第8回3000字小説バトル
Entry19
信長がふと目を覚ますと屋根を打っていた雨音が、いつしか混乱 の声に変わっていた。 蔀戸が勢いよく繰られると、月光が闇を切り裂いて射し込み、そ の横顔を青く浮かびあがらせた。 光秀が謀反にござりまする! 勢いに任せて叫んだ蘭丸は、その後で主人の目に異様な光りが灯 っているのに気付いた。 (殿は御覚悟召されたか) そう思わせたほど主人の目は静かで、いつも筋金を入れたように 膨らんでいる額の青筋も見当たらなかった。 「蘭丸の初陣にございます」 蘭丸は落ちついてそれだけ言うと、中天で微茫のいろを放つ月を 仰いで、飛び出していった。 閉じ忘れた蔀戸に夜の名残を刷いた月だけが残された。 信長は自ら立って戸を閉じた。間は再び闇に返り、鬨も曇ったよ うに低くなった。 壁に立て掛けられた刀を把り、抜く。 へし切り長谷部 刀身に冴えた直刃の刃紋が濡れたように光っている。地鉄も摺上 も上等だが、最上ではない。名鍛冶の仕事にふと現れた、人がい かに冷徹に徹しても消せない甘さのために最上になり損ねた刀… 始めは折れても構わぬ程度に使い始めたが、いつしか、その点睛 を欠くことに愛着を覚えた。 戦場で殺戮の円弧を描く時、この刀は最上に挑むような恐るべき 切れ味を見せ、生血と、それに込められた業念を貪欲に吸おうとす る。 (未熟なやつよ) 信長は心中で唸ってから刀を収め、布団の上に座った。 (ワシは何を欲して、ここまで来たのか) ふと思った。 (人が死を逃れられぬことなど、知っていたはず、それなのにワ シはなぜ…) 光秀謀反の理由など考えなかった。死ぬと分かった以上、その 理由などを知った所で意味のないことであった。 (なぜ、ワシは天下人になろうと思った…) 信長が思い出すのは、覇道とは名ばかりの辛酸悩苦に満ちた道だ。 全てを捨てて遁世したい衝動を幾度こらえただろうか、自害へ の憧れをどれほど押し殺したか。 尭の如き仁君にならんとしたわけでも、王莽の如く王位簒奪を夢 見たわけでもなかった。 (まだすべきことがある) それだけを思って、ここまでやってきた。 けれど、そのすべき事とは何だったのか。 塀が崩れ、乱入する敵の足音が信長をはっと我に返した。 (舞うか) こんな時にそう思ったのは不思議な事であった。小姓と一丸とな って突破すれば生きる望みはあったかもしれない。 が、信長がした事は深い闇に沈んだ間の中で、一人舞う事であ った。 人生五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとく 万余の敵を屠り、安土に城を建てた。古い秩序を叩き潰してや った。旧弊な風習を破ってやった。この国で誰も成し得なかった ことを成してやった… (やめだ) はたと舞うのを止めた。 人生は夢幻のごとくだと。ふざけるな、信長はここにいる。黄 金の上に胡座をかき、弟を殺し、妹婿の髑髏で酒を飲み、従わぬ 民衆は皆殺しにした。それが全て夢だと言うのか。滅亡の恐怖に 眠れなかった夜が夢だと言うのか。 そんな言葉は弱き人間の遁辞、世迷い言に過ぎぬ。 (まだ存分に生きたとは言えぬ) 我が才を持ってすれば、天下統一など、ごく、当然であった。 敵の気配が少しずつ寄せてくる。それを食いとめようとする小姓 の叫び、森蘭丸の雄叫びとも聞こえる絶叫が、膨大な闇に紛れた 蔀戸の向こうからした。 (ワシが成したかったこと、それは才能を試すことよ。織田信長 という一人の男が、儚き一生のうちにどこまでできるのかを、そ れを知りたかっただけよ) 良く出来た芸術品を壊すような、六十年かけた天下統一の夢を叩 き潰すような、凄惨な悦びが、さすがに老を隠せない信長の体に 走った。 (そろそろ、ゆかねばなるまい) 「蘭丸!」 