| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | Vサイン | さとう啓介 | 2983 |
| 2 | ヤマグチ君 | やす泰 | 2739 |
| 3 | 夢恋愛 | 森田英一 | 2991 |
| 4 | モニターな僕 | 有馬次郎 | 3000 |
| 5 | ジャッジメント | 佐藤ゆーき | 2991 |
| 6 | ※作者希望により削除 | ||
| 7 | 天国まで | ウエダー末吉 | 2460 |
| 8 | 土砂の中 | のぼりん | 2940 |
| 9 | おかえり | 石井和孝 | 1689 |
| 10 | 残酷な仕打ち | スズキ | 2789 |
| 11 | あたしってちょっとマリアさまみたいじゃない? | 秋間山飛 | - |
| 12 | スリーセブン | ラリッパ | 2995 |
| 13 | 消える | 太郎丸 | 3000 |
| 14 | 遺書を書く右手 | 伊勢 湊 | 3000 |
| 15 | 光子の結婚 | やまだ小麦也 | 2975 |
| 16 | 爆進! ★ | しょーじ | 3000 |
| 17 | 見切り師 | 羽那沖権八 | 3000 |
| 18 | 別れの序曲(第1章) | 鈴木真二 | 2882 |
| 19 | 燎原 | 厚篠孝介 | 2996 |
| 20 | ACT | ニムラ | 3000 |
琥珀色に染まった窓辺に、一枚の古ぼけた写真が小さな額に入れ られ、そっとこちらを向いている。 いつからそこにあったのだろう。 写真の中には、明るく笑う小さな弟と、無表情の小さな兄がいた。 窓からは、紫色に光る雲が、遠く沈んで行く夕陽の影を映して最 後の柔らかな光を、この窓に届けてくれている。 もう一度、彰は写真へ目を向けるが、見る事が出来ない。 力なく持っていた、オレンジ色の袋を居間の床に落とした。 今日の一日が、彰の全てを変えてしまった。 昼前に、彰の会社へ、母からの電話があった。 「あきらかい……」 息を引きつらせ、言葉も聞き取れないほどの、弱々しい声で母が話 すのだが彰には聞き取れない。 「どうしたんだ母さん……」 状況が掴めず、彰は母の乱れる声の中に聞いた病院へ向かう為、 山手線に駆け込んだ。通勤で見なれた風景を逆向きに帰って行く。 品川で乗り換え、横浜で乗り換えた。 朝とは違って、考えていたよりも早く駅に着いた。 平日の駅。見慣れていない景色に少し戸惑いながら、駅を出てた。 駅前の通りを抜け、病院迄の道のりを彰は走った。 駅裏では、パトカーの赤色灯が静かに周りの建物を、所々に赤く 光らせては、消えていった。 5分ほど走った彰は、コートを脱ぎ、手につかんで、汗を拭いな がらまた走り出した。 息も切れ切れにやっと病院までたどり着いた彰は、もう一度汗を拭 って、病院の玄関を入っていった。 病院の独特な臭い、彰はいっそう不安を感じた。 その中を彰は、静かに急いだ。 「佐伯ですが、弟が救急車ではこばれたって……」 やけに白い受付のカウンターが苛立つ心をいっそう不安にさせて いく。 かなり待たされでもして、急かす様に、もう一度彰が言おうとした 時、後ろから母の声がした。 「あきら……。さとしが……」 彰は振り返ると、今にも崩れそうな無残な母の表情を見た。 母の肩に両手を差し伸べ不安を振り切る様に、しっかりとした声で 「母さん、さとしは!」 「……」 声にならない母の瞳は、不安に視線を失っていた。 それ以上、母には聞けないと思った。 母の肩を支えながら、冷たく暗い通路を急いだ。 右手の広くなった場所に、赤いランプで光る「手術中」の文字を見 つけ、彰の表情が硬くなる。 彰の視線は、赤いランプを見つめたまま動けなくなっていた。 本当なのか? 本当にさとしが事故にあったのか?! 彰の脳裏で、嘘だ、全部夢だ、と思っていた事が、目の前の現実に なって現れてしまった。 彰はそこに立ち尽くすしかなかった。 彰の横から白髪の老人が静かに話しかけてきた。 「佐伯聡さんのお兄さんですか、本当に申し訳ない事をしてしまっ た……」 老人は頭を垂れ、力なく彰の足元を見つめたまま、今日起こった 事を語り始めた。 彰はその話を聞き終え、何と言っていいのか、どこにこの気持ち をぶつければいいのか、やり場の無い気持ちに拳を握りしめた。 その沈黙の中、赤いランプが消えた。 静かに開けられる扉。 「……さとしは……」 彰はやっとの思いで、小さな声を出した。 薄いグリーンの衣を着た男性の唇が静かに話し始める。 「出来る限りのことはやったんですが……」 母は耐えきれず、その場に崩れた。 彰の廻りを重く冷たい空気が広がってゆく…… その後、彰は何を聞いたのか、どうして、どうやって、ここまで 戻ってきたのか、あの瞬間からの記憶が無くなっていた。 ただはっきりしていることは、彰の思い浮かべたくない言葉が、病 院で聞いた最後の言葉だったということだ。 彰が気づくと、自宅マンションの7階の通路に、オレンジ色の袋 をぶら下げて立っていた。 ずっとそこに居たように感じられるほど、長い時間だった。 彰はこの風景の変わってしまった居間に一人で戻ってきた。 居間の中は、窓の辺りから、ほんのりと琥珀色に染まっている。 今まで気付きもしなかった小さな写真が目にとまった。 彰はオレンジ色の袋を落とし、茫然と、そこに立ちつくした…… その窓の横に下げられた小さな写真に近づくと、彰はその写真の 小さな「さとし」に触れてみる。 ひんやりとしたガラスが、熱くなっている彰の指に伝わる。 彰は窓を開けた。 紺色に変わりはじめた空に、薄く光る星が見えた。 緩やかに流れる時間、柔らかに吹き込む風。 彰は小さな写真を握りしめ、そこに座り込んだ。 ……さとしのこと、老人の話したこと、を思い出す…… 今年、聡は高校を卒業して、陸上自衛隊への入隊が決まっていた。 両親は「ちゃんと大学を卒業してからでもいいじゃないか」 と、言っていたのだが、聡は 「俺のやりたい事は、自衛隊に入って色んな事を実際にやって、災 害の救援や救助活動なんかの……なんて言うかなー、そう、人のた めになることをやりたいんだ。それを実際にやっているのは、みん な高卒だよ、大学行って自衛隊に入ってたんじゃ生ちょろいの」 「でもさとし、大学出て、やっぱりそんなことやってる奴いるぜ、 ほらおまえ覚えてるかどうか解んないけど、翔ちゃんて俺の同級生 のほら、サッカーのキャプテンやってた奴、あいつなんかそうだぜ」 彰はそう言ったが、聡は少し別の事もあったらしく、後で 「うちに、そんな金なんかねーよ、別に大学行ったって金と時間を 使うだけだしさ、俺、わりと親孝行もんなんだぜ」 聡の清々しい気持ちが思い出される。 聡は、今日から仮卒で、明後日、御殿場の隊員寮の見学に行くこ とになっていた。 駅裏の本屋で雑誌を見ていると、ガラス越しに白髪の老人が小さ な女の子に何かを言い聞かせている。 その道路の向こう側には、赤や緑や黄色の楽しい色のペットショッ プが見えていた。 聡は一冊の本をレジで払い本屋を出てくると、まだ老人と女の子 はそこにいた。 「マンションだから、犬は飼えないんだよ……」 聡は自転車を押しながら、その老人の困り切った顔の横を通り抜け た。 その時、女の子の声が大きく言った。 「お爺ちゃんなんか嫌い!」 短く、はっきりとしたその言葉に、聡が振り返ると、女の子が聡の 横をさっと、すり抜けた。 聡には、右側から爆音を響かせるバイクが、かなりのスピードで やって来るのが見えた。考える余裕など無かった。 聡は自転車をほうりだし、女の子に駆け寄り、抱締めるのがやっと だった。 バイクはタイヤの叫ぶ音と共に横向きに激しい音を立てて倒れ、 火花を散らしながら物凄い速さで、振り返る聡の後ろから襲いかか ってきた。 一瞬だった。虚しい悲鳴の中、聡の身体は女の子を抱締めたまま 不自然な形で宙を舞った……。 全てが息を呑む静けさの中で終わった。 彰は冷たくなったベランダに座り込んだまま、写真を抱え、唇は 小刻みに震えている。 居間の床の上には、老人が「聡君の物です」と渡してくれた、オ レンジ色の袋。虚しく少しはみ出している本。 聡が最後に買った本だった。『救急医療のてびき』 彰はもう一度写真をみつめる。 あきらのジュニアサッカーの応援に来た時の、さとしの幼い笑い顔 が、頬から落ちる雫でぼやけている。 彰はその写真を袖口で拭いながら、めいっぱいに、そして出来る だけの笑顔を作り、写真のさとしへ呟いた。 「さとし、良かったな……あの女の子は、無事だったてさ……」 あきらの腰に小さな右腕を伸ばし、 左手でVサインをした、さとしの笑顔。 眩しいぐらいに、彰の深くて暗い心を、照らしつづけていた……。
