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第6回3000字小説バトル
Entry11

水の杜に、龍は眠る

作者 : 川辻晶美 [かわつじ まさみ]
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文字数 : 3000
 このあたりだろう。ナナス島沖、沈船ポイント。沈船といっても、
ダイバー目当てに人工的に沈められた、いわば、客寄せのためのも
のだ。その船尾から南へ二キロほど。ボートのオペレーターに声を
かけてから器材を点検する。
「間違いないか?」亮がたいして期待もしていない様子でBCジャ
ケットを羽織る。
「百パーセント正確な位置はわからないんだ。おおよその見当だよ」
 亮はやれやれと小さな声で呟いて、海に飛び込む。僕はBCに空
気を送り、彼に続いて水面に身体を放った。
 アジアいちと言われる透明度を誇る海だ。早速、巨大なジンベイ
ザメがゆったりと頭上を通り過ぎて行く。水に振動が走った。雄大
なその姿は、海の中にあっては、僕らは完全なる部外者だというこ
とを知らしめているかのようだ。けれど、うっとりと見つめている
時間はない。

 ことの始まりは、ダイビング仲間の夏彦の聞かせてくれた、ここ、
ナナス島の土産話だった。
「沈船には人が多すぎるからさ、ちょっと船頭に小遣いをやって、
少し沖の方まで行ってもらったんだ」
 多種多彩の魚が集まる沈船ポイントには、近年開発された大型リ
ゾート・ホテルのゲストが団体でシュノーケリングにやってくるよ
うになった。
「その沈船の尾っぽから二キロくらい沖に、お宝が眠ってるってい
うんだ」
 馬鹿馬鹿しい。聞いていた仲間たちが次々に溜め息を洩らす。
「最後まで聞けって。俺だって信じたわけじゃない。現にお宝なん
てなかったよ。けどな、もっとすごいもん見ちまったんだ」
 全員が息をのんで夏彦を見つめた。すごいもの? シャチか? 
それともイルカの出産シーンか?
 夏彦は咳払いひとつすると、得意げにこう言った。
「人魚だよ」

 夏彦の記憶によると、目印は龍の頭に似た形をした岩。周りをコ
ーラル・リーフに囲まれて、ひっそりと佇んでいる。珍しい形に興
味を持って、近づいた途端、岩陰から飛び出したそれは、するりと
身を翻し、あっという間に視界から遠ざかっていったという。
 栗色の髪に緑色の瞳、白い裸身の腰から下は、美しい金の鱗に覆
われている。絵本に出てくる、それは人魚そのものだった。
 案の定、皆、口々に夏彦をけなし始め、その話題は終わった。

 けれど、僕はこの島にやって来た。そんな話を信じ込んでしまっ
たわけではない。でも、夏彦はわざわざうけもしない冗談を言うタ
イプでもない。考え様によっては、おもしろいじゃないか。人間が
潜れる範囲内で遭遇できる海の生物は、あらかた見尽くしてしまっ
た。海に飽きたわけではない。けれど最初の頃の、あのわくわくす
る感覚がなくなりつつあるのは真実だ。だからこれは、いわば浪漫
みたいなものだ。失いかけた海への情熱を再び、といったところだ
ろう。

 亮が突然動きを止める。指差す先に鮮やかなコーラル・リーフの
群生があった。そしてその中に、僕は例の岩をみつけた。龍なんて
もちろん見たことはないけれど、絵画や彫物に描かれている龍のイ
メージからすると、間違いないだろう。
 人魚の姿は見当たらない。いるわけないか……。亮がそれ見たこ
とかとばかりに肩をすくませる。まあ、せっかくここまできたのだ。
僕らは静止したまま待ち続けた。五分、十分。深度は三十メートル。
残圧は……ゼロに近い。限界だ。亮に合図を送り、僕らは浮上した。

 水面に出たところで、亮が悲鳴を上げた。
「うわっ、なんだ、これ!」
 何事かと思った次の瞬間、海面にぽっかりと人間が浮き上がって
きた。若い女だ。
「し、死体だ!」亮が慌ててボートに上がる。
「いや、生きてるぞ」全裸の彼女の身体は冷え切っていたが、微か
に呼吸しているのがわかった。
「引き上げろ」

