第5回3000字小説バトル
Entry11
立ちつくす影は歩道橋で延びた。いつまでたっても延びていきそ うな、そんな錯覚を覚えた。日が沈んだ。錯覚は、影と共に消えた。 <終わらせるための序文> 『人間を人間たらしめているものは、倫理観ではなく恐れである』 <雪、12月> 白い息たちが歩いている。マフラーを巻き、コートを着込んだ息 たちは、どれもが足早で、それでいてすべてがスローに見えた。 積もる気のかけらも無い小雪は、地面に落ち、溶け、びしゃびし ゃと音を立てられるくらいの溜まりになり、ブーツを汚す。そこか ら先はない。ただブーツを汚して、運が良くても「この前の雪のせ いで汚れた」と言われて終わるのだ。僕はそんな溜まりを避けて歩 いた。僕はブーツを履けるほど金を持っていなかったが、僕の履く スニーカーだって溜まりを歩けば汚れるのだ。 僕の通う大学は地下鉄の駅の近くにあったが、大学から斡旋され た寮はキャンパスに行くのにまず10分歩いて駅まで行き、6つ駅 をやり過ごさなければならない場所にあった。そして部屋は狭かっ た。けれど僕はなんとなくこの寮を選んだ。住んで2年になってい たが、「別の所に住もう」という気はさして無かった。空調設備は 備え付けられていなかったがそれは我慢と対応がきくし、毎朝10 分歩いて6つ駅をやり過ごすことより引っ越す方が面倒の様に思え たからだ。 その日も駅を6つやり過ごすために10分間の道のりを歩いてい た。毎日が不変だった。名のある大学でもなく、名のある教授の講 義を受けるのでもなく、ただ7つ目の駅で降りるために、寮から歩 いて10分の駅に向かっているのだ。 僕は何でもない。僕は「僕」ですらないのだ。そう考えるのが毎 朝の日課になっていた。単位を落とすわけでもなく、教授に見初め られる学生でもなく、ちょっと世間からはみ出して「かっこいい」 と思わせる風体でもなく、ちょっとの才能で人に頭を撫でられる時 期をとっくに過ぎて、空想で遊ぶには年をとりすぎていた。どうす ればいいんだろう。どんなアプローチから考えてみても、終着点は いつもそこだった。歩行速度が緩くなり、次第に止まる。けれど、 歩き出す。地下鉄に乗るために。結局、僕が僕は「僕」じゃないと いくら主張したところで、僕は「僕」なのだ、それこそ不変なのだ。 どんな理想があろうと、そして無かろうと、僕は僕なのだ。否定も 肯定もされないまま、僕は変わらない自分を生き続けるのだ、まだ 「生き続ける」ことで発生する可能性を捨てきれないから。 「生き続ける」ことで発生する可能性。あいつも同じ言葉を使っ た。 地下鉄の階段を下り、改札口の上に掛かっている時計を見上げて、 丁度10分、ここまでがいつもと同じだった。傘をささずに雪の中 を歩いたので、あまり降っていなかったとはいえ些か身震いが冴え た。ふと違和感を感じた。靴の中で指が一本増えたような、(むず むず)、微妙な感覚、それは僕をぎこちない気分にさせた。 視線。 ? 振り返ると、見たこともない少年がすぐ後ろに見えた。高校生、 だろう、それ以外で詰め襟を着る職業を僕は知らない。思い当たっ てもそれは戦後までだ。 少年はじっと僕を見ていた。僕の目を見ていた。僕の方にこの少 年について思い当たる節はなかった。そして僕はここが改札口の前 であることに気が付き、 「あ、すみません」 と言って通路を開けた。僕が邪魔だったのだろうと思った。回り込 んで先に行けばいいのに、とも思ったが、通路の真ん中に立ってい た僕も悪いのだ。 けれど、少年は先に進まず、僕を見ていた。僕の目を見ていた。 気味悪くなった。なんだと言うのだ。 「話がしたいです」 と、僕が口を開く前に少年は言った。 「できれば外で。空の下でです」 外はまだ雪がちらついていた。