第5回3000字小説バトル
Entry20
親方は膝前に広げられた織物に目を細めた。 「久実子さんの織物は近頃評判だじゃ。腕あげたじゃな」 久実子のくちばしは自然に綻ぶ。 「いえそんな。まだまだですわ」 愛想よく麦茶を差し出しながら、細長い首をくねくねと捻る。た しかに久実子の目にもその織物は美しく映っていた。 麦茶を一口飲むと、親方はちょっとまじめな顔になった。 「じつは話があるだじゃが」 「はい」と、久実子は翼を行儀よく膝の上に折り重ねた。 「久実子さん、デーモン百貨店知ってるじゃがか」 「え、デモ?」 「デーモン百貨店じゃが。知らんじゃがか」 「あ、はい。恥ずかしながら」 「そじゃか。いやな、そこで久実子さん、作品並べる気い、ないじ ゃがかと思って。たっくさんの人にな、見てもらって、できれば買 ってもらう、そんなこと考えとるんじゃがね」 親方はにっと笑うと、目の前の織物を毛深い掌でなでた。 「ま、考えてみてくれんじゃがか」 久実子は曖昧にうなずいた。 「ほんっと甲斐性ないんだから、うちの人」と、珠子さんはフルー ツカルピスをぴちゃぴちゃ舐めながら愚痴をこぼし続けた。「いま どきねえ、車の免許もとらないなんて信じられないでしょう? せ っかく、かわいいおもちゃ沢山こさえてドライブ代稼いだのに、も う」 さっきから話を振る機会をねらっていた久実子は、すかさず言葉 をはさみ込んだ。 「ねえ、百貨店でおもちゃ売らないかって、珠子さん言われた?」 あ、あの話ね、と珠子さんはちろっと久実子を見あげた。 「ええちょっと前に。もうあちこち声がかかってるみたいね」 「そうなの」 「そう。あたしもね、ちょっといいかなって思ったの。でも、うち の人がね」 「え、ご主人?」 久実子は思わず身を乗り出した。珠子さんの頑固で偏屈なだんな さんがいったい何と言ったのか。 「やめとけって。ねえ久実子さん、その、百貨店って行ったことあ る?」 「いいえ」 「どうもねえ、あたしのおもちゃを買ってくれるような子たちはあ まり来ないところみたいなの。うちの人ったらこうよ。何だこれ、 大人のオモチャじゃないのかってクレームが来るのがオチだって。 うっふふふ」 珠子さんはちょっと首をすくめて甲羅の中にひっこめると、淫猥 に笑ってみせた。「ホントうちの人ったら言い出したらきかないも の」 その言葉の中には何か誇らしげな欠片があるように久実子は思っ た。 「まあそこが、いいところなんだけど」 こそっと呟くように言うと、珠子さんはぽっと頬を赤らめた。久 実子の胸はちくっと痛んだ。 久実子は夕餉の仕度を始めた。自分一人分の料理。 ご飯の炊ける匂いを嗅ぎながら、ふっと幸福だった日々を思い出 す。今頃どうしてるかしら、とついつい面影を追ってしまう。 いけない。 久実子はあふれそうになった涙を羽の先っちょでそっと拭くと、 小さな頭を左右に振ってからたまねぎのみじん切りを始めた。する と、拭いたはずの涙が後から後からとめどもなく流れてきた。 そうよ、と久実子は自分に言った。あたしはたまねぎのせいで泣 いてるんだわ。うふふ、ばかみたい。ばかみたい、よね。 ふいに久実子、と呼ぶ声が聞こえた。あ、と久実子はみじん切り の手をとめる。 ばかだなあ、何でたまねぎなんかで泣くんだよ。こっちへおいで、 いいよ飯なんか、ちょっとおいでよ、涙ふいてあげるから。 久実子はがく然として包丁を置いた。 ああどうして、と久実子は呻いた。忘れようと思ってるのに、何 をやってもあたしはつい、思い出してしまう。 もう二度と会うまいと、心に決めて出てきたのに。 どんっどんっ、と激しくドアを叩く音がそのとき聞こえた。 どんっどんっ。