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第5回3000字小説バトル
Entry19

戦地に赴く

作者 : 天野 幾 [アマノイク]
Website : http://members.tripod.co.jp/iku19/
文字数 : 3000
 真夜中、たった一人、荷造りしたスーツケースに、真奈は浅く腰
掛けていた。開け放たれた窓から、月の光だけが、淡々とその横顔
を照らす。冷たく凍り付いた時に、取り残された者の横顔。
 ぼんやりと、真奈は顔を上げる。無意識に、右手を伸ばした。棚
に飾った写真立てを、ゆっくりと伏せた。
 出発は、近い。死んだような心が、それだけを認識していた。
 傍らの、携帯電話が鳴った。真奈はそれを、持ち上げる。
「もしもし」
「……わたし」
「ああ」
 真奈は少し笑う。目を閉じた。その一瞬、過去が走る。
「お姉さん。ご無沙汰してます」
「突然電話したりして、ごめんね」
「いえ」
「……人づてに聞いたんだけど」
 響子は、単刀直入に言おうとした。けれど、言葉を選ぶ。その僅
かな逡巡の間に、真奈はさらりと応える。
「わたし、やめませんよ」
「…………」
「いろんな人に、止められたんですけどね」
 そう言いながら、スーツケースに置かれた真奈の手が、微かに強
ばる。決意は、揺るがない。揺らいだりしない。言い聞かせるよう
に、心の中で強く思う。
 響子はため息をついた。説得は無理だと、初めから知っていた。
「……そうよね。一度行くって決めたあなたを、止められそうな人
なんて……いないものね」
 ――もう、この世には。
 諦めの口調の向こう側に、言葉にできない声を聞く。真奈は携帯
を持ち直し、ゆっくりと口を開いた。
「……彼は、言ったんです。いい写真が取れたって、だからこれか
ら帰るって、言ってたんです」
「……だからって、あなたが今さら現地に飛んで、あの子の歩いた
軌跡をたどって……そんなことして……何になるの?」
 真奈は僅かに、微笑んだ。自嘲にも、似ている笑み。
「ただの自己満足ですよ」
「……あの子ね」
 響子の口調が、諭すように強くなる。
「出かける前に、わたしに会いに来たの。おみやげ何がいい? っ
て。おみやげなんて、悠長なこと言えるような場所に行くわけじゃ
ないのに。顔を見れば、わかったわ。あれは……覚悟、していた」
 真奈は瞬きし、僅かに顔を上げる。
「……わたしも、そう感じてました」
「薄情な奴よ。婚約者がいるのに、戦場に飛び込んでいったりして」
「…………」
「もう……忘れちゃいなさいよ」
 響子は、そう言うと、黙り込んだ。真奈は、麻痺した感情で返す。
「恋人なら、いくらでも代わりがいるって言うんですか? 弟は、
たった一人だけど」
 応えは、重い沈黙だった。真奈は重ねる。
「あんな人の代わりが、本当に、いると思うんですか?」
 泣いてる。真奈はそう思った。きっと泣いてる。声に出さずに。
 真奈は髪をかき上げた。唇を噛み締め、自責する。
「……すいません。お姉さんに、そんな事言わせるような、不届き
な婚約者で。あいつに、怒られます。だけど……わかって下さい。
わたし、どうしても行きたいんです」
 しばらくの、間があった。お互いが、お互いを、確かめ合ってい
るような気がした。見えない場所から、糸を手繰り寄せるように、
遠く、近く。
 響子が、呆れたようにふっと笑う。
「やっぱりあなたも、似たり寄ったりの馬鹿ね」
「……すいません」
「謝らないの。こっちの立場がないわ」
 少しだけ、響子は考えるような間を空け、言った。
「あの子、本当にあなたが好きだった」
 何の意図もない、率直な言葉。厚い雲の隙間から、光がこぼれだ
したようだ。そして果てしない空が広がる。その青を、垣間見たよ
うに、真奈は淡く微笑む。
「ありがとうございます」
