第5回3000字小説バトル
Entry10
「あっ」 沙希は、手に持っていた試験管を滑らせ、ミッキーの餌箱に落と してしまった。試験管は割れはしなかったが、試薬はこぼれていた。 「ミッキーごめんねぇ。大丈夫だった? もう!気をつけてよね!」 沙希は酒井を睨むと、試験管のラベルをチェックした。 「Q1MS1W…、促進の方だ」 殺風景な研究室だからという事で、研究所のマウスをペット代わ りに置いていたのだ。 突然、沙希が叫んだ。 「ミッキー!」 沙希が屈み込んだ籠の中には、回転している回し車の脇で、ミッ キーがぐったりしていた。 沙希が大事そうにマウスを取り出すと、既に息絶えていた。 不思議なことに、一杯だった餌箱と水は、空になっていた。 『穀物類の成長促進薬の研究許可願』(抜粋) ●申請の背景 凸凹研究所の癌細胞研究班で、先ごろ発見されたレトロウィルスの 特性を調査した結果、以下の事項が判明しました。 発見された菌の特性 @Quick菌(以下Q菌)は生物の成長を促進させる特性があ る可能性が高い。 ASlow菌(以下S菌)は生物の成長を停滞させる特性がある 可能性が高い。 BQ菌とS菌は共存して繁殖し、一方が多くなることはない。 CQ菌およびS菌は繁殖力が驚異的である。 以下の背景は省略 ●研究の目的 上記事柄から、Q菌とS菌とを分離し植物に使用する事が出来れば、 短期間での収穫が可能となり、食物問題の解決に大いに貢献できる と考えております。 ついこの間生成に成功した成長促進薬は、植物には適用出来そう な目処は付いている。試薬を使って育てた柿の実を、サルが食べて も異常はなかった。 始めの頃はみんなも面白がって、『早く芽を出せ』とはやしなが ら、試薬に漬けた柿の種を埋めたものだった。 でも、柿は実をつけたと思う間もなく熟し、すぐに萎びてしまっ た。 熟した実もすぐに収穫すれば良いけれど、収穫の時間が短すぎる。 これでは意味がない。 長い実験の結果、試薬に混合させるある物質と薬品の割合によっ て、ある程度成長したら停滞させることが出来る様にはなった。つ まり、数秒ほどで十年程の成長をさせた後、通常と同じ成長効率に する事が可能だという事。 逆に、一ヶ月成長(腐敗)を止めてその後通常の状態に戻す事さ えも可能になった。 これで、賞味期限などという考えは無くなるかも知れない。 でも、植物は地面や大気などから養分を補給できるが、動物はそ うはいかない。 餓死したマウスの件もあるし、もし誤って人間がこの薬を飲んで しまった事を考えると、実験をしないでは商品化できない。 みんな研究所に詰めっきりで、疲れがピークに達しようとしてい る、そんな時に事件は起きた。 冷房が効いているとはいえ、外は30度を越す暑さだというのに、 涼しそうに黒のスーツを着た、拳銃を持った二人の男達が、研究所 に入って来た。 彼らは研究所の職員のように振る舞い、我々の研究室に真っ直ぐ やってきた。 「成長停滞薬を頂きたい」 言った途端に、彼らの拳銃がポンと乾いた音を起てたと思ったら、 酒井君が、声も出さずに倒れた。 「さ、酒井君…。何をするんです。薬は上げますから私達に危害を 加えないで下さい」 室長である私は、震えながらやっとその言葉を口にした。 「ふん。協力的なのはいいことですよ。それでは、促進薬の方も一 緒に出して貰いましょうか」 私達は震える手で、とにかくこの場を何とか乗り切ろうと、言わ れるままに行動した。 「それでは殺さない変わりに、この促進薬を全員に飲んで貰おう。 本物かどうかの検査もしないとなっ」 ニタリと笑った口元からは、狂気しか伺えなかった。 