| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 登校時間 | 小鳥羽西宗 | 2847 |
| 2 | MARIA | Yutaka Izumihara | - |
| 3 | 光と虚影症 | 皐秀莓 | 2694 |
| 4 | (作者希望により削除) | - | - |
| 5 | 遠い回廊 | 伊勢 湊 | 2935 |
| 6 | 決闘 | akoh | 2995 |
| 7 | ROUND DANCE | 川辻晶美 | 3000 |
| 8 | 明るい未来 | 桑山 忍 | 2859 |
| 9 | ファラオの呪い | 小林ミヅノ | 1200 |
| 10 | クイック・アンド・スロー | 太郎丸 | 3000 |
| 11 | ウィンター・スノウ | 奈津家亜古 | 2982 |
| 12 | 少年 | 氷ノ夏香央 | 2997 |
| 13 | 今世紀最大の作戦 | 羽那沖権八 | 3000 |
| 14 | 言葉にならない話 | 斎藤一郎 | 3000 |
| 15 | 紅い花 ★ | テルヒロ | 2890 |
| 16 | 籠 | p/f | 1880 |
| 17 | 革命 | T | 3000 |
| 18 | クローン売ります | 厚篠孝介 | - |
| 19 | 戦地に赴く | 天野 幾 | 3000 |
| 20 | プロローグ | 一之江 | 3000 |
| 21 | ピンクの手紙 | かたやま伸枝 | 2820 |
| 22 | がんじがらめ | 鮭二 | 3000 |
| 23 | 中学生は…… | あきら | 2991 |
私のお母さんは私のことをいつまでも子供扱いするの、そこが嫌。 トーストが焦げてるの、いつもやめてっていってるのに、自分が 好きだからずっとやめない。多分再来年になってもヤメナイ。パン の耳をこんがり焼いてバターを塗ったのは好きだけど、パン自体が 焦げているのは嫌。どうにかならない? でも、そんなことは多分重要じゃない。 今の私に重要なのは、間違って運動靴なんて履いてきちゃったこ と。 運動部にいる所為かしら? 急いで家を出たときは、必ず運動靴を履いちゃう……それじゃ駄 目。こんな可愛くない靴で告白なんて、なんだか女の子じゃない。 アイツ、きっと私のこと・女って見てないもの。だから可愛くしな きゃいけないの。 でも、もう戻る時間がない。アイツはいつもこの遅刻スレスレの 時間にのんびり学校に行ってるから、私も時間を合わせるので精一 杯。 もし今日会えなかったら、明日はちゃんと可愛い靴を履いて頑張 ろう。 会えない方がイイのかな? なんか複雑。 でもこんなことで悩んでいる自分がちょっと幸せ。 走っていて気付いたことは、今日はちょっと寒いということ。 吐息が白くて、それを見ているだけで何となく楽しい。引っ越し てきたばかりの時は、そんなこと気にも留めなかったのに。 蒼い空に雲がないから、私は一生懸命白い息を吐く。走っていて 息が上がりそうだけど、一生懸命に空を飾る。 蒼いだけの空は、なんか寂しい。 蒼いだけの空は、なんか不安──いつ泣き出すのか分からないか ら。 神様は空が泣く時は教えてくれるって約束したけれど、だから蒼 い空のままだと不安な日々が余計に不安。 私のために少しは曇って欲しい。私の不安を見逃さないで欲しい。 だから私は白い吐息で空を飾って楽しんでいる。 綺麗に笑っている空を飾って楽しんでいる。 住宅に入り込んで、アイツは歩いている。 近い道を辿れば近道、当然。でも、ここは遠回り。遅刻を気にし ないの? アイツは気にしていないみたい。でも、私は急いでる。 学校に行くことに? そうかもしれない。 あの場所で告白することに? そうかもしれない。 ひょっとしたら遅刻しないことに困っているのかな。だとしたら、 私ってちょっと軽薄。 でも、こうして脇道に二人で逸れていくのも、少し楽しい。いつ も見えなかった街並みが、いつも知らなかった時間の息吹が、また 私の前に現れる。 誰かがここに連れてきてくれた。 でも、やっぱり寄り道は駄目。ずっと進んでいた道をそれるのは、 私らしくないから。 だから、とりあえずアイツの示す近道を、影を踏むように追って いく。 バイクで転んだらしいアイツは、ちょっと薄汚れた服だけどあえ て気にしないでいる。 だから私は押し笑いをする。それが少し楽しくて、嬉しい。 冷たい橋を渡る。初めて通る道、初めて見る橋。アイツは平然と 前を行く。きっと私が知らない頃から知っていた。 だから、橋にちょっと嫉妬する。鉄とコンクリートの塊に嫉妬す る。 でも、今日はとりあえず許してあげるわ。何故って、アイツと私 が一緒に通るためにあなたは役に立ってくれたから。よかったら、 今後も役に立って欲しい。 急いでるから、今はそれだけしか言えない。また今度会いましょ う。 転んだ時に、足を擦り剥いた。張り詰めた空気のせいで、余計に 痛い。 アイツは十二歩先で気付いて振り返る。 私はしゃがみ込んで膝をさすっている。ちょっと血が滲んでる、 傷ついちゃった。 足に怪我して告白するの? 余計に女の子っぽくなくて、心も少 し傷ついちゃった。 アイツは軽い駆け足で戻ってきてくれる。 私は心配ないって、本当は嬉しいくせに追い払おうとする。アイ ツはちょっとむくれる。 そんな顔しないで。ポーカーフェイス、一年以上続けて疲れてる の。 アイツはむくれたまま私を引っ張り起こしてくれる。むくれたま ま、大丈夫かって小声で心配してくれる。 こんなとき、胸が痛くなる。いつから好きになったのか忘れちゃ ったけど、この切ない痛みが今の私の一番の楽しみ。一番の悩み。 一番の生きている理由。 これから先ずっと、一番忘れたくて一番覚えていたいもの。 こんなにも想っていられる心があることが、嬉しくてたまに誇り のせいにして涙を隠してる。 ねぇ、ホントは気付いているんじゃないの? 答えは無言。 もしも気付いて無視しているなら、私あなたをひっぱたくから。 もしも気付かず過ごしているなら、私あなたをひっぱたくから。 気付いて欲しい。だけど訊かれるのは恥ずかしくて恐い。私、早 く楽になりたい。これ以上ないくらい、世界が普通じゃなくなって いる。だから、早く気付いて欲しい。私がこんなにも苦しんでいる ことに。 でも、とりあえず、私は平然と立ち上がった。まだたどり着いて いないから、先を急がなきゃ。 途中はあぜ道。 こんなところ通るなんて考えてもいなかったけれど、運動靴で出 てきちゃったことを今更正解だと思う。 今日は調子がいい、このまま行けばうまくいきそう。でも、やっ ぱり運動靴は少し嫌。 優柔不断? それでもいいの、追いつける位置にいるためだから。 私、走るのには自信があるけれど、アイツの足はもっと速い。だ から、追いつける位置にいなきゃいけないの。 いつかアイツは足が速いって私のことを見ていったけど、アイツ の方がやっぱり早いと思う。私にわざわざスピード合わせて、声を かけてくる。その余裕が羨ましい、私は走ることしか出来ない。 でも、あと数分たったらその余裕を壊してあげるから、とりあえ ずずっと一緒にい走っていて頂戴。 あぜ道の遥か向こうに、登校するみんなの影が見える。ちょっと 恥ずかしい。でも、ふと気付いたら、そのあぜ道には福寿海が咲い ていたから、私はそれでまた嬉しくなって走り続けるの。 誰かに見られているかもしれないし、見られていないかもしれな い。アイツもどうだかわからない。 でも、できることなら花言葉通り、幸せになれると嬉しいと思う。 花言葉なんて今まで覚えてすらいなかったのに、なんか変。福寿 海の花言葉も当然知らないけれど、多分幸せになれる言葉だと思う。 そう願ってる。折角咲いていてくれたんだから。 ガードレールを飛び越えたら、スカートがふわって浮いて、男の 子達が一瞬こっちを見たのに私は気付いた。女の子達も見たのに気 付いた。 いいじゃない。今私、追いかけることで精一杯なの。 それよりも、私たちより後を歩かないで。校門で二人、見られる のは恥ずかしいから。 そのかわりうまくいったら、その時は見て頂戴。 私が誰と一緒にいて幸せになったかって事を。 私がどうして幸せになったかって事を。 でも、まだチャイムが鳴らないの。 チャイムが鳴らないと、みんなのんびり歩いているの。 だから、早くみんなを焦らせて? 学校に私たちが入る前に、学校の時間が始まる前に。 クラスの違う私には、今しかチャンスがない気がするの。 だから、早くみんなを焦らせて。
Sunday 冬のボンダイビーチは静かだ。 小さい女の子の手を引く厚手のコートを着た男。頭髪のない痩せこ けた犬がシーウィードを食っている。 『あまりそっちにいちゃだめ』 女の子が男の手を引き寄せながら諭す。 『大丈夫だよ。マリアは心配性だな』 『だめだっていったらだめなの』 男ははいはいと苦笑しながら、波打ち際から離れた。 『PEE(おちっこ)。』 『ばか、トイレまで我慢できるか』 男はあわててマリアをおんぶし、ビーチ沿いのトイレへと駆け込ん だ。 Monday 『祐介。これが最後の仕事だ。永住権も一週間後にはおりる。お前 は自由だ』 しわがれた声が、受話器越しで懇願するように言う。 『チャイニーズのときもそう言わなかったっけ。』 男は韓国製の煙草THISを吹かして、 『五本ですよ』と首を振りながら言った。 『わかった。いつもどうりに届ける。なぁ、祐介、オンナでもいる のか』 男は一瞬考えて、 『大丈夫ですよ。2才ですから』と言って煙草の火をもみ消した。 しわがれた男の笑い声が響いた。 Tuesday ニュートラルベイのジャパレス。1階が駐車場で、2階がレストラ ン、3階が高級クラブになっている。 男はカウンターでカクテルを作っていた。 『金(キム)。中にCCもって行ってくれ、ロックで』 マスターが、いらしゃいませ、と笑顔で馴染みを向かえ、リザーブ シートに案内する。 男は棚からCCを下ろし、グラスとつまみを用意して、南極から輸入 された氷をアイスピックで砕いた。音もなく粉々になる。 『兄ちゃん、新顔だな』ボスの向かいに腰掛けたサングラスの男が しわがれた声で言う。 『よろしくお願いします』 男はCCをグラスに注ぎながら厳しい視線を感じていた。ほんものだ、 男は思った。 ロックを小さいテーブルに置こうとしたとき、ボスが声をかけた。 『お前なら何を切る』 男は躊躇することなく、 『左から二つ目のハイが邪魔になるでしょう』と言った。 『勇気あるな』 ボスがキューバ産の葉巻を取り出した。男は黙って火を付けた。 Wednesday 『マリア頼めるかな』 アイリッシュ訛りで話す男がもうしわけなさそうに言った。 『いろいろと大変なんだ。別れたかみさんには毎月仕送りで、母親 が倒れて、病院にも行かなくっちゃならなし、それに、』 『いいよ』 男は小雨の降る海を眺めながらぶっきら棒に応えた。波が荒れてい る。サーフィンはできないな、男は思った。マリアは男のベットに 潜り込み、伸びをした。 『悪いねぇ。いつも』 『いいよ』 皺の刻まれた顔が歳より老けて見える。男はアイリッシュ訛りの男 を見送った。 マリアが、ここに来て一緒に座れとベッドを叩く。 男はゆっくりとベットに腰を下ろし、マリアにキスをした。 Thursday 男は韓国人街ケンプシーにいた。 コートから煙草をとりだし、火をつけながら誰も後をつけていない か確認して雑貨屋に入った。愛想の悪い店員に案内され裏口へと入 る。 『アニョハセヨ』男は眼鏡をかけた老人に挨拶した。 『軍から安く手に入れた』老人は東亜一報に目を向けたまま動こう としない。男は肯いて、老人の傍らを通り、薄汚い壁の角を押した。 壁の裏は武器庫になっている。男はK、Mシリーズには見向きもせ ず、小型のハンドガンとコルトを手にした。男は感触を確かめるよ うに殻撃ちした後、ブリットを詰め、コートの裏にしまった。 Friday 男はエスプレッソコーヒーをたてながらどうっやって言い訳しよう か悩んでいた。 遊園地に連れて行くとマリアに約束していたことをてっきり忘れて いた。 男はカップにコーヒーを注ぎ、大きく深呼吸して、受話器をとり、 アイリィシュ訛りの男に電話した。マリアの泣き叫ぶ声が受話器に 響く。男は悲痛な表情を浮かべてコーヒーを啜った。 それから男は店に電話し、風邪で休むと知らせた。 Saturday AM 4:30 男は、1970年代のダットサンに乗り、ニュートラルベイに向か った。ハーバーブリッジを渡っているとき、後部座席でオンナの声 がした。 『マリア』 男はマリアの笑顔をバックミラー越しに見た。 今更、引き返せない。男はハンドルを殴った。うかつだった。誰も 盗む奴はいないとドアロックしていなかった自分を恥じた。 男は車を店の前に止めた。人通りはほとんどない。 『マリア、五分間、俺が戻るまで車から動くな。明日は絶対遊園地 に連れて行く。分かったな』男はふくれるマリアにキスをして、回 りを確認してから店に近づいた。 男は裏口の非常階段を静かに上り、三階の明かりを確認してから、 合鍵でレストランのドアを開けた。男は静かに階段を上っていく。 クラブを通り、 『金(キム)?』売り上げの計算をしていたマスターの額をアイス ピックで突き刺した。慌てるボディーガードにハンドガンで三発食 らわし、ドアを蹴り開け、麻雀卓を背にした男の後頭部に一発、向 かって右の男を二発で仕留めた。 『何が望みだ?』ボスが男を睨み据え尋ねる。 『左のハイを捨てなかったのはあなたのミスです』 左に座っているサングラスの男がボスのこめかみを射抜いた。ボス の脳が飛び散る。 男がサングラスの男に言う。 『これであなたがボスです』 『約束した永住権だ』しわがれた声が言った。 『PEE(おちっこ)』そのときマリアがよちよち現れた。 『くるなといったろ』男はマリアに現場を見せないように、テーブ ルカバーで被おうとした。しわがれた声が男の背に照準を合わせる。 ゆっくりと引き金を引いた。 『オンナには気をつけろ』 5発の弾丸が男を射抜く。男は前のめりに倒れた。そしてマリアに 近づき、 『ここでしろ。俺が見えないようにしてやる』と震える体で被った。 『終わったか?』肯くマリアの頭をなぜ、非常階段から出て行くし わがれた男にコルトを向けた。しわがれた男が階段を転げ落ちる。 男は見つめるマリアに、 『ひとりでPEE(おちっこ)できるようになれ』と囁いた。 『遊園地は?』マリアが泣きながら言った。
彼女の母親から電話がかかってきたのは11時を回っていた。 僕は彼女の母親から、彼女がまだ自宅に戻っていないこと、 行くあてを探したが見つからないことなどを知らされた。 僕は外出の準備をした。 空は気持ち悪い程透き通った黒だ。 しんとした影があらゆるものの足もとをとらえていて、 僕のそれは地を踊って走った。 彼女の家の前には何人かのクラスメートが集まっていた。 僕もそれに向かった。 その中に彼女と付き合っている僕の友達もいた。 彼女の行きそうな家の友達はほとんどいた。 彼女は明るかったし、顔も可愛かったし、 おとなしく見えたが、いつも笑っていた。 彼女の両親は、クラスメート達に礼を言い、 朝になっても戻ってこなかったら警察に連絡するから と言った。 僕は静かに入っていく二人の背を誰よりもゆっくりと 見送ってから歩き出した。 彼女が行くところなんて全然思い浮かばなかった。 ただ、遠くではないような気がしていた。 彼女とは幼なじみだ。 彼女はいつもおままごとではお姉さんかお母さんで、 僕はいつも犬だった。 猫の時もあった。 僕は眼鏡を小さいときからかけていたので、 きっと動物に見えたんだと思う。 でもおままごと以外の時は僕はいつも彼女を 守ろうと努力していた。 彼女はそうしてやらないと消えてしまうような気がした。 でもそんな時間は長くは続いたりしなかった。 どこにもネバーランドなんて無い。 僕はそのうち彼女が大人になってしまうことに気付いていた。 そして気付いたら彼女は大人だった。 そのうえ僕の足下にはネバーランドの太陽が映し出す、 薄っぺらい影ができていた。 僕の影は、久しぶりに夜のアスファルトを味わって 光とチェイスしていた。 暗いところにいれば解らない僕の形は、くっきりと、 ほんの一瞬の光を「影」という形でとらえてしまう。 僕の足はふらふらと家から離れていった。 住宅地の林の中を行く、飢えたアリみたいに僕は歩いた。 いたずらっぽい彼女の笑顔が、いつだったか友達のものに なってしまったときも、僕はこんなふうに歩いた気がする。 それから、ほんの10分の距離に住んでいる彼女は、 僕の中で凍りついた。 彼のものである以上、彼女は凍る必要があった。 懐中電灯で照らすと、凍った彼女の影をにごったうすい影が包んだ。 そして僕はその部屋のドアをしめ、やりきれない気持ちになるのだ。 きっと彼も彼女を探している。 あるいは全然探していないのかもしれない。 僕は急な坂を登りだした。 犬が2,3回吠えるのが聞こえて、人気は全く失せていた。 靴底が熱かった。坂の上には線路がある。 僕は立ち止まった。 鈴虫の声のような耳鳴りが、心臓の鼓動にあわせて震えていた。 そして、コンクリートを砕いた線路脇の砂利を踏みしめる音を ひとつ、ふたつ、みっつ…と確認していった。足音だ。 僕はその足音に向かって忍び寄るように歩いた。 殺した足音が、体中に響いているように思えた。 しかしふと、僕は追いかけていた足音を急に失った。 そして同時にうずくまる二つの影を見つけた。 彼女だ、と僕は思った。 「久しぶりだなぁ」と声が言った。彼女は黙っている。 「男は探しに来ないのか」彼女の横には真っ黒いものがいた。 声は男のものだったがその体は少し華奢なように見えた。 「あんたを初めて見つけたときはほんとビビったわよ。 ピアノ習ってて、お菓子作るのが好きで、おとなしいめで、 でも体育は得意で。自分を好きか嫌いかと初めて迷ったときだった。 あたしの足下にクズみたいなあんたが張り付いていたなんてね」 「非道い言い様だな」 声は笑った。 「あんたがこうやって表れてあたしを病気のようにとらえるとき、 いつも死にものぐるいで抵抗した」 「男が出来たとき、あんときが一番ピークだったな」 僕は息をするのさえ忘れていた。ただ唾液をのみ、いつもと違う 彼女の粗い言葉を聞いていた。 「あんたが俺を呼んでるんだぜ、いつも。 独りじゃ自分と会話が出来ない、あんたが俺を呼ぶんだ」 「クズはあたしか…」 線路脇で短い草の中にうずくまった二人は、 とっくに通り過ぎた終電を待っているみたいな格好だった。 「一番病んでいるのは影とさえ会話の出来ない人間だ。 あんたの男みたいなやつだ。彼女が夜中に行方不明でも 部屋で寝ているような男だからな」 声は笑った。声は影だった。 「何が良くなかったっていうのよ」 彼女は声を急にゆがめた。 僕はあの時玄関の前で明かりに照らされた、 彼の心配そうな顔を思い出した。 バタフライで、冷たい風は線路を横切った。 彼女の肩が震えた。 「うまくいかないの。内面的なことがなにひとつ うまくいっていないのよ」 「あんただ。外に自分を出すのを怖がっているし、 いろんな事が成ってない。 そしてあんな男と付き合っている。 このままでいいのかって思いながら、 そういう自分を肯定してやれないんだ」 僕は違う、とつぶやいた。 でも影は彼女から生まれた闇だ。 影に彼女を癒やす事なんて最初から望めない。 「生まれ変わっても…いいかな」 彼女は頭を上げた。髪がうしろへうしろへ、まっすぐ落ちた。 「次はどんな形になればいい? 」 影は立ち上がって線路の焦点に消えようとしていた。 「優しくしないで…」 僕は回れ右をして、独りで坂を下り、家へと向かった。 光は多くの人を背後から正常に照らす。 明るければ明るいほど、その闇は視界に黒く、 沈黙した影は下りエスカレーターに乗った僕の後ろで 僕の目に触れることなく色を失っていくのだ。 ネバーランドなんてどこにもない。 明日彼女にあったら僕らの子供の頃の話をしよう。 彼も、影もいなかったあの頃の話だ。 私はお母さんで、あなたは犬なの、と彼女は笑うだろう。 それが罪であったとしても。 やれやれ。 僕は正論をふりかざし、彼女に恋をしている。 そして病んでいる。病んでいる。