痛い、痛い。ヤマグチ君が僕の頭を壁に叩きつける。痛い、痛い。 部屋にはゴンゴンというくぐもった音が響いた。 僕が悪かったんだ。ヤマグチ君は、僕が美樹ちゃんのことを好き になってしまったことが、きっと気に入らないのだ。 「ナオちゃん。どうしたの。」 急におばあちゃまが入って来たので、ヤマグチ君はするりと部屋 を抜け出すと、家に帰ってしまった。 「まぁ、ナオちゃん。いったいどうしたっていうの。」 僕のおでこには瘤ができて、その先が少し切れて血が出ていた。 だけど僕はヤマグチ君のことを話さなかった。ヤマグチ君は、自分 のことについて話をされるのが好きじゃない。だから僕はずっとヤ マグチ君のことを黙っていた。 子供の頃、僕は小児ぜんそくで、おまけに小学校に行ってからも おねしょをする癖があった。両親が離婚したため、僕のうちはママ とおばあちゃまと僕の三人暮らしだった。ママは会社を経営してい て、いつも夜遅くまで帰って来なかった。 その日、おばあちゃまは、かなりご機嫌ななめだった。たぶんマ マとケンカをしたのだろう。ママとおばあちゃまは、時々大きなケ ンカをする。でも、そんな日に限って、僕はまたおねしょをしてし まう。しかたなく僕はとなりの部屋にねているおばあちゃまを起こ した。おばあちゃまはぶつぶついいながらしーつと布団を換えて、 僕のお尻をお湯で拭いてくれた。 「今度おねしょしたら、ちんちんをハサミでちょん切ってしまいま すからね。」 僕は、とてもびっくりした。怖くてとっさに嘘をついた。 「僕じゃないよ。僕は、おねしょなんかしていないよ。誰かが僕の ベッドに入ってきて、その子がおねしょをしたんだよ。」 僕は、嘘をついたことを、このあとずっと後悔した。 ヤマグチ君に初めて会ったのは、僕がたしか熱を出して寝ていた 時だった。僕は耳まで熱くなってベッドに寝ていた。熱を測りに来 たおばあちゃまの手がとても冷たくて気持ちがよかった。 おばあちゃまが部屋から出て行くと、ドアの所に男の子がニコニ コ笑って立っていた。髪の毛が少し長くて、ベネトンの薄紫色のト レーナーを着ていた。そのトレーナーは、僕も持っていたので、僕 はほんの少し嬉しくなった。その子が、ヤマグチ君だった。僕の学 校のクラスにもヤマグチ君がいるけれど、その子とは別のヤマグチ 君だった。 僕はヤマグチ君のことがすぐに好きになった。僕とはちがう学校 に行っているので、昼間は会えないのだけれど、僕が家にいる時は よく遊びに来る。僕と同じ遊びをして、たいてい夕ご飯になると帰 ってしまう。でも、時々は僕が寝るまでいてくれることもあった。 二人で外に遊びに行くこともあったけれど、ヤマグチ君はたいてい 途中で帰ってしまう。僕が相手をしてあげないと不満らしい。僕が 他の子と遊んでいると、急に姿が見えなくなってしまうのだ。 ヤマグチ君はとても親切だったけれど、時々ひどい意地悪をした。 僕が悲しかったり、淋しかったりすると、冷たい目をして僕を睨ん だ。そして、僕の手を取ると、指を口の中に入れてガリガリと噛ん だ。ヤマグチ君が噛んでいる時は、そんなに痛くはないのだけれど ヤマグチ君がいなくなると、指先がズキズキと痛んだ。でも、僕は もう慣れてしまい、ヤマグチ君が僕の指を噛みたがっているのがわ かると、僕は自分からヤマグチ君に手を差し出していた。おかげで 僕の両手の指は、ツメが変形していつも皮がむけていた。 ヤマグチ君は、僕が悲しんだり淋しがったりするのがとても嫌い だった。一度、僕がおばあちゃまにしかられて泣いていた時、ヤマ グチ君はいきなり僕のほっぺたに噛みついた。僕のほっぺたには跡 が残った。その後も、僕の胸や太ももを爪で引っ掻いたりすること があったので、僕はおばあちゃまに見つからないように治療するの が大変だった。 ある日、僕は三浦君の家に遊びに行った。三浦君が、ハムスター の子供が生まれたので見せてくれるといったからだ。ヤマグチ君も 珍しくいっしょについて来た。 ハムスターはもう毛がはえそろっていて、小さいけれどもぞもぞ と動いた。僕はその可愛い小さな動物から目が離せなかった。でも、 僕にはぜんそくがあるので、家でペットを飼うことは禁止されてい た。僕は、ハムスターの子がとても欲しかったけれど、やっぱりあ きらめた。 帰り道、ヤマグチ君は急に僕の前に立ち止まると、ニヤニヤしな がら握りこぶしをぐいと突き出した。こぶしをぱっと開けると、中 にはハムスターの子がいた。ヤマグチ君はハムスターの子を盗んで 来てしまったのだ。僕はすっかり困ってしまい、目に涙が浮かんで きた。僕の家ではハムスターは飼えない。返しに行っても三浦君に 何といって説明したらいいのだろう。 ハムスターを僕の目の前に突き出すと、ヤマグチ君は怖い顔をし た。僕が首を横に振ると、ヤマグチ君は、親指と人差し指でハムス ターの首を絞めた。ハムスターは、キーという鳴き声をあげて、小 さな手と足を引きつるように動かすと、そのまますぐに静かになっ た。手と足がまだかすかに震えているのが見えた。ヤマグチ君は死 んだハムスターを握りしめて、ハムスターの首をひねった。二度も 三度もひねると、ハムスターの首はちぎれかけてぶらぶらに伸びた。 首をつまんで自分の目の前で揺すると、ヤマグチ君は僕の目を見つ めながらニヤリと笑い、ハムスターに下の方から食いついた。 僕の口の中は血の味でいっぱいになった。僕はおしっこを漏らし ていた。暖かい液体が左側の太ももを伝い靴の中まで入っていった。 いつの間にかヤマグチ君は家に帰ってしまい、僕は泣きながら不愉 快な足を引きずって家まで帰った。涙と鼻水を拭うと、セーターの 袖口にはハムスターの毛がついていた。 その晩、ヤマグチ君は僕の部屋に帰ってきた。ヤマグチ君はひど く怒っていた。僕が好意を無にしたからだ。だから、ヤマグチ君は お仕置きをしに戻ってきたのだ。ヤマグチ君は僕の手をおさえつけ るとカッターナイフを取り出して、僕の腕をすうっと横に切った。 「やめて、お願いだからやめてよ」 僕は目の前のことが信じられなかった。いくらヤマグチ君でも、 こんなことをするなんて。ヤマグチ君はおかしくなってしまったん だ。血が溢れ出してきた。僕はこれが夢だと思った。こんなことが 起こるはずはない。そうだ、これはきっと僕の夢なんだ。そう思う と、眠くなって僕はいつの間にか眠ってしまった。しかし、次の朝 目覚めてみると、乾いた血にまみれた傷がひとすじ僕の腕に残って いた。 それからヤマグチ君はずっとぼくについて来るようになった。僕 がヤマグチ君のことを少し嫌いになったことがわかったのだろうか。 学校でも教室の後ろにずっと立って僕のことを監視している。いつ も僕のことを怖い顔をして睨んでいる。 その日は、僕と美樹ちゃんが日直だった。僕たちはみんなが帰っ た後、教室を点検して学級日誌を書いていた。僕が最後のところを 書いていると、美樹ちゃんの叫び声がした。顔を上げて見ると、ヤ マグチ君が美樹ちゃんを後ろから抱きしめていた。ヤマグチ君は、 美樹ちゃんの口をふさぎ後ろに引き倒した。 ぱちんと僕のほっぺたが鳴った。美樹ちゃんは組み伏せられて僕 の体の下にいた。美樹ちゃんの顔が僕の目の前にあった。僕の手は 美樹ちゃんの首に巻きついていた。ヤマグチ君がそれを上から押さ えている。美樹ちゃんののどがクーという音を立てた。僕の顔を引 っ掻いていた手がぱたりと倒れた。ヤマグチ君がとても嬉しそうな 顔をして、僕に何度ももうなずいた。 そこに学級委員の村田君が入って来た。ヤマグチ君はどこかに行 ってしまい、床には美樹ちゃんが倒れていた。 「どうしたんだよ。これは。」 村田君が叫んだ。 今度は僕がヤマグチ君になる番だった。僕は村田君の前に跪くと 呆然としている村田君の手を取って、口の中に入れるとガリガリと 噛んだ。
夢の中で連続した恋愛劇を見たことがあるのは僕だけだろうか? ある夜の夢の中、僕は自分の故郷にいた。どうやら、その日は僕 が好意を持っている人の家に行って自分の想いを伝えようとしてい たらしい。もちろん現実の僕にはまるっきり覚えのないことであり、 またそれに似通った経験も過去にあったわけではない。夢の中の世 界は、曖昧模糊としてすぐに崩れてしまいそうである。空ひとつと っても、まるで水色の絵の具を適当に塗ったようで、いまいちピン とこない景色だ。 僕は彼女の家まで歩いていった。途中、小さな川を渡り、その土 手の下に彼女の家はあった。灰色の四角い建物。彼女の家は小さな 鈑金屋をやっていた。黒くすすけた看板に「伊藤鈑金」と書かれて いるのが、目を凝らすとようやく読みとれた。そこを目指して僕は 田んぼのあぜ道を歩いていった。 夢の中の自分にとって、夢の中は現実そのものである。夢だった と気付くのは夢から覚めてからであって、夢の中でこれは夢だ、な どと思うことは皆無である。いま、この現実をだれも夢だとは思わ ないことと同じように。 小さな庭を入っていくと、玄関が見えた。僕はためらいもなく呼 鈴を押した。しばらくすると彼女が現れ、僕を見るとパッと明るい 顔をして親しげに話しかけてきた。どうやら彼女と僕はお互いをよ く知っている友達らしい。さっそく中に通されて、何か話をしてい る。その内容はよく憶えていないが、その雰囲気からすると、何か 昔の話(そう、小学校の時とかの)をしているような感じだった。 僕は自分の想いを伝えようなどという素振りも見せずに話している。 しばらくすると彼女は席を離れ、ハガキを数枚持ってきた。それ は年賀状らしく、何やらまたその話で盛り上がっている。夢はそこ からまったく進展を見せなかった。そして夢はそこで終わっている。 夢の中での会話は、空気を振動させる会話形式ではなく、一種の テレパシーのような形で行われる。しかし、会話の内容は残念なこ とに目覚めると同時に忘れてしまう。覚えているのはその会話の中 でキーワードになるような言葉だけである。 またしばらく何日かして、この前の夢の続きを見た。夢に出てく る彼女は前と同じ彼女であり、状況もほとんど同じだった。今度の 夢は彼女といっしょに街を歩いているところから始まった。 