしている。 小学校低学年とおぼしき男児。ちょうど俺が初めて歯医者に通っ た頃の年格好だ。その子供が、じっと痛みに耐えている俺のすぐ横 でぴょんぴょん跳ねている。振動がソファを伝い、俺の身体に響い て来る。ガキの振動と歯の痛み、最悪のハーモニーが俺を包み込む。 母親は向かい側に座り、銀行や美容院に置いてあるお決まりの女 性週刊誌を読み耽っている。どうせ『食べながらのダイエット』と か『三週間で美乳を作る』とかの広告にでも夢中になっているのだ ろう。『もう夜は怖くない』かもしれない。 待合室には他に人影はない。俺一人が迷惑をこうむっているのだ が、この俺より若い母親は、我が子の振るまいを一向に気にもとめ ないのだ。初めのうちだけ「駄目よお、コウくん」とか言ってたが、 それも雑誌に目をやったまま抑揚なく言い放っただけだから、コウ くんの耳にはちっとも届かない。 ちゃんと注意しろよな!と、俺はあらん限りの力を込めて母親に 非難の視線を浴びせ続けたが、ちっとも効き目がない。きっとこう いう母親が一人パチンコに耽り、その間自動車に置き去りにした赤 ん坊を死に至らしめるのだろう。して見るとこのガキはよく生き残 ってきたものである。 (こんな馬鹿な親が増え続けたら、世の中はどうなってしまうのか) 俺は日本の将来を憂いながら必死に歯の痛みとイライラに耐えて いた。 それにしても、この痛みはなんだろう。歯痛とはこんなに凄まじ いものだったろうか。 左上の奥歯を発信源として、そこから網の目に広がる神経が痛み を伝達し、顔の片側半分をじゅうりんする。歯茎から頬へ、こめか みへと頭蓋骨の中でびんびん響く。脳神経が侵されるのではないか とさえ思える程だ。耳鳴りがしている気がするが、これは耳鳴りの ような痛みなのだろうか。それとも、耳鳴りのような耳鳴りなのだ ろうか。 できることなら皮膚の下に手を突っ込んで、蜘蛛の巣状に拡がっ た神経をズリズリと引きずり出してしまいたいものだ。こんがらが った電気配線のように「痛みの素」を取り出せたら、どんなにスッ キリするだろう。そしてできることなら、隣で跳ねているガキを誰 か静めて欲しい。どこかに連れ去って欲しい!地球の外へ放り出し てくれっ! ガキがバランスを崩して俺の方へ倒れかかって来た。 (このガキャ〜〜!!) 俺はついにぐわりと立ち上がった。母親もさすがにはっとしたよ うに顔を上げたが、ただその直前に「山本さん、どうぞ」という、 俺の番を知らせる受け付けの声があったから、得心した様子で、す ぐにまた『美乳を作る』に目を戻していた。 俺は拳を握ったまま、鼻でゴーゴー息をしてたが、まさかガキを ぶん殴るわけにもいかず、かと言ってこのままのさばらせておくの もこ奴の将来の為にならぬと思い、ぎろりと一睨みして怯えさせて から治療室へと入っていった。いつか、かどわかしてやろう。 20年ぶりに座る、歯医者の椅子。治療の為の機械もずいぶん進歩 したようである。昔は機械のいかつい姿を見て、サイボーグにでも 改造されそうな気がしたものだが、今はすっかりスマートにおしゃ れになっていた。 患者の気持ちをリラックスさせる為の工夫だろう、椅子に座ると 斜め前方に花瓶があり、真っ白な胡蝶蘭が飾ってあった。高いんだ ろうな、と、つい下衆な勘繰りをしてしまう。胡蝶蘭の花冠を正面 から見て、蝿の頭を想像するのは俺だけではあるまい。 先生は小柄な女医さんだった。マスクをしているから顔はよくわ からないが、目を見るかぎりはかわいい感じがした。年の頃は、俺 より二つ三つ上といったところか。独身だろうか。 「うわあ、痛かったでしょうっ」 俺の口の中を覗き込むなり、開口一番先生は言った。その声に少 なからず感嘆の響きが感じられ、俺は少し得意な気になった。 「Cの5くらいですかね」 Cの意味も知らないくせに俺は知ったかぶりをして尋ねた。小学 生の頃体育館にみんな集められ、歯の検査を受けた時に覚えた付丁 である。先生はにっこり笑って、抜きます、と言った。この人も知 らないのかもしれない。 麻酔の注射の後、先生はペンチのような道具で俺の虫歯を抜きに かかった。かなりの力仕事らしい。うんと力んで引き抜こうとして いるが、なかなかうまくいかなかった。どうやら俺の虫歯の根っこ が、変な具合にねじれており、歯茎の肉に食い込んでいるらしいの だ。 「きっと根性がねじれてるのね」 罪のない笑顔で、先生は俺に言葉の暴力を振るってくれた。 女性が力仕事で困ってるのを見て、俺も男のはしくれ、何か協力 したいと思った。あんぐりと口を開けた患者の頭を小脇にかかえ、 ペンチで虫歯をぐいとやったら、案外すぐ済むのではあるまいか。 少なくともこの小柄な女医さんよりは、俺の方が力はあるはずであ る。 「手伝いましょうか」と言いかけて、やっぱりやめておいた。考え てみれば患者は俺なのである。自分で自分の頭を小脇にかかえるこ となど、アシュラ男爵か中国雑技団の子供でもあるまいしできるは ずがない。 「ほら見て、この根っこ」 ようやく引っこ抜いた俺の虫歯を掲げながら、女医さんが嬉しそ うに言った。無事に仕事を終える事ができたのが嬉しいのか、それ とも根っこの形が珍しいからそれが嬉しいのか、よくわからないが たぶん後者だろう。たしかにそれは、ぐにゃりとねじ曲がっていた。 俺の治療がすんだ頃、さっきの子供が美乳の母親に連れられて入 ってきた。 「思いっきり痛い目に合わせてやってください」 悪魔の囁きを女医先生の耳に残して、俺は治療室を後にした。や っぱり少しねじれているのかも知れない。 晴れて虫歯は駆逐された。抜歯後の痛みがしばらく続くそうだが、 とにかく痛みの元凶は取り去ったのだから、これからは快方に向か うのである。それを思うだけでも心は晴れやかってものだ。これで 旨いもんが好きなだけ食えるのだ。 ガキの泣き叫ぶ声が、遠くに聞こえるような気がする。 俺は意気揚々と歯医者の玄関を出る。 大きく腕を振って三歩目を踏み出した。
大正十五年八月十日。その夏はうだるような暑さだった。 柳瀬は明治神宮内苑の東側の土手際に沿って歩いていた。柳瀬は 三年前に早稲田大学を卒業して、子供の頃からの夢だった新聞社に 就職した。故郷は福島の会津である。今は川向の清澄の下宿から築 地の本社に通勤している。 その日はデスクの命令で特ダネを取りに原宿まで飛んできたのだ。 その筋からの情報で、警視庁が警戒態勢に入ったらしいと、デスク に耳打ちされて、お茶も飲まずに社を出て、山手線に乗った。 内苑の土手から新駅の宮廷ホームの様子が見えるのかどうか、柳 瀬には分からなかった。半年ほど前、同僚と新橋の屋台で飲んでい たとき、明治神宮の土手からホームが見えるらしいという話を聞い たことを思い出したのだ。 柳瀬はカメラを左手に持ち、右手で薄の葉をしっかりとつかみ、 土手の斜面から覗き込んだ。しかし、ホームどころか、駅舎の屋根 さえ見えなかった。柳瀬の目に映ったのは、朝風になびく雑草ばか りだった。 そのとき、背後から鋭い声が飛んできた。柳瀬は驚きのあまり薄 を握っていた手をはなした。体の重心がずれて、転びそうになった。 逃がすなという声がした。強い力で足をつかまれ、勢いよく倒れた。 「貴様はアカか、それとも朝鮮人か」 警官はさんざん柳瀬を殴ってから、野太い声で尋問した。 「東京新報です。取材で来ました」 柳瀬は目を血走らせた警官を上目遣いで見ながら、声を震わせた。 「何の取材か」 「それは……」 柳瀬には答えられない。逆に、「ここで何をしているんですか」 と警官に尋ね返した。 「貴様、本官を愚弄するのか」 警官は警棒で力いっぱい柳瀬を殴った。額から血が流れた。 次第に流血の量が多くなるのを見て、警官の腰が引けた。 そのすきを狙い、柳瀬は上体を思い切りねじって、警官を払いの け、一目散に斜面を駆け下りた。 後ろから追いかけてきた警官は何かにつまずいて転んだのか、大 きな叫び声を上げて、斜面を滑り落ちた。 柳瀬はあと一歩で駅の構内になるぎりぎりの所まで来て足を止め た。落ちていった警官の姿は確かめられなかった。いつまでもここ にいるわけにはいかない。早く立ち去らなければと思ったときであ る。宮廷ホームに列車が入り、ほどなく大勢の人間が南の方から歩 いてきた。一群の男たちの中心に、こちらからは見えないが、誰か がいるように思えた。 柳瀬の背筋に冷や汗がすっと流れた。恐らく、いや、間違いなく あの男たちの垣根が崩れてくれれば、写真が撮れる。特ダネをもの にすることができる。 柳瀬の頭脳は勢いよく回転した。朝、デスクから原宿に行けと言 われたときは、何のことか分からなかった。デスクは細かな説明を しなくても、柳瀬が分かるだろうと思っている様子だったから、何 の取材ですかなどと聞けば、馬鹿野郎と怒鳴られたに違いない。だ から柳瀬は分かったふりをして出てきた。しかし、一群の男たちを 見たとき、デスクが自分を初めて信頼してくれたのだと思った。あ の男たちは宮内庁の役人と警視庁の私服だろう。 さっきの警官が柳瀬を見つけるのは時間の問題であった。だが、 柳瀬はたとえ逮捕されても、写真を撮りたいと思った。逮捕され、 フィルムを没収されれば、努力も無駄になり、自分も相当の刑罰を 受けることになるだろう。最悪の場合は去年の五月から実施された 治安維持法の対象になるかもしれない。 やめようか。いや、ここで尻尾を巻いて逃げれば、せっかく自分 認めてくれたデスクの気持ちを裏切ることになる。自分が新聞記者 を目指したのは、特ダネを取って、自慢したいためではないが、一 生に一度しかないような機会をみすみす逃すようでは、何のために 苦労して大学を卒業し、新聞社に勤めたのか分からないではないか。 柳瀬は左手で頬を二度、思い切り叩いてから、カメラを構えた。 就職祝いに故郷の父母がなけなしの金をはたいて買ってくれたドイ ツ製の最新式カメラである。 男たちの輪が崩れた。柳瀬は夢中でシャッターを切った。草が擦 れる音が近づいてきた。柳瀬はもう一度、シャッターを切った。あ そこだという声が聞こえた。柳瀬は振り返った。警官だった。 柳瀬はカメラをぎゅっと握り締め、立ち上がった。運を天に任せ て全速力で走った。体中の血が踊っていた。心臓が早鐘のように鳴 っていた。 本社に帰り、現像の係にフィルムを渡して、しばらく待っている 間、タバコを吸った。タバコを挟んでいる指が震え、止めようとし ても止まらなかった。現像係が目を輝かせて走ってきた。 「お姿が写っているよ。特ダネだぜ、柳瀬」 「ほんとうか。ありがとう。デスクに見せて来るよ」 柳瀬はまだ定着液が乾いていない写真をデスクの前に並べた。 「よし、これでいこう。記事もお前に任せる」 デスクは一番鮮明に写っている写真を選んで、柳瀬に渡した。 「聖上陛下御静養のため葉山御用邸へ」と見出しを作り、柳瀬は さっそく記事を書き始めた。過去の病状に関する記事なども参照し て、正確を期した。書き終わったのは締め切り五分前であった。 原稿を渡すと、デスクは「ご苦労さん、帰ってゆっくり休め」と 柳瀬の肩を叩いた。 翌朝、清澄の下宿で朝刊を開いた柳瀬の眉間に深い皺が寄った。 前からめくっても、後ろからめくっても、自分が書いた記事も写真 も載っていなかった。柳瀬は階段を軋ませて駆け下り、本社に電話 をかけた。 「柳瀬か。かけてくるだろうと思っていたよ」 宿直の記者が眠たそうな声で言った。 「おれの記事はどうなったんです」 「デスクも頭に来ていたよ。印刷にかける直前に上からストップが かかった。デスクが問い質したら、警視庁から記事差し止めの命令 があったという返答だった。なんでも、原宿新駅構内やその付近で の写真撮影は一切禁止するということらしい。もし、写真を載せた ら、うちの新聞自体を発行禁止にすると脅されたらしい。しかし、 どうしてうちの社だと分かったんだろうな」 「それは……」 柳瀬は警官に尋問されたとき、とっさに社名を言ってしまったこ とを思い出したが、そのことを打ち明ける勇気はなかった。 「どうした。元気だせよ。また、機会はあるだろうから」 電話の相手は、柳瀬が落胆して言葉をなくしたのだろうと、形ば かりの慰めを言った。 「新聞は真実を知らせる使命があるんですよ。警視庁に脅されて、 記事を差し替えるなんて、おれには我慢できませんよ」 柳瀬は本当のことが言えず、それを相手に悟られぬよう、わざと 強い語調で言った。 「待て。それ以上は言うな。クビを切られる。一日休みを取れよ」 電話の声は優しかった。 「一日と言わず、ずっと休みますから」 柳瀬は叩きつけるように受話器を置いた。 ※ それから三ヵ月後の十一月十一日、「お風邪の発熱から気管支炎 の症状」という容体発表があった。天皇嘉仁が死亡したのは、その 年の十二月だった。 柳瀬はデスクに言われて、号外記事を書いた。 聖上崩御 本日午前一時二十五分 【二十五日午前二時四十分宮内省発表】天皇陛下には今二十五日 午前一時二十五分葉山御用邸に於て崩御あらせらる 柳瀬が書いて日の目を見た最初の記事であった。
自分のことを心から優しいと信じている青年がいた。ある夜、そ の青年の夢に薄笑いの不気味な男が現れた。 「お前は本当に自分のことを優しい人間だと思っているのならそれ を試してみないか?」 青年は自信満々で頷いた。それはそうだ、何せ自分のことを心か ら優しい人間だと思っているのだから。 「お前にこの眼鏡をやる。困っている人間を見たらこの眼鏡をかけ てみろ」 夢はそこで終わった。青年は眠りから覚め、変な夢だったと思い ながら体を起こした。ふと横を見てみると枕の上に眼鏡がある。と なると、今のは夢ではなかったのか……試しに青年は眼鏡をかけて 部屋を見渡した。 ――何だ、何も変わっていないじゃないか…… 少しがっかりした青年はそう思いながらもその眼鏡を鞄の中にし まって出かける支度をし始めた。 「両親が一緒に食事をしたいって」 「そうか、それは光栄だな、じゃあワインでも持ってお伺いさせて もらうよ」 前のデートで恋人とそんな約束を交わした。今日は恋人の家で恋 人の両親と恋人と一緒に食事をする約束がある。青年は恋人の両親 に渡すワインを買いに街に出かけた。 心優しい青年は恋人のことを心から愛していた。恋人の名前は美 恵といった。正確に言うと婚約者だ。美恵は美人で頭がいいのにそ れを少しも鼻にかけていない。しかもユーモアがあって気が利く。 そして何よりも青年が信じられなかったのは男性経験が全くないと いうことだった。青年は最初そのことを信じられなかったが才色兼 備の女性にはそういうことがたまにあるらしいという友達の話を聞 いて安心した。 「真剣におつきあいするのなんてあなたが初めて」 照れながらそう言う美恵を心優しい青年は抱きしめるのが好きだ った。 「美恵さんと人生を共にしたい」 つきあって半年後に心優しい青年はプロポーズをした。美恵は涙 で頬を濡らしながら嬉しそうに頷いて、婚約指輪を愛おしそうに指 にはめた。青年は美恵のことを死ぬまで守り続けようと心に誓った。 美恵は奥手だったのでキスをするまで三ヶ月かかり、婚約をして いる今でさえ性行為はまだしていない。 「結婚までは奇麗な体でいたいの……」 美恵のその言葉を優先して青年は性行為を一度も求めたことがな い。青年にとって美恵の体は世界中の何よりも尊いものだった。 希望のワインもすぐに見つかり時間を持て余した青年は公園のベ ンチに座って時間を潰すことに決めた。ベンチに座って近くを見て みるとホームレスがダンボールにくるまって寝ている。 ――可哀想に……。 心優しい青年はそう思った。ホームレスをよく見てみると背広を 着ている。歳も青年と同じで三十前後だろう。解雇されたサラリー マンなのだろうか。自分は今から愛する恋人とその両親と食事をす るというのに、自分と幾つも変わらない人間がこんな風に公園で寝 ている。そう考えると心優しい青年の胸が痛んだ。せめてお金でも 置いていこう、青年は財布から一万円札を数枚取りだした。 ――その時にふと、夢の中の男が言っていたことを思い出した。 「困っている人を見たらこの眼鏡をかけてみろ」、半信半疑ながら 心優しい青年は財布をしまい、眼鏡を取りだしてかけてからもう一 度ホームレスを見た。 「あっ…」 心優しい青年は驚いた。ホームレスの背後に映像が見えるのだ。 ホームレスの男は今と同じ背広を着て椅子に座ってうなだれている。 どこかの喫茶店だろう。解雇された直後だろうか……。心優しい青 年の心は更に痛んだ。 映像が変わった。会社のオフィスだ。壁のカレンダーが見える、 3年前だ。ホームレスの男は小綺麗な背広を着て、忙しそうに電話 をかけ資料に目を通している。肌の色もよく今よりもずっと健康そ うだ。――何で今はホームレスになってしまったのだろう。悲しく なって心優しい青年の目から涙が溢れだしてきた。 また映像が変わった。同じく会社のオフィスだが違う背広を着て いる。上司が何かの賞状をホームレスの男に渡している。周りにい る人間はそれを見て拍手している。男の顔を見てみると明るさと自 信に満ち溢れている。……なのに何で。心優しい青年の心は張り裂 けそうなくらい辛くなった。 映像がまた切り替わった。今度はオフィスではない。