第5回3000字小説バトル
Entry7
「たとえば聴いたこともない民族音楽をふと耳にして、妙に懐かし いと感じたりすること、あるだろ。あれな、頭じゃ覚えてなくても 細胞が記憶しているんだ。現世に生まれるずっと前の世で生きてい た頃の記憶なんだ」アメリカ人の同僚が得意げに語って聞かせたこ とがある。「相手が人間なら、それを一目惚れって言うけれど、違 う。出会った瞬間に恋に落ちてるんじゃない。前世か、そのまた前 世か、わからないけど、彼らは必ず一度は愛し合った時を共有して いたのさ」 僕は日本に残してきた婚約者をふと思い浮かべた。 「何百年も前からの絆だ。他人がどんな横槍を入れたってかないっ こない」 彼がどういうつもりでそんな話をしたのかはわからない。正直、 彼女を失うまで、思い出しもしなかったことだった。 転勤先のニューヨークにフィアンセの理恵が僕を訪ねてきたのは、 クリスマスを控え、街中に活気が満ちている時だった。ニューヨー クが一番ニューヨークらしい雰囲気を醸し出す季節だ。けれどちょ うどその時期、見計らったかのように仕事上のトラブルが起きたお かげで、僕は空港まで彼女を迎えに行くのが精一杯だった。 「悪いけど、昼間は付き合えそうにないんだ」アッパー・イースト のアパートメントへ向かうタクシーの中で僕がそう言うと、彼女は ぎっしりと買い物リストが書きこもれたメモを見せ「かまわないの よ」と笑った。 部屋のドアを開けると、ルームメイトのレオがすかさず僕らを出 迎え、理恵に手をさしのべる。 「絵描きさんなの?」レオの手を握り返しながら理恵が言った。説 明するまでもない。部屋にはレオの使う油絵の具の匂いが充満して いたからだ。 共通の友人の紹介で知り合ったレオはアートスクールに通う画家 の卵で、物静かな若者だ。 「絵を見るかい?」 「いいの?」理恵はヴィトンの旅行バッグを放り出すと、レオの部 屋へ導かれていった。再会の喜びを交わす間もなかった。だいいち、 彼女は絵画や美術品に興味を示すタイプではない。僕は不思議に感 じながらも、二人のために熱い紅茶をいれた。 翌日、僕が仕事から戻ると、理恵がキッチンに立っているのに驚 かされた。カレーの匂いが鼻腔をつく。僕は嬉しくなって鍋を覗き 込んだ。彼女の手料理なんて、食べたことがない。 「レオがカレーを食べたことがないって言うもんだから」 僕は複雑な気持ちでレタスをちぎる理恵を見つめた。 食事の後、理恵が日本から持ってきた緑茶を煎れた。レオが初め ての渋さに眉間に皺を寄せると、理恵がはしゃぎながらそれをから かう。片言の英語でレオに話しかける理恵。それを辛抱強く聞き取 ろうとするレオ。おかしな英語表現に茶々を入れる僕に、気づくこ とさえなく。 「ところで理恵、買い物は済んだのか?」僕がそう言うと、彼女は 初めて日本語を聞いたかのような表情で僕を一瞥すると、再びレオ を見つめた。 「モデルになってくれって、頼まれたの」 その夜、ベッドの中で理恵が遠慮がちに告げた。 「かまわないかしら?」 「いいさ。将来レオがビッグになったら、自慢できるだろ」僕は寛 容なところをみせるつもりでそう言った。「でもまさか、ヌードじ ゃないよな」 「当たり前じゃない」 理恵は拗ねたように背を向ける。僕は伸ばしかけた手を、そっと 引っ込めた。再会してから、キスすらしていない婚約者の細い肩が、 確固たる意志をもって僕を拒絶しているように見えたからだ。 「メトロポリタンに行ったわ」 三日目、彼女はソーホーの古着屋で買ったという地味な色のセー ターを着ていた。 「レオと?」さり気なく訊いたつもりが、自分でも驚くほど嫌味の こもった口調になった。 