僕と彼女は変わらず親しげな会話を交わしていた。しかし、僕が 想いを伝えた様子もなく、目的が達せられたかどうかは分からない。 僕が夢から覚め、現実に戻っても夢の中の出来事は変化していなか ったのだ。 大きな噴水のある公園まで僕たちは来ていた。ベンチに腰掛け、 二人は会話を続けた。一体何を話しているのだろうか。いまとなっ てはどうしようもないことだが、憶えていないことを後悔している。 陽が暮れてきて、ちょっとした変化があった。あれだけ会話が弾ん でいたのに、二人とも急に話すのを止め、僕はまじめくさった顔で 何か言おうとしている。彼女は僕が何を言おうとしているのかが分 かったようで、少し視線を落としている。 「オレの恋人になって欲しい」 僕がそう言った言葉は覚えている。それにしてもあまりにも直線 的で強烈なセリフだ。もっと違う言い方はなかったのだろうか。自 分のことながら恥ずかしくなってくる。 そして、夢はその状況のまま暗がりの中へ消えていった。 夢は本当に夢なのだろうか。夢は本当にただ単に夢であって、そ のつながりや背景は存在しないのだろうか。夢は、夢は、実はもう 一つの現実ではないのだろうか。 またしばらくして夢を見た。場面は卒業式だろうか。多くの若者 がパーティーの会場のようなところにたくさん集まっている。前方 の舞台の上に次々と人が上がり、あいさつをしては下りていった。 僕は丸いテーブルを前にして立っていた。 式が終わり、若者たちは好き勝手に談笑しはじめた。しかし、僕 は変わらず、その位置を動かないでじっとしていた。ガヤガヤと人 のざわめく雑音が耳に入ってくるだけで時間が過ぎていった。自分 だけが動かず、周りの人の動きだけが激しく行き交った。さながら ビデオの早送りを見ているような感じだ。 突然、僕は視線をある一点に向けた。人と人の間に彼女の顔が見 えた。そしてほんの一瞬の間にオレと彼女の視線がガッチリとあっ たのを確かめてから、僕は初めて動いた。人と人の間を急ぎ足です り抜け、彼女に近づくと後ろからグッと腕をつかんで、 「この前の答えを聞かせて欲しい」 と、そう言った。夢の中での僕はやはり直線的だった。いま思え ば、よくあんなことが言えるなと思うが、確かにそう言ったのだ。 すると、彼女は振り向き、 「ここじゃ、あれだから……」 そう言って出口に向かって歩き出した。僕も後をついていった。 どうやらここはどこかのホテルらしい。階段を下りていくと、一 階には喫茶店があった。僕たちはそこの喫茶店に入ると一番奥の隅 の席に座った。彼女はしばらく黙ったまま俯いていた。僕はそんな 彼女をじっと凝視し、返事を待った。 「ごめんなさい」 彼女の声はその一言だった。僕は愕然としてただひたすら次の言 葉が出てくるのを待った。 「どうして」 僕は焦って先走った声で彼女に訊いた。彼女は何も答えなかった。 しばらく無言のまま時が過ぎた。 しばらく何も音のしない時が過ぎた。 僕は手元にあった水を一気に飲み干すと、何か喋らなければと考 えもせずに話し出した。 「オレってさ、恋愛に対してはからっきりだめでさ、いつも断られ てばっかりなんだよ。まさかおまえにも断られるとは思ってもみな かったけどさ」 僕は頭をかいた。彼女はそれでも黙ったまま動かずにいた。 「でさ、何でオレはダメなのかなっていう理由……、好き嫌いに理 由なんてないかもしれないけど、もしあったら教えてくれよ」 何とも愚かな質問である。僕はそれを無理に明るく装って言った。 自分で自分の気持ちがよく分かった。明るくでもしないと、自分が 惨めな泥沼にはまっていくことは分かっていた。また、そんな問い かけの答えを期待して言ったわけでもなかった。ただの場つなぎの つもりだった。 しかし、僕の予想を裏切って彼女はゆっくりと顔を上げ、ゆっく りと顎を動かした。 「理由は……、理由は、あなたは現実に対して怒らないことだわ……」 「現実に対して怒らないことだわ」 僕の体の中に強力な電気がビリッビリッと走った。 何だ、それは一体、何だ。 夢から覚めるとベッドの中だった。 僕は上半身を持ち上げると、ついさっき言われた言葉を口に出し てみた。 「あなたは現実に対して怒らないことだわ」 一体これはどういうことなのだろうか。よく分からない。率直に とって自分の現在に対する甘さへの指摘なのだろうか。自分の恋愛 に対する意見なのだろうか。確かに僕はいままで数多くの恋愛から 足蹴にされてきた。しかし、現実に対して怒らないこととは結びつ かないはずだ。僕は頭皮に汗をかきながら必死に考えた。答えは分 からないが、またそれを導き出すのも恐れていた。もしかすると、 現実の自分から夢の中の自分に対するあの直接的な態度への批判か も知れない。 そのあまりにも抽象的な言葉は、その抽象的だから故に様々な言 い方にもとれる。一体彼女は何が言いたかったのだろうか。 彼女はその謎の言葉を残したまま、二度と僕の夢の中には現れな かった。
スバルビルの新宿の目が、いつもより大きく見えている。 今日はなにかあるなと茂仁田優は思わずニヤリとした。 35歳独身、メル友の愛人が3人ばかりいる。すべて自分の母親く らいの年齢だ。おばさんにはとにかく受けが良い。セックスなしの シックスナインで毎月15万円ほどのおこずかいをせしめているが、 最近これにも飽きてきた。 広告代理店から内装デザイン会社へ転職して、早2年目が過ぎ様と している。 今年に入って外回りの営業に出ることがめっきり増えてきた。 半年前のあの初体験からすると余裕の笑みさえ浮かべるようになっ た自分に気付く。キャッチセールスならぬキャッチモニターだ。 灰色の公衆電話もこの時間はところどころ空いている。正午前の新 宿駅地下道は、バッファローの群れみたいに人々が一斉に飛び出し てきて大混乱となる。 だから、いま午前11時。快晴。まさにモニター日和なのだと彼は 深い洞察力からくる確信に満ちて、スバルの目に向かって歩き出し ていた。 一歩、一歩確実にゆっくりと歩を進める。それもなるだけ目立つよ うに。 居た。やってるやってる。茂仁田は唇の端を微妙に歪めほくそ笑ん だ。 スバルの目の前に5、6人のおばさん達が、首からマーケットリサ ーチの会社のカードを下げてモニターを物色中だ。これを業界用語 で網を張ると言うらしい。 ほとんどが40歳代と相場が決まっている。 だってそうだろう。狙った獲物は逃がさない自信と、心臓がミンク の毛皮を羽織っているぐらいの迫力がなければ、ノルマはとうてい 達成出来ない仕事だ。 特に、押しと引きの絶妙なバランスを備えたおばさんは、タイミン グのはかりかたとアプローチが実にうまい。 「あら、残念ねぇ、15分ぐらいでもダメ?現金1000円のお礼 が出るのにィ」の殺し文句で、近くに隣接のモニタールームへ次 から次と、獲物を引っ張り込んでいく。 「あの、すいません。お時間15分くらいいただけます?」 おばさんがカニ歩きで、ササッと斜に近寄ってきたのを茂仁田は見 逃さない。もう逃がさないわよの目つきは、メル友のおばさんで経 験済みだ。 「ええ、まあ」と取り敢えず軽くフェイントでかわした。 さっと右腕ににじり寄り、おばさんは小声でパンフレットの説明を 加える。蚊の泣くような妙がある。 「お礼に1000円分の図書券がでます。うふ」 「まあいいですよ」と半分納得した顔で答え、腹の中で呟いた。 (チェッ!さっきのゴールデン街と同じ図書券か) つまり、今日2回めのモニターということになる。 モニタールームでは20人くらいのヒマ人サラリーマンや大学生風 や主婦やらが机上でアンケートを懸命に記入していた。 ほお、前にもやったことのあるマクドナルドの新製品の試食とは有 り難い。丁度腹も減っていたところだと茂仁田は内心喜んだ。 「食べながらで結構ですから」と、さっきのおばさんも横に座り質 問チェックしていく。 「このペ−ジ記入し終わったら、次ぎへ進む前に手をあげて知らせ てください」 しばらくして、はい、と手をあげた。 「イエスとお答えになった味とは、どのような味ですか」 「う〜ん、筆舌に尽くしがたいとでもいいますか」 「何それ?どんな味」両目は三白眼で、口は鯉のぼりみたいだ。 「別の表現を用いるなら、思わず息を飲んだとか」 「もっと具体的じゃないと、おばさんわかんない」年甲斐もない弾 んだ声だ。 「なんと言ったらいいのか、パンのバンズに挟まるミンチカツとぺ ースト状のソースが思ったよりあっさり味で、ホタテからとった ような深い旨味分が、じんわりと効いているといいますか......」 「なぜ、ホタテとわかったの!?」興味津々の目つきだ。 「そのての味には精通してますんで。ふふ」 「それで、どんな風にじんわりと効くのかしら」 少しずつおばさんはにじり寄ってきて、茂仁田の右耳にあつい息を 吹きかけてきた。 「とにかく、森林浴のフィトンチッドの成分がストレス解消に効果 がある様に、微妙な食感を通じて間脳視床下部中枢を弛緩させ、そ こはかとなく効いてくるといいますか......」 自分でも何を言っているのか訳わかんなくなっている茂仁田だった。 おばさんは、いつの間にか左手をさりげなく茂仁田の右太ももの付 け根部分にのせて、うっとりとした表情をつくっている。 「間脳なんとかを刺激するのではなく、解放する感じね。ああ、な んだか私も味わってみたいわ」 ここまでくると、知ったかぶりが完全な博学を、見事に乗り越えた 予感すら漂う。 