ホームレス の男の昔の家だろうか……男はカウチに座っていてその横には女が いる。男はジーンズとTシャツ、女は白いブラウスと黒いミニスカ ートを着ている。女は男の肩に寄り添いながら下を向いている。恋 人のようだ。ロングヘアで顔がよく見えないが女は泣いているよう だ。女は何かを手にしているようだ。 ――指輪だ。女はうつむきながら指輪を薬指にはめた。婚約指輪だ。 女は嬉しくて泣いているのだろう。女は男の方を向いて自ら男の唇 にキスをして男を抱きしめた。積極的な女姓だな、心優しい青年は 思った。それから舌で男の唇をなめ回して男の口に舌を入れた。二 人の舌が絡み合い、唾液が艶めかしく光っている。男は右手で女の 乳房を洋服の上から触わりはじめ、女もそれに応えるかのように男 の下半身に右手をあてた。――その時にずっと見えなかった女の顔 が見えた。 ――美恵……? 心優しい青年は自分の目が信じられなかった。女をもう一度よく 見てみた。その顔は紛れもなく美恵だった。 ――なぜ美恵が? 美恵は男の口から舌を抜いてから、男の上にまたがって男のTシ ャツを脱がせ、徐々に体を滑らすように顔を男の下半身の方に移動 していった。美恵は男の下半身に顔を埋め、四つんばいの格好にな り、白い下着がスカートからあらわになった。美恵は慣れた手つき で自ら男のベルトをゆるめ、ボタンを外し、ジッパーを下げた。そ して下着の間から男のそれを両手で取りだし、それを両手で丁寧に 包みながら先端を愛おしそうにキスをしてから舌を這わせはじめた。 心優しい青年はその様子を呆然と眺め続けた。美恵の性行為はスロ ーモーションのようにゆっくりと、しかし止まることなく続いてい る――。 心優しい青年は眼鏡を外した。青年の目に涙はない。慈悲で溢れ ていたはずの青年の温厚で優しかった顔は殺人者のような険悪な顔 に変わっていた。 ――こんなこぎたねぇホームレスと…… 心優しい青年はベンチから立ち上がりホームレスの前に仁王立ち した。 ――死ね。 ドスッ、ドスッ、心優しい青年がホームレスを蹴る度に鈍い音が 響き渡った。顔、腹、そして美恵の口を汚した男のそれを蹴り続け た。ホームレスは腹を両手で守りながら死にかけたゴキブリのよう にのたうち回っている。青年は蹴るのをやめホームレスを見おろし た。 ――汚ねぇ。 心の底から怒りが溢れてくる。 ――なんだ、ここにいいものがあるじゃねぇか―― 心優しい青年はベンチに置いてあったワインの瓶を掴んで思い切 りホームレスの頭を殴った。さっきよりも鈍い音が響き渡った――。 ワインの瓶は割れなかった。ホームレスの頭からは血が流れてい る。のたうち回ってもいない。静かにマネキン人形のように横たわ っている。 心優しい青年はワインに付いた血を丁寧にハンカチで拭き取って ポケットにしまってから電話をかけた。 「あっ、美恵さん?僕です。今から伺います。美恵さんが駅まで迎 えに来てくれるんですか。それは嬉しいな――」 電話を終えて心優しい青年は薄笑いでワインの瓶を見つめた。ワ インのラベルに映った自分の顔は夕陽に反射して夢の中で見た男の 顔とそっくりだった……
その日は朝から激しい雨が降りしきり、慎吾の気持ちをより一層 曇らせた。 「お父さん、娘さんを僕にください!」 これから起こる儀式に備えて、まるで呪文のように、頭の中で同 じ台詞を何度も繰り返す。そして、繰り返すたびに口から漏れる溜 息が大きくなる。 「私のお父さん雷だから。覚悟してね」 待ち合わせの駅の改札に、いち早く来ていた小枝は、開口一番そ う言って悪戯っぽく微笑んだ。軽い冗談のつもりなのだろうが、僕 の溜息はより一層大きく膨らむ。 もちろん、結婚の報告だけなら、何の問題は無い。遅かれ早かれ その日は訪れるだろうという事は、僕も小枝も薄々感じていた。問 題なのは、小枝の体の中に『男としての責任』ができてしまった事 だ。その結果、今日という日が突然訪れてしまった。 慎吾は小脇に抱えている茶菓子に目を落とす。さっき駅前で買っ てきたばかりの、安っぽい菓子包み。話を円滑に進めるのに、こん な物が一体何処まで潤滑油代わりになるというのだろう。もし逆の 立場だったら『何処の馬の骨か分らん奴』とか『娘を傷物にした』 等といった、メロドラマでお馴染みの台詞をひとしきり吐いたあと、 お手本通にちゃぶ台を返し、そして…… 「ほら、何ボーっとしてるの? 電車がきちゃったわよ」 小枝の一言でふと現実に戻る。 慎吾はポケットに中に潜めておいた絆創膏を握り締めたまま、重 い足取りで電車の中へと乗り込んだ。 「私、ジューンブライドって、憧れてたんだ」 「ふーん……」 「そう考えると、タイミングは良かったのかもね」 「うん……」 まるっきりの空返事。 電車に乗った後、僕は小枝の話に適当な相づちを打ちながら、再 びシミュレーションを、一人始めていた。 その中で一番困ったのが、「娘さんをください」と、「申し訳ご ざいません」の二言。一体どちらを先に言うべきなのだろう。 「申し訳ございません」 これを先に持ってくると、仕方が無いから、という風に取られそ うだ。 「娘さんをください」 これを先に持ってくると、当然の事ながら、質問攻めを食らうは ずだ。 娘をどう思っている。 いつから付き合ってたんだ。 どうやって娘と知り合った――この質問が一番厄介だ。 合コンで知り合ったその日のうちに、酔った勢いでテイクアウト した……なんて事、正直に言えるはずも無いし、もちろん言うつも りも無い。 僕と小枝が付き合い始めたのは、こんな感じで、世間様からする と、とてもいい加減に映るだろう。実際、いい加減だった。 ただ、きっかけがいい加減だからと言って、その後もずっといい 加減という訳ではない。そうでなければ、今こうして茶菓子を抱え ながら彼女の家に向かうという事は決してしないだろう。 小枝から妊娠の事を告げられた時。僕らは一週間にわたって、今 後の事をじっくりと話し合った、お互いにまだ学生な訳だし、もち ろん経済力も無い。交際期間がたった半年というのは短すぎやしな いか。生まれてくる子供を何処で育てるか。同棲すべきか。大学を 辞めるべきか……不思議な事に『堕す』という事は、お互いの選択 肢の中に含まれていなかった。 一度、僕が冗談で「普通、こういう場合は……」と言う話をする と。小枝は「じゃあ、普通じゃなくていい」と言って可愛くいじけ て見せた。が、目だけは正直に小枝の気持ちを代弁していた。あの 時の小枝の目は、今でもはっきりと脳に焼き付いて離れない。 不純なきっかけ、短すぎる交際期間、やむを得ない学生結婚。 世間一般から見ると、確かに普通ではないかもしれない。だから と言って、普通になる必要も無い。大事な事は、きっかけや、交際 期間ではないという事を、僕らは知っているつもりなのだ。 とはいえ、やはりこの報告は気が滅入る…… コトコトと心地よいリズムで電車に揺られている間、何度もシミ ュレーションをやり直したが、やはり最後には『絆創膏』という答 えがはじき出される。 「……慎吾、シンゴってば!」 「んぁ?」 まだ、シミュレーションから覚めあらぬ僕の間抜けな返事。 「もう! ここで降りるわよ、早く早く!」 小枝が僕の袖を引っ張り、まるで駄々をこねている子供と母親の ように、僕らは電車を降りる。 刻一刻と近づく『お父様』とのご対面。 僕の心に比例するかのように、雨がより一層激しく降り注ぐ。こ のままこの奇妙な比例関係が続くとしたら、今日一日で日本列島は 水没するだろう。そんなくだらない事を考えながら、僕は小枝の後 についていった。 小枝の話では、小枝の家は駅から徒歩五分の位置にあるらしい。 が、僕らが電車を降りてから、すでに一五分近く歩いている。おま けに、歩けば歩くほど住宅地からは離れ、今や何処を見渡しても、 木々が鬱蒼と茂っているだけで、家らしきものは何処にも無い。 「おい、一体何処に行くんだよ」 「もちろん、お父さんの所よ」 そう言って、今度は左の脇道へとそれる。 さらに五分後、僕らが辿り着いたのは、小枝の家ではなかった。 「……おい、これって……」 立ち止まった小枝の目の前にあるものを見て、僕は思わず息を飲 んだ。 「そう、私のお父さんよ」 十歳までのね。と付け足し、僕にいつもの笑みを送る。 「ただ優しいだけじゃなくて、時には厳しく叱ってくれて……怖か ったけど、私の事、大事に想ってくれてたんだって思う。だから、 誰よりも一番に報告したかったの。昔のように叱って欲しかったし、 喜んで欲しかった」 遠くで大きな雷が鳴る。小枝は「怒ってるのかな?」と呟いて、 その場にかがみ、両手を合わせた。 そんな事、僕は全く知らなかった。小枝の事は誰よりも一番知っ ていると自負していた事が、急に恥ずかしくなる。僕は小枝の何を 知っていたのだろう。僕は小枝の何が知りたかったのだろう。 稲光の後に鳴り響く轟音、その間隔が徐々に狭まる。ポケットの 中の絆創膏は落雷には効きそうにはない。 僕は小脇に抱えていた菓子包みをビリリと破き、小さな小枝の父 親に差し出した。 「そんな事していいの? 家に持って行くんじゃなかったの?」 「いいんだよ、御父さんのために買ってきたんだから」 そう答えると、小枝の横に腰を落として目をつむり、同じように 手を合わせた。 僕は小枝の事をまだ知らない。 だからこそ、知ろうと思う。 それが愛する人だから…… 耳から聞こえてくる雨音が、徐々に風の音へと解け込む。 「お父さん、許してくれるって……」 すっと立ち上がった小枝は、傘をたたみながら、いつもの悪戯っ ぽい笑みを投げかける。 「お父さんに何って言ったの?」 僕は何も答えずに立ち上がると、代りに小枝の小さな頭を自分の 胸へ優しく抱き込んだ。もうシミュレーションも、絆創膏も必要な い。大事な事はたった一つだけなのだ。 「心の準備はできたの?」 僕の胸に埋もれながら、小枝が囁く。 「ああ」 「一五歳からのお父さんも雷だよ?」 「ああ、かまわないよ」 君のすべてが知りたいから。とは、まだ恥ずかしくて口に出すこ とはできなかった僕は、代りに小枝の額へ、そっと短く唇を押し当 てると、小枝の手を引き、その場を後にした。 雨に濡れ、足場の悪い道を二人手をつないで歩いていく。そんな 僕らの背中を雲間から僅かに漏れる暖かな光の帯が、力強く押して くれるような気がした。
価値というのは不思議な物で、まったく曖昧だ。粘土細工のよう に人によって形は簡単に変わる。 ここに「乞食とマリア」という一枚の絵がある。描いた本人が言 うのもなんだが、実に素晴らしい絵である。なにも自画自賛の独り 善がりではない。事実この絵には億単位の値がつけられていたのだ から。色使いも構図も妙の域に達していて、どんな名画と並んでも 全く遜色無い。むしろ千年に一度の名画としてその一段上に飾られ るべき絵である。 そんな絵がなぜ埃にまみれて押入れに放置されているかと言えば、 今はこの絵の価値が無地のキャンバスよりも下であるからだ。あれ ほど熱心に譲ってくれと、断るごとに小切手にゼロを付け足した画 商達も今はそんなことは忘れ、新しいビジネスに奔走している。 私の部屋からは丘の上に建つ教会が見える。白亜の壁が美しく、 両手を広げたマリア像が屋根の上から街を見下ろしている。 毎朝、乞食が同じ時間に教会を目指して登るのに気付いたのは、 この部屋に引っ越して、しばらく経ってからだった。 乞食は夏の日も冬の日も、強雨であろうと、雪であろうと、一日 も休まずに教会への坂道を登っていた。乞食の腰は曲がり、頭は遠 目にも白く、身なりは汚い。興味を抱き、理由を調べると、あの教 会で僅かばかりの朝食が振舞われていると知った。 いつしかあの老人を眺める事が朝の日課になった。老人を眺めな がらトーストを食べ、坂の中ほどで一度腰を伸ばすのを合図にコー ヒーをカップに注ぎ、老人が教会に達し、マリア像を眺めるのを見 て、口に含む。老人が教会に入っている間に片付けをし、出て来た 所で新聞を広げる。 いつしか乞食の姿は生活の一部となっていた。トーストをかじり ながら、もしもあの乞食の姿が無かったら、トーストもコーヒーも 味が変わってしまうのではないか。そんな不安を覚える事もあった。 けれど乞食が休む日は一日もなかった。必ず決まった時間に現わ れた。おかげで朝は時計を見る必要が無かった。 ある冬の朝、全てが凍てつくような朝だった。私はなかなかベッ ドから出られず、いつもより少し遅れて起きた。 私は寒さに身を固くしながら窓の前に立った。さすがに今朝はあの 乞食も来ていないのではないだろうか、そんな期待に似た悪意のよ うなものを抱きつつカーテンを開けた。暖房をかけていない部屋が 結露するほど、外は寒いようだ。昨日から降り出した雪は一面を白 銀に染めていた。 丘も教会もそれへ続く坂道も真っ白に染まっている。私は手で窓 を擦り、坂を見つめた。 真っ白な坂を登る黒い点、雪原を行く蟻のようだ。老いた乞食は 降り積もった雪に苦戦しながら坂を登っている。 罪悪感。始めての思いに戸惑った。さすがに今日は無理だろう。 という意地悪な思いではなく、境遇の違いにである。 あの乞食は自分が私の朝食のおかずにされているとも知らず、僅 かな朝食のために老いた体を酷使してあの坂を登っている。私とい えばそれを見ながら温かいコーヒーをすすり、バターをたっぷり塗 ったトーストを食べている。その金は私が稼いだ物でなく、親が出 している。したいことも見つけられず、画家になるということを、 さも長年の夢のように自分に思い込ませ、自堕落な日々を送ってい る。 同じ貰い物ならば、どんな日も自分の足で教会まで行き、米塩を 得ている乞食の方がよっぽど人間らしいと言えるではないか。私は 老人に申し訳なく思い。また恥じた。 あの乞食のために絵を描こう。もしもそれを買ってくれる人がい れば、その金をあの乞食にあげよう。そう思って描いたのが「老人 とマリア」だった。 朝焼けの中、老いた乞食が坂の中ほどでマリアを見上げている絵 だ。作品の出来はさっき述べたとおりである。「新人天才画家」な どと言われ、私の絵はもてはやされた。噂は噂を呼び、絵はどこに でもひっぱりだされた。 「乞食とマリア」の価値は私の手を離れて暴走を始める。 戸惑った私は、あの絵は乞食のために描いた物で、金はそっくり 乞食にあげるつもりだと言った。すると人々はなんと優しい事だと 驚嘆し、それがまた価値の暴走に拍車をかけた。せいぜい「優秀作 品」ぐらいであった絵が「世紀の名作」になってしまった。どうか 譲ってくれと、画商達は毎日部屋に押しかけた。 マスコミは面白がって、あの乞食を探し始める。そして驚くべき 事実が明らかになる。 あの乞食はニセモノだった! なんとあの乞食、実は朝食を振舞われるべくもない、裕福な男だ った。 しかも「ただの物は石でも貰う」と公言してはばからない、とて つもない守銭奴であった。会社の創設者で、隠居後も会長として何 不自由ない生活をしている。乞食に身をやつして朝食を食べるのは、 朝の散歩を兼ねた彼の道楽に過ぎなかった。 この事実はマスコミの格好の餌食になった。絵は嘲笑の的になり、 誰もが笑った。 誰とも無くあの絵をこう呼び始めた。 『大いなる勘違い』 人々はこのサブタイトルを気に入り、あの絵のことを呼ぶ時には 必ずこの言葉を頭に浮かべた。雑誌に掲載される「乞食とマリア」、 人々はその題名の下に必ずこのサブタイトルを押し込んだ。 ぱったりと画商達は来なくなり、電話も鳴らなくなった。中には 「この絵に込められた作者の思いは本物なのだから、乞食がニセモ ノであっても、その価値には関係ない」という人もいた。どうなの だろう?思いは本物でも、その思いを受けるべき乞食が存在しない ニセモノなのである。名画と呼ばれる作品にも同じようなことがあ ったかもしれない。けれどそれは過去の話で、もう事実は闇の中で ある。まったくの想像画とも違う。 もしも事実がわかったら、同じ憂き目に遭う絵はどれぐらいある のだろう。分らないからこそ価値がある。そんな物が絵に限らず、 世の中には溢れている。 私は押入れから「乞食とマリア」を引っ張り出し、老人のもとに 持って行く事を決めた。肩書きこそ違えど、この絵があの老人のた めに描かれた事は間違いない。 老人は騒ぎになって以来、あの坂を登る事はなくなった。 老人の家は私の部屋の数倍はある豪邸だった。老人はすまなさそ うに私を迎えてくれた。 「申し分けないことをしましたね」 「いいんですよ、この絵を貰って下さい」 老人は差し出された絵を見つめ 「いい絵ですね」と呟いた。 私は思うんです。と老人が絵を置いて続ける。 「お金を使わない人達には貨幣がただの紙切れなのと同じように、 私達は共通の意識を持つ事で均衡を保っています。きっと芸術も同 じでしょう。申し訳ないことに私はニセモノでした。けれど、万人 には価値のない絵でも、あなたには特別な絵でしょう。私は強欲な 人間ですが、感じる心は持っています。これは素晴らしい絵ですよ」 不思議な笑みが二人の間に降りた。 私は持ち帰った絵を部屋の隅に飾った。やはりいい絵である。 翌朝、私は起きると、いつものように窓の外を眺めた。 乞食が坂を上っていた。坂の中ほどまで来ると、腰を伸ばし、そ して振りかえった。あの老人が私の部屋の場所を知るはずもないが、 しっかりと振りかえった。 そして朝焼けの中、老人は両手を広げて微笑むマリアを仰ぎ見た。 何物にも換算できない価値を「乞食とマリア」が持てた気がした。 コーヒーを真実に例えれば、価値は湯気だろうか、湯気は私に豊 かな香りを運んでくれる。
