インディーズバトルマガジン QBOOKS

第5回3000字小説バトル
Entry22

がんじがらめ

作者 : 鮭二
Website : http://members.aol.com/Shakeji/papyrus.htm
文字数 : 3000
 ある晴れた昼下がり、市場へと続く道を歩いていた。荷馬車がご
とごと子牛を運んでいくのを横目に。
 市場では牛肉が安かったが、私の財政は虚ろだった。だったらま
ともな仕事に就けよと人は言う。大きなお世話だ。山盛りの牛挽肉
をガラス越しに眺めながら、表面をかりっと固めに焼いたハムバー
グステーキに思いを馳せる。悲しそうな瞳で、み、て、い、る、よ。
牛を振り払って駅に向かう。
 運転席の背後に立ち、前方の風景を眺める。真っ直ぐに伸びるレ
ールが車両の下に吸い込まれていく様を見ていると、自分の立つ位
置がおぼろげになっていく。レールに焦点が合ったまま、全身の筋
肉が弛緩する。
 電車が唐突に速度を落とし、現実に引き戻される。駅は遥か前方
に黒い影となって見えるだけだ。
「ただ今阿佐ヶ谷駅構内におきまして人身事故が発生したとの情報
が入って参りました」
 即座に、乗客の8割が携帯電話を耳にあてる。「ええ、人身事故
で……また中央線が……ちょっと、遅れます」。私には電話を携帯
する習慣がなかった。「遅れる」と報告して遅れが取り戻せるわけ
ではないし、どうせ待っているのは吉村だし、どうでも良かったの
だが、動くレールを眺められないのは退屈だった。
 電車は小一時間ほどその場で足止めを食った。その間車内放送は
「お客様の除去作業が済むまで、今しばらくお待ちください」と繰
り返していた。次の駅での事故だから、容易に入線できないのは分
かるとしても、「お客様」とは一体どういう事だ。
 ようやく動き出した電車が阿佐ヶ谷駅に滑り込む時、私はレール
から目を逸らした。「お客様」の気配が伝わってきそうだったから
だ。乗客達がまた電話を耳に当てる。「あと15分くらいで伺える
と思います」。彼らは一体何を解決しようとしているのか。私の想
像力は貧弱だった。
 高円寺駅の自動精算機にサラリーマン時代の名残たる定期券を挿
入したところでふと気付く。財布がないのだ。「精算金額を投入し
てください」と機械が急き立てる。
「事故で約束の時間に遅れてるんです。帰りに必ず払いますから」
 若い駅員は「だからどうした」と言いたげな目で私を眺め回し、
「何か身分証明書、あります?」と訊ねた。私はすべてのポケット
をまさぐり、レンタルビデオの会員証を見付けた。駅員はボールペ
ンをくるくる回し、冷ややかに笑っている。
 もう、どうでもいい。私はまたホームに戻った。どうせもう1時
間も遅れてるし、待っているのは吉村だし。
 荻窪まで戻って改札機に定期を入れると、チャイムが鳴って私を
通せんぼした。一旦どこかの駅で降りないと、自動改札を通れない
らしい。
「ふーん、財布を忘れました、か。なるほど、可能性はありますね
え、確かにね。で、本当はどこの駅から乗ったんですか?」
 駅からアパートまでの道すがら、私は暗い気持ちでうたを口ずさ
んでいた。ドナドナドォナドォナァー、荷馬車が揺れる。
 部屋に戻ると、留守電が入っていた。
「あ、津田くん、あたし、吉村でえす。絶対電話しちゃいけないっ
ていうのは百も承知なんだけど、あんまり来ないもんだから、どう
したかなーって。ごめんやし。もしかして事故にでも遭ってたら、
なんて考えると、吉村の小さな胸は不整脈寸前。もちろん、そっち
に行っちゃいけないっていうのも頭では分かっているんだけど、体
が。そう、このイケナイ体が。ああっ……今、必死に電柱にしがみ
ついています。あと何分耐えられるか分からないので、できたら来
て欲しいなーって思ってます。吉村でした」