「そんな経験ありません?」 こうなると、どっちがモニターなのかわかんなくなる茂仁田だった。 「ないわ、ここ10年くらい」 「そりゃお気の毒だ」さりげなく今度はカウンセラー口調で呟く。 「なんと言いますか、絶頂すなわちエクスタシーにより近い、行っ たら戻れないような、リラックス感なんですよ」 ここまできたら、詐欺師だ。 「エ、エ、エクスタシー?そんなにすごいの」 おばさんの瞳は濡れそぼり、虚脱したような表情に変わっている。 「まわりの皆さん、どんどん書いてますけど、僕らは先に進みま せんね、いいんですか」 「どうでもいいのよ、そんなことは。それで、それで先を話して」 哀願の表情までして、催促してくるおばさんだ。 「海よりも深い悦楽と山よりも高い煩悩そのものが揺れ動き...」 もう完全に茂仁田は迷路に足を踏み入れている。 「あはーっ!海と山までとうとう持ち出してきたのね。そして...」 おばさんは何を思ったのか、そう叫んで机にひれ伏し、しばらく動 かなくなった。こころなしか、ピクピクと痙攣したように見えた。 おばさんを無視して、首尾よくアンケートの記入を済まし、席を立 とうとする茂仁田の足を、だれかがムンズと掴んだ。 驚いて振り返ると、おばさんがにっこりウインクした。 「まだ、終わってないでしょ」 「はあ」呆れ声で応えると、おばさんは何を感違いしたのか、突然 うわずった声で賛美し始めた。 「あなたはモニターの中のモニターよ!」 その声に気付いたまわりのモニター達が全員立ち上がりモニター会 場は拍手渦巻く大喝采でうまった。 他の職員までもが賞賛の眼差しで見守っている。 こんな経験は生まれて初めてだと、茂仁田はまわりに頭を下げて、 拍手に応えながら感動していた。 なんで今まで気付かなかったんだよ。オレこそがモニターだよ。 (オレはキングオブモニターなんだ) ネジのはずれてしまった茂仁田は、高揚感に浸りながら、明日から 会社はやめだと即断していた。 まずは『モニターの心構え』という本を書こう。 それからローテーションを組んで、モニター三昧の日々だ。ワイン、 缶コーヒー、ウィスキー、歯磨き、携帯電話、パソコン、戸建住宅、 分譲マンション、なんでもありだ。 「ねえー待ってよ!」 そそくさと、出口に向かう茂仁田を、さっきのおばさんが息を切ら せて追ってきた。 「あなた、1000円分の図書券いらないの」 「さっき、もらいましたよ」 「いいのよ。この図書券2枚は私のサービス」 おばさんの半開きの口に赤い舌がのぞいている。 券を見ると、メモ書きみたいな字があった。 [私のモニターになってね。電話待っています。さちよ] 去って行くおばさんの後ろ姿を追いながら、ため息混じりに独り言 した。 「当分は、二足のわらじになりそうだな」 茂仁田は、映画『ローマの休日』のラストのグレゴリーペックの足 取りで、ビルの長い廊下をゆっくりと歩いて出ていった。 靴音のシンクロする中、複雑な泣き笑いの表情をして。
「邪魔だバカヤロー。殺すぞ」 夜の繁華街、僕は背が高くてがっしりした、短髪の男の肩にぶつ かりよろめいた。 「すいません」 僕は一瞬男と目を合わせて、それ以上男が危害を加えるつもりが ないことを確かめると、そそくさとそこから離れた。一歩、二歩、 三歩。もう少し。四歩、五歩、六歩、七歩、八歩。今だ。僕は念じ る。ぐしゃっ。小気味よい音をたてて男の頭が破裂した。辺りから 悲鳴が聞こえる。誰も僕のことは気にも留めない。 こんな力があっても、こんな使い方をしてしまった以上、他人に 話す訳にもいかず、どこかの組織からスカウトが来る訳でもない僕 は、普通のサラリーマンとして人並みにつまらない生活を送ってい た。 ある日、いつものように仕事を終えて家に帰ると、テレビのニュ ースで、オヤジ狩りに遭い下半身不髄になった中年の男性の談話を 放送していた。その男性はこう言っていた。 「あいつを同じ目に遭わせてやりたい」 そうだ、そういうやつに僕は恐怖や痛みを教えてやらなければな らない。犯罪者を守る法律なんか糞食らえだ。特に情状酌量の余地 がない、弱いものを痛めつける確信的な糞ヤローは同じ目に遭わせ てやらなければならない。 次の日から僕は仕事が終わると、インターネットや聞き込みで情 報を集めた。僕は自分の力と自分自身に目的を見つけ、急に生き生 きとしだした。会社での仕事もはかどり、誰もが僕に目を見張った。 そして僕は糞ヤローのアパートを見つけた。部屋に電気がついてい ることを確かめ、外でそいつが出てくるのを待った。八時をまわっ た頃、部屋の電気が消えた。階段を一人の男が下りてくる。僕は距 離を置いてその男の後をついていった。そいつは繁華街の方に向か って行く。少しづつ歩道を歩く人増えていき、男がおそらく行きつ けのクラブに入ろうとしたその時、周りは酔った若者で一杯だった。 ごしゃっ。突然男は右足の膝から下を失って倒れた。一秒前まで自 分の右足だった血と肉の溜まりの中でも男は何が起こったのか分か っていないようだった。急に自分の周りの人々が遠退いて、かわり に悲鳴がその空間を埋めた時、男はやっと自分の右足を見つめ、そ の顔に痛みと恐怖の表情が浮かんだ。それを確かめると、僕はその 人だかりを後にした。一歩、二歩、三歩・・・ぐしゃっ。悲鳴がさ らに大きくなる。 それからも僕は、残虐な殺人を行っても少年法に守られてのうの うとしているクソガキや、無差別テロを行っておきながらとぼけた ことを言っている新興宗教の教祖を僕の力で裁いた。 世間では大騒ぎになっていたが、そんな力が存在することを誰も 証明できなかったから、僕は誰にも怪しまれることなくそれまで通 りの生活を続けた。何より世間の大部分の人々が僕のしたことで喜 んでいた。そのことは僕に自信を与え、会社での僕の仕事振りもさ らに冴えわたった。 そんなある日、僕はささいなことで課長に呼び出され、必要以上 にきつくしかられた。あきらかに最近目立って来ている僕に対する 嫌がらせだ。そう思うと怒りが込み上げて来て、僕はもう少しで社 員食堂で課長の頭を吹き飛ばしそうになった。でも、その近くでお いしそうにカレーライスを食べる、僕のお気に入りの女子社員を見 て思いとどまった。 いけない。僕は自分をコントロールしなくてはならない。そうし ないと僕は、なんでも自分の思う通りにならないと気が済まない、 単なる我がままなガキになってしまう。僕は独裁者じゃない。多少 性格が悪くても、課長が死んだら悲しむ家族がいる。僕が理不尽な 悲しみを生んではいけない。僕が裁いてきた犯罪者にも悲しむ家族 がいただろう。でも彼等は一人の、あるいは大勢の人間の人生の光 を奪ってしまったのだ。それは明らかに一線を越えている。しかも 後悔も畏れも悲しみもない。彼等の家族がいくら悲しもうと彼等は 罰を受けなければならない。僕の力はそのために使われなければな らないのだ。それが僕の人生の光。それを踏み外してしまったら、 僕は何を持って充足すれば良いのだろう。変わった力を持っていて も、結局は退屈な日々。そしてその力がなくなれば、残るのは絶望 的に未熟な自分自身。僕はそれが怖い。 この強大で制限のない力。僕はリスクを負わなくてもいいから、 つい使ってしまいそうになる。ばれなければ、捕まらなければ何を してもいいという連中と同じになってしまう。僕の望みは理不尽に 人間の人生の光を奪ったやつらを裁くこと。そして僕は自分の心の 弱さから逃れるためにリスクを負いながらそれを行わなくてはなら ない。そう思った僕は探した。くる日もくる日も、あらゆる手段を 使って探した。そして見つけた。 その初老の男は第二次大戦後の世界中の戦場を渡り歩いてきた日 系アメリカ人で、今は岐阜の山奥に一人で暮らしている。僕はその 男のもとを訪ねた。 国道、県道から外れ、鋪装されてない森の中の道を進むとログハ ウスが見えてくる。僕は車を止めて、ログハウスのドアを叩いた。 返事はない。窓にはカーテンがかかっていて中は見えないが、四輪 駆動の車も止まっているし、おそらくは森の奥にでも入っているの だろう。僕は玄関前の手ごろな大きさの石に腰掛け、持ってきた小 説の文庫本を読みながら待つことにした。 どれくらい時間が経っただろう。気がつくと僕の背後に誰か立っ ている。その瞬間僕の首筋に鳥肌が立った。 「何の用だ?」 男の声がする。 「あの・・・」 僕が振り向こうとすると、 「振り向くな!」 突然怒鳴られ、ぼくはビクっとして固まる。 「あの、実はお願いがあって来ました。見てもらいたいものがあ るんです」 「何だ?」 「驚かずに見て下さい。僕にはある力があります。あそこの木の 枝を見てて下さい」 僕は前方の木の枝を指差した。そして念じた。バシッ。枝が弾け 飛んだ。 背後で男が身構えるのが分かる。 「何をした!」 あれだけ気配を悟らせなかった男の動揺が背中越しに伝わってく る。今度は手を後ろに回して、男に手の平を見せながら、バシッ。 男が僕の顔を覗き込む。僕はヒゲ面の大男を想像していたが、頭を つるつるに剃り上げたスマートな男だ。僕はもう一度、男に顔と手 の平を見せたまま念じた。バシッ。 「さっき周りは調べたが、狙撃手などはいなかったはずだ」 僕はこの力で、悪人を裁いてきたこと。それが僕の人生の目的にな っているということ。しかしこの力に溺れて、安易に使ってしまい そうな誘惑にかられてしまうこと。だからこの力を封印して、安易 に行うことができない、リスクのある方法で、悪を裁くということ のみを行っていきたいということ。そのために彼に狙撃などの戦闘 の技術をレクチャーしてもらいたいということを熱く語った。 男はしばらく考え込んでから、期間は一ヶ月、報酬は百万円で引 き受けてくれた。その晩は男の作った、山鳥の肉の入ったシチュー を食べて眠りについた。 僕は小さい頃によく見た、何か目に見えない柔らかくて大きなも のに押しつぶされる夢を見て目が覚めた。視覚的には何も見えない のだが、皮膚感覚だけで感じる、とても嫌な感じのする夢。 そしてまた首筋に鳥肌が立つ。ふとベッドの脇を見ると男が立っ ている。何か恐ろしいものを見るような目で僕を見ている。そして その手には拳銃が握られている。僕はまだその状況が把握できてい ない。次の瞬間、パンという乾いた音とともに僕の人生の光は奪わ れた。