非常にまずいことに、この映画館の中で迷いはじめて2時間が過 ぎていた。もう夜の11時になるから、彼女はきっと怒って帰っちゃ っただろうし、このまま下手すると帰る電車もなくなってしまう。 明日はまた新しい6日間のはじまりで、僕の仕事は乳製品の運搬だ から恐ろしく朝が早い。いつもならもう眠っているころなのだ。や れやれ。それよりなによりもう疲れたし、お腹もすいた。歩きたく ないけど逃げ道のない薄暗い廊下に腰を下ろしても事態は何も好転 しないだろう。 もともと凄く面倒臭かったのだけど、せっかくの日曜に何もしな いなんて勿体ないと主張する同じ職場に勤める彼女に街に連れ出さ れ、デパートで買い物をしてから最近できた話題のコンプレックス シアターで流行りの映画を見ることにした。映画自体は凄く面白い わけでもなければさしてつまらないわけでもなかったんだけど一つ 言わせてもらえば館内のクーラーが効き過ぎだった。おかげで僕は その日の最終回のクライマックスにトイレのために席を立つことに なった。彼女が、ちょっと、と僕を睨んだけどどうしようもない。 生理現象なのだから。 僕はトイレのありそうな方に見当をつけて長い廊下を進み、似た ようなドアをいくつかあけた。辿り着いたトイレで最近の映画館は トイレまでやけに遠くて分かりにくいなあ、などと思いながら用を 足し、そして戻ろうとした時にはもう、僕は迷子になっていた。 まったく。いったいどうしろというのだ?どれも同じようなドア をあければ、その先にあるのはどれも同じような長い廊下か長い階 段。ひどく暑い夏なのに悪いことに廊下には空調も効いてはいない。 携帯電話の電波も届かない。非常用のインターホンもなければすれ 違う人もいない。これは誰かが大金をかけて作った質の悪い悪戯な のか、僕が急に世界一の方向音痴になったのか、現実問題なにをど うすればいいのか。疲れて何も思い付かない。だんだん笑えない。 最終電車の時間が近づいて彼女のこととか仕事のこととか様々な ことを諦め出した頃やっと一つの解決策らしきものを思い付いた。 前に山で遭難したらどうすれば良いかという話を聞いたことがある。 そういう時は下りずにひたすら頂上を目指して突き進むらしい。な ぜなら頂上は必ず一つだし、必ずいつかは辿り着ける。なるほど。 それが近ごろ流行りのコンプレックスシアターにも当てはまるかど うかいま一つ確信は持てないが、バベルの塔でもない限り頂上はあ るだろうし、まあそうすればエレベーターだとか外付けの階段だと か何かしらあるだろう。頂上まで上がるのはひどく疲れそうだけど 仕方ない。僕は迷子なのだから。 最終電車はもう行ってしまった。明日の仕事なんてもうどうでも いいからシャワーが浴びたい。あと何か食べたい。凄くお腹がすい た。足の筋肉がパンパンに腫れ上がって痛い。どこかにマッサージ 師はいないだろうか?自分で少しふくらはぎを揉んでみるけど全然 気持ちよくない。あれは自分はただ寝そべって誰かにやってもらう のが気持ちいいのだ。 扉を開けては廊下を進み上り階段を見つけては上る。無駄に広い。 東京にこんな広い土地があったのだ。なぜこんなひどいものを作っ たのだろう。よく分からない。税金対策なのだろうか。まったく。 冗談もいいかげんにしてもらわないと困る。 いったいいくつの階段を上っただろうか。結構きているはずだけ ど景色に何のかわり映えもないから現実感がない。同一の材料の方 が安くあがるから壁も床もドアも同じものが使われているんだろう か?やれやれ。そんなことはどうだっていいのだ。ここがどこかと いう確信すらもうとっくに消え失せている。ただ、のどが乾いた。 空気が薄い。何かに締め付けられているようだ。ひどく暑い。外に 出たい。ここには空気の流れすらない。いいかげんに抜け出させて くれ。外では星は見えるだろうか? 重い足を引きずって階段を上る。次こそは外だろうという期待を 次もどうせダメだろうという予想が上回り、ドアの向こうの開けた 外界ではなく長く続く廊下のビジョンが眉間の辺りに漂う。あと何 時間もつだろうか? そう思いながらドアノブを回し扉を奥へ開いた瞬間、涼しい風が 吹き抜けた。ふいに、外があらわれた。期待はしていた。でも多分、 予想はしていなかった。ふぅ。深い安堵感に包まれ自然にその場に 腰を下ろした。壁を背にして左手には今歩いてきた長い廊下が、そ して右手には"外"が、あった。 どうもずいぶん長い時間が経っていたようだ。時計を見ることす ら忘れていた。あるいは無意識に拒絶していた。星々はまだ空に残 っているけど東の方から少しづつ明るくなってきている。いつもな ら出勤している頃だ。風が気持ちいい。その気持ちのいい新鮮な空 気を深く吸い込んでゆっくり吐き出し、それから目の前の壁を思い っきり殴りつけた。 "外"はあった。でもそれだけだった。ドアを開けるとそこは切り 立ったビルの側面で、手摺もなければ階段もない。何もない。ただ の宙。上を見上げると靄でどこがてっぺんか見えないほど壁が続き、 下を見下ろすと暗くて地面が見えないほど真下にのびていた。 遠い東に顔を見せ始めたばかりのうっすらとした光でぼんやりと だが街の全体が見渡せる。こんな高いビルこの街にあったっけ?そ んなことを考え、次の瞬間もう一度目の前の壁を殴りつける。 ふざけるな。拳から血飛沫が飛ぶ。白いTシャツ血がつく。シミ になるだろうな。 このふざけた世界から抜け出すのは、たぶんそんなに難しくない。 要は"外"に出ればいい。たぶん落ちる。その先は分からない。でも、 どうなっても、そこは"外"だろう。それは分かる。もう疲れた。ポ ケットからくしゃくしゃになったタバコを取り出してライターで火 を着ける。空腹や暑さはもうさほど感じない。足の痛みやのどの乾 きもちょっと前ほどではない。ただ耐えきれないほどの倦怠感に包 まれていた。もうたくさんだ。 こういうのも自殺になるのだろうか?なんらかの正統性は認めら れないだろうか?まあいいや。 僕はドアの向こうに足を踏み出そうとした。その時ふいに携帯電 話のベルが鳴った。 正直言って心臓が飛び出しそうなくらい驚いて、ドアから後ろに 飛び退いた。そして電話をとった。 「もしもし!何やってんのよ!?」 彼女からだった。外への扉を開けたから電波が繋がったのだ。気 が付かなかった。 「心配して何度も電話したのに繋がらないし!もう仕事始まって るのよ。いま、どこなの?」 「映画館」 そう言うと電話は切れた。電池切れ。やれやれ。こういう時にこ れじゃあ仕方ない。あいつ怒ってるだろうな。 僕はゆっくり扉まで歩き、ドアを閉めた。よく閉まっていること を確認して思いっきりドアを外へ向かって蹴破った。そして耳を澄 ました。うんざりするくらい長い時間の後だったけど、ガシャンと いうドアが地面に叩き付けられた音がした。 短くなったタバコをそこから投げ捨てもう一本火を着ける。どう やら山で遭難した時の対処法はこのビルの場合には不適切なようだ。 でもまあ人間のまずくわずでも2〜3日はもつだろう。僕は来た道 を引き返しビルの奥へ進んだ。今度は立ちはだかるドアを蹴破りな がら。
昔、天下いまだ定まらぬ頃、その地には、ともに天下一と評され る二人の剣豪がいた。一人は細身の長剣を携えた突きの達人、松の 精霊松雪平。もう一方は軽量の大刀を隼のごとき速さでふるう、笹 の精霊笹春之丞。二天並び立たず。二人の決闘は、彼らが決して望 まずとも、必定起こらねばならない出来事であった。 悠久の流れを湛えるその大河をかき分けるかのようにして、由緒 正しきその決闘場は鎮座していた。決闘場といえども、無論、なに があるわけでもない。恒久の砂浜、松の並木、遠く切り立つ岩の崖 には一羽の猛禽が優雅に飛翔し――そこは、ただ漠然と存在してい る島であった。その単なる島が決闘場である由縁、それは誰も知ら ない。だが、誰もが知っている。気高き決闘には、静かにたたずむ 孤島がよく似合う、と。 凪。霧は降らず。 その日、先に島に降り立ったのは松であった。約束の刻限のちょ うど半刻前、日がようようと上がり始めたばかりのころである。 己の小舟を漂わせ、松は、砂浜はおろか松並木さえをも割って進 んだ。ただせば、そこには大地を割くようにして走る川があった。 そうして松は松並木の向こう、砂浜からでは視界の届かぬところに 小舟を着けたのである。それをするために、わざわざ半刻前に来た のであった。 松は、その小舟を見られたくなかった。 策略ではない。 すべては見栄の仕業である。松は、笹の小舟を知っていた。それ は、きれいに形作られた笹舟で、松のものとは比べ物にならないほ ど美しく凛々しかったのである。松の舟は、ずんぐりとした、果た して小舟と呼べるのかすらあやしい、かさの開いたまつぼっくりだ った。 半刻の努力は、彼の自尊心を守るに足りた。 笹が、例の笹舟に乗って姿を現したとき、松は何食わぬ顔をして 威風堂々、すっくと立っていた。 日の光に照らされてちらはらと輝く砂浜に笹は舟を着けた。松は その砂浜に立っていた。笹には、松が日を背負っているように見え た。いつのまにか、日は松並木の高さすら追い越して島全体を照ら していたのである。 それでも、島は静寂に包まれていた。波は打ち、松は擦れ合って、 猛禽は時折声高に鳴く、そんな静寂である。 決闘の場所は、無言のうちにその場に決まった。 少し間合いをとりながら、見上げるかたちで、笹が口を開いた。 「そなたが松雪平か」 松は静かにうなずいた。 「笹春之丞とお見受けした。そなたに恨みはないが、名誉のためだ、 死んでいただく」 「そなたこそ、覚悟はいいのだろうな」 刹那、笹は消えた。 「隼が飛んだか」 真上から落ちてくる笹とその大刀を、松は慌てることもなく、ひ らりとかわした。そしてそのまま流れるように、笹の大刀の横腹め がけて細身の長剣を雷光の速さもて一突き。それはあっけなく突き 破れた。 「自慢の大刀も、壊れては使い物になるまい」 松は悠然と言った。もはや勝負が決したかのように。 それから一転、笹に猛然と迫りかかる。 切っ先が、笹の頭めがけて突き出される。笹はそれを、破れた大 刀でなんとかしのぐ。大刀の破れが一つ多くなる。 だがそれだけで、松の攻撃がやむわけは無論ない。身体の要めが けて、次々と突きが繰り出されるのである。突かれるたびにその数 を増していた大刀の破れは、やがてつながり大きくなり、無惨、な んとか輪郭を保つまでに弄ばれる。それはもはや、剣ではなかった。 「そろそろ観念したらどうだ」 松は威圧するようにして言った。そこに、わずかな隙が生まれた。 輪郭だけの大刀が、松めがけて飛びかかる。笹が投げつけたので ある。だが松は、それをいともたやすくかわした。 「無駄な足掻きだ」 そう言ってハッとする。ほんの刹那目を離した隙に、笹の姿が消 えていたのである。 慌てて見渡せば、笹は己の笹舟へと飛び移っていた。 「逃げる気か、卑怯なり!」 「勘違いされては困る」 そう言った笹の手には、はや壊れたはずの大刀が握られていた。 松は呆然、なにが起こったのかまったく理解できずにいた。 「驚くことはない。大刀を組み立てて笹舟へと仕立て上げたまでの ことだ」 「うぬ……」 解せないところがあった。しかし、それが厳然たる事実として立 ちはだかっている以上、信じないわけにはいかない。刀が舟の流線 型を形作れるほど柔軟であるとは考えられないが、現実として成立 しているのであるから。 それにしても不自然すぎる。 松は、ふと思い立った。すなわち、これは陽動作戦なのではある まいか、と。彼は純粋に技と技の勝負を望んでいたのであって、決 して心理戦などを望んでいたわけではなかったのだが、それがすで に仕掛けられたというならば、黙ってかわす気などはなかった。 「これは真剣勝負なるぞ。一つの刀で勝負するが掟ではないか」 「そのような掟などない。なに、案ずるな、心理戦などする気はな い。刀の一つや二つ、見逃してくれぬか」 松は信じた。笹の言葉には、信じるに足る重みがあった。思えば、 そもそも真剣勝負に余計な詮索は無用ではないか。 「よし。ならば仕切りなおそうではないか。我こそは天下一の剣士、 『雷光』松雪平である」 「我こそ天下一の剣士、『隼』笹春之丞である」 微笑。 「世に天下一は二人といらぬ。よってそなたには死んでもらわねば ならぬ」 「面白い。この大刀一振りで返り討ちにしてくれよう」 「では」「いざ」『勝負!』 笹は再び飛び立った。舟の上からであったのに、その飛翔には一 分のくるいも生じなかった。 そして再び、松は笹の大刀を交わした。 「そのような大振りでは、何度やろうともこの私は斬れ……」 「受けたか」 文字通り、返す刀で振り上げられた大刀を、松はこれまた文字通 り間一髪、首筋すんでのところでなんとか受けとめたのである。 松の額を冷汗が伝った。 なんとか大刀を食い止める長剣をおさえながら、松はしかし一歩 も退かなかった。むしろ、押し戻し始めていた。 「どあぁぁ!」 咆哮。 大刀は乾いた砂地へと打ちつけられた。大刀の重みに弾かれた無 数の砂粒が空へと舞い上がる。 まさにその一瞬、松の視界から笹の姿は消えていた。 策であるということに気づいたときにはもう遅かった。笹の態勢 はその一瞬のうちに整えられ、大刀は、猛然松の肩口へと向けて振 り下ろされていたのである。 もはや不可避と松は悟った。大刀を払ったまま腰より下に構えた 剣では今更振り上げても間に合わぬこと必定であったし、かといっ て交わすだけの有余がないのも明らかだったのである。 松に残された道はただ一つ――相討ちであった。 彼の剣は長剣である。笹の大刀と比べても射程においてひけをと らない。となれば、一振りして笹の横腹を捉えることも不可能では ない。剣の重みをわずかにでも受けぬようにできるだけ水平にふれ ば速さの上でも――できる、と、確信した。 笹の大刀は松へと迫り、松の長剣は笹へと迫る。勢い、寸分違わ ずに。 「あ」 それが松の断末魔というのは忍びない。だが、最期の言葉であっ たには違いない。 松の長剣も、確かに笹を捉えていた。 だが、斬れなかった。 彼は忘れていた。斬りつけるということにおいて、絶望的に肝心 なことを。 彼の長剣は元来、斬れなかったのである。突き貫きのみに特化し た剣だったのである。 松の体は真っ二つになっていた。 勝者は血を払うと、おもむろ、大河の彼方めがけ漕ぎ出でた。 それだけである。
「たとえば聴いたこともない民族音楽をふと耳にして、妙に懐かし いと感じたりすること、あるだろ。あれな、頭じゃ覚えてなくても 細胞が記憶しているんだ。現世に生まれるずっと前の世で生きてい た頃の記憶なんだ」アメリカ人の同僚が得意げに語って聞かせたこ とがある。「相手が人間なら、それを一目惚れって言うけれど、違 う。出会った瞬間に恋に落ちてるんじゃない。前世か、そのまた前 世か、わからないけど、彼らは必ず一度は愛し合った時を共有して いたのさ」 僕は日本に残してきた婚約者をふと思い浮かべた。 「何百年も前からの絆だ。他人がどんな横槍を入れたってかないっ こない」 彼がどういうつもりでそんな話をしたのかはわからない。正直、 彼女を失うまで、思い出しもしなかったことだった。 転勤先のニューヨークにフィアンセの理恵が僕を訪ねてきたのは、 クリスマスを控え、街中に活気が満ちている時だった。ニューヨー クが一番ニューヨークらしい雰囲気を醸し出す季節だ。けれどちょ うどその時期、見計らったかのように仕事上のトラブルが起きたお かげで、僕は空港まで彼女を迎えに行くのが精一杯だった。 「悪いけど、昼間は付き合えそうにないんだ」アッパー・イースト のアパートメントへ向かうタクシーの中で僕がそう言うと、彼女は ぎっしりと買い物リストが書きこもれたメモを見せ「かまわないの よ」と笑った。 部屋のドアを開けると、ルームメイトのレオがすかさず僕らを出 迎え、理恵に手をさしのべる。 「絵描きさんなの?」レオの手を握り返しながら理恵が言った。説 明するまでもない。部屋にはレオの使う油絵の具の匂いが充満して いたからだ。 共通の友人の紹介で知り合ったレオはアートスクールに通う画家 の卵で、物静かな若者だ。 「絵を見るかい?」 「いいの?」理恵はヴィトンの旅行バッグを放り出すと、レオの部 屋へ導かれていった。再会の喜びを交わす間もなかった。だいいち、 彼女は絵画や美術品に興味を示すタイプではない。僕は不思議に感 じながらも、二人のために熱い紅茶をいれた。 翌日、僕が仕事から戻ると、理恵がキッチンに立っているのに驚 かされた。カレーの匂いが鼻腔をつく。僕は嬉しくなって鍋を覗き 込んだ。彼女の手料理なんて、食べたことがない。 「レオがカレーを食べたことがないって言うもんだから」 僕は複雑な気持ちでレタスをちぎる理恵を見つめた。 食事の後、理恵が日本から持ってきた緑茶を煎れた。レオが初め ての渋さに眉間に皺を寄せると、理恵がはしゃぎながらそれをから かう。片言の英語でレオに話しかける理恵。それを辛抱強く聞き取 ろうとするレオ。おかしな英語表現に茶々を入れる僕に、気づくこ とさえなく。 「ところで理恵、買い物は済んだのか?」僕がそう言うと、彼女は 初めて日本語を聞いたかのような表情で僕を一瞥すると、再びレオ を見つめた。 「モデルになってくれって、頼まれたの」 その夜、ベッドの中で理恵が遠慮がちに告げた。 「かまわないかしら?」 「いいさ。将来レオがビッグになったら、自慢できるだろ」僕は寛 容なところをみせるつもりでそう言った。「でもまさか、ヌードじ ゃないよな」 「当たり前じゃない」 理恵は拗ねたように背を向ける。僕は伸ばしかけた手を、そっと 引っ込めた。再会してから、キスすらしていない婚約者の細い肩が、 確固たる意志をもって僕を拒絶しているように見えたからだ。 「メトロポリタンに行ったわ」 三日目、彼女はソーホーの古着屋で買ったという地味な色のセー ターを着ていた。 「レオと?」さり気なく訊いたつもりが、自分でも驚くほど嫌味の こもった口調になった。 「何が気に食わないっていうの?」理恵は全く悪気なさそうにそう 言い捨てると、レオの待つ部屋へ消えた。絵を描いている際中は、 レオは決して他人を部屋に入れない。それはルームメイトの僕です ら例外ではなかった。そこに立ち入ることが出来るのは、モデルと なった理恵だけ。 「悪かったよ」僕はそっとノックをしてドアの向うに囁いた。「明 日は休みがとれたから、君に一日付き合う。ライオン・キングのチ ケット、手に入ったんだ。観たがってただろ」 沈黙の後、小さくドアが開かれ、レオが部屋の中を見せまいとす るように、そこに立ち塞がっていた。 「仕事中なんだ。明日は一日彼女を独占できるんだろう。少し静か にしてくれないか」 不安が確信に変わる時、人間はこうも冷静さを失うものなのか。 情けないのは百も承知で僕はレオを力任せに殴りつけ、部屋から走 り去った。どちらかが僕を追ってくれればいいのにと願った。けれ ど、僕の背中は微かな視線さえも感じなかった。 レオを殴るのはお門違いだ。そして理恵を責めるのも。なぜなら、 誰も恋心を罰することなど出来ないからだ。何がどう狂ってしまっ たのか。どんなに考えてもわかりっこなかった。こうなるのは、初 めから決まっていたことなのだ、きっと。 僕はオフィスの仮眠室でウィスキーと共に惨めな夜をやり過ごし、 二日酔いのまま仕事を始めた。 理恵が日本へ帰る前日、僕は酔った勢いでアパートの前まで足を 運んだ。冷え切った夜の路上から、建物を見上げる。レオの部屋か ら、仄かな灯りが洩れている。その窓の向こうにある情景を、僕は 容易に想像することが出来た。キャンバスと理恵を行き来するレオ の真剣な眼差し。一糸纏わぬ姿で横たわる、艶かしく、美しい理恵 の姿。時折絡み合う二つの視線は、気の遠くなるような時を経て巡 り会った恋人たちだけが持つ、濃厚な空気の中でお互いの欲情を呼 び覚ますだろう。 僕は叫び出しそうになるのを堪えて、その場を立ち去った。この 時期だけクリスマスのイルミネーションに彩られたエンパイア・ス テート・ビルディングが、遠くから僕を見下ろしている。歩きなが ら僕は、今年の冬はきっと厳しい寒さになるだろうと予感していた。 酔いはすっかり醒めていた。 理恵を乗せた飛行機が飛び立つ頃、僕はアパートに戻った。レオ の部屋のドアは開いていて、キャンバスを満足そうに眺める彼は、 僕と目を合わせることなく言った。 「彼女は帰ったよ」 完成したその絵を、僕が観ることは永遠にないのだ。 その後、僕はレオと別れて一人、新しいアパートへ移った。判り きっていたことだけれど、あれ以来、理恵からの連絡はない。僕は 時々考える。例の同僚が言ったことが真実だとすれば、彼女があの 部屋へ一歩入った瞬間、むせ返りそうな油絵の具の匂いが、彼女の 細胞だけが知る前世の記憶を甦らせたのに違いない、と。 そしてこの僕は、愛する人を失った、惨めな思い出が残る街を、 やはり離れられないでいる。僕は初めてニューヨークの街角に立っ た日の興奮を、今でもはっきりと思い起こすことが出来る。 飛行機が遅れ、会社が用意してくれたホテルに着いたのは真夜中 だった。近くのデリカテッセンへ取り敢えずの食料品を求め、僕は 寝静まった街へ出た。人っ子一人いないこの路上は、紛れもなく世 界有数の犯罪都市――ビッグ・アップル。ピリピリとした空気が、 心臓を激しく揺さぶる。足元から突き上げてくる、痺れるような感 覚。死と背中合わせの恐怖感が、なぜか心地良い。 あの時、僕の細胞も目覚めたのだ。遥かなる前世に、僕はこの街 に生き、ずっとこの街を愛していたのだと。 時を超えて巡り会った二人があれからどうなったのか、僕には知 る由もない。
