第7回3000字小説バトル
Entry8
突然のこのような置き手紙に、あなたはさぞ驚いていることでし ょうね。 私は今、長い間の苦痛から解放された喜びで胸がいっぱいです。 あなたというストレスから逃れられて、私の心は少女のように軽や か、背中に羽を付けて飛び回りたい気分です。 あなたは自分のわがままを棚に上げて、きっとまた勝手に思い込 むのでしょうね。こんな風に家を飛び出した私を『自分勝手な奴』 と。 あなたは私のことなんか、なんにもわかっちゃいないんです。私 がいかに自分を殺し、あなたや子供たちの為に尽くしてきたか。 私のほんのちょっとした失敗を、あなたはまるで重箱の隅をつつ くようにほじくり出して、小姑のように攻め続けるのです。 例えば、味噌汁のこと一つとってもそうです。 私は決して料理が上手とは言えません。結婚するまで包丁もまと もに握ったことはありませんでした。 「それでもいいよ」 あなたは結婚前、そう言ったではありませんか。私はその言葉を どれだけ感動して受け止めたかわかりません。それなのにあなたは、 結婚するなり、その舌の根もかわかぬうちに変貌しましたね。 私はあなたにさんざん怒られ、やり直しを命じられ、逆らうこと なく従順に言うことを聞いてまいりました。でも、あなたのお母さ んの作る味噌汁にはやはり叶わなかった。 「おふくろの味じゃなくていい。『味噌汁』の味にしてくれれば」 あなたは懇願するように言いました。でも、あなたの理想とはな んなのです?私は日々その事に悩み続けました。 「頼むから、だしを入れるの、それだけ忘れないでくれ」 あなたは口癖のように言い続けましたね。 味噌汁にだしが必要不可欠であることは、私だって十分承知して います。でもね、誰だってうっかり忘れるってこと、あるじゃあり ませんか。あなたは自分で作らないから、わからないんです。 しかも私がしっかりだしを取った時など、一度でも褒めてくれた ことがありましたか。自信をもって私が差し出した味噌汁のお椀を、 口元に寄せ、一口すするなり何て言ったか、あなたは覚えています か? 「味噌が入ってないじゃないか」 どうしてあなたはそうなのです。人の悪い所ばかりに目をやって、 良い所を見ようとしない。味噌が入ってないからってなんだって言 うんです。味噌汁に味噌なんかいらないんです! 夜のことにしてもそうです。 私はいつも、隣の奥さんの話を聞いて悲しくなるのです。あの隣 の痩身の、いかにも頼りなさげなご主人でさえ、三日と空けずに求 めてくるとの事。そんなことを嬉々として話す隣の奥さんの話を、 私がどんな思いで聞いているとお思いです? それはお隣はまだ新婚さんですから、一概に比べられるものでは ないでしょう。私の身体も花の盛りを過ぎてしまったかもしれませ ん。だからってほったらかしにしておくなんて、あんまりじゃあり ませんか。 私たちも新婚の頃は盛んでした。私は精一杯あなたの要求に答え てきたつもりです。 看護婦の白衣も着ました。セーラー服も着ました。友人に無理や り頼んでスチュワーデスの制服も手に入れました。あなたは目の色 を変えて私を求めて来ましたね。それもすべて、あなたを想えばこ その奉仕だったのに、私に飽きたらもうおしまいですか? 「歳を考えろ」 と、あなたは言いますが、私は身体の芯が熱くほてるのを、いっ たいどうやって冷ましたらよいと言うのでしょう。 ついに私は意を決し、行動に出ました。 おとといの夜のことがそれです。私は通信販売で購入したベビー ドールを身にまとい、顔に薄く化粧を施しました。そしてあなたの 寝ている枕元へひざをつき、揺り起こしたんです。 女の身でこのような行動を取ることがどんなに勇気がいることか、 少しでも思いやってくれる心があるならば、あんな言葉は出てこな いはずです。 「ばあさん、血迷ったか」 私は打ちのめされました。50年も連れ添って、あなたには女心と いうものがちっともおわかりにならないのです。私の唇に薄くひか れた紅を見て、健気だと思ってはくれないのですか。何も三日と空 けずに求めてくれって言うんじゃないんです。週に一度、いえせめ て月に一度位は相手をしてくれてもいいじゃありませんか。それが 夫婦ってものじゃありませんか。 「身体がおっつかんわい」 と、あなたは言いますが、何を言ってるんです。70を過ぎたぐら いで情けない! とにかく私は、この一件で覚悟を決めたのです。いつか家を飛び 出してやろうと。あなたという存在から逃れようと! そして究めつけが今朝の一件です。またしても味噌汁が原因でし たね。そう、まさにあれが引き金となったのです。 私はいつものように味噌汁をよそい、あなたに差し出しました。 あなたはお椀の中を見るなり、 「これが味噌汁か」 と、烈火のごとく吠え始めましたね。 何度も言いますけど、人間誰だってうっかりするって事、あるじ ゃありませんか。たまたま私がうっかりして、だしと、味噌と、具 を入れるのを忘れただけなのに、あの言い方はあまりにひどくはあ りませんか? 「これは白湯というものである」 あなたは宣告しました。さらに追い打ちをかけて一気にまくした てます。 「結婚以来50年間、お前は今までまともな味噌汁を作ったことがあ るか。いや、ない。常にだしか、味噌か、具のどれかを必ず入れ忘 れる。今日に至ってはついにその三つをことごとく入れ忘れる始末 だ。お前には俺にうまいものを食わせてやろうという気持ちがはな っからないのだ。というよりも、昨日よりも上手に作ろうという気 持ちがない。向上心というものが皆無なのだ」 ねえ、あなた。あんな身も蓋もない言い方をされては、誰だって 頭にきてしまいますよ。かーっとなった私は、台所から鰹節を一本 持ってきてあなたの頭に向かって投げつけました。 「そんなにだしが大事なら、これでもかじってなさいよ」 残念ながらそれは命中せずに、茶箪笥のガラスを割っただけでし た。私は悔しさのあまり台所に取って返して、味噌の樽と具にする つもりだった豆腐を一丁持ってきました。 「ほら、味噌よ。好きなだけお食べなさい!ほら、具は豆腐よ。好 物でしょう!」 私はあなたに馬乗りになり、味噌をしゃもじですくってはあなた の口に押し込みました。まあ、待ちなさいとか何とか言ってるあな たの顔に、わし掴みにした豆腐をなすり付けました。 あなたはきっとまた近所で、私のことをひどい女だと言いふらし ていることでしょうね。でも誰だってあんな事を言われたら、私と 同じ事をしたはずです。 それでもやっぱりあなたは、自分が正しいと言い張るのでしょう けどね。 私は家を出ます。 あなたはきっと思い知るのです。私という存在があなたにとって どれほど大きかったか。私がいなくなることで、どれほど生活が不 自由するか。私はそれを遠くからほくそ笑みながら眺めることにし ます。 言っておきますが、今回のはこれまでの家出とは違いますからね。 あなたは、どうせすぐ帰って来るだろう、とたかをくくっている事 でしょうが、今までにした20回の家出とはその覚悟の程が違うので す。 さようなら。 すでに老境に入ったあなたに、今になってこんなことを言っても 遅いとは思いますが、今少し他人を思いやり、自分を省みる謙虚な 気持ちを持たれることを、私は願ってやみません。 大村トラ