第6回3000字小説バトル
Entry10
誰かが一本締めをして、その音は終業時間をとうに過ぎた微妙な静 けさの中でよく響いた。 残業中の企画部第二課の面々が顔をあげると正味のゆでだこ色に顔 中を染めた山梨夏子が物凄い勢いで歩き去っていくところだった。 その姿がドアの向こうに消えて(それでもドアはそっと閉められた) ぼんやりと眺めていた皆はようやく踝を返して音のした方を見やっ た。 片山課長代理が身じろぎもせず腕を組んでじっと座り込んでいる。 その頬のくっきりとした赤い跡に皆は一本締めの相手を悟った。 下手に動くと磁場を乱しそうに気まずい空気が流れて、どこかの机 の電話が鳴った。(誰かとれよ!)誰もが思い、コール音は記録的 回数を数えた。 すわセクハラか! とはいうものの、近くの席に居た三好課長にはこの二人のボソボソ した挨拶程度の二言三言が聞こえていただけで、それらしい雰囲気 は感じとれなかった。 ぎごちないながらも仕事を始めた物音の中で、片山課長代理はさり げなく立ち上がり部屋を出た。三好課長は周りに目配せして、その 後を追った。 廊下に出ると、片山課長代理は壁にもたれて煙草を吸っていた。 三好課長が近づくと、振り向いて頬を少し押さえまた正面を向いた。 不味そうに煙を吐き出して、 「どうも、見苦しいところを」ぼそぼそ呟いた。 「何があったんや一体」 片山課長代理は三好課長より5歳年下になる。新入社員の頃から知 っている後輩も、四十の声を聞いて疲れた老けが見えはじめている。 以前、若い女子社員が片山さんの咥え煙草姿っていいですよね、と 言ったことがあった。 「彼女とは、付き合ってたんです。随分前に。」 「……」 「別れてから5年になります。僕も子供小さかったし、嫁はんにも 気付かれそうやったし」 「そうやったんか。けど、なんで今頃。何か蒸し返すようなこと、 君ら言ったんか」 「いや別に。…彼女がもう帰る言うて、それだけですわ」 三好課長は不得要領顔に眉をひそめた。 「僕、仕事にも戻りにくいし今日はもう帰ります。ちょっとヤボ用 もありますんで」 「そうか」 片山課長代理が居なくなった壁に同じようにもたれて、三好課長も また不味そうに煙草を吸った。 席に戻ると部下の石田が待ち受けていたように近づいてきた。 「なんですって?」 「いや、なんやようわからんわ。君、なんか知らんか」 「うーん。僕、聞くとも無しに会話聞こえてましたけど、険悪な感 じなかったですよ。山梨さん、片山課長代理の服装かなんか、褒め てたりして」 「ふーん?」… 「ええ、ホンマにもう別れてるから、それはいいんです」 酔ったり焦ったりすると冗談のように赤面する顔が、今は青白い程 に落ち着き払っている。 次の日山梨夏子は普通に出勤した。三好課長が朝一番にコーヒーで も飲もうか、と誘うのを気負いもためらいもせず付いてきた。 「別れたいうて、君らが険悪な仲にも見えんかったがなア」 「そうですね。特に関わりもないし、仕事は仕事ですし」 「昨日も君、帰りしなに彼の服、褒めてたりしてたんやろ」 「服」 「そうや。普段も普通に話してるやろ。君としてはふっきれてるの と違うのか」 「違います」 「やっぱり、あきらめられんのか」 「違います、服を褒めたんと違うんです」 「え」 「課長」 「昨日の片山課長代理のネクタイ、覚えてはります?」 三好課長の脳裏に鮮やかなアイスブルーの小粋なネクタイが浮かん だ。 「ん? あー、そういうたらいつもに似合わずブランドもんみたいや ったなあ」 「あのネクタイしてきはったの初めて見ました。素敵ですね、って 言ったらなんや知らん箪笥の奥から出てきたって」 「はは、呑気なこと言うとるわ。あいつちゃらんぽらんやからなあ」 夏子はぽつりと言った。 