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第7回3000字小説バトル全作品・結果一覧


#題名作者文字数
1河野成年2845
2冷たい雨伊勢 湊2999
3my home杉田晋一2998
4気分はe滅入る有馬次郎3000
5そしてわたしと自動販売機は一つになったのだ百内亜津治-
6さとう啓介2989
7踊り場涼藤庵2977
8書き置き21番 しょーじ3000
9美談akoh2967
10ファールから吉原 明2130
11クローンのある風景羽那沖権八3000
1219(nineteen)川辻晶美3000
13ずぼらな死体岡嶋一人2981
14苦虫鮭二3000
15お泊まり一之江3000
16茶の湯はなぐさみに候 厚篠孝介3000

第7回3000字小説バトル
Entry1

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作者 : 河野成年 [コウノナルトシ]
Website : http://y7.net/romantei
文字数 : 2845
 朝。
 多くのサラリーマンや学生達が、駅の構内に流れこんでくる時間。
そんな中、長井孝は一人、流れとは別の方へと足を向けていた。
 別に、長井は会社に行くのを拒んでいるわけではない。もちろん、
喜んで出勤しているというのとも違うが、会社に行けばそれなりに
充実した仕事が待っている。
 彼は、便所へと向かっていたのだ。
 毎朝の便所でのひとときは、彼にとって何物にも変えがたい安ら
ぎの時だった。家で用をたしてもよいのだが、それは娘からの不評
を買うことになる。
 彼女に言わせると、「お父さんの入った後はオヤジ臭くて入れな
い」のだそうだ。それを言うのならば、誰の入った後でもトイレは
臭いものだと長井は考えるのだが、それを彼が娘に言う事は無かっ
た。どんな事を言われようと、たった一人の娘に長井は嫌われたく
なかったからだ。
 それゆえ、長井には駅で朝の用をたす習慣が自然についていた。
 駅の奥にある汚い便所に入って、手前から3番目の個室が長井の
指定席だ。
 個室に入ってほっとため息をつくと、彼はおもむろにベルトを緩
め、ズボンを下ろす。ゆっくりとしゃがみこみ、売店で買ったスポ
ーツ新聞を広げれば、それからはまさに「彼の時間」だった。
 長井が乗る電車が出るまでには、まだまだ余裕がある。また、そ
のために長井は家を早めに出ていた。ゆっくりと新聞を読む時間を、
彼はしっかりと確保していたのだった。
 家では、長井は新聞もゆっくりと読めない。食事中に新聞を広げ
ると、妻が途端にヒステリーを起こすからだ。
「あなた、食事中くらいは新聞を読むのをやめていただけません?」
 妻の怒った顔を想像して、長井は思わず苦笑した。食事中以外に、
一体いつ俺は新聞を広げたのだろうか。結婚してから20年になる
が、長井に思い当たるふしは無かった。
 そもそも、なぜこの安らぎの時にまで妻のヒステリーを思い出さ
なければならないのだろうか。長井には、それが少し悔しかった。
それも夫婦の愛だと言うのなら、こんな愛などいらない。長井が欲
しいのは、ほんのひとときの安らぎだけだった。
 たわいの無い想像に長井は苦笑し、再びスポーツ新聞へと目を落
した。貴重な安らぎの時間を、こんなことで無駄にするわけにはい
かないのだ。
 しかし。
 コンコン。
 突然の軽いノックが、長井の安らぎのひとときを遮断した。しか
し、誰だって、安らぎの時を邪魔されることに寛容にはなれないも
のだ。もちろん、長井も寛容になることは無かった。彼はそれに対
して沈黙で答える。
 しかし、長井の意思を無視するかのように、今度は少し強めにド
アはノックされた。
「入ってます」
 仕方なく長井はぶっきらぼうに答え、再び新聞に目をやった。
 まったく、俺の大事な時間をこいつはなんだと思っているのだろ
うか。こみ上げる怒りをこらえながら読む新聞の記事は、長井の頭
にはさっぱり入ってこなかった。
 確かに、この個室は長井専用のものではない。その怒りが理不尽
なものであることは、長井にもわかっていた。しかし、それでも長
井には許せなかった。
 長井には、この時、この時間しかないのだ。家では厄介者扱いさ
れ、安らぐという事は無い。会社は仕事の場であり、安らぎを感じ
る余裕などあるはずも無い。どんな事であれ、このひとときを邪魔
されることは、長井にはがまんならなかった。
 しかし、だからといって長井にはどうすることもできなかったし、
また何をするつもりも無かった。つまらないことで、この安らぎの
時を台無しにしてしまうことはない。長井はドア越しに向こうにい
るであろう無礼者を睨み付けることで、とりあえずの満足を味わっ
た。
 その時、彼は感じたのだ。ドアの上から彼を見る確かな視線を。
 しかし、その視線もすぐに消えた。「無礼なやつだ」憤慨しなが
ら、長井はようやく襲ってきた便意に身構えた。
 すべての用を済まし、長井はゆっくりとズボンを上げた。これか
ら、彼の長い1日が始まるのだ。長井は、鋭く息を吹くと、ドアに
手をかけた。
 開かない。
 ドアに鍵がかかっているはずは無いのに、なぜかドアは開かなか
った。
 もう1度、長井はドアを引いてみたが、やはりドアは開かなかっ
た。
 おかしい。この個室のドアは、押して開けるものではないし、ま
してや横に引くものでもないはずだ。少し考えた後、長井はドアを
ノックしてみた。
 コンコン。
 反応は無い。当たり前の事なのだが、長井には何か釈然としない
ものがあった。ドアの向こう側に、人の気配を感じるのだ。再び、
ドアをノックする。すると―
「入ってます」
 不機嫌そうな返事が返ってきた。
 それで、長井は納得した。タチの悪い冗談なのだ。先程この個室
に入れなかった奴が、逆恨みに出られないようにしているに違いな
い。
 長井は軽く舌打ちした後、強硬手段に訴えることにした。ドアの
上には、一人分の隙間があるのだ。朝から無駄な労力を使いたくは
無かったが、冗談に付き合うような余裕も長井には無かった。電車
の発車までのゆとりある時間は使いきっているのだ。
 長井はドアの上に手をかけ、最近少し太りがちな体を持ち上げた。
そして、ドアの向こう側に目をやる。こんな冗談を朝からやる奴は、
一体どんな奴なのか。しっかり見定めるつもりだった。
 しかし、ドアの向こう側には、扉を押さえているはずの人物はい
なかった。そして、そこは小便器の並ぶ便所でもなかった。
 ドアの向こう側は、大便用の個室だったのだ。
 そこには、一人の人物がズボンを下ろしてしゃがんでいた。中太
りの身体に、少し薄くなった頭髪。手にはスポーツ新聞を持ってい
る。そして、彼の着ている背広に、長井は見覚えがあった。それは、
長井のものと同じ背広だったのだ。
 その時、しゃがんでいた男がちらりと長井のほうに目をやった。
慌てて長井はドアにかけた手を離し、こちら側へと着地する。飛び
降りる刹那に垣間見た男の顔は、確かに自分のものだった。毎朝ヒ
ゲを剃る時に確認する、40も半ばを過ぎた中年男の冴えない顔だ。
 一体どういう事なのだろうか。長井は考えたが、これといった確
かなイメージは沸いてこなかった。ただ、漠然とドアの向こう側に
いる人物が自分に他ならないことだけはわかっていた。
 おそらく、ドアの向こう側の自分は、これから用をたすのだろう。
それが終れば、ズボンをあげ、スポーツ新聞を小脇に挟んで一息つ
くのだ。
 長井には、わかっていた。
 そこで、長井はゆっくりとベルトに手をやると、おもむろにズボ
ンを下ろした。それは、長井にとって至極自然な行為だった。便所
にいるのに、ズボンをはいている事の方がおかしいのだ。長井は悠
然としゃがみこみ、スポーツ新聞を開いた。
 そういえば、昨日の松井の調子はどうだったのだろうか。やがて、
彼はたわいの無い想像の波の中へと、その身をうずめていったのだ
った。
 そして、それこそが、長井にとって本当の安らぎの時だった。長
い長い、本当の安らぎの中で、長井はゆっくりとした時をすごす…
…。

第7回3000字小説バトル
Entry2

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冷たい雨

作者 : 伊勢 湊 [イセミナト]
Website :
文字数 : 2999
 つまらない意地の張り合いで始まった殺し合いは今や街全体に広
まってしまった。間違いなんて一つもなかったはずなのに。いった
い何が救いをもたらしてくれるのだろう?

 傷付いた脇腹を押さえながら路地裏のビルの壁にもたれ掛かる。
こんなビルの影にも雨は降り込んでくる。上を見上げるとビルに挟
まれた細い空に明るい月が見えた。
 足が何かに触れる。そこには目を見開いたままの死体があった。
どこかで見た顔だ。左腕が肩からない。切断面はグチャグチャにな
っている。その苦悩の表情から考え合わせて多分チェンソーか何か
で切り落とされたのだろう。夜が明ける前にはこの町は死体で一杯
になる。その死体は昼の間に消えてしまう。いったいどこへ消えて
しまうのだろうか?鴉や犬どもに食われちまうのか、陽の光に溶け
てしまうのか?あるいはいつも暗いビルに囲まれた路地に横たわる
死体はそのまま闇の中へ沈んでいくのかもしれない。ずぶ濡れの僕
の体も影が幾層にも重なった路地裏の闇の中へ沈んでいきそうな気
がする。それが分相応なのかもしれない。 それでも僕が死体になっ
たら陽の光に溶けてしまったらいいと思う。贅沢な望みかもしれな
い。僕はもう一度血みどろの鉄パイプを強く握る。くだらない考え
を黒く塗りつぶす。死んでしまったときのことなんて考えてはダメ
だ。いまは死ぬつもりなどない。生き残るのだ。例えあと何人殺し
ても。

 僕の目の前で一人の少年の首が不自然に曲がるのをまるでスロー
モーションの映像を眺めるように見る。僕の放った鉄パイプでの一
撃は大きく弧を描き少年の側頭部をとらえ、首の半分は頭について
いこうとし残り半分は体に残ろうとして千切れそうに曲がる。少年
の投げつけたサバイバルナイフが僕のこめかみの三センチ横を通り
抜けていくのを感じる。残念だったね。僕は生き残り、少年は死ん
だ。仕方がない。僕を殺そうとしたんだ。殺される覚悟だって当然
あったのだろう。もしなければここへ来てはいけない。家に帰って
押し入れの中で一生怯えて暮らせばいい。それも人生だ。
 僕の考えに間違いなどない。今でもその信念に揺らぎはないつも
りだ。なのに僕はやっぱりその場にしゃがみ込み少年の瞼を閉じて
やる。その瞬間にも後ろから刺し殺されるかもしれないのに。

 タケオと僕は一緒にこの混迷した町で生き延びてきた。生きるた
めに奪い、生きるために排除した。暴力をもって町に巣食う薄汚い
奴らを暴力を持って排除した。きっかけはやくざが僕らの仲間の女
の子を犯し殺したことだった。理由や経緯は忘れた。発見されたと
き彼女の頭と胴は別れていた。僕らはやくざの事務所のビルそのも
のにダイナマイトを仕掛け夜中の二時に爆破した。燻し出されたゴ
キブリのような連中を一人一人殺していった。素晴らしいことに組
長は爆破では死なずに使い物にならなくなった両足と左腕を引きず
りながらビルから出てきた。僕は殺された女の子の首が入った箱を
組長の前に置き中を見せた。それからタケオが組長の前に立ち、言
った。
「人の首を切るってことは自分の首を切られる覚悟は出来てんだよ
な?人を殺すんだ、それなりのリスクは負ってもらうぜ」
それから震えて動けない組長の首をタケオはゆっくり切断していっ
た。

 そのあとからこの街は行き場のない少年達のやり場のない怒りに
支配された世界になった。それまで具現化されることのなかった唯
一のルールだけが街を支配していた。そしてそのルール、すべてに
同等のリスクを負うべし、というルールを具現化してしまったのは
僕達なのだ。

 グループはどんどん大きくなりタケオと僕はそれぞれの大規模な
グループのトップに立っていた。自分達が秩序となっていることが
嬉しかった。それゆえに僕達はもう引き返せないところにいたのか
もしれない。
 ある日タケオのグループの下っ端が僕のグループの一人を殺した。
僕は皆に犯人を探させ、そいつを殺すと「うちの者を殺すならばそ
れなりのリスクは負ってもらおう」という紙を添えてタケオのもと
に送り届けた。次の日「その通りだ」という紙と共に仲間の死体が
送られてきた。僕達は引き返せない坂道を転がり始めた。

 僕たち二つのグループに他の勢力が参戦してくるのにたいした時
間はかからなかった。最初に僕らの共倒れを感じ取った第三第四の
勢力が、そしていなくなったはずのやくざが。最後に彼等のいう秩
序回復を唱える国家権力が。こういう連中から街を守るにはこの愚
かな内部戦争をまず終わらせなければならない。そしてそのために
僕は、タケオを殺さなければならない。タケオも同じことを考えて
いるだろう。街は戦場と化した。

 背後から飛んできた銃弾が僕をかすめ目の前の水たまりで微かな
火花を散らして跳ねた。僕は振り向きざまにナイフを投げ付ける。
ビルの隙間の入り口だ。神経は研澄まされていて暗闇の中でも標的
を外さない。ナイフは腕をとらえて敵は拳銃を落したようだった。
僕は駆け寄り鉄パイプで肩に一撃食らわせた。相手は倒れ込んだ。
水飛沫があがる。聞きたいことがあったがのんびり身体検査をする
ほど暇ではなかったから妙な真似が出来ないように指を全て切り落
とすことにした。いきなり目を覚まして悲鳴をあげたので横に転が
っていた泥まみれの死体の服を切り裂いて口に詰め込んだ。
「黙れ!お前は俺を殺そうとしたんだぞ、殺されてあたりまえなん
だ。今さらいちいち騒ぐんじゃねー」
指を全部切り落としおとなしくなったのでこいつが落した拳銃を拾
って銃口を額に当てると口から服をとった。
「聞きたいことがある。タケオはどこだ」
「言えない、会わせば殺しあうだろう?」
「だろうな。ただ一つお前が勘違いしているのはお前には選択の余
地はないってことだ」鉄撃を起こした。「お前は俺を殺そうとして
失敗したんだ、何をされても文句は言えねーぜ」
「殺せよ。ただお前やタケオには分からんだろーが俺は殺すつもり
はなかったぜ。お前の足を止めたかっただけだ」
何かが揺らぐ。確かにほぼ水平な位置から撃ったはずなのに銃弾は
足下で跳ねた。分からない。ただ腕が悪かったのかもしれない。そ
うではないのかもしれない。いずれにせよ、目の前の男は敵だった。
いま自分に疑問を持つのは自殺行為だった。僕は、引金を引いた。
もう何もかも遅い。

 背後で気配がしていた。僕はいま殺した男の死体を眺めながら、
タケオの言葉を待った。僕がタケオでもこの男を追ってここに辿り
着いただろう。静粛の中で雨だけが音をたてる。
「そいつは俺の右腕だったんだが、俺がお前に会うのに反対して出
ていった。馬鹿な奴だ、何をするかと思えば…」
僕はタケオの方は振り向かずにゆっくり立ち上がった。
「この街に生きるべきではなかったというだけのことだ。ここはシ
ンプルすぎる」
「お前にそれを非難する権利はねーと思うぜ」
「同感だ」
僕は振り向きざまに撃った。タケオの銃弾は僕の心臓こそ捉えなか
ったものの肺を貫いた。致命傷だ。僕の銃弾はどこに当たったか分
からない。でもタケオもあと三十秒は持たない様子だ。同等のリス
クを持ったゆえの結果。冷たい雨が降り注ぐ。気が付いた。僕は今
ではタケオのことを何も知らない。もう長く会ってない。でもやっ
ぱりタケオの顔は懐かしかった。きっと僕らは鏡みたいなものだっ
たんだ。
 まるでこのまま闇に沈んでいきそうな感覚に捕われたまま、すべ
てが消えた。