僕 ゆーれいです。人見知りな性格なもので今まで誰にもとりつい たことがありません。するとある日、そんな僕を見かねて仲間の一 人が言いました。 「せっかくなんだから誰でも良いからとりついてやれ面白いから」 「おもしろい?」 僕はなんとなくやる気がわいてきたので、とりあえず歩いてきた男 にとりついてみた。するとしばらくしてからその男は 「なんだ?悪寒がするぞ・・・」と言ってぶるっと震えた。 なんだか悪い気がしてその男にとりつくのを辞めた。 次に歩いてきたのも男だった。今度こそはと思いとりつくと、瞬間 その男は「わっなんか人の気配がする!」と言ってキョロキョロ辺 りを見渡しパンパンと自分の肩をはたいた。僕は驚いてその男から 離れた。そしてどうしようと思っているところに、今度は女の人が やってきた。「よしっ」と思ってとりつくと、女の人は少しも気付 いていない様子。そのまま歩いていって、とうとう僕を背負ったま ま自分のアパートにたどり着いてしまった。そんなこととはつゆし らず、女の人は部屋に入っていく。「ごめんください」と言う僕の 声なんてまるで聞こえていない。女の人は自分の部屋に入ると真っ 先に冷蔵庫にむかい、缶ビールを取り出すとすばやく栓を抜いてそ の場で立ったまま飲み干した。それから夕刊をテーブルに広げて黙 々と読み、目線は新聞の文字を追ったまま、テレビのリモコンをと りスイッチを入れた。その行動はあまりにも自然で、たぶんこれは 毎日繰り返されている一連の行動に違いなかった。そして新聞を読 み終えると「バッ」と立ち上がりキッチンに向かう。どうやら料理 を始めるようだ。しかし 「あー!また焦がした……やめっ!」 と大声を出し、なんだか煙のあがるフライパンをキッチンに残して 、もと居たテーブルに戻ってきた。そしてよほど疲れていたのか、 そのままテーブルにつっぷしていびきをかいて眠り始めた。その様 子を見ていた僕は呆れてしまった。 「なんだ、面白いというからとりついてみたのに・・・」 そう言って女の人の向かいの席に座った。部屋は静かで、女の人の いびきしか聞こえてこない。しようがないので、しばらく女の人の 寝顔を見ていたら、急に女の人の閉じた瞼の下から涙が流れてきた 。それを見ているとなんだか急に胸が熱くなるのを感じた。そして 今、本当に自分の腕が、手が、暖かなものであればどんなに良いだ ろう、と思った。 「おーい、どうした?」 そう言いながらつい女の人の頭に触れる。すると女の人はハッと起 きあがり、僕の顔を見た。僕は驚いて手を引っ込め「しまった」と 心の中で呟いた。気付かれたのかと思うと溜まらなく恥ずかしかっ た。が、しばらくして女の人はこう言った。 「不思議ね、今誰かが居るような気がした・・・」 そう言うと、頬杖をついて、ため息をもらした。 僕は気付かれなかったことに安心しながらも 「こんなに近くにいるのに、気がつかれないなんて。ゆーれいなん て寂しいものだね」なんて思った。 結局、僕は女の人から離れて仲間の所に戻った。そして一日中よく 考えて仲間にこう言った。 「やっぱり、生きている人と一緒に暮らすということは、自分がユ ウレイであることを思い知らされて空しいだけだって思ったわけだ」 そんな僕の話を聞いて、仲間はあっけらかんとして笑う。 「じゃあ今度は動物っていうのはどうだ?あれも面白いから」 そう言って、近くを通りがかった子猫を指さした。 楽観的な仲間の意見にまたしても乗せられて、言われるまま猫にと りついた。そして僕は、猫になりながら夕陽を眺めぼんやりと考え る。 「きっと天国は遠いのだろうけど・・成仏した方が良いのかしら」 そんな呟きに仲間が答える。 「ああ、でもきっとものすごく歩かなくてはいけないんだろうな」 僕はため息をつく。 「うん、根性がいるんだろうなあ」 なんだか考えただけでもしんどくなって、その場でごろんと横にな った。すると上の方から声がした。 「あらっ猫だ」 と言う女の人の声と共に僕はあっという間に抱き上げられてしまっ た。見ると、昨日の彼女じゃないか。 「持って帰ろうかなあ、ねこっ♪」 彼女はハナウタ混じりにそう言いながら歩き始めた。 その日の夕陽はとても柔らかくって 気持ちが良かった。 道の上にある僕らの影を どこまでも長く引っ張っていく。 僕は今彼女の腕の中で 暖かい猫でいられる。 少しの体温を 彼女に与えることが出来る。 ゆーれいってのも 悪くないかも。 そんなことを思いながら 僕は猫らしく喉を鳴らしてみた。
かなり気候も寒くなってきたというのに、季節はずれの台風が海 岸の町を舐めるように洗っていった。その時、岬の別荘の小高い庭 がすぐ下の国道に向かって土砂崩れを起こしたために、この未曾有 の猟奇事件が世間に露呈することになったのである。 その土砂の中から複数人のバラバラ死体が発見されたのだ。 そこから振り仰ぐと、土手の上に洋館があった。どうやらそこの 土地の一部が台風の雨風にゆるんで崩れ落ちたらしい。発見され た異物がもともとその土地の下に埋められていたものだろうという ことは、誰の目にもすぐに推測できた。 捜査は基本通りにすすめられ、すぐに建物はある会社役員の所有 する別荘だということが判明した。さらに所有者の名前が確認され て、重要参考人として身柄を拘束するように手配がされた。 次の日には別荘中がくまなく捜索され、その敷地内の怪しげなと ころはすべて掘り起こされた。その結果、ばらばらの死体はすべて 女性のもので、最低でも三人のものであるという事がわかった。た だ、この事件の特異性は、死体の下半身がどこにも見つからないこ とだった。しかも、三人の女性の身元がまったくわからなかった。 鑑定の結果から、すべて十代から二十代前半の若い女性であるとい う事と、それぞれがかなりの月日を開けて殺害されていることがわ かったのみである。しかし、過去数年間の行方不明者等の記録と重 ね合わせても、被害者の特定はできなかったのである。結局、事件 の進展は参考人の供述を待つのみとなった。 もっとも、県警の捜査手順は驚くほどの手際のよさだった。死体 の発見から一日後には、その重要参考人は県警本部に連行されてい たのである。 その日、まず簡単に参考人の名前と住所の確認をすることから取 調べが始まった。髪の薄くなった中年男であったが、すでに人生の 成功を手にして、会社役員として悠悠自適の生活をしているという。 あっさりとしたカジュアルを着こなしてはいるが、すべてブランド であるということはすぐわかった。 家族はいないようであったが、この男にとって、そういう環境が どんな意味を持っているのか、おいおいわかってくることだろう。 事件の別荘はあなたの物か、と、刑事のひとりが問いただした。 クルーザーを停泊し、外車を三台も収納した車庫を持っているほど の高級別荘だった。 もちろんすでに確認済みの事務的質問に過ぎない。男はあっさり 認めた。 「昨日、この敷地内から三人の女性の死体が発見された。知ってい るな」 「はい」 「お前がやったのか」 「はい」 「彼女たちはどこから連れてきたんだ」 「捕まえてきました」 あっさり認めやがった。 事の進展の容易さに刑事たちはかえって戸惑った。 いいながら、男は平然とした顔をしている。 まず、精神的な障害の可能性も疑っておかねばならないだろう。 人を傷つけ死に至らしめることによって、快感を得る性倒錯者かも しれない。事前にベテラン刑事は、部下たちにそう話をしている。 海外ではそんな犠牲者が材料として人身売買されている。日本でも 一部の熱狂的なマニアは、外国の闇市場から女性を買ってくるそう だ。彼女たちは薬漬けにされてすでに廃人になっている。もちろん、 その死体はどこへ投げ捨てられても、身元を確認するすべなどはな いのである。 だがそういうマニアは、かならずその道楽をビデオなどに記録し ているものである。それを同好のマニアに横流しし、高値で売り払 って二重においしい思いをするのだ。これらの嗜好をビデオで発散 させる裾野のマニア人口はさらに多いといわれている。 ところがこの事件では、こういうビデオ、写真、録音テープ類な どは一切発見されていなかった。動機を裏付けるものがまったくな いだけに、起訴に当っての証拠調べにはかなりの慎重さが要求され る事件といえるだろう。 それにしても、取調べはとんとん拍子にすすんでいく。まるで、 犯人がその犯罪をしゃべりたくて仕方がないかのように。 刑事らは、死体の下半身について単刀直入な質問をした。 「彼女らの下半身はどこにあるんだ。」 