台所。 流し台の引出しの中で、「妻楊枝」は多くの従者を従えて幸せに 暮らしていた。夫は「輪ゴム」である。彼もまた、多くの従者を従 えていた。 悲劇はなんの予告もなしにやってくる。 猫である。突として現れたそれは、運悪く開いていた引出しの中 から楊枝の集団をものも言わずに蹴散らし飛ばすと、一陣の風のご とくに走り去った。そうして中空に舞わされ、乾いた悲鳴をあげて 台所の床へと打ち落ちる楊枝たちの中に、どうやら妻楊枝の姿もあ った。 話を聞きつけた夫輪ゴムは直ちに救出隊を編成した。自らがその 陣頭式をとり、すぐ脇の割り箸の群れを瞬く間に一丁の割り箸鉄砲 へと作り変えさせる。そして息をもつかずにそのまま弾丸、夫輪ゴ ムは荒涼たる台所へと飛び立った。 ほの赤い泉の水がピシャリと跳ねた。無事着水したわけである。 目の前では「刺身の妻」が嘆いていた。彼女が身をからして流し出 した涙はその足元に泉を作り、そしてその泉は、今は亡き彼女の恋 しい夫の名残血にほの赤く染まっていた。 夫輪ゴムは、その未亡人に向かってはばからず妻のことを聞いた。 無論彼とて憐憫の情を感じずにはいられなかったのであるが、それ 以上に、今の刺身の妻の姿に明日の己の姿が投影されているように 思えて、勢い非情にならざるを得なかったのである。 けれども、刺身の妻はうつむいたまま首を振るばかりであった。 「せめて、なにか手がかりだけでも……」 「なぜそんなにむきになりますの? 無駄ですよ。今頃はもう……」 ようやく口を開いたと思えば、その答えは自己の絶望をことさら に強調させるだけのものであった。いらだたしくある。 「無駄なものか! 彼女は生きて、どこかできっと助けを求めてい る」 「やめましょう。それより……」 そこでふっと言葉を切って、静かに、妖しく、刺身の妻は夫輪ゴ ムの足元によろめきすがった。 「それより同じ境遇同士、過ぎ去ったことはいっそ忘れて、二人で 新しい生活を始めませんか」 艶かしい口調でとんでもないことを言う。もちろん夫輪ゴムがう なずくわけもない。 「馬鹿な! 奥さん、いくら悲しいからって、血迷ってはいけませ んよ」 「血迷ってなどいるものですか。私は生まれ落ちたときすでに『刺 身の妻』と定義されているのです。その定義を打ち破ろうというの です、そんなこと、悲壮なまでの覚悟がなくちゃ言えやしません。 迷っているのはむしろあなた、なんの束縛もないくせに、くだらな い倫理観にとらわれうらうらしているあなたではないのですか」 さらに続ける。強気一転、お涙頂戴である。 「けれど、それでも、あなたに救って欲しいのです。救ってくださ るでしょう? この悲しみ、あなたには分かっていただけるはずで すもの」 「しかし俺には妻があります」 「ではあなたは私がどうなってもいいのですね。今こうして生きて 苦しんでいる者よりも、安らかに眠っている者のほうが大切なので すね。酷い方です」 刺身の妻は、出ない涙を搾り出して弱々しくつぶやいた。 「酷いもなにも、それなら俺の妻をすでに亡き者のごとくに語って いるあなただって酷いじゃないか!」 刺身の妻のあまりに身勝手な言い分にいよいよ苛立ちも頂点に達 した夫輪ゴムは、語気を強めて反論した。そしてそれは同時に、刺 身の妻にも火をつけた。 「酷くはないわ! あなたの奥さんはもう死んだのよ。諦めなさい。 そして私と暮らしなさい」 「まだ言うか! この薄情女!」 「まあ! 私の気持ち、全然分かっていないのね。この苦しみ、夫 のことを思いやる余裕なんてありゃしないのよ!」 「そんな……」雷鳴が轟いた。天地が動転した。 夫輪ゴムは言葉を継ぐこともできずにいた。論じようにも、その 相手の姿が消えてしまっていたのである。自身も泉の外にはじかれ ていた。血生臭い泉に超然とした円形の波紋が広がって、それが却 って静けさを強調していた。 波紋が乱れる。 泉の底から浮いてきたそれを見て、夫輪ゴムはかつて感じたこと のないほどの高揚感をおぼえた。ほの白い光をまとっているかのご とくに泉に漂う、それはまごうことなき彼のよき妻だったのである。 夫輪ゴムは一心不乱に泉に踏み込み、妻楊枝を優しく抱きかかえ た。 「夫輪ゴム……」 小さな小さな声であった。おそらく一言を発するのも苦しいに違 いない。けれども妻楊枝は、美しく微笑んで夫輪ゴムを見つめてい た。そうして、苦しさなど微塵も感じさせなかった。それが却って 夫輪ゴムにはたまらない。 「いいんだ。俺のことなど気にせずに、苦しいときは苦しんでくれ。 そして元気になったなら、そのとき笑ってくれればいい」 けれども妻楊枝は笑顔をやめなかった。 「いいの。私はもう駄目。だから……。最後は綺麗に向かえたいの」 「絶望するのはまだ早い。おまえはまだ生きているじゃないか。駄 目なんて言わないでくれ」 刺身の妻の高笑いがかすかに耳に届く。見やれば、猫が台所を走 りまわっている。おそらく先ほどの天変地異の際に捕まえられたの であろう刺身の妻は、その口許に力なく垂れて気味悪いほど声高に 笑っているのである。夫輪ゴムはハッとした。 「おまえの仕業か、刺身の妻!」 刺身の妻は、猫の口にくわえられたまま高笑いを続ける。 さらに激しく問いかけると、刺身の妻は嘲笑うように大声で答え た。 「そうよ! あんたの幸せ奪ってやりたくて、たまたま近くに降っ てきたあんたの奥さんを泉に沈めてやったのよ!」 「馬鹿な! どんな道理があってそんなことをしやがったんだ!」 「復讐よ! 私だけ不幸であんたたちは幸せだなんて、そんな道理 もないじゃないのよ。すべての事を平等に見る絶対的な存在からし てみれば、私のしたことは当然与えられた権利に過ぎないのよ」 悪魔だ、夫輪ゴムは思った。全てを絶望の淵に追い込んで自らを 慰めるなど言語道断の行為である。そして、刺身の妻の悲嘆の仮面 に隠された蔑視・嘲笑の真実。騙されたという恥辱と屈辱が、夫輪 ゴムを支配する。 「あなた……。お願いだから許してあげて。あの人の気持ち、痛い ほど分かるもの」 妻楊枝のかすかな美しい声がする。散り逝くものの美しさ。 乱れた心でふと思う。それすらも、醜いエゴではないのか? 「復讐よ! 私の不幸をわけてやる」 「うるさい! 黙れ!」 「許してあげて……」 「分かった。分かったから……」 言葉が、いつ果てるともなく繰り返された。それを断ち切るは妻 楊枝の死。彼女は可憐に散った。 そして、その死は夫輪ゴムの心に新たな感情を落としていった。 それは例えば煙が広がるようにして、彼の心の中に広がっていった。 夫輪ゴムは勢い立ち上がり、激昂した様子で割り箸鉄砲を呼んだ。 「あの猫を撃つ!」 混沌。息苦しい。眩暈をさえ感じる。全てが漠然としていて、す でに爆発してしまった怒りなどという感情はあるにはあるが、それ が正当なものであるかは疑わしい。猫を撃つのも漠然とした意識に 他ならない。はっきりとした理由付けなど無意味である。 憤然と飛びかかる夫輪ゴムを、猫は嘲りのまなざし向けつつひら りと苦もなくかわした。夫輪ゴムはむなしく台所の床へ。 絶望を知った。 「畜生! 不幸だ! 絶望だ! 勝手な連中め、残された身にもな ってみやがれ。この絶望感、一体何処にやればいいのか、歯噛みし て耐えるしかないのか。ああ、俺は不幸だ!」 言う身勝手。 極論。 絶望は自愛である。
ぼくは今日から23歳で、大学を卒業するまであと6ヶ月くらいし かない。そんな中途半端な年齢や立場にいるからかどうかはわから ないけれど、先輩に言われた「おまえもまともな恋くらいしたらど うだ」という言葉がなぜか心の隅から突然這い上がってきて、今の 生活が本当に物足りないつまらないものに思えてきてしまった。ろ くな恋だって一度もしたことのないぼくは、ちょっと先輩から勧め られた店にでも行ってみようか、と思ってなんとなく家を出たのだ った。 ぼくがその店に入ったのはだいたい6時くらいだった。そのころ になるともう西の空は赤くきれいに染まっていて、ああ今日も充実 した一日だったななんて会社帰りのおじさんたちが歩きながら大き く背伸びをする、というような変な光景も見られたりするものだ。 そんなことはどうでもいいとして、ぼくは駅前のネオンがぎらぎら 光る繁華街の中でもわりと地味な格好のその店に、一人でこっそり と入っていったのだ。 店内には40歳くらいの女性の店員さんが一人正面に立っていて、 さわやかな笑顔でぼくを迎えてくれた。どうやら客はぼく一人のよ うだ。「あ、あのう」とぼくは本当に恥ずかしそうな顔をしながら 「サービスのカタログを見せてもらえませんか」と小さな声で言っ た。店員さんはぼくに椅子に座るように勧め、分厚いカタログを目 の前に差し出してきた。 カタログの1ページ目は次のような見出しだった。失楽園的心中 恋―津軽海峡冬景色編。灰色の空の下で絶壁にたたずむ一組の男女 のシルエットの写真があり、やけにリアルだなあと思う。ぼくの斜 め前に腰掛けた例の店員さんが言うには「近頃これが一番売れてお ります」。うーん。ぼくはうなった。最近あの辺りでずいぶん心中 事件が多いようだけど、今その直接的な原因が判ってしまったから だ。だけど別に死にたくはないんだよ、ぼくは。2ページ目のは、 花を召しませ召しませ花を―東京花売り娘純愛編―――というのだ ったが、これはちょっと時代遅れじゃないかなあ、と思うのだ、ぼ くは。でも店員が言うには「比較的高齢の方には好評なようです」。 だから金額が異常に高いのか。これだけ払えるのは会社で勤めあげ た年配の元サラリーマンぐらいしかいないもんね。でもね、やや間 の抜けた感じだもんね、これは。 「燃える若さと恋の華・京都五重塔をのぞみながら満開の桜の木 の下で超美人の舞妓さんとアツアツの酒を飲む」 というのが8ペー ジにあった。ぼくは、「あのう、これってお酒を一緒に飲むだけで すか」と訊いた。「いいえ、話しもします」と店員さん。どうりで 5千円のはずだ。 ぼくのややけげんな表情を察してか、彼女は「続 くページをご覧下さい」 と言うので開いてみる。「女子高生8人囲 って、はないちもんめ」。「楽しいですよ」と店員さん。 13ページでは「風たちぬ―軽井沢高原病床激情恋愛コース3ヶ月」 というのがあった。「看病でもするんですか」と訊くと、「そうで す」と店員さん。それじゃあこっちが看護料でお金をもらうのが筋 なんじゃないかと思ったが、 ぼくは何も言わなかった。 15ページ の大見出しは「父激怒―勘当―駆け落ち―永遠の愛…特別ドラマチ ックスペシャルコース」。「若い方にはこれが一番の人気で、只今 たいへん申し訳ありませんが品切れとなっております」とぼくがな んにも言わないうちに店員さんが慌てて釈明する。やっぱり今の若 者たちはテレビドラマなんかに影響されてしまって、こういう訳が わからないがちょっとスリルがありそうだわ、っていうのに魅せら れてしまうのだろう。あいにくぼくはこれには少しも惹かれること がなかったので黙ったままでいた。 "国際総合恋愛開発発展株式会社日本支局所沢出張所"というのが この店の正式名称らしい。ぼくの座っているところよりずっと奥の 壁にそう書かれた看板が掛かっている。その下にはホワイトボード があって、そこに、"先週の来客者リスト"という紙が磁石で貼り付 けられている。ああ、きっとここの社員の誰かが貼ったまま忘れて しまっているんだろうな、と思いながらそれを眺めていると、知っ ている名前があった。奥村正。大学の先輩でぼくにこの店を勧めた 人だ。彼の名の横にp19と書いてある。ちょうどぼくが今カタログ で開いているページだ。「二人きりの露天風呂――ねえ、あなた、 あっ、こんなところで、見られてるかもしれないわ、あ、あっ―― 山奥にはしんしんと音も立てずに降りつづける雪と熱く激しく強く そして美しく燃える二筋の恋があるのだった」と、ここまで読んで 顔を上げると、例の店員さんと目が合った。「お気に入りいただけ ましたか?」「いいえ」とぼくはすぐに答えた。それにしても先輩 は偉そうなことをぼくに言っておきながらあんまり趣味が良くない ようだ。困ったものである。 カタログのこのあとのページにも、けっこうすごいというか恐ろ しいというか恥ずかしいというかなんだかとにかくすごい、サービ スの数々が載せられていた。「男同士の恋―――二人で語り合い確 かめ合う奥飛騨(おくひだ)の秋」。これはすごいというよりは怖い と思う。想像するだけでも寒気がする。だって…気持ち悪いったら ありゃしないじゃないか、わざわざそんなところまで行って……と 思ってしまうわけなのだ。 「75歳老婆とのぎこちなくそしてせつ ない恋」っていうのもひどく怖い。これはもしかしたらずっと高齢 の人のためにあるサービスかもしれないけれど、でも…やっぱりい やだと思う。どう考えてもいやだ。仮に百万円積まれたとしても考 えてしまうだろう。ところが、これは、ちょうど百万円だった。も ちろん、もらうほうじゃなくて払うほうのだけど。 「東京ディズニーランド――シンデレラの城にて燃え盛る一夜の 恋の夢」は前に取り上げたのに比べたらずっと良いけれど、ぼくは この"一夜"というのがどうも引っかかった。それというのも、この "一夜"というのはそもそも恋とか愛とか言える代物じゃあないと思 うのだ。ぼくはだんだんいらいらしてきた。この女の店員さんも、 ぼくを茶化しているんじゃないかと思えるほど変に丁寧だったりす るし、この店だって事務所みたいにきたなくてしかもまともに恋を しようと思っているぼくなんかにとっては、とんでもないと思える ようなサービスばかり紹介してくるじゃないか。ぼくはついに立ち あがって彼女に言った。「ぼくはこんな訳のわからない恋を買いに 来たんじゃないぞ、人を馬鹿にするのもいいかげんにしろ」。 その時、店員さんも立ちあがった。そして深く頭をぼくに下げて 言った。「たいへん申し訳ございませんでした。しかし、まだご紹 介しておりませんでしたが、お客様にはきっと気に入って頂けると 思いますサービスがございます」。そして彼女はカタログの最後の ページを開いた。「宿命の処女と結ばれる――いたわりあいながら 強くそしてたくましく二人でいつまでも生き抜いていく、"忍ぶ川" 的純真純愛編」。 ぼくは確信した。これこそぼくに必要なもの。これこそぼくが求 めていたもの。そして永遠に変わらない愛を二人で大事に大事に守 り育てていくこと……それが本物の、そしてほかの誰でもないぼく 自身が追い求めていくべき真実の愛の姿である、ということを。そ れからぼくは自分でもびっくりするくらい大きな声で叫んだ。「そ の恋、買います!」。