目が覚めると僕は、全面真っ白い壁で、家具もじゅうたんもお菓子 も何もない、ただただ真っ白い壁の部屋にいた。いや、何もない、 と言うのは少しだけ違う。部屋の左隅に一枚だけガラス戸があって、 ここから見る限り、どうやらこの真っ白い部屋の向こう側にも何ら かの部屋があるらしい事がわかった。 僕は立ち上がって、そのガラス戸へ向かい、ドアノブに手をかけガ チャガチャしてみた。鍵がかかっているようで、ガラス戸は開かな かった。仕方がないのでガラス戸から外の様子をしばらく見てみる 事にした。 ガラス戸の向こうに、僕の母さんがいた。母さんは氷でできた椅子 に座り、氷でできた机に突っ伏して、一人どこを見るでもなく一点 を見つめ、ぐったりしていた。僕はその姿を見ていて、母さんが可 哀想になってしまって、もう一度ドアノブをがちゃがちゃ荒々しく やってみた。 すると母さんはガチャガチャ音を立てているドアノブに気づき、急 に泣き顔になってガラス戸まで走り寄り、ガラス戸を叩きながら何 か叫んでいるようだった、けれど何を言っているのか僕にはわから ない。何度もガラス戸を叩きながら叫ぶ母さん。しかし僕には何も 聞こえない。何しろ、ガラス戸を叩く音すら、僕には聞こえないの だから。 しばらくすると母さんは叫ぶのを止め、どこからか紙とペンを持ち 出して、何かを書き出した。しかし僕にはその言葉、何が書いてあ るのかさっぱりわからない。それは、どこの国の言葉? それとも 絵を書いているの? 一体僕は、母さんは、どうしてしまったのだ ろう。僕は母さんのお腹から生まれて、母さんに育ててもらったは ずなのに、どうしてこんな風になってしまったのだろう。 嗚呼、母さん悲しまないで。何とかするから。 僕はガラス戸から離れ、目をつぶって右手の人差し指の先を思い切 って噛み切って血を流し、その指でだだっ広い真っ白い壁に、 「悪魔」 と大きく書いた。そしてその前にひざまずいて目を閉じ、 「僕に力を下さい」 と言い、両掌を頭の上に差し出した。しばらくすると僕の両掌に天 井から白い錠剤がたくさん落ちてきた。僕は急いでそれを口に入れ て、掌からこぼれ落ちて床に落ちた分も全て拾って、飲み込んだ。 しばらくじっとしていると、真っ白だった部屋がどんどん色づいて いくのがわかった。レコードプレイヤー、本棚、キッチン、お風呂、 パソコン、どんどん物も増えていく。レコードプレイヤーからはラ ヴィ・シャンカールのシタールが流れ、本棚には今まで読んだたく さんの本が並び、キッチンではパスタ鍋にお湯がぐらぐら沸いてい てパスタを入れる丁度いいタイミングになっていて、お風呂のバス タブにはお湯がはられ泡がいっぱいになっていて良い匂いが鼻をく すぐり、パソコンは「旅人」と銘打たれた美しい映像のスクリーン セーバが動いていた。 気づくと僕はいつものジーンズを履いていて、右後ろのポケットに 鍵があるのがわかった。僕はその鍵を使ってガラス戸の鍵を開けて、 母さんに会った。今度一緒に行く温泉旅行の話をした。母さんは笑 った。楽しそうだった。その後僕は朝飯を食べて、スーツを着て会 社に行った。同じチームの仲間と新しいプロジェクトについてのプ ランを立てた。会社の同僚と昼ご飯を食べながら楽しく話をした。 午後8時に退社。電車に乗る。うたたね……。 目が覚めると、僕はまた例の、全面真っ白い壁で、家具もじゅうた んもお菓子も何もない、ただただ真っ白い壁の部屋にいた。僕はま た手がかりを探そうとガラス戸に歩み寄りガラス戸から外を見ると、 ガラス戸の向こうには、最愛の人ケメ子がいた。 ケメ子は僕が2年前から付き合っている可愛い女の子で、体は小さ くて少しふっくらしていて色が白く、愛嬌があり、誰からも好かれ る、僕には勿体無いくらいの素敵な彼女だ。ケメ子はひらひらの可 愛い服を着て、古びた中古レコード屋の一角で、「ビートルズ」の 棚をちまちま、ちまちま、一枚づつ見ては、にっこり微笑んでいた。 ケメ子は、「リボルバー」を手にとり、しばしじっとしていた。何 か思いにふけっているようだった。 そうだった、ケメ子、「リボルバー」はまだCDしか持っていない から、「リボルバー」のレコードが欲しくて、買おうかどうか迷っ ているんだな。嗚呼、ケメ子のそばへ行って、そのレコードを、君 が大人になった記念として買ってあげたいな。この間、アルバイト をしている君をこっそり見に行ったんだけど、その姿にびっくりし たよ。ケメ子も大人になったんだなあ、と思った。でもやっぱり僕 にとっては可愛いケメ子なんだけれどね。 不意にケメ子がこっちを向いた。ケメ子は僕に気づいた。慌てて僕 は「悪魔」の文字の前でひざまずいた。白い錠剤を貰わなきゃ。早 く、早く錠剤を。ケメ子がガラス戸を開けようとして、そのドアが 開かないと気づいた時、きっと悲しむだろうから。その顔は見たく ないから。僕がガラス戸を先に開けなくちゃ。僕が先にケメ子の方 へ行かなくちゃ。早く、早く錠剤を。僕に力を。 「買っちゃった。」 振り向くとそこにはケメ子がいた。真っ白な部屋の中、ケメ子の頬 だけはさくら色に染まっていて、ひらひらの可愛い服のすき間から はレモングラスのお香の匂いがした。ケメ子のまわりを美しい小鳥 が舞い、ケメ子が動くたびにまわりの空気が七色に変わった。 ケメ子は「リボルバー」のレコードを持っていた。ケメ子は僕が立 ち上がろうとするのを無視して、すたすたと「悪魔」の文字の前に 向かい、僕が「やめろ! 近寄るな! 」と叫ぶのも無視して、真 っ白な壁に僕の血で書かれた「悪魔」の文字めがけて思いっきり、 「リボルバー」のレコードを投げつけた。 パーン、という軽い音と共に、「悪魔」という文字は消え、その部 分からじわじわ、ゆっくりと真っ白な部屋が色づき始めた。レコー ドプレイヤー、本棚、キッチン、お風呂、パソコン……。 レコードプレイヤーからは「Tomorrow Never Knows」が流れて いて、ケメ子は座り込む僕を見下ろしニッコリ微笑んでいた。僕も ケメ子を見上げてニッコリ微笑んだ。ケメ子は僕の手を取り、僕を 立ち上がらせ、七色のソファに僕を座らせると、キッチンへ行き丁 度いい塩梅でお湯が沸いているパスタ鍋にパスタを入れ、鼻歌を歌 いながらソースを作り始めた。流しっぱなしにしているお風呂のバ スタブからは七色の泡が流れ出し部屋の床一面に広がって、ケメ子 はそれを足で弄びながら、七色のソファに座る僕にニッコリ微笑み、 手で七色の泡をすくって僕に近寄り、僕の頬に塗りたくった。僕も 七色の泡をすくってケメ子の足に塗りたくった。お互いに笑いあっ た。お互いに七色の泡を体中塗りたくって遊んでいると、ピピピピ ピ、とキッチンから音が鳴って、ケメ子は慌ててキッチンに戻った。 パスタのゆであがり具合はいい塩梅だろうか? ケメ子の周りにいた小鳥の一羽が僕の肩に止まった。ケメ子は僕の 神である事を知った。ケメ子の死は、僕の死であり、ケメ子の生は、 僕の生である事を知った。明るい未来が始まるのを、知った。
僕はこれまでの人生で人のために何かをしたことはない。人のた めに何かをするというのは原則としてありえない、というのが僕の 考えだ。もし君が恵まれないアフリカの人達に募金したとしても、 それは自分のためにしたことだ。飢えた人達を救うと思うことで自 分自身が充たされているのだ。たとえ子供の身代わりにトラックに はねられたとしても、子供を見殺しにする罪悪感に耐えるよりも潔 く死ぬことのほうがたやすかったのだ。人のために何かをすること はない。君が自分自身のためにしたことが、結果的に人の役に立つ だけだ。こういう考えを認識しておかないとつまらない後悔を繰り 返すことになる。「あなたのためにしてあげたのに」なんていう意 味の無い愚痴をこぼすことになる。 しかし僕のこうした物の見方が原因でしばらくうまくいっていた ガールフレンドとケンカするはめになってしまった。 「あなたのためにしてあげたのに」と言って彼女は電話を切った。 二日前のことだ。 僕はあれこれ考えるのが面倒臭くなって、「ファラオの呪い」と いうドキュメント映画をレンタルビデオで借りてきて一人で見てい た。僕達はよく映画を見た。僕はオリバー・ストーンが気に入って いて、彼女は「ボディ・ガード」が大好きだった。テレビの画面に はピラミッドが映し出されていた。主演の男優と比べるとそれはと ても大きく見えた。たかが墓のためにこんなものを作るなんてバカ な話だ。 ピラミッド? その時僕の頭にある考えが浮かんだ。最初それはひどくぼんやり していて何を意味しているのかよくわからなかった。主役の考古学 者が王の棺を開けたところで初めて考えがまとまった。それはこう いうことだ。 ピラミッドは王のために作られたのではなかったか? 僕はそのことについてしばらく考えてみた。レンガを一つずつ積 み上げて行った人達は、進んでそうしたわけではないだろう。拒否 すれば罰せられたに違いない。だとすれば生き延びるために行った、 自分のためにそうしたと考えることができる。しかしそんな僕の考 えをふきとばすのに十分なほど、ピラミッドはあまりにも大きかっ た。ピラミッドと比べて僕はあまりにも小さく感じられた。 「ごめん、僕が間違ってた」僕はその映画が終わるとすぐに彼女に 電話をかけた。 「どうしたの? あなたが素直にあやまるなんて珍しいわね」 「ピラミッドのおかげだよ」 「ピラミッド?」 「いや、なんでもない」
「あっ」 沙希は、手に持っていた試験管を滑らせ、ミッキーの餌箱に落と してしまった。試験管は割れはしなかったが、試薬はこぼれていた。 「ミッキーごめんねぇ。大丈夫だった? もう!気をつけてよね!」 沙希は酒井を睨むと、試験管のラベルをチェックした。 「Q1MS1W…、促進の方だ」 殺風景な研究室だからという事で、研究所のマウスをペット代わ りに置いていたのだ。 突然、沙希が叫んだ。 「ミッキー!」 沙希が屈み込んだ籠の中には、回転している回し車の脇で、ミッ キーがぐったりしていた。 沙希が大事そうにマウスを取り出すと、既に息絶えていた。 不思議なことに、一杯だった餌箱と水は、空になっていた。 『穀物類の成長促進薬の研究許可願』(抜粋) ●申請の背景 凸凹研究所の癌細胞研究班で、先ごろ発見されたレトロウィルスの 特性を調査した結果、以下の事項が判明しました。 発見された菌の特性 @Quick菌(以下Q菌)は生物の成長を促進させる特性があ る可能性が高い。 ASlow菌(以下S菌)は生物の成長を停滞させる特性がある 可能性が高い。 BQ菌とS菌は共存して繁殖し、一方が多くなることはない。 CQ菌およびS菌は繁殖力が驚異的である。 以下の背景は省略 ●研究の目的 上記事柄から、Q菌とS菌とを分離し植物に使用する事が出来れば、 短期間での収穫が可能となり、食物問題の解決に大いに貢献できる と考えております。 ついこの間生成に成功した成長促進薬は、植物には適用出来そう な目処は付いている。試薬を使って育てた柿の実を、サルが食べて も異常はなかった。 始めの頃はみんなも面白がって、『早く芽を出せ』とはやしなが ら、試薬に漬けた柿の種を埋めたものだった。 でも、柿は実をつけたと思う間もなく熟し、すぐに萎びてしまっ た。 熟した実もすぐに収穫すれば良いけれど、収穫の時間が短すぎる。 これでは意味がない。 長い実験の結果、試薬に混合させるある物質と薬品の割合によっ て、ある程度成長したら停滞させることが出来る様にはなった。つ まり、数秒ほどで十年程の成長をさせた後、通常と同じ成長効率に する事が可能だという事。 逆に、一ヶ月成長(腐敗)を止めてその後通常の状態に戻す事さ えも可能になった。 これで、賞味期限などという考えは無くなるかも知れない。 でも、植物は地面や大気などから養分を補給できるが、動物はそ うはいかない。 餓死したマウスの件もあるし、もし誤って人間がこの薬を飲んで しまった事を考えると、実験をしないでは商品化できない。 みんな研究所に詰めっきりで、疲れがピークに達しようとしてい る、そんな時に事件は起きた。 冷房が効いているとはいえ、外は30度を越す暑さだというのに、 涼しそうに黒のスーツを着た、拳銃を持った二人の男達が、研究所 に入って来た。 彼らは研究所の職員のように振る舞い、我々の研究室に真っ直ぐ やってきた。 「成長停滞薬を頂きたい」 言った途端に、彼らの拳銃がポンと乾いた音を起てたと思ったら、 酒井君が、声も出さずに倒れた。 「さ、酒井君…。何をするんです。薬は上げますから私達に危害を 加えないで下さい」 室長である私は、震えながらやっとその言葉を口にした。 「ふん。協力的なのはいいことですよ。それでは、促進薬の方も一 緒に出して貰いましょうか」 私達は震える手で、とにかくこの場を何とか乗り切ろうと、言わ れるままに行動した。 「それでは殺さない変わりに、この促進薬を全員に飲んで貰おう。 本物かどうかの検査もしないとなっ」 ニタリと笑った口元からは、狂気しか伺えなかった。 私達は、促進薬100%の純液を各々飲まされた。 (あぁ。これで私もおばあさんか…)こんな時になっても、年を取 るのがイヤな思いしか湧いて来ないのは不思議だ。 胸が苦しくなって、身体が重く感じられた。 みんなは? 他の人を見ると、何ともないようだ。 「みんな大丈夫?」 「えぇ、ちょっと耳鳴りがしますが、後は何ともありません」 「ほんと、一体どうなってるのかしら?」 あの二人組を見ると、全然動かない。…何故? 「と・時計が…」 「えっ? とけい」 時計の針が止まっていた。秒針が全然動いていない。デジタル時 計の100分の1秒の表示も動いていない。 えっ? どういう事? 「こ、これ見て下さい」 沙希ちゃんが甲高い声をあげた方を見ると、彼女が触れている紙 が、床から浮かんでいた。 「これ。薬を飲む時に、手をついて机から落ちたんです」 「落ちたって言っても、落ちてる途中みたい…」 「……」 途中? 成長薬。止まっている。速い? 「そうか…。私達が研究していたあの菌は、成長を速めるんじゃな くて、時間を速くする薬だったんだわ」 「え? どういう事ですか?」 「だから、植物は普通に成長していたのよ。但し彼らの経過時間が 異常に速くなってね。…相対的にみたら成長が速くなったように感 じたのよ、我々が植物よりも遅く動いていたから…」 「え? よく解らないです」 「つまり、こういう事」 私は、二人の侵入者にゆっくり近寄っていった。 「あぶない」 沙希ちゃんが声をかけるのも無視して、私は彼らの拳銃を取り上 げた。 彼らは思ったとおり、全然動こうともしない。 「ほらね」 拳銃を机の上に置くと、私はみんなを振り返った。 「さぁ。それじゃ、私達が普通の時間に戻れる様にしましょ。その 前に、沙希ちゃんロープ持ってきて、この人達を縛っちゃいましょ」 「はーい」 沙希は、小走りに用具室に向かった。 「キャー」 「え? 何?」 私達が見た先では、彼女の服が煙を出していた。 「早く脱いで!」 私は白衣を脱ぎながら、ねっとりと絡み付く空気に抵抗し、急い で彼女のところへ行った。私のスカートも煙を吐き出した。 気がつくべきだった。空気との摩擦って結構大きいんだ。 結局私達は、下着まで脱いで毛布に包まる事になってしまった。 「あまり速く動かない方がいいわね。嫁入り前の女性の裸を見たん だから、男性諸君には今度のボーナスで、高いスーツでも買って貰 いましょうか」 私はみんなに笑いかけた。 「そうだ。酒井君に薬を注射しましょ。助かるかも知れない」 私達には時間があった。むろん私達だけの時間だが…。1時間は 経過していると思えるのに、まだ1秒も経っていない。 酒井君には、みんなで話あって、12時間程の停滞薬を注射した。 私達も自分達が元の時間速度に戻れる様、十分に計算し、停滞薬 を各々飲みこんだ。 勿論その前に、彼らをしっかりと縛りあげた私達は、3時間程度 の停滞薬も注射していた。このままにしておく訳にはいかない。 元に戻った私達は、弛緩剤を打ったと称した彼らと拳銃を、警察 に引き渡し、近くの知り合いの外科医のところに、酒井君を預けた。 勿論手術して貰わねばならないので、ある程度のことは打ち明けざ るを得なかったが…。 自分達の身体を使っての動物実験は、以外な結果を導き出してし まったが、これは私達の手には余った。 彼らの依頼者のおかげなのが、人類にとっては皮肉だけれど、一 企業が独占できる様な規模を大きく超えてしまっている。 今後は世界中でこの研究がされるだろう。勿論食べ物の調達から 保存なんていう事だけじゃなく、長い宇宙旅行や、現代では治せな い病気も…。 だが今の人類に、この発見がはたして管理できるだろうか?