「片山課長代理、昨日はきっとデートだったんですね」 三好課長は口元まで持っていったコーヒーカップをソーサーに戻し た。やぼ用がある、とそそくさと帰った片山課長代理の背中を思い 出した。 「あいつ今、別の女と付き合うとるんか」 「ええ、そうらしいですよ。最近のことみたいです」 「そうか。だから君、殴ったんか。あいつが他の女とデートするの んが腹立って」 (でもそりゃ突飛やないか?) 「まさか」果たして夏子は即答した。 すくめた首筋までが真っ赤になっていた。 「あのネクタイ、5年前のバレンタインデーにわたしが贈ったんで す」 僕の行きつけの店です、と案内された居酒屋はオフィスに程近い商 店街からふと階段を下りた所にあった。 薄暗い店内で片山課長代理は目顔で店主と挨拶し、奥の席に腰を落 ち着けた。 「男女間のことや、僕が口出すことやないが…」 言いよどむ三好課長の表情を、片山課長代理は考え深げに見つめて いる。 煙草を口に咥えたまま、火を点けようともしない。 「片山、君言霊(ことだま)て知ってるか」 唐突な三好課長の言葉にも表情を変えなかった。 「ええ」 「物の怪(もののけ)ていうのもあるな」 「ありますね」 少しの間沈黙があって、片山課長代理の次の言葉に三好課長はぎく りとした。 「三好さん、山梨夏子のことが好きなんでしょう」 「何言うんや。自分と付き合ってた女やろ…」 「付き合ってたから分かるんですよ。その女を誰が見てるか」 結局火は点けずに、片山は煙草を灰皿に置いた。 「今朝、彼女の話聞いたんでしょ?何て言ってました?」 三好は聞いたことを率直に言うことにした。 「それで、山梨さん言ってたで。君がモーションかけてる女が居る のは少し前から知ってた、でもその事は別にどうも思わなかった。 ただ、その女と会う時に(多分決めようとしてる晩に)自分の贈っ たネクタイを締めてきたのが許せなかった、て」 片山は今締めている変哲もないネクタイをゆるめながら、 「相変わらず勘がええな」呟いた。 「たしかに、あのネクタイは僕の持ってる中で1番いいやつやし、 昨夜はデートでした。箪笥の奥に仕舞ってあったのを引っ張り出し て締めていったけど、彼女から貰った物だということを忘れていた わけじゃなかったんです。」 片山は三好の顔を見た。 「さっき、物の怪と言いはりましたね。なんで昨夜あのネクタイを していったのか、僕自身にもようわからんのです。彼女に帰りしな にネクタイのことを言われた時、ぎくっとしました。」 「そやけどとぼけて、で、案の定殴られた」 「ええ」 からん、と水割りの氷がバランスを崩した。 「…あのな、なんであのネクタイをする気になったか、ほんまに自 分でも分からんのか」 「……」 「君、殴られたかったんやろ。別に君がマゾやろいうことやなくて」 片山の目が光った。それは異様な光と言ってもよかった。憎悪や愛 惜や憐憫や渇望をつき混ぜたような…三好は唐突にシチューを連想 した。スパイスや食材が多ければ多いほど味は深く複雑になる…。 「俺思うんですよ。あいつが、夏子が一番望んでることは、俺が他 でもないあのネクタイで首を吊って死ぬことじゃないか、ってね。」 三好は黙ってポケットから手帳を取り出した。 「水木しげるの妖怪大図鑑から抜書きしてきたんや。『物の怪:器 物や衣服が古びたり持ち主の強い情念が乗り移ったりした場合、物 にタマシイが吹き込まれ逆に人間に影響をおよぼすことがある』」 手帳を閉じて、続けた。 「言霊も同じや、口に出した言葉はイノチ持って一人歩きしよる。 …ネクタイだって結局そうなんやろ。山梨さんかて、振り回されと るんやろ」 片山は初めて顔を歪めた。腹かどこかが痛いみたいな表情だと三好 は思った。