 ロッジのベッドで女は目を覚ました。村の医者によると、たいし
て水も飲んでおらず、ショックで気を失っていたらしい。あんな沖
まで流されて無傷だなんて奇跡だ。
「あなたが助けてくれたの?」女が聞いた。どう見ても西洋人なの
に、日本語を話すのに驚いた。彼女はイオと名乗った。
「体調が戻るまで、ここに居るといいよ」僕は言った。
「やれやれ」亮が呟きながら部屋を出ていった。

 夜になって、彼女は外の空気を吸いたいと言った。僕は彼女に付
き合って海岸沿いを歩いた。胸が高鳴った。潜るばっかりで、南の
島でのときめく出会いなんてなかったから、こんな場面には馴れて
いない。イオの長い髪が風に揺られて僕の肩に触れた。エメラルド
の大きな瞳。常夏の地に不釣り合いな白い肌。たいした美少女だ。
「ねえ今夜、泊めてくれる?」心臓が張り裂けるほど驚いた。けれ
ど、亮がいい顔はするはずもない。僕が躊躇っていると、彼女が言
った。
「あそこに座りましょう」イオが近くの岩陰に僕を誘った。一枚岩
に見えたそれには、洞穴のような空間があり、僕らは並んでそこに
座る。
「この島の伝説、知ってる?」
「いや」
「太古の昔から、この海には女の龍が眠っているの。約束したのに
待てど暮らせどやってこない男の龍を待っているうちに、岩になっ
てしまったの」イオの唇が月明かりに浮かび上がり、艶めかしく輝
く。狭すぎる穴の中、彼女の体温が少しずつ僕に移動する。
「龍の涙を宝石と間違えた人がいるのね。だからこの海にはお宝が
沈んでいるなんて噂が広まったのよ」
 鼓動の音がはっきりとこだまする。イオが僕の肩に頬を寄せると、
長い睫の先が僕の肌をくすぐった。僕はイオの身体を引き寄せ、髪
にキスをした。僕の指は彼女の柔らかな肌の上をすべってゆく。
「龍はコーラル・リーフに囲まれて……ひっそりと海底で眠ってい
るわ。」イオの囁きが僕の耳元で熱い吐息に変わっていった。そし
て彼女が僕に体重を預けた瞬間、僕は、信じられないほど唐突に、
宿命的な恋におちてゆくのがわかった。

 夜が明けてゆく。新しい一日が始まり、僕の腕の中ではイオが眠
っている。僕はイオとの未来に思いを馳せ、彼女の額に口づけた。
空が白み始めた頃、目を覚ましたイオは裸のままそっと立ち上がっ
た。
「どこへ行くんだ?」
「こっちへ来て」彼女は波打ち際に僕を引っ張ってゆく。
「黙って帰ろうと思ったけれど、あなたは眠らずに私を抱きしめて
いてくれたから」
「何を言っているんだ?」
「あの龍は、この海の守り神様なの」
 訳が判らなかった。彼女の言うことはさることながら、その身体
に起こった変化もだ。水に浸かった彼女の足が溶け始めたかと思っ
たら、徐々に一体化し、みるみるうちに金の鱗に覆われ、美しい金
色の尾鰭が生えてきたことも。
「あなたのお友達に姿を見られたから、龍神様にとても怒られたの
よ」
 これは幻だ。僕はまだ夢の中にいるんだ。
「だったらなぜ、わざわざ僕の前に姿を見せたんだ。また怒られる
んだろう?」
 イオは悲しそうにうつむいた。
「初めてだったの」
「何が?」膝が震えていた。僕は恐かったのだ。信じがたい出来事
を目にしたことではなく、イオをこのまま失うことが。
「宝石じゃなく、私に会いにきてくれたのは、あなただけだった」
 やがて一筋の太陽の光が海を照らし始めた。
「もう、行かなくちゃ」
 僕は言葉を失ったまま、ひらひらと尾鰭を振りながら海へ消えて
ゆくイオの姿を見つめていた。

 あの時、なぜもう一度イオを抱きしめてやれなかったのか、僕は
今でも後悔している。抱いたところで、どうなったわけでもないだ
ろうけれど。

 誰かに聞いた話によると、龍は絶対に水のきれいな場所にしか棲
めないという。