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第8回3000字小説バトル
Entry9

おかえり

作者 : 石井和孝
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文字数 : 1689
 榊信次が、窓を開けると、吹き込んできた風がそのまま玄関の方へ
流れて、恵の髪が少しだけ揺れた。
 玄関の上がりかまちに腰掛け、壁にもたれている恵の肩には白いタ
オルケットがかけられている。その肩にほんの少しだけかかった髪の
毛の先がタオルケットの表面に絡まり、それが飛び立つように離れる
のが見えたと思ったのは、榊が今まで幾度となくそんな恵を見つめて
きたからだった。
 窓から吹き込んでくるもう冷たくなっている風は、かけっぱなしだ
った洗濯物を揺らし、少し遠くの踏み切りの音を運んでくる。多分あ
れが最終だろう。
 榊は洗濯物を物干しから引っ張って、はずした。一枚はずすたびに
洗濯挟みがピチリと音を立てる。取り合えず足元に洗濯物を置いた後、
ゆっくりと窓を閉めた。
「サカキ」と呼ぶ声が聞こえた。
 恵の声だった。結婚した後もひとつ年上の彼女は他の誰とも違うイ
ントネーションで榊をこう呼んだ。振り返ると恵は壁につけた頭はそ
のまま、その壁を床にして寝ているみたいにごろりと頭を転がして榊
を見つめた。
「どb。
「うん、大分いい」
 しかし、その声は呼吸に合わせて吐き出されるようでひどくゆっく
りとしている。
「ねえ、サカキ」
「吐く?」
「違aA。今、何時?」
榊は腕時計の針が一時をさしているのを確かめ、答えた。
「そんなuB
呟いて恵が眼を閉じると隣の部屋のドアの開く音がした。
ふたりはその音が止むまで少し黙った。やがて鍵をかける音がして、
遠ざかる足音を聞いた。
「おとなりcEんは今日もバイトか…」
 立ち上がって、榊は、ああ、とこたえ、足元の洗濯物を蹴飛ばした。
恵の後ろまで歩いて立ち、その足音に聞きいるようにドアを見つめた。
金属の階段を降りる足音が響き、聞こえてきた。恵はずっと高いとこ
ろにある榊の顔をふりあおぐのも億劫だという感じで再び前を向い
た。その恵の目の前を長いからだを折りたたむようにした榊の上半身
がよこぎる。足元に置いてあるバケツを持ち上げるのだと気づいた恵
は体をちょっと端に寄せた。顔の前を通ったバケツのにおいに少しだ
け顔をしかめた。
 トイレの方にバケツを持っていく榊をみるように首を仰向けにそら
して、恵はそのまま床に寝転がった。そうして天井をむいたままトイ
レの水を流す音を聴きながら再び目を閉じた。トイレの水の音は2回、
3回と続いてようやく止まった。
 恵は閉じた目に感じるライトの光が遮られて榊がすぐうえにいるこ
とを知った。目を閉じたままで起き上がり、座ると強い痛みが戻って
きて、しばらく、体全体の力を抜いて壁にもたれる。
「寝るか」
 問い掛ける榊の声ですら受け答えが面度臭くてならない。ゆっくり
息を吐いて吸い込む。大丈夫だ。吐き気はない。悪いなと思う。でも
本当に痛いのだ。恵はゆっくりと呼吸をして、その問いには答えなか
った。
 榊は恵の様子を見て黙って落ちたタオルケットを拾った。
 そして、上がりかまちの恵が寝ている反対側の端、ようやく一人座
れるくらいの幅に座り込んだ。長い体を折りたたんで座るその姿まる
で体育座りのようだった。
 ずっと黙っている榊を恵は正直うっとうしいと思う。しかし、近く
に榊が居ると思うと落ち着けた。かすかな榊の匂いも恵を安心させた。
吸って吐いてそれ一回で3、4秒かかるような呼吸を何度か繰り返すた
びに頭痛は治まっていった。でも、まだ榊の方に首を向ける気力は無
い。頭を移動させると痛みが増した。
 勝手だなと思いもしながら一晩中榊にそこにいてくれないかと思っ
た。
 指一本分ぐらい離れていた自分の右腕と榊の左腕を触れ合うように
した。そこが暖かかった。
 そして、ほんの少し汗さえ出始めたころ浮かんできた自分の考えに
恵は笑った。
――手を握って
 恥ずかしいと思いながら、ふと、そんなことを考えた自分がなんと
なくうれしくもあった。でも声にだしはしなかった。ただ、ほんの少
し触れ合う腕に力を込めただけだった。
 強い痛みはなかったが、心臓の鼓動にあわせて目の奥の鈍痛だけは
続いていた。恵は首を巡らし榊を見た。
 目が合った。じっとこちらを見詰めていた。榊は目を伏せた。伏せ
なくてもいいのに、恵は思った。
「サカキ」
 榊は再び顔を上げた。
ゆっくりとなるべく優しく聞こえるように恵は言った。
「ただい・。
 一枚の羽が水面に落ちるときのようにゆっくりとほほえみ、ただ黙
って、榊は何度もうなずいた。






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