第6回3000字小説バトル
Entry17
どこか遠くで威声が上がったようだ。 ――喧嘩か…… 信長は、そう考えながら寝返りを打った。いつもならば、眠りに 入るのも目覚めるのも、すみやかな性質の彼だったが、その夜は、 中々寝付けなかった。何故か気分が高揚し、かすかな興奮を感じて いる。 再び威声が上がった。押し寄せるような鯨波の声に馬蹄の響きが 加わった。何者かの襲撃を叫ぶ声が切れ切れに聞こえてくる。 「お蘭! お蘭ッ!」 布団を跳ね除け飛び起きるが、侍臣を呼ばわる声は鉄砲の炸裂音 に遮られた。 ――よもや畿内で歯向かう余力のある奴はおるまいに。朝廷の公卿 どもの差し金か、或いは……謀反かっ!? つい先刻までの静寂は破られ、四方から馬の嘶きと銃声が包み込 む。怯えた女房衆が蒼白な顔を寄せて震えている。 「上様! 上様ッ!」 ここ本能寺の板張りの広い廊下を、近習の森蘭丸が長槍掻い込み 駆けつける。 「お蘭、敵は何者ぞッ」 目にしたものが未だ信じられぬとでも言うような面持ちで、蘭丸 は端正な顔を苦渋にゆがめた。 「恐れながら、旗印は水色桔梗ッ」 「光秀かッ!」 信長は瞬時におのれの最期を悟った。万事につけ綿密細心な光秀 のことだ。おそらくは、この本能寺だけでなく、嫡男信忠が逗留す る妙覚寺をも包囲しているだろう。京都奉行の村井貞勝邸も同様か。 万に一つも逃げ延びられる可能性は無い。 「是非も無いわ」苦笑してつぶやいた信長の言葉の真意を、蘭丸も 女房衆も理解できなかった。 「よいわ。女房衆は一団となって投降せい。光秀めの軍隊じゃ、女 を手に掛けることはせぬ」 言いながら、信長は壁に掛けておいた愛用の長弓を手にすると、 矢筒を引っさげ本堂の正面へと向かう。蘭丸は女房衆に裏からの出 口を指示すると、襷を掛けて額に鉢金を巻き、足早に主君の後を追 った。 すでに正門は半ば破られ、あちこちで雑兵どもが切り結び、土塀 の上では弓隊が火矢の準備をしていた。 信長は片肌脱いで矢をつがえると、狙い定めて引き絞る。放たれ た矢は寸分違わず、弓兵の喉を貫いた。仰のけに土塀の上から転げ 落ちる弓兵。 「信長はここぞッ!」 次々に矢を放ちながら、信長は大音声を上げた。 「誉めて遣わすぞ、明智光秀ッ! よくぞ我が隙を突いてくれおっ たわ。その挙兵の妙、見事である! はよう、顔を見せに来いッ。 誉めて遣わす、誉めて遣わすぞッ」 槍で突き掛かって来た雑兵を足蹴にし、信長は笑い声を上げた。 若年の頃、悪餓鬼どもを率いて戦の真似事をしていた時の楽しさが 蘇ったのだ。 本堂の入口に仁王立ち、豪快に笑う自分を鉄砲で狙うような真似 などしないところが、いかにも明智の軍勢だと信長は感心した。明 智の鉄砲隊と言えば、巧者揃いで有名だ。光秀もまた砲術の名人で あったし、その百発百中の腕前は、信長自身、何度もその目で確認 している。 ――思えば、他の大名どもに先んじて上洛が成ったのは、あの光秀 の功であったわ。 信長の脳裏に、若い頃の光秀の顔が思い出された。大分着古され た正装姿であったが、身のこなしは洗練され、弁舌は爽やかで、そ の目は知性の輝きに満ちていた。問えば返答は澱みなく、打てば返 るとはまさに光秀のことを指していた。 ――わしにとって、奴は必要な男だった。いや、これからも必要な 男であったのに……。新しい国造り、新しい政府を作る理想を共有 できるのは、亜奴だけと思うていたが。 「是非も無いわ」 未練がましい思いを、先と同じ言葉で断ち切り、信長は現実に立 ち返った。 刹那。 「ムゥ――ッ」 左の脇腹を熱い痛みが貫いた。蘭丸を突き倒し、駆け寄せた雑兵 の槍が、深々と突き刺さっていた。 「上様っ!」 地に伏したまま、その雑兵の脚を切り払う蘭丸。 