立ちつくす影は歩道橋で延びた。いつまでたっても延びていきそ うな、そんな錯覚を覚えた。日が沈んだ。錯覚は、影と共に消えた。 <終わらせるための序文> 『人間を人間たらしめているものは、倫理観ではなく恐れである』 <雪、12月> 白い息たちが歩いている。マフラーを巻き、コートを着込んだ息 たちは、どれもが足早で、それでいてすべてがスローに見えた。 積もる気のかけらも無い小雪は、地面に落ち、溶け、びしゃびし ゃと音を立てられるくらいの溜まりになり、ブーツを汚す。そこか ら先はない。ただブーツを汚して、運が良くても「この前の雪のせ いで汚れた」と言われて終わるのだ。僕はそんな溜まりを避けて歩 いた。僕はブーツを履けるほど金を持っていなかったが、僕の履く スニーカーだって溜まりを歩けば汚れるのだ。 僕の通う大学は地下鉄の駅の近くにあったが、大学から斡旋され た寮はキャンパスに行くのにまず10分歩いて駅まで行き、6つ駅 をやり過ごさなければならない場所にあった。そして部屋は狭かっ た。けれど僕はなんとなくこの寮を選んだ。住んで2年になってい たが、「別の所に住もう」という気はさして無かった。空調設備は 備え付けられていなかったがそれは我慢と対応がきくし、毎朝10 分歩いて6つ駅をやり過ごすことより引っ越す方が面倒の様に思え たからだ。 その日も駅を6つやり過ごすために10分間の道のりを歩いてい た。毎日が不変だった。名のある大学でもなく、名のある教授の講 義を受けるのでもなく、ただ7つ目の駅で降りるために、寮から歩 いて10分の駅に向かっているのだ。 僕は何でもない。僕は「僕」ですらないのだ。そう考えるのが毎 朝の日課になっていた。単位を落とすわけでもなく、教授に見初め られる学生でもなく、ちょっと世間からはみ出して「かっこいい」 と思わせる風体でもなく、ちょっとの才能で人に頭を撫でられる時 期をとっくに過ぎて、空想で遊ぶには年をとりすぎていた。どうす ればいいんだろう。どんなアプローチから考えてみても、終着点は いつもそこだった。歩行速度が緩くなり、次第に止まる。けれど、 歩き出す。地下鉄に乗るために。結局、僕が僕は「僕」じゃないと いくら主張したところで、僕は「僕」なのだ、それこそ不変なのだ。 どんな理想があろうと、そして無かろうと、僕は僕なのだ。否定も 肯定もされないまま、僕は変わらない自分を生き続けるのだ、まだ 「生き続ける」ことで発生する可能性を捨てきれないから。 「生き続ける」ことで発生する可能性。あいつも同じ言葉を使っ た。 地下鉄の階段を下り、改札口の上に掛かっている時計を見上げて、 丁度10分、ここまでがいつもと同じだった。傘をささずに雪の中 を歩いたので、あまり降っていなかったとはいえ些か身震いが冴え た。ふと違和感を感じた。靴の中で指が一本増えたような、(むず むず)、微妙な感覚、それは僕をぎこちない気分にさせた。 視線。 ? 振り返ると、見たこともない少年がすぐ後ろに見えた。高校生、 だろう、それ以外で詰め襟を着る職業を僕は知らない。思い当たっ てもそれは戦後までだ。 少年はじっと僕を見ていた。僕の目を見ていた。僕の方にこの少 年について思い当たる節はなかった。そして僕はここが改札口の前 であることに気が付き、 「あ、すみません」 と言って通路を開けた。僕が邪魔だったのだろうと思った。回り込 んで先に行けばいいのに、とも思ったが、通路の真ん中に立ってい た僕も悪いのだ。 けれど、少年は先に進まず、僕を見ていた。僕の目を見ていた。 気味悪くなった。なんだと言うのだ。 「話がしたいです」 と、僕が口を開く前に少年は言った。 「できれば外で。空の下でです」 外はまだ雪がちらついていた。少年の唇から白い息が漏れるのを 見た。端整な顔立ち。僕は少年に対して不思議な好感を抱いていた。 ある朝突然「話がしたい」と見知らぬ高校生に言われて好感を抱い た僕は、少年に、少年の言うことに、少年の全てに興味を抱いてい た。けれど僕は少年の唇ばかりを見ていた。 「雪の中歩くの、好きですか」 と少年は言った。 「嫌いじゃないけど。冬眠できるほど寒くなければね」 「歩こうです」 と少年は言った。 「学校はいいのか?」 「ボクは学生じゃないです」 「そんな服を着てるというのに、そりゃないだろ」 と僕は言った。そして気付いた。少年はまさに詰め襟を着ていたが しかし、それに連続するべき高校生たらしめる物を何一つとして持 っていなかった。雑誌やMDウォークマンや油とり紙(そしてちょ っとの授業道具)の入った鞄も、ストップウォッチ機能の付いた大 きすぎるくらいの時計も、そうだ、高校生という香りも、何一つ。 きっと詰め襟の制服すらも除いてしまえば、純粋な「少年」として の存在がそこに現れるだろう。 僕は自分のペニスが堅くなっていくのを感じた。「僕は今目の前 にいる少年に性欲を抱いている。」 「歩こうです」 と再び少年は言った。僕たちは歩き出した。 「何を考えていつも歩いているのですか」 と少年は言った。僕は少年の方に顔を向けたが、少年は伏せ目がち に前を向いてただ黙々と歩いていた。頬が淡く染まっていたので、 空耳でないことが分かった。 「話したい事って、それかい?」 と僕は言った。少年の唇を見ていた。 「そうでもあるし、それだけじゃないです。あなたの考えてること が知りたいです」 「君は僕をずっと見てたのかな、どこかで」 「そうです。あなたいつも何も見ずに歩いてます」 「2年以上になるからね、あの道も」 と僕は言った。僕はこの少年がずっと僕を見ていたと言うことを無 条件に納得した。改札口で初めて見た少年の瞳は、有無を言わさず ただ事実だけを述べていたからだ。「ずっと見てたよ。」不変な生 活に慣れすぎたのか、突発的で間の抜けるような変化に何の驚きも 怒りも感動もなかった。 「僕はいつも「どうしよう」って考えて歩いてる。どうにもならな いのが現実で、どうにかしようとも思わない。ただ考えるんだ。理 想の自分を作り上げるのでもなくて、ただ考えるだけ。どうしよう どうしようってね。堂々巡りを繰り返す。それだけさ」 「そうやって生きてるです」 「そうだよ。そうやって生きてるんだ」 「生き続けることで発生する可能性信じないで?」 と少年は言った。 「それは「どうにかなるかも知れない」を信じないでって意味かな」 「違うです」 と少年は言った。 「「何が起こるか分からない」を信じないでって意味です」 歩みが止まった。 「ボクは天使なのです」 その後すぐに『天使』と僕はセックスをした。体感温度は記録的 に低かったが、少年の中はとても温かかった。舞い降りてくる雪す ら羊からの贈り物のように思えた。少年は僕を拒まなかった。それ は水が流れ落ちるように自然に受け止められた。 互いの射精が終わると、少年は僕の瞼に何度かキスをした。例え グレゴリー・ペックでも、少年が僕にくれたものより素晴らしい瞼 へのキスを受けたことはないだろう。 「君は、こうしたかったの」 と僕は言った。 「互いに求めたのです。求めていたのです」 と少年は言った。 「あなたはあなたの持つ「不変」を動かすなにかを、ボクは自分を つなぎとめる何かを」 もう二度目はないのです。そう言って、『天使』は僕の前から消 えた。もしかしたら、実際にこの世界から消え去ったのかも知れな い、それは少年にしか分からない。 それでもこれから僕は生き続けるのだ、毎日「どうしよう」と考 えながら。気が付けば雪は止んでいた。薄い太陽に照らされた歩道 橋が見えた。
その少年は決まって夜の10時にやって来た。私は大学入学と同 時にコンビニでアルバイトを始め、そこで私はその少年に出会った。 少年はいつも10〜15本くらいのビールの空き瓶を入れたナイロン 袋を重そうにさげて、まっすぐレジにやって来た。その当時、ビー ルの空き瓶を返却してもらうと、一本につき10円を客に返すシス テムで、少年がやって来ると私は、その空き瓶の本数に応じてその 小さな手の平に 100円玉と数個の10円玉を置いた。少年は「あり がとう」と言うとすぐに店を出て行った。そのお金で何か買ってい くということもせず、ただ空き瓶を持ってきて、そしてお金をもら って帰っていくのだった。私がバイトに入っている時、必ず少年は 姿を見せた。その少年に歳を聞いたことはなかったが、たぶん小学 校四年くらいだっただろうと思う。いつもTシャツと半パンとゴム ぞうりという格好で、顔も体も真っ黒に日焼けしていた。私と少年 は特別な会話も交わさなかったし、少年も「ありがとう」とひとこ と言うだけだったけれど、私はなぜか彼に親近感を覚えた。 珍しく日曜の午後にアルバイトに入った日だった。夜にしか姿を 見せない少年が現れた。レジにいる私の方にまっすぐやって来たか と思うと「ゼンザイが食べたいんですけど、どうしたらいいです か?」と言う。ゼンザイ?私は戸惑った。季節は真夏だし、外は30 度を超える暑さなのだ。どうしてゼンザイという食べ物が出てくる のだ? 「ゼンザイ?」 少年は真剣な顔をして頷いた。そして、すがるような目をして私 をじっと見た。私はレトルト食品が並んでいる商品棚の所に行き、 ゼンザイを探した。だけどそんな物はなかった。第一、真夏にゼン ザイを食べたいと思う人なんていないのだ。 「無いね…」私がそう言うと彼は今にも泣き出しそうな顔をして私 を見た。 「ゼンザイ、どうしても食べたいの?」 彼は黙って私を見て頷いた。どうにかしなくちゃ、彼にどうして もゼンザイを食べさせてあげなくては、ゼンザイ、ゼンザイ…。私 はレトルト食品以外で彼がゼンザイを口に出来る方法を考えた。だ けど、なにしろ私はその時ゼンザイを作った事もなければ、ゼンザ イというものがどういう過程を経て完成するのかという事も知らな かった。こんなことなら親元を離れる前に母親にゼンザイの作り方 を教わっておくんだった…。私が考えこんでいる様子を彼は不安そ うな目でじっと見つめた。彼の視線を感じながら私はどうすればい いかを必死に考えた。 …突然ひらめいた。そして食品棚をひとまわりして「真空パック のお餅」と「小豆の缶詰」と「砂糖」を取り、ニッコリと彼に微笑 んだ。私の笑顔を見たとたん、彼は少年らしい屈託のない笑顔を見 せた。 「お母さんにおいしいゼンザイを作ってもらってね」そう言いなが ら品物を入れた袋を手渡すと、彼はとてもうれしそうに微笑んで「あ りがとう」と言った。そして走って店を出て行った。その後ろ姿を 見送りながら私はとても幸せな気分になった。 次にバイトに入った時にも、やはり少年は空き瓶を持ってやって 来た。私は少年の小さな手の平に 120円を置くと、思いきって話し かけてみた。 「この間、ゼンザイおいしかった?」 少年は私が突然話しかけたことに驚いたのか、キョトンとした顔 をして私を見た。そしてしばらくしてから、ニコッと微笑んで「う ん」と言った。 「お母さんに作ってもらったの?」 店の中は雑誌を立ち読みしている学生ふうの男性が一人いるだけ だった。 「ううん。お母さんじゃない、お父さんに作ってもらった」 少年はただ間違いを正す、というように自然に答えた。 「そうなの。お父さん、お料理上手なんだね」 「上手じゃないけど、僕にはお母さんいないから…」 少年は、そんなこと何でもないことなんだ、とでも言いたげにそ う答えるともう一度私を見て微笑んだ。でもその笑顔はどことなく 不自然で私は少年の心を傷つけてしまったのではないかと心配した。 私が黙っていると少年が 「お父さんが、コンビニのお姉さんはきっと料理が出来るんだろう って言ってた」と言った。「ううん、あんまり出来ないよ。きっとキ ミのお父さんのほうが出来ると思うよ」と私が言うと、 「まぁね…。僕のお父さん、お店で料理作ってるから」と少年は誇 らしげに言った。 「何て言うお店?」 「『こよみ』」 「どこにあるの?」 「このすぐ後ろ」 本当に「こよみ」はコンビニの真後ろにあった。小料理屋を思わ せるその店の正面には「こよみ」と書かれた暖簾が頼りなげにかか っていた。二階は住まいになっているらしく、ふと上を見上げると 二階の物干しに洗濯物が干してあるのが見えた。その洗濯物がなん となく不器用そうに物干し竿に掛かっていて、それは私に「僕には お母さんがいないから」と言った少年の言葉を思い出させた。 秋になっても少年は数本の空き瓶を持って姿を現した。Tシャツ が厚手の長シャツになったぐらいで、相変わらず半パンとゴムぞう りといった格好だった。私と少年は微笑みを交わすくらいで特別な 会話はしなかった。でも、私はなぜか彼が店にやって来ると心が和 むのだった。 その日も日曜の午後だった。少年が店にやって来たかと思うと食 品棚をひとまわりし、「真空パックの餅」と「小豆の缶詰」と「砂糖」 を手に取り、レジまで持ってきた。私はあの夏の日を思い出し、少 年の顔を見ながら「お父さんに作ってもらうの?」と聞いた。少年 はまっすぐに私を見て「ううん、お母さん」と言った。 「お母さん?」 「うん、新しいお母さん」 少年のあどけない顔に私は何と言っていいかわからなかった。 「お母さん、料理作るの上手?」 「まだわかんない。だってきのう来たばっかだもん…」 「そっか…。きっと上手だよ。おいしいゼンザイ作ってもらってね」 そう言いながら私が買い物袋を手渡すと、少年は「ありがとう」と 言って走って出て行った。 その日を境に少年はバッタリと姿を見せなくなった。夜になって も店に空き瓶をさげてやって来ることがなくなった。私は、少年の あのあどけない笑顔や、「ありがとう」と言ったあとの後ろ姿を思い 浮かべた。新しいお母さんと少年の間に何があったのだろうか。今、 少年は幸せなんだろうか・・・。 大学祭の時期になり、その準備などでバイトから遠のいていた私 は、その日久しぶりにバイトに入った。そしてその日も少年は姿を 見せなかった。私はバイト上がりに「こよみ」を覗きに行くことに した。なぜだかわからないけど、とにかく「こよみ」を見ることで 安心出来そうな気がしたのだ。 だけど、そこには「こよみ」はなかった。「こよみ」があるはずの 場所はもう既に更地になっていて「売地」と書かれた小さな看板が ポツンと立っているだけだった。あの店が本当にここにあったのか どうかももうわからなかった。もしかしたらあの少年もあの店も本 当は実在しなかったのかもしれないと思えるくらい何もかもが消え ていた。 私は少年のあの小さな手の平やビールの空き瓶を重そうに持って くる姿を思い出していた。ゼンザイを新しいお母さんに作ってもら うと言って去って行ったあの姿が頭から離れなかった。 「こよみ」と書かれた暖簾や、居心地悪そうに干されていた洗濯 物は、今はもうそこにはなかった。そこには買い手を待って、きれ いに整えられた無機質な土地が横たわっているだけだった…。
夜も深まり切った太平洋は、闇よりも尚暗い。 ずさあああああっ。 海面が黒く盛り上がり、一隻の潜水艦が姿を現した。 防音加工してある船体の内側から、僅かに喧噪が洩れ、それに呼 応するかのように、ミサイル発射管が開いた。 そして。 ばしゅっ――ごがががががががががが! 光の筋を曳きながらミサイルが一つ、星のない空へ飛んで行った。 「トライデントが発射された!?」 大統領は受話器に怒鳴る。 『はい。システムエラーがあった模様です』 電話の向こうで、国防長官は冷静に応える。 「私が許可を出してもいないのに、何故発射できる!?」 怒鳴る大統領に、秘書が無言でコーヒーを差し出した。 『お忘れですか? 艦載核は、有事の際の報復用です。独自の判断 で発射可能なシステムになっています』 「標的はどこだ? 迎撃はできないのか!」 『標的は東京、命中までおおよそ三時間です。現在基地並びに艦船 にスクランブルを掛けています』 「以上だ、何か質問は」 空母のブリーフィングルームで、説明を終えたホフマンは隊員た ちを見渡す。 「隊長」 古株のパイロットが片手を挙げる。 「なんだ、ラッセル。手短に頼む」 「あんたは、マッハ三で飛ぶ小っちぇえ巡航ミサイルを、本当に迎 撃できると思ってるのか。銃弾で銃弾を撃ち落とすようなもんだぜ」 「……いいか、ラッセル」 ホフマンは自分のヘルメットに手を突く。 「現在、ヤツは宇宙に昇って地球を半周している。こいつを今迎撃 する方法は、衛星レーザーくらいしかない」 「ならそいつを使えよ」 「使った。だが、三発外した時点で、オーバーヒートを起こしたそ うだ」 「一基じゃねえだろ。衛星兵器は」 「使用可能なのは領空内だけだ。それ以外は外交問題になる。元々 無断配備だからな」 「ハ! 外交問題? 日本に核ミサイルをぶち込むのは問題じゃね えのかね」 「政府間じゃ話が付いてるらしいが、まあどっちにせよ」 彼は白版に貼り付けてあるミサイルの写真を指さした。 「こいつを撃ち落とさないと、ウェルダンになった空母に着艦する 羽目になるって事だ」 港に停泊中の空母の滑走路は、駆け回る整備士たちでいっぱいだ った。 「サイドワインダーで巡航ミサイルをねぇ」 ラッセルは自分の戦闘機の翼にぶら下がっているミサイルを眺め る。 「使い方を考えろよ。戦闘機相手とはわけが違うんだ」 隣りにホフマンが立つ。 「その戦闘機相手だって、湾岸以来してねえじゃねえか」 「まあな」 ホフマンは頷いて、遠くの街明かりに目を向ける。 「もうすっかり日も沈んだな」 基地の街として栄えるそこは、ネオンの明かりが眩しいほどだっ た。 「夜間飛行がどうのって、また文句言われるんだろうな」 「オレたちの苦労も知らねえで呑気なもんだぜ」 「この作戦がすんだらイヤでも知る事になるさ」 ホフマンは自分の機体に乗り込み、キャノピーを閉めた。 「成功しても、失敗してもな」 ばすっ! 「ぬぐっ」 カタパルトの射出による加速に耐えた後、ホフマンは操縦棹を操 り始めた。 「目標ポイントまで四分。そこで三分以内に標的は現れる。覚悟し とけ」 『了解』 『はいっ』 『あいよっ』 通信機から隊員たちの声が聞こえる。 「狙って当てようなんて思うなよ。見えたら全弾ぶっぱなせ。敵は 速い」 すさまじいエンジン音と振動が、ホフマンの身体を揺する。その まま一気に雲の上に出て音速を抜けると、周囲がいくらか静かにな った。 くの字形の編隊を保ち進む。 眼下には、星と月の僅かな明かりに照らされた雲海が広がってい た。 「迎撃ポイントに到着した」 『了解。現在標的は距離二〇〇。予定進路を直進中。三十秒後に迎 撃ミサイルを発射する、決して作戦領域を逸脱するな』 「了解」 空母との通信を終え、ホフマンはレーダーのレンジを広域に切り 替える。 衛星から送られたデータに従い、ミサイルの軌跡が描かれて行く。 「速いな」 ホフマンが呟いた時。 レーダーに、ミサイルとは別の点が映った。その識別信号は。 『隊長、こいつは!』 緊張気味のラッセルの声がする。 「今、確認した!」 ホフマンは空母に通信を繋ぐ。 「何で作戦空域に民間機が紛れ込んでいる! このままじゃ、射線 上に入るぞ」 『避難勧告が間に合わなかっただけだ。あの民間機は射程圏外にい る、安全だ。任務を続行せよ』 「弾が射程圏を出たら全体止まれで落ちて行くのか!」 『仮に撃墜してしまったにしても、被害者数は核が落ちた時の比に ならない少なさだ』 無言でホフマンは空母との通信を切った。 レーダーを確認する。 ミサイルとの距離は、もう先ほどの半分にまで縮んでいる。 「後、二分あるかないか」 彼はぐっと操縦棹を倒した。 斜めになった機体が、急速に進路を横に曲げていく。 『隊長?』 「射線を最大限ずらす! 三時の方向から回り込め」 『ミサイルを横から狙う事になるぜ』 「そこを当てるのがプロってもんだろ! 民間機を墜としたきゃ来 るな」 『ふふっ、ちげえねえ』 全ての隊員はホフマンに従い、編隊を保ったまま予定の迎撃位置 から数十キロずれて行く。 急速旋回の重力が、ホフマンの身体をシートに叩き付ける。 程なく、レーダーに映るミサイルの光点が左回りにゆっくり動き、 民間機の光点は射線から外れて行った。 「よし、ここまで来れば!」 ホフマンは安全装置を外しトリガーに指を掛けた。 近距離レーダーで、ミサイルとの距離が細かく表示される。もう 二十秒と掛からない。 「……来い、来い、来い」 高鳴る鼓動が身体中を揺さぶる。 交差するのは一瞬。真正面から当たる時のような余裕は一切ない。 この暗さ、見えたら、いや感じたら射つ。 はぁ、はぁ、はぁ――。 予定時間まで、十、九、八、七、……。 その時、目に眩しい光が入った。 「!」 隊員の機体の一つが、機関砲を発砲していた。明らかに早過ぎる。 機関砲弾に混じった曳航弾の僅かな光は、暗闇に慣れたホフマン たちの目には眩し過ぎた。 「くっ!」 ホフマンはロックオンしていないミサイルと機銃を乱射した。 虚空に吸い込まれていく砲弾と、命中せずに自爆したミサイルの 明かりは、一瞬通り過ぎていく何かを照らしたように見えた。 「急速旋回、追撃する!」 『落ち着け隊長!』 ラッセルの怒鳴り声がする。 『もう弾もねえだろ、あったとしても追い付けねえ』 彼の言葉通り、ホフマンの戦闘機にもう弾は残っていなかった。 「しかし、このまま! 弾の残ってる奴はいないか!」 『冷静になってくれ、追えばオレたちまで核爆発に巻き込まれるん だぜ』 「くそおっ!」 ホフマンは計器を殴った。 「……着弾まで後何分ある」 『ああ、えーと、あれ?』 「どうした」 『もう、命中してる時間なんだ』 「え?」 命中予定地点の方角の雲海は、何事もなかったかのように穏やか だった。 「不発か」 大統領は椅子に深く腰を掛けたまま呟く。 「冷戦時の弾頭だったせいか、プルトニウムが劣化して臨界量に達 しなかった様です」 資料の一つを、秘書が差し出す。 「誤射の原因の方は、新型OSのバグでした。ま、不発だったのが 不幸中の幸いです」 「なにを言ってるんだ、君は」 大統領は秘書を睨む。 「は?」 「我が国の最大の兵器が不発だった、これ以上の不幸があるか」 彼は海軍直通の受話器を取った。 「あー、国防長官? マスコミにばれんようにもう一発射て。今度 はきちんと爆発するヤツをな! 迎撃は許さんぞ」