その家は秋に取り壊されることに決まり、わたしは「見納めてお いで」と強く繰り返す祖母に負けて、一人で電車に乗った。 鈍行で三時間。寝過ごしそうになってあわてて下りた街は、既に ひとけがなかった。店仕舞いが早いらしい。一瞬無人かと思ってし まった、目の前を自転車が通りすぎていく。 夏の匂いがした。都心部で店を開く祖母にくっついて暮らすうち、 忘れていた匂いだった。 商店街を抜けて、地図の通りに歩く。迷いそうだ。 祖母に引き取られた時、わたしは物心がつくかつかないかだった。 一度も帰ることはなかったから、道を歩いても、よみがえる記憶な んてない。たどり着いた家にしても同じで、見るからに狭そうだと いう感想しか持てなかった。 錆色のトタンが張られている壁。屋根はくすんだ青。 平屋で、奥行きはあっても横幅がない。新築らしい家にはさまれ た格好はまるで、肩を竦めて萎縮してしまっているかのようだった。 住所のメモを照らし合わせ、鍵が合うことを確認しながら、まだ、 引き返してしまいたかった。 誰もがこの家を捨てて。帰ってきたのはわたし一人だ。 哀れでかわいそうな家。そのわたしでさえ、他人の家へ勝手に入 るように気持ちが悪い。玄関の、古いガラス戸を引き開けるときに は、「お邪魔します」と呟いていた。 ガラスタイル、よった布で編んだような雑多なマット。 薄暗い玄関は空気が悪くて、二分と居られそうになかった。汗ば む身体を拭いたくてたまらない。埃っぽい空気に纏わり付かれ、身 震いをした。たぶん、最後にそうじがなされたのは年忌のときだろ う。そのときもわたしは、ここへ来ることを拒みきっていた。 もう日が暮れるというのに。 布団やいろいろな、生活に必要な家具は置いてあるという話だっ た。けれどこの空気の中ではそれがどうだというのだろう。最小限 のものしか持たず、時間も考えずに来たことを悔やまなくてはいけ なかった。この家は無人なのだ。もう三年も。 しょうがない。 靴を脱いであがりこむと窓を片端から開けることにして、廊下を 渡った。右側の障子を開けて、小さい、畳と箪笥以外は何もない部 屋の窓を開けた。もののない部屋は壁ばかりが広くて、窓が小さく いびつに見える。外にはブロック塀と紫の花をつけた葵の木があっ た。敷居からそれを見返ったものの、なんとなく留まっていられな くて、わたしは機敏に動いた。 わかっていた。本当は、一番気持ちが悪いのは、中途半端に残っ ている人の気配だと。空気の中に生暖かささえ感じる気がして。 無人のくせに、そこかしこに痕跡が見つかる。手をついた柱に、 ステッカーが。ぼろぼろで絵柄が見えない。玄関のマットは手作り だった。 気持ちが悪い。 同じような部屋の窓をもうひとつ開けて、今度は廊下の突き当た り、ドアを開けて庭に面した座敷へ踏みこんだ。 お香の匂いが鼻を付いて、視覚の認識が遅れた。 心を飲みこまれた思いで立ち止まる。足が竦んだ。 当然閉めてあるものと思っていた、雨戸が開いていた。予想して いた暗闇でなく、西日の茜色が折り紙を折ったように射している。 縁側には少女が座っていた。大きな人形かと思った。白いワンピー ス。つやのある真っ直ぐな髪に、隠れていた顔がぎこちなく動いて こちらを向いた。 少女はわたしを見て、口を開いた。か細い声で言う。 「来ないで。みぃが消えてしまう。――消えたくないよう」 みぃ。それはわたしが小さい頃に呼ばれていた名前だった。祖母 がよく小さかったわたしの真似をして見せてくれたから、自分でも 「みぃ」と言っていたことを知っている。猫のような名だったと、 大きくなってからは思っていた。 少女はわたしだった。写真でしか見たことのない、「みぃ」が目 の前にいて口をきいていた。呆然とする一方で気がついた。 (そうだ、わたしはこの子を消しに来たのだ) あんたの家なんだから帰りなさい、と。今になって何度も繰り返 して聞かす祖母の手前、わたしは帰ってきた。でもこの家で暮らす 気なんて、はじめからない。一晩何も考えずに過ごして、それで帰 るつもりだった。 後のことは知らない。 もう二度と帰らない。 それで良かった。 一歩近づくと、本当にその姿がかすんで、少女が怯えて、わたし は戸惑った。 「消えたくないって?」 この家で暮らしていた頃の、わたし。希望にすがるような笑みを 浮かべ、頷いた。 一歩踏み出す。少女の姿はまた、擦れたように見えなくなりかけ る。わたしは後退った。踵を返して部屋を出て、廊下を渡り、玄関 でスニーカーを突っかけて外へ飛び出した。 飛び出したはいいけれど知らない街だ。どこへいっても景色は変 わらなかった。むちゃくちゃに角を曲がり、緑色のフェンスに隔て られた用水路に行きあたって、わたしは足をとめた。荷物も持って いなかった。 蜩の声が長く尾を引いて、水音に重なっていた。 水はフェンスの向こうで、勢い良く流れていた。コンクリートに 舗装された、茶色い水面は生き物のようにてらてらとして光ってい る。 (そうだ、縁側が好きだった) 身体を裏返して背をフェンスに預け、わたしは思い出していた。 あの、強く射す西日が好きだった。あの時刻にあの場所へ、その頃 持っていたビー玉やおはじき、果ては台所のガラスコップまで並べ て眺めるのが好きだった。光、光。その中に、影。 傍らにいたのは父だったか母だったか。遠すぎてそれすらもわか らない。わたしは故意に忘れようとしてきた。時とともに離れてい くものを、手繰り寄せようとはしなかった。そうするうちに完全に 思い出せなくなった。 だってそのほうがいい。 さっき目にしたばかりの頼りない笑みを、「みぃ」を思い浮かべ た。 「みぃ」は小作りで、可愛らしい少女だとはいえた。満面の笑みを 浮かべられたら、きっと愛された。 笑うこともあっただろうか。 少しでも、愛されていたんだろうか。 その考えは痛かった。いままで避けつづけて、ついに回答が出る ことも叶わなくなった問いだった。いまさら考えてなんになるだろ う。 振り返ると低い屋根の向こうに夏の空は、赤い色を残すだけで夕 陽はもう見えなかった。日が長いとはいえ、辺りの路地から闇に沈 んでいこうとしている。 消えてしまう。 ふと、思いが至った。 訊くことができるのかもしれなかった。「みぃ」になら。 わたしは再び走りだした。道を走り角を曲がり、古いアパートの 軒にある百日紅や、壁越しに見えるお堂に目をやり、路地へ入った。 最後の角を曲がって正確に家にたどり着いた。 座敷にはまだわだかまるような夕陽があった。かろうじてものの 輪郭が見えるほどの、余韻が残っている。 「みぃ」 走った後の、苦しい息の下で呼びかける。深呼吸をした。空気の 流れがある。風が通って、家の雰囲気はずいぶんと違って感じた。 不安を塗りこめるように、「懐かしい」という感情がやってくる。 その思いを。取り戻したがっているわたしがいたことを、はじめ て知った。いままで知らなかった。ずっと。 「――みぃは私」 家全体が笑った気がした。 両手を下げて、力を抜いた。わたしは無防備に、「みぃ」が戻っ てくる瞬間を待った。
女は鍋をかき回していた。 とろりとしたトマト色のシチューが仄かに湯気を立てる。 子供はテレビにかじり付いていた。 ざらざらと耳障りな音を立てる画面を一心に見つめている。 ダイニングテーブルの向こうでは長髪の女がパンを焼いていた。 小麦の焼ける甘美な匂い、トースターから吐き出されてくる焼き 立てのパンを待ち続けていた。 リビングには若い女が座っていた。ソファに腰掛けて小説を読み 耽っている。 その向うには淡いピンクのカーテンが引いてあった。 いかにも不自然な場所にかかっているカーテン。時折、ぎぃっと 不気味な音が響いてくる。 「!*@#」 シチューを煮ていた女が窓に駆け寄った。 スモッグに覆われた空の下を歩いて来る背広の影に大きく手を振 る。何かの欠けた表情、その目は外を見ているようでいて虚空を見 つめている。 「!!!!」 テレビを睨み付けていた子供がチャンネルをいじり始めた。何処 を回してもざらざらという砂嵐。無機質な顔で不快感を顕わにする。 狂ったように回し続けるチャンネル、変わらない画面。 「????」 長髪の女がトースターを覗き込んだ。 焦げ始めた小麦の匂い、出て来ないパン。バンバンとサイドを叩 き始めた。表情のない顔、ぎょろりとした目、長髪を振り乱して女 は狂ったようにトースターを叩き続ける。 「…………」 ソファの女がぎしっと動いた。 間接の繋ぎ目の軋む鈍い音がぎっと響く。手から単行本が落ちる。 ハーレクイン小説らしい甘いタイトル、夢も見ない目でうっとりと 追い続けた幾多もの甘いセリフ、いつか来る仮想の日を待ち続ける 感情のない目、吐き出されることのないため息。体中を軋ませて拾 い上げると再び字を追い始めた。 「****」 時折ぱさりと揺れる淡いピンクのカーテン、鈍く軋むベッドの音。 影が時折カーテンに映る。重なり合う二つの影、影に合わせてベッ ドが軋む。表情のない目、覆い被さる男の重さを受け止めるのは感 情のない顔のやはり、男。不快音と共に揺れる影、聞こえない吐息、 軋むベッド。営みは続く。 「!!!!」 シチューを煮ていた女が小走りにドアに駆け寄った。背広の男が 帰って来た。ぎしぎしと鳴る関節で抱擁を求める女、どろりとした 表情で女を抱き締める男、女の口元に笑みが浮かぶ錯覚。やがて女 に手を引かれて男は食卓に付いた。テレビを見ていた子供が同時に テーブルに座った。男の隣りでシチューを待つ。未練がましそうに トースターを叩いていた女は、それに気付くと食卓に着いた。 ソファの女は興味なさそうに小説を読み続けていた。表情のない 目で見せるため息をつく仕草。はらり、はらりとページをめくる。 読み終えては始めに戻り、また読み終えては始めに戻る。 カーテンの陰の影は、絶えることなく動き続けていた。あからさ まな不快音を響かせながらも止むことのない淡い狂気。 シチューを皿に分けた女は配膳を済ませると自分も席に着いた。 どろりと赤い液体、鼻につくペンキの匂いのシチュー、がしゃがし ゃと食器を鳴らし、ぴちゃぴちゃと音を立てて子供が食べ始めた。 トースターの女が不快感を顕わにする。男は何も言わずに黙々と吸 い続ける。それを見たシチューの女は満足げな顔で食べ始めた。 ソファの女は相変わらず甘ったるい小説を読み続けている。時折 虚空を仰ぎながらひたすら読み続けている。 ガシャン、と子供が皿を引っくり返した。赤い液体が飛び散る。 埃にまみれた床の上に、鮮やかな程きつい赤の糸を引かせて液体は 流れ始める。新しいシチューをねだる子供、シチューを継ぎ足す女、 黙々と食べ続ける男、長髪を掻き揚げて啜るトースターの女、食器 のぶつかる不快音を立てて再び食べ始める子供。 カーテンの向こうの影はまだ動き続けていた。食事をする者たち のすぐ近くで続く狂乱の宴、倒錯した前衛的狂気。 全てを内包した空間は当然のように全てを許し、存在し続ける。 半永続的無機質な空間、生気のない生が同居する異空間、だが確か に存在する微かな表情の起伏。 「!?!?」 バタン、という荒々しい音と共にドアが開いて体格のいい男が二 人、入り込んできた。運んで来た木製の箱をどさりと床に置く。ふ わりと埃が舞った。ピタリと動きを止める住人たち。シチューの女 は鍋を持った格好で固まった。男はスプーンを口に運ぶ途中で固ま る。皿ごと飲もうとしていた子供は前屈みのまま動きを止めた。更 に、髪を掻き揚げたままの格好の女、思わず落とした小説を拾えず に固まったソファの女、折り重なったまま動きを止めたカーテンの 影。 全ての動きが止まった空間で動くのは突然の乱入者。木目の無い、 生身の人間。皆、動きを止めたまま次に起こるべき事を息殺して待 ち続けている。 やがて、乱入者たちは箱の蓋を開けると、中から人形を取り出し た。出て来るのは派手な衣装の男女が七体、表情もそれとなくつい ている。明らか進化した人形たち。彼らをそこここに立たせると、 乱入者たちはソファの女を持ち上げた。木製の体、物凄く軽い、空 になった箱にどさりと投げ込んだ。次は食卓でシチューを飲んでい た男、やはり乱暴に投げ込まれる。そしてシチューの女、前屈みの 子供、髪を掻き揚げたままのトースターの女。積み上げるように次 々と投げ込まれていった。そして蓋を閉めかけた時に乱入者の一人 が鋭く制した。カーテンに歩み寄ると一気に開け放つ。絡み合った 二つの木製人形、顔をしかめながら持ち上げるとそのまま投げ込み、 辺りを見回して蓋をした。そして、箱を抱えて部屋を出た。 「…………」 ごとごとと運ばれる感じの中で一番下がメキっと言った。関節の 折れる音、ソファの女が二つになった。他の人形たちは無機質な表 情で揺れ続ける。やがて、何か乗り物に揺られるような感じがしば らく続いた後で不意にごおっ、という音に包まれた。パチパチと鳴 る箱、すぐに視界が赤く染まる。燃え盛る炎のよう、いや、実際に 彼らは燃え始めていた。火の廻りが早い。木はよく燃える。バチバ チと一体ずつ形を無くして行く。最後まで息の続いていたのはシチ ューを飲んでいた男か、一番上の二人なのか。だが、それは僅かの 違いでしかない。やがて、全てが緋色に染まり尽くした。 新しい住人を迎えた部屋は、今までの無機質無音な空間とは違い、 派手なライト、賑やかな音楽で満ちていた。陽気な住人たち、彼ら にもいつか来る緋色の悲劇など知らずに騒ぎ続ける。 かつて子供が見続けていたテレビを見る者はいない。砂嵐だけが 流れ続けている。その音も派手な音楽に掻き消されて誰にも気付か れることはない。 ふ、と画面が切り替わった。音の無い真っ青な画面、しばらくそ れが続いた後でテロップが流れ出した、それは。 名前。 今まで、ここに住んでは連れて行かれた住人たちの名前。 そこにはシチューの女の名前も、ソファの女の名前もあった。勿 論、今ここにいる住人たちの名前も。 やがて、全てが流れ終わると再び砂嵐に戻った。そして、誰にも 気付かれる事の無いまま消える。消えそうな色でそっと一文字を吐 き出してテレビが消える。 そこには、終焉を告げる一言が映し出されていた。 ……END、と。 流れ続ける音楽、宴は続く。 人形たちの宴は、続く。
亜矢がなぜ、この海を永眠の場所に選んだのか、彼女の夫は、散 骨を終えてもまだ首をひねっていた。サンタモニカ沖から港に戻っ たクルーザーから降りる参列者一人一人に、彼は丁寧に礼を述べる。 「遠いところ、ありがとうございました」 「主人も来れるとよかったんだけれど」 「お忙しいでしょうから。あなただけでも来てくれて感謝していま す」 私は差し出された手をそっと握り返した。若くして妻を失った男 の手。それは暑い午後にも拘らず、汗ひとつかいてはいなかった。 ホテルに戻ると、私はタンクトップとジーンズに着替え、再びビ ーチへ向かった。十年前のおぼろげな記憶を辿り、亜矢とあの日、 立ち寄ったビーチ・バーを探す。ブルーのペンキが剥げかけた壁。 再訪を待っていたかのように、何ひとつ様相の変わらないそのバー の前では、若者たちがビーチ・バレーに興じていた。 私はクアーズを買って、外のテーブルに座る。灰皿があるのを確 かめてからセイラムに火をつけると、死の直前に見た亜矢の指が、 煙草と同じくらい細くなっていたことを思い出さずにはいられなか った。 病魔は恐ろしい速さで若い彼女の身体を蝕んでいったのだ。 「あの旅は楽しかったわね」病の床で、彼女は私に言った。 海を愛し、世界各国を旅して周った亜矢。けれど、『あの旅』が いつの旅なのか、問い返さなくても、私にはわかっていた。 学生最後の夏休み、アメリカ西海岸を二人で周った。最後に訪れ たサンタモニカでは、朝からビールを飲み、地元の男の子たちにサ ーフィンを教わり、カクテルを奢ってもらい、日が暮れ始めるまで ビーチで過ごした。ほろ酔い気分で帰り支度をしていると、別のサ ーファーが近づいてきて、言った。 「パーティがあるんだけれど、来ないか?」 胸の奥では警鐘が鳴り響いていたけれど、開放感と好奇心と、若 さゆえの向う見ずな決断力を押しとどめることは出来なかった。 オープン・カーでハイウェイを走った。サンセットの奇跡のよう な美しさが、魂までをも染めていくような気さえした。カー・ラジ オから流れる声は、風の音にかき消され、すれ違ってゆく車の騒音 と、笑い声と、聞こえるはずもない波の音だけが耳に届いた。亜矢 の頬は、まさに水平線に消えていこうとしている瞬間の太陽の光に 照らし出され、笑顔にこぼれた白い歯は、輝いていた。 案内された家では、若い男女が集まり、ポップソングが鳴り響き、 狂乱の騒ぎの最中だった。そこでまたビールを飲み、踊り、夜も更 けた頃、亜矢がはしゃぎながら一人の青年と寝室に消えた。その後、 私も誘われるまま、今となっては名前すら思い出せないブロンドの 男と、朝まで共に過ごすことになった。 誰の人生にも青春という時代が確かにあるのなら、それは、その めくるめくような時を、まさに凝縮したような一日だった。 バレーボールが足元に転がる。 「失礼」拾い上げて再びコートに戻る少年は、ウインクをしながら、 さらに投げキッスをしてみせた。それでも、十年前ならその先に続 く、歯の浮くようなセリフがきっと用意されていたのに違いない。 何もなかったかのようにゲームに戻ったその少年が放ったボールは、 白砂のコートに、見事な弧を描いた。 二本目のクアーズを空けたところに、黒い服に身を包んだ男性が 近づいてきた。私は驚いて彼を見上げる。亜矢の夫だった。 「やあ、こんな所で。あれからすぐいらしたんですか?」 「ええ」私はチェアをずらして、彼をテーブルに招いた。 「今日は本当にありがとうございました」彼女の夫は繰り返す。 「時差ボケでね、酔って寝てしまおうと思ったんですが。ホテルで 一人で飲むのは味気ないし。気分転換にね……」 そう言ったきり彼は口を閉ざし、しばらくの間、穏やかな波を見 つめながらハイネケンを飲んでいた。 「僕はね、パラオかモルジブあたりかな、と思っていたんです」 「え、何が?」 「散骨の場所です。死んだら遺骨は海に沈めてくれって、まだ元気 な頃から、彼女は僕に、しつこいほど言っていたんです」 亜矢の遺言は、通夜の席で初めて聞かされた。 『骨の一部を、サンタモニカの沖に散骨して下さい』 私は答えることが出来ず、空になったクアーズの缶を指先で回す。 「パラオへは何度も潜りに行きましたから。モルジブは新婚旅行の 地だったし」妻と共通の趣味を楽しむために、彼はダイビングのラ イセンスをとり、休暇の度に南の島へ彼女を連れて行った。 「もう少し飲みませんか」再び押し黙った彼に、私が訊いた。 「そうですね、もう一本だけ」 私はバー・カウンターで二本のハイネケンを買い、席へも戻ろう とした。 「サンタモニカは、貴女と一緒だったんでしょう」振り向きもせず、 彼は海を見つめたまま言った。私はその問いから逃げるように、喪 服姿は、なんてカリフォルニアの海に似合わないのだろう、と考え た。「大学の卒業旅行だったそうですね」 「はい。シアトルから南へ下ってサンフランシスコを訪ねたあと… …」 「知っています」彼は私の言葉を遮って、ビールを一気に流し込み、 大きな息を漏らす。「ルーズな彼女が、その時の写真だけはきちん と整理してアルバムを作っていたんです。でも、おかしなことにサ ンタモニカでの写真がない。この地の写真だけないんです」 私のアルバムにも、ない。シャッターを押す暇さえ惜しいほど、 楽しすぎる時間だったのだ。 「話すら聞いたことがない。最後にサンタモニカに寄ったのよって、 それだけしか聞かされていない。彼女が死ぬ前は、気にもしなかっ たことですけれど」 私も、そうだ。私もよ、亜矢。夫はもちろん、誰にも話していな い。あのサンセットの情景を言い表すことが出来ないのと同じよう に、どんなに美しい言葉をもってしても語り尽くせない、そう、あ れは生命の終わる時まで胸の奥にしまっておくべき一日だった。そ うよね? 「たしかフィルムが終わって。最後の一日だったし、買い足さなか ったのだと思います」声が微かに震えていた。 「そうですか」ビールの缶がそっとテーブルに戻された。乾いたそ の音が、早くも彼の酒が空になったことを告げていた。 「お話できてよかった。ようやく眠れそうです」彼の両目は既に赤 く縁取られている。「お先に失礼します」 彼が歩き出した時になって初めて、私はずっと以前、亜矢から、 彼女の夫が下戸であると聞いたことを思い出した。 私はしばらく呆然と、沈み始めた太陽と、その日最後の残照を映 し出した海を見つめた。大好きだった友の眠る海。これより先も他 人に聞かせることは決してないであろう、ほんの一日の出来事を語 り合える友人を、本当に、私は失ってしまったのだ。 こみ上げる嗚咽を抑えようと、両手が自然に口元を覆う。 「まだ酔うには早い時間だぜ」 気がつくと、先ほどの少年が目の前に立っている。 「パーティがあるんだ、一緒にどう?」 パーティ……。眩しいほどにきらびやかなあの場所に、私は今、 馴染むことが出来るのだろうか。 私はそっと首を振った。誰もが青春という時間を過ごすことが出 来るのならば、すぐ目の前にある輝きに、背を向けなければならな い一瞬も、人生にはきっと、あるのだ。 少年が去った後、私はひとしきり泣いて、立ち上がった。サンセ ットの美しさは、若さの峠にさしかかった女にはあまりにも残酷な 色だと、真紅の海で眠る親友に別れを告げながら私はぼんやりと考 えていた。