すると男は、その頬を奇妙に緩めてにやりと笑った。微かに聞こ える声でしゃべり出したとき、その場にいた刑事たちの誰もがまず 自分の耳を疑った。 「今なんて言ったんだ…」 「食べました。そう言いました」 「食べた?」 その言葉を鸚鵡返しにしながら、若い刑事たちは悪魔を見るよう に怯えた表情を隠せなかった。 「な、なんて事を…」 狭い取調室の澱んだ空気が人々の肩に重くのしかかってくるよう だった。男はしばらく刑事たちの反応を舐めまわすように観察して いた。そのうち口の端が三日月のように片方にめくれ、その赤い裂 け目の中から、低い笑い声が微かに「ほほほ…」と洩れた。 人に話したくて耐えきれないことをとうとう吐き出した愉悦に、 笑いを我慢できなくなったのだ。 男は緩んだ唇を噛み締めるようにしていった。 「それが、じつにおいしい。一度食べたら次がどうしても食べたく なってしまう。もはや、一日の猶予もない。その味を恋焦がれるあ まり、私は狂ったようなってしまったのです」 「ば、化け物め」 興奮して詰め寄ろうとする若い刑事の胸倉を掴んで、年配の刑事 が後ろへ突き飛ばした。その同じ手で、男の肩口を両手で締め上げ るようにしてゆすった。 「もういい、馬鹿笑いはやめろ。もう一度聞くが、女をどこから連 れてきたんだ」 男は相変わらず、へらへらとして答えた。 「海からです」 「海から…?」 意外な返事に刑事たちは皆、面食らわざるを得ない。 「近くの海水浴場か?」 男は首を横に振って、いいえ、といった。 「クルージングで、三回も釣り上げました。こんな奇跡はめったに あるもんじゃない。ところがそれから何度あの穴場へ行っても四回 目がこない。狂おしいほどあの味が忘れられないというのに…」 「なんの話をしているんだ」 刑事は眉をひそめるばかりである。 男はその時、自分の話のとりとめのなさに初めて気がついたよう な顔をした。そして、語りだした内容はさらに驚愕すべきものだっ た。 「彼女たちは人魚です。私は人魚を食べて残りカスを埋めただけで す。ですから、私はあなたたちの考えているような殺人鬼ではあり ません。ただ、どうしても私を罰したいというのなら、死刑にして もらいたい」 それから一瞬、男は今度は心から懇願するような表情をした。 「人魚を食べてしまった私は、すでに死ねない体になるという罰を うけているのですからね。死刑にしてもらうことで、私はあなたた ちに救われることになる」 「バカな」 「何度もいいますが、あれはただの食べカスです。私は何も隠して いないのですよ。もっとも、あなたたちが私の主張を裏返すような 証拠を、この先裁判で提出できるとは到底思えませんが…。ほほほ ほ…」 薄ら笑いを続ける男から手をはなすと、その刑事は同僚たちを振 り返って呟くように言った。 「こいつは起訴まで、かなりの長期戦になりそうだな。」 しかしその時、誰も彼の言葉に頷くものはいなかった。これから 繰り返される底の見えない取調べに、暗澹とするばかりだったので ある。
榊信次が、窓を開けると、吹き込んできた風がそのまま玄関の方へ 流れて、恵の髪が少しだけ揺れた。 玄関の上がりかまちに腰掛け、壁にもたれている恵の肩には白いタ オルケットがかけられている。その肩にほんの少しだけかかった髪の 毛の先がタオルケットの表面に絡まり、それが飛び立つように離れる のが見えたと思ったのは、榊が今まで幾度となくそんな恵を見つめて きたからだった。 窓から吹き込んでくるもう冷たくなっている風は、かけっぱなしだ った洗濯物を揺らし、少し遠くの踏み切りの音を運んでくる。多分あ れが最終だろう。 榊は洗濯物を物干しから引っ張って、はずした。一枚はずすたびに 洗濯挟みがピチリと音を立てる。取り合えず足元に洗濯物を置いた後、 ゆっくりと窓を閉めた。 「サカキ」と呼ぶ声が聞こえた。 恵の声だった。結婚した後もひとつ年上の彼女は他の誰とも違うイ ントネーションで榊をこう呼んだ。振り返ると恵は壁につけた頭はそ のまま、その壁を床にして寝ているみたいにごろりと頭を転がして榊 を見つめた。 「どb。 「うん、大分いい」 しかし、その声は呼吸に合わせて吐き出されるようでひどくゆっく りとしている。 「ねえ、サカキ」 「吐く?」 「違aA。今、何時?」 榊は腕時計の針が一時をさしているのを確かめ、答えた。 「そんなuB 呟いて恵が眼を閉じると隣の部屋のドアの開く音がした。 ふたりはその音が止むまで少し黙った。やがて鍵をかける音がして、 遠ざかる足音を聞いた。 「おとなりcEんは今日もバイトか…」 立ち上がって、榊は、ああ、とこたえ、足元の洗濯物を蹴飛ばした。 恵の後ろまで歩いて立ち、その足音に聞きいるようにドアを見つめた。 金属の階段を降りる足音が響き、聞こえてきた。恵はずっと高いとこ ろにある榊の顔をふりあおぐのも億劫だという感じで再び前を向い た。その恵の目の前を長いからだを折りたたむようにした榊の上半身 がよこぎる。足元に置いてあるバケツを持ち上げるのだと気づいた恵 は体をちょっと端に寄せた。顔の前を通ったバケツのにおいに少しだ け顔をしかめた。 トイレの方にバケツを持っていく榊をみるように首を仰向けにそら して、恵はそのまま床に寝転がった。そうして天井をむいたままトイ レの水を流す音を聴きながら再び目を閉じた。トイレの水の音は2回、 3回と続いてようやく止まった。 恵は閉じた目に感じるライトの光が遮られて榊がすぐうえにいるこ とを知った。目を閉じたままで起き上がり、座ると強い痛みが戻って きて、しばらく、体全体の力を抜いて壁にもたれる。 「寝るか」 問い掛ける榊の声ですら受け答えが面度臭くてならない。ゆっくり 息を吐いて吸い込む。大丈夫だ。吐き気はない。悪いなと思う。でも 本当に痛いのだ。恵はゆっくりと呼吸をして、その問いには答えなか った。 榊は恵の様子を見て黙って落ちたタオルケットを拾った。 そして、上がりかまちの恵が寝ている反対側の端、ようやく一人座 れるくらいの幅に座り込んだ。長い体を折りたたんで座るその姿まる で体育座りのようだった。 ずっと黙っている榊を恵は正直うっとうしいと思う。しかし、近く に榊が居ると思うと落ち着けた。かすかな榊の匂いも恵を安心させた。 吸って吐いてそれ一回で3、4秒かかるような呼吸を何度か繰り返すた びに頭痛は治まっていった。でも、まだ榊の方に首を向ける気力は無 い。頭を移動させると痛みが増した。 勝手だなと思いもしながら一晩中榊にそこにいてくれないかと思っ た。 指一本分ぐらい離れていた自分の右腕と榊の左腕を触れ合うように した。そこが暖かかった。 そして、ほんの少し汗さえ出始めたころ浮かんできた自分の考えに 恵は笑った。 ――手を握って 恥ずかしいと思いながら、ふと、そんなことを考えた自分がなんと なくうれしくもあった。でも声にだしはしなかった。ただ、ほんの少 し触れ合う腕に力を込めただけだった。 強い痛みはなかったが、心臓の鼓動にあわせて目の奥の鈍痛だけは 続いていた。恵は首を巡らし榊を見た。 目が合った。じっとこちらを見詰めていた。榊は目を伏せた。伏せ なくてもいいのに、恵は思った。 「サカキ」 榊は再び顔を上げた。 ゆっくりとなるべく優しく聞こえるように恵は言った。 「ただい棕 一枚の羽が水面に落ちるときのようにゆっくりとほほえみ、ただ黙 って、榊は何度もうなずいた。
かつて俺は、女を轢き殺しかけたことがある。
こじれていた別れ話になんとかけりをつけ、一刻も早く、かわいい
美樹とやりたさに、弾んだ気分の勢いのまま、俺は駐車場から、愛車
を素早く発進させた。
道路に出ると突然、女が車の前に飛び出てきた。女はボンネットに
跳ね返り、車のすぐわきに転がった。
駆け寄った俺に、女は涙も流さず、ひとことの言葉もなく、ただ、
薄紙のように蒼白な顔をして、悲しげな目で俺を見上げた。女は、奇
跡的とも言えるほどの軽症だった。
だが、命を賭けたその姿は、美樹の見事な肢体をぶっ飛ばし、俺は、
そのこじれた女と、八歳も年上の華代と結婚した。
二ヶ月の間はやりまくり、またたくまに過ぎていった。だが、正確
に言えば298日前に、わずか一年の俺との暮しに疲れ果て、華代は家
を出て行った。
やはり、涙も流さず、ひとことの言葉もなく、ただ、青鬼のような
顔をして、軽蔑の暗い光で射るように、俺を睨みつけて出て行った。
俺は念願かない、手拍子もので喜んだ。
多少、腹の肉はゆるんでいたが、俺は、華代の肉壁が好きだった。
が、俺は最初の二ヶ月を除き、華代を抱くのをあっさりやめた。いや、
正直に話そう。最後の日から半月後に、一度だけ、最高のセックスを
したことがある。それが、正真正銘の最後の最後になった。
それ以来、代りに、俺はあいつの横で見せつけるように、一人でや
った。
わけかい?一つだけさ。華代が自分から出て行くように仕向けたの
さ。
暮していたのは、俺のマンションだった。
今度は、部屋で別れ話をしても、俺の車の前には飛び出せない。だ
が、ベランダから飛び降りるのを見るのはごめんだ。
俺の心が変わったのは、三ヶ月目のことだった。
俺がインフルエンザをこじらせて、肺炎になりかかったとき、あい
つは不眠不休の看病をしてくれた。その前も、それ以後も、華代は変
わらず、やさしかった。
だが、あいつがあまりにやさしくて、俺に尽くせば尽くすほど、俺
は華代がうとましくなった。
それからまもなく、俺はぶらりとロスにやって来た。連れの住むア