「ねえ、私のこと好き?」 「ああ、当然さ」 「私たち、ずっと一緒だよね?」 「約束する。僕たちはずっと一緒だよ」 思えば、あんな軽薄な言動は慎むべきだったと後悔の念すら覚え ていた。彼女は、本当にぼくと一緒になってしまった。しかも、そ れは同棲や結婚といったものではなく、ぼくの頭の中に棲みついて しまったのだ。彼女と"物理的に"最後の話をしたのは、あのときが 最後だった。結果は良好と聞いていた彼女の容体は、ぼくが家路に 向かった直後に急変し、ぼくが家に着いた時にはすでに息を引き取 っていたそうだ。ぼくと最後に交わした会話は、実際のところ、彼 女は自らの余命を知っていたのかも、と思わされた。ただ唯一幸運 だったのは、彼女の眠った姿が、とても安らかだったということだ った。 それから5年の歳月が流れていた。学生だったぼくは、人並みに 社会人となり、日々それなりに忙しい生活というものを送っていた 。端から見ればどこにでもいるサラリーマンと思われてもおかしく はなかった。ただ、彼女がぼくの中に棲みついていることを除けば 。 まず彼女とのいざこざは、家路に着いたころから始まる。そもそ もぼくと彼女はあまり趣味が合うほうではない。いや、正直に申し 上げれば殆ど接点がない、といってもいいかもしれない。話は合う のだけれども、なぜだか趣味だけは合わなかった。ウチにはテレビ が一台しかないのでチャンネル争いが始まるのだ。ぼくは巨人戦を 楽しみにして帰ってきているのに彼女は素人のお悩み相談とか、な んだかおばさん臭いような番組ばかり見たがる。テレビのリモコン がガチャガチャ激しく打ち合う。少しでも気を抜いていると手が勝 手に動くのだ。 「なによ、野球なんてあとでニュースで教えてくれるでしょ?」 「それじゃあダメなんだよ、遅すぎなんだよ。第一そんな、余所の 家の事情なんてどうだっていいじゃないか」 「なに言ってるのよ。他人の事情でも少なからず身の回りの事象と ダブるものなのよ。あなたの役にも立つんだって」 「役に立つかどうかなんてわかるものか。それにな、あの番組ある じゃないか、あるある何とかっての」 「あるある大辞典のこと?」 「そう、それ。なんだありゃ。やれトマトがいいだ、葱を食せだ、 バナナが効果的だと。一体なにを食べろっていうんだ。胡散臭いよ 」 「いいじゃない、健康になれるんだったら」 「健康も何も、君は生きていないだろ。そんなの関係ないじゃない か」 「……ひどい」 ちょっと言い過ぎた。彼女を傷つけてしまった。こうなると非常 に厄介で、決まってその日の晩に変な夢にうなされたりする。とて も怖いので一生懸命なだめる。今日はそれに2時間も費やされてし まった。やっとのことでほとぼりが冷めたときには巨人戦はすでに 終わっていた。完敗だった。ぼくも巨人も。 彼女が棲みついているといっても、物理的にはぼくは一人暮らし をしているワケで、多くの、いや、殆どの人からみればぼくは独身 の、結婚適齢期を向かえた一人の若者に見える。ぼくだって実際そ う思っているし、将来の伴侶というものを探してもおかしくはなか った。ただぼくにはそれほど熱心さというか、頑張ってまで見つけ ようという気にはならなかっただけだ。 「斎藤さんって仕事終わると普段は何をされているんですか?」 得意先で事務の仕事をしている石田さんは、なにかとぼくの動向 を聞こうとしていた。もともとはそれほどプライベートな話をする 間柄でもなかったが、彼女の会社と飲む機会があり、それからちょ くちょく話すようになっていた。 「そうですね、まあ、テレビで巨人戦を見たりですか(ほとんど見 れないけど)」 「ああ! 野球ですか! 私も巨人大好きなんで す! 最近は連勝が続いて気分がいいですよね! 残念ながらこな いだは酷い負けかたでしたね」 そんな会話を過ごしているうちに、石田さんと今度、野球を見に 行くことになってしまった。携帯電話の番号を教えあい、じゃあ今 度電話しますね、と石田さんは言ってくれたのだけれども、少しぼ くは気がかりなことがあったのだ。 「今日石田さんって人から電話が掛かってくるんだけど」 「誰その人? なんなの?」 「取引先の人。なんだよ、君だって知っている癖にワザと聞いちゃ って」 「知らないわよ、そんな女」 やっぱり彼女は機嫌が悪かった。とはいえ、もう石田さんと約束 をしてしまった。彼女から電話が掛かってくるのは時間の問題だっ た。 トゥルルルル、トゥルルルル……。 案の定掛かってきた。ディスプレイをみるとやはりそうだった。 「勝手にすれば」ということなので、ぼくは電話を取ることにした 。出てみると、会社での印象とは少し違った、色っぽさというか、 艶っぽさというか、いわば女を感じさせる石田さんの声があった。 「夜分遅くすみません、石田です」 そういうと石田さんは今日ぼくと別れてからあった出来事、最近 見ているドラマの話、帰宅中に起こったハプニングについて話した 。ぼくはうなずきながら、近況など、それほどとりとめもないこと を話していた。電話が掛かってからしばらく経ち、いよいよ本題の 野球観戦の話になった。 「それじゃ、今度の件の話なんですけど、27日の6時に待ち合わ せって考えてるんです。それでもよろしいですか?」 「……」 はい、そうしましょうと言おうとしたのだけども、まったく声が 出なかった。出そうという意思はあるのだけれども、それが形にな ることはなかった。電話の向こうではもしもし、もしもし、という 石田さんの声が聞こえた。それでもなにも返事がなかったためか、 彼女は電話を切ってしまった。もうそれから、石田さんから電話が 掛かってくることはなかった。 「どうするんだよ。取引先の人なんだぞ! 契約が打ち切られたり したらどうするんだ!」 「いいじゃないそれくらい」 「いいわけないだろ! これから毎日のように取引先には行かない といけないんだぞ! 石田さんになんて言い訳すればいいんだよ!」 「……いいわよ、もう」 「またそうやって怖い夢でも見させるつ もりんだろ。そんな手な、いつまでも続くと思うなよ。こっちだっ て手段考えるからな」 「しないわよそんなこと」 「わかるものか」 しかし、彼女はそれ以来、ぼくの頭の中からきれいさっぱり消え てしまっていた。ワンルームの、一人で住むのがやっとのぼくの部 屋は、元のとおりの正常な姿に戻った。チャンネル争いもなくなっ た。怖い夢も見なくなった。好きなだけ野球を見ることができた。 だけれども、たまに彼女が好きで、よく見ていた番組が気になるこ とがあって、CMの間にちょくちょくチャンネルを回すことがあっ た。健康法で重要そうなことを言っていたので、メモしようと思い 、書くものが近くにないかキョロキョロしたところで、生前に撮っ た、彼女との写真に気づき、そこに写っている彼女の、少しばかり 悪戯っぽい笑顔が「ほら、私の言ったとおりでしょ?」と言ってい るようだった。 「私たち、ずっと一緒だよね? 毎度のことながらこのとき、ぼくは一瞬声を失う。それが身をも ったトラウマから来ているものなのか、生来の性格から来ているも のか、見えざる手のなす業であるのかは判断しかねる。ただ言える ことは、もうそれはすでに先約済みであるということだった。
長く肺の病を患い、寝たきりの妻のために、花の種を買って帰っ た。近ごろ仕事が忙しいことなどもあってなかなかゆっくりかまっ てやれない罪滅ぼしに、と思った。陽のあたりの悪い、あの湿っぽ い四畳半に咲くだろうその花が、せめて妻の気分を少しでも晴らす ことができるなら、と考えた。花屋の主人の話では、小さくてきれ いな紅い花が咲くらしい。私と同じく、摩耗しきったような表情を 浮かべる工場労働者で溢れた電車にゆられながら、花を眺めて嬉し そうに微笑む妻の顔を、思い浮かべた。 はじめは花を買ってやるはずだった。しかし、この工場街では、 生花は極めて高価な買い物なのだと、その店先で思い知らされた。 とても一介の下級工場技術者に買える代物ではない。しかたなしに 種の入った小さな紙袋を買った。それでもずいぶん値の張る買い物 だった。しかし、考えようによってはこれでよかったのかもしれな い。後は枯れていくだけの花より、育っていく楽しみを与えてくれ るその種のほうが、今の妻にはいいように思えた。 第十一重化学区と特別自治工場府を結ぶ工場間線の高架下にある、 背の低い、義足の店主のいる雑貨屋で買った合成肥料と人工土壌の 入った袋を抱え、帰途についた。重化学工場から伸びるパイプライ ンの影にひっそり並ぶ、煤汚れた借りアパートの階段で、隣の部屋 の住人である李さんと出会った。李さんはいつものように階段の手 すりにもたれ、合成金属でつくられた夥しい管のわずかな隙間から のぞく、複雑に切り取られた夜空を見上げていた。重化学区と工場 府を結ぶ無数のパイプラインは、この工場街という町を巨大な生き 物と見立てるなら、その大動脈を連想させる。ところどころに「有 害質」と赤いペンキで殴り書きされた管の中を、昼夜を問わず行き 来する膨大な物質の質量がこのあたりの重力に干渉し、常に胃がチ リチリ痛んだ。大小様々な鉄塔が天蓋に向かってそびえたち、星々 の替わりに警告灯が激しく瞬いている。地面の所々から噴き上がる 蒸気による濃霧が辺りにたちこめ、経水のような臭いが鼻腔にはり ついた。 何かお土産ですかと聞かれたので花の種を買ってきましたと答え たら、花はいいです、私は花を見るとなんだかこの街にやって来る 前の、ずいぶんと昔のことが思い出せそうな気がするのです、花が 咲く時分まで育ったらぜひ見せてください、と李さんは人の良さそ うな笑顔で言って、また暗い空を見上げた。 妻はこの買い物を私の想像以上に喜んでくれた。私が台所で夕食 の用意をしている間、布団の中から、水はやりすぎてはいけない、 肥料は控えめにしたほうがいい、人工土壌じゃ綺麗な色の花は咲か ない、少しでも本当の土があったらなぁと夢中になってしゃべって いた。私も妻の調子がいいのだと思い嬉しくなった。私はやかんを コンロにかけると、妻の枕元に静かに座り、夏になればきれいな紅 い花が咲く、それまでには元気になればいいな、と励ました。妻は その言葉を聞いて悲しそうに微笑むと、頷いて、せめて少しでも本 物の土があればいいのに、とどこか遠くを見るような表情で、何度 も繰り返していた。 遅い夕食をとり、片付けを済まし、風呂の用意をして食卓で妻と 一緒に温かい珈琲を飲んだ。すぐに妻は少し疲れたと言って布団に 戻ってしまった。少々興奮しすぎてしまったようだ。やがてすうす うと穏やかな寝息をたてるのが聞こえた。私は昼間、花の種を植え た鉢を置く場所はこの部屋のベランダより、日当たりのいい李さん の部屋のベランダのほうがいいのではないかと考え、明日にでも話 してみようと思った。 ちらちらと瞬く台所の薄暗い電灯のせいか、うとうとと微睡んで いると、いつのまにやら寝入ってしまったらしい。見も知らぬ土地 の夢をみた。なぜかしら一抹の懐かしさをかんじる夢だった。隣に いまよりいくぶんか若い、妻がいた。そこで私たちは、小さな土手 を歩いていた。まだ冬の名残の残る、冷たい風の吹く夜だった。空 気は凍りついたように澄んでいて、あたりの静寂は耳の奥に痛みを 感じるほどだ。背の高い葦が足元のすぐそこまで生えていて、土手 の小道を挟み、川面の方へと続いている。葦は風に吹かれてざあざ あ靡いていて、まるで黒い海原に立っているようだ。私も妻も、終 始無言だった。妻は俯いたまま、まるで子供のように足元の小石を 蹴りながら歩いていた。音の立てず、静かに流れる河は、私たちの 前に、まっすぐにどこまでも続いている。その黒い帯の先に大きな 明るい月が懸っていて、その青白い姿を川面に優しく浮かべている。 翌朝、目覚めてみると妻が死んでいた。気持ちよさそうに寝てい るので起こさないように静かに朝食をとり、仕事に出かけてくるよ、 と呼びかけたとき、ああ、死んでしまったのだ、と不意に気がつい た。眠っているような死に顔だった。顔色などは生きているときよ りいいくらいで、頬はうっすらと朱色に染まり、なにか愉しい夢を みているようであった。不思議と悲しみはなかった。もう先が長く なく、とうてい夏までは生きていられなかった妻にしてみれば一番 良いときに死んだように思えた。 その日、一日中、私は妻の横に座り、何をすることもなしに時間 を過ごした。思い出したように鏡台から櫛を持ってきて、妻の髪を 何度も丁寧に伽ぎ、濡れたタオルで身体を拭いてやった。死んだ妻 の身体は、子供のようにほっそりとして、乳の甘い香がした。する ことがなくなると、私は妻の隣で、ただただ座り続けた。暗い四畳 半の部屋で、妻をその眠りから起こさないように、まるで影のよう に座り続けた。 しだいに弱まる琥珀色の西日が夜を告げると、私は花の種のこと を思い出した。白い小さな紙に包んだ種をずぼんのポケットに押し 込み、灰色の外套を羽織ると街に出た。この種は、薄暗いこの部屋 で育てるより、陽のあたる場所に蒔くべきだという気がしたからだ。 できれば人工土壌ではなく、本当の土のある場所がいい。私は場末 の喧騒を抜け、区間線の橋架下をくぐり、ジリジリと点滅を繰り返 す街灯の薄暗い明かりを頼りにどこかよい場所、掘り返されたり、 上からコンクリートを流し込まれたり、汚水にまみれたりしない場 所を探しながら時のたつのも忘れて歩き続けた。螺旋を描く赤錆び た長い階段を高い音を立てて上り、貯水用のタンクにかかる鉄橋を 越え、入り組んだ工場街の建物と建物の境を彷徨い続ける――爆発 する新星のごとく、天蓋を貫かんと生える無数の鉄塔、腐肉に群が る蛆虫のように蠢く街の光、吹き上がる黒煙、脊髄を掻き乱す金属 の摩滅する声、下腹部に鈍い痛みを残す低い機械音――求める土は なかなか見つからなかった。街を覆う荒々しい生命の息遣いはやが て遠くなり、聞こえるのは、決壊した河川のようにごうごうと轟く、 私の苦しげな鼓動だけだった。 頬から首筋に流れ落ちた汗が夜風に吹かれひんやりとした。見上 げればいつのまにか月が出ている。巨大な給水塔の下で息を切らせ た私は立ち止まり、煙草に火をつけて煙をゆっくり吐き出した。誰 にも知られずひっそりと月下に咲く、紅い花を想った。
幼い頃からずっと、この世で一番高いのがあの塔なんだと、疑い もせず思っていた。街の内側より何十メートルも高い、運河の外堀 の内側から眺めても、歩いて歩いて幾らか近づいたかと思っても、 その塔はこの近くの高い建物に隠れて、先端の少しだけしかその姿 をあらわすことが無い。人が毎日毎日、塔へ向かってぞろぞろ歩き 消えて行くのを、あの人達は毎日そうして歩いているようだけど、 はたして毎日塔まで辿りついているのかしらと、酷く疑わしく思っ てもいたのだ。 長じて初めて地下鉄を利用するとき、私は車両が押し立ててくる 騒音に磨り潰されてしまうのではないかという恐怖を確かに覚えた ものだと思うが、今それを思い出しつつこちらへ入ってくる車両を 見てもそれほどの音とは思われない。もともと轟音が異常に精神に 障る体質らしく大型トラックが脇を走るのに遭遇するだけで気が遠 くなる自分であるからこれはひどく不思議なことだ。もしかすると あの騒音の一部が年月の間に既に私の胸に吸着して、不安への耐性 が備わっているのかもしれなかった。そうならばそれは私という存 在のなかに起こっている唯一の不吉である。どんな場合でも耐性な ど人にとって凶兆に他ならない。私は私の精神や心臓が切り刻まれ たり鋼や綿の糸に引き絞られたり鑿に穿たれる、苦痛の感触を糧に して生きているのだから。地下の世界にはこんなかけがえない感触 でも麻痺させてしまう何かが仕込まれているのだろう。それなら原 因は、日光が入らないことだろうか、それとも母などという尊称を 受けて、一人前の人が享受すべきあらゆる感触を鈍らせる大地とい うものの内部だからなのだろうか。地上へ出る為の階段を上り、や っと呼吸の仕方を思い出す。 いつもより街が霞んでいる。その元凶が何かは解っていた。運河 の堀の向うに建造中の、巨大な建物の所為である。堀のこちらには 幹線道路が通り、向う側は古びたビルがそれぞれ同じぐらいの高さ に続いていく。その中に建物はある。 威容である。側に並ぶビル と比べて高さが倍近い。奥行きも幅も立っているのがようやくの他 の建物と違い何倍も広く、もちろん真新しく、地下にも幾階かはあ ると思われるそれは、その場所に無理に差し置かれ自重で沈んでそ こから動かなくなったようにも見える。鉄骨が組み上げられる。厚 い壁が張られてゆく。未だ鉄骨の顕な屋上には地上のものとはまる でスケールの異なる建造機械が、何か檻のような物体を吊り上げよ うとしている。 ―――あんな機械がまだ動くとは思わなかった。 朱と白に染め分けられていたのであろうその機械の長い腕や支柱 の、色合いが判別しがたいのは当然と言えば当然である。既に朽ち ているのだ。あれではまるで機械の屍だ。 上り勾配の橋を越えると建物はすぐそこである。早く渡ってしま おうと無意識に歩き、橋に踏み入るとき異変に気づいた。藻と汚泥 に澱むばかりの運河の水面が、これ以上無いぐらい美しくさざめい ている。音までたてそうなその様子に心の端を奪われて次に気がつ いたのが塔の影だった。ここから見ると数百メートル離れた隣の橋 の奥方向に、紅蓮の塔と呼ばれるその塔は建っている。もともと高 い塔であるから橋を越えてその影が運河に映る。しかし今日その影 は、いつもよりさらに伸び、私の立つ橋の下まで続いていたのだ! 橋を渡り切るところはすでに建造物の端にあたった。運河の堀 はかなりの深さがあり、橋の下を二分置きに錆びたような橙色の電 車が過ぎる。高架線がそれをどこまでも追ってゆく。スモッグと建 物に遮られ周囲は仄暗い。ふと気づくとここの区域図の看板が二枚、 並んで立っていた。柔らかい色調で街路と各建物の形を示すそれを 眺めたとき、やっと湧き出した気持ちに看板を蹴り割ってしまいた くなった。 私は走る。生まれて初めて走る事に両脚を遣う。今渡り終えた長 い橋を中ほどまで戻りその勢いのまま柵に乗りかかり眼下の水面に 伸びる塔の影を真下にした。息を切らす。鼓動が高まる。河岸まで 土手の電車までもあかく錆びさせたこの運河。以前に増し伸びる塔 の影。高い土手の上の巨大な建物。そして紅くさざなみはじめた水 面。目を触れた私の脳漿も既に、この紅にまみれているのか。目が ―――目が眩む。目が眩む。こんな状態長く続かない長くは続かな い、そういう言葉が無駄に口を衝き止まらない。 長く続かない? ここがこの街である以上、建てられるならば建ち続けるだろう。 もとよりこの街に、人間の意思で建ったものなど一つも無いのに違 いない。街路を走る人間などこの世界には居ない、立ち止まる人間 も居はしない。運河を渡る船のゆくさきを知る人間など居ない。私 はいま轟音をたて幹線道路をゆく大型貨物車を振り返り注視する。 視力の届く限界以前にその影は消え失せる。間違い無い。ここでは あの塔を永らえさせる為に全てが回っている。塔へ向かい塔から帰 ってくる無数の人間たちのためのどこに、その住居が存在すると言 うのだ。私はいつこの街に来たのだ・私はどこに居るのだ・「ここ」 はいったい何処なのか? 「ここで生まれた」私には既に判らない のだろうか。 皆この街を目指す為だけに電車で砂漠を抜け、やってきたのだと 語っているが、私はそうでない事を知っている。 塔だ。街のメーンモニュメントであると主張することをしない紅 色に錆びた塔を、この街に着いてしまえば人は気に留めることがで きなくなる。それでも毎日朝が来ればその塔へ、電車で徒歩で、通 い続けるのだ。そしてこの街に新しい建物が建つなどありえない話 だった。私は混乱する。何が起ころうとしているのだ、何を造ろう としているのだ。何の因果があってもう一昔も前に死んでいるはず の機械が建物を組み上げはじめるのか、ともに日に日に生気を増す あの塔はどうしたことだ。影を映すだけの運河の、水面さえその禍 禍しい生気にあてられてこんなにさざめいているではないか。 今ここに立っているのが私でなければ、あの塔の落とす滲んだ 輝きに触れんが為に、濁った水の一部にでも成ってしまいたいと夢 想しさえするだろう。既に何百人と、沈んでいるからこその、この 水面であるのかもしれぬ。それでも彼らは水の底では、まだ死ぬ事 ができないで積み重なっている。ここはそういう街だ。それともこれ がこの街で辛うじて、死ぬと言うべき事なのだろうか。死んでも あのように働ける機械などとは違って、人間は死ねば忌まわしい大 地に融けてしまうだけだ。それなら私は死ぬわけにいかない、ここ がどこであろうとも。私が私を。一人称で語る事の出来るうちは、 私はまだ、死んでいない。 私だけは、まだ死ぬわけにいかない。生きている。苦痛の感触を、 糧に。いまならあの巨大建造物。それを死んだ機械に作らせ生気を 甦り始める塔への不信感。おそらくこの街でわたしだけの持つ。そ れゆえの。私は塔を左肩に、河岸の上の、異常なほどに大きく真新 しく巨大な建物の威容を睨む。死んだ機械に組み立てられる建物は 何に使われるのだろう。塔は機械の屍に、一体何を吹き込んだ?