猫が空を飛ぶようになって、七十年。 「そうか。話は大体分かった」 小野田雅彦の顔は、シミとシワだらけで、まるで岩のようだった。 「坂部さん、と言ったかな?」 小さな家の、これまた狭い畳敷きの部屋の中には棚が並んでおり、 ぎっしりと凧が詰まっている。その真ん中に座っている小野田は、 ほとんど家と一体化して見えた。 「は、はい」 スーツ姿の坂部直之は頷く。 「せっかくの機会だ、空猫猟を見て行っちゃどうだい?」 「え?」 思い掛けない申し出に、坂部は戸惑いの表情を浮かべる。 「いいんですか?」 「ああ。こんな小さな町じゃ、もうすっかり飽きられてな。誰も感 心してくれん」 小野田は声を出して笑う。 「でも、あんたも何度か見たか」 「いえ、伝統的な空猫猟は見たことありません」 「伝統的、か。まあ、他の奴より古いのは認めるが」 寂しげとも誇らしげとも取れる顔だった。 「さ、行くか」 「はい」 「そうそう、上着は脱いでおいた方がいいな。それにネクタイも」 「え?」 「空猫の爪は鋭いからな。せっかくの服が台無しになる」 「ああ、なるほど」 素直に坂部は上着とネクタイを外した。 小野田は、棚に並んだ凧から何のためらいもなく一つを取り出し た。 「夏猫はこいつがよく掴む」 アルミ合金の骨を使った凧には、薄いファインメタル織りの布が 張られ、ゆらゆら揺れる猫じゃらし風の尻尾が数本ある。さらに、 凧の中心の骨に、布に垂直な向きで金属の輪が直角に付いていた。 「へえ、綺麗ですね」 「空猫の懸賞金が高かった頃の流行りだよ」 彼は凧糸を二本凧に結ぶ。 「よし」 「え? これで終わりですか? トリモチと電池は?」 不思議そうに坂部は凧を眺める。金属部品で作られてはいるが、 機械は一切ない。 「本物の空猫猟師は、ずっとこれでやって来たのさ」 小野田は、凧糸の一本を引っ張る。 ――すっ。 目にも見えない早さで、音もなく金属の輪は締まった。 小野田の家から出ると、急に波の音が大きく聞こえ始めた。 手を伸ばせば届きそうな場所に海が見える。 「昔は海ももっと遠かったんだがな」 曇り空でなければ、水面は太陽の光を反射して美しく輝いたに違 いない。 「どこで捕るんですか?」 「空に区切りはないさ」 凧を持ったまま、小野田は空を見上げる。釣られて見上げた坂部 だが、空猫の姿は見えない。 「鳥を喰い尽くしたもんだから、港ばっかり狙いやがる」 誰に言うでもなく呟いて、小野田は凧を置いた。 「ふんっ!」 小さな気合いと共に、一気に糸を引く。 ばさっ! 凧は夏風を掴み一瞬のうちに浮き上がる。 坂部が感嘆の溜息を洩らす間もなく、凧はぐんぐん昇っていく。 小野田の手の凧糸玉が、みるみる小さくなり、凧も点にしか見えな くなってしまった。 「凄いですね」 決して風が強い日ではない。 「これぐらいのことで驚かれてもな」 照れと自慢の入り交じったような笑みを浮かべ、小野田は二本の 糸を操る。 「あっ」 目を凝らしていた坂部は、小さく声を上げた。 黒い点のようなものが、同じく点のような凧に近付いて来る。 「あれ、空猫ですか?」 小野田の返事はなかった。 表情が一瞬前とまるで変わっていた。獲物を狙う鋭い目は、高齢 を感じさせない。 小野田は、糸の一本を――確か、輪を開け閉めする方の糸を小刻 みに引っ張っている。すると、凧はまるで意思のあるもののように 動いた。 「舵と兼用なんですね」 独り言とも話し掛けているとも取れる声量で、坂部は呟く。 それから十秒ほどふらふら動いていた凧は、突然すーっと空猫か ら離れた。その動きに誘われるかのように、空猫は凧に猛然と突進 する。 「どっ!」 言葉の体を成していない気合いと共に、小野田は輪を締める糸を 引っ張った。途端に空の点は一つになり、不規則に暴れ始める。 「捕らえた……」 坂部は感嘆の溜息を洩らした。 ぐっと歯を食いしばった小野田は、足を踏ん張っている。 筋肉の衰えた、このまま飛ばされそうな細い身体。だが、小野田 の目は獲物を決して逃がさない、冷静な獣のよう。 絶対空猫は逃げられない。 坂部は確信した。 小野田は輪を締める糸を弛めぬまま、凧を支えている糸を操り、 三秒もしないうちに凧の態勢を整えた。 「おお……」 坂部の口から、無意識の声が洩れる。 空猫は横に飛び、凧から逃れようとした。だが、小野田は巧みに 糸を弛める。抵抗がなくなり、勢いが付き過ぎた空猫は止まろうと するが、その瞬間を突かれ、元いた位置に戻されてしまう。 上、下、左、右、前、後、あらゆる動きをして凧から逃れようと する空猫。しかし、小野田の凧糸さばきはその全ての動きを柔らか く受け流した。 そして空猫の動きが小さくなって来た頃。 「だっ!」 小野田は一気に糸を引き寄せる。 一瞬でも輪を締めている糸を弛めば、空猫は逃げるに違いない。 いや、二本の糸がたった一回ねじれただけでも、輪に締める力は伝 達されない。 しばらく引き寄せたところで、空猫が再び暴れ始めた。 すると、小野田は足をじっと地面に据え、再び動きを受け流す。 そして空猫を疲れさせ、また糸をたぐる。 そして、ついに凧は地面にふわりと降り立った。 「ふぎゃあああっ!」 凧には、輪で胴体を締められた白い空猫がくっついている。 小野田は輪から外した空猫の首根っこを掴み、箱に放り込み――。 ぱたん。 すかさず箱の蓋を閉じ、カギを掛けた。 中で空猫の暴れる音が聞こえる。 「凄いですね、なんて言うか……凄いですね」 「本当はな、降ろさないままで三匹は捕れるんだよ」 「そうなんですか?」 「ああ」 小野田は空猫を入れた箱の上に腰を降ろした。 「季節がな、悪い。空猫猟の季節は、俺が子供の頃から秋って決ま ってるからな」 「へえ」 「よく、田圃の上なんかに山ほど空猫が来て、雀や烏を捕ってたも んだよ」 「そうなんですか」 箱の中では、まだ空猫が騒いでいた。 「さて、こいつは逃がさなきゃならねえんだったっけな?」 小野田は箱の上からどいた。 「はい」 うつ向き気味で、坂部は答える。 「お役所ってのは勝手なもんだな、しかし。空猫が出始めてすぐは、 懸賞金まで掛けて殺してたもんを」 「ええ、それは」 「今は、一匹も殺すな、か」 苦々しげに小野田は箱を蹴る。静かになり掛けていた空猫が、ま た騒ぎ始めた。 「農業試験場から洩れた遺伝子汚染生物で、絶対悪じゃなかったの か? こいつは」 「で、ですが、空猫をこれ以上減らしてしまえば、空猫が鳥類を絶 滅させた時以上の生態系の変動が起こってしまいますので……」 「とと、すまねえ。あんたに八つ当たりすることじゃねえや」 ぴしゃりと小野田は自分の額を叩いた。 「ただの年寄りの愚痴だ、聞き流してくれ」 「いえ、お察しします」 声が喉に引っかる。坂部はぐっと奥歯を噛みしめた。 「正式な禁漁までどれくらいあったかな?」 明るい声で小野田は尋ねた。 「は、はい、来年度からの実施になりますので、あと八ヶ月です」 「そうか。まあもっとも、役所の懸賞金がなくなってからこっち、 空猫猟なんてしなくなってるからな」 小野田は箱のカギを外し、蓋を開けた。 ふわっ。 箱の中から飛び出した白い空猫は、瞬く間に天高く昇って行った。 捕まっていたことなどすっかり忘れてしまったかのように。 鳥一羽いない曇った灰色の空に、白い空猫はやけにはっきり、い つまでも見えていた。
松山はふと書類から目を離した。天井に並ぶ蛍光灯が、規則正し く明滅を繰り返していた。 (日曜にまで、会社に来ている罰かな)広いオフィスでひとり、苦 笑していると、光の揺れは元通りになった。 松山は机の隅にある写真を手に取った。 ――ユミはね、パパと結婚するんだから。 大真面目で言った娘の顔を思い出して、うんうん、結婚してやる からなと松山は写真にキスをした。可愛いざかりのその娘は、写真 の中で、いつまでも無邪気な笑みを崩さない。 松山は時計を見た。午前二時を過ぎている。疲れた目をぐいとこ すり、改めて書類を見た。 「E社の出荷したソーセージは……いたが、資金繰りや……結果の 人事異動」 そこまで読んで松山は再度顔を上げた。二、三十はある蛍光灯が、 やはり等間隔に明滅を始めたのだ。 (読めないほどじゃない) 舌打ちをして、改めて書類を取り上げる。「人事異動を経て、最 終的に、豚の輸入を取り決」 その瞬間、一斉に光が消えた。 「くそっ」思わず足をぶつけた机に悪態をついて、松山は手探りで 廊下に出た。突き当たりの非常灯も消えているし、エレベーターも 動かなかった。 「停電なんて、聞いてないぞ」 階段には、手すりがついていたから、下るのに大きな支障はなか った。松山は六階のオフィスから、守衛室のある一階まで下りてい った。停電にしろ、何にしろ、懐中電灯でもなければ、家に書類を 持ち帰ることもできはしない。 (仕事を家に持ち込むのか……)目くじらを立てる妻の顔を容易に 想像できる。起こさないようにしなければ―― と思っていた矢先、松山は床に足を滑らせた。尻をしたたか打っ て、黒い視界が瞬間真っ白くなった。 「……っつ――」数え間違えていなければ、そこは一階のはずであ る。顔を歪めて立ち上がろうとして、松山は床のヌルヌルするのに 気がついた。 「あンの掃除のジイサンは……」ビル掃除の老人は、洗剤を拭き忘 れて帰ることが、よくあった。 手すりを伝って立ち上がりながら、松山はズボンに手を当て、湿 っていることに苛立った。人の気も知らないで、と思った。こっち は娘の顔も見ずに働いているんだぞ――手のぬるつきが、とれなか った。 壁を伝って歩いていくと、向こうから光が、ゆっくりとこちらへ 進んできた。床を照らしていた明かりは、不意に松山の顔を照らす。 闇に慣れた目を通して、頭骨の裏側まで照らされたと思うほど、強 い光に感じられた。瞳を強く閉じ、光の余韻を追いやりながら、松 山は聞いた。「すみませんけど……守衛さん?」 「ええ、そうです」しわがれた声が光の向こうから聞こえた。「お 仕事ですか」 松山は苦笑した。「はぁ、停電でしょうか」 「それは難儀でしたなァ。ヒューズがとんじまったのかも、しれま せんなァ」相変わらずしわがれた声だった。咳払いの一つもしない ものか、と聞いている松山がむずむずする。「地下までちっと、見 に行こうかと思ったんですわ」 「……ご一緒しましょう」と松山は言った。『ヒューズ』という言 葉の古さに、笑いそうになった。この声も、トシだからだろう。 松山は、妻を怒らせることは避けたかった。すぐに直るのなら、 そっちの方がいい。ここで待つのも気味が悪いではないか。 足下、気をつけて下さい、と階段で言われ、松山は思いだした。 「ちょっと光をくれませんか」 松山の両手に光が当たる。――あれ、と思った。つい今まで濡れ ていたと思った手が、すっかり乾いている。ズボンもまた、同様だ った。 「どうかしましたか」 「いえ……階段が濡れていたもので……」と光は松山から離れて床 を這った。しかし床は普段通り、乾いていた。 「気のせい……だったのかな」 「そういうこともあります」しわがれた声が答える。二人は地下へ 下りた。 地下には部屋がなく、変電機やブレーカーなどがあるだけだった。 一番奥の、クリーム色をした箱に光が当たり、キラッと光った。 箱の目の前まで来て、光はふっと足下を照らした。松山がつられ て下を見たとき、かちゃんと音がして、箱が開く。光は箱の中のパ ネルに戻った。 暗闇で、よくボタンを押せたものだ――と松山が思っていると、 「おかしいですなァ」と真横からしわがれた声が聞こえた。 パネルを見ると、黒く並んだスイッチはどれ一つとして落ちてい ない。停電じゃないんですか、と松山は言った。 「そんな話は聞いてませんよ。――しかし、問い合わせてみましょ うか」 光が階段の方に向けられた。暗がりで、かちゃん、と箱が閉じら れた。 一階に戻り、松山は、ふと違和感のようなものを覚えた。はっき りとはわからなかったが、空気の流れが、変わった、というように 思えた。 歩きながら、「ちょうどこんな感じでしたなァ」 「何がです」松山は光を追って聞いた。 「前の職場でなんですがね、残業で遅くまで男の人が残っていたん ですよ。そこに強盗がやってきましてなァ。金などないところでし たから、強盗は怒り狂って、残業していたその男を刺したんです」 松山はつばを飲んだ。残業でビルに残っていた男……。「その、 強盗は、どうなったんです」 間髪を入れずに答えが返ってくる。「守衛がやってきて、捕まえ たんです」 松山は吹き出した。そういうオチか、と思った。「なら、あなた といる限りは、安心ってことですね」 しかし、それには答えがなく、「……着きましたね」とだけ言っ た。光が、闇に沈んでいる守衛室の窓ガラスを照らした。反射光で、 松山のワイシャツがぼぅと映し出された。 ――しかしその時、光の持ち主は、そこに映らなかった。 「……あ、え?」 「どうかされましたか」しわがれた声が言った。 「いや……ひょっとして、あなた――」 その時、光が不意に闇に呑まれた。 松山は叫び声をあげて外へ飛び出した。 あの男が、強盗だったのだ! ――と思う反面、なぜ映らなかったのか、とも思った。わけが、 わからなかった。 松山は近くの交番に飛び込んだ。あわてて事情を説明したが、若 い警官は取り合わなかった。松山を見ようともしなかった。大方、 疲れているんじゃないですか、と決めつけた。口に出しはしなかっ たが、松山を酔っぱらいとでも思っているらしい口振りだった。松 山はよろめきながら交番を出た。 ビルに戻るわけにもいかず、松山は家へ向かった。その途中で、 気がついた。日曜の夜遅くまで、守衛は残っていないのである。そ して……あの床。掃除夫は、平日にしか来ない。 家へたどり着くと、いまだ起きていた妻が小言を言うために玄関 までやってきて、びくりとその場に立ちすくんだ。 「何を……したの?」 「……何って、つらい、残業だよ……それが?」答えながら、松山 は妻の反応をいぶかった。 だってあなた、と妻は言った。両手が真っ赤よ……。 明くる朝、出社しようとし、ビルの前にパトカーが駐まっている のを見た。エレベーターで六階まで上がると、オフィスは異様なざ わめきを見せていた。松山は、妙な胸騒ぎを隠しながら、同僚をつ かまえた。 「泥棒だよ泥棒」わざと恐面をつくって同僚は言った。人垣から中 をのぞくと、あちこちに資料や何やらが散らかっていて、警官がう ろうろしていた。 松山の身体が冷たくなった。松山は感づいた。 ――あの話が本当だとすると、あれは守衛や強盗なんかじゃなく て―― すぐ横で、同僚がつぶやいた。「ウチに盗みに入ったって、盗る ものなんざないのになあ」