パートにもぐりこみ、以降、不法滞在を続けている。
三ヶ月前、連れの哲に女ができた。だが、哲は男の友情に無条件に
厚い。俺はそれまで通り、やつらの寝室のすぐそばの、カウチをベッ
ド代わりにして、一緒になんとか暮している。
哲が一年前にロスにやって来たわけ、それはしごく簡単だ。
スラリとした長身に端正な顔立ちの哲には、言い寄る女はいくらで
もいた。
だが、誰ひとり、哲の仕打ちに耐え得る女はいなかった。仕打ちと
言ったが、それはやつの精神の問題ではない。
やつは女に親切だ。ベッドでのマナーも心得て、前戯にたっぷり時
間をかける。
そこまでは上等だ。俺が女なら、やつにまちがいなく惚れる。
だが、いざ合体となると、やつの物は猛り狂い、直後に女は決まっ
て凄まじい悲鳴を上げ、必ずその場で別れを告げる。
従って、やつはロスに来るまで、一度も女の中で果てたことがなか
った。
やつにとって最大の悲劇ではあるが、はたから見れば、巨大なキノ
コが織り成す上物のコメディーだ。中には、物を目にしただけで恐れ
をなし、即刻バイバイする女もいた。
何十人もの女に去られ、哲は、息をする気力すら失い、三十歳を区
切りとして、一大決心をした。
めでたく貫通を目指し、大きな女を求めてロスに渡り、試行錯誤の
末に、ピッタリサイズの女を見つけ、哲は自信を身につけた。
俺は毎晩のように、薄い壁を突き破り轟き渡る、やつらの激しいう
めきを、獣じみた咆え声を、いやというほど聞かされて、慢性の不眠
症に陥った。
たまりかねた俺は、今朝、最高にうんざりした表情を作って言った。
「おまえ、いいかげんに、ゆっくり寝させてくれよ。皿洗いの仕事
でも、睡眠不足はこたえるぜ」
「ただで聞かせてやってるんだから、早く彼女を見つけろよ」
「その気になったら、見つけるさ」俺は、気のない返事をした。
「おまえ、まさか、まだオバサンに未練があるわけじゃないだろう
な」
俺は、この上なく冷静に言った。「惚れた腫れたと言ってはみても、
しょせんは、肉キノコと芽の出た肉壁が、快楽を求めてさ迷ってるだけ
さ。若くていい女はいくらでもいる。華代に未練なんかあるわけないよ」
「やあ、ジョージ。調子はどうだい?」
俺はホームレスのジョージに声をかけた。これがレストランのゴミ捨
て場をあさる、やつとの唯一の交流だ。
「まあまあってとこだな。そっちはどうだい?」
「あいかわらずさ」と、いつも通りに俺は答えた。
だが、今朝がた哲に吐き出せなかった言葉が、咽元につっかえて、嗅
ぎ慣れたはずのゴミとジョージの悪臭が、やけに鼻腔を刺激した。
裏口から店に入り、厨房に漂う肉混じりの臭いを嗅いだとたん、俺は
突然、凄まじい吐き気に襲われた。
トイレに駆け込み、俺は、“未練”を何度も、ゲロに変えた。
「哲、世話になったな。日本に帰ることに決めたよ」
その夜俺は、やつらの狂宴と、おさらばすることに決めた。
「おまえには、日本の女のほうがいいかもな」哲は気軽な口調で言っ
た。
やつは、俺の深刻な悩みなど、これっぽっちも知りはしない。
肉の交渉が皆無になった十ヶ月近くもの間、華代は俺の仕打ちに耐え
ていた。俺は一分、いや一秒でも早く、あいつが出て行くことを望んで
いた。
そのはず、だった。
だが、俺はあいつが見せた、二ヶ月の笑顔が好きだった。俺の病気が
治ったとき、あいつは最高の笑顔を見せた。あの夜の俺たちのセックス
は、しっかり気持ちの入った、メーキング・ラブだった。
俺は、あいつの作る、ありきたりのギョーザも、カレーもハンバーグ
も好きだった。出て行ったあと、俺はありふれた物が無性に恋しくなっ
た。
俺は思った――がらにもなく、メーキング・ラブなどしたのがまちが
いだった。
果てたあとの虚しさは、至福の時をはるかに上回り、俺は、華代を失
った。
だが、凡庸なるものを拒絶していた俺には、その事実は承服しがたい
悪夢だった。だから、俺は、こそこそロスに逃げて来た。
俺が日本に帰るわけは、明快すぎるほど単純だ。
俺は華代と同じ空気が吸いたくなった。
おそらく華代にはもう、二度と会えないだろう。だから俺は、あいつ
と同じ空気を吸って、思いっきり後悔を吐き出すつもりだ。
そうしなければ、俺は自信を取り戻せない。
どうしてか、ってかい?哲と全く反対の理由で、同じことが起きたの
さ。
いざとなると、華代の青ざめた寂しげな顔が、抱いてる女とすりかわ
るんだ。目を閉じてトライもしたが、瞼の裏側に現れる。とたんに俺の
肉キノコは縮み上がって、果てる前にさよならさ。
残酷な仕打ちのしっぺ返しを、俺はもろに受けて、心まで縮み上がっ
ちまった。
だが、そんな俺の悩みなど、ちっぽけすぎてあほらしい、と言わんば
かりの素知らぬ顔で、今夜も、ダウンタウンはきらびやかに彩られ、ま
ばゆい輝きを放っている。
ちっちゃかったおっぱいにシリコンを入れたら、おっきくなった のはいいけど今度は感度が悪くなった。もまれても吸われても触ら れても、どんなに素敵なシチュエーションで性交しても、少しも気 持ちよくならない。気分が高揚しきらなくておっぱい以外のところ まで、気持ちよくならない。あたしが感じてないって相手にばれな いように、相手の動きや息使いに合わせてかんじるふりをしている うちに精神的に疲れ果ててしまうのだ。あたしの上やうしろや前や したではあはあって一生懸命にしている相手にたいして、入れてう ごかして気持ちよさそうにしているあいつに対して、かんじたふり をしながら殺意をいだいていたりするのだ。不平等だよ。 あいつはマザコンだから、あたしよりもきっと青森にいるママの 方がずっとずっと好きだから、あいつのママにあいつをとられたま まにしたくなくて、ちょっとでもママみたいになりたくて、ママみ たいになるってどうすればいいのかあたしなりに考えた結果が豊胸 手術だったのだ。赤ちゃんをうむとママはみんなおっぱいがおっき くなるでしょ?だから、おっぱいがおっきくなるとそれだけママに なれるんじゃないかなって。あいつのママよりママになって、あた しがあいつのママになるのだ。その結果がこれ。 むだに重いんだよ、これが。 すけべそうな女の医者だった。診察室をすんごくきれいにしてい て、白衣もとってもきれいで、医者なのに真っ赤なマニキュアをつ けてて、メイクも完璧で、もともときれいな顔をもっともっとずっ とずっときれいにしていて、大人で知的で清楚で可憐なんだけど、 くちびるだけがほかの生き物なのだ。診察室にはいると、くちびる があたしを見ていた。くちびるがあたしに話しかけて来て、くちび るがあたしに偉そうなことをいった。 「まだ若いんだから、むりして豊胸しなくても」と、くちびる。 「これからだって大きくなる可能性が」と、くちびる。 「お母さんに相談してみたら」と、くちびるをエッチに歪めなが らくちびるがあたしに。 あたしはママになりたいのだった。あいつのあたらしいママにな るためおっぱいをおっきくするのだった。そう正直にいったとした らくちびるはあたしをどうしただろう。くちびるはわらって、あた しをどうしただろう。くちびるはきっとわらうのだ。上品にわらい ながらちょっぴりひらいた唇の間に真っ赤な舌が虫みたいにちろち ろと。笑いながらあたしのまがった考えをあらためさせようとする のだ。あたしのまだひらべったかったおっぱいをくちびるで見なが ら、くちびるはこういうのだ。 ヌ☆ぢしりあいのカウンセラーを」 てきとうなことをいった。おかねはあるのだ。ずっとためてきた お年玉貯金とおばあちゃんからもらったきれいな指輪をうってつく ったあたしのお金。 おかねがあればたいがいのことはどうにかなっちゃう。 ママになりたい。すきな人のママになりたいってそんなに変なこ となのか。あなただってママから生まれたのだ。ママのおっぱいか らおっぱいをすったのだ。あたしはままになりたい、ただそれだけ のためにおっぱいをおっきくするのだ。あなただってママになりた くないの。素敵なママに。 お金と手術であたしはあいつのママになるの。 くちびるにおっぱいだけのもんすたー。はるの句です。 感度がわるくなったって気がついたのが五月だったからはるの句 なのだ。あいつに秘密で手術を受けて、退院してしばらくエッチは しちゃだめで、それにベッドのなかで初めて見せてあいつを驚かそ うとかくしにかくしてさらしを巻いて、そんなあたしのかげの努力 をまったく知らずにしようとしてくるあいつを押しとどめて、言葉 でどうにか我慢させて、そしてようやくおとずれた五月の七日、郊 外にあるラブホのまわらないベッドの上で、何の感動もなくいきな りむしゃぶりついてきたあいつのくちびるの感触のなさに驚いたの だ。だえきにどんどんびしょぬれていくあたしの乳首はあたしの乳 首じゃなかった。なんかべつのいきもの。くちびるの女医のくちび るみたいに。ろっ骨の上に皮膚で包まれたプリンがふたつ。 おいしそうになめているおとこ。 なんの反応もなくなめられ続けているあたしのおっぱい。 きもちよさそうにほおずりするおとこ。 にせもののおっぱいでも充分に気持ちいいらしい。 されるままのきもちよくならないおっぱい。 唾液にぬれていくおっぱいとたたない乳首。 あたしはママになれたのか、なれていたのか。 皮膚の下のシリコンがまだからだになじんでないからだと、そう 思って気持ちよくならなくてもしばらくそのままにしていたのだけ れどもさっぱり気持ちよくならないのだ。