体に矢を刺したままの力丸が転がるように入ってきた。 「兄はたった今、討死いたしてござりまする」 「そうか…弓じゃ…弓を寄越せい!」 重藤の弓を握り締めた信長は戸を開いた。月は本堂前の庭に入り 乱れて戦う男達に便を与えるかのように皎々と輝いている。 信長は弓を引き絞る。 いくつも放たぬうちに弦がびんと鳴って切れた。 その時、障子を突き破って繰り出された槍が信長の脇腹に食い込 んだ。その衝撃に信長は大きくよろめき、縁に倒れた。次の一撃が こめかみを掠めて縁板に突き刺さった。 (こんな雑兵に殺される男なのか、ワシは!) かっと信長の血が燃えた。 「下郎が!ワシの首を望むなら、ワシが成した事の万分の一でも 成してからにせい!」 弭槍で雑兵を突き倒した信長は鮮血に染まった閨着を翻して立っ た。 「おみゃーらに、ワシが如何なる男かを、男冥利とは何たるかを 教えてやるぎゃ!」 鉦を打つような信長の甲高い声が響いた。信長はそのまま奥間の 愛刀を押取ると金箔を散らした障子を蹴破って外に出た。 じゃっと刀が柄走る音がした次の瞬間、信長が飛んだ。 縁から鮮血の尾を曳いて庭に下りると、雑兵が怒涛のように群が ってきた。信長は切った。羅刹の如く、際限もなく、無心の裡に 切り続けた。 信長の首によって一躍の出世をはかる者は、脳漿を散らし、臓物 を流し、また四肢を切断されて次々に落伍してゆく。 (手が着けられん) 男達はまさに魂の消える思いだった。 血まみれになって戦い続ける信長の姿は明らかに人間の領分を超 えた挑戦そのものだった。その生涯を貫いた、けた違いのエネル ギーだった。 男達は圧倒される。 人間には格の差がある。草の根を噛んで生きているような自分達 とは決定的に違う物があることを思い知らされる。 この男の眼は自分達と切り結びながら、自分達を見ていない。光 秀でもない。一向宗門徒が拝む木偶人形でもない。 天。天への挑戦。そう勘付いた時、体は魂とともに震える。 どれほど切っただろうか――。 信長の太刀は切るほどに冴え渡り、一点の濁もなく澄んでゆく。 刀傷はその体に無数に走った。閨着はもはや襤褸になり、返り血 と出血は到底、生きているだろうとは思われなかった。 「うぬ、さすが信長。簡単に首は獲らせぬか、この俺が相手して やる」 刀を閃かせて踊り出た巨躯にも、信長は一瞥もくれなかった。 「こちらを見ろ!」 男は言うなり突進し、信長の脳天めがけて激しく刀を叩き落とす。 ―殺った!― 誰もがそう思った。 けれど神速に見えた太刀は外れ、信長の太刀は男の腹を深々と刺 し貫いた。 見守る雑兵たちはその一部始終を舞でも見るような、信じられ ぬ、けれど爽快すら感じながら見た。 刀は男の体を支えながら、それを扱う男と共に静かに止まって いた。 「撃ち殺せ!」 鉄砲を構えた兵が彼を取り巻いた。 鉄砲!?けれどこの男なら…そう思ったのも無理はない。それほ どまでに彼の姿は、猛々しく凛としていた。 信長は握っていた手を柄から解き放った。 刀は男の腹に刺さったまま地に触れ、満足そうな音を立てて折れ た。 信長は何も持たぬ手をだらりと下げて、ゆっくりと空を見上げた。 「ふははははは…」 高く澄んだ笑い声が天高く響いた。 声は銃声にかき消され、男は後ろへと吹っ飛んだ。男はゆっく りと立ち、縁をあがり、蔀を開いて、その奥に渦巻く火焔の中へ と進んで行った。 襤褸を脱ぎ捨て、褌ひとつになって座った。短刀を左腹に添え て (是非もなし) そう思った。 それは決して光秀に発せられた物でなかった。人は天から与えら れた宿業を脱することが出来ぬのだという、諦念の言葉であった。 腹を掻き切って前のめりに倒れた男の残滓を包むように炎は崩 れる。 舞上がる火の粉は天に届くより早く燃え尽きて消えた。