「最早これまでよ」刺さったままの槍の穂先をへし折り、信長は蘭 丸に目をやった。 「だが、おとなしく首をくれてやるのも癪な話よ。わしが奥へ入っ たら、本堂に火を放て。よいな」 信長は弓を払って敵兵らを遠のけると、悠然とした足取りで本堂 の奥へと消えた。追おうとする敵兵を、わずかながらの信長勢が立 ちはだかって押しとどめる。 本堂の中は妙な静けさがあった。戦さの喧騒は届いていたが、空 気が沈んでいる――とでも言うのだろうか。信長の心もまた、驚く ほど落ち着いていた。 ――静かなことよ。冬なれば雪の音も聞こえようが。 燃えやすい物を周囲に積み重ねながら、また思い出に耽る。 ――『雪の降る音』を教えてくれたのは、奴の細君だった。 ひろ子……と言ったか。光秀めに相応しき女人であった。 それは、信長が入京し、当時京都奉行を務めていた光秀の邸に逗 留した折のことである。 ひろ子の用意した慎ましくも心の篭った膳を終え、南蛮の酒を味 わっていた時。それまで口を挟むことのなかったひろ子が、静かに 言った。 「雪の降る音が……聞こえます」 光秀もまた、じっと耳を澄ますと、妻に頷きを返して微笑んだ。 そして、彼が怪訝な表情の信長に一礼して雨戸を開けると、確かに 握り拳ほどもあるような牡丹雪が降り始めていたのである。 そこで初めて、信長の耳にもその『音』が聞こえて来たのだった。 以来、彼は雪の夜に耳を澄まし、心を落ち着けるようになった。 ――あと五年もあれば、新しい日の本が作り上げられたものを。 是非も無し……か。人間五十年とはよく言ったものよ。 信長は死に支度を済ませると、若年より親しんだ幸若舞『敦盛』 を舞った。 「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり……」 ――まさしく、わしの生涯そのものよ。 黒煙が満ち始め、障子越しに紅蓮が揺らめいていた。 享年四十九歳。第六天魔王を称した男の最期であった。 本能寺の方角から立ち昇る煙は一層濃くなり、薄明の空は赤々と 焦げていた。 「上様……」 光秀はそれをぼんやりと眺めている。 先陣の明智秀満と斎藤利三らが本能寺へ向かって早一刻。状況報 告は、まだ無い。 ――何故……何故、信長様を討たねばならなかったのだ? 心中の問いは、幾度となく繰り返されている。 信長様が憎かったのか? 天下が欲しかったのか? それとも、今後を悲観して自棄になっただけなのか? 光秀は、それらどの問いにも頷けるような気がした。 後世の者は何と評するのだろう。大反逆者とでも、天下の謀反人 とでも言うのだろうか。或いは、日の本を救った英雄とされるのか。 ――いずれは誰かがやらねばならなかったのだ。自らを魔王と称し、 そしてまた神になぞらえるなど……上様の下では、平穏などありえ まい。毛利を征した後は、九州・四国、次は琉球、果ては朝鮮、明 国、或いは南蛮へも出兵しかねまい。 こうするより、他無かったのだ…… 深く、疲れた溜息を吐き出した光秀の下へ、先陣を担った秀満が 早馬飛ばしてやって来た。従弟であり、そして娘婿でもある侍大将 である。 「上様は……信長様はどうなされた?」 絞り出すような、光秀の声。 「散々に弓を射、大音声にて、殿の挙兵を褒め称えた後、炎上せし 本堂にて御自害なされました」 「挙兵を……褒め称えた、だと?」 驚きに目を見開き、しわがれた声の光秀。 ――老け込まれたな……殿。 胸中で、秀満はつぶやいた。光秀のその様は哀れを催させるほど だ。 「挙兵を……褒め称えた……」 「はい。隙を突いた挙兵の妙、見事である。誉めて遣わすゆえ、顔 を見せろと」 「殿……」 光秀の双眸から涙があふれていた。