第7回3000字小説バトル
Entry3

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my home

作者 : 杉田晋一 [スギタシンイチ]
Website :
文字数 : 2998
家の前で学生の話し声がする。それで意識が戻った。いつの間に眠
ってしまったのか…。俺はベッドに座ったままの状態だった。カー
テンの隙間からはもう既に高い太陽が照っている。習慣から机の上
においてあるはずの煙草に手を伸ばした。しかし、確認するまでも
なく、そこには煙草が置いていない。少し疑問に思って立ちあがっ
た。そして、自分の視界にこの部屋に見慣れないものをみつけた。
男の足だ。その瞬間、驚いてしまったが、自分で忘れていただけだ
ろうと考え直した。この部屋に誰かが泊まるのは別に珍しい事では
ない。俺は男の顔を覗いてみた。うつぶせで寝ている。脱力した感
じだ。軽く触れてみると、それは音を立てて仰向けになった。男か
らは全く生気が感じられない。俺は死んでいる事をすぐ認め、全く
覚えのない事に恐くなった。俺の家に俺の知らない奴の死体がある。
俺は冷静さを失っているのかと思ったが、そんなこともない。何気
なくポケットに手をやると何か入っている。煙草だ。俺はどんなに
疲れていても眠る時は煙草を机においてから寝る。ボックスの固い
感触が気になるからだ。気になることがあれば眠れない。時計さえ
秒針の音が聞こえないように、この家にはデジタル時計しか置いて
いない。一応、男の脈を取ってみる。俺の期待は外れて、脈はなか
った。昨日、俺は何をしていたんだ。覚えていないという事は、こ
いつは俺の記憶のないうちに現れ、死んだということになる。その
間に殺す訳も生じたということだ。人を殺す理由。今の世の中に理
由が必要なのだろうか。何でも理由になってしまう。殺したかった
というだけでも。いや、待てよ。何故、俺は俺がこいつを殺したと
思うんだ。まだ、決まったわけじゃない。俺さえ覚えがないのだ。
過度の自分否定で記憶を消してしまえるとは思えないし。煙草に火
をつける。ゆっくりと時間をかけて思い出してみよう。…。

いくらか時間がたった。こいつの記憶の糸口も見出せない。これは
少しでも最近の事を思い出して順を追っていくしかない。携帯の履
歴をみる。6時前にヨウヘイとミユキ。ミユキに電話してみる。出
ない。まだ眠っているのかもしれない。ヨウヘイの家はすぐ近くだ。
俺はまず、ヨウヘイの家に走っていく事にした。

「おい、ヨウヘイ。俺や、開けろや」
「何やねん。どうしてん」
「俺、昨日何してたか知ってるか」
「はぁ、何ゆうてんねん?」
ヨウヘイは多分今起こされたのであろう、不機嫌である。
「いや、俺はまじで聞いてんねん。昨日の記憶がないねん。何でも
いいから教えてくれや」
流石に、ヨウヘイも本気であるとわかってくれたようで、髪を掻き
ながら思い出した。
「夕方に来て、約束があるとかゆって12時前に帰ったやろ」
「誰と約束してるゆうてた」
「そんなん。お前がミユキ以外誰と約束すんねん」
俺は昨日、ミユキとあったのか。やはり、ミユキに聞かなければ埒
があかない。

ミユキの家はヨウヘイの家と反対方向にある。昨日ミユキと会った
時にあの男と会ったのか、その後に会ったのか。多分、後者だろう。
ミユキといるときに、他の男と会う理由なんてない。
 
「おい、ミユキ」
「あぁ、おはようって時間でもないか」
「ちょっと聞きたい事があんねんけどさぁ。まじで聞いてるからま
じで応えてや。俺はおかしくもないし、冷静やし、いつも通りの俺
やから」
「う、うん」
「俺は昨日お前と会ったか? 男が一緒じゃなかったか? 止まっ
て帰ったのか? 帰ったんやったら何時に帰ってん?」
「なにゆうてんの。昨日もいつも通りしてたやん? 朝、急に起き
て何も言わずにでてったやろ」
「男は?」
「なんであんたといるときに他の奴がおるねん」
まだ埒があかない。きっとこいつは本当の事を言っているだろう。
これ以上聞く事もない。これは俺の問題だ。俺以外の誰も知ってい
てはならないんだ。生きている奴の中では誰も。俺はミユキに何事
もなかったようにキスして、死体の待つ家に戻る事にした。

帰り道、もう一度考え直してみた。ヨウヘイが言っていた事も、ミ
ユキの言った事も言われてみればそうだった様な気がする。俺はミ
ユキと確かに会って、今朝この道を帰ったはずなんだ。けれども、
それなら俺はあの男といつ会ったんだ。俺の今日の記憶は外で学生
が話していたから12時ごろだろう。ミユキの家から帰ったのが9
時ごろだった様な気がする。俺はたった三時間の間に人に殺意を覚
えて実行してしまうような男だったのか。そういえば、殺されたと
決め付けていたけれどもあの男は本当に殺されたのだろうか。俺が
決め付けているだけではなかろうか。あの男は空巣で俺のいない間
に部屋に入って、持病か何かで死んだんだ。でもそんな馬鹿げたこ
とが実際にあるのだろうか。

家に帰ってくると男は完全に固くなっていた。死後硬直か。俺がみ
つけた時はまだぐにゃぐにゃだったから、あの寸前に死んだという
ことだ。男の周りには血は流れていない。首を見たが絞められたよ
うな後もなければ、抵抗した様子も見受けられない。突然死か。も
し、そうだったら俺の行動は馬鹿としか言いようがない。警察にも
そう説明するしかないだろう。こいつが誰かわからないから、殺し
たと思って焦っていたらこんなに時間がたってしまったと。失笑だ。
男を発見した時の事が思い出された。男の足。男はうつ伏せになっ
ていて…。こいつの後ろポケットには財布が入っていた。俺は偶然
の事件であると思いたいためにそう思っていたが、自分の記憶がな
い事がやはり不安なので男の手がかりとなるものを少しでも見てお
きたかった。男をうつ伏せにして財布を抜き取る。男はさっきより
も重くなっているような気がする。いやな感触だ。いやな感触だけ
れども、死体を恐いとは思わない。こういうものなのだろうか。男
の財布には手がかりになりそうなものが案外多く入っていた。カー
ドに名刺に、現金か。カードの名前を確かめてみる。
「山本 つよし」
空巣だとしたら、こんなに不用心でいいのだろうか。名刺は「河野
 ミユキ」
何故、ここにミユキのプライベートの名刺があるんだ。ますますわ
からなくなった。ミユキが嘘をついているのか。いつも通りだった。
何もかもがいつも通り。違っているのは俺だけだと思っていた。ミ
ユキを呼ぼう。

ミユキの来るまでの間、いろいろ考えた。俺を裏切った理由、俺が
裏切らせた理由。呼ばない方がいいのかもしれない。しかし、いろ
いろな理由よりも俺は無くなった記憶が欲しい。たった数時間前の
記憶。それまでの記憶までも、何故か嘘のように思えてくる。自分
が自分でないような気がする。もちろん俺は自分の意思でこの指を
動かせ、話しもできる。この体の持ち主だから、俺は俺であるのだ。
それがもっともな答だ。しかし、今の俺には清涼剤とはなり得ない。
ミユキが来る事。それだけが鍵なのである。

ミユキがゆっくり入ってくる。
「ミユキ、俺は冷静だし、お前を信頼している。だから、今から見
せるものを落ち着いて見てくれ」
「…うん」
ミユキは恐る恐る居間に入る。一瞬、息を大きく吸い込んだ。
「つ、つよし?」
「そうだ。山本つよしだ。こいつは何故ここで死んでいるんだ」
「つよし! じゃぁ、あなたは誰なのよ」
こいつは何を言っているんだ。俺は俺でしかない。俺は…誰なんだ。
つよし…。そう、そんな名前だったような気がする。こいつは俺の
死体だ。遠く、ミユキの出ていく音がする。

第7回3000字小説バトル
Entry4

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気分はe滅入る

作者 : 有馬次郎 [アルマジロウ]
Website :
文字数 : 3000
折り曲げた切符のしわを伸ばしながら、もう一度山手線の逆回りに
乗り込もうかなんて、考えている孤独なサラリーマンは自分だけな
のだろうか?いやちがうと自問自答してみた。

取り敢えず自動改札を通り抜ける。

すると、新宿駅南口の無味乾燥した皮肉な砂嵐にまぎれそうになる。

前に進むことも、敵前逃亡もできない、時代遅れのおじさんにだけ
はならない自信があったのに、それがどうだ、そのものを演じてい
る自分がいるではないか。自分そのものが。

バクテリアが、なにかの傷口から侵入して繁殖して肉体が腐って、
蒸発し霧散してしまえば、魂ぐらいは昇華できるよと独り言した。
唾をおもいきり吐き捨てる。

思っていた地点に、唾は唾らしく付着した。ねっとりとしたまさに
臭い汚物だ。 気取ったって答えは出ている。唾そのものだよ。

何をしたいのか、何をするのか、何処から来たのか、何処に行くの
か。汚物の自分は......。

「あのう、今日私どもをお訪ねになった理由をお聞かせ下さい」
「ん......!?」
「とりわけ、なければないでいいのですが、まず年齢からいきまし
 ょうか、おいくつになられます?」

そんな事務的な顔で聞くなよ。 あんたはおいくちゅですか?ん。

若いのに、瞳が光を失っている。20年くらい前には存在してなか
ったタイプの人間だ。唇がうすくて8才の長男が描いた宇宙人にも
こころなしか似ている。小柄だが頭が異様にでかい。

「でも本当に良かったと思いますよ。皆さん気付いてないんです。
 あなたは御自宅にもうすでに持っていらっしやる。それだけでも
 リードです。 再就職のときに断然差が出るのですよ。いまに、
 やっぱり良かったと思う時が必ずきますから、基礎編からがんば
 って進んでいきましょう。今日、大学出てたって何の意味もあり
 ません。企業はあなたの人間性よりスキルを重視します。これさ
 えやれれば、ふふふ鬼にごぼうですよ、いやこん棒ですよ」

何となく違う気もするがなにかしら、この男を突然先生とよんでみ
たくなった。あまりにアホらしくて。
先生、それでおいくらぐらいかかりますか」
「基礎コース初心者ランクで1単元1時間1万4千円の5単元です
 から7万円となります。お安いですよね。他と比較しますとね」

確かに安いですねと相槌うつほど昼間からは酔えないよ。
法外な授業料があんた等のめしのたねとは笑わせる。

「なかには、ひどいのもいますよ。アップルマークをクリックして
 くださいと言うと、どれですかと質問してくる。何も知らないん
 ですね。どうしようもない」
「しかし、わからないから先生のところへお金払ってでも習いに来
 るわけでしょ」
「それはそうですが、なんていうかズレてんですよ。僕なんか5年
 生の時にパソコンを買い与えられて、17年くらいやっているん
 ですが、本当に父には心から感謝しています。習おうとすれば私
 程とは言わなくても、まあなんてんですかねぇ、自分がパソコン
 向きかだめかぐらいのことはバカでもねえわかるでしょ。ね!」

よくよく聞いてると先生がとてつもなくズレて純粋にみえ、鼻を摘
んでアヌスにバターをぬり、ドラセナの幹をつっこんでやりたくな
った。

「会社で皆から、これくらいのことも知らないのですかと馬鹿にさ
 れパソコンに触れたくもないんです。なんとかなりますか?」

へびの青大将が赤い舌をぺロッとだしたように彼は言う。
「ワードとエクセルさえできれば、完璧ですよ」

意外な答えに、小水を漏らしながら先生に唾を吐きかけた。
なんだ、そのくらいのことでねぇ。

「な、なにをするんですか!」
べっとりとして汚い唾だ。とても臭い。 

先生は青ざめながらも反撃に転じた。
「我慢ならない屈辱ですよ。ぺッ!」

自分のおでこに黄色の鼻汁みたいな唾がへばりつき、はじめて我に
返った。 
右目の上からビローンとたれてきた先生の唾。それは静かな憤りで
振り子みたいに揺れはじめた。

「メールもインターネットもアクセスもフォトショップも何ひとつ
 できない奴はウジ虫以下ですよ」
「いや、先に仕掛けてすいません。つい興奮してしまって」

先生の唾を、先生のペーズリー柄のネクタイで拭き取らせてもらう。

「書店のパソコン書籍コーナー、どこへ行っても答えは歴然として
 いますよ。ドブねずみみたいな中年連中が、やれなんだ、これな
 んだと、そのての雑誌にへばり着いている。所詮負け犬なんです。
 それでも自分の無能は認めたくない。フフフ......」
「先生の言われる通りだと思います」

勝手にいつの間にか生徒にされて、迷惑な話だよ、タコ!

先生は論破した高揚感が頂点に達し前立腺が弛んだのか、小水を漏
らした。
向かいあっているテーブルの下では、2人の小水が互いの椅子の表
面に沁みをつくりはじめていた。

「まあ、とにかく奥様に御相談されて御返事下さい。カラープリン
 ターに外付けUSB対応のFDドライブを持ってんですから。意地の
 上にも残念という諺があるでしょう。とにかく他人より一歩リー
 ドしているのは確かです」

うーん、これも違うかなと立ち上がって、お互いのチン○○の前の
沁みを見て思わず失笑した。

「いやー勉強になりましたよ」
「あなたは今日だけで相当の知識がついた筈です」
ほんとかよ、詐欺だぜ。

先生の額の唾は、塩がふいたみたいに乾いていた。

穏やかな秋晴れの昼下がりか......。

パソコンスクールの豪勢な受け付けカウンターを横切り、挨拶して
廊下へ出ると苦渋の表情になり、不安と怒りが交錯してきた。

目の前の壁にもたれた中年社員が、熱心に携帯のメールを見ている。
両目を瞬かせながら読む程のメールかよ、包茎野郎!

虚無感を友として黙々と歩き続け、いつの間にか大久保の駅のホー
ムに立っていた。

ああ、電車に乗ってここまで来たのか。
薄汚い安ホテルの看板がやけに目立っている。ホームの両端を黄色
の電車が行ったり来たりを繰り返す。

到着メロディーと同時に開かれたドアから、どっと茶髪の女子高生
達が降りてきた。まるでカラオケマイクの様にかまえて、全員が全
員共、携帯電話でメールですか。
中には、うんこ座りで陰毛のはみだしたパンツまで見せてメールに
夢中な娘もいる。

どうでもいいけど、なにかの宗教団体の儀式の様に見えたり、工場
の単純流れ作業の様にも見える。

なんか悲しいな、便利で速くて悲しいな。髪型も一人前の化粧まで
も皆、同じだ。同じでどうしようもない。
キャベツ畑にはたくさんのキャベツが育ち、腐ったり売られたり。

額の汗を拭き、開いたままの口を閉じ、ちょうど良かったと飛び乗
った電車がどこ行きなのか、そして何線なのか全くわからない。

車内では、携帯電話の使用は御遠慮くださいのアナウンスが泣ける
程、事務的にむなしく響いている。だれも聞いていないよ。

車窓越しの夕陽がなぜだか、沁みてくるなあ。普段の感傷とは違う
寂しさだ。まだまだ生き急ぐこともないんだと、団欒の明かりを見
てふと思う。

この電車、いま何処を走っているのだろうか。会社への帰り道すら
思い出せない。まわりのほとんどの人間がヘッドフォンをはめて、
禅問答している。残りは鉄仮面の表情で携帯電話のメールを見てい
る。
メタルも光ファイバーも、衛星通信も運命までは変えられないよ。

会社に帰りたいのか、帰れそうもないのか、どこで降りたらいいの
か本当に見当もつかない。

ふと見ると、ズボンの沁みも乾いていた。あの先生あれで28歳な
のか。パソコンは使い方さえ間違わなければ、決して裏切りません
なんて身を乗り出して言ってたなあ。パソコンみたいな人生もいい
か?

