第5回3000字小説バトル
Entry8
目が覚めると僕は、全面真っ白い壁で、家具もじゅうたんもお菓子 も何もない、ただただ真っ白い壁の部屋にいた。いや、何もない、 と言うのは少しだけ違う。部屋の左隅に一枚だけガラス戸があって、 ここから見る限り、どうやらこの真っ白い部屋の向こう側にも何ら かの部屋があるらしい事がわかった。 僕は立ち上がって、そのガラス戸へ向かい、ドアノブに手をかけガ チャガチャしてみた。鍵がかかっているようで、ガラス戸は開かな かった。仕方がないのでガラス戸から外の様子をしばらく見てみる 事にした。 ガラス戸の向こうに、僕の母さんがいた。母さんは氷でできた椅子 に座り、氷でできた机に突っ伏して、一人どこを見るでもなく一点 を見つめ、ぐったりしていた。僕はその姿を見ていて、母さんが可 哀想になってしまって、もう一度ドアノブをがちゃがちゃ荒々しく やってみた。 すると母さんはガチャガチャ音を立てているドアノブに気づき、急 に泣き顔になってガラス戸まで走り寄り、ガラス戸を叩きながら何 か叫んでいるようだった、けれど何を言っているのか僕にはわから ない。何度もガラス戸を叩きながら叫ぶ母さん。しかし僕には何も 聞こえない。何しろ、ガラス戸を叩く音すら、僕には聞こえないの だから。 しばらくすると母さんは叫ぶのを止め、どこからか紙とペンを持ち 出して、何かを書き出した。しかし僕にはその言葉、何が書いてあ るのかさっぱりわからない。それは、どこの国の言葉? それとも 絵を書いているの? 一体僕は、母さんは、どうしてしまったのだ ろう。僕は母さんのお腹から生まれて、母さんに育ててもらったは ずなのに、どうしてこんな風になってしまったのだろう。 嗚呼、母さん悲しまないで。何とかするから。 僕はガラス戸から離れ、目をつぶって右手の人差し指の先を思い切 って噛み切って血を流し、その指でだだっ広い真っ白い壁に、 「悪魔」 と大きく書いた。そしてその前にひざまずいて目を閉じ、 「僕に力を下さい」 と言い、両掌を頭の上に差し出した。しばらくすると僕の両掌に天 井から白い錠剤がたくさん落ちてきた。僕は急いでそれを口に入れ て、掌からこぼれ落ちて床に落ちた分も全て拾って、飲み込んだ。 しばらくじっとしていると、真っ白だった部屋がどんどん色づいて いくのがわかった。レコードプレイヤー、本棚、キッチン、お風呂、 パソコン、どんどん物も増えていく。レコードプレイヤーからはラ ヴィ・シャンカールのシタールが流れ、本棚には今まで読んだたく さんの本が並び、キッチンではパスタ鍋にお湯がぐらぐら沸いてい てパスタを入れる丁度いいタイミングになっていて、お風呂のバス タブにはお湯がはられ泡がいっぱいになっていて良い匂いが鼻をく すぐり、パソコンは「旅人」と銘打たれた美しい映像のスクリーン セーバが動いていた。 気づくと僕はいつものジーンズを履いていて、右後ろのポケットに 鍵があるのがわかった。僕はその鍵を使ってガラス戸の鍵を開けて、 母さんに会った。今度一緒に行く温泉旅行の話をした。母さんは笑 った。楽しそうだった。その後僕は朝飯を食べて、スーツを着て会 社に行った。同じチームの仲間と新しいプロジェクトについてのプ ランを立てた。会社の同僚と昼ご飯を食べながら楽しく話をした。 午後8時に退社。電車に乗る。うたたね……。 目が覚めると、僕はまた例の、全面真っ白い壁で、家具もじゅうた んもお菓子も何もない、ただただ真っ白い壁の部屋にいた。