久実子はじっとそのドアを見つめた。それは新聞 の勧誘員の立てる音でも、簡易書留を届けに来た郵便局員の立てる 音でもなかった。この音は、この音は、でもそんなはずないわ、と 久実子ははげしく頭を横に振る。 「久実子! 久実子! いるんだろう? 開けてくれ!」 享さん! 久実子の細長い首に戦慄が走った。享さん。そっと呟くだけでも 体が熱くなってしまうその名前。羽の先っちょが細かくぷるぷる震 える。どうして、どうしてここが。 「久実子お願いだ! 開けてくれ!」 久実子はドアに駆け寄って体をもたせかける。 「だめよ、帰って」 小さな頭を涙でぐちょぐちょにしながら久実子は叫んだ。 「帰るもんか。開けてくれるまで絶対ここから動かない。ほんとだ よ。だから」 久実子はぎゅっと目をつぶった。享がこのドアの向こう側にいる。 必死の形相でドアを叩いている。絶対見つかるまいと身をひそめて いたのに、ここまで追ってきた。 久実子は震える翼でドアを開けた。 もはや久実子から拒絶の姿勢は跡形もなく奪われてしまっていた。 激しい情熱と狂おしいまでの欲求が、久実子のほっそりした全身を 怒濤のように貫いた。 はあああああん。 恍惚のきわに大きく一声あげると、久実子は忘れかけていた悦楽 のさざ波に身をまかせながら静かに水底に沈んでいった。穏やかな 至福のひととき。 「享さん……」 肌のぬくもりを確かめながら、久実子は小さく呼びかけた。 「なに?」 あたたかな声が答える。 「ここ、なぜわかったの?」 「ずっとね、耳を澄ませてた。久実子の織物をぐっと抱きしめてね、 久実子がはた織ってたときの音を頭に蘇らせてね、そうしたら、こ こまで来られたんだよ」 「そう……」 「そう。ねえ久実子、君はまだ何にもわかっちゃいない。何にも見 えちゃいない。ねえ、外側のことしか君は見ちゃいないんだよ。も っと、はっきり目には見えないものをね、見られるようにならない とね、たとえば」 享は目を閉じて大きく息を吐いた。 「たとえば?」 「僕も鳥なんだってこと、君はわかってないだろう」 享が寝息を立ててからも、久実子はまんじりともせずにただ暗い 天井を見つめていた。 何にもわかっちゃいない……。 久実子はそっと起き上がると、脱ぎ散らかされたままの享の衣服 に手羽を伸ばした。そのなかにはぼろぼろに擦り切れた一枚の布が まぎれ込んでいた。久実子はそれを胸に押し当て目を閉じた。 享との満ち足りた日々の記憶が、津波のように押し寄せてきた。 こういう毎日がずっと続けばいいのにと願いながらも、やはり叶わ ないのだとあたしは出てきた。なのに、享さんはここまで来てしま った。この布きれをずっと大切に抱きかかえて。 久実子はあらためてその布をなでた。そこには、えも言われぬあ たたかで胸に迫る感触があった。半ば忘れていた感触だった。自分 の羽の一枚一枚を愛する人に捧げるつもりで織ったものにしかない、 生命そのものの感触。 それは決して器用に整った代物ではなかった。そういう意味では、 近頃親方に納めているものには到底およばない代物だった。 だけど、と久実子は思った。だけどこれには、きっとあたしの魂 が入っている。どんな立派な百貨店にも置いてない、ぬくもりのあ る貴い逸品。こういうのを、こういうのをあたしは本当は織りたか ったんだわ。愛する人のために。 今までとはちがう織物を織ろうと久実子は思った。 百貨店の話はやめよう。あたしは自分の足で行商をしてでも、本 当にこの価値をわかってくれる人に手渡しで織物を捧げよう。 そうたとえ、全身が禿げあがってのたれ死にすることになっても。 久実子は細長い首をくるりと捻ると、安らかな息を立てている享 の寝顔に微笑んだ。