ああッ!会社の電照看板が目の前を通りすぎた。自分の会社はここ
にあったんだ。

「残りの人生、転げ落ちるように生きたいな」

独り言がトワイライトゾーンに溶け込むように、静かに吸い込まれ
て消えた。

第7回3000字小説バトル
Entry5

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そしてわたしと自動販売機は一つになったのだ

作者 : 百内亜津治
Website :
文字数 :
(ある調査によると、今日本には550万台の自動販売機があるそ
うだ)

 いつも目にするものであるが、ほとんど気に留めることのない、
ごく一般にありふれた存在である自動販売機。ある時わたしは考え
た。自動販売機からジュースを取り出した時、缶が何物かによって
ひどく汚れていたらきっとその人は困るだろうなあ、と。そしてそ
んなことを考えながら歩いていると、たまたま塀の隅に放置されて
いた犬の糞を見つけた。わたしは当然のごとくそれを近くの自動販
売機の取り出し口の中に放り込んだ。(その時は夜であった)。犬
の糞はうまい具合の柔らかさであり、恐らくジュースの缶にほどよ
く付着するであろうことをわたしは確信したのだ。しかし、何か物
足りないと感じた。それでわたしは自宅(そこから歩いて2分ほど)
に一度帰り、「マヨネーズ」を抱えてから走って先ほどの自動販売
機に戻った(善は急げ、である)。次いで例の犬の糞がまだあるの
を確認して、その上からマヨネーズを大量にかけたのだ。そして、
まだ余りがあるようだったので、それは"おつり"の取り出し口の中
にていねいに平らに付着させておいた。懐中電灯で照らすと、それ
らは妖しく光るのであった。その後、わたしは晴れ晴れとした気分
のまま帰宅し、かつてないほどの安堵の中で眠りを堪能することが
できたのである。

 次の日の午後、例の自動販売機を見学に行ったが(心地よい眠り
は午前遅くまで続いたのだ)、それには「只今使用不可」という大
きな張り紙がしてあったのは言うまでもないだろう。

 その後、わたしは自動販売機に対する徹底的な集中攻撃を開始し
た。そして、わたしは自動販売機の取り出し口に"モノ"を入れると
(もちろん、それは夜もしくは夜中に決行されるのだ)、次の日に
必ず様子を伺いに行くようにしていた。たいてい胸の踊るような結
果になっていた。すなわち、「使用不可」の張り紙である。

 そうしたある日TVを見ていたら、首都圏のみのニュースで、
「最近自動販売機に悪質ないたずらがされるケースがたびたび起き
ている」というようなことを言っていた。わたしは胸の高まりを感
じた。わたしのしたことがTVに出るほどまでに評価され驚きと困
惑をもって迎えられているのだ、という深い充足感を感じながら。

 ここでわたしが今まで自動販売機の取り出し口に放り込んだ"す
てきなもの"の一部を特別に皆にお伝えできればと思う(当然のこ
とながら口外無用である)。「ゴキブリが約20匹ついたゴキブリ
ほいほい(開け広げられたもの)」、「ねずみの死がい」、「猫の
死がい」、「鳩の死がい」、「自分自身の下痢」、「こんにゃく」、
「週刊現代」、「生きているミミズとナメクジ数十匹」、「カレー
の王子様(中身)」、「スイカのたね百個以上」、「よせ豆腐」、
「うなぎ(まるごと)」、「我が家の生ごみ」、「筒井康隆の"農
協、月へ行く"(文庫本)」などである。(ここまできて、"おまえ
はサイテーだ、自動販売機の取り出し口を自分のごみ箱代わりにし
やがって"とおっしゃる方がおられるかもしれないが、わたしはそ
うした中傷非難批判を全く意に介すつもりはないのである)。

 とはいっても、わたしが動物たちの死がいを入れていることに関
して、わたしがそうした小動物などを虐殺しているように理解され
るならば、それは不本意というものだ。わたしはただそれら死がい
を日夜探し求めているだけである。わたしの経験からすると、「雨
の日」に動物が死んでいる場合が多い。これは、見通しの悪い道路
で猫や犬が車にひき殺されるためである。そういったものを見つけ
るとわたしは用意していたビニール袋をさっと広げ、実に手際良く
それらを入れるのである。(当然のことながら、わたしも彼らの死
に直面して実際に涙を流すことを禁じえないのである)。こんなと
ころを見られると、わたしは「人のいやがることを進んでする善人」
と見られるかもしれない。そしてそれはまぎれもない真実なのであ
る。

 話は変わるが、わたしは、他の人と同じように寝ている時よく夢
を見る。そして最近では「自動販売機」に関する夢をよく見るよう
になった。それは幻想的かつ甘美なもので、いつになくわたしを興
奮させるものである。その夢についての詳細を語るのはわたし自身
少しためらわれるのであるが、概観だけ述べることにしよう。その
夢の中では、「自動販売機」が生きていてわたしといろいろ会話を
するのであるが、「自動販売機」氏(彼とわたしはすっかり意気投
合し、固い友情で結ばれているのだ)はわたしの行なう行為(例の
取り出し口に"ヘンなもの"をいれること)をひどく喜んでおり、ま
た、まだ"してもらっていない"仲間もそうしてもらいたいと切に願
っているということをわたしに真剣なまなざしで伝える―――とい
った感じである。(自動販売機も仕事をせずに済むわけだから、わ
たしに感謝していないはずはないのである)。

 「自動販売機のいたずら」のニュースがやっていた次の日、わた
しは新聞で「××市の全自動販売機使用中止」という記事を見つけ
た。理由は、「最近取り出し口にいたずらで始末に負えないものが
入れられるケースがたびたび報告されており、衛生上やむを得ぬ処
置」などと書かれていた。わたしは小躍りした。ここでようやくひ
とつの結末が出たことになるわけだ。そして、わたしの活躍はかな
り多くの人の知るところとなり、あの警察でさえ、わたしを探すた
めに立ちあがったのだ(わたしの味方がわたしに裏情報を惜しむこ
となく流してくれるので、とても助かっている)。これはすごいこ
とだぞ、とわたしは涙にあふれた目で、星々のあふれる夜空をなが
めるのであった。(ここでも念のために言っておくが、わたしは泣
いていたのではない、感動が頂点に達しただけなのである)。

 ふと気が付くと、わたしは眠っていたようであった。ここはどこ
だろう、と一人つぶやきながら、ふらふらとした足取りで立ち上が
った。風がひんやりと肌を打つのだから、恐らくここは外なのだろ
うな、と考えていると、わたしはこの闇の向こう側に光の群れるの
を見た。わたしが歩いて近づくにつれ、その正体がはっきりしてき
た。おびただしい数の自動販売機であった。彼らは一人ずつ(!)
明るんで自己主張をしていたが、しかしわたしに対する非常な親し
みをその光の加減で示すのであった。すると、一人の自動販売機が
進み出てわたしに言った。「あなたは相当疲れています。それに今
あなたを憎んで追っている人々がいるというのをきっとご存じでし
ょう。さあ、私の中でゆっくりと安らぎなさい」。そして、彼(も
しかしたら彼女?)は、その"取り出し口"を大きく広げるのであっ
た。わたしは彼をじっと見つめた。するとわたしには分かったのだ、
その自動販売機はわたしが最初に目をつけて犬の糞やマヨネーズを
入れたものであるということを。そして彼の"取り出し口"には、犬
の糞やマヨネーズがあの日の姿のままで無邪気に戯れているのであ
った。わたしは何も答えなかった。それでも頬には熱いものが伝わ
り、ついにこの日が私を暖かく迎え入れたことに対する深い喜びに
満たされるのだった。わたしは吸い込まれるようにその中に入った。
そして何とも言えない充足感と安心感に包まれるのを感じながら、
心地よくそして深みの知れぬ眠りに落ちていくのであった。

第7回3000字小説バトル
Entry6

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作者 : さとう啓介 [サトウケイスケ]
Website :
文字数 : 2989
五反田、JRガード下。
夕陽が沈みかけた頃から、白いフェアレディZはそこで静かに相棒
の帰りを待っている。
すでに空間は、月明りとネオンの中。
白いフェアレディの前を、横を、欲望の微風が流れてゆく。

「あ〜あ!ついてねーや今日は」
騒音の扉を開けて西崎は出てきた。
無精に伸びた髪形が、車のライトでオレンジ色に染まる。
櫻田通りガード下、白いフェアレディに乗り込んだ。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながらふと、何か新しい予
感を感じていた。

相棒の機嫌を伺う様に軽くアクセルを踏み込むと、Zは待ちくたび
れた様に勢いよく吹き上がる、低く重いアイドリング。
「そろそろ、加奈の所に行くとしますか」
誰に言うでもなくウインカーを上げた。
白いフェアレディは、あふれる欲望の闇を切り裂いて、櫻田通りを
南へ向かった。

東の空に、黄色く光る月が、眩しいぐらいの夜だった。
薄い鉄骨階段を一つ飛ばしに駆け上がる。
安っぽい音が甲高く、暗い街灯の下、静かに響いた。

ピンポン。
「誰ですか?」
ドアスコープをそっと覗くと、西崎が身体を上下に小刻みに動かし
ながら立っていた。
「あっ!お兄ちゃん!」
ロックを外し、加奈はドアを開けた。
「早かったね、どうぞ!」
タオルで髪をふきながら冷蔵庫を覗き込む。
「あがるぞ」
小さな玄関、少しくたびれたスニーカーが狭い玄関に転がった。

「お兄ちゃんも飲む?」
加奈は缶ビールを取り出して西崎へ渡すと、ソファーに腰掛けドラ
イヤーで髪を梳いた。

「今日は、何か用でもあるのか?」
缶ビールのリングをカチッと開け、口に持っていきながら部屋の中
を無意識に見回した。
薄いピンク色のカーテンが、少し開けた窓の微風で揺れている。
静かに流れる音楽。今、流行りのモノなのか西崎は知らない。
くしゃくしゃのセブンを取出し、少し曲がった一本に火を付けた。

「今日母さんから電話があって、今度の土曜日にお兄ちゃんと一緒
に帰ってきなさいって……」
加奈は缶ビールを軽く一口飲んで、カーペットの上に座り直した。
「どうしてだ?」
ぶら下がった照明をぼんやり見つめ、フーっと煙を吐く。
「わかんないよ、それよりお兄ちゃん!タバコ吸ってもいいけど、
灰皿は無いからね!」
西崎は周りを見渡し、しょうがねーなと言う顔つきで窓際に腰掛け
「電話で言えばいいのに、どうして呼んだんだ?」
「だって母さんたら、それ以外なんにも言わないんだもん……」

加奈は、俺には関係ないって顔をする西崎を見つめ、
「お兄ちゃん心配にならないの?!あの母さんが、それだけしか言
わないんだよ!いつもだったら、加奈〜元気〜って言ってくるのに
今日はいきなり、帰ってきな!だけだよ。心配するでしょ?」
卓袱台に両手をのせて、加奈は再度、西崎の瞳を見た。

真剣な瞳をしているの加奈を、初めて見たような気がした。
「そんなに、心配しなくても大丈夫だって!土曜日に帰りゃわかん
だからさ。」
西崎は、少し優しい口調で言と、
「そうなんだけど……でもなんか変だったの!みょうに他所々し
いって言うか……とにかくホント普通じゃなたったの!それで……
いいじゃない!可愛い妹なんだから、たまにはお兄ちゃんしてよ!」
プーっと頬を膨らまし、口先がとんがっている。

「わかったよ、おまえ本気で心配してるんだな。今度の土曜日に必
ず迎えに来るから、それじゃあ俺帰るぞ。」
「も、もう帰るの?」
吸っていたセブンを缶の中に入れると、立ち上がって、
「おまえ幾つだったっけ?その顔ホント子供だな〜。土曜日の6時
に来るから、いい子にしてなちゃい!」
「むかつく〜っ!二十歳だよ!」
玄関に向かう後ろ姿に、ベ〜ッとして、加奈は言った。

でもその顔は、少し淋しそうな瞳が大きく輝いている。

一人残された加奈は、ソファーにもたれ膝を抱えながら、不安定な
空間に身体を丸めた。
窓から、少し寒くなってきた夜風といっしょに、西崎のZのエンジ
ン音が低く響く。
そっと遠ざかるその音を加奈は静かに聞きながら、心とは裏腹に、
「お兄ちゃんのバカ……」と小さく呟いた。

西崎はフェアレディを走らせながら、加奈の表情を思い浮かべる。
「あいつ変わんねーな……」
そう呟きながら、子供の頃を思い浮かべていた。


西崎が小学校へ上がる前に、父は交通事故で死んでしまい
母は一人で西崎と加奈を、女の細腕で育てていた。
西崎は、小さいながらにそんな母を手伝って、よく妹の加奈の面倒
を見てやった。

……ある日、いつもの様に小学校の帰りに、お寺の幼稚園に迎えに
行くと、鳩に囲まれて泣いている妹を見つけた。
兄が走りよると、鳩はバタバタと一斉に飛び立って、大きな銀杏の
木に止まった。
「大丈夫か加奈?怖かったのか?」
妹は声を引きつらせながら
「あ・あのね・加奈・ね・お絵描きをね・してたの・ね……」
「もう大丈夫だ!ハトはあっちに飛んでった!でもハトは悪い鳥
じゃないんだ、ハトはいい鳥なんだって!母ちゃんが言ってたも
ん」
「ほ・ほんと?」
顔を上げた妹の泣きべそを、グシャグシャのハンカチで優しくふい
てやると、その時兄の頭にポトン! と何かが落ちてきた。
見上げると、細い枝の上から一羽の鳩が二人をキョトンと見ている
「う、うわ〜っ、ウンチしたな〜こいつ!」
顔全体をヒョットコの様にひん曲げ飛び跳ねる。
その兄の慌て様と、ハトの白々しさに、妹は何だか可笑しくなって
半分泣きながらクククッと笑った。
兄もそんな自分の姿と、妹の笑いにつられ、なんだか可笑しくなっ
て笑った……二人で思いっ切り笑っていた……


土曜日の夕方。
西崎は約束通り、加奈を迎えに行って、長野の実家へと向かった。
高速道路も、思ったほど混雑はしていない。

今夜も月が眩しく光っていた。
その月を見ながら加奈がぽつんと言う。
「お兄ちゃん、鳩のこと覚えてる?」
「何だ?いきなり。鳩って」
西崎は丁度先日、思い出したばっかりの事をふいに聞かれたので、
少しびっくりした顔をした。
「ほら、幼稚園に迎えに来てくれたとき、頭に鳩の糞を落っことさ
れたじゃない!」
「お、覚えてね〜な……」
「そうなの?もう覚えてないんだ!わたしはよく覚えてるよ。お兄
ちゃんは、鳩にいじめられていたわたしを、鳩っていい鳥なんだよ
って言って慰めてくれてたのに、鳩の方はそんなの知らんぷりっ
て感じで、お兄ちゃんに糞を落っことしたんだよ!」
加奈は、楽しそうに微笑みながら、西崎の横顔に言った。
西崎は、「ふう〜ん?」と言って表情を読まれない様にセブンに火
をつけた。
少し開けたウインドから青白い煙と、ちょっとした恥ずかしさが、
ゆっくりと逃げてゆく。

静かだなあと、隣の加奈を見る。
安らかな寝息を立てて眠っていた。
「ホントにいつまでたっても子供だな」
西崎は優しい瞳で呟いた。

二人を乗せたフェアレディは、夜の月明りを、白いボディいっぱい
にうけて、家への道程を進んでゆく。
懐かしい景色が、月明りに照らされて、ほんのりと浮かび上がる。
お寺の大きな銀杏の影が見えてきた、二人の家も近い。