僕はま た手がかりを探そうとガラス戸に歩み寄りガラス戸から外を見ると、 ガラス戸の向こうには、最愛の人ケメ子がいた。 ケメ子は僕が2年前から付き合っている可愛い女の子で、体は小さ くて少しふっくらしていて色が白く、愛嬌があり、誰からも好かれ る、僕には勿体無いくらいの素敵な彼女だ。ケメ子はひらひらの可 愛い服を着て、古びた中古レコード屋の一角で、「ビートルズ」の 棚をちまちま、ちまちま、一枚づつ見ては、にっこり微笑んでいた。 ケメ子は、「リボルバー」を手にとり、しばしじっとしていた。何 か思いにふけっているようだった。 そうだった、ケメ子、「リボルバー」はまだCDしか持っていない から、「リボルバー」のレコードが欲しくて、買おうかどうか迷っ ているんだな。嗚呼、ケメ子のそばへ行って、そのレコードを、君 が大人になった記念として買ってあげたいな。この間、アルバイト をしている君をこっそり見に行ったんだけど、その姿にびっくりし たよ。ケメ子も大人になったんだなあ、と思った。でもやっぱり僕 にとっては可愛いケメ子なんだけれどね。 不意にケメ子がこっちを向いた。ケメ子は僕に気づいた。慌てて僕 は「悪魔」の文字の前でひざまずいた。白い錠剤を貰わなきゃ。早 く、早く錠剤を。ケメ子がガラス戸を開けようとして、そのドアが 開かないと気づいた時、きっと悲しむだろうから。その顔は見たく ないから。僕がガラス戸を先に開けなくちゃ。僕が先にケメ子の方 へ行かなくちゃ。早く、早く錠剤を。僕に力を。 「買っちゃった。」 振り向くとそこにはケメ子がいた。真っ白な部屋の中、ケメ子の頬 だけはさくら色に染まっていて、ひらひらの可愛い服のすき間から はレモングラスのお香の匂いがした。ケメ子のまわりを美しい小鳥 が舞い、ケメ子が動くたびにまわりの空気が七色に変わった。 ケメ子は「リボルバー」のレコードを持っていた。ケメ子は僕が立 ち上がろうとするのを無視して、すたすたと「悪魔」の文字の前に 向かい、僕が「やめろ! 近寄るな! 」と叫ぶのも無視して、真 っ白な壁に僕の血で書かれた「悪魔」の文字めがけて思いっきり、 「リボルバー」のレコードを投げつけた。 パーン、という軽い音と共に、「悪魔」という文字は消え、その部 分からじわじわ、ゆっくりと真っ白な部屋が色づき始めた。レコー ドプレイヤー、本棚、キッチン、お風呂、パソコン……。 レコードプレイヤーからは「Tomorrow Never Knows」が流れて いて、ケメ子は座り込む僕を見下ろしニッコリ微笑んでいた。僕も ケメ子を見上げてニッコリ微笑んだ。ケメ子は僕の手を取り、僕を 立ち上がらせ、七色のソファに僕を座らせると、キッチンへ行き丁 度いい塩梅でお湯が沸いているパスタ鍋にパスタを入れ、鼻歌を歌 いながらソースを作り始めた。流しっぱなしにしているお風呂のバ スタブからは七色の泡が流れ出し部屋の床一面に広がって、ケメ子 はそれを足で弄びながら、七色のソファに座る僕にニッコリ微笑み、 手で七色の泡をすくって僕に近寄り、僕の頬に塗りたくった。僕も 七色の泡をすくってケメ子の足に塗りたくった。お互いに笑いあっ た。お互いに七色の泡を体中塗りたくって遊んでいると、ピピピピ ピ、とキッチンから音が鳴って、ケメ子は慌ててキッチンに戻った。 パスタのゆであがり具合はいい塩梅だろうか? ケメ子の周りにいた小鳥の一羽が僕の肩に止まった。ケメ子は僕の 神である事を知った。ケメ子の死は、僕の死であり、ケメ子の生は、 僕の生である事を知った。明るい未来が始まるのを、知った。