少年の唇から白い息が漏れるのを 見た。端整な顔立ち。僕は少年に対して不思議な好感を抱いていた。 ある朝突然「話がしたい」と見知らぬ高校生に言われて好感を抱い た僕は、少年に、少年の言うことに、少年の全てに興味を抱いてい た。けれど僕は少年の唇ばかりを見ていた。 「雪の中歩くの、好きですか」 と少年は言った。 「嫌いじゃないけど。冬眠できるほど寒くなければね」 「歩こうです」 と少年は言った。 「学校はいいのか?」 「ボクは学生じゃないです」 「そんな服を着てるというのに、そりゃないだろ」 と僕は言った。そして気付いた。少年はまさに詰め襟を着ていたが しかし、それに連続するべき高校生たらしめる物を何一つとして持 っていなかった。雑誌やMDウォークマンや油とり紙(そしてちょ っとの授業道具)の入った鞄も、ストップウォッチ機能の付いた大 きすぎるくらいの時計も、そうだ、高校生という香りも、何一つ。 きっと詰め襟の制服すらも除いてしまえば、純粋な「少年」として の存在がそこに現れるだろう。 僕は自分のペニスが堅くなっていくのを感じた。「僕は今目の前 にいる少年に性欲を抱いている。」 「歩こうです」 と再び少年は言った。僕たちは歩き出した。 「何を考えていつも歩いているのですか」 と少年は言った。僕は少年の方に顔を向けたが、少年は伏せ目がち に前を向いてただ黙々と歩いていた。頬が淡く染まっていたので、 空耳でないことが分かった。 「話したい事って、それかい?」 と僕は言った。少年の唇を見ていた。 「そうでもあるし、それだけじゃないです。あなたの考えてること が知りたいです」 「君は僕をずっと見てたのかな、どこかで」 「そうです。あなたいつも何も見ずに歩いてます」 「2年以上になるからね、あの道も」 と僕は言った。僕はこの少年がずっと僕を見ていたと言うことを無 条件に納得した。改札口で初めて見た少年の瞳は、有無を言わさず ただ事実だけを述べていたからだ。「ずっと見てたよ。」不変な生 活に慣れすぎたのか、突発的で間の抜けるような変化に何の驚きも 怒りも感動もなかった。 「僕はいつも「どうしよう」って考えて歩いてる。どうにもならな いのが現実で、どうにかしようとも思わない。ただ考えるんだ。理 想の自分を作り上げるのでもなくて、ただ考えるだけ。どうしよう どうしようってね。堂々巡りを繰り返す。それだけさ」 「そうやって生きてるです」 「そうだよ。そうやって生きてるんだ」 「生き続けることで発生する可能性信じないで?」 と少年は言った。 「それは「どうにかなるかも知れない」を信じないでって意味かな」 「違うです」 と少年は言った。 「「何が起こるか分からない」を信じないでって意味です」 歩みが止まった。 「ボクは天使なのです」 その後すぐに『天使』と僕はセックスをした。体感温度は記録的 に低かったが、少年の中はとても温かかった。舞い降りてくる雪す ら羊からの贈り物のように思えた。少年は僕を拒まなかった。それ は水が流れ落ちるように自然に受け止められた。 互いの射精が終わると、少年は僕の瞼に何度かキスをした。例え グレゴリー・ペックでも、少年が僕にくれたものより素晴らしい瞼 へのキスを受けたことはないだろう。 「君は、こうしたかったの」 と僕は言った。 「互いに求めたのです。求めていたのです」 と少年は言った。 「あなたはあなたの持つ「不変」を動かすなにかを、ボクは自分を つなぎとめる何かを」 もう二度目はないのです。そう言って、『天使』は僕の前から消 えた。もしかしたら、実際にこの世界から消え去ったのかも知れな い、それは少年にしか分からない。 それでもこれから僕は生き続けるのだ、毎日「どうしよう」と考 えながら。気が付けば雪は止んでいた。薄い太陽に照らされた歩道 橋が見えた。