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第8回3000字小説バトル
Entry1

Vサイン

作者 : さとう啓介
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文字数 : 2983
  琥珀色に染まった窓辺に、一枚の古ぼけた写真が小さな額に入れ
られ、そっとこちらを向いている。
いつからそこにあったのだろう。
写真の中には、明るく笑う小さな弟と、無表情の小さな兄がいた。
 窓からは、紫色に光る雲が、遠く沈んで行く夕陽の影を映して最
後の柔らかな光を、この窓に届けてくれている。
 もう一度、彰は写真へ目を向けるが、見る事が出来ない。
力なく持っていた、オレンジ色の袋を居間の床に落とした。
 今日の一日が、彰の全てを変えてしまった。

 昼前に、彰の会社へ、母からの電話があった。
「あきらかい……」
息を引きつらせ、言葉も聞き取れないほどの、弱々しい声で母が話
すのだが彰には聞き取れない。
「どうしたんだ母さん……」
 状況が掴めず、彰は母の乱れる声の中に聞いた病院へ向かう為、
山手線に駆け込んだ。通勤で見なれた風景を逆向きに帰って行く。
品川で乗り換え、横浜で乗り換えた。
朝とは違って、考えていたよりも早く駅に着いた。
 平日の駅。見慣れていない景色に少し戸惑いながら、駅を出てた。
駅前の通りを抜け、病院迄の道のりを彰は走った。
 駅裏では、パトカーの赤色灯が静かに周りの建物を、所々に赤く
光らせては、消えていった。

 5分ほど走った彰は、コートを脱ぎ、手につかんで、汗を拭いな
がらまた走り出した。
息も切れ切れにやっと病院までたどり着いた彰は、もう一度汗を拭
って、病院の玄関を入っていった。
 病院の独特な臭い、彰はいっそう不安を感じた。
その中を彰は、静かに急いだ。
「佐伯ですが、弟が救急車ではこばれたって……」
 やけに白い受付のカウンターが苛立つ心をいっそう不安にさせて
いく。
かなり待たされでもして、急かす様に、もう一度彰が言おうとした
時、後ろから母の声がした。
「あきら……。さとしが……」
 彰は振り返ると、今にも崩れそうな無残な母の表情を見た。
母の肩に両手を差し伸べ不安を振り切る様に、しっかりとした声で
「母さん、さとしは!」
「……」
声にならない母の瞳は、不安に視線を失っていた。
それ以上、母には聞けないと思った。

 母の肩を支えながら、冷たく暗い通路を急いだ。
右手の広くなった場所に、赤いランプで光る「手術中」の文字を見
つけ、彰の表情が硬くなる。
彰の視線は、赤いランプを見つめたまま動けなくなっていた。
 本当なのか? 本当にさとしが事故にあったのか?!
彰の脳裏で、嘘だ、全部夢だ、と思っていた事が、目の前の現実に
なって現れてしまった。
彰はそこに立ち尽くすしかなかった。

 彰の横から白髪の老人が静かに話しかけてきた。
「佐伯聡さんのお兄さんですか、本当に申し訳ない事をしてしまっ
た……」
 老人は頭を垂れ、力なく彰の足元を見つめたまま、今日起こった
事を語り始めた。
 彰はその話を聞き終え、何と言っていいのか、どこにこの気持ち
をぶつければいいのか、やり場の無い気持ちに拳を握りしめた。
その沈黙の中、赤いランプが消えた。
 静かに開けられる扉。
「……さとしは……」
彰はやっとの思いで、小さな声を出した。
薄いグリーンの衣を着た男性の唇が静かに話し始める。
「出来る限りのことはやったんですが……」
母は耐えきれず、その場に崩れた。
 彰の廻りを重く冷たい空気が広がってゆく……

 その後、彰は何を聞いたのか、どうして、どうやって、ここまで
戻ってきたのか、あの瞬間からの記憶が無くなっていた。
ただはっきりしていることは、彰の思い浮かべたくない言葉が、病
院で聞いた最後の言葉だったということだ。