西崎には分かっていた。
おふくろが今度結婚するって、言い出す事を。
そして西崎は思っていた。
二人からやっと手が離れる様になったんだ、おふくろにも新しい人
生を歩いてもらいたい……。
加奈のことは、今まで通り自分が親父の代りとして、見守ってやれ
ばいい……。


月の光にほのかに照らさる加奈の寝顔。
あの鳩の夢でも見ている様に、幸せそうに、うっすらと優しく微笑
んでいる。

第7回3000字小説バトル
Entry7

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踊り場

作者 : 涼藤庵 [リョウドウアン]
Website :
文字数 : 2977
静寂に包まれた踊り場に、勢いよく階下から風が流れ込んできた。
風は、俺の体の周りをニ、三度回った後、慌しくまた階下へと消え
ていった。
再び静寂が訪れた。
俺の動揺する鼓動の音だけが、やけに大きく踊り場に響いている。
誰かいないものかと思い叫んでみるが、声は静けさに力なく消され
てしまった。
俺はこんな所でしかも物騒なライフル銃を大事そうに抱えて何をし
ているのだろう。どうも記憶が曖昧である。
ここは、俺が勤める会社のようにも見えるが、そうでない様にも見
える。
俺が勤めている会社は、大部分がコンピューター化されており、人
間のすることはほとんどない。仕事といっても、いくつかのコンピ
ューターに電源を入れ、後はぼんやり画面を眺めているだけである。
俺の恩師に頼まれなければ、もう少し人間味のあるところで働きた
かったのだが。
ただしこの電源の入れ方が厄介で、ひとつ順番を間違えようものな
らすぐに、"オマエハサイテーノニンゲンダ"、"ハジヲシレ"な
どのメッセージが出てくる。
俺などはそのために毎日胃薬と精神安定剤を欠かしたことがない。
そんなひ弱な精神しか持ち合わせていない俺が、銃を片手に何をす
るつもりなのか?どこかいやな予感がする。
やはりそうだ。

「危ない!逃げろ!」
ドドドドド、パン、パン。
至る所から勢いよく兵士達が飛び出して来た。
すでに踊り場には満足そうな表情を浮かべた兵士達が入り乱れてい
る。
「おい、何をしている!早く逃げろって言ってるだろ!」
ドドドドド、パン、パン。
何となく滑稽な銃声や悲鳴を聞きながら、俺はその光景をぼんやり
と眺めていた。
「前方に敵の隊列発見!後方に敵が散らばった!ぐげっ」
「敵味方入り乱れているぞ、間違えるな、ばか!俺を打つな!この
名刺を見て、ぐげっ、ぐぼっ、名刺」
ドドドドドォ。
「この名刺を、うぁ、メイシヲ…」
パン、パン。
俺に話し掛けた奴が、今は無残にも二つに割れた頭から赤黒い粘着
質の脳みそをたらし、うらめしそうに口元まで飛び出た眼球で俺を
見ている。よく見ると俺の上司に似てなくもない。とにかくここは
逃げたほうがよさそうだ。
「おい!待ってくれ」
「隊長!早くしてください。我々と一緒にそこの自動販売機まで走
り抜けてください」
「よし、わかった。行くぞ!」
パン、パン。
相変わらずB級映画を思わせる間の抜けた銃声の中をくぐり抜け、
俺たちは自動販売機までたどり着いた。
「たったっ隊長!来ました、ヘル団です」
 階下をのぞくと全身黒装束の、見るからに凶悪そうな雰囲気の一団
がへらへら笑いながらこちらに向かってくる。
「逃げるか?それとも戦うか?」
「やはり逃げましょう」
くそっ、逃げてばかりか。
ヒュ−ドドドドド、ドーン。
「まてっ!」
「まずい、狙われる!」
そのとき俺に向かって一本の矢が放たれた。
「くそっ!」
矢は俺の手のひらに綺麗に刺さった。しかしそれほど出血もせず、
まして痛みなどない。気にせずにおこう。
と、そのときまた静寂が踊り場を包み込んだ。
「来る。奴らが来る」
「どうした、何をそんなにおびえている」
ザッ、ザッ、ザッ。
規則正しい足音が階段を鳴らし静寂の中に響き渡る。
ザッ、ザッ、ザッ。
「01軍団ですよ。だめだ、もう逃げられない!」
「01軍団?」
部下に向かって、あれはコンピューターのエラー番号MS0482
ではないか?などとわけのわからないことを言っていたそのとき、
静寂が破られ一斉に悲鳴が上がった。
バババッドドドドドドッー。
「まずい。また、俺たちのほうに向かってくるぞ」
死体で覆われた階段を、一団が勢いよく上がってきた。
やるしかないと思いつつ、銃を構えるが、全く使い方がわからない。
右手に刺さっている矢も邪魔だ。
「おい、おまえが行け!」
振り返えると、部下はすでに失禁し恍惚の表情を浮かべ、目からは
よだれを口からはよだれを耳からはみみだれを垂れ流している。
くそっ、普段は俺に最先端の知識をひけらかし、優越感に浸ってい
るくせにいざ戦闘になると全く役に立たんではないか。
そのとき背後で銃声が響いた。
腹部を撃たれた部下は2メートルほど上に飛び上がり、小便で綺麗な
弧を描きながら階下に消えていった。
俺の背筋が恐怖でピンと伸びたために、瞬く間に狙い撃ちをされ、
左足が変な方向に曲がってしまった。
俺も戦闘向きではないのかもしれない。
「もう、やめようよ。勝てっこないよう。だいたい、あんた達はエ
ラーなんだろ?えっそうなんだろ?俺はエラーが一番苦手なんだよぅ」
先頭にいた男が、不気味な笑みを浮かべながら明らかに事務的に答
えた。
「オマエハサイテーノニンゲンダ」
「ハジヲシレ」
くそっ、やはりエラーだったのか。
逃げなくてはと思い階段を2、3段上がったところで、背後から銃
声が聞こえた。背中に微かな刺激を感じ、俺の意識は急激に表層部
へ上昇し、パンと音をたてて消えた。

背中に痛みを感じながら、会社に行く途中の電車であの踊り場にい
た兵士に似た者を見つけた。咄嗟に銃を構えたが、俺の右手に握ら
れていたのは銃ではなく携帯電話であった。
まずい、逃げなくては、と思い自動販売機を探しながら男の手を見
ると、その手にも銃ではなく携帯電話が握られていた。
くそっ今度は情報戦争か、と思い、一瞬背筋がピンとなったが、そ
の男は俺の事など気にもせず人ごみの中に消えていった。
昨晩激しい戦闘が繰り広げられたはずの踊り場は、その痕跡をどこ
にもとどめてはいない。
俺は階段を上ってオフィスに入り、いつもと同じようにコンピュー
ターの電源を入れた。
しばらくすると無数のメールがへらへらと笑いながら出現した。
俺は瞬時に削除ボタンを押し、そいつらを闇に葬り去った。
そして次につけた電源からはあのエラー番号MS0482ゆっくり
と現れた。
背筋が凍るような感じを受け、俺は逃げるようにその場から離れ、
必死になって走った。走りながら、知らず知らずコンピューターに
精神を操られている気がしてぞっとした。
やたらとコンピューターを介して周囲のものと連絡を取りたがる奴
や、ディスプレイに向かい合ってぶつぶつつぶやいている奴。そい
つらはだいたい自分だけがコンピューターを操っているつもりでい
るが、俺から見ると逆にコンピューターに踊らされているようにし
か見えない。
いつのまにかに俺は賑やかな繁華街まで来ていた。見渡すと辺りで
は、年末に向けて消費を拡大しようとそれぞれの店がそれぞれの思
いで販売に躍起になっている。
いたるところからコンピューター音が響いてくる。
そう言えばどことなくその規則正しい音律は、あの戦闘時の銃声
に似ている気がする。
道の傍らに、今購入したばかりのコンピューターを見つめ、しきり
に自分を納得させようとしている男の姿を見つけた。彼も、自分が
踊らされていると感じているのだろうか。
安易なコミュニケーションツールで自分の周りを固めれば固めるほ
ど、逆に他人を遠ざけることにならないか?俺にしてみれば、周り
を敵に囲まれ銃をつきつけられている状況と同じである。人々は
段々と孤立してきている気がする。
コンピューターによる陰謀か?
しかし、俺がどう思おうと世の中はさらにそれらのものを取りこん
で加速していくのだろう。
そして人々は、一層それらのもので身を固めて満足感に浸るのだろ
う。まるで、あの踊り場で銃を片手に満足げな表情を浮かべていた兵士
達のように。

第7回3000字小説バトル
Entry8

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書き置き21番

作者 : しょーじ
Website : http://www.geocities.co.jp/Milano-Aoyama/8806
文字数 : 3000
 突然のこのような置き手紙に、あなたはさぞ驚いていることでし
ょうね。

 私は今、長い間の苦痛から解放された喜びで胸がいっぱいです。
あなたというストレスから逃れられて、私の心は少女のように軽や
か、背中に羽を付けて飛び回りたい気分です。
 あなたは自分のわがままを棚に上げて、きっとまた勝手に思い込
むのでしょうね。こんな風に家を飛び出した私を『自分勝手な奴』
と。
 あなたは私のことなんか、なんにもわかっちゃいないんです。私
がいかに自分を殺し、あなたや子供たちの為に尽くしてきたか。
 私のほんのちょっとした失敗を、あなたはまるで重箱の隅をつつ
くようにほじくり出して、小姑のように攻め続けるのです。

 例えば、味噌汁のこと一つとってもそうです。
 私は決して料理が上手とは言えません。結婚するまで包丁もまと
もに握ったことはありませんでした。
「それでもいいよ」
 あなたは結婚前、そう言ったではありませんか。私はその言葉を
どれだけ感動して受け止めたかわかりません。それなのにあなたは、
結婚するなり、その舌の根もかわかぬうちに変貌しましたね。
 私はあなたにさんざん怒られ、やり直しを命じられ、逆らうこと
なく従順に言うことを聞いてまいりました。でも、あなたのお母さ
んの作る味噌汁にはやはり叶わなかった。
「おふくろの味じゃなくていい。『味噌汁』の味にしてくれれば」
 あなたは懇願するように言いました。でも、あなたの理想とはな
んなのです?私は日々その事に悩み続けました。
「頼むから、だしを入れるの、それだけ忘れないでくれ」
 あなたは口癖のように言い続けましたね。
 味噌汁にだしが必要不可欠であることは、私だって十分承知して
います。でもね、誰だってうっかり忘れるってこと、あるじゃあり
ませんか。あなたは自分で作らないから、わからないんです。
 しかも私がしっかりだしを取った時など、一度でも褒めてくれた
ことがありましたか。自信をもって私が差し出した味噌汁のお椀を、
口元に寄せ、一口すするなり何て言ったか、あなたは覚えています
か?
「味噌が入ってないじゃないか」
 どうしてあなたはそうなのです。人の悪い所ばかりに目をやって、
良い所を見ようとしない。味噌が入ってないからってなんだって言
うんです。味噌汁に味噌なんかいらないんです!

 夜のことにしてもそうです。
 私はいつも、隣の奥さんの話を聞いて悲しくなるのです。あの隣
の痩身の、いかにも頼りなさげなご主人でさえ、三日と空けずに求
めてくるとの事。そんなことを嬉々として話す隣の奥さんの話を、
私がどんな思いで聞いているとお思いです?
 それはお隣はまだ新婚さんですから、一概に比べられるものでは
ないでしょう。私の身体も花の盛りを過ぎてしまったかもしれませ
ん。だからってほったらかしにしておくなんて、あんまりじゃあり
ませんか。
 私たちも新婚の頃は盛んでした。私は精一杯あなたの要求に答え
てきたつもりです。
 看護婦の白衣も着ました。セーラー服も着ました。友人に無理や
り頼んでスチュワーデスの制服も手に入れました。あなたは目の色
を変えて私を求めて来ましたね。それもすべて、あなたを想えばこ
その奉仕だったのに、私に飽きたらもうおしまいですか?
「歳を考えろ」
 と、あなたは言いますが、私は身体の芯が熱くほてるのを、いっ
たいどうやって冷ましたらよいと言うのでしょう。
 ついに私は意を決し、行動に出ました。
 おとといの夜のことがそれです。私は通信販売で購入したベビー
ドールを身にまとい、顔に薄く化粧を施しました。そしてあなたの
寝ている枕元へひざをつき、揺り起こしたんです。
 女の身でこのような行動を取ることがどんなに勇気がいることか、
少しでも思いやってくれる心があるならば、あんな言葉は出てこな
いはずです。
「ばあさん、血迷ったか」
 私は打ちのめされました。50年も連れ添って、あなたには女心と
いうものがちっともおわかりにならないのです。私の唇に薄くひか
れた紅を見て、健気だと思ってはくれないのですか。何も三日と空
けずに求めてくれって言うんじゃないんです。週に一度、いえせめ
て月に一度位は相手をしてくれてもいいじゃありませんか。それが
夫婦ってものじゃありませんか。
「身体がおっつかんわい」
 と、あなたは言いますが、何を言ってるんです。70を過ぎたぐら
いで情けない!
 とにかく私は、この一件で覚悟を決めたのです。いつか家を飛び
出してやろうと。あなたという存在から逃れようと!

 そして究めつけが今朝の一件です。またしても味噌汁が原因でし
たね。そう、まさにあれが引き金となったのです。
 私はいつものように味噌汁をよそい、あなたに差し出しました。
あなたはお椀の中を見るなり、
「これが味噌汁か」
 と、烈火のごとく吠え始めましたね。
 何度も言いますけど、人間誰だってうっかりするって事、あるじ
ゃありませんか。たまたま私がうっかりして、だしと、味噌と、具
を入れるのを忘れただけなのに、あの言い方はあまりにひどくはあ
りませんか?
「これは白湯というものである」
 あなたは宣告しました。さらに追い打ちをかけて一気にまくした
てます。
「結婚以来50年間、お前は今までまともな味噌汁を作ったことがあ
るか。いや、ない。常にだしか、味噌か、具のどれかを必ず入れ忘
れる。今日に至ってはついにその三つをことごとく入れ忘れる始末
だ。お前には俺にうまいものを食わせてやろうという気持ちがはな
っからないのだ。というよりも、昨日よりも上手に作ろうという気
持ちがない。向上心というものが皆無なのだ」
 ねえ、あなた。あんな身も蓋もない言い方をされては、誰だって
頭にきてしまいますよ。かーっとなった私は、台所から鰹節を一本
持ってきてあなたの頭に向かって投げつけました。
「そんなにだしが大事なら、これでもかじってなさいよ」
 残念ながらそれは命中せずに、茶箪笥のガラスを割っただけでし
た。私は悔しさのあまり台所に取って返して、味噌の樽と具にする
つもりだった豆腐を一丁持ってきました。
「ほら、味噌よ。好きなだけお食べなさい!ほら、具は豆腐よ。好
物でしょう!」
 私はあなたに馬乗りになり、味噌をしゃもじですくってはあなた
の口に押し込みました。まあ、待ちなさいとか何とか言ってるあな
たの顔に、わし掴みにした豆腐をなすり付けました。
 あなたはきっとまた近所で、私のことをひどい女だと言いふらし
ていることでしょうね。でも誰だってあんな事を言われたら、私と
同じ事をしたはずです。
 それでもやっぱりあなたは、自分が正しいと言い張るのでしょう
けどね。