長い間、ただ堅実で人並みに幸せな生活を送ってきました。 四十年余り勤め上げた会社も一昨年に定年を迎え、今は妻と共に穏 やかな老後を過ごしています。まだ若い時分、妻が或る病にかかり、 とうとう私達の間に子供は産まれませんでしたが、それはかえって 私達夫婦の絆というものをより強くしたのではないかと思うのです。 両親とは同居をせず、二人きりの家庭でしたが、私達は共働きと いう型を取っていました。それは二十歳時分の私の稼ぎでは心許な いという事も多少ありましたが、家庭ではない居場所が妻には必要 だと考え、二人で相談した結果の事でした。 そうして共働きの生活が始まったのですが、変わった事と言えば、 朝食を私が作るようになった事ぐらいで、私にはこれといった大き な変化はありませんでした。妻の方も「朝、ゆっくりと起きられる」 と笑っていたのを覚えていますから、思っていた程の負担は掛かっ ていない様でした。時折、仕事の後に少し高めのレストランへ二人 で行くようになった事が、変わった事と言えるかも知れません。 私達は充実した毎日を送っていました。同じ様な一日が繰り返さ れるだけではありましたが、時間の流れの早さに焦りや苛立ちを覚 えない程に幸せな毎日を送っていたのです。しかし、そんな日常、 あるいは平穏な日々と呼べる毎日は、妻の両親の死、という形であ っけなく終わりを告げました。 私が四十八歳、妻が四十七歳のときでした。義父が倒れたと義母 から連絡があり、私達は直ぐに病院へ向かったのですが、義父は病 院に着く前に息を引き取ったという事でした。この事での心労が祟 ったのか、四日後、義母は後を追うように亡くなりました。この日 から妻は時折、今までとは違う一面を私に見せるようになりました。 今回の事は妻の胸に余程深い傷残したのでしょう。それから一月近 くの間、妻は一言も喋ることはありませんでした。まともに食事も 採らず、眠らず、幾ら私が話し掛けても返事が返ってくる事はなく、 私はこのとき初めて妻に対して苛立ちを、いえ、嫌悪感さえ抱いて いたのかも知れません。 妻が喋らなくなって一月が過ぎた或る日、私は食卓の椅子に座る 妻に向かい、 「散歩でもしないか?」 と誘いました。期待もしていない返事がやはり返ってこないことを 確かめると、わざと大きな溜息をつき、それを最後に妻に話し掛け ることを止めました。勝手な事とは思いましたが、妻の勤めている 会社に辞表を出したのもこのときでした。 それからの毎日は家にいることが苦痛で仕方なく、同僚と部下と 友人と、人を換え場所を変え、遅くまで飲み歩くことが増えていき ました。少しでもあの灯りの無い、音の無い家で居る時間を避けた かったのです。今の妻を見る度に今までの妻が思い出され、また現 実を突き付けられるのが辛かったのです。 飲み歩く日が一月程続き、その日も家に着いたのは十一時をまわ っていました。タクシーを降り、ふと、自分の家を見上げるといつ もと様子が違う事に気付きました。かなりのお酒が入っていました が、玄関に灯りが付いていたので、家の様子がいつもとは違うこと は一目瞭然でした。何かあったのかと思い、慌てて玄関のドアを開 け、靴を脱ぎ散らして台所へと駆け込むと、そこには浴衣を着た妻 が流しに浸けた菊の花をじっと見つめていました。 「どうしたの」 私は妻に話し掛けました。話し掛けた後であっと思いましたが、妻 は何事もなかったかの様に 「お墓参りに行きません?」 と応えました。 「知っています? お盆には死んだ人達が帰ってくるのですよ」 私は妻の言葉に狂気を感じました。妻が喋っている事にさえ気付か ず、気圧され、言われるままに首を縦に振っていました。 私は用意されていた浴衣に着替え、部屋の電気も消さずに家を出、 妻と共に車に乗り込みました。車の中で妻は何も話しませんでした が、死にに行くつもりだろうと感じていました。何時かはこんな日 が来るのではないかと、薄々感じてはいましたが、それとは裏腹に 酔いは一気に醒めていました。暫くして墓地に着いても私はまだ決 心が付かず、車から降りる事が出来ませんでしたから、「煙草を吸 いたいから」と、適当な理由をつけ妻を先に行かせました。そして 煙草の箱を持ったときに、初めて自分が震えている事に気が付きま した。大きく震える手がどうしようもなく、くわえ煙草でゆっくり と二本吸いましたが、手の震えは結局止まりませんでした。しかし、 決心は付きました。車からゆっくりと降り、下駄の音を小さく鳴ら し、妻の待つ所へと向かいました。考える事など無かったのです、 私は今までずっと妻と共に生きてきたのですから。 一面に広がる石の草原に灯籠がぽつりぽつりと灯り、ただ綺麗と しか言い様のないこの空間が地獄の様にも天国の様にも見え、目前 にある死に畏怖を覚えるはずが、その中に妻の姿を見つけると、気 でも違ったのでしょうか、何だか口元が緩むのでした。 「もう、お参りはしてしまったのかい?」 妻は黙ったまま、首を横に振りました。 「じゃあ、一緒に」 と言いながら腰を落とそうとしていた私を、妻の言葉が止めました。 「その前に、一つ聞いてもらいたいことがあるの」 待っていた言葉に私は眼を閉じ、優しく応えました。もう覚悟はし たのですから。 「何?」 「ごめんなさい」 「・・・うん」 「・・・父さんと母さんが死んでね、死んだ人とはもう二度と逢えない っていう事がどういう事か初めて分かったの」 「・・・・うん」 「それでね、二人はもう居ないんだって、その事で頭がいっぱいに なって、その事だけしか考えられなくなって、気付いたら私の側に は誰も、あなたさえ、もういなかったの。本当に私、独りになった んだなって、そう思うと不安で、怖くて、たとえ死んでなくても自 分の周りに誰もいなくなると、私はもう生きていないんだってそう 思って、これ以上独りで居ると消えてしまいそうで、死んでしまい そうで、・・・だから、・・・だからお願い、私を一人にしないで、・・・ず っと側にいて、・・・・・・・そして一日でいいから、私より長く生きてい て欲しいの。・・・・もう一人じゃ・・・」 妻は泣いていました。これが結婚して初めて見せる涙でした。私 などが思っていたよりも妻は、ずっと、ずっと強い人でした。寂し さの余り自殺などを考え、死にたかったのは弱い私の方だったので す。私は妻のせいにしなくては、一人で死ぬ事さえ出来なかったの です。謝るべきは私の方なのです、ですから、・・・・ですから。 ・・・涙が溢れてきて、もう頭がいっぱいになって何を考えればよい のか、何と言ってやれば良いのかも分かりません。ただ、これまで 妻を想ってきた事が全て偽りのものに感じる程、妻を愛おしいと思 いました。 帰りの車の中で私は少し照れながら 「いつも君の傍らに在りたい」 堅苦しい言葉でしたが、私はそう妻に伝えました。 「濡れ落ち葉と呼ばれる頃になっても?」 妻の意地悪な言葉に私は安堵と、懐かしさと、温もりを感じ、妻の 手をとりました。 「仲のいい夫婦って呼ばせるさ」 それから間もなくして、死に対する極度の畏怖からでしょうか、 妻は脳に軽い障害を持つ事となり、それはゆっくりと進行して行き ました。今ではもう正常な妻の姿を見ることは殆ど無くなりました が、私達はただ流れてゆくだけのこの時間を幸せに過ごしています。
「珍しいじゃない、キヨくん」 こちらを見ようともせず発した彼女の第一声は、それだった。マ ンションの一室を改装してつくったアトリエ。中央に置かれたイー ゼルには白いカンバス。そして、そのカンバスにむかって一心不乱 に筆をふるう彼女――夏川夏子さん。冗談みたいな名前だけど、彼 女の本名。 今日も彼女はライトグリーンのワークシャツにジーンズという飾 り気のない格好だ。軽くウェーブのかかった髪をうしろで束ねてい る。 「僕だってよくわかりますね、後ろにも目があるんじゃないですか? あ、コレ差し入れのケーキです。ここに置いておきますね」 僕は近くにあったテーブルにケーキの包みを置いた。 「んふふふ。女の超能力をなめちゃいけないわよ。なーんてね、冗 談よ。足音でわかるの、音の大きさとか間隔でね。ケーキありがと。 もう少ししたら一段落するから、一緒にお茶しましょ」 夏子さんは話ながらも筆を止める事はない。ノッテるのだろう。 調子の悪い時に来るとこうはいかない。 「わかりました。じゃあ僕、紅茶でもいれますよ」 備え付けのキッチンへ向かう。 「あーれ? キヨくん、コーヒー党じゃなかったっけ?」 「ここは夏子さんのアトリエですからね。郷にいれば郷にしたがえ、 ですよ」 「なんかその表現ヘンよ。でも、その心がけはエライわ。褒めたげ る」 「はいはい、ありがとうございます」 耐熱ガラス製のコーヒーポットに水を注ぎ、コンロにかける。戸 棚からは二組のティーセットとアップルティー缶を取りだす。勝手 知ったる他人の家、だ。 すでに僕は何がどこにあるのか、夏子さん以上に知っている。仕 事用のアトリエとはいえ泊まり込みで仕事をすることも多い彼女の ために、ベッドからキッチンまで一通り生活に必要なものは揃えら れていた。しかし、面倒くさがりの彼女は、近所のコンビニで弁当 を買うばかりで、ろくにキッチンを使おうとはしない。 都合、キッチンを使うのは、たまにやってくる僕ばかりというこ とになる。 「で、今日はなに? 催促? まだ、納期は先だとおもってたけど」 「今日は、単に陣中見舞ですよ。ま、作品の進み具合をみるって意 味もありますけどね」 「ご苦労なことねー。ま、こっちは好きな絵を描いてお金がもらえ るんだし、文句はないけど」 「全くですよ。僕なんか昼夜関係無しにかけずり回っているのに、 給料はすずめの涙ですからね。ホント、夏子さんがうらやましいで すよ」 すこし情けない声をつくって言う。もちろん単なる冗談だ。創作 活動で食べていくというのは、はた目ほど楽な仕事ではない。人気 が落ちれば即収入が無くなるというプレッシャーもさることながら、 仕事に追われて一人の世界に篭もりきりになるため、精神的に耐え きれなくなってしまう人もいる。華やかに見えて実は孤独な世界な のだ。 もちろん、そのために僕がいるのだが……。 「へへへー、悔しかったらキヨくんも絵描きなさい。お、ブルゴー のケーキじゃないの。奮発したわねー高かったんじゃないの?」 仕事が一段落したのだろう。いつの間にか夏子さんはカンバスか ら離れて、ケーキを物色している。 僕は少し肩をすくめて、「どうせ、経費で落としますからね。美 味しいものを選んだ方がいいでしょ。太る心配はありますけど。― ―あ、食べ過ぎちゃダメですよ。夏子さん」 「へへーあたしなら大丈夫、私って昔から太らない体質なのよね」 実際そうなのだ。創作活動という不健康な生活をおくりがちな職 業なのに、彼女のスタイルはモデルとしても通用しそうなほどだ。 必死に節制してスタイルを維持しているが、本来太りやすい体質の 僕には、羨ましくてしかたない。まあ、僕の場合、スマートでいる のは仕事の一環ともいえるのだけど。 ポットがぐつぐつ音をたてて、中の水が沸騰した事をしらせてく れた。二人分の水なので思ったより早かったようだ。 「そんな事言って、三十越えてから太っても知りませんよ。あ、夏 子さん、お湯沸いたんで、ケーキを出しておいてください」 「ほいほい。キヨくんは何がいい?」 「夏子さんは?」 「あたしはラズベリーのタルト」 「じゃあ、僕はシフォンケーキで」 「オッケー、あとで半分こしましょ」 「わかりました」 お盆にティーセットとコーヒーポットをのせてリビングへ向かう。 夏子さんはすでにテーブルの上をかたづけてくれていた。二枚の皿 の上には赤いラズベリーのタルトとシフォンケーキ。いつのまにか フォークや砂糖までしっかり用意されている。 「やあ、さすがに食べ物がからむと素早いですね」 「恋も仕事も早いのがとりえなのよ」 夏子さんがニヤリと笑って言った。 「はいはい。そーでしょうとも」 軽く応えると、僕はテーブルの脇に立って、お茶こしの金網の上 に乾燥しきった紅茶の葉をいれる。ちょうどスプーン二杯分。そし て、カップの上にお茶こしを置いてその上からポットのお湯を注ぐ。 紅茶をいれるのにコーヒーポットだの、お茶こしだのと少し節操が ない気もするが、手軽なのだ。 カップにもみじ色の液体が満たされていく。渋味がでないように 薄めにサッと出すのが彼女の好みだ。それでも、たちのぼる香りは 香水のようで、とてもリンゴとは思えないほど強い。 「さあ、できましたよ」 「うふふ、この香りがたまんないのよ」 二人分のティーカップに紅茶をそそいで夏子さんの向かいの席に ついた。それぞれ皿を取ってケーキを食べる。ほどよい甘さが紅茶 の香りとよく合っている。 少しケーキを食べたあと、僕はフォークをとめてタルトを頬張る 彼女を見る。化粧っ気のない顔だけれども、充分に美人で通用する。 でも、美人だとかそういう事とは別に、僕は彼女が好きだった。 できれば、仕事以外で出会いたかったと、本気で思う。しかし、仕 事以外で彼女と出会っていれば、おそらく僕は彼女を好きにならな かっただろう。 僕は彼女が好きだけれど、彼女と寝たくはない。 「で、絵の方はどうです?」 「んー、そうねえ来週にはあがるんじゃないかしら」 夏子さんはフォークの先でタルトをつつきながら答えた。 「へえ、調子いいじゃないですか」 「まあね、ここんとこいい感じよ」 「実家のほうはどうです?」 「行ってないわ。会うと結婚しろってうるさいのよね」 「仕方ないですよ。夏子さんは旧家の生まれですから」 「そーなのよね。これでもお嬢様だってんだから笑っちゃうわ」 「結婚する気はないんですか?」 「そーねえ。考えないわけでもないけど、今はまだ仕事があるから ねえ。やれるとこまでやってみたいと思ってるわ。それにどのみち 結婚しようにも相手がいないしね」 夏子さんが笑う。 僕はそれをきいてすこしホッとする。奇妙なバランスだけど、こ の関係が続けられるのかと思うと嬉しい。 怠慢ととられるかもしれないけど。 ふいに腕時計のアラームが鳴った。 「あ、もう時間だ。行かないと」 「え? 今来たばかりじゃないの」 「すみません。最近はちょっと忙しいんです。また埋め合わせはし ますよ。完成祝いを兼ねて」 そう言って立ち上がる。すこし、そっけない気もしたが、仕事の 事をあまり話したくはなかった。 「しかたないわね。完成祝いにはオゴりなさいよ」 「ええ、ぜひ」 答えて、僕は夏子さんの部屋を出た。 マンションを出ると、思ったより強い春の陽射しにさらされた。 暑かったけど、あまり気にならない。 僕は口笛を吹きながら歩きだした。
妻の事故死はさほど不審なことではないとして、佐伯を狼狽えさ せたのは、その妻が実は妊娠していたという事実だった。 御存知なかったのですか、と怪訝そうな顔で医者に告げられたと きから、佐伯の心の中にはどんよりとした闇が広がっていった。妻 が知らなかったということはあり得ないというのが、医者の説明だ った。しかし自分は知らされていなかった。なぜ、という疑問も滑 稽だと思える、当然の推測が佐伯の心中でなされた。彼は唖然とし た。自分の妻に限って、というありふれた誤解にとらわれることに 抵抗を感じながらも、彼はやはり、その思いを打ち消せなかった。 妻は真面目な女だった。朝食の支度から夕食の後片付けまで、一 日家のことに関わっているだけの女だった。たまに女友達と出かけ るというときでさえ、夫にその外出の許可を求めた。もっと遊んだ らいいじゃないか、と佐伯が笑うと、ええだけど、と曖昧な微笑を 浮かべながら答えた。だって別に外に出ても楽しいことなんかない んだもの。 あるいはそれは、彼女一流の演技だったのかも知れない。自分に 男がいることを必死に隠すための策だったのかも知れない。しかし、 あの無邪気な表情の裏にそんな別の顔があったとはどうしても佐伯 には信じられなかった。大体、だからこそ、そういう彼女を傷つけ たくないと思ったからこそ、自分には諦めた女だっていたのだ。 あの女はどうしてるだろう、とふと佐伯は考えて、あさましいと 自分を嗤った。 そんな茫漠とした不安な気持のまま、それは例えば星のない夜に、 目的地も方位もわからないまま、ひとり小舟で海を渡るようなもの だったが、それでも佐伯は櫂を漕ぎ続けなければならなかった。通 夜も葬式も、彼が動かなければ物事は進まなかった。 佐伯は自分の身の置き所を心の中で訝しんだ。妻を失って悲しみ にくれる夫の姿も自分であったし、裏切られたのかも知れないとい う疑惑に苦しみ悶え、果ては妻を憎む夫の姿も自分であった。そし て、どっちつかずの境地のままに妻を送りださなければならない非 情なプログラムに歯を食いしばって耐え忍んだ。誰にも打ち明ける ことなどできないのだ。 弔問に訪れた男たちにいちいち猜疑の目を向けそうになる自分を、 叱りながらあるいはけしかけながらも、結局は何も得ることもなく、 表面的にはあくまでも無難に弔いの儀式は終わり、いくらか平穏な 日々が再び佐伯の身辺に取り戻されると、彼はそのときになって、 初めて自分の苦しみに没頭することになった。中途半端ではない、 自分が抱えた闇との決着を図ろうとした。 日記というものがあれば、彼はそれを真っ先に探しているのだっ たが、あいにく妻はそのようなものをつけていなかった。仕事をや めてからは手帳すら持ち歩かなかった。何か記録といえるようなも のは家計簿だけだった。 まさかこんなところに、と思いながらも佐伯は縋るような思いで、 妻が残した几帳面な文字の羅列に目を注いだ。にんじん、ピーマン、 なめこ、豆腐、ぶり。妻の角張った筆跡が示しているのは、佐伯に も馴染みのある日常食卓にのぼるものばかりだった。料理されたそ れらを前に、妻が微笑んでいる図が彼の脳裏を過った。