第5回3000字小説バトル
Entry5
非常にまずいことに、この映画館の中で迷いはじめて2時間が過 ぎていた。もう夜の11時になるから、彼女はきっと怒って帰っちゃ っただろうし、このまま下手すると帰る電車もなくなってしまう。 明日はまた新しい6日間のはじまりで、僕の仕事は乳製品の運搬だ から恐ろしく朝が早い。いつもならもう眠っているころなのだ。や れやれ。それよりなによりもう疲れたし、お腹もすいた。歩きたく ないけど逃げ道のない薄暗い廊下に腰を下ろしても事態は何も好転 しないだろう。 もともと凄く面倒臭かったのだけど、せっかくの日曜に何もしな いなんて勿体ないと主張する同じ職場に勤める彼女に街に連れ出さ れ、デパートで買い物をしてから最近できた話題のコンプレックス シアターで流行りの映画を見ることにした。映画自体は凄く面白い わけでもなければさしてつまらないわけでもなかったんだけど一つ 言わせてもらえば館内のクーラーが効き過ぎだった。おかげで僕は その日の最終回のクライマックスにトイレのために席を立つことに なった。彼女が、ちょっと、と僕を睨んだけどどうしようもない。 生理現象なのだから。 僕はトイレのありそうな方に見当をつけて長い廊下を進み、似た ようなドアをいくつかあけた。辿り着いたトイレで最近の映画館は トイレまでやけに遠くて分かりにくいなあ、などと思いながら用を 足し、そして戻ろうとした時にはもう、僕は迷子になっていた。 まったく。いったいどうしろというのだ?どれも同じようなドア をあければ、その先にあるのはどれも同じような長い廊下か長い階 段。ひどく暑い夏なのに悪いことに廊下には空調も効いてはいない。 携帯電話の電波も届かない。非常用のインターホンもなければすれ 違う人もいない。これは誰かが大金をかけて作った質の悪い悪戯な のか、僕が急に世界一の方向音痴になったのか、現実問題なにをど うすればいいのか。疲れて何も思い付かない。だんだん笑えない。 最終電車の時間が近づいて彼女のこととか仕事のこととか様々な ことを諦め出した頃やっと一つの解決策らしきものを思い付いた。 前に山で遭難したらどうすれば良いかという話を聞いたことがある。 そういう時は下りずにひたすら頂上を目指して突き進むらしい。な ぜなら頂上は必ず一つだし、必ずいつかは辿り着ける。なるほど。 それが近ごろ流行りのコンプレックスシアターにも当てはまるかど うかいま一つ確信は持てないが、バベルの塔でもない限り頂上はあ るだろうし、まあそうすればエレベーターだとか外付けの階段だと か何かしらあるだろう。頂上まで上がるのはひどく疲れそうだけど 仕方ない。僕は迷子なのだから。 最終電車はもう行ってしまった。明日の仕事なんてもうどうでも いいからシャワーが浴びたい。あと何か食べたい。凄くお腹がすい た。足の筋肉がパンパンに腫れ上がって痛い。どこかにマッサージ 師はいないだろうか?自分で少しふくらはぎを揉んでみるけど全然 気持ちよくない。あれは自分はただ寝そべって誰かにやってもらう のが気持ちいいのだ。 扉を開けては廊下を進み上り階段を見つけては上る。無駄に広い。 東京にこんな広い土地があったのだ。なぜこんなひどいものを作っ たのだろう。よく分からない。税金対策なのだろうか。まったく。 冗談もいいかげんにしてもらわないと困る。 いったいいくつの階段を上っただろうか。結構きているはずだけ ど景色に何のかわり映えもないから現実感がない。同一の材料の方 が安くあがるから壁も床もドアも同じものが使われているんだろう か?やれやれ。そんなことはどうだっていいのだ。ここがどこかと いう確信すらもうとっくに消え失せている。ただ、のどが乾いた。 空気が薄い。何かに締め付けられているようだ。ひどく暑い。外に 出たい。ここには空気の流れすらない。いいかげんに抜け出させて くれ。外では星は見えるだろうか? 重い足を引きずって階段を上る。次こそは外だろうという期待を 次もどうせダメだろうという予想が上回り、ドアの向こうの開けた 外界ではなく長く続く廊下のビジョンが眉間の辺りに漂う。あと何 時間もつだろうか? そう思いながらドアノブを回し扉を奥へ開いた瞬間、涼しい風が 吹き抜けた。ふいに、外があらわれた。期待はしていた。でも多分、 予想はしていなかった。ふぅ。深い安堵感に包まれ自然にその場に 腰を下ろした。壁を背にして左手には今歩いてきた長い廊下が、そ して右手には"外"が、あった。 どうもずいぶん長い時間が経っていたようだ。時計を見ることす ら忘れていた。あるいは無意識に拒絶していた。星々はまだ空に残 っているけど東の方から少しづつ明るくなってきている。いつもな ら出勤している頃だ。風が気持ちいい。その気持ちのいい新鮮な空 気を深く吸い込んでゆっくり吐き出し、それから目の前の壁を思い っきり殴りつけた。 "外"はあった。でもそれだけだった。ドアを開けるとそこは切り 立ったビルの側面で、手摺もなければ階段もない。何もない。ただ の宙。上を見上げると靄でどこがてっぺんか見えないほど壁が続き、 下を見下ろすと暗くて地面が見えないほど真下にのびていた。 遠い東に顔を見せ始めたばかりのうっすらとした光でぼんやりと だが街の全体が見渡せる。こんな高いビルこの街にあったっけ?そ んなことを考え、次の瞬間もう一度目の前の壁を殴りつける。 ふざけるな。拳から血飛沫が飛ぶ。白いTシャツ血がつく。シミ になるだろうな。 このふざけた世界から抜け出すのは、たぶんそんなに難しくない。 要は"外"に出ればいい。たぶん落ちる。その先は分からない。でも、 どうなっても、そこは"外"だろう。それは分かる。もう疲れた。ポ ケットからくしゃくしゃになったタバコを取り出してライターで火 を着ける。空腹や暑さはもうさほど感じない。足の痛みやのどの乾 きもちょっと前ほどではない。ただ耐えきれないほどの倦怠感に包 まれていた。もうたくさんだ。 こういうのも自殺になるのだろうか?なんらかの正統性は認めら れないだろうか?まあいいや。 僕はドアの向こうに足を踏み出そうとした。その時ふいに携帯電 話のベルが鳴った。 正直言って心臓が飛び出しそうなくらい驚いて、ドアから後ろに 飛び退いた。そして電話をとった。 「もしもし!何やってんのよ!?」 彼女からだった。外への扉を開けたから電波が繋がったのだ。気 が付かなかった。 「心配して何度も電話したのに繋がらないし!もう仕事始まって るのよ。いま、どこなの?」 「映画館」 そう言うと電話は切れた。電池切れ。やれやれ。こういう時にこ れじゃあ仕方ない。あいつ怒ってるだろうな。 僕はゆっくり扉まで歩き、ドアを閉めた。よく閉まっていること を確認して思いっきりドアを外へ向かって蹴破った。そして耳を澄 ました。うんざりするくらい長い時間の後だったけど、ガシャンと いうドアが地面に叩き付けられた音がした。 短くなったタバコをそこから投げ捨てもう一本火を着ける。どう やら山で遭難した時の対処法はこのビルの場合には不適切なようだ。 でもまあ人間のまずくわずでも2〜3日はもつだろう。僕は来た道 を引き返しビルの奥へ進んだ。今度は立ちはだかるドアを蹴破りな がら。