響子もちらりと微笑んで、続ける。
「ちょっとね、わたしも嫉妬してた。そのころ……結婚ってものに、
ちょっと失望してて、恋愛なんてこんなもんかって、感じてて。な
のにあの子は、とってもいい顔で恋をしてる。ああ、うらやましい
なって、すごく思った。そんな人にめぐり合えた、あの子の幸運が
ね」
 真奈は応える。
「わたしは……」
 同じぐらい、好きだった。今なら言える。彼がいなければ、生き
ていけない。ちゃんと前を向いて、顔を上げて、生きていけない。
世界に存在する何一つ、心に入ってはこない。
「…………」
 言葉が、続かなかった。声にしたら、嘘になりそうで、続けられ
なかった。
 そんな真奈の様子を、電話を介していても、響子はくみ取ったの
だろう。こう言った。
「いろいろ、わたし、きついことも言ったよね。ごめんね。本当は
ね、あなたたちが結婚したら、子供が出来たらって、考えてた。ち
ゃんと祝福できるって、本当は思ってた」
 今、言ってみたところで、何になるのだろう。
 響子が再び、黙った。代わるように、真奈が言った。
「わたしは、写真を撮っている彼が、好きだったんです」
 初めて真奈が彼を見た場所は、サッカー場だった。雨だった。高
校生のころ、サッカー部のマネージャーをしていた友人に付き合い、
母校の応援に来ていた。
 傘をさして、ぼんやりと試合を眺めていた真奈は、すぐ近くで、
写真を撮っている男に気付く。その、ファインダー越しに選手を追
いかける彼の気迫に、圧倒された。目を、逸らせなかった。選手で
はなく、彼の横顔を、真剣な眼差しを、見つめていた。
 今でも鮮やかに、よみがえる。濡れた草の黄緑色。土の匂い。
 カメラが濡れないようにと、気を使いすぎて、自分がずぶぬれに
なっている彼に、そっと傘をさし掛けた。驚いたように、彼が顔を
上げ、目と目が合った。礼を言った彼は、クシャリと、少年のよう
に笑った。
 ああ、ものすごくこの人が好きだと、今までにない感情が、稲妻
のように、降ってきた。
「……真奈さん」
 響子の声音に、少しだけ、からかいに似たものが混ざる。
「向こうへ行く目的……本当は、違うんじゃない?」
「…………」
「あの子の、どこかに残ってるかもしれないフィルムを、探しに行
くんでしょ?」
 真奈は苦笑した。
「……かないませんね」
 目を細めて、続ける。
「彼の、現地からの電話で……そろそろ帰るって、言ってた時ので
す。こうも、言ったんです」
 ふと、魔が差すように、傷が開いた。ズキンと痛みが跳ねる。ま
だ、過去ではなく、現実の痛みだった。無理矢理に、抑える。あの
日からずっと、繰り返してきた。この先、気が遠くなるほどの未来、
いつまでも続いていくように思える。
 目を伏せ、真奈は静かに、口にした。
「『戦争は、奪うものだな』って」
「……そう。そんな事を」
「はい。わたし、今更何言ってるのって、そういう風な事、返した
だけだったんですけど」
 懐かしかった。懐かしいという、その感覚を、嫌悪しながら受け
入れる。けれど、時が経てば、風化していくのだろう。少しずつ。
 彼は、過去になっていく。
「……わたしも見たいわ。あの子が戦場で、何を撮ったのか」
「最高の写真のはずです」
「そうよね。でもね……いい? これだけは、約束してね」
 響子が、改まったように言った。これを伝えるために、電話して
きたのだ。
「生きて、戻ってきなさい」
 その言葉の温かさが、真奈の胸に染みる。嘘でなく、祈りのよう
に、神聖に響く。
「はい。ちゃんと、帰ってきます」
 真奈は、誠実に応えた。彼女も、大切な人。喪失を知っている分、
自分の命の価値がわかる。帰ってくると、決意する。
 真奈は目を閉じた。
 想えば見える。出発直前の彼の笑顔。何度でも思い出すし、消え
ない。涙を流すよりもずっと、抱き続けていたいと願う。
 彼は走り切った。その軌跡の眩さは、想う数だけ光り輝く。