第5回3000字小説バトル
Entry16
幼い頃からずっと、この世で一番高いのがあの塔なんだと、疑い もせず思っていた。街の内側より何十メートルも高い、運河の外堀 の内側から眺めても、歩いて歩いて幾らか近づいたかと思っても、 その塔はこの近くの高い建物に隠れて、先端の少しだけしかその姿 をあらわすことが無い。人が毎日毎日、塔へ向かってぞろぞろ歩き 消えて行くのを、あの人達は毎日そうして歩いているようだけど、 はたして毎日塔まで辿りついているのかしらと、酷く疑わしく思っ てもいたのだ。 長じて初めて地下鉄を利用するとき、私は車両が押し立ててくる 騒音に磨り潰されてしまうのではないかという恐怖を確かに覚えた ものだと思うが、今それを思い出しつつこちらへ入ってくる車両を 見てもそれほどの音とは思われない。もともと轟音が異常に精神に 障る体質らしく大型トラックが脇を走るのに遭遇するだけで気が遠 くなる自分であるからこれはひどく不思議なことだ。もしかすると あの騒音の一部が年月の間に既に私の胸に吸着して、不安への耐性 が備わっているのかもしれなかった。そうならばそれは私という存 在のなかに起こっている唯一の不吉である。どんな場合でも耐性な ど人にとって凶兆に他ならない。私は私の精神や心臓が切り刻まれ たり鋼や綿の糸に引き絞られたり鑿に穿たれる、苦痛の感触を糧に して生きているのだから。地下の世界にはこんなかけがえない感触 でも麻痺させてしまう何かが仕込まれているのだろう。それなら原 因は、日光が入らないことだろうか、それとも母などという尊称を 受けて、一人前の人が享受すべきあらゆる感触を鈍らせる大地とい うものの内部だからなのだろうか。地上へ出る為の階段を上り、や っと呼吸の仕方を思い出す。 いつもより街が霞んでいる。その元凶が何かは解っていた。運河 の堀の向うに建造中の、巨大な建物の所為である。堀のこちらには 幹線道路が通り、向う側は古びたビルがそれぞれ同じぐらいの高さ に続いていく。その中に建物はある。 威容である。側に並ぶビル と比べて高さが倍近い。奥行きも幅も立っているのがようやくの他 の建物と違い何倍も広く、もちろん真新しく、地下にも幾階かはあ ると思われるそれは、その場所に無理に差し置かれ自重で沈んでそ こから動かなくなったようにも見える。鉄骨が組み上げられる。厚 い壁が張られてゆく。未だ鉄骨の顕な屋上には地上のものとはまる でスケールの異なる建造機械が、何か檻のような物体を吊り上げよ うとしている。 ―――あんな機械がまだ動くとは思わなかった。 朱と白に染め分けられていたのであろうその機械の長い腕や支柱 の、色合いが判別しがたいのは当然と言えば当然である。既に朽ち ているのだ。あれではまるで機械の屍だ。 上り勾配の橋を越えると建物はすぐそこである。早く渡ってしま おうと無意識に歩き、橋に踏み入るとき異変に気づいた。藻と汚泥 に澱むばかりの運河の水面が、これ以上無いぐらい美しくさざめい ている。音までたてそうなその様子に心の端を奪われて次に気がつ いたのが塔の影だった。ここから見ると数百メートル離れた隣の橋 の奥方向に、紅蓮の塔と呼ばれるその塔は建っている。もともと高 い塔であるから橋を越えてその影が運河に映る。しかし今日その影 は、いつもよりさらに伸び、私の立つ橋の下まで続いていたのだ! 橋を渡り切るところはすでに建造物の端にあたった。運河の堀 はかなりの深さがあり、橋の下を二分置きに錆びたような橙色の電 車が過ぎる。高架線がそれをどこまでも追ってゆく。スモッグと建 物に遮られ周囲は仄暗い。ふと気づくとここの区域図の看板が二枚、 並んで立っていた。柔らかい色調で街路と各建物の形を示すそれを 眺めたとき、やっと湧き出した気持ちに看板を蹴り割ってしまいた くなった。 私は走る。生まれて初めて走る事に両脚を遣う。今渡り終えた長 い橋を中ほどまで戻りその勢いのまま柵に乗りかかり眼下の水面に 伸びる塔の影を真下にした。息を切らす。鼓動が高まる。河岸まで 土手の電車までもあかく錆びさせたこの運河。以前に増し伸びる塔 の影。高い土手の上の巨大な建物。そして紅くさざなみはじめた水 面。目を触れた私の脳漿も既に、この紅にまみれているのか。目が ―――目が眩む。目が眩む。こんな状態長く続かない長くは続かな い、そういう言葉が無駄に口を衝き止まらない。 長く続かない? ここがこの街である以上、建てられるならば建ち続けるだろう。 もとよりこの街に、人間の意思で建ったものなど一つも無いのに違 いない。街路を走る人間などこの世界には居ない、立ち止まる人間 も居はしない。運河を渡る船のゆくさきを知る人間など居ない。私 はいま轟音をたて幹線道路をゆく大型貨物車を振り返り注視する。 視力の届く限界以前にその影は消え失せる。間違い無い。ここでは あの塔を永らえさせる為に全てが回っている。塔へ向かい塔から帰 ってくる無数の人間たちのためのどこに、その住居が存在すると言 うのだ。私はいつこの街に来たのだ・私はどこに居るのだ・「ここ」 はいったい何処なのか? 「ここで生まれた」私には既に判らない のだろうか。 皆この街を目指す為だけに電車で砂漠を抜け、やってきたのだと 語っているが、私はそうでない事を知っている。 塔だ。街のメーンモニュメントであると主張することをしない紅 色に錆びた塔を、この街に着いてしまえば人は気に留めることがで きなくなる。それでも毎日朝が来ればその塔へ、電車で徒歩で、通 い続けるのだ。そしてこの街に新しい建物が建つなどありえない話 だった。私は混乱する。何が起ころうとしているのだ、何を造ろう としているのだ。何の因果があってもう一昔も前に死んでいるはず の機械が建物を組み上げはじめるのか、ともに日に日に生気を増す あの塔はどうしたことだ。影を映すだけの運河の、水面さえその禍 禍しい生気にあてられてこんなにさざめいているではないか。 今ここに立っているのが私でなければ、あの塔の落とす滲んだ 輝きに触れんが為に、濁った水の一部にでも成ってしまいたいと夢 想しさえするだろう。既に何百人と、沈んでいるからこその、この 水面であるのかもしれぬ。それでも彼らは水の底では、まだ死ぬ事 ができないで積み重なっている。ここはそういう街だ。それともこれ がこの街で辛うじて、死ぬと言うべき事なのだろうか。死んでも あのように働ける機械などとは違って、人間は死ねば忌まわしい大 地に融けてしまうだけだ。それなら私は死ぬわけにいかない、ここ がどこであろうとも。私が私を。一人称で語る事の出来るうちは、 私はまだ、死んでいない。 私だけは、まだ死ぬわけにいかない。生きている。苦痛の感触を、 糧に。いまならあの巨大建造物。それを死んだ機械に作らせ生気を 甦り始める塔への不信感。おそらくこの街でわたしだけの持つ。そ れゆえの。私は塔を左肩に、河岸の上の、異常なほどに大きく真新 しく巨大な建物の威容を睨む。死んだ機械に組み立てられる建物は 何に使われるのだろう。塔は機械の屍に、一体何を吹き込んだ?