 私は家を出ます。
 あなたはきっと思い知るのです。私という存在があなたにとって
どれほど大きかったか。私がいなくなることで、どれほど生活が不
自由するか。私はそれを遠くからほくそ笑みながら眺めることにし
ます。
 言っておきますが、今回のはこれまでの家出とは違いますからね。
あなたは、どうせすぐ帰って来るだろう、とたかをくくっている事
でしょうが、今までにした20回の家出とはその覚悟の程が違うので
す。
 さようなら。
 すでに老境に入ったあなたに、今になってこんなことを言っても
遅いとは思いますが、今少し他人を思いやり、自分を省みる謙虚な
気持ちを持たれることを、私は願ってやみません。

                        大村トラ

第7回3000字小説バトル
Entry9

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美談

作者 : akoh [アコウ]
Website : http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/8896/
文字数 : 2967
 よもや、こんなことが起きようとは夢にも思っていなかった。
 馬場は、一瞬我を失った。
 しかし直後には、事故を起こした張本人である、青田に詰め寄っ
ていたのである。
「馬鹿! おまえなんて事をしてくれたんだ」
 後悔と恐怖におののき不気味に引き攣った青田の顔は真っ青であ
った。
 
 事故のあらましは至極簡単である。
 馬場が青田にガラスの指輪の事を聞いた。それを聞いた青田は、
偶然近くにあったそれを拾って馬場のもとに持っていこうとした。
そのとき手を滑らせて落としてしまう。さらに勢いあまって、足で
踏み潰しさえしたのである。指輪は袋の中にあったのだが、いつの
間にかそれを突き破り、破片となって辺りに散乱していた。
 ただのガラスの指輪であったのならば、取り返しのつかないこと
もないだろう。けれど、その指輪は何かで代用できるようなもので
はなかったのである。
馬場は勿論、怒りがこみ上げてくるのを感じていた。だがそれは青
田を糾弾する怒りではなく、むしろ彼の将来を案じての怒りに近か
った。指輪の崩壊後、時が経つに連れ馬場のその思いが強くなって
いたことは間違いない。
 馬場は、青田を救うことを決心した。
「落ち着け。大丈夫だから」
 青田は答えない。わずかにうなずいただけである。
「いいか。幸いこのことを知っているのは俺たち二人だけだ。そこ
で、だ。まずは証拠を隠滅する。指輪の残骸を片付けるんだ。ホウ
キとチリトリを探して来い」
 とたんに青田は顔を上げた。驚愕という言葉が、大げさでなくあ
てはまるような表情をしていた。
「そんなことしていいのか」
「馬鹿野郎。今までいっしょにがんばってきた仲間じゃないか。そ
んな仲間を、俺が見捨てると思うか」
 青田は、いまだ引き攣り気味の顔にこわばった笑顔を浮かべた。
「けど、証拠を無くしたところでどうすればいいんだ?」
「簡単だ。この指輪は、結構いろんなところに売ってるんだぜ」
「偽造するのか?」
 青田は唾を呑み込んだ。それとほぼ同時に、部屋の電話が鳴った。
 馬場は受話器を取り、平然としばらく会話をしていたが、ふいと
受話器の口を抑えると、青田に向かって小声で言った。
「三島さんがこの指輪を見たいらしい。ここは俺がなんとかするか
ら、おまえはさっさと新しいのを買って来い」
 言い終えると、馬場は会話を再開した。しかしちらちらと、青田
のほうを見やる。
 その視線に促されるように、青田はその部屋を後にした。

 三島がその部屋に現れたのは、馬場が指輪の残骸の処理を終えた
のとほぼ同時であった。
「指輪は見つかったかね」
 馬場は指輪が見つからないと言い逃れていたのである。
「それが……」
「まだか」
「はい。すいません。ご覧の通り誰も居りませんもので、片付けた
者がいればすぐに分かるのですが……」
「携帯か何か、連絡はできないのか」
「それが、つながらないんです」
 三島は小さく舌打ちした。と、その拍子に思い出す。
「そういえば青田はどうした。ついさっき見かけたが、いないの
か?」
 馬場は一瞬顔をゆがめたが、すぐさま平静を装って答えを創り上
げた。今は三島の機嫌を損ねるようなことはしないに限る。馬場は
懸命に、されど表には平静を装って、三島の不満轟々たる質問の数々
に対応した。それはもう、よくやったといってよい。
 しかし、この質問にだけは、馬場はすぐ答えることが出来なかっ
た。
「見つからないのではなくて、なくしたか壊したかして、実はもう
見せられないのではないのかね」
 馬場は、一瞬、心臓を杭で打たれたかのような動悸を感じた。核
心を突かれ、さすがに動揺を隠し切れなかったのである。ところが
三島は、馬場の見せたこの隙を突くこともなく、
「まあいいさ。特に急いでいるわけでもない。今日の午後五時まで
に見つけてもらえばいい」
 と、あっけなく近くの椅子に掛けたのであった。しかし一言、
「ただし。見つからなかったときには相応の責任を取ってもらうよ。
いいね」

 老獪という言葉が、三島には見事に当てはまろう。
 馬場はもうかなり参っていた。肉体的にではなく、精神的にであ
る。
「さあ、指輪はまだ見つからないのか? それともやっぱりもうな
いんじゃないのか。正直に言ってしまえよ」
 そんなことを言われつづけるにも限度というものがある。ある瞬
間に、馬場は三島が事実を知っているのだと確信してしまった。も
ちろん事実はどうだか分からない。だが、馬場の中では、三島は知
っていてわざとじらしているのだということになってしまったので
ある。そう思い込んでしまえば、そこから先は針のムシロである。
刺さる視線はすべてお見通しなのである。
 ギリギリの精神状態の中で、青田を信じることだけが馬場の拠り
所であった。なんとか状況を伝えることにも成功していた。あとは
ただ青田を頼るのみ。
けれど、三島はその信頼の匂いすら嗅ぎ付けたかのように、馬場
に言い放つ。
「それとも、本当に知らないのか。別の奴がどうにかしてしまった
のか。だとしたら、そいつはひどい奴だな。他人に責任を押し付け
て、自分は知らん顔だ。逃げたのだ。まあ、人間とはそういうもの
かもしれないな。一番大切なのは我が身だ」
 責任。
 馬場は思う。このままならば、責任はすべて自分の上にかかって
こよう。青田は無罪だ。なぜ自分がすべての責任を負わなければな
らない? それはただ青田の利益になるだけではないか。卑怯者。
 青田は逃げた。
 その結論にたどり着く。
「三島さん……」
「なんだ? とうとうしゃべる気になったか。いいことだ。他人な
どをかばうものではないよ。人間同士の信頼などは、もっともあて
にならないものだ。そんなものは捨ててしまえ」
 はっとした。我に返った。馬場は、目の前を覆っていた霧が晴れ
たような心持になった。
「やっぱりなんでもありません。時間の限り、俺は探しつづけます
よ」
「……そうか」
 そうだ。青田は自分を信じているのだ。その信頼を裏切ることは、
人間として最低のことではないか。信頼には、報いねばならない。
そもそもこれは、自分から押し付けた信頼なのだからなおさらだ。
 馬場は、一瞬でも信頼を裏切りかけた自分を恥じた。

「もう日が暮れる。時間切れだな」
 窓際で外を眺めながら三島が言った。
「まだもう少し残っています。探させてください」
「無駄だ。もうやめろ。潔く、あきらめるんだ」
「嫌です」
「だが、もう時間だ」
「……」
 馬場は、力なくその場に立ち尽くした。
 と、そのときである。
 外を見ていた三島の目が大きく見開いた。その顔は、夕日に紛れ
てはいたものの、明らかに昂揚していた。
「おい、馬場。こっちに来てみろ」
「なんですか?」
 馬場はゆっくりと窓から外を見下ろす。
「見たまえ。勇士のご帰還だ」
 青田であった。馬場には、その手に握られたガラスの指輪の輝き
までが見えた。包装の上からでも確かに見えた。
 と、思い直す。
「やっぱり知っていらしたのですか?」
「当然だろう」
「それじゃあやっぱりクビ……」
「いや、君たちにはいい物を見せてもらった。今回だけは特別に見
なかったことにしようじゃないか。だからはやく、壊れた指輪を処
分してしまいなさい」
「はい! ありがとうございます!」

 どこか誇らしげな青田の姿が警察署の中に消えていく。
 これは、心優しき警察官たちの物語なのである。

第7回3000字小説バトル
Entry10

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ファールから

作者 : 吉原 明 [ヨシハラアキラ]
Website :
文字数 : 2130
「なんで僕がサッカーの監督や審判なんかしなくてはならないんで
すか」
 山岸昇は、この春地方の国立大を卒業して小学校の教師になった
ばかり。昇が教師になった理由は、子供が好きというよりも長い休
みがあり好きな本を読む時間がたくさんあると思ったからで、これ
までは学校の体育の授業と教員養成過程の実習以外は、スポーツと
無縁の生活をしてきた。
 そんな昇に着任早々、校長が「サッカーチームの監督と審判をし
てくれ」と半ば強制的に頼んできたのだった。
「山岸先生、そんなこと言っても当校は一学年一クラスの小規模校
で、管理職以外の男の先生はあなたと野本先生だけ。野本先生は野
球クラブの指導をしているので、サッカークラブは山岸先生に指導
していただくしかないのですよ。なんとかお願いします」
 これ以上抵抗しても無駄だと思った昇は、「分かりました。その
かわりもし来年、男の先生が来られたら交代してもらいますから」
と条件を付けて引き受けた。
「それでは、早速来週の日曜日に審判の講習会がありますから、申
し込みをしておきましたので受講してください。」
「どうしても受けなくてはならないのですか」
「審判資格を持った指導者がいないと、小学生でも公式試合に出場
できないのですよ。試合に出られなければ子供たちがかわいそうで
しょう」
 昇は「分かりました」と言いながら、心の中では「休みが一日減
るな」と呟いていた。
 審判講習会の当日は幸い天気には恵まれ、昇はサッカー選手の経
験がありそうな受講者に交じって、午前中はビデオを見ながらルー
ルについての講習を受けた。
 昼食後は、実際にグラウンドに出ての実技講習。講師が受講者を
三人一組に振り分け、昇はあいにくと第一試合の主審をすることに
なってしまった。
 講師が「それではこれから練習試合の審判を務めていただきま
す。今日、試合をしてくれるのはLリーグのベスト食品とヨシダ電
機の選手のみなさんです。よろしくお願いします。それでは第一試
合の主審の山岸さん、ゲームを始めてください」と言って昇に笛を
手渡した。
 昇は先ほどビデオで見た通りになんとか試合を始めたが、10分
を過ぎたあたりで接触プレーで一人の選手が倒れてしまった。その
まま、気に留めず試合を続けていたが、講師から「山岸さん、怪我
人が出た時は試合を止めてください」と言われ、昇は慌てて笛を吹
いて試合を止め、倒れた選手に駆け寄った。
 後で聞いたのだが、倒れたのは全日本女子代表のヨシダ電機
の西本恵で、「Lリーグのカリスマ」と呼ばれているスター選手。
右足首を抑えながら顔をしかめうずくまっていた。
「大丈夫ですか」と声を掛けてみたものの、女性にどうしてよいも
のか分からずうろうろしていると、そのうちチームの控え選手が担
架に乗せ連れていってしまった。
 講師の「続けてください」の声でゲームを再開したものの、動揺
した昇は間違った判定を連発。講評で、「受講されたすべての方に
四級審判の資格が与えられますが、特に山岸さんはもう一度よく勉
強してください」と釘を刺される始末だった。
 その週から学校のクラブ活動で子供たちの指導を始めたが、サッ
カーの知識がほとんどなく、子供たちから「先生、今のはオフサイ
ドじゃないよ」と逆に指摘されるほど。そして、何よりも怪我をし
た西本恵に何も出来なかったことが気にかかっていた。
 そして昇は、ヨシダ電機に電話を掛け女子サッカークラブの練習
日程を聞き出し、次の土曜日に思いきって訪ねてみることにした。
 昇が練習場を訪れた時は、ちょうど紅白戦の真っ最中。西本恵は
試合には加わらず、ゴールポストの脇から後輩たちに大声で指示を
与えていた。
 近づいて「あのう」と声をかけると、「なんでしょうか」と笑顔
で振り向いた。
「先週の審判講習会で主審をしていた山岸といいます。あの時は何
もできなくてすいませんでした。足はもう大丈夫ですか」
「あぁ、あの時の人。古傷にスパイクされただけ、しょっちゅうあ
るのよ。気にしないでください」
「そうですか、たいしたことがなければよいのですが。私はサッ
カーがよく分からないので、本当にすいませんでした」
 そして昇は自分が新任の教員であること、学校の事情でサッカー
クラブの指導をしなければならなくなったことなどを告げ、何度も
詫びてグラウンドを去ろうとした。
 すると西本恵は、「私はあと十日くらいプレーできないのです。
その間なら私がサッカーを教えてあげましょう」
「いいんですか」
「まずファールからね」
 その日は一時間ほど喫茶店でサッカー全般について話しを聞き、
翌日には二人でJリーグの試合を観戦に出かけ、主審と副審の動き
や、オフサイドなど細かなルールについて説明を受けた。
「西本さんは、なんで僕なんかにここまでしてくれるのですか」
「私はサッカーが好きなの。小学校の時に兄の真似をして始めてか
らサッカー一筋。私の好きなサッカーをあなたが小学生に教えてく
れるのなら、これからも出来るだけのお手伝いをします」
「ありがとうございます。僕もサッカーを好きになります。そして
あなたの事も」
 その後、昇は指導者として三年後にはチームを全国大会に導き、
その三ヶ月後にはカリスマ女子サッカー選手の夫となった。

第7回3000字小説バトル
Entry11

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クローンのある風景

作者 : 羽那沖権八 [ワナオキゴンパチ]
Website : 小説屋やまもと
文字数 : 3000
「白血病――?」
 藤田浩平の顔を、妻の鈴香はじっと見つめる。
「ああ」
 浩平は苦笑いする。
「この前の健康診断で引っかかったんだ。君には結果を見せなかっ
たけど」
 病を自覚しているせいか、表情に生彩が欠けている。
「じ、冗談でしょう? だって、そんな」
「僕もよく分からないけどね、本格的な症状が出るまでに一ヶ月あ
るかないかだってさ。骨髄移植が必要になるらしいよ」
 白髪混じりの頭を、浩平は指ですいた。
「移植すれば、治るの?」
「治るさ。最近は手術後もしっかり元気になるらしいし」
「でも骨髄移植のドナーなんて……」
「本当言うとね、もうドナーにあてがあるんだ。それが確認できる
まで黙ってた、っていうのが本当かな」
「えっ!? ドナーの情報って、患者には知らされないんじゃない
の?」
「普通はね」
 浩平は笑って立ち上がった。
「ところが僕には、クローンが一人いてね」
 帽子とコートを引っかけ、彼は鈴香に手招きした。
「今日、初めて会うんだ」

 東海道線のリニアから見える太平洋は、太陽の明かりを反射して
きらきらと輝いていた。
「人間のクローンって、禁止されてるんじゃなかったの? 自分が
二人になっちゃうんでしょ?」
 視線を半分窓に向けながら、鈴香が尋ねる。
「禁止はされてないよ。ただ、条件が厳しいだけ」
 体力が落ちて来ているのか、シートにだらりと寄り掛かったまま
で浩平は応える。
「それって、どんな条件?」
「法案が通った当初は新聞にも載ってたけど、まあ覚えてないよね」
 浩平は目を閉じて眉間に人差し指を当てる。
「えーと、夫婦ともに、嫡出の有無を問わず子供がない事。加えて、
後天的理由で生殖細胞を製造する機能を有さない者」
「あれ? 身体の問題で子供の出来ない夫婦なんて一杯いない?」
「そこが違うんだな」
 ぐっと浩平は伸びをする。窓から射し込む日差しのせいか、顔の
皺がやたらはっきり見えた。
「夫婦で子供が出来ないのは、どっちかが不妊症で充分。これだっ
たら、近親から精子なり卵子なりを貰って来るって道がある」
「あ、そっか」
「その条件をクリアしたって、生殖細胞を作る能力があれば体外受
精でどうにかなる。精子や卵子が保管されてる事もあるし」
「それでもダメだったら……」
 ドリンクサービスの無人ワゴンが、通路を通っていく。
「普通養子を勧められるね。そこまで切り抜けても、最後は後天的
理由って奴で引っかかる」
「どうして? 事故で切れちゃうとか病気とかありそうじゃない?」
「片方ならあるいはね。でも夫婦が揃ってとなるとそりゃ可能性は
低いさ。もちろん、意図的にやった場合は認められないし」
「ふーん」
 駅が近付き、リニアは音もなく減速していく。
「って、なんでそんなに厳しい条件なのに、あなたのクローンは作
れたわけ?」
「逆なんだ」
「?」
「条件が厳しいのは、僕のクローンが作られたせい、さ」
 浩平は携帯端末で切符を確認する。
「別れた彼女がね、書類をでっち上げて許可を取っちゃったんだよ
ね」