「私、決意したわ」 「何を?」 居間でのんびり寛ぎながら、テレビを眺める日曜の昼。別段、何 の変哲もない日常の一コマであり、彼女が持ち出した話題によって その日常が失われるという事でもないだろう。 根拠もないままそんな確信を抱きつつ、俺は妻に視線を傾けた。 「なんてゆーかもう、このままじゃ無駄に無駄な時間を無駄なこと に費やしちゃうだけって気がするし、生活に革命を起こす時だと思 うのよね」 「ほう」 聞き流してはいたが、返事だけはしておく。妻がこういう口調で 語り出す際は、反論せずにひたすら肯いているのが一番である。 「そんな訳で、さっそく今日から始めようと思うんだけど」 「……だから何を?」 「ダイエット」 ――すぐには反応を返せなかった。その言葉の意味を完全に咀嚼 し、飲み込んで、理解の泉へと浸透させるまでに数秒間を要したの は、仕方のない事だろう。 「なんでまた……充分痩せてるじゃないか」 「痩せてる? 何処がよ?」 俺の回答に妻は眉根を寄せ、問い返してきた。 確かにまぁ、痩せてるという程ではないかもしれない。 ……などと、自分で納得してしまっては意味がないのだが。とも かく、先刻の切り出し方から見て、この先の展開は容易に予測でき た。 要は、そのダイエットとやらに投資する資金調達が目的なのだろ う。 「必要ないよ。ダイエットなんて」 俺は言葉を続ける。それは正直な意見でもあったが、御為倒しも 多少、含まれている事は否めない。 「必要だから言ってるのよ。これは私の野望――でもあれね。野望、 っていうのはなんとなく絶対叶いそうにないようなイメージがある から駄目かしら」 俺の意見をあっさり切り捨てると、妻はべらべらと論点のずれた 話を開始した。 「でも希望だとインパクトに欠ける感じがするし、かと言って所望、 だと人に頼んでるみたいに聞こえるわね。とはいえ有望だと意味が 違ってきちゃうから」 「あのな……」 「という訳で――やっぱりここは誠実に願望、で行こうと思うんだ けど、どうかしら」 「何がだ」 半眼で呻きつつ、俺は妻を説得する手段を案じた。このまま有耶 無耶に話を進められては、彼女の思う壺だ。 早急に詭弁――もとい、正論で捩じ伏せなければ、まずい事にな る。 「あー……なんだ。俺から見ると、前とそんなに変わりないように 思えるんだが?」 「前っていつの話よ? 体重は日々変化してるのよ。ぱっと見ただ けで変わりないからって、実際にそうとは限らないでしょ」 「いや、だけど……」 見た目が変わりないなら特に問題はないように思えるのだが、妻 の気勢の強さに思わず、怖気づいてしまう俺だった。 「だけど何? 体重が増えてきてるっていう純然たる事実は否定で きないわよ」 「しかしあれだろ。大は小を兼ねるって言うし」 「杓子は耳掻きにもならないのよ。――そもそもそんな問題じゃな いわ」 なら言うなよ、と思ったが、言い出したのは自分なので黙ってお く。 「とにかく、そういう訳だから……まずは食事かしらね」 「…………」 どうやら、説得は無駄のようである。悟った俺は、手元にあった 煎餅を一つ手に取った。 「ストップ!」 「え?」 鋭い制止の声に、思わず煎餅を取り落とす。 「何やってるのよ。始めたそばから食べてたら意味ないでしょ?」 「いやでも、俺は関係ないだろ」 告げると、目に見えて妻の表情が変わっていくのが確認できた。 なかなか面白いが、楽観していられる状況ではなさそうである。 「――あなた、ちゃんと話聞いてた?」 「聞いてたけど」 「私じゃなくて、あなたが痩せるのよ?」 「……へ?」 予想外の展開。 しかしこれはこれで問題である。確かに、最近やや太り気味かも しれないとは自覚していたが、まだ本格的に痩せようなどとは思っ ていない。 妻の性格からして、やるからには徹底的に最後までやり抜くはめ になってしまいそうである。 それはあまり――いや、かなり歓迎したくない事態だった。 「ちょっと待てよ。なんで俺が……」 「なんでもかんでもないわ。あなた最近、ご近所さんからなんて噂 されてるか知ってるの? 「丸太ん棒みたいね」って! 丸太ん棒 よ、丸太ん棒!」 「……それは太ってる事になるのか?」 「イメージの問題よ、イメージの」 丸太ん棒という表現からして既におかしいと思うのだが――今の 論点はそこではないので、聞き流すことにした。 「分かったよ。確かに、少し太ってきたのは認めるさ」 「少しじゃないわよ」 「――しかしだな、こうは思わないか?」 妻の呟きは無視して、俺は言葉を続けた。 「俺が太ってきたという事は、それはつまり食生活に問題があるん じゃないか、と」 「だからそう言ってるじゃないの」 「そう。で、食生活だ。眼を閉じて、この単語をあと十回ぐらい繰 り返してみよう。食生活食生活食生活食生活食生活食生活……」 「……なにそれ。クイズ?」 「食生活食生活食生活食生活。――さて。この字から食という単語 を抜くと、どうなる?」 「生活でしょ」 「そう、生活だ。俺の生活。そしてお前の生活。いや、それはまぁ 別にいい。ともかく、俺の生活面において、少なくとも――ここ半 年以上は、目立った変化は何もない。これが何を意味しているか分 かるか?」 「……あのねぇ。回りくどい言い方、止めてよ」 意図が掴めないのか、妻は眉間にしわを寄せている。俺は満足そ うに肯くと、締めの言葉を括った。 「つまり。俺の食生活が乱れているという事は――すなわち、妻の 管轄不足に他ならない! 要するに、俺が太ってきたというのなら、 その責任は妻であるお前にあるという事だ!」 「…………」 びしぃっ、と妻を指差して告げた言葉は、しかし彼女に何の効果 も与えなかった。 ――いや、効果はあった。 妻の表情が、みるみる変わっていく。先刻の比ではなく、まるで 般若のような面持ちに人相がシフトチェンジしていくかの如く―― というか、そのままだ。 「へぇぇぇぇ。そういう事を言うわけね?」 「あー。いやその」 「確かに食事は私が作ってるわね。毎日毎日延々と……これでも少 ない少ない毎月の食費と相談しながら、栄養のバランスも取れるよ うに心掛けてるつもりだったんだけど……?」 まずい。饒舌になりだした妻は、非常に危険なのである。俺は冷 や汗を掻きながら、慌てて抗弁した。 「え〜と……いや、俺にもちょっと責任があるかも、というかある。 うんあるある。あったな、いやー、あんなところに。思いがけずあ った」 「そーね。私の所為って言えば、そうなっちゃうのかしら。あなた だって外食とかよくしてる癖によくもまぁそんな事なんて思わない でもないけど、そういう事なら仕方ないわ。うん」 「いやだから、俺が悪かったってば、全面的に」 「あなたに痩せて欲しいっていうのも、夫の健康を願ってのことだ っていうのに、そういう妻の好意も、そんな受け取り方しかできな いんじゃあ、仕方ないわよね」 「だから謝ってるだろ。聞けってば」 「こうなったらもう、離婚ね。うん、それしかないわ。こんなに意 見が対立しちゃうんじゃあ、今後もやっていくなんて無理だもの。 ――そうよ、思い立ったらすぐに実行しなくちゃ」 「おい、ちょっと待てぇぇっ!」 ――結局。 その後、妻の説得に数時間を費やした上、彼女の理想に到達する までダイエットをするという確約までしてしまう俺だった。 ……教訓。日常とは些細な事で、崩壊するものらしい。
盛りを過ぎて下り坂だった女優の遺伝子が販売されたのは、クロ
ーン技術の規制が緩和されてすぐのことでした。
彼女のクローンが欲しい。注文を出すと業者から書類が届きます。
それにはこれから届く子供を自分の子供として
親権を認める事、その子に関しての育成、教育の義務は全て自分が
負い、明らかに業者のミスと思われる身体の異常
以外に業者は何の責任を負わないこと。この二点を認める署名をし
て送り返すとクローンの製造が始まります。
そうして11ヶ月後、客の所に赤ん坊が送られてくるわけです。
女優のクローンは100体ほど売れたそうで、私はその51番目
です。
彼、戸籍の上では私の父親になっている男性は彼女の熱狂的なフ
ァンで、販売されるとすぐに遺伝子権を買って私
を育て始めました。
彼と二人きりの生活で楽しかった想い出は殆どありません。元々
の目的が私を育てることより、彼女への叶わぬ愛
情が基になっているのですから、だいたい想像はつくでしょう。
彼には厳しく育てられました。ゲラゲラ笑うな、髪は勝手に切る
な、勝手に食うな。初めは赤ん坊の私がウンチを
するのも嫌だったそうです。
彼は「変な知恵がつく」と、私が外出するのをあまり好まずテレ
ビも見せてくれなかったので、私はいつも家の中
にいました。いつも絵本ばかり買ってきては私に与えました。自分
がクローンだなんて夢にも思っていない私は、そ
れはそれで苦痛とも思っていませんでしたが、彼にしてみれば、男
性とのスキャンダルで人気を失った女優に、私を
重ねて清純な女にしたかったのでしょう。
しかし彼も私をいつまでも家の奥に隠しておくわけにはいきませ
んでした。日本国民の私に教育を施す義務がある
からでした。
人付き合いを知らない私は小学校に入っても上手く友達を作れな
かった。食事制限と運動不足で体は弱く、いつも
教室の隅で本を読む少女でした。
私はまさに引っ込み思案で夢見がちな、彼の望むような美少女に
育っていました。
中学校に入って私の体が女になってくると、待ってましたとばか
りに彼の悪戯が始まりました。彼はこれだけのた
めに十年以上も私を育てたのだから当然と思っていたでしょうけれ
ど、私から見れば父親の彼に受けた仕打ちは苦痛
でしかありませんでした。
父親に犯される。しかも彼はそれが当然の権利だと思っている。
中学から高校にかけての六年間が一番辛い時期で
した。
それなりに反抗期を迎えた私が彼に逆らうようになると、彼は冷
たい顔をして「お前はそんな女じゃない」と言う
ようになりました。私はその言葉の意味を父の下手な愛情表現なの
だと間違って解釈していました。
しかし私はやっと自分がクローンである事に気付きました。ある
日、突然に私の前に雑誌の記者という人が現れ
て、私の取材をしたいと申し込みました。私がその理由を聞くと、
その記者はバツの悪い顔をして私がどういう人間
なのかを話してくれました。
父親が異常であることに薄々気がついていた私は記者の言葉で全
て理解しました。
みなさんにはその時に感じた驚きや悲しさ、憤りは理解できない
と思います。本当に私という存在全てを疑わざる
をえなかったのです。
私は猛然と彼に反抗するようになりました。彼に育ててもらった
という恩はありましたが、それその物が純粋でな
く欲望の満足という不純な動機に裏打ちされていたのです。
私にだって自分の意思があります。私は私、国籍だって人権だっ
てちゃんと認められている一人の人間だ。私が言
うと彼は興醒めした顔でまた言うのです「彼女はそんなこと言わな
い」。
かわいさ余って憎さ百倍。という言葉があります。彼はどんな命
令にも従わなくなった私を次第に憎むようになり
ました。それからの毎日はまさに地獄でした。
ついに私は高校を卒業すると彼から逃げました。このままでは体
以上に心が危ないと思ったからです。
彼はどこまでも追ってきました。どこに行っても必ず現れて私を
連れ戻そうとしました。
あなたは親じゃない。もう私に関わらないで欲しい。そう叫んだ
私に彼はこう言いました。「そうはいかない。私
はお前の父親だ。父親が娘の心配をするのは当然だ」と。
私は体験した事のないほどの怒りを覚え、彼の顔に唾を吐いて逃
げました。それから彼は私の前に現れることはあ
りませんでした。
私は一人で生活を始め、アパートにこもって働きもせず、食べる
のにも困る生活を送っていました。鏡に映る顔を
見る度に整形手術をして醜く作り変えたいと思いましたが、臆病な
私は決断出来ませんでしたし、お金もありません
でした。
私を救ったのは、町で偶然に見かけたもう一人の私でした。私は
もう夢中で彼女に話しかけました。
もう一人の私はとても美しい女性でした。目立つのが苦手で地味
な格好をしている私と違って、オシャレで化粧も
うまい人でした。
もう一人の私も突然現れた私に驚いていましたが、一緒にお茶を
飲もうと誘ってくれました。
並んで歩く私達。まるっきりの双子です。周りの人達はオシャレ
な姉に地味な妹、といった目で私達を見ました。
「せっかく貰った美貌だもの、利用しなきゃ損よ」
もう一人の私は明るく言いました。彼女は幼い頃から自分がクロ
ーンだと知っていて、悩んだ事もあったが、父親
を恨んではいないと言いました。
色々と悪戯されなかった?そう聞いた私に「そりゃあされたけど、
彼は私がきれいになるのを約束してくれた人だ
から、あれぐらいはお礼だと思っているわ」と軽く言うのです。
彼女は逞しい人でした。何人もの男性に貢がせて生活しているそ
うです。考え方が私とはまるで反対で、この人は
私と同じ遺伝子を持っているのだろうかと疑うほどでした。
「遺伝子は同じでも、育った環境が全然違うからね、まったくの別
人に決まってるじゃない。私はあなたの知らない
事をたくさん知ってるし、あなたもそうでしょ」
彼女は芸能人になるのが夢だそうです。私は童話作家になれたらい
いな。と思っていましたから、彼女には書きため
た童話を見せてもいいような気がして、彼女にたくさん読ませまし
た。
「どうかな、つまらないかな」
「面白いじゃない!」
彼女は叫ぶと驚くほどの行動力で童話を本にして売り出しました。
クローン姉妹が作った本
彼女は私達がクローンである事を隠そうともせず、それをウリにし
て本を販売してベストセラーになりました。
私は人前に出るのが苦手なので、広報は彼女に任せてずっと部屋
で童話を書いています。私はそれで幸せなので、
彼女が女優としてテレビに出ても何とも思いません。
私は何人もの同じ遺伝子を持つ女性達と会いました。誰一人とし
て同じ人はいませんでした。体の器は同じでも、
心の水はみんな違った色をしていました。
私も、女優になった彼女も結婚して平和な家庭を持っています。
父親は二人の孫を今度は本当の愛情をもって接し
てくれます。
スクリーンに出ている女優や男優の肌を感じてみたい。そう思う
のは当然でしょう。私もそれがいけないことだと
は思いません。けれど欲望を満たすための遊具に生命を使うのは悪
いことだと思います。
私達はこれまで満足することばかり考えてきたような気がします。
自分にない物に抱く憧憬を美しい物とは思えな
いのでしょうか?
