第8回3000字小説バトル
Entry15
私は、夫を愛している。 夫も、私を愛している。 光子は、何度も何度もつぶやいた。幸福を約束してくれる呪文の ように。唯一の真理であるかのように。 光子の夫は10歳年上で、仕事の都合で全国各地を転々としつつ、 20年来1人暮らしをしてきた。 初めて会った時に、転勤は定年まで続くこと、ゆえに家を持つのは 定年後になること、住宅は全国に社宅があること、などの話をされ、 それでも構わないだろうか、と尋ねられた。 仲人から、夫が社内では幹部候補生であることを既に聞かされて おり、社会で成功しつつある男から必要とされることは、光子のプ ライドを十二分に満足させるものだった。 光子は、自分の返答を待っている目の前の男に、我ながら驚くほ ど急速に好意を覚えたのだった。 結婚前、6回目のデートの時、夫はごく自然に光子をホテルへ誘っ た。光子は処女だった。緊張で息が詰まるひとときだったが、それ よりも他人との肌の触れ合いによる感動は大きく、総てを相手に委 ねかつ受け入れるという行為の心地よさに光子は夢中になった。夫 は、30歳の光子が処女であったことを素直に驚き、喜び、愛おしん でくれた。光子は、幸せだった。 結婚休暇も今日で最後、という日の夜、突然、夫は光子に告げた。 唐突に、と言ってもいいくらいに、それは出し抜けに語られた。 ・食事は総て和食、一汁三菜を基本にすること ・ダシは昆布とかつお節でとること ・なるべく添加物の無い調味料を使うこと ・出来合いの惣菜は一切買わないこと ・出勤の際は弁当を作ること 以上の旨を言い終わった時、夫はほっとしたように安堵の表情を 浮かべたが、聞かされた光子は、さっきの夕食に奮発したステーキ とワインが喉元から逆流しそうな気分になった。 しかし、要求されるのは悪いことではないはずだ。 最悪なのは、無関心なのだから。 少なくとも夫は私に期待をしている。そうだ。期待に応えたい。 応えることで、愛情を示すべきなのだ。 そこまで考えるに至って、光子はようやく心の落ち着きを取り 戻した。 明日から頑張らなくちゃ。 光子は、ふと寝返りをうった。すると、それを待っていたかのよ うに、夫が身体を寄せてきた。性急で短いセックスだったが、なぜ か光子は、いつになく強い快感を覚えたのだった。乾き過ぎた喉を うるおす水の味ほどではなかったが。 翌朝、光子は5時に起き、7時に家を出る夫のための弁当と一汁三 菜の朝食の用意に奮闘した。 夫は6時15分きっかりに起床してくると、光子に日本茶を要求し た。緑茶を、との言葉に、やっと一息つかんとしていた光子は飛び 上がって、薬缶に水を入れ火にかけた。お湯は、朝一番に沸かして おくものだ、と、広げた朝刊の向こうから夫が言った。淡々とした 声だった。光子は、すみません、と小さく答えるのが精一杯だった。 ふと気がつくと、夫の姿が食卓から消えていた。 慌てた光子が奥の部屋へ行くと、夫はさっさと一人で身支度を終 えたところだった。夫は、無表情だった。 間の悪さに、光子はいたたまれなかった。 その朝、7時きっかりに夫を送りだした後、光子はかつてない疲労 感を覚え、しばしの間玄関先に座り込んでいた。 だが、食卓を見た時の衝撃は、それに勝っていた。 光子がなけなしの智恵を絞って作った大根の味噌汁と卵焼きとお 浸しは、それぞれひと箸つけただけで残されていた。白飯と焼き海 苔だけが無くなっている。慌てて入れた緑茶もほぼ手つかずという 有り様だった。 気を取り直し、反省の気持ちを込めて、光子は夫の残り物で自分 の朝食をとった。 なるほど、確かに味噌汁のダシは夫の希望とは異なり煮干しだっ たし、卵焼きを作る時ついついうまみ調味料をひと振りしてしまっ た。ほうれん草はやや茹で過ぎで色も悪く、使った醤油は夫の希望 とは異なる大手メーカーのものだった。とどめは、正しい入れ方を 知らない緑茶で、色も薄く香りは失われていた。 それにしても、ほとんど、残すなんて。 でも、もしも、夫が、これを全部残さず食べていたとしたら? 私は、喜んだだろうか? 夫の、本当の気持ちに気づきもせずに? 違う。残してくれて良かったのだ。夫は、自分に、もっといい妻 になって欲しいと願っているのだ。期待してくれているのだ。 期待されている、という思いが、気持ちの滞りの総てを解決する ような気がした。期待に応えたい。頑張らなければ。 それに。 20年も独身生活をしてきて、せっかく結婚した妻が、こんな食事 しか作れない女だったなんて。夫は優しい人だから今まで何も言わ なかったけれど、きっととてもショックだったに違いない。夫は自 分を愛してくれている。愛してくれているからこそ。 今日は、やることがたくさんあるわ。 新婚旅行の荷物を全部ほどき終わっていなかった。まず、あれを 片付けよう。その前に布団をたたもう。 光子は、寝室に入りかけて、足をとめた。 布団はすでに押し入れに片付けられていた。がらんとした部屋の 隅に、布団のカバー類と夫のパジャマきちんとたたまれ、置かれて いた。 カバー類は、毎日取り替えること。 夫の声が、聞こえたような気がした。 まず、洗濯を、しなくちゃ。 光子は、頭の中が混乱した。 それとも、晴れているから、まず布団を干した方がいいかしら。 布団を、干そう。 敷き布団だけ?それとも掛け布団も? ふすまを開け、夢中で布団をひきずり下ろし、勢い余って尻餅を ついた。下の段に、旅行荷物が詰まっていたはずのトランクがしま われていた。 洗濯機を、回さなければ。 あたふたと洗濯機に水を入れ、洗剤を計っている途中で、布団を 干しかけていたことを思い出した。 布団、干さなくちゃ。 乱暴に突っ込まれた洗剤の計量カップが勢い余って、ざらあっと、 辺りに洗剤をまき散らした。 いけない。 雑巾を手にとった瞬間に、布団を干す前にフェンスを拭かなけれ ば、と思いつき、そのままベランダへ飛び出した。 ベランダは、箒の跡目が残るほどに掃き清められており、せっか く拭いた雑巾には、ほとんど汚れがついてこなかった。 掃除したのは誰か。決まっている。 惚けたように、光子はベランダにたたずんだ。 足下に取り落とした雑巾から水分が滲み出して、じわじわと黒っ ぽいシミがコンクリートの上に広がった。 電話が、鳴っていた。 ぼんやりと電話の方を見やった光子は、突然弾かれたようにサン ダルを脱ぎ捨て、受話器を取った。夫からだった。 8時半頃に帰宅予定、とのことだった。 時計は、いつのまにか10時にならんとしていた。 あと、10時間もない。 光子は、財布を胸にかき抱き、必死の形相で玄関を出た。 無添加の、醤油と、昆布と、かつおぶしと。 駅前のスーパーへと急ぐ途中、何度も足がもつれて転びそうになっ た。光子は、いつのまにか全速力で走っていた。 何人かの人が振り返って光子のことを見た。 光子の眼にはいま、何も映っていなかった。何も見えない。聞こ えない。 スーパーのカゴを手に取ろうとして、突然、窓も、玄関も、一切 の施錠をしてこなかった事に気がついた。 光子は、その場で気を失った。