 列車を降りた浩平と鈴香は、海に面した城下町を休み休み歩く。
「つまり、あなたが捨てた女性が、勝手にクローンを作ったわけ?」
「そんなに怖い顔しなくてもいいよ。もう民事で和解済みだし、プ
ライバシーの保護って事で、公的な報道記録は残ってないし」
「冗談じゃないわ、そんな大事な事、どうして今まで言わなかった
のよ?」
「自分のクローンなんて、デートの話題としちゃあ最悪だと思わな
いかい?」
 浩平は笑った。
「だとして、今ノコノコ会いに行くなんて……」
「もちろん、彼女もクローンも幾度となく殺そうと思った。まあ実
行は出来なかったけど」
「って、それも直接的な」
「そんな時に君に会った。そして五回目を考えるのをやめて、和解
に応じる事にしたんだよ」
「あ……」
 鈴香は照れ臭そうにうつむく。
「彼女の気持ちがちょっぴり分かった気がしてね。君と死に別れた
らって――あ、ここだ」
 古びた小さなアパートの前で、浩平は足を止めた。

 ピンポーン。
 クラシカルなチャイムの音が、戸の外まで聞こえて来た。
 どたどた足音が聞こえ、カギが開く音がする。それからきしみを
立てて戸が開いた。
「誰」
 チェーンロックの隙間から顔を見せたのは、高校生くらいの若い
男だった。
 浩平は頭を下げた。
「お忙しいところ失礼します。わたくし藤田と申しますが、仁科百
合さんは――」
「ああ、聞いてる」
 戸が一旦閉まった。
『かあさーん! 客!』
『ありがとう。あなたは遊びに行ってらっしゃい』
『へいへい』
 チェーンロックの外れる音がして、戸が開いた。
「藤田さん……お久し振りです」
 出てきたのは、髪の短い落ち着いた雰囲気の女だった。
「久し振りだね、仁科さん――妻の鈴香だよ」
「あ、よ、よろしく」

 古ぼけてはいるがこざっぱりとした六畳間に、浩平と鈴香は通さ
れた。
「そうですか、病気に……」
 一通りの話を聞いた仁科百合は暗い顔になる。
「ええ。もう二度と会わないと言ったのに虫のいい話だけど、骨髄
移植に協力して欲しいんだ」
 百合はゆったりとした動作で、浩平たちのカップに紅茶を足す。
「無理、なんです」
「どうして、クローンいないの!? 隠すの?」
「鈴香」
「もうお目にかけています」
「えっ?」
「さっきの子が僕のクローンって事だよね」
「ええっ? だって歳も違うし目つきも――ううん、顔だってほと
んど」
「ええ。でも、あの子は間違いなく藤田さんと同じ遺伝子を持って
ます」
「歳が違うのは当たり前だよ、鈴香。作られたのは僕が二十歳ぐら
いの時だから。クローンだって生まれた時は赤ん坊なんだから」
「え? そういうもんなの?」
「ま、実際僕も、鏡を見てるみたい、ってのをちょっと期待してた
んだけどね」
「ええ。でも、当たり前の事です」
 薄く百合は笑う。
「生まれた年も、環境も違う、ただ遺伝子だけが一緒な別人ですか
ら」
「そっか、それじゃ移植はダメ……じゃ、ないわね。別に遺伝子が
一緒ならいいんじゃない? やっぱり恨んでる――」
「断じてありません。別の理由です。お待ち下さい」
 百合はタンスの引き出しから一通の封筒出す。中身は医師の診断
書だった。
「――同じ病気だね」
 呟いて、浩平は鈴香にもそれを見せる。
「発症の要因は遺伝的なものらしいです」
「発症の時期だけぴったり合うとはね……いや、歳が違うから時期
もずれてるのか」
 浩平は笑った。なぜか安堵にも似た表情だった。

 数カ月が過ぎた。
 白いベッドの隣で、鈴香が四つ切りにした林檎を剥く。
「ドナーが見つかって本当に良かったわねー」
「うん。良かったよ、本当に」
 しゃくしゃく音を立てながら、浩平は剥けた林檎を食べる。
「ほとんど全快して、退院も間近だってさ」
「ふふふ――あら? そのお花誰から? 昨日はなかったよね?」
 窓辺の棚に、スイートピーとカスミ草の花束が置かれていた。
「同病の士からだよ」
 くすっと浩平は笑った。
「ああ、クローンの?」
 花束には、『快気祝』の文字の横に『仁科』と苗字だけが書かれ
ていた。
「ちょうどこっちからも送ろうと思ってたんだけど、下の名前が分
からなかったからね」
「え? 知らないの?」
「うん」
「なんで訊いておかないのよ?」
「別に」
 浩平は花束を手に取った。
「遠い町の子供一人、名前を知らないからっておかしい事も、困る
事もないだろ?」
 カスミ草を一輪ちぎった。
「多分、僕の好きな花はお気に召さないだろうしね」

第7回3000字小説バトル
Entry12

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19(nineteen)

作者 : 川辻晶美
Website : Southern Wind Junkie
文字数 : 3000
 最近、この街の色が褪せてきたように思う。私がそう言うと、利
奈はせせら笑って、マスカラを塗り始めた。
「視力が落ちただけじゃないの?」真子がガムを噛みながら、興味
なさそうに答える。
 そして私は話題を変えた。
「ねえ、清美たち、最近見かけないと思わない?」
「受験だよ、あいつら」
「一応、N高生だからね」
 都内屈指の名門校に通う清美とその取り巻きの姿が路の上から消
えたのは、ここ数週間のことだ。
「その点、あたしらは楽だよね」利奈の言葉に、真子が相槌を打つ。
二人は大学までエスカレーター式の私立高校生だ。
「そういえば、あんたはどうするの?」二人の視線が同時に私に注
がれる。私は聞こえなかったふりをして、ストロベリー・シェイク
を一口飲んだ。外気にさらされるままの太ももに寒気が走る。やっ
ぱり、ホット・ココアにすればよかった。
「今日、これからどうする? カラオケ行く?」真子が立ち上がり、
ガムを吐き出して言った。
「んー、風邪ひいて、声出ないんだよね。とりあえず寒いし、ゲー
センにでも入ろっか」
 利奈も続いて腰を上げ、私たちは、一番近いゲーム・センターへ
入った。

「ね、カラオケ行こうよ」
 利奈がUFOキャッチャーでスヌーピーを取り損ねた瞬間、三人
の男たちが声をかけてきた。
「いいよ」利奈が率先してそれに答える。
「私、金ないよ」と、真子。「綾香は? どうする」と私に振る。
「私もそんなに持ってないよ」アルバイトをしているわけじゃなし、
最後に家に戻った時に持ち出したお金も、底をつきかけていた。
「いいって。おごるよ。行こ、行こ」男たちは結論も待たずに歩き
出した。

「君はどこの高校?」テツヤと名乗った男が私の隣に座り、背もた
れに腕をまわした。
「R女子」いつものようにそう答えると、いつもと同じ質問が続く。
「彼氏いる?」
 私は静かに首を振り、今夜の寝床を確保するために、テツヤにほ
んの少し、身体を寄せた。

 17歳の少年は、皆、同じ匂いがする。若い汗とコロンが混じり
合い、独特の香を放つのだ。その匂いに包まれて、私は一時の幸せ
を味わい、代わりに大きな惨めさをもらう。
 かすかな鼾をたてて眠るテツヤの肩に、私はそっと鼻を近づける。
そして、もう二度と私を抱きしめることはないであろう逞しい腕に、
指を這わせる。一夜だけのカレシが支払う代償は、せいぜい、一日
分のアルバイト代くらいのものだろう。今日は平日だから、ホテル
代だって、たかがしれている。朝が来て、外に出た途端、テツヤは
言うだろう。
 それじゃ、メール入れるから。またね。
 それでいい。この街に来るようになって一年、私がつき通した嘘
に比べれば、そんな仕打ちはあって当然だと、わかっているつもり。

 私は綾子。19歳。高校を中退してもう二年。R女子高の制服だ
って、インターネットで買ったもの。名前も歳も偽って、現役の高
校生たちと過ごす時間が、今何よりも楽しい。けれど、いつかおし
まいの一日が来る。そんなことくらいわかっている。真子も利奈も、
大学へ進んだら、街へはもう、来ないと言う。私だけがきっと、17
歳のまま置き去りにされるに違いない。
 そうだ、街が色褪せて見えるのは、これまでしょっちゅう顔を合
わせていた連中が、最近、めっきり姿を現さなくなったせいだ。知
った顔が少しずつ減っていくかわりに、若い、私よりずっと若い少
女たちが闊歩し始めているからだ。居場所がなくなるのは時間の問
題で、それでも他に行くべきところがないから、私はこうして、今
日も街角に立つ。

「クリスマスはどおすんの?」
「彼氏、仕事だし。ZAPPAのイベントにでも行くよ。綾香も行く
でしょ?」
 ここに来てすぐに仲良くなった利奈と真子の二人に、初めて連れ
られていったクラブでは、クリスマス・イブにパーティが催される
らしい。
「お金ないしなあ。どうしよう」一度家に帰ろうか。親が居ない時
間ねらって、ちょっとお小遣いでもくすねてこよう。
「さてと、私、帰るよ」真子が立ち上がる。
「えー、なんで? 金曜日じゃん」
「おやじのボーナス、ちょっといただきに行って来るよ」
「そっか。んじゃ私も」利奈が真子に続く。「綾香は?」
 また夜がやってくる。今夜の寝床はあてがない。
「もう少し居るよ」
 私は手を振って駅へ向かう二人を見送った。
 近くのファースト・フード店で、携帯のディスプレイに次々と浮
かび上がる幾多の名前と電話番号を、私は真剣に確かめていく。二、
三日前にメールをくれた男の名前が出てきたところで、私は指を止
めた。聞いたこともない大学の二年生で、話がつまらないし、ネル
シャツをジーパンの中にいれて着るのがなんともださくて、無視し
ていたけれど、他にあてもなさそうだ。男を呼び出し、待つ間、私
はもうひと歩きして、お腹をすかせることにした。金持ちじゃなさ
そうだけれど、ラーメンくらいは奢ってくれるだろう。

「家はどこなの?」男は、今日は上下色の合わないデニムを着込み、
大盛りのチャーハンをかきこみながら聞いた。
「横浜」それだけ答えて、私はラーメンを啜る。
「送っていくよ。明日、就職試験なんだ」
「いいよ。忙しいのに呼び出してごめんね」

 ついてない。でも食欲は満たされたからいいとしよう。男が帰っ
てゆくと、再び孤独が私を襲った。やっぱり帰るしかないか。戻っ
たところで、暖かく迎えられるわけじゃないけれど。ぐちぐちと嫌
味を言われるに決まっている。もうすぐ二十歳なんだから、とかな
んとか。まだ決心のつかないまま、駅の周りをうろついていると、
路上ミュージシャンたちが演奏の準備を始めていた。
 これ聞いてから帰ろうか。まだ終電には十分間に合うし。誰か、
友達になれるかもしれないし、知り合いに会うかもしれない。
 やがて騒音と区別のつかないロックのリズムが街に響き渡る。興
奮した観客同士が殴り合いの喧嘩を始める。警察官がやってきて、
週末の馬鹿騒ぎもあっという間に終わってしまった。
 人波にまみれて、また街の真ん中まで出てしまった。歩道橋の上
から、駅が見える。酔っ払いのおやじたちが、もつれ合い、愚痴を
言い合いながら私の背後を通り過ぎる。そっか、忘年会のシーズン
だものね。
 今夜は冷えるけれど、クリスマスのイルミネーションを見ている
と、不思議と身体があったかくなってゆく。
「姉ちゃん、どっか行かない」汚らしいサラリーマンが声をかけて
きた。
「あっちへ行ってよ」
「やめとけって。ごめんね。これあげる」もう一人の酔っ払いが仲
間を制し、私にカップ酒を手渡して行ってしまった。私は蓋を開け、
初めての日本酒を口に含んでみる。強烈な匂いが鼻腔をついた。で
も、飲み込んだ後に胸のあたりにじんわりと広がる熱は悪くない。
私は一本、飲み干してしまった。
 空になったカップの底に、白い物が舞い落ちた。雪が降り始めた
んだ。
 私は歩道橋の上で座り込み、夜空を見上げた。マフラーを口元ま
で引っ張り上げ、どうかこのまま降り続くように祈ってみる。身体
が熱い。お酒のせいだろう。火照った頬を冷ます雪が心地良い。も
う少ししたら、家へ帰ろう。最終電車に乗って。そうだ、帰ろう。
睡魔がゆっくりと私の身体を蝕み始める。この前一緒にホテルに泊
まった男はなんて名前だったっけ? でもなぜこんなこと思い出す
の? 少し眠ろう。元気になれば、家に帰れる。起きれるかしら。
それとも、このまま眠り続けてしまうのかな……。

第7回3000字小説バトル
Entry13

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ずぼらな死体

作者 : 岡嶋一人
Website : 岡嶋一人ミステリーマガジン
文字数 : 2981
「片岡さんていってね。会社の子なんだけどね。ああ、子なんて言
ったら失礼だな。女性だな。子供がいるんだから。三歳の男の子だ
ってさ。離婚してねえ。おーい、聞いてる?」
 洗面所で髭を剃りながら、美佐子に話し掛けていた。
「聞いてるわよ。それより、早くしないと遅刻するわよ」
 後ろから台所に立つ彼女の答えが聞こえる。
「でね、最近どこへも連れて行って上げてないって言うもんだから、
今度皆で食事でもしようじゃないかって事になってね」
「皆って?」
「俺んちと向こうと」
「ふーん、私は別にいいけど。でも、なんで?」
「友美と仲良くなれれば、一緒に遊べるんじゃないかと思ってさ。
彼女の実家が近所なんだそうだ。だからね……。おい、シェービン
グクリーム、新しいのは?」
「あら、ごめんなさい。忘れてたわ」
 半分剃りかけたところで、シェービングクリームがなくなってし
まった。これで、何度目か。
「おい、昨日もうなくなるから買っといてくれって言っただろうが」
「忘れたのよ。しょうがないじゃない。私だって忙しいんだから」
「忙しいって、お前ねえ、一日家にいるんだから……」
「あら、友美と一日一緒にいて御覧なさいよ。何かって言うとへば
りついてきて、何にも出来やしないんだから」
 またしても、娘を言い訳に使う。いつでもそうだ。いかにも正当
そうな言い訳をする。あいつの頭の中には、『言い訳』と名札のつ
いた大きな抽斗があるんじゃないかと思えてくる。
「ねえ、貴方、早く食べちゃってってば」
 小さな家なんだから、そんなに大きな声を出さなくても聞こえる。
結婚した当初からそうだった。彼女は、自分の思い通りにならない
と、すぐにヒステリックに大声を出すのだ。
「ああ、わかったよ」
 雑に剃ったあごをタオルで拭きながら、台所のテーブルにつく。
「で、いつがいい?」
「何が?」
「何がって、今話しただろうが」
「ああ、そのなんとかさんていう人」
「片岡さん」
「いつでもいいわよ。私はどうせ暇なんだから」
 精一杯の嫌味である。
「じゃあ、適当に決めていいんだな」
「いいけど、食事ってどこ行くの?」
「まだ決めてないけど、その辺。近場で」
「私、何着てったらいいの?」
「えっ?」
「だって、初対面でしょ」
 一体どういう精神構造をしているんだろう。まだ日にちも場所も
決めていないのに、自分の着ていくものを心配するとは……。
 友美は、朝の子供番組に夢中で、パン切れを持った手が途中で止
まっている。食事をしながらテレビを見る癖を付けてしまったのは、
美佐子である。
「友美、おててが止まってるよ」
「はーい」