く、と嗚咽 が込み上げてくる。と、いかにも馬鹿げた行為を自分がしているよ うな気持に迫られる。自分が汚らわしく思われてくる。 ねえ、と妻は佐伯に訊いたものだ。赤ちゃん、欲しくない? う ん欲しいね、と佐伯は答えた。でもまだ急ぐこともないだろう。そ のうちきっとね。まだ早い時期の話だった。そういえば、そうだ。 妻のそんな台詞はいつからか聞かれなくなった。なぜ。 そう思った途端、佐伯の目を「あいびき肉」の文字が刺した。苦 痛にねじ曲がる自分の唇を、佐伯は滑稽だと思いながらどうにもで きなかった。馬鹿馬鹿、と自嘲しながら彼は家計簿を捲り続けた。 はっと目を引き付けられたのは、一月ほど前のある日のページの 余白だった。 「今ごろ、こんな形で罪深さに怯えるようになるなんて」 突然あらわれた、意味を持ったその文章に佐伯は愕然とした。や はりそうなのか。そうだったのか。彼はもはや憑かれたようにペー ジを捲った。何ヶ月、およそ一年前まで彼は性急に時を遡った。 「ごめんなさい、あなた」 力なく醜くくねったその文字を見つけたとき、佐伯は眉間に皺を よせて目を固くつぶり、呻いた。家計簿を持つ手がわなわなと震え た。 ごめんなさい、あなた。妻の悲しげな、いや、というより哀れみ に近いと思われる表情が、鮮やかに佐伯の目に映った。何かに怯え ているように定まらない視線。確かにそんな顔を佐伯は度々妻に見 ていた。そうだ。そうだった。 一瞬の後、家計簿は壁に激しく打ち投げられた。佐伯は肩で荒く 息をつきながら、大股で仏壇に歩み寄った。このやろう、と彼は妻 の写真に向かって吠えた。お前、お前、そんな女だったのか。彼は 写真立てを掴むと、これも壁に叩きつけた。 派手な音と共に跳ね転がった写真立てを、荒い呼吸のまま暫く眺 めた後、彼は虚脱感に襲われて膝をついた。 仕方がないじゃないか。頬を涙がつたった。勝手なやつだ。でも 仕方ない。好きだったのか。どんな男だった。それさえ聞けない。 涙で滲むひび割れたガラスの中の妻の笑顔を見つめて、大きくため 息をついた。 佐伯の頭にかつての女の名がふと浮かんだ。 ちょっと痩せたな、と内心思いながら、佐伯は女を眺めた。別れ てから一年近く経っていた。躊躇いながら掛けた電話で妻の死を告 げると、女は一瞬絶句してから会うと言った。佐伯の心に久しぶり に明るみがさした。 女が墓参りをしたいと言ったことも、佐伯には好もしかった。自 分と並んで亡き妻に手を合わせる女に、佐伯は今後の人生の希望を 見い出した。かつて自分が仇としていた女の死を悼む彼女をしおら しくも感じた。 墓参りを終えて立ち寄った喫茶店で、女は煙草を吸った。いつか ら、と驚いて佐伯が訊ねると、やりきれなくて、と答えた。まだそ れほど短くなっていないそれを灰皿に擦り付けると、女は呆れたよ うな目で佐伯を嗤って喋り出した。 あなた、何も知らないんでしょう、と女は始めた。 奥さん、きっと何も言わなかったでしょうから。あなたが一番呑 気なのよ。あたし妊娠してたの知らないんだものね。 言葉もない佐伯が聞かされたのは、妊娠して途方にくれた彼女が、 すっかり冷たくなった佐伯憎さに、妻のところへ乗り込んだという 事実だった。 そしたらね、奥さん、どうしたと思う? 女は眩しげに目を細めてから続けた。 何度も何度も、許して下さいって畳に頭こすりつけてね。許して 下さい、お願いだから、諦めて下さい、子供はって。泣いてた。 拍子抜けしたわよ。そんなつもりじゃなかったから。負けるもん かみたいな感じだったの。馬鹿よね。奥さんたら、お願いだから子 供だけは勘弁してって。あたしに頼むって。主人には内緒でって。 佐伯の目に、涙ぐみながら背中を丸めて何度も頭を下げる妻の姿 が映った。ごめんなさい、と妻は言っていた。ごめんなさい、あな た。 佐伯の手からコーヒーカップが落ちた。 こんな形で罪深さに怯えるようになるなんて。 罪深さ。お前の罪? 何だって? 何のことだ! お前、何を悩 んでた! 馬鹿な! 馬鹿じゃないのか! 顔が真っ青よ、という女の訝しげに冷ややかな声が、佐伯の耳に ぼんやりと響いた。
二日続けて徹夜した俺の頭の中はウニのようになっていた。いや、 正確には一晩と半分の徹夜だ。一晩は、現在審議中の企画書作成の 為。もう半分は、その内容について課長との酒の入った討論の為。 企画は少々突飛なものであり、会議への提出は冒険的な要素を伴っ ていた。最初のうちはなんのかんのと文句をつけていた課長も、後 半は随分と理解を示し、午前三時を回った頃には肩を組んだり握手 をしたり、大いに盛り上がり、この企画に大いに賛同してくれた。 企画書さえ会議を通れば、俺も日の当たる大通りを闊歩する事が出 来るだろう。課長には悪いが、企画の性格上それを操る俺は会社に とって不可欠な人材となり、俺の方が先に部長に昇進するだろう。 午前十時を過ぎた会議室で窓際に陣取ったお偉方に向かって、俺は 熱弁を奮った。 「甚だ簡単な説明ではございますが、御審議のほど宜しくお願い致 します」俺の出番は終わった。昨晩の酒席での打ち合わせ通り、審 議中の質疑応答は課長が担当する。俺は黙って聞いていれば良い訳 だ。「何か御質問はございますでしょうか」課員の前での横暴な態 度を全く感じさせない課長の杓子定規な声が俺の説明を引き継ぎ、 会議は佳境に入っていった。 お偉方の通り一遍な質問が続く。焦点のずれた質問や同じ説明を 繰り返させるだけの質問が多く、ほとんどの質問は議論の余地も無 く、課長が企画書の内容を繰り返すだけではけていった。そうして いる間にも、俺のシーチキンのように疲れ切った肉体は、仕事を終 えた充実感を味わう喜びに向かっていった。「ああ、やっと……」 しかし、安堵しかけた瞬間、一番のお偉いさんが口を開いた。そ れは、あまりに唐突で、あまりに些細な問題であったが、いつもの ように出席者全員が質問の内容よりも質問者に恐れをなして、会議 は大きく方向を変えた。それから約一時間、なんだかんだと重箱の 隅をつっつくような質問が繰り返された。質問のたびに他のお偉い さんは頷き、課長はかしこまってろくに答えず、俺の神経は下ろし 金にすりおろされていった。 ウニの頭とシーチキンの体を大根おろしの神経で支えつつ、それ でも俺は打ち合わせ通り沈黙を保った。会議は終わり、承認は見送 り、企画は練り直して再度提出となった。しかし、練り直した企画 が承認された前例はなく、つまり俺の企画は事実上却下された。そ れはあっけない結末だった。 自席に戻った俺は、課長に呼びつけられ、課員達が刺すような視 線で盗み見る中、叱責され続けた。いい加減こうべを垂れているの にも飽きた俺が顔を上げた時、俺は信じられない光景を見た。 課長以下室内の人間全てが紙になっていたのだ。課長はちょうど 写真屋のポスターのようになって、不自然な動きを繰り返していた し、盗み見ている課員諸君も等身大紙相撲のようなあんばいで机上 のコンピュータに対面していた。つまりそれは幻覚にすぎないのだ が、紙になった課長の説教は何の迫力もなく、課員達の視線も俺を 突き刺す力を失っていた。「とっとと帰って、顔を洗って出直して こい」という課長の言葉をその意味の通りに受け取って、俺は早退 した。俺の頭はもういかれちまっていたので、社内ですれ違う同僚 諸君も街を行き交う人々も駅員さんもお巡りさんもみんな紙になっ ていた。 昼下がりに辿り着いた我が家では紙の妻が洗い物をしていた。妻 は、徹夜明けで早退してきた亭主がどのような精神状態にあるのか 十分理解しているので、多くは問わず、睡眠をとることをすすめ、 紙の両手で布団を敷いてくれた。俺も幻覚相手に事態を説明するつ もりもなく布団に入り、眠りについた。 目を覚ますと、外はもう暗かった。布団を抜け出し、居間に入る と妻と娘が夕食を食べていた。二人とも紙のままだったことに俺は 軽いショックを受けた。試しに娘の肩に触れてみた。その手触りも 質感も正真正銘の紙だった。どうやら俺は、五感全てがいかれちま ったようだ。おそらく急速な回復は見込めないだろう。心に諦めが 広がった。それは安堵に近い感情だった。 紙人間の夕食はとても奇妙なものだった。三次元の御飯と味噌汁、 焼き魚と白菜の漬物等が、ひとたび紙人間の口に入ると紙の一部と なって、その存在感を無くしていった。卓袱台に座り、寝ぼけまな こで観察を始めた俺に気づいて、妻は台所に立った。俺は自身の空 腹にやっと気づいた。 あったかい御飯と味噌汁、焼き魚と白菜の漬物等の作用により、 空腹は癒され、シーチキンは急激な回復を果たしたが、大根おろし とウニ頭の方は全く回復の兆しを見せず、未来の絶望を暗示し続け ていた。卓袱台に肘を突いたまま動かない亭主に話しかける事がど んなに危険か十分理解している妻は、しばらくテレビを見た後、娘 と風呂に入った。 この幻覚が続くようならば、俺は病院に行くしかない。こんな奇 抜な症状を有する病は奇病、難病の類に相違いなく、長期の療養を 要するだろう。有給休暇を使い果たして、後は休職、もしくは退社。 あの企画が通らないような会社に長く勤めても仕方が無いが、収入 の道が断たれるのは辛い。いや、幻覚は幻覚。そんなに長く続く訳 はない。神経が十分休まれば自然に治るに違いない。二、三日ゆっ くりすればきっと……頭の中で明と暗のシミュレーションが繰り返 された。どのくらいそうしていただろう、俺は妻と娘の風呂がいつ もより長く、いつもより静かな事に気が付いた。そしてもう一つの 事に気付いた時、俺は妻と娘の名を叫び、急いで風呂場の戸を開け た。 悪い予感はピタリと当たり、風呂の湯にはもろもろに溶けた紙が 意味を失って浮かんでいた。「これは、どういう事なんだ」幻覚の くせに本当に溶解してしまうなんて。俺の混乱は一気にピークに達 し、俺は嘆き、叫び、街に飛び出した。俺は走った。商店街まで走 ると、家路を急ぐたくさんの紙人間に遭遇した。人波を逆行して走 り続ける俺に大勢の紙人間がぶつかってきた。そいつらはクシャッ と音を立てて、悲しいくらいに紙だった。俺はもう何も解らず、何 も考えず、ただただ走り続けた。 翌朝、俺は公園のベンチに目覚めた。結果的に俺を起した騒がし い犬を連れたおばさんは、やはり紙で出来ていた。俺は立ち上がり、 歩き始めた。空はどんよりと曇っていた。 やがて仕事に向かうサラリーマンやOLが増え始め、俺もその列 に加わっていた。みんな一様な急ぎ足で駅に向かって行く。みんな 一様に鞄と傘を携えていた。 ぽつぽつと降り始めた雨に俺はこの物語の全てを悟った。全ては 幻覚であり、幻覚は幻覚でない。俺はゆっくり歩みを止めて暗い空 を眺めた。だんだんと勢いを増す雨に俺は静かに両手を広げた。俺 を避けて歩み続ける紙人間たちは、あるものは足から、あるものは 肩からだんだんと溶け始めていった。俺は雨に吸い寄せられるかの ように宙に浮き、ゆっくりと飛翔を始めた。紙人間はぐにゃぐにゃ になって、歩きながら倒れていった。倒れた紙人間の上に次の紙人 間が倒れて重なった。俺はだんだんと高度を増し、溶けていく人間 たちを見下ろした。この物語はこんなに簡単な仕組みになっていた のだ。もうウニでも大根おろしでもシーチキンでも紙人間でも幻覚 でもなくなってしまった俺は全ての事を理解して、高度を上げてい った。 街行く人よ、溶けゆく人間よ、空を見よ。俺を見よ。儚い物語の 結末を見よ。そして、空を飛ぶその男を見よ。
私は昼過ぎから公園で座っていた。馬鹿みたいに青いシートの真 ん中で。ただひとり。 「花見は場所取りが全てといっても過言ではない」と支社長は言っ た。前月の販売コンクールでやっと隣の支社に勝ったのだ。「ぶわ っと、盛り上がってくれたまえ」 おごれるもの久しからず。私はビニールシートとカラオケセット を営業車に積込みながら、南無南無と念仏を唱えた。南無南無。 生暖かい風が吹いて、桃色の花びらが舞い降りる。桜なんて1時 間も眺めていれば十分だ。シートの四隅を石で固定し、マイクの調 子を確かめ、カセットを曲順表にしたがって並べかえる。5分と間 がもたない。寝そべって煙草に火をつける。きりりとネクタイを締 めたビジネスマンが横目で私を見て苦々しく口元を歪めた。何とな く、負けたような気がした。南無南無。 また生暖かい風が吹いた。煙草の煙と一緒に胸に吸い込む。ため 息が紫に色付く。煙を吸う、風が鼻を撫でる、鼻の奥がむずむずし てくる。いかん。 びえっぐぢゃんっ。花粉症である。眠りを邪魔されたツキノワグ マのような勢いで症状が出始めた。大小20回ほどのくしゃみを合 図に、鼻水、目の痒み、喉のイガイガが荒勢のがぶり寄りの如く押 し寄せる。私は土俵下に叩き落とされ、蔵前国技館の2階席まで引 きずり回された。びえっぐじゃああんっ。 とその時だ。すぐ近くで男の声が聞こえた。破裂した顔で辺りを 見回すが誰もいない。私はテッシュを3枚重ね、ニキ・ラウダのよ うな爆音で鼻をかむ。 「うるさいな」 今度ははっきりと聞こえた。耳のすぐそば、いや、イヤホンでラ ジオを聞いているような感じで男の声が聞こえた。聴覚の混乱が体 を硬直させ、鼻水がひと筋垂れていることに私は気付かない。 「おいおい、鼻を拭きなよ」 すごくいい声なのだ。FMのDJみたいな声だった。鼻水を拭う と、ニキ・ラウダが爆音を轟かせる。 「すごい音だね。非常にかき乱してるんだよ、この辺の磁場」 「磁場?」と私は聞き返し、携帯電話を耳にあてた。便宜的に、そ こに向かって話しているのだと自分を納得させることにしたのだ。 「もしもし、どちら様ですか?」 「磁場コップ」といい声が答えた。「歪んだ磁場を取り締まってい るわけだ」 私は困惑の表情をじっと前方の黒い幹に向けていた。 「突然飛行機が消えたり、やたらと船が遭難する場所とか、知って るでしょ? 『ムー』、読んでない?」 私が首を振ると、落胆したようなため息が耳の中で響いた。 「ところで、今夜の花見なんだけど、カラオケもするの?」 「はあ、見てのとおり」 「やめてもらえないかな。ここはね、かなり磁場が弛んでるんだよ」 「でも、曲順表も配っちゃったし、審査員の得点ボードも作っちゃ ったし」 「ちょっと曲順表見せてくれる?」 私はコートのポケットから曲順表を取り出し、空にかざした。 「何してんの、いいんだよ、普通に持ってれば見えるから。ええと ……『天城越え』はまずいな」 「いや、これは絶対外せません。大トリなんです。経理の原さん、 すごい気合いで練習してたんです」 「ますますまずい。酒と気合いと『天城越え』。最悪だ。一発で穴 が開く。絶対にやめてほしい。今夜は人出も足りないし」 磁場コップは電波にも強いらしく、突然携帯電話が経理部につな がった。 「……あ、原さん。はい、津田です。場所ですか? ええと、外見 的にはばっちりなんですが……ええ、カラオケもばっちり、マイク 良好、で、そのことなんですが……じつは、あの、誠に申し上げに くいのですが……歌うのやめてもらえませんか? いえ、支社長の 嫌がらせではないんです……磁場コップっていう人が、いえ、人じ ゃないんですけど、ええと、あちら側の世界から……ですから、今 夜原さんが歌うと大変なことに……あの、原さんは『ムー』を読ん だことは……あ、ちょっと」 叩きつけられた受話器の音が虚しく耳の中に響いていた。当分交 通費の精算をしてもらえない。毎日ジョアを持ってご機嫌取りに伺 ってもきっと許してくれない。 「駄目なのか」と磁場コップは深みのある声で言った。 「ええ、ものすごく、怒ってました」 「ふふん、君のことが好きなようだね」 「まさか」 雨でも落ちてこないかと空を見上げるが、雲ひとつ見当らない。 「じゃあ、そろそろ引き上げるよ」と磁場コップは言った。「取り 締まり以外でそっちとコンタクト取ると、いろいろ問題になるか ら」 「どうするんですか、『天城越え』」 「どうにかしてよ。俺たち、直接手出しはできないんだ。お互い穏 やかな夜を過ごしたいものだね。じゃあ」 それからいくら呼び掛けても磁場コップは返事をしなかった。 とにかく酔い潰してしまえと思ったのだが、結局潰されたのは私 の方だった。原さんの足元で干物みたいに伸びているうちに、宴は その終局へ向けて確実にボルテージを上げていった。 うねうねと渦巻く空気のどこかから何かを嫌らしく歪めるような 波長が聞こえてくる。耳の中に微かに残っていた磁場コップの声が 私を叩き起こす。いかん、このイントロ。原さんが左腰にためを作 って、今まさに歌いだそうとしている。 私は力を振り絞って起き上がり、原さんに襲いかかる。カラオケ セットを蹴倒し、マイクを奪い取るとビール瓶が何本も倒れ、シー トの上は騒然となった。誰かが「あ、支社長の頭が!」と叫んだ。 振り返ると、支社長の精巧なヅラが消えていた。イントロだけでこ の威力だ。私はマイクを口にくわえ、一目散に走りだした。 人気のない暗がりに逃げ込むと、原さんの荒い息遣いがすぐ背後 に迫ってくる。私は黒々とした木によじ登り、高さ2メートル程の ところにしがみついた。荒い息遣いが程なく私の真下に辿り着く。 しばしの静寂が訪れた後、ぴしゃっと小気味よい音が暗がりに響 き渡った。一瞬鋭い電流が背骨を逆流し、じんわりと臀肉が熱を帯 びていく。原さんがよくしなる細い枝で私の尻を叩いている。ぴし ゃっ。そのひと振りは的確に私の肉に食い込んだ。マイクをくわえ た口から鈍いうめき声が漏れる。 ぴしゃっ、むぅ、ぴしゃっ、あぐぅ、ぴしゃっ。 私は苦悶しながら徐々にずり落ちていく。背中、腕、太もも、原 さんは打擲の手を緩めない。 「あんた、ちょっとひどすぎるわ」 原さんの目がぎらりと光った。私は自分のネクタイで後ろ手に縛 られる。さらに原さんはストッキングをゆっくりと脱ぎ、私の両足 をひとつに縛り上げた。 「お仕置き」と言って原さんは枝を振り上げた。 ぴしゃっ、むぅ、ぴしゃっ、あぐぅ、ぴしゃっ。 私は便宜的に、これは痛いんじゃない、気持ちいいのだ、と思う ことにした。 ぴしゃっ、むぅ、ぴしゃっ、あぐぅ、ぴしゃっ。 ワイシャツに滲んだ血を見て、原さんは妖しい笑みを浮かべる。 気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。念じているうちに不思議な 気分になっていった。原さんがハイヒールの踵で私の傷口を踏みつ ける。まるでその不思議な感覚を共有したがっているように、ぎゅ っと。 確かにその場所も何かが歪んでいるはずだった。しかし磁場コッ プは現われない。きっと今夜は雪の日のJAF並みに忙しいのだ。 私はただ力なく磁場コップのいい声を思い出していた。 ぴしゃっ、むぅ、ぴしゃっ、あぐぅ、ぴしゃっ。 やがて私たちの混沌とした感覚は、未だ経験したことのないワン ダフォーな興奮へと昇華していったのだった。