もしもそうだとしたら、人は悲しいですね。
真夜中、たった一人、荷造りしたスーツケースに、真奈は浅く腰 掛けていた。開け放たれた窓から、月の光だけが、淡々とその横顔 を照らす。冷たく凍り付いた時に、取り残された者の横顔。 ぼんやりと、真奈は顔を上げる。無意識に、右手を伸ばした。棚 に飾った写真立てを、ゆっくりと伏せた。 出発は、近い。死んだような心が、それだけを認識していた。 傍らの、携帯電話が鳴った。真奈はそれを、持ち上げる。 「もしもし」 「……わたし」 「ああ」 真奈は少し笑う。目を閉じた。その一瞬、過去が走る。 「お姉さん。ご無沙汰してます」 「突然電話したりして、ごめんね」 「いえ」 「……人づてに聞いたんだけど」 響子は、単刀直入に言おうとした。けれど、言葉を選ぶ。その僅 かな逡巡の間に、真奈はさらりと応える。 「わたし、やめませんよ」 「…………」 「いろんな人に、止められたんですけどね」 そう言いながら、スーツケースに置かれた真奈の手が、微かに強 ばる。決意は、揺るがない。揺らいだりしない。言い聞かせるよう に、心の中で強く思う。 響子はため息をついた。説得は無理だと、初めから知っていた。 「……そうよね。一度行くって決めたあなたを、止められそうな人 なんて……いないものね」 ――もう、この世には。 諦めの口調の向こう側に、言葉にできない声を聞く。真奈は携帯 を持ち直し、ゆっくりと口を開いた。 「……彼は、言ったんです。いい写真が取れたって、だからこれか ら帰るって、言ってたんです」 「……だからって、あなたが今さら現地に飛んで、あの子の歩いた 軌跡をたどって……そんなことして……何になるの?」 真奈は僅かに、微笑んだ。自嘲にも、似ている笑み。 「ただの自己満足ですよ」 「……あの子ね」 響子の口調が、諭すように強くなる。 「出かける前に、わたしに会いに来たの。おみやげ何がいい? っ て。おみやげなんて、悠長なこと言えるような場所に行くわけじゃ ないのに。顔を見れば、わかったわ。あれは……覚悟、していた」 真奈は瞬きし、僅かに顔を上げる。 「……わたしも、そう感じてました」 「薄情な奴よ。婚約者がいるのに、戦場に飛び込んでいったりして」 「…………」 「もう……忘れちゃいなさいよ」 響子は、そう言うと、黙り込んだ。真奈は、麻痺した感情で返す。 「恋人なら、いくらでも代わりがいるって言うんですか? 弟は、 たった一人だけど」 応えは、重い沈黙だった。真奈は重ねる。 「あんな人の代わりが、本当に、いると思うんですか?」 泣いてる。真奈はそう思った。きっと泣いてる。声に出さずに。 真奈は髪をかき上げた。唇を噛み締め、自責する。 「……すいません。お姉さんに、そんな事言わせるような、不届き な婚約者で。あいつに、怒られます。だけど……わかって下さい。 わたし、どうしても行きたいんです」 しばらくの、間があった。お互いが、お互いを、確かめ合ってい るような気がした。見えない場所から、糸を手繰り寄せるように、 遠く、近く。 響子が、呆れたようにふっと笑う。 「やっぱりあなたも、似たり寄ったりの馬鹿ね」 「……すいません」 「謝らないの。こっちの立場がないわ」 少しだけ、響子は考えるような間を空け、言った。 「あの子、本当にあなたが好きだった」 何の意図もない、率直な言葉。厚い雲の隙間から、光がこぼれだ したようだ。そして果てしない空が広がる。その青を、垣間見たよ うに、真奈は淡く微笑む。 「ありがとうございます」 響子もちらりと微笑んで、続ける。 「ちょっとね、わたしも嫉妬してた。そのころ……結婚ってものに、 ちょっと失望してて、恋愛なんてこんなもんかって、感じてて。な のにあの子は、とってもいい顔で恋をしてる。ああ、うらやましい なって、すごく思った。そんな人にめぐり合えた、あの子の幸運が ね」 真奈は応える。 「わたしは……」 同じぐらい、好きだった。今なら言える。彼がいなければ、生き ていけない。ちゃんと前を向いて、顔を上げて、生きていけない。 世界に存在する何一つ、心に入ってはこない。 「…………」 言葉が、続かなかった。声にしたら、嘘になりそうで、続けられ なかった。 そんな真奈の様子を、電話を介していても、響子はくみ取ったの だろう。こう言った。 「いろいろ、わたし、きついことも言ったよね。ごめんね。本当は ね、あなたたちが結婚したら、子供が出来たらって、考えてた。ち ゃんと祝福できるって、本当は思ってた」 今、言ってみたところで、何になるのだろう。 響子が再び、黙った。代わるように、真奈が言った。 「わたしは、写真を撮っている彼が、好きだったんです」 初めて真奈が彼を見た場所は、サッカー場だった。雨だった。高 校生のころ、サッカー部のマネージャーをしていた友人に付き合い、 母校の応援に来ていた。 傘をさして、ぼんやりと試合を眺めていた真奈は、すぐ近くで、 写真を撮っている男に気付く。その、ファインダー越しに選手を追 いかける彼の気迫に、圧倒された。目を、逸らせなかった。選手で はなく、彼の横顔を、真剣な眼差しを、見つめていた。 今でも鮮やかに、よみがえる。濡れた草の黄緑色。土の匂い。 カメラが濡れないようにと、気を使いすぎて、自分がずぶぬれに なっている彼に、そっと傘をさし掛けた。驚いたように、彼が顔を 上げ、目と目が合った。礼を言った彼は、クシャリと、少年のよう に笑った。 ああ、ものすごくこの人が好きだと、今までにない感情が、稲妻 のように、降ってきた。 「……真奈さん」 響子の声音に、少しだけ、からかいに似たものが混ざる。 「向こうへ行く目的……本当は、違うんじゃない?」 「…………」 「あの子の、どこかに残ってるかもしれないフィルムを、探しに行 くんでしょ?」 真奈は苦笑した。 「……かないませんね」 目を細めて、続ける。 「彼の、現地からの電話で……そろそろ帰るって、言ってた時ので す。こうも、言ったんです」 ふと、魔が差すように、傷が開いた。ズキンと痛みが跳ねる。ま だ、過去ではなく、現実の痛みだった。無理矢理に、抑える。あの 日からずっと、繰り返してきた。この先、気が遠くなるほどの未来、 いつまでも続いていくように思える。 目を伏せ、真奈は静かに、口にした。 「『戦争は、奪うものだな』って」 「……そう。そんな事を」 「はい。わたし、今更何言ってるのって、そういう風な事、返した だけだったんですけど」 懐かしかった。懐かしいという、その感覚を、嫌悪しながら受け 入れる。けれど、時が経てば、風化していくのだろう。少しずつ。 彼は、過去になっていく。 「……わたしも見たいわ。あの子が戦場で、何を撮ったのか」 「最高の写真のはずです」 「そうよね。でもね……いい? これだけは、約束してね」 響子が、改まったように言った。これを伝えるために、電話して きたのだ。 「生きて、戻ってきなさい」 その言葉の温かさが、真奈の胸に染みる。嘘でなく、祈りのよう に、神聖に響く。 「はい。ちゃんと、帰ってきます」 真奈は、誠実に応えた。彼女も、大切な人。喪失を知っている分、 自分の命の価値がわかる。帰ってくると、決意する。 真奈は目を閉じた。 想えば見える。出発直前の彼の笑顔。何度でも思い出すし、消え ない。涙を流すよりもずっと、抱き続けていたいと願う。 彼は走り切った。その軌跡の眩さは、想う数だけ光り輝く。
親方は膝前に広げられた織物に目を細めた。 「久実子さんの織物は近頃評判だじゃ。腕あげたじゃな」 久実子のくちばしは自然に綻ぶ。 「いえそんな。まだまだですわ」 愛想よく麦茶を差し出しながら、細長い首をくねくねと捻る。た しかに久実子の目にもその織物は美しく映っていた。 麦茶を一口飲むと、親方はちょっとまじめな顔になった。 「じつは話があるだじゃが」 「はい」と、久実子は翼を行儀よく膝の上に折り重ねた。 「久実子さん、デーモン百貨店知ってるじゃがか」 「え、デモ?」 「デーモン百貨店じゃが。知らんじゃがか」 「あ、はい。恥ずかしながら」 「そじゃか。いやな、そこで久実子さん、作品並べる気い、ないじ ゃがかと思って。たっくさんの人にな、見てもらって、できれば買 ってもらう、そんなこと考えとるんじゃがね」 親方はにっと笑うと、目の前の織物を毛深い掌でなでた。 「ま、考えてみてくれんじゃがか」 久実子は曖昧にうなずいた。 「ほんっと甲斐性ないんだから、うちの人」と、珠子さんはフルー ツカルピスをぴちゃぴちゃ舐めながら愚痴をこぼし続けた。「いま どきねえ、車の免許もとらないなんて信じられないでしょう? せ っかく、かわいいおもちゃ沢山こさえてドライブ代稼いだのに、も う」 さっきから話を振る機会をねらっていた久実子は、すかさず言葉 をはさみ込んだ。 「ねえ、百貨店でおもちゃ売らないかって、珠子さん言われた?」 あ、あの話ね、と珠子さんはちろっと久実子を見あげた。 「ええちょっと前に。もうあちこち声がかかってるみたいね」 「そうなの」 「そう。あたしもね、ちょっといいかなって思ったの。でも、うち の人がね」 「え、ご主人?」 久実子は思わず身を乗り出した。珠子さんの頑固で偏屈なだんな さんがいったい何と言ったのか。 「やめとけって。ねえ久実子さん、その、百貨店って行ったことあ る?」 「いいえ」 「どうもねえ、あたしのおもちゃを買ってくれるような子たちはあ まり来ないところみたいなの。うちの人ったらこうよ。何だこれ、 大人のオモチャじゃないのかってクレームが来るのがオチだって。 うっふふふ」 珠子さんはちょっと首をすくめて甲羅の中にひっこめると、淫猥 に笑ってみせた。「ホントうちの人ったら言い出したらきかないも の」 その言葉の中には何か誇らしげな欠片があるように久実子は思っ た。 「まあそこが、いいところなんだけど」 こそっと呟くように言うと、珠子さんはぽっと頬を赤らめた。久 実子の胸はちくっと痛んだ。 久実子は夕餉の仕度を始めた。自分一人分の料理。 ご飯の炊ける匂いを嗅ぎながら、ふっと幸福だった日々を思い出 す。今頃どうしてるかしら、とついつい面影を追ってしまう。 いけない。 久実子はあふれそうになった涙を羽の先っちょでそっと拭くと、 小さな頭を左右に振ってからたまねぎのみじん切りを始めた。する と、拭いたはずの涙が後から後からとめどもなく流れてきた。 そうよ、と久実子は自分に言った。あたしはたまねぎのせいで泣 いてるんだわ。うふふ、ばかみたい。ばかみたい、よね。 ふいに久実子、と呼ぶ声が聞こえた。あ、と久実子はみじん切り の手をとめる。 ばかだなあ、何でたまねぎなんかで泣くんだよ。こっちへおいで、 いいよ飯なんか、ちょっとおいでよ、涙ふいてあげるから。 久実子はがく然として包丁を置いた。 ああどうして、と久実子は呻いた。忘れようと思ってるのに、何 をやってもあたしはつい、思い出してしまう。 もう二度と会うまいと、心に決めて出てきたのに。 どんっどんっ、と激しくドアを叩く音がそのとき聞こえた。 どんっどんっ。久実子はじっとそのドアを見つめた。それは新聞 の勧誘員の立てる音でも、簡易書留を届けに来た郵便局員の立てる 音でもなかった。この音は、この音は、でもそんなはずないわ、と 久実子ははげしく頭を横に振る。 「久実子! 久実子! いるんだろう? 開けてくれ!」 享さん! 久実子の細長い首に戦慄が走った。享さん。そっと呟くだけでも 体が熱くなってしまうその名前。羽の先っちょが細かくぷるぷる震 える。どうして、どうしてここが。 「久実子お願いだ! 開けてくれ!」 久実子はドアに駆け寄って体をもたせかける。 「だめよ、帰って」 小さな頭を涙でぐちょぐちょにしながら久実子は叫んだ。 「帰るもんか。開けてくれるまで絶対ここから動かない。ほんとだ よ。だから」 久実子はぎゅっと目をつぶった。享がこのドアの向こう側にいる。 必死の形相でドアを叩いている。絶対見つかるまいと身をひそめて いたのに、ここまで追ってきた。 久実子は震える翼でドアを開けた。 もはや久実子から拒絶の姿勢は跡形もなく奪われてしまっていた。 激しい情熱と狂おしいまでの欲求が、久実子のほっそりした全身を 怒濤のように貫いた。 はあああああん。 恍惚のきわに大きく一声あげると、久実子は忘れかけていた悦楽 のさざ波に身をまかせながら静かに水底に沈んでいった。穏やかな 至福のひととき。 「享さん……」 肌のぬくもりを確かめながら、久実子は小さく呼びかけた。 「なに?」 あたたかな声が答える。 「ここ、なぜわかったの?」 「ずっとね、耳を澄ませてた。久実子の織物をぐっと抱きしめてね、 久実子がはた織ってたときの音を頭に蘇らせてね、そうしたら、こ こまで来られたんだよ」 「そう……」 「そう。ねえ久実子、君はまだ何にもわかっちゃいない。何にも見 えちゃいない。ねえ、外側のことしか君は見ちゃいないんだよ。も っと、はっきり目には見えないものをね、見られるようにならない とね、たとえば」 享は目を閉じて大きく息を吐いた。 「たとえば?」 「僕も鳥なんだってこと、君はわかってないだろう」 享が寝息を立ててからも、久実子はまんじりともせずにただ暗い 天井を見つめていた。 何にもわかっちゃいない……。 久実子はそっと起き上がると、脱ぎ散らかされたままの享の衣服 に手羽を伸ばした。そのなかにはぼろぼろに擦り切れた一枚の布が まぎれ込んでいた。久実子はそれを胸に押し当て目を閉じた。 享との満ち足りた日々の記憶が、津波のように押し寄せてきた。 こういう毎日がずっと続けばいいのにと願いながらも、やはり叶わ ないのだとあたしは出てきた。なのに、享さんはここまで来てしま った。この布きれをずっと大切に抱きかかえて。 久実子はあらためてその布をなでた。そこには、えも言われぬあ たたかで胸に迫る感触があった。半ば忘れていた感触だった。自分 の羽の一枚一枚を愛する人に捧げるつもりで織ったものにしかない、 生命そのものの感触。 それは決して器用に整った代物ではなかった。そういう意味では、 近頃親方に納めているものには到底およばない代物だった。 だけど、と久実子は思った。だけどこれには、きっとあたしの魂 が入っている。どんな立派な百貨店にも置いてない、ぬくもりのあ る貴い逸品。こういうのを、こういうのをあたしは本当は織りたか ったんだわ。愛する人のために。 今までとはちがう織物を織ろうと久実子は思った。 百貨店の話はやめよう。あたしは自分の足で行商をしてでも、本 当にこの価値をわかってくれる人に手渡しで織物を捧げよう。 そうたとえ、全身が禿げあがってのたれ死にすることになっても。 久実子は細長い首をくるりと捻ると、安らかな息を立てている享 の寝顔に微笑んだ。
「書留めです」 日曜の朝十時、おれはよれよれのパジャマのままドアを開けた。 「印鑑お願いします」 郵便局員は、ピンクの封筒を持って立っていた。簡易書留だ。おれ は目を丸くして、郵便局員を怒鳴りつけた。 「こんなもん受け取れねえよ!」 「あの、印鑑を……お願いしますっ」 めまいと頭痛がいっぺんに襲ってきたが、もう仕方のないことなの だ。 「わかった押すよ。ここで受け取らなくても、どうせ逃げらんないも んな」 ピンクの手紙は、むかし役所が保険証などに使ってた事務的な紙の ものだ。しかし今この色の書類は一切使われていない。死刑執行人通 知書、以外には。 今から七年くらい前から、世界中に爆発的な勢いで死刑廃止運動が 巻き起こった。だが日本はアメリカへの遠慮から刑を廃止できず、か わりに『行うなら痛みとともに』と、執行人を国民から抽選で選ぶこ とにしたのだ。 はじめのうちはメディアもこぞってこの制度をとりあげたが、しか し七年もたった今では、まったく話題にならない。今は死刑は月に十 件は行われており、執行人に選ばれるのはありふれた悲劇なのだ。 「死刑囚との面談および執行……なんだ二日も休みがいるのか」 おれは大きなため息をついた。 「休みの理由はこれです」 課長は書類に目を通すと、一瞬だがひどく嫌そうな顔をした。無理 もない。執行した人間がノイローゼになるのはよくある話だ。影響の ない奴の方がめずらしい。おれは営業成績がいいのを楯に、上司との 飲みニケーションをさぼってきたのを後悔した。ヤバくなったら即リ ストラかもしれない。 「あまり深刻に考えない方がいいぞ」 まさしく人ごととして、課長はそういった。 「この男が、ですか?」 ガラス越しに死刑囚の姿を見たとき、おれは信じられずにいた。 刈谷浩史。まだ二十代前半の色の白い美形。ものものしく着せられ ている拘束衣が妙になまめかしい。 この男が別室で見せられた調書の写真のように、崖の上からキャン プ中の二家族にガソリンをまき、火をつけて焼き殺したとはとても信 じられない。皮のずる剥けた幼児の死体とその男の姿はどうしても結 びつかなかった。 「面談は五分だ」 看守は質問にこたえなかったが、出て行くとき耳元でそっと囁い た。 「注意しろ。悪魔より始末が悪いぞ」 おれは眉をよせてガラスの正面に座った。刈谷は何もいわない。こ っちにも話すことなどない。一分、二分と、腕時計を見つめて苛立つ ような、でもどこかほっとする沈黙の時が流れていく。四分。このま ま終わるかとため息をついたとたん、刈谷は突然口を開いた。 「おまえも、おれと同類だな」 「え?」 「おまえも、何の関係もない人間を平気で殺すんだろ。おれと同類だ よ」 「な、なんだとっ!」 脳髄をひっかくような、甲高い刈谷の笑い声が部屋中に響きわたっ た。おれは完全にキレてしまい、刈谷の顔のあたりのガラス板を思い 切り蹴った。 1発、2発、3発。だが刈谷は、瞬き一つせずに平然と座ってい る。 「ひ・と・ご・ろ・し」 刈谷は無言で大きく口を動かした。おれは頭を抱えて床に崩れ落ち た。 「おい、時間だぞ」 看守はしゃがみこんでいるおれを、そのままの部屋の外へ引きずっ ていった。 どこをどう帰ったのか覚えていない。気がつくと電気もつけずに自 分の部屋にぽつんと座りこんでいた。暗がりの中、田舎へ電話した。 「昭雄」 おふくろが出た。気力のなかったので事の次第を淡々と話して聞か せた。 「そんなおまえ、どうしてそんなかわいそうな目に。おとうさん、昭 雄が」 おふくろが泣きながらおやじに説明しているのが聞こえる。鳴咽す るおふくろのうしろから「ばかやろう、泣くなっ」という親父の怒鳴 り声も聞こえた。電話を変わったおやじはすこし黙っていた。とても 寂しい沈黙だった。 「昭雄、おまえは悪い人間を懲らすんだ。大事な仕事を任せられたん だから、堂々と立派に果たしてこい」 「ああ、わかった」 別に何もわかってはないが他に返事のしようがない。虚ろな気分で 電話を切る。部屋はしんしんと底冷えがした。おれはそのまま他のダ イヤルを押した。 「ああ美帆、元気? え、おれ? ほらあの、ピンクの手紙ってのが きちゃって。いやあ、さすがにちょっとまいって。ははは、じゃあま た」 どっと冷汗をかいていた。「ピンクの手紙」といったとたん、受話 器ごしの美帆の気配が急変したのだ。美帆とはなんとなくもう五ヶ月 も連絡してない。放りっぱなしの女に、こんなときだけ甘える自分も 情けなかった、 「これでおれたちの仲も完全に消滅か」 しばらくぼーっとしていたら、不意に玄関のチャイムが鳴った。お れは這いつくばってテーブルの下へかくれた。体の震えがおさまらな い。再びのチャイムにあわてたおれは、テーブルに強く頭を打ちつけ た。 「昭雄いる? 気になってしょうがないから、タクシーとばして来ち ゃった」 駆け寄ってドアを開けると、美帆が微笑んで立っていた。 猫の鳴くような細い声がする。おれは美帆の足首をにぎりしめ、彼 女の三度目の痙攣を楽しんでいた。やがてぐったりとなった美帆の上 でおれも果てた。 汗で額にはりついた美帆の髪をかきあげ、死んだように目を閉じた 顔をのぞくと、もしかしたら死刑の執行も案外楽しいかもと、思って しまう。 その晩、夢の中ではおれが殺人者で刈谷が執行人だった。刈谷がボ タンを押すと、おれは電気椅子の上で強烈な快感に襲われ絶命する。 そして気がつくと赤ん坊になって、美帆の腕の中で歓喜に体を震わせ て泣き叫んでいた。 執行室に入ると、刈谷はもうガラスの向こうで電気椅子にバンドで 固定されていた。ガーゼの目隠しと緘口具をつけられていて、顔はわ からない。おれは懸命に調書の写真を思った。あんなヤツは死刑で当 然だ。おれは正しいのだ。 一度大きく呼吸をすると、マシンについた赤くて大きなボタンを押 した。 とたんにバンドで固定された刈谷の体が激しく揺れた。白い目隠し に黒い涙が滲んでいった。いやあれは涙じゃない。急にひどく悲しく なり、何度も刈谷の名を呼んだ。死なないでと願った。そう願わずに はいられなかった。だが刈谷の体は痙攣を止め、部屋には刑の終了を 告げるブザーが鳴り響いた。 おれは力がぬけてその場にひざをついた。刈谷は首を横に傾け死ん でいた。 「あれはおれの死体だ」 自分でもよくわからないが、実感だった。おれは今死んだのだ。そ うしてあの死体は確かに刈谷のものだが、同時におれの屍でもあるの だ。