「今度の金曜日に決まったよ」
 夕食の時に、今朝の話の続きをする。
「決まったって、何が?」
「今朝話しただろう。片岡さん」
「何だっけ、ああ、食事の事ね」
「食事の事ねって、お前ねえ。一週間も二週間も前の話じゃないぜ。
今朝だよ、今朝」
「あら、ごめんなさいね。ほら、友美の世話で大変だったから、色
色と」
 友美はアニメに夢中で、手に持った小さなフォークには、ハンバ
ーグの切れ端が刺さったまま止まっている。
「友美、おててが止まってるよ」
 テレビに釘付けになっていて返事もしない。
「友美」
 つい声を荒げて、テレビを消す。
「あっー。いやー。だめー」
 次の行動はわかり切っている。足をばたばたさせ、これでもかと
いうほどわざとらしく大きな声で泣き叫ぶのだ。
「貴方、消すことないじゃない」
「食事の時にテレビは良くない」
「あら、何でよ。貴方だって見てるじゃない」
「大人と子供は違うだろうが」
 そう言っても、美佐子には屁理屈としか写らないようだ。
 友美をなだめすかして、食事を終え風呂に入る。ふと、隅のほう
に水垢が溜まっているのを見つける。
「まったく、風呂掃除ぐらいしろよな」
 コーナーボックスのシェービングクリームの缶を手に取る。空っ
ぽだ。
「おーい、クリーム買ってきてくれたか」
 風呂場の中から声を掛ける。返事がない。
仕方なく、ドアを開けて再度声を掛けようとする。テレビの馬鹿で
かい音が聞こえてくる。ついつい、こっちも大きな声になってしま
う。
「おい、クリーム買ってきたか」
 居間から、間の抜けたような声が返ってくる。
「なーにー」
「クリーム買ってきてくれたかって聞いてんだよ」
「忘れたー」
 そうだと思った。
「おい、いい加減にしろよ。それから、風呂場の掃除してるのか」
「日曜日にやるわよ」
 石鹸もないじゃないか。
「おい、石鹸は?」
「そこに、あるでしょ」
「どこに?」
「コーナーボックスの一番下」
 言われた場所を覗き込んでみる。
「ばか、これは洗濯石鹸だろうが」
「いいじゃない。取り敢えずそれ使っててよ」
 金曜日の夕方、約束の食事会をした。向こうは、つとむ君を連れ
てきた。友美とはとても気が合うようだった。
 打ち解けた楽しい食事会だった。ただ一人、美佐子だけは一線を
画していたが。
 日曜日、久しぶりに友美を連れて動物園に行った。美佐子には、
「たまには一人になりたいだろ」と言って。
 一日、遊んで帰ってきたら、風呂場で美佐子が死んでいた。触っ
てみるとすでにかなり硬くなっていた。
 一応、救急車を呼んだが、すでに手遅れであることは一目瞭然だ
った。日頃不健康と言うわけでもなかった。死因に不審な点がある
と判断した救急隊員が警察を呼んだ。
 検死の結果、塩素中毒だと判明した。風呂場に置いてあった、塩
素系の洗剤と酸素系の洗剤を混ぜて使ってしまったのがいけなかっ
たと、担当の刑事は説明してくれた。
「奥さんは、そういう知識はお持ちじゃなかったですか」
「さあ、どうでしょう。割とずぼらなほうでしたから。洗濯石鹸で
体を洗えって言うような」
「えっ?」
「いや、ですから、そういうことには無頓着だったわけです」
「なるほど」
 事故死と言うことでかたがついた。生命保険からは、一千五百万
円が振り込まれた。問題になるような金額じゃあない。
 美佐子の四十九日を待って、引越しをした。それほど近所付き合
いをしていたわけではないが、それでもこのままここにいるわけに
は行かなかった。

 あれから三ヶ月、巧くいったと思っていいのだろう。今は親子四
人の穏やかな生活である。
「ねえ、良心の呵責ってない?」
「なんで?」
「だって……」
「いいか、俺は何もしちゃあいない。やったことと言えば、洗剤の
ひとつをほとんど捨ててやったって事だけさ。ほんの少しだけ中身
を残してね。そんなの犯罪でも何でもないよ」
 あの日、食事会をしたのは言ってみれば、子供を含めた見合いみ
たいなものだった。子供同士が互いの親になついてくれなくては、
巧くいかないから。
 最初から美佐子は居ても居なくても良かったのだ。だが、彼女に
内緒で、それをするわけにはいかなかった。友美はまだ三歳だ。表
であったことを平気でしゃべってしまうだろう。だから、最初から
公明正大に彼女の目の前でやったのだ。
 あの食事会で決心が固まったのは言うまでもない。
 洗剤を捨てたのだって、必ずしも彼女が注ぎ足して使うと確信が
あったわけじゃあない。だが、シェービングクリームだって何日も
買ってこないようなやつだ。洗剤が足りないからって、わざわざ買
いに走るとも思えなかった。まあ、ずぼらなあいつらしい最後では
あったが。唯一、彼女らしからぬことだったのは、約束どおり、日
曜日に風呂場の掃除をしたことぐらいか。

第7回3000字小説バトル
Entry14

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苦虫

作者 : 鮭二 [シャケジ]
Website : http://members.aol.com/Shakeji/papyrus.htm
文字数 : 3000
「あたしを罰しておくんなさいまし!」
 乱れ髪の女が警備室、通称番人小屋の窓を叩いて私は居眠りから
覚めたのでした。夏の夜、午前2時を少し回ったところでした。
「何です」
 気怠く窓を開けながらも私は内心ほくそ笑みました。夜の10時
から朝の8時まで、ハプニングのひとつもなけりゃ退屈で身が保ち
ません。
「あの、あたし、主人を」
 女は言葉を詰まらせて窓枠に顔を伏せ、微かに嗚咽の声を漏らす
のでした。
 女は上品な浴衣を着ていました。うなじのほつれ髪がしっとりと
肌に貼り付いています。
「奥さん、困りますね。いま何時だと思ってるんですか」
 女はきつく唇を噛み締めて顔を上げ、込み上げてくる激情をよう
やく堪えています。
「あの、あたし」
「分かりました奥さん。ご近所の目もありますから、取りあえず中
に入ってください」
 丑三つ時に近所の目もあったもんじゃありませんが、私は困惑を
装いつつ女を番人小屋へ招き入れ、スチール椅子に座らせました。
「あたしを罰してほしいんです」
 女の視線は落ち着きなく机の上をさまよっていました。
「いいですか奥さん、私はただの番人です。戸締まり確認、火の元
確認、消灯確認、ね、私にできるのはそのくらいなんです」
 女はほつれ髪を手櫛で整えながら言葉を探していましたが、激情
に押し戻されて嗚咽を漏らし始めます。
「奥さん、少し落ち着いてください。ね、しばらく楽にして、そう
して興奮がおさまったらお巡りさんに来てもらいましょう。駅前の
交番に知っている巡査がいますから、ね、奥さん、そうしましょう」
 私は冷蔵庫から麦茶を出して、泣き伏している女に勧めました。
「さあ、冷たいうちに」
 言いながら、白く、木目の細かい襟足の肌を静かに眺めていまし
た。すると女はきっぱりと顔を上げ、一気にグラスの麦茶を飲み干
しました。
「あの、あたし、どうしても番人さんに罰してもらいたいんです」
「いけませんな、奥さん。自首した方が後々のためです」私は女の
グラスに麦茶を注ぎ足しました。「まだお若いんだし」
「35になりました」
「お子さんは」
「いえ、まだ」
「それじゃあなおのことです。あなたの心がけひとつでこれから幾
らでもやり直しがきくんだ」
 女はぐるりと番人小屋を見回してから浴衣の前をきちんと合わせ
ました。
「実は半年ほど前から急に主人の帰りが遅くなりまして、どうも、
他に女がいたようなのです」
 なんだ、そんなことか。私は足を組み、ボールペンでこつこつと
机を叩きました。痴話喧嘩の果ての刃傷沙汰くらいだったらとっと
と追い返してやろうと思いました。
「いえ、あたしもうぶな生娘じゃありませんから男って動物がどう
いうものなのか、ちっとは分かっているつもりでござんす。でもね、
番人さん、ついこのいけない体が、罪を」
「刺しましたか」
「いえ、毎日毎日主人のご飯に少しずつ、混入、いたしました」
 女はまた泣き崩れました。私もつられて身を乗り出します。
「奥さん、そりゃあ酷い、陰湿だ。それで、ご主人の容態はもうよ
っぽどお悪いんですか」
「ええ、もうかなり、顔が引きつってまいりました」
「混入したのは何です、やっぱり、ヒ素ですか」
 女はゆっくりと顔を上げて私を正面から見据えました。ちっとも
泣きはらした様子はなく、懐からマルボロのメンソールを出すと、
うまそうに呑み始めました。
「にがむし、でござんす」
「はあ? 何ですって」
「ですから、苦虫。河原の大きな石をどかすとたくさん取れましょ
う? あの苦虫です」
 私の禿げ上がった額に蝿が一匹止まっていました。女がそこに煙
を吹き掛けると、蝿は私の鼻に移動しました。
「あたしはそれを毎日主人のご飯に混入しておりました。効果はて
きめん、毎日難しい顔ばかりしてたせいでしょうか、女とは切れた
ようです」
 蝿は私の鼻の穴を出たり入ったり、嬉しそうに活動していました。
「なるほど、苦虫、か」
「そう。苦虫をかみ殺した、ね」
「そりゃ理に適ってる」
「あたしも感心。我ながら」
「奥さん!」
 激しく机を叩いて立ち上がると、鼻の穴から蝿が天井の電球に向
かって飛び上がりました。
「奥さん! 私は許せない!」
「ひいっ」と叫んで女は身を固く締まらせます。
「奥さん! 私はあなたを罰します!」
「いやん」
「あなたが罰してくれと言ってここに来たんだ。違いますか」
 女は椅子のパイプを握り締めて後退りします。
「奥さん、罰して欲しいんですね? 返事!」
「はいっ」
「どんな罰でも受けるんですね」
 女は上気した顔で微かに首肯きました。
「じゃあまず、目をつぶってください」
 半開きの口から弱々しい吐息を漏らし、女は目を閉じました。
「次に、椅子に座ったまま両手で机の縁を掴んでください。そう、
頭を垂れて、そうです。いいですか、これから何が起きてもそのま
ま動かないでください。途中で目を開けたり手を離したりしたら、
あなたの罪は一生贖えません」
 言っているそばから、女は椅子の上で尻をもぞもぞ動かしていま
す。
「駄目だ、奥さん! あんたはとんでもない女だ。懲らしめなきゃ
いけない。いいですね。返事!」
「はい!」
「ようし、いい子だ」
 焦らすように、衣擦れの音をたっぷりと女に聞かせながら、私は
制服を脱ぎました。ズボンを机の上に放り投げると、バックルが冷
たい音を立て、女は一瞬眉根に皺を寄せました。
「いいですか奥さん、自分のやったことをよく思い浮べるんだ」
 パンツいっちょうで厳粛に告げると、私はロッカーからタオルを
取り出しました。両端を握り締め、背中に回します。
「奥さん、始めますよ」
 女の背中から汗が染み出し、浴衣をぴったりと肌に貼り付けてい
ました。
「はああああぁぁぁぁっ」
 下腹に力をこめてゆっくりと息を吐き、私は背中を擦り始めまし
た。シュッと鋭い音を立てて、乾いたタオルが肌を熱く焦がします。
タオルの動きに呼応して、女は熱い息を漏らしました。
 シュッ、うっ、シュッ、うっ、シュッ、うっ、シュッ……
「どうです、奥さん」
「ああ、番人さん、後生だから……」
 シュッ、うっ、シュッ、うっ、シュッ、うっ、シュッ……
 繰り返すうちに私の背中はカチカチ山、女の口からはだらしなく
涎が垂れ始めました。
「さあ奥さん、自分の罪をよく認識してください。はあぁぁぁっ」
シュッ。
「番人さん……うっ、あたし……ああ、むうっ……」
「まだまだ!」シュッ。「しっかり思い浮べるんだ! さあ、奥さ
ん、あなたは何をしたんですか」シュッ、シュシュッ。
「あふぅっ、あたしは……はああぁぁんっ、主人のご飯に……あぐ
ぅ、細かくすり潰した、ああっ、苦虫を、ひぃっ……混入、いたし
ました……あぐ」
 それだけ言うと女は腰をわななかせながら気を失いました。私の
タオルにはうっすらと血が滲んでいました。ふと窓の外を見ると、
空が白みかかっています。
「8月15日(終戦記念日)、晴れ、夜の巡回異状なし」
 警備日誌に書き込んで煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吸い込み
ました。
「奥さん、奥さん、もう終わりましたよ」
 肩を揺すると、女はけろっと上体を起こし、大きな欠伸をしまし
た。
「どうもお世話さま。これ少ないけど」と言って女は私に5百円玉
を握らせました。私は制服を着て、有り難くそれを胸のポケットに
収めました。体を動かすと背中がひりひり痛んで、思わず顔が歪み
ます。
「あら番人さん、苦虫」
 女は私の顔を指差して、少女のように笑いました。

第7回3000字小説バトル
Entry15

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お泊まり

作者 : 一之江 [イチノエ]
Website : 海へ行く家族(短篇集)
文字数 : 3000
「うっそー、信じられなーい」と言ってから、好子はつい出てしま
った自分の声の大きさに驚いたふうに、まわりをきょろきょろ見回
して声を低めた。「まじ?」
「そうよ、当たり前じゃないの」と、あたしは平然と答える。「両
方とも学生だもん、あたしたち。割り勘は当然」
 それでも好子は、最後の獲物、サバランケーキをフォークでつっ
つきながら、冗談でしょ、といわんばかりに肩をすくめた。学食の
喫茶室で500円以上も食いやがって。そんな人、あんたぐらいだ
よ。
「そりゃね、あんたんとこはほら、寸留さんが社会人だからさ」と、
あたしは食い下がる。「出してもらってもいいだろうけど、うちは
違うもん。男女平等がモットー」
「まあ、わかるけどさ、あんたのいうことは。でも」
 好子はあきれたようにため息をひとつ。「ホテル代までってのは
普通じゃないわよ」
「なんでよ」
「そういうもんだもの。男が出すのが普通」
「どうして。理由をのべよ」
「理由ってさ、何もかも理屈できまってるってわけじゃないと思う
けど。でもまあ強いていえばさ、男が誘うじゃない、流れとしては
大体。あとまあ、やっぱ、こっちは受け身だし、向こうにお任せっ
て感じでしょ」
「のるわよ、あたし、最近は」
「あのね」
「ちゃんと、食べたりもするわよ」
「ちょっと」
「もう1回、とか、まだまだ、とか、こっちも頼む、とか言うわよ」
「……」
「つまりさあ、ねえ、だって、おかしいじゃないの、全部払わせる
ってのはさ。女だって楽しんでるわけでしょ。なのに、金は出さな
いってのはずるいし」
「ずるい、か。ふう。それで?」
「うん? まあ、ずるいってことよ」
 というところで、その先はやめた、とりあえず。でもさ、あたし
は思うのだ。それって、女は平気で買われてるんじゃないの? 男
に「やらせてあげてる」ってことなんじゃないの? 冗談じゃない
よお。あたしはね、そんな意識じゃやらないよ。やるときゃこっち
だって、一生懸命がんばって楽しむんだから。やって、やって、や
りまくっちゃうんだから!