賢治は、喉が渇いて目が覚めた。台所で水を飲んでいると、隣の 犬が吠えていた。耳を澄ませると、何か音が聞こえてくる。賢治は その音に耳を澄ませた。 聞こえるのというのとは少し違う。賢治は人より少し可聴範囲が 広かった。近所の犬が吠えているのもどうもその所為らしい。 賢治も、聞こえる様な気がするだけであった。台所の窓から外を 覗いて見たが、空は暗く、月も星も見えない。外灯がぼんやり近く を照らしているだけであった。 賢治はコップを流しに置くと、又布団に戻った。 もう少し、注意深く外を見れば、異変に気がついたかも知れない。 空には光る雲が浮いていた。光るというのは、正しくないかも知れ ない。雲は明るいのだが、それが輝いて周りが明るいかというとそ うではなかった。ただ明るいのだ。内部から明りが漏れている様な、 まるで、雲の形をした電気スタンドの様ではあったが、辺りはその 明りを反映してはいなかった。その雲以外は暗闇であった。 埼玉にある城石組の組長が、突然錯乱し日本刀を抜いて組員を惨 殺し、最後には自分で自分の首を切った。『雲が光った』という言 葉を残して死んだらしいが、雷が発生したという事は気象庁からは 発表になっていない。珍しい事件だった為、新聞にも大きく掲載さ れた。 その事件がきっかけなのかどうかは判らないが、それ以降に発生 したのは、確かだった。 異変は一般の、といっても不良と呼ばれる少年達に広がった。 街で恐喝をして小遣い銭を稼いでいた少年が、突然いなくなった。 徒党を組んでいたのにも関わらず、群れの中から忽然と消えたとい う。 又、ある少年は、女子高生相手に売春を強要していたが、金を受 け取ろうとした時に、突然いなくなったという話しもあった。 まことしやかに噂は流れたが、殆どの人間は信じなかった。突然 いなくなった時に一緒だった少年や少女達でさえ、どこかに雲隠れ でもしているのだろうと思っていた。 彼らの親でさえ、いつも家には帰ってこないものだから、どこか で遊びほうけているのだろうと気にも留めていなかった。 しかし、突然消えてしまう人数が多くなってくると、その噂も段 々と尾鰭がついて、いじめられた被害者達が、協力しあって復讐し ているのだとか、いじめられて自殺した少年が化けて出てきて、あ の世に連れていってしまうだとか、はては宇宙人が人間を実験材料 にしているなどという話しまで、本当らしく脚色され、どこの誰と いう固有名詞までついて噂は広がっていった。 だが、消えた少年達は何日かすると、ふらりと戻ってきた。但し 彼らは記憶を無くしていた。 ただ被害者はやくざや不良グループといわれる人達に限定されて いた事もあって、一般の人達は歓迎している様な風潮さえあった。 そんな反動からか、やくざや不良少年達の活動が大きくなった事 もあったが、加害者達が消えてしまうという異変からか、組を解散 してしまったやくざをきっかけに、市民団体の軽犯罪防止運動など の活発な活動もあって、自然と不良グループは解散し、個人的な虐 めさえ、その街では自然に影を潜めていった。 「武志くん。廊下を走っちゃだめでしょ」 かおる先生に叱られた武志は、真っ青な顔になって、先生を見つ め、泣き出した。 「先生、ごめんなさい。もうしません。ごめんなさい、ごめんなさ い」 武志と呼ばれた少年は、担任のかおる先生に泣いて謝った。 「えーっ。何も泣かなくてもいいのよ。もう怒ってないから、ねっ」 赴任したばかりの教師は、あまりの生徒の様子に逆に驚いてしま った。 職員室で、その事を隣の体育の教師に話したところ、教頭先生の 所へ連れていかれた。 「先生。赴任したばかりで、学校の教育方針の事を詳しく説明して おりませんでしたが、よく聞いて頂きたい」 かおるは、教育方針は、始めに聞いたはずだとは思ったが、神妙 に、教頭の話を聞いていた。 「んー、実に言いにくい事なんですが、実はこの地域では、悪い事 をすると、消えてしまうという噂があるんですよ。いや、そんな、 人が消えてしまうといっても、実際に煙のように消えてしまうなど という、そういう非科学的な事はありえないんですが、なんといい ますか、その…、今までいたはずの所から、どこかへ行ってしまう というか、その、行方不明になってしまうんです。まぁ、しかし何 日かすると必ず戻っては来るんですが、その、戻ってくると、…そ の、記憶を無くして見つかるんです。一種の地域特有の、…病気と 思えるんですが、大学なんかでも調査はしている様なんですが、原 因は判っておりません。しかも、実際に、この学校の生徒も何人か は行方不明になって、記憶を無くしているという事が発生しており ます。ですから、あまり子供達を叱らない様にして頂きたい。学校 で叱られるという事は悪いことをしたという事ですから、…その、 消えてしまうんじゃないかと、子供だけでなく、親も心配になって しまいますんで、…極力ですな、優しい態度で接してやっていただ きたい。それからどういう事が悪い事なのかという事を子供達に教 えてやれば、子供達も悪いと判っていることは一切しませんので、 その辺りも良く教えてやっていただきたいと、かように考えており ます次第です。はい」 奇妙な事だとは思いながら、かおるは教頭に授業があるからと、 教室へ向かった。 その夜かおるは、大学時代の友人で、今は新聞社に勤めている芳 江に電話した。 「かおるが知らないのは、ムリないのよ。マスコミじゃこの記事は ご法度だもの。報道管制がしかれてるのよ。こんな事が表ざたにな ったらパニックでしょ。だから公然の秘密ってわけなの。まぁ、こ れが、日本中に波及するなんて事になったら、それどころじゃない けどね」 芳江がいう所の政府からのお達しによりマスコミ各社が協力して この話にはフタをしているらしい。 しかし、悪い事というのは、何を持って定義するのだろうか。か おるは不安になってくる。確かに法律で禁じられている事をすると 犯罪となり、悪い事だという事はわかるが、それが果たして悪い事 だと誰が判断するのだろうか。時代によって正義は変わってくる。 人を殺すのがいけない事だというのは、判っている。盗みをする のだって悪い。しかし盗まなければ生きていけないとしたら、本当 にそれが悪い事なのだろうか。いい事だと思ってする事が誰にとっ ていい事なのか、それは本人にとっていい事であって、他の人から みれば、悪い事かも知れないではないか。かおるは、テストの採点 をすると、布団に入った。丁度その頃、東京の空に光る雲が現れて いた。 次の日のテレビは大変だった。殆どの遣り手と言われる政治家が いなくなり、道路では突然、運転手なしの車が事故を起こしていた。 刑務所からは囚人がいなくなり、はた脱走かと緊急配備がされた。 かおるは、この地域だけじゃなく東京もそうなったのだと感じた が、これから一体どうしたらいいのか判らなかった。こんなんじゃ 学校へいっても仕方がないと思った瞬間、かおるは消えていた。 光る雲はその後日本のいたるところに現れ、そして国中はパニッ クに陥った。しかしその影響で暴動が起きることは無かった。発生 する前に、彼らは消えてしまっていた。 光る雲は日本ばかりでなく世界にも現れ、人種に関係なく人々は 消えていった。残ったのは、善悪の区別の付かない赤ん坊くらいだ った。
外は雨。 寂れた漁村の公民館。 立ち見をする人、多数。 ステージの上に男一人。 ヤァヤァ、可哀相なお客様。この素人魔術師のマジックショーに ようこそおいでくださいました。……そんな、金返せだなんて言わ ないでよ。そう馬鹿にしたもんじゃないよ、私のマジックは。この 怪しげな仮面だってマントだってなかなか立派なものだろう。それ に、いままで一度も文句を言われたことが無いんだよ。 ……ハハハ、いやぁー、参ったね、お客さん。お客さんの鋭さに は参ったよ。どうして、今日が初舞台ってわかったんだい? …… エッ、手が震えてる?……ああ、本当だ、手が震えちゃってるね。 ハハハハ。でも、初舞台だからってわけじゃないんだよ。こんなに 沢山の美女を見たのは初めてだからね。ハハハハハ。……お世辞? そんなんじゃないよ、社交辞令さ。アハアハ。マァマァ、ちょっと 観ててよ、絶対に文句は言わせないからサ。 ポンポン。ン? 早く持ってきておくれ。ポンポン。アー、そう かそうか、素人魔術師に助手はいないんだった。いくら手をたたい ても綺麗なお姉ちゃんがでてくるはずないね、ハハハ。 サァテサァテ、ここにあるのは皆様おなじみのギロチンだ。穴に 入れた大根を、紐を引くだけでスパッと切れちゃうとんでもなく恐 ろしいしろもんだよ。サァ、これの新しい犠牲になってくれる…… そこのアナタ! いかがです? ……ウーン、嫌だって言われると 困っちゃうんだよね。エエト……じゃあそこの綺麗なアナタ。そう そう、あなたですよ。……エー、あなたも嫌なの!? ウーン……。 これはこれは本当に困った……ウーン。皆さんなにを怖がってるん だい? エッ、素人だから失敗するかもしれない。フーン。ナァニ、 コレでも魔術師の端くれ……。……………………キット……多分… …大丈夫さ……ナァニ、片手だけでも十分暮らしていけるよ。今は 世の中”ばりあふりー”だからね。ハハ……。 ……ン、なに! ヨーシ、ならやってやろうじゃないか。今言っ た奴でてこい。ギロチンの紐を引いてくれ! ……フフ、さっきまでの威勢はどこに行ったんだい? ……ハハ、 心配することなんかなんにもないよ。失敗を恐れちゃなんにもでき ないんだから。フフフ……。サァ、ひと思いにやってくれ。コレで もちょっぴり怖いんだから。……なにをしてるんだい、早く引いて くれよ。サァサァ。……ウーン、じゃ、1、2の3でいいかい? ……いいね。それじゃいくよ。心の準備はできたかい? よーし、 できてるようだね。でもちょっと待っててね。実は私の準備ができ てないんだ。ハハハ、冗談だよ、冗談。アハハハハ。じゃあいくよ。 1……2……のォォ……3! アアアアア! 大失敗だぁー!! 手がぁー、手がぁー!!! って、オイオイ、なにを笑ってるんだい。私の右手が無くなったん だよ。ナニナニ”血が青いじゃないか”だって、血が青いと右手が 無くなっても平気だと思ってるのか!? ハハハハハ、黙らないでくれよ、困っちゃうじゃないか。人間は 血が赤いものだよ、青いはずないだろ。ハハハ。フフン、なかなか の出来だろ、その手。青い血がドバドバ出るところなんか苦労して ね。フフ。ヨシ、じゃあ、大出血の大サービスだ。今度はこの首を 切ってもらおうじゃないか。ネェ、もう一回手伝ってくれるかい? ……ン、フンフン。当然の質問だね。ゲンコツぐらいの穴に首が 入るはずないからね。フフ、やっとマジックらしくなってきたね。 サァテサァテ、ここからやっとマジックショーの始まりだ。サァサ、 この小さな穴に私の大きな頭が入りましたら大きな拍手をお願いし ます。 ……ヨッ、この重いギロチンを頭の上に掲げまして、ヨ、ヨ、ヨ、 ヨ、ヨッと一回転。さらにも一つ一回転。も一つおまけにもう一回。 ジャーン! 皆様盛大な拍手をお願いします! ……ヘヘヘヘ、拍手喝采てのはいいね。ヘヘ、どうだい、すごい だろ。私が素人に見えるかい? ……エッ、”調子に乗るのはまだ 早い”って、ハハハハハ、厳しいねぇ、社会は。フン、じゃあ一発 やってやろうじゃないか。 ……ンー、ヨイショっと、ギロチンを机の上に置いてね。サァ、 準備完了だ。あとは紐を引くだけだ。じゃあ、頼むよ。ウンウン、 もう1、2の3はいらないね。ン、合図はしたほうがいいの。ウン、 わかった。スットーンとやってくれよ、スットーンとね。ヨーシ、 それじゃあ……やってくれ! ハ 男が紐を引くと素人魔術師の首がコロンと転がった。その首は鮮 やかな切断面を下にして客を眺めるようにして止まり、胴体の切断 面からは、首を追いかけるように、目の覚めるような青い血が噴き 出した。 娯楽の少ない漁村の村民達は真っ青になり、気を失いかける客も いた。だが、魔術師の胴体から自分達の顔色よりも青い血が飛び出 す様をしばらく眺めると、全ての客の口から「フー」や「ハー」と いう安堵する声がもれた。次第にその声はパチパチと大きな音に変 わり、素人魔術師を褒め称える歓喜の声へと変わっていった。 「すごいぞー!」「よっ、天才魔術師!」と会場の興奮は最高潮に 達していたが、可笑しなことに、いまや天才魔術師の素人魔術師は ピクリとも動かない。青い血だけは延々と流れつづけ、愉快に笑い だすはずの首を青い血で染め続けた。さらに可笑しなことに、青い 血に交じりながらタラタラと赤い血が流れてきたのだ。 その血を見た客は興奮の絶頂から恐怖の底へとたたき落とされ、 気弱な客はバタンバタンと失神し、そうじゃない客も気が触れたか のような悲鳴を上げた。失神もせず悲鳴も上げなかった客はステー ジの上に上がり、素人魔術師の安否を確かめた。恐る恐る腕を伸ば し、素人魔術師の体に触れようとしたその時だった。素人魔術師の 体が大きく揺れ、大きな声で笑い出したのである。 ハッハッハ! 驚いたかぁ! アッハッハッハッハ! この素人 魔術師一世一代の大魔術! これから始まる大魔術師の伝説の第一 歩を!ハッハッハ! クゥー、たまらん。思えばとても長かった。生まれもっての障害 を、一寸法師と馬鹿にされ、今のために、今だけのために生きてき たこの30年! サァ、褒め称えよ。大魔術師の誕生に歓喜せよ! アッハッハッハ! ……ン、拍手はどうした? ン、ハハア、そうか。俺の顔が見え てなかったな。さぁ、これでどうだ。 ……なにィ、どうして、また悲鳴を上げるんだ!? ……アア、 これか、フフン、驚いたか。青い血の後に赤い血を流すなんて普通 考えつかないだろ、ヘヘヘ。もちろん頭に付いてるのは赤い血糊さ。 なめてみるかい? 見た目は血そのものでも、味はなんとストロベ リーだ。アハハ、冗談だよ。冗談。ハハハハ……ハ? …………… ………………アー! ギャー!!! 客の悲鳴を聞きながら、素人魔術師はヒュルリとマントを脱ぎ捨 て、生まれつきの小さな体をあらわにした。足は竹馬に似た義足を はき、手にはかなり精巧な義手を持っていた。素人魔術師はその手 をポイッと投げ捨て、小さな手で頭に触れた。そこには血糊でべっ たりとした髪の感触はなく、なにかヌルリとした気味の悪い感触が した。それはまさに、本当の血で汚れた頭蓋骨の手触りだった。 外は雨。 寂れた漁村の公民館。 立ち見をする人、無し。 ステージの上に、首一つ、手二つ、足二本。 ただ気持ち悪いだけだった。
●作品受け付け──────3月5日〜4月28日迄(終了)
作品発表────────5月1日〜
人気投票受け付け────5月1日〜5月28日迄(終了)
結果発表────────5月31日
第4回3000字バトルチャンピオンは
鮭二さん作『磁場コップ』に決定です。
鮭二さん、おめでとうございます!!
| 作品 | 票 |
|---|---|
| 磁場コップ(鮭二) | 3 |
| 価値(厚篠孝介) | 2 |
| その恋、買います!(百内亜津治) | 1 |
| おかえり(更羽) | 1 |
| ほくろ(佐藤ゆーき) | 1 |
| 雨、のち6月(うめぼし) | 1 |
| 濡れ落葉と呼ばれる頃に(竜胆姫) | 1 |
| 妻の恋人(一之江) | 1 |
| 台所の情景(akoh) | 1 |
●磁場コップ(鮭二)
●価値(厚篠孝介)
●その恋、買います!(百内亜津治)
●おかえり(更羽)
●ほくろ(佐藤ゆーき)
●雨、のち6月(うめぼし)
●濡れ落葉と呼ばれる頃に(竜胆姫)
●妻の恋人(一之江)
●台所の情景(akoh)