 週末ごとに上京してくる吉村の金で飲んだり食べたりやっちゃっ
たりするのは、もう止めようと決心したのだ。2年前の元旦、近く
の神社で誓ったのだ。しかし、吉村は何のかのと理由を付けてやっ
て来て、その度に、私もまた何のかのと状況に流され、飲んだり食
べたりやっちゃったりするのだった。
「本当に、これで最後だ」
 私は決心に固く封をして、ポケットに財布をねじ込んだ。
 先頭車両の窓から、またレールを眺めた。3本しか通らない列車
が見たくて、日がな一日線路脇に座っていたのは小学生の頃。私が
レールの彼方を見つめていると、吉村がいつのまにか隣りに腰を下
ろして不揃いの握り飯を広げている。
「あっちいけよ」と蹴飛ばすと、吉村は50センチ横にずれる。も
う一度蹴飛ばすと更に50センチ。結局昼になれば腹が減って、握
り飯を食べることになったのだ。
 ふと我に返ると、電車は阿佐ヶ谷の駅に停車したまま動かない。
「ただ今、西八王子高尾間で信号機故障が発生したため……」
 また携帯がざわつき始める。高円寺まで歩けない距離でもないが、
このくそ暑い中、吉村のために体力を消耗させるのは断然馬鹿げて
いる。ホームに降りて煙草に火をつける。
「お煙草は喫煙所でお願いいたします」
 私は駅員を見据え、煙草を鼻に詰めた。何だか無性に腹が立った。
具体的に何が、誰が、ではなく、何となく不愉快極まりない。朝か
ら何も食べてないからかもしれないとも思ったが、それではまるで
むずかる乳呑児と同レベルになってしまうので、俺は元来そういう
人間なんだと、嫌な野郎なんだと思うことにした。
 煙草を5本吸ったところでようやく運転再開のアナウンスが流れ
た。その合間に「お煙草は所定の喫煙所で」のアナウンスも随分流
れた。ふん、知ったことか。
 再び高円寺駅の精算機の前に立つ。定期券を入れる。不足金は1
30円だ。財布を開ける。ちりっと脳味噌がショートする。10円
玉が3つ。虚ろだ。手の中でちゃりんちゃりんと虚ろに響くが、も
はや脳には響かない。
 足早に改札を通り過ぎようとすると、駅員が腕を掴む。
「ちょっとお客さん、切符」
「ない」
 私は駅員の手を振り払って走り出す。背後で怒声と警笛が聞えた
が、振り返らずに人波を掻き分ける。駅前の電柱に吉村がしがみつ
いている。
「吉村、走れ!」
 吉村の腕を引っ張ると、白いブラウスが肩の付け根から破れた。
「なに、なに、どうした?」
 私の血相に慄きながらも後についてくる。中学高校とハンドボー
ルで鍛えたフットワークだ。右へ左へ小刻みにステップ、スピード
は緩めずに、ステップステップ。商店街を走り抜け、環七に出たと
ころで後ろを振り返る。もう誰も追い掛けては来ない。
「ねえ、どうした?」
 タクシーの中で吉村が私の冷たくなった唇を見詰めている。ねえ、
どうした? その言葉を3回頭の中で繰り返してから、私はようや
く「うるせえ」と呟いた。物足りなくて「うるせえ、馬鹿」と言い
直す。さっき引っ張った二の腕辺りに血が滲んでいる。吉村は「ご
めん」と言ってハンカチを取り出した。「何でもすぐに謝るな、馬
鹿」。
 新宿でタクシーを降りる時、私の足はまだ震えていた。吉村は黙
って後についてくる。
「お前、『ドナドナ』知ってるだろ。ちょっとうたってろ」
 吉村は歩きながら、飲み屋でビールを飲みながら、ずっとうたっ
ていた。暗いうたを暗い表情でうたい続けた。
 結局またしても飲んだり食べたりやっちゃったりした夜、吉村か
ら携帯電話を渡された。
「全部登録とかしてあるから、すぐに使える。お金はあたしが払う
から、電源切らないでね」
 吉村がベッドの端からダイヤルすると、私の手の中で耳障りな音
が鳴り響いた。
「ほら、出てよ」
「なんだよこれ、うるせえな」
 言いながらも私が電話に出ると、吉村はその日初めて笑顔を見せ
た。