 てなことを彼に言ってみた。ねえ、そうでしょう? そう思うで
しょう? なのになのに、好子ったらっていうか、女ってばさあ、
意識が低すぎる! プライドがなさすぎる!
「まあさあ、考えは人それぞれだから」
 彼は特に興味もないといった感じで、オンザロックのグラスを口
に運んだ。氷が、からん、と音をたてる。
「だけどさあ、おかしいじゃんよう」と、あたしはスクリュードラ
イバーのおかわりを受け取りながら、やっぱり食い下がる。
「うーん、まあさあ、おねえさんみたいな考えのが、俺は好きだけ
ど。でもさあ、女には出させたくないっての、けっこういるよ。出
させるなんて、男じゃない、みたいなさ」
 なだめるように、彼は言う。なんだよ。
「ふん、やらしい」
「そう?」
「やらしいわよう、そんなの。支配欲。ね。女を支配してるっての
に酔いたいのよ」
「いやあ、べつにそこまで考えてないと思うけど。ちょっと格好つ
けたいんじゃないの? 女性を大切にするっていうかさ、庇うって
いうかさ、どっちかっていうと、そういう感覚じゃないかと思うけ
ど」
「変よ。馬鹿にしてる。勝手に弱い者に設定したりして」
「ふうん。まあさ、そう、あなたのいうとおり、俺はそう思うよ。
そういう考え、素敵だよ」
「ちょっと、真面目に話してるのに」
「真面目さ、俺だって。真面目真面目。感謝してるもん。おかげで
さあ、どれだけ助かってるか」
「あのねえ、ちょっと、そういうふうに思われるのってやだわ」
「なんで」
「もう、そういうんじゃないのよう。あたしが言いたいのは。男と
女が愛しあうってことはあ」
「愛しあう。ふうん、なになに、愛しあうってことは?」
「いいわよ、もう。いいったらいい。知らない」
 なんだよ、もう。馬鹿にしちゃってさ。あたしは、スクリュード
ライバーを一気に飲み干す。おいしいじゃん、甘くってさ。
「おかわり、いい?」
「うん、いいけど」
 彼はすこし眉根をよせる。「へいき? ペース、早くない?」
「へいき、へいき。なんか調子いいみたい、あたし。いっくら飲ん
でも、だいじょうぶって感じ。あははは、いや、へいきだって、や
あねえ。今日は帰らなくっていいんだし、ね、介抱してもらっちゃ
おうかなあ、ねえ」なんて、言っていたら。
 きもちわるい。
「……吐く」
「えっ」と、彼はあわてて、あたしをトイレに連れ込んだ。目の前
が、ぐるぐるぐるぐる、まわっている。ここは、ああ、そうだ、や
っとあいてるのが見つかって、入ったホテルの、トイレ、だ。げっ。
「ああもう」と、彼の苦笑混じりの声が背中でする。「だから、言
ったのに、もう」
 だって、とあたしは言いたくなるけど、それどころじゃない。げ
っ。げっ。フライドポテトの味がする。アンチョビのピザも。あと
ええと、なんだっけ、この味、ああ、卵サンド、おいしかったのに
なあ、こおんな姿になっちゃってまあ、ぜえんぶ、いっしょくただ
ねえ。ああ、入るときのおいしいのは愉快なのに、出てくときのお
いしいのって、なんか不愉快っていうか、もはやなんとなく、おい
しいって感じじゃあないのね。げっ。げっ。
「ううっ」
「だいじょうぶ?」
「う、ん。はあ、はあ、ちょっと、楽になった、はあ」
 あたしは立ち上がると、彼に体を支えてもらいながら、ベッドに
戻った。ばたん、と倒れ込む。
「やっぱなあ、とめるんだったなあ」と、隣にすわりこんだ彼は悔
やむように言って、あたしを見下ろす。
「う、だって、うん、ごめん」
「俺と同じペースじゃ、あぶないんだよ。まあいいや、寝ちゃいな
よ」
「う、ねえ」
「え?」
「してないよね」
「あのね、できないだろ」
「あ、そうだよね、う、ごめんね」
「いいからさ、寝なさい、とにかく」
「う、ん、ご、めんね」
「いいよ」
「お金、もったいないね」
「馬鹿」
「あたし、全部、払おうか」
「馬鹿だな」
 彼はあたしの上に屈みこんだ。
「そういう問題じゃないだろ。男と女が愛しあうってのは」
 やわらかなキスだった。

 だから気持よく寝ていたのだよ、あたしはね。彼のやさしさにつ
つまれて、安らかな眠りについていたってところだ。そおんなさあ、
ホテルに来たからってやるばっかりが能じゃない。寄り添って手を
つないで寝るだけだって、いいんだよ。いいじゃあないか、やらな
い夜があってもいいじゃあないか。おい、そういうことじゃなかっ
たのか。
 ふと、あたしは目を覚ました。何かが、触っている。何か。あた
しの、指が。え。
 あたしは彼の横顔を見つめた。彼は体を少し起して、あたしのお
腹の下あたりを見ていた。あたしの手を握っている。
「なに、してるの?」
 彼はびくっと肩をふるわせてから、あたしを見下ろした。
「あ、起きちゃった」
「……なに、してるの、これ、なに」
 彼は、あたしの指を、あたしのおまたにこすらせていた。
「あ、うん、あのさ、気持いい?」
「……」
「気持いいかなって思って」
「……」
「男もほら、寝ながらっていうのがあるからさ、女の人も、そうい
うの、あるのかなって」
「……」
「寝ながら、いっちゃったりとか、するのかなって思ってさ」
「……」
「だめ?」
「うん」
「そうか、やっぱだめなのかあ」
 彼はあたしの手を離すと、ごろんと仰向けになった。
「変態」
 あたしは大きくひとつため息をつくと、目をとじた。朝、帰るま
でには、きっとなんとかしてやろう。やっぱ、もったいないしな。

第7回3000字小説バトル
Entry16

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茶の湯はなぐさみに候

作者 : 厚篠孝介
Website :
文字数 : 3000
 松永久秀はその七十余年の生涯を反骨と抵抗とに費やした人間で
あった。主君三好長慶を凌駕し将軍義輝までも殺した久秀は、幾度
か信長に降ったものの、事あるごとに信長に抵抗した。義昭と呼応
して謀反したものの失敗し、三たび許されて本拠多聞山城を譲り、
九歳と八歳になった我が子を人質に差し出した。
 その久秀が四度目の謀反を決意したのは天正五年の八月のことで
ある。
 久秀は意を決して本願寺攻めの役目を捨てて領国の信貴城に兵を
退いた。織田に勝てる可能性など皆無だった。それは十分に久秀も
分かっていたはずだ。久秀はそれでも信長に抗わずにはいられなか
った。謀反を知った信長はただちに人質二人を京の六条河原で処刑
して獄門に晒した。
 それと前後して編成された討伐軍二万数千は直ちに大和へ進撃し、
信貴山城を包囲して助命の条件に平蜘蛛の茶釜を出すように迫った
…

天正五年十月十日、大和国信貴城天守
 天守から見下ろす山並みが身を切るような寒風と共に赤く染まっ
てゆく、それを追うように雲は闇へと沈み始める。総攻撃を下知す
る織田の軍太鼓の音が大地から染み出すように、どーん、どーんと
響き始めた。その時、久秀は天守で茶を点てていた。
「将軍殺し」の異名を取り、かつては畿内に覇を唱えた久秀も七十
を過ぎて髪は抜け落ち、わずかに残った髪にも黒いものは無かった。
 今、風炉の上で鳴っている茶釜こそ名器中の名器と謳われる平蜘
蛛だった。武野紹鴎の愛弟子として天下に知れた茶人でもある彼は
茶器の蒐集に情熱を注いできた。それも謀反に失敗する度に、命の
代価として信長に差し出さねばならなかった。その辛さが臓腑で煮
え滾っている。残っているのは平蜘蛛だけである。信長はそれすら
欲しがっている。そのためなら手段を選ばない。信長の態度はいつ
でも明らかに久秀を謀反に誘おうとしていた。そうして許し、茶器
を奪うことで久秀の自尊心に傷をつけ、己の誇りを満足させようと
する。
 誰もが嫌がる本願寺征伐に加えられ、その矢面に立たされ続けた。
その時も久秀の自尊心を傷つけることを忘れない。
「お前は南都の大仏殿を焼いておる。将軍も殺した。それで地獄に
落ちるは必定と言うものじゃ、どうせ落ちるなら、本願寺を誅して
から落ちろ」
そう言って久秀を本願寺征伐に加えたのだった。
(信長め)
憎悪が胸に噴き上がる。長慶、義輝を凌駕したのは戦国のならいだ。
信長とて主家を蹴落とし、一向宗門徒を数万人も虐殺し、義昭を追
放しているのである。地獄に落ちるのは信長の方ではないか。
 ちょっと気を反らした隙に碗が手をすり抜けて落ちた。どろどろ
とした濃緑の湯が畳に広がり、畳の襞を伝って流れるのを見て、久
秀は胸を押さえた。
(あやつはこの度もワシが平蜘蛛を差し出して屈すると思うておる
のじゃ)
久秀は袱紗で畳を拭いた。拭い切れなかった跡が急速に落ちてゆく
日の仄暗さの元で、黒い染みのように見えた。血が固まったような
跡だ。獄門に処せられた息子二人のことが思い浮かぶ。
(広丸、竜法師、すまぬ)
久秀は宿痾の発作が体内で蠢くの感じ、眉を歪ませて必死に耐えた。
その時
「織田より使いが参っておりまする」
小姓の一人が間に入るなり言った。小姓は平蜘蛛を差し出すなら命
だけは許す。と使者の言上を伝える。応じる気など微塵も持ってい
なかった。
「追っ払え」
久秀は小姓をさがらせて再び一人になる。月が闇を破って輝き始め
ていた。今日は十年前に久秀が奈良の東大寺を焼いた日である。
(ワシに因果仏罰でも下す気取りか)
荒くなった息を整えながら久秀は慣れ親しんだ間を眺めた。裏切り
を重ねた人生だけに、彼はどんな人間も信じられなかった。義輝、
長慶の悪夢にうなされた夜も一度や二度ではない。発作の病も裏切
りに怯え、気の休まる時のない日々の中に得たのだ。
(ワシはあやつの態よきなぐさみではないぞ)
久秀は天守に運ばせておいた火薬樽を見た。ここ数日、久秀は天守
にこもってひたすらに茶を点てていた。そうしなければ憎悪が身を
引き裂いてしまいそうだった。
 果ても無く茶を立て続けた。久秀の頭の中にはもはや一念しかな
い。敗北が兵道だけでないことをあいつに思い知らせてやる。人の
意地の辛き味を味わらせてやらねば納まらぬ。平蜘蛛は渡さぬぞ。
何があっても平蜘蛛は渡さぬ。お前が平蜘蛛を欲すれば欲するほど、
貴様が味わう意地は辛くなるのだ。
 思い耽るうちにも太鼓の響きに鉦音や吶喊が混ざり、天地を揺る
がすほどに大きくなってゆく。退路を断つために周辺の村落は残ら
ず放火されて赤く、激しく燃え上がっていた。
 久秀は天守の戸を開け放ってから風炉の前に座った。わずかに欠
けた月が冽直たる光線で畳を一気に染め上げた。
 その光りの瀞ような青さの中で久秀は茶筅を動かした。
 茶を一口含んだ久秀はじっと茶器を見つめた。もう一度飲んで再
び茶器を見つめた。寒風が皺に覆われた顔を打つ。兵の吶喊は益々
勢いを益してゆく。
 破竹の勢いで二の丸を落とした織田軍は本丸にも殺到し、城に突
入を始めていた。嫡男の久通は寡勢でもって織田軍に突撃して壮絶
な最後を遂げていた。あとは敵が天守まで登って来るのを待つばか
りである。
 大筒玉が城を直撃する振動で風炉の上の平蜘蛛がかたかたと鳴る。
 松永家滅亡。その気配は月光に乗って、もはや止めようもなく久
秀ただ一人の天守を包んでいた。
 久秀は茶器を握り締めた。武士のならいなど糞くらえだ。屈辱に
塗り込められた生を長らえ、平蜘蛛までを差し出して信長の機嫌を
うかがって生きることにどんな楽しみが残されていると言うのだ。
ワシは商人の子だ。ワシは己の身一つでここまで上りつめたのだ。
切腹などしてたまるものか。ワシにはワシのやり方がある。
 その時、小姓が息を切って間に入ってきた。
「またか」
「は、直ちに開城し平蜘蛛を差し出すのならば、罪を許し、大和の
本領も安堵、禁裏に奏請し新たな官位も与えると、古今に例無き御
寛恕にござります」
(罪を許すだと!)
目尻が激しく吊り上がる。久秀は直立して言い放った。
「貴様に許してもらう罪など犯した覚えはないと伝えよ」
久秀は激しい発作を押さえながら眼下を見た。山野を埋め尽した二
万数千もの織田兵が名月の光に照らされて波のように動いている。
それを見た時、久秀の中で何かが爆発した。
(それほどまでにこんな茶釜が欲しいか!)
久秀は風炉の上で鳴っている平蜘蛛をつかみ上げた。ジッ、と手の
焼ける音がした。
(安土に豪奢な城を建てたとて、天下あまねく我が物としたとて、
人は必ず死ぬわ!)
久秀はそのまま平蜘蛛を振りまわして湯を撒き散らした。赤々と燃
えている風炉の火を両手で抱え上げ、縁まで戻ると火薬樽にぶちま
けた。そうして城を隙間なく取り囲んだ兵に大音声で叫ぶ。
「畢竟、人は死ぬ。信長!貴様に呉れてやる。この平蜘蛛を呉れて
やる。地獄まで取りに来い!」
火を浴びた火薬樽が不気味な音を立てる。
「茶の湯などなぐさみ程度と覚えおれ!」
その瞬間、凄まじい爆音が轟いて信貴山城の天守が火柱を上げた。
 兵士は唖然として一瞬にして吹き飛んだ天守を見上げた。天を沖
した走り火がその頭上へと降り注ぎ、城は大きく揺らいで業火と共
に崩れ落ちてきた。
 彼等は狼狽し、逃れようとして一目散に走り出す。大地を踏み荒
らす泥だらけの足が闇の底で鉄屑となっている釜を蹴っても、彼等
は気にも留めない。

バトル結果

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訂正。すみません。計算間違いしました。申し訳ありませんでした。
『書き置き21番』しょーじさん作は3票でした。
今回は『茶の湯はなぐさみに候』厚篠孝介さんと同時チャンピオンとさせていただきます。

しょーじさん作『書き置き21番』と厚篠孝介さん作『茶の湯はなぐさみに候』が
同時チャンピオンの座を獲得しました。
しょーじさん、厚篠孝介さん、おめでとうございます。そして、ごめんなさい。



作品
書き置き21番(しょーじ)3
茶の湯はなぐさみに候(厚篠孝介)3
(河野成年)2
そしてわたしと自動販売機は一つになったのだ(百内亜津治)2
19(nineteen)(川辻晶美)1
(さとう啓介)1
クローンのある風景(羽那沖権八)1


書き置き21番(しょーじ)

茶の湯はなぐさみに候(厚篠孝介)

(河野成年)

そしてわたしと自動販売機は一つになったのだ(百内亜津治)

19(nineteen)(川辻晶美)

(さとう啓介)

クローンのある風景(羽那沖権八)