 彰が気づくと、自宅マンションの7階の通路に、オレンジ色の袋
をぶら下げて立っていた。
ずっとそこに居たように感じられるほど、長い時間だった。

 彰はこの風景の変わってしまった居間に一人で戻ってきた。
居間の中は、窓の辺りから、ほんのりと琥珀色に染まっている。
今まで気付きもしなかった小さな写真が目にとまった。
 彰はオレンジ色の袋を落とし、茫然と、そこに立ちつくした……

 その窓の横に下げられた小さな写真に近づくと、彰はその写真の
小さな「さとし」に触れてみる。
ひんやりとしたガラスが、熱くなっている彰の指に伝わる。
 彰は窓を開けた。
紺色に変わりはじめた空に、薄く光る星が見えた。
緩やかに流れる時間、柔らかに吹き込む風。
 彰は小さな写真を握りしめ、そこに座り込んだ。
……さとしのこと、老人の話したこと、を思い出す……

 今年、聡は高校を卒業して、陸上自衛隊への入隊が決まっていた。
両親は「ちゃんと大学を卒業してからでもいいじゃないか」
と、言っていたのだが、聡は
「俺のやりたい事は、自衛隊に入って色んな事を実際にやって、災
害の救援や救助活動なんかの……なんて言うかなー、そう、人のた
めになることをやりたいんだ。それを実際にやっているのは、みん
な高卒だよ、大学行って自衛隊に入ってたんじゃ生ちょろいの」
「でもさとし、大学出て、やっぱりそんなことやってる奴いるぜ、
ほらおまえ覚えてるかどうか解んないけど、翔ちゃんて俺の同級生
のほら、サッカーのキャプテンやってた奴、あいつなんかそうだぜ」
彰はそう言ったが、聡は少し別の事もあったらしく、後で
「うちに、そんな金なんかねーよ、別に大学行ったって金と時間を
使うだけだしさ、俺、わりと親孝行もんなんだぜ」
 聡の清々しい気持ちが思い出される。

 聡は、今日から仮卒で、明後日、御殿場の隊員寮の見学に行くこ
とになっていた。
 駅裏の本屋で雑誌を見ていると、ガラス越しに白髪の老人が小さ
な女の子に何かを言い聞かせている。
その道路の向こう側には、赤や緑や黄色の楽しい色のペットショッ
プが見えていた。
 聡は一冊の本をレジで払い本屋を出てくると、まだ老人と女の子
はそこにいた。
「マンションだから、犬は飼えないんだよ……」
聡は自転車を押しながら、その老人の困り切った顔の横を通り抜け
た。
 その時、女の子の声が大きく言った。
「お爺ちゃんなんか嫌い!」
短く、はっきりとしたその言葉に、聡が振り返ると、女の子が聡の
横をさっと、すり抜けた。
 聡には、右側から爆音を響かせるバイクが、かなりのスピードで
やって来るのが見えた。考える余裕など無かった。
聡は自転車をほうりだし、女の子に駆け寄り、抱締めるのがやっと
だった。
 バイクはタイヤの叫ぶ音と共に横向きに激しい音を立てて倒れ、
火花を散らしながら物凄い速さで、振り返る聡の後ろから襲いかか
ってきた。
 一瞬だった。虚しい悲鳴の中、聡の身体は女の子を抱締めたまま
不自然な形で宙を舞った……。

 全てが息を呑む静けさの中で終わった。

 彰は冷たくなったベランダに座り込んだまま、写真を抱え、唇は
小刻みに震えている。
 居間の床の上には、老人が「聡君の物です」と渡してくれた、オ
レンジ色の袋。虚しく少しはみ出している本。
聡が最後に買った本だった。『救急医療のてびき』

 彰はもう一度写真をみつめる。
あきらのジュニアサッカーの応援に来た時の、さとしの幼い笑い顔
が、頬から落ちる雫でぼやけている。
 彰はその写真を袖口で拭いながら、めいっぱいに、そして出来る
だけの笑顔を作り、写真のさとしへ呟いた。

「さとし、良かったな……あの女の子は、無事だったてさ……」

 あきらの腰に小さな右腕を伸ばし、
左手でVサインをした、さとしの笑顔。
 眩しいぐらいに、彰の深くて暗い心を、照らしつづけていた……。