「何が気に食わないっていうの?」理恵は全く悪気なさそうにそう 言い捨てると、レオの待つ部屋へ消えた。絵を描いている際中は、 レオは決して他人を部屋に入れない。それはルームメイトの僕です ら例外ではなかった。そこに立ち入ることが出来るのは、モデルと なった理恵だけ。 「悪かったよ」僕はそっとノックをしてドアの向うに囁いた。「明 日は休みがとれたから、君に一日付き合う。ライオン・キングのチ ケット、手に入ったんだ。観たがってただろ」 沈黙の後、小さくドアが開かれ、レオが部屋の中を見せまいとす るように、そこに立ち塞がっていた。 「仕事中なんだ。明日は一日彼女を独占できるんだろう。少し静か にしてくれないか」 不安が確信に変わる時、人間はこうも冷静さを失うものなのか。 情けないのは百も承知で僕はレオを力任せに殴りつけ、部屋から走 り去った。どちらかが僕を追ってくれればいいのにと願った。けれ ど、僕の背中は微かな視線さえも感じなかった。 レオを殴るのはお門違いだ。そして理恵を責めるのも。なぜなら、 誰も恋心を罰することなど出来ないからだ。何がどう狂ってしまっ たのか。どんなに考えてもわかりっこなかった。こうなるのは、初 めから決まっていたことなのだ、きっと。 僕はオフィスの仮眠室でウィスキーと共に惨めな夜をやり過ごし、 二日酔いのまま仕事を始めた。 理恵が日本へ帰る前日、僕は酔った勢いでアパートの前まで足を 運んだ。冷え切った夜の路上から、建物を見上げる。レオの部屋か ら、仄かな灯りが洩れている。その窓の向こうにある情景を、僕は 容易に想像することが出来た。キャンバスと理恵を行き来するレオ の真剣な眼差し。一糸纏わぬ姿で横たわる、艶かしく、美しい理恵 の姿。時折絡み合う二つの視線は、気の遠くなるような時を経て巡 り会った恋人たちだけが持つ、濃厚な空気の中でお互いの欲情を呼 び覚ますだろう。 僕は叫び出しそうになるのを堪えて、その場を立ち去った。この 時期だけクリスマスのイルミネーションに彩られたエンパイア・ス テート・ビルディングが、遠くから僕を見下ろしている。歩きなが ら僕は、今年の冬はきっと厳しい寒さになるだろうと予感していた。 酔いはすっかり醒めていた。 理恵を乗せた飛行機が飛び立つ頃、僕はアパートに戻った。レオ の部屋のドアは開いていて、キャンバスを満足そうに眺める彼は、 僕と目を合わせることなく言った。 「彼女は帰ったよ」 完成したその絵を、僕が観ることは永遠にないのだ。 その後、僕はレオと別れて一人、新しいアパートへ移った。判り きっていたことだけれど、あれ以来、理恵からの連絡はない。僕は 時々考える。例の同僚が言ったことが真実だとすれば、彼女があの 部屋へ一歩入った瞬間、むせ返りそうな油絵の具の匂いが、彼女の 細胞だけが知る前世の記憶を甦らせたのに違いない、と。 そしてこの僕は、愛する人を失った、惨めな思い出が残る街を、 やはり離れられないでいる。僕は初めてニューヨークの街角に立っ た日の興奮を、今でもはっきりと思い起こすことが出来る。 飛行機が遅れ、会社が用意してくれたホテルに着いたのは真夜中 だった。近くのデリカテッセンへ取り敢えずの食料品を求め、僕は 寝静まった街へ出た。人っ子一人いないこの路上は、紛れもなく世 界有数の犯罪都市――ビッグ・アップル。ピリピリとした空気が、 心臓を激しく揺さぶる。足元から突き上げてくる、痺れるような感 覚。死と背中合わせの恐怖感が、なぜか心地良い。 あの時、僕の細胞も目覚めたのだ。遥かなる前世に、僕はこの街 に生き、ずっとこの街を愛していたのだと。 時を超えて巡り会った二人があれからどうなったのか、僕には知 る由もない。