私達は、促進薬100%の純液を各々飲まされた。 (あぁ。これで私もおばあさんか…)こんな時になっても、年を取 るのがイヤな思いしか湧いて来ないのは不思議だ。 胸が苦しくなって、身体が重く感じられた。 みんなは? 他の人を見ると、何ともないようだ。 「みんな大丈夫?」 「えぇ、ちょっと耳鳴りがしますが、後は何ともありません」 「ほんと、一体どうなってるのかしら?」 あの二人組を見ると、全然動かない。…何故? 「と・時計が…」 「えっ? とけい」 時計の針が止まっていた。秒針が全然動いていない。デジタル時 計の100分の1秒の表示も動いていない。 えっ? どういう事? 「こ、これ見て下さい」 沙希ちゃんが甲高い声をあげた方を見ると、彼女が触れている紙 が、床から浮かんでいた。 「これ。薬を飲む時に、手をついて机から落ちたんです」 「落ちたって言っても、落ちてる途中みたい…」 「……」 途中? 成長薬。止まっている。速い? 「そうか…。私達が研究していたあの菌は、成長を速めるんじゃな くて、時間を速くする薬だったんだわ」 「え? どういう事ですか?」 「だから、植物は普通に成長していたのよ。但し彼らの経過時間が 異常に速くなってね。…相対的にみたら成長が速くなったように感 じたのよ、我々が植物よりも遅く動いていたから…」 「え? よく解らないです」 「つまり、こういう事」 私は、二人の侵入者にゆっくり近寄っていった。 「あぶない」 沙希ちゃんが声をかけるのも無視して、私は彼らの拳銃を取り上 げた。 彼らは思ったとおり、全然動こうともしない。 「ほらね」 拳銃を机の上に置くと、私はみんなを振り返った。 「さぁ。それじゃ、私達が普通の時間に戻れる様にしましょ。その 前に、沙希ちゃんロープ持ってきて、この人達を縛っちゃいましょ」 「はーい」 沙希は、小走りに用具室に向かった。 「キャー」 「え? 何?」 私達が見た先では、彼女の服が煙を出していた。 「早く脱いで!」 私は白衣を脱ぎながら、ねっとりと絡み付く空気に抵抗し、急い で彼女のところへ行った。私のスカートも煙を吐き出した。 気がつくべきだった。空気との摩擦って結構大きいんだ。 結局私達は、下着まで脱いで毛布に包まる事になってしまった。 「あまり速く動かない方がいいわね。嫁入り前の女性の裸を見たん だから、男性諸君には今度のボーナスで、高いスーツでも買って貰 いましょうか」 私はみんなに笑いかけた。 「そうだ。酒井君に薬を注射しましょ。助かるかも知れない」 私達には時間があった。むろん私達だけの時間だが…。1時間は 経過していると思えるのに、まだ1秒も経っていない。 酒井君には、みんなで話あって、12時間程の停滞薬を注射した。 私達も自分達が元の時間速度に戻れる様、十分に計算し、停滞薬 を各々飲みこんだ。 勿論その前に、彼らをしっかりと縛りあげた私達は、3時間程度 の停滞薬も注射していた。このままにしておく訳にはいかない。 元に戻った私達は、弛緩剤を打ったと称した彼らと拳銃を、警察 に引き渡し、近くの知り合いの外科医のところに、酒井君を預けた。 勿論手術して貰わねばならないので、ある程度のことは打ち明けざ るを得なかったが…。 自分達の身体を使っての動物実験は、以外な結果を導き出してし まったが、これは私達の手には余った。 彼らの依頼者のおかげなのが、人類にとっては皮肉だけれど、一 企業が独占できる様な規模を大きく超えてしまっている。 今後は世界中でこの研究がされるだろう。勿論食べ物の調達から 保存なんていう事だけじゃなく、長い宇宙旅行や、現代では治せな い病気も…。 だが今の人類に、この発見がはたして管理できるだろうか?