ある晴れた昼下がり、市場へと続く道を歩いていた。荷馬車がご とごと子牛を運んでいくのを横目に。 市場では牛肉が安かったが、私の財政は虚ろだった。だったらま ともな仕事に就けよと人は言う。大きなお世話だ。山盛りの牛挽肉 をガラス越しに眺めながら、表面をかりっと固めに焼いたハムバー グステーキに思いを馳せる。悲しそうな瞳で、み、て、い、る、よ。 牛を振り払って駅に向かう。 運転席の背後に立ち、前方の風景を眺める。真っ直ぐに伸びるレ ールが車両の下に吸い込まれていく様を見ていると、自分の立つ位 置がおぼろげになっていく。レールに焦点が合ったまま、全身の筋 肉が弛緩する。 電車が唐突に速度を落とし、現実に引き戻される。駅は遥か前方 に黒い影となって見えるだけだ。 「ただ今阿佐ヶ谷駅構内におきまして人身事故が発生したとの情報 が入って参りました」 即座に、乗客の8割が携帯電話を耳にあてる。「ええ、人身事故 で……また中央線が……ちょっと、遅れます」。私には電話を携帯 する習慣がなかった。「遅れる」と報告して遅れが取り戻せるわけ ではないし、どうせ待っているのは吉村だし、どうでも良かったの だが、動くレールを眺められないのは退屈だった。 電車は小一時間ほどその場で足止めを食った。その間車内放送は 「お客様の除去作業が済むまで、今しばらくお待ちください」と繰 り返していた。次の駅での事故だから、容易に入線できないのは分 かるとしても、「お客様」とは一体どういう事だ。 ようやく動き出した電車が阿佐ヶ谷駅に滑り込む時、私はレール から目を逸らした。「お客様」の気配が伝わってきそうだったから だ。乗客達がまた電話を耳に当てる。「あと15分くらいで伺える と思います」。彼らは一体何を解決しようとしているのか。私の想 像力は貧弱だった。 高円寺駅の自動精算機にサラリーマン時代の名残たる定期券を挿 入したところでふと気付く。財布がないのだ。「精算金額を投入し てください」と機械が急き立てる。 「事故で約束の時間に遅れてるんです。帰りに必ず払いますから」 若い駅員は「だからどうした」と言いたげな目で私を眺め回し、 「何か身分証明書、あります?」と訊ねた。私はすべてのポケット をまさぐり、レンタルビデオの会員証を見付けた。駅員はボールペ ンをくるくる回し、冷ややかに笑っている。 もう、どうでもいい。私はまたホームに戻った。どうせもう1時 間も遅れてるし、待っているのは吉村だし。 荻窪まで戻って改札機に定期を入れると、チャイムが鳴って私を 通せんぼした。一旦どこかの駅で降りないと、自動改札を通れない らしい。 「ふーん、財布を忘れました、か。なるほど、可能性はありますね え、確かにね。で、本当はどこの駅から乗ったんですか?」 駅からアパートまでの道すがら、私は暗い気持ちでうたを口ずさ んでいた。ドナドナドォナドォナァー、荷馬車が揺れる。 部屋に戻ると、留守電が入っていた。 「あ、津田くん、あたし、吉村でえす。絶対電話しちゃいけないっ ていうのは百も承知なんだけど、あんまり来ないもんだから、どう したかなーって。ごめんやし。もしかして事故にでも遭ってたら、 なんて考えると、吉村の小さな胸は不整脈寸前。もちろん、そっち に行っちゃいけないっていうのも頭では分かっているんだけど、体 が。そう、このイケナイ体が。ああっ……今、必死に電柱にしがみ ついています。あと何分耐えられるか分からないので、できたら来 て欲しいなーって思ってます。吉村でした」 週末ごとに上京してくる吉村の金で飲んだり食べたりやっちゃっ たりするのは、もう止めようと決心したのだ。2年前の元旦、近く の神社で誓ったのだ。しかし、吉村は何のかのと理由を付けてやっ て来て、その度に、私もまた何のかのと状況に流され、飲んだり食 べたりやっちゃったりするのだった。 「本当に、これで最後だ」 私は決心に固く封をして、ポケットに財布をねじ込んだ。 先頭車両の窓から、またレールを眺めた。3本しか通らない列車 が見たくて、日がな一日線路脇に座っていたのは小学生の頃。私が レールの彼方を見つめていると、吉村がいつのまにか隣りに腰を下 ろして不揃いの握り飯を広げている。 「あっちいけよ」と蹴飛ばすと、吉村は50センチ横にずれる。も う一度蹴飛ばすと更に50センチ。結局昼になれば腹が減って、握 り飯を食べることになったのだ。 ふと我に返ると、電車は阿佐ヶ谷の駅に停車したまま動かない。 「ただ今、西八王子高尾間で信号機故障が発生したため……」 また携帯がざわつき始める。高円寺まで歩けない距離でもないが、 このくそ暑い中、吉村のために体力を消耗させるのは断然馬鹿げて いる。ホームに降りて煙草に火をつける。 「お煙草は喫煙所でお願いいたします」 私は駅員を見据え、煙草を鼻に詰めた。何だか無性に腹が立った。 具体的に何が、誰が、ではなく、何となく不愉快極まりない。朝か ら何も食べてないからかもしれないとも思ったが、それではまるで むずかる乳呑児と同レベルになってしまうので、俺は元来そういう 人間なんだと、嫌な野郎なんだと思うことにした。 煙草を5本吸ったところでようやく運転再開のアナウンスが流れ た。その合間に「お煙草は所定の喫煙所で」のアナウンスも随分流 れた。ふん、知ったことか。 再び高円寺駅の精算機の前に立つ。定期券を入れる。不足金は1 30円だ。財布を開ける。ちりっと脳味噌がショートする。10円 玉が3つ。虚ろだ。手の中でちゃりんちゃりんと虚ろに響くが、も はや脳には響かない。 足早に改札を通り過ぎようとすると、駅員が腕を掴む。 「ちょっとお客さん、切符」 「ない」 私は駅員の手を振り払って走り出す。背後で怒声と警笛が聞えた が、振り返らずに人波を掻き分ける。駅前の電柱に吉村がしがみつ いている。 「吉村、走れ!」 吉村の腕を引っ張ると、白いブラウスが肩の付け根から破れた。 「なに、なに、どうした?」 私の血相に慄きながらも後についてくる。中学高校とハンドボー ルで鍛えたフットワークだ。右へ左へ小刻みにステップ、スピード は緩めずに、ステップステップ。商店街を走り抜け、環七に出たと ころで後ろを振り返る。もう誰も追い掛けては来ない。 「ねえ、どうした?」 タクシーの中で吉村が私の冷たくなった唇を見詰めている。ねえ、 どうした? その言葉を3回頭の中で繰り返してから、私はようや く「うるせえ」と呟いた。物足りなくて「うるせえ、馬鹿」と言い 直す。さっき引っ張った二の腕辺りに血が滲んでいる。吉村は「ご めん」と言ってハンカチを取り出した。「何でもすぐに謝るな、馬 鹿」。 新宿でタクシーを降りる時、私の足はまだ震えていた。吉村は黙 って後についてくる。 「お前、『ドナドナ』知ってるだろ。ちょっとうたってろ」 吉村は歩きながら、飲み屋でビールを飲みながら、ずっとうたっ ていた。暗いうたを暗い表情でうたい続けた。 結局またしても飲んだり食べたりやっちゃったりした夜、吉村か ら携帯電話を渡された。 「全部登録とかしてあるから、すぐに使える。お金はあたしが払う から、電源切らないでね」 吉村がベッドの端からダイヤルすると、私の手の中で耳障りな音 が鳴り響いた。 「ほら、出てよ」 「なんだよこれ、うるせえな」 言いながらも私が電話に出ると、吉村はその日初めて笑顔を見せ た。
「学校の怪談って、小学生かってーの」 「”てーの”じゃないわよ! 文句があるならなんか考えてよ」 七月上旬。祐次と洋子の学級新聞作成会議。一学期は修学旅行、 運動会と大きなイベントがあった。それだけでなんとかなると考え ていた二人だったが、実際に書いてみるとどうにもスペースが余っ てしまう。付け足すにももうネタがない。祐次は「写真をもっと増 やせばいい」と言ったが、洋子が首を縦に振らなかった。 「なら、写真を大きくしよう。それならいいだろ」 「ダメ。なんかイヤ」 「……俺は怪談話が嫌」 「別に怖い話じゃなくてもいいよ。恋愛……とかは?」 「恋愛? まだ怪談話の方がいいな」 「じゃあ、怖い話でいいじゃない。んじゃ、なにかと噂の理科室か らレッツゴー!」 「おい、無視すんなよ。おい。なにかと噂の理科室ってなんだよ。 おい。もう暗いから明日にしよーぜ。おい、聞いてんのか。なぁ、 おい」 「”おいおい”うるさい! 噂は噂! 暗いから怪談! わかった !?」 「わかんねーよ! 噂は噂ってなに!」 「黙ってついて来い!」 「べ、別についてくけどさ……科学部いるんじゃねーの」 「まじめにやろーぜ……。科学部……」 理科室。祐次たちの中学校は新校舎と旧校舎があり、理科室は後 者にあった。新校舎から離れたところにある旧校舎は昼間でも薄暗 く、歩くたびにミシミシと床が鳴る。かび臭く、ホコリだらけ。ま だ六時なのに誰もいないのはしょうがないかもしれない。 「骸骨が動くっていう噂だけど……ないわね。骸骨」 「理科室にそんなもん最初からないじゃん」 「ないから噂なの。でも、噂は嘘でしたじゃ記事にならないなぁ」 「まぁ、いいじゃない。……ごめん、俺、トイレ行きたい」 「あー もう、早くしてね」 「おう、ビックリさせてやる」 我慢していたのか、祐次は小走りで理科室を出て行った。 「ビックリって、トイレがいくら早くても誰も驚かないわよ」 祐次がトイレに行ってから五分。洋子は教卓に腰掛け、ボーと天 井を見ていた。 (はぁ……祐次って怖い話とか苦手だと思ってたんだけど……平気 なのかな……。恋のつり橋理論、ダメっぽいなぁ、チャンスだと思 ったのに……。一緒に勉強できたら……楽しいだろうな) トイレに行ってから十五分。外はもう真っ暗だった。 (もしかして、骸骨に襲われてるんじゃ……。ハァー……なに考え てんだろ。あるわけないじゃん、そんなこと。早く帰ってきてよ… …バカ) 「ギャー!!!」 トイレの方から悲鳴が聞こえた。悲鳴の主は祐次しかいない。 (まさか……まさかねぇ……) その時だった。カタカタとどこからか奇妙な音が聞こえてきた。 カタカタカタカタ。廊下からか、理科室内からか。 カタカタカタカタ。廊下、しかも、トイレの方からだった。 カタカタカ―――。音は止んだ。が、洋子はトイレへ走っていた。 トイレの前。ガムかなにかがこびりついているドア。下唇をキュ ッと噛みドアを開ける。 「祐次!」 叫ぶと同時に辺りを見まわす。汚れた床とその上のホコリ。左側 に小便器が五つ、右側に個室が三つ。戸は全部開いている。 (私のせいだ。祐次がいなくなったのは私のせいだ……) 自分を責める洋子の目に個室が目にとまった。手前の個室に近づ く。ドアの陰を調べる。誰もいない。真ん中の個室も同じだった。 奥の個室。ドアの陰。祐次はいない。あったのは祐次の学生服だ けだった。背中に悪寒が走る。頭の中まで寒くなる。震える手で学 生服をつかんだ。涙が止めど無く流れる。流れ落ちる涙を手で拭い た。祐次の制服を抱きしめた。制服に頭を埋める。心の声がいつも よりも大きく聞こえた。 (どうなってるのよ……。祐次、なにがあったの……) カタカタカタカタ。またあの音が聞こえた。祐次が消えた時に聞 こえた音。洋子は制服を抱きしめ立ちあがった。 (この音の正体がわかったら、なにかわかるかもしれない……) 骸骨。くすんだ白の骸骨が目の前にいた。 「ぐああああ!!!」 骸骨は両手を広げ洋子に飛びかかる。洋子は間一髪でドアを閉め、 鍵をかけた。洋子は体を小さくし、隅で震えていた。悲鳴も上げら れない。外ではまだカタカタと音がする。 (どうなるのかな、私。……ん?) 「ぐああああ!!!」 大きな叫び声。だが、洋子には白々しく聞こえていた。 (なんで学生服だけ残ってるの? これって……) 「祐次! いい加減にして!」 「あれっ ばれた」 ひょいっと祐次の顔が上から現れた。暗くて見えないが、どんな 顔をしているかはすぐに想像できた。にやにやしながら、してやっ たりと微笑んでいる。 「ばれたじゃないわ! 人がどれだけ心配したかわかってるの!」 洋子の目に涙があふれた。祐次はやりすぎたなと反省し 「ごめん……」 口を尖らせて、眉間にしわをよせる。祐次はこんな顔をしてるに 違いない。この顔は本当に反省している時だけ見せる顔だった。 「人の気持ちを考えなさいよ!」 「マジで反省してるって……なんか奢るからさー」 「そんなんで許すと思うの!」 「ホントに反省してるって!」 「……まぁ いいわ。とりあえず覗くのやめてくれる?」 「覗くだなんて人聞きが悪い」 「覗いてんじゃない! 早くここから離れてよ。まだなんかあるん でしょ!」 「もうないって」 「信用できない。離れて」 「あっ」 洋子の頭上の首が落下した。額に当り洋子はその場で気絶した。 「俺は女子トイレにいたんだ。変態って言うなよ。あんなトイレ、 誰も使わないだろ。そこで「ギャー」って叫べばさ、男子トイレで なんかあったと思うじゃん。……カタカタ? あー アレね、携帯 を床に置いただけ。骸骨は、なんか知らないけど女子トイレにあっ たんだよ。それでね「ああ、これは使えるな」と思ってさ。なー もう、怒るなよ。骸骨の首落したのは事故なんだって。そりゃ、最 初は落す気あったけどさ……」 洋子は七時過ぎに教室の椅子の上で気がついた。それから十数分。 祐次は言い訳し続け、二十分を過ぎる頃にやっと誠意が伝わったの か洋子の表情も少し和らいできた。 「なんでもするから、許してくれよ。な?」 「なんでも……ホント?」 「ああ」 「じゃあさ…………勉強教えてよ……」 「あっ そんなんでいいの?」 「う、うん。でも、どうゆうことだかわかったの?」 「受験生だからだろ」 「……うん……まぁね……」 「……それで納得しちゃうんだ」 「?」 「もっと意味深だと思ってた……」 「……どういう意味」 「別に……。とにかく勉強を教えればいいんだろ」 「ねぇ、どういう意味……」 「”無視”って言葉知ってるか?」 「だから、どういう意味……」 「知らないみたいだな……。”ベーゼ”は」 「だから、どういう意味なのって聞いてるでしょ」 「ベーゼのことだよな」 祐次は洋子にキスをした。互いの唇の温もりも柔らかさもわから ない、空気のようなキスだった。 「ベーゼも知らないのか? しょうがないな、夏休みはないと思え よ」 「……ねぇ、どういう意味……」 「……どうしても言わせたいみたいだね……。しょうがないな…… ゼ――」 「下手な冗談は言わないでね」 「……いいじゃん、駄洒落でも」 「絶対ダメ、なんでもするんでしょ。言ってよ」 「……ぜーべ」 「バカ……」 祐次は洋子を抱きしめた。洋子はなされるまま胸に飛び込んだ。 再び唇が一つになった時、祐次は口の中で何度も「好きだ」と叫び 続けた。
第5回チャンピオンはテルヒロさん作『紅い花』に決定です。
おめでとうございます。
| 作品 | 票 |
|---|---|
| 紅い花(テルヒロ) | 4 |
| プロローグ(一之江) | 2 |
| 光と虚影症(皐秀莓) | 2 |
| ROUND DANCE(川辻晶美) | 2 |
| クローン売ります(厚篠孝介) | 2 |
| ファラオの呪い(小林ミヅノ) | 1 |
| がんじがらめ(鮭二) | 1 |
| 戦地に赴く(天野幾) | 1 |
| ウィンター・スノウ(奈津家亜古) | 1 |
| MARIA(Yutaka Izumihara) | 1 |
●紅い花(テルヒロ)
●プロローグ(一之江)
●光と虚影症(皐秀莓)
●ROUND DANCE(川辻晶美)
●クローン売ります(厚篠孝介)
●ファラオの呪い(小林ミヅノ)
●がんじがらめ(鮭二)
●戦地に赴く(天野幾)
●ウィンター・スノウ(奈津家亜古)
●MARIA(Yutaka Izumihara)
(厚篠孝介さん作『クローン売ります』の感想票掲載漏れがありましたので追加訂正いたしました。お詫び申しあげますす。なお、3000字感想票専用のフォーマットは用意されていません。お手数ですが、必ず件名を表記して通常のメールでお送りください。)
●マニエリストQの感謝とお願い
感想票を送っていただいた皆様、有難うございます。心より感謝いたします。あれだけ多くの作品を読破することは大変なことであり、非常な努力を要する難行であると思います。しかし、裏を返せば、それは、3000字を読んでくださる方々が必ずいらっしゃるということであり、バトル形式効果の一つでもあるわけです。バトルに参加される作者の皆様はそこの辺りを考慮の上、出来る限り全員の感想票投票を目指してくださることをお願い申しあげます。