気持ちよくならないかわ りにあたしは演技のいろはを学んでしまった。あいつの顔の変化に 合わせてのぼりつめていって最後の最後でいったふりをする。いく ふりはこれまでもよくやっていたけれど、みがきのかかったあたし の演技を見てみろとあたしはかすかにけいれんするふりをする。 その後はおっぱいでたくさんの抱擁フルコース。あいつの頭の中 におっぱいがいっぱい。 気持ちよさそうにあたしのおっぱいを枕におっぱいの夢を見てい る男のなんという満足そうなねがお。 爪かみしながらあまったれた大人の男の声でヌ☆ぢママヌ:ぢとぽつり。 あたしはあなたのママなのよとおっぱいの上のあいつのかわいい あたまをやさしくなでなで。 あたしはこいつのママになれたってはじめのうちは思い込んでい たけれど、こいつの中であたしはあたしでママはママ、永遠にいれ かわることのない関係なのだった。あたしの生殖器はいつまでもあ いつをうけ入れるものであって、あいつを生み出したりできるもの ではない。たとえあたしがあいつのまえからとつぜんいなくなった としてもあいつはあいつのママの生殖器に再びもぐり込むだけでい つもの日常に戻れるのだ。 あたしの払った犠牲はどうしてくれる。 食欲と同じくらいに性欲のうらみもおそろしいのだよ。 いつまでも気持ちよくなることのないだろうおっぱいをぶら下げ てあたしはあいつに殺意を抱きながらこのまま年老いていくのだ。
9時か・・ かれこれ半日眠っていたことになる。どうやら眠りすぎたようで、 頭の芯が疼く。俺は痛むこめかみを揉みほぐしながら、昨夜の夢を 思い出そうとした。 快晴の春の午後、俺はドライブをしている。 右一面は海、左脇には色とりどりの花が地面を覆い尽している。そ の中を深いワインレッドの車体が静かに滑ってゆく。しばらく進ん だところで左に進路を変える。すると車は、突然ふわっと浮き、緩 やかに進みながら高度を上げる。振り返ると今まで通ってきた道が 一望できた。眼下は見渡すかぎりの花畑である。川を過ぎると上空 に小さな光が現れた。瞬間、車は急加速し、まっしぐらに光源に向 かってゆく。その核は輝度を増し、やがて巨大な塊となり俺はあま りの眩しさに目を閉じた。 バイクツーリングの帰り、高速を出て幹線道路に入るといきなり 大渋滞である。信号が赤に変わるまでに10メートル程をじりじり と進むだけだ。日曜の夕方の混み具合ではない。おそらく事故かな にかだろう。 道の脇を原付バイクが次々に通り過ぎる。これをやら れると、さらにイライラがつのる。渋滞が我慢ならないので、わざ わざ車を手放してまで500ccのバイクに乗り換えたのだが、こ こまでの渋滞になるとお手上げだ。今度は原付バイクにでもするか。 気持ちを静めるつもりで、国道沿いに並ぶ看板をぼんやりと眺め てみる。大資本のチェーン店やガソリンスタンドの間に、いかにも 安普請の貧相な中古車センターが建っていた。張り巡らされた菱形 金網の中にプレハブの事務所と、車を4〜5台並べただけの、なん ともお気楽な造りである。こんな店、前からあったっけ ? しかし 次の一瞬、目がくぎ付けになった。まばらに散った展示車の中にあ の車を発見したのだ。この時まで昨夜の夢のことなど、すっかり忘 れていたが、きっかけを与えられて鮮やかに蘇った。 店の駐車スペースにバイクを停め、車に近づいた。実物のほうが 一層、魅惑的な色だ。黒をベースに数種の赤を重ね塗りしたような、 あえて近い色となるとボルドーだが、どこか微妙に違う。とにかく 今までに見たことのないワインレッドである。なんとなくブリキの おもちゃを連想させる丸みをおびた不器用なデザインと、やたらと 輝く金属製バンパーも新鮮だ。 「コレ、いい車でしょう。きのう入って来たばかりなんですよ」 熱心に見ている俺の様子を見て店員が声をかけてきた。小太りで、 笑うと浅黒い顔に深いしわが浮き出た。人のよさそうな男ではある が、太極拳の達人が素人目にはスキだらけに映るように、えてして、 こんな男ほど油断がならないものだ。信楽焼のタヌキのようなこの 体型も、あえて客を安心させるために意図的に造られたものかも知 れない。・・・そんな訳ないか。 俺は値段を確かめるためにプライスカードを探したが、どこにもな い。すでに気持ちは決まっていても、まだ半分以上残っているバイ クのローンのことを考えれば、一円でも安く買いたい。俺は気持ち を悟られないように淡々と訊いた。 「一応、値段だけでも聞いておこうと思うんだけど」 男は、せまい額と髪の生え際にうっすらと汗を滲ませながら、盛 んに、これが買得車であることを強調した。そして走行メータが故 障していること、傷んでいる後部バンパーは交換して納車すること 等、問題点も説明した。最後に男が示した値段は驚くほど安かった。 良心的な店に思えたが、念のため俺はボンネット内とサイドブレー キを調べた。どちらも中古車を購入する際の大切なポイントだ。ボ ンネット内の塗料と車体が別の色だったりすると、大きな事故での 全塗装を疑う必要がある。また走行距離を偽って販売する場合もあ るので、サイドブレーキの効き具合などで実走距離の見当をつける のだ。結果、ボンネット内に事故の痕は窺えなかったし、サイドも 鋼ワイヤーが締まるときのギリッという歯切れのいい音がした。合 格である。俺は購入する旨を告げ、勧めにしたがって男のあとにつ いて行き事務所で手続きを済ませた。 納車当日、下取りに出すバイクで中古車センターに乗りつけると、 そのエンジン音に気づいて男が駆け寄ってきた。 「後ろのバンパーは新品に換えておきましたから」 男は“新品”を発音で強調しながら車の後ろに回り込み、確認を 求めるようにバンパーを指さした。俺はバイクと引き換えに書類と キーを受け取って運転席に乗り込んだ。はじめて乗った車とはとて も思えないほど、シートやステアリングはしっとりと吸いついた。 店をあとにする時ルームミラーを見ると、男はいつまでも頭を下 げていた。その頭頂部は透けていて、褐色の地肌が西日を鈍く反射 した。走り始めるとこの車の問題点もはっきり分った。男の言って いた通り、走行メーターは動く気配がない。一桁目がまわり始めて 8が半分ほど覗いたところで戻ってしまう。おそらく壊れたオルゴ ールのような事になっているのだろう。俺は男が送り出す時に言っ たセリフを思い起こした。 『偶然にしても777で走行メーターが壊れているなんて、縁起が いいですよね。 それじゃいってらっしゃい、ラッキースタート』 気の向くままに走らせていると、ずいぶん遠くの町まで来てしま った。俺はなにげなく腕時計を見て一瞬、目を疑った。深夜の11 時になっているじゃないか、たしか、あの店を出たのが6時前後の はずだから、かれこれ5時間も走ったことになる。まあ腹の減り具 合から考えると、それぐらいの時間が経っていてもおかしくはない か。そんな事を考えていると、ちょうどいいタイミングで左手にフ ァミリーレストランが見えた。俺はハンドルを切り、薄暗い地下の 駐車場へつづく急角度のスロープを下った。 支払いを済ませた俺は少し気分がよい。ファミレスは無難な味な らよし、と思っていたせいもあろうが、この店はいい意味で期待を 裏切ってくれた。千円札でお釣りがくるステーキセットとはとても 思えないボリューム、肉の味、焼きかげん、いずれも満足のゆくも のだ。 たまたま飛び込んだ店が大当たりだなんて。思わぬ掘り出し 物を見つけてしまった。 ひょっとしてスリーセブンのご利益かもし れない。さあ帰ろう、今日も気持ちよく眠れそうだ。 帰りの地下駐車場のスロープを昇る途中で疑問を感じて車を止め た。上体をねじり窓から後ろをみる。暗い駐車場のコンクリートに 反射する赤い灯がアンバランスだ。俺は車がすべり落ちないように サイドブレーキをしっかり引き、後ろに回った。やはり左側のテー ルランプがきれている。しかたがない、あしたもう一度あの店に行 こう。確認を終えて運転席に戻ろうとした時、車体の底あたりから 何かが滴り落ちて、俺の足もとに流れ落ちてきた。暗くて液体の種 類は判らないが、粘り気の強いもののように思える。オイルでも漏 れているのかもしれない。どこから漏れているのか、この際たしか めておくか。そう思って俺が膝をつき覗き込むのと同時に、がらん とした地下駐車場の中にギリッという乾いた音が響いた。 学生風の青年が熱心に覗き込んでいるのを見て、男は話しかけた。 「コレ、いい車でしょう。きのう入って来たばかりなんですよ。バ ンパーはへこんでますけど、納車までに新しいのと取り替えておき ますので。あ、その走行メーターは故障して止まったままなんです よ。それにしても惜しいなぁ、778だなんて」
「始めから話していただけますか?」 「今、こっちの先生に説明した所なんですが…、又やるんですか?」 「是非お願いします」 後からやってきた院長とその息子だとかいう若い男の後ろに、先 ほど説明を受けた医者は廻ってしまった。 ウンザリしながらも、点滴の管を刺した腕に目をやった私は、先 ほどと同じ話をまた始めた。 私は一周間ほど前から風邪をこじらせて寝ていましたが、今年の 風邪は胃にくるようで、すごい下痢をしてしまっていました。脱水 症状になるのだけは避けようと、ポカリを買いこんで水しか出なく なった身体に鞭打ってトイレを往復していたんですが、独り身の病 気ほど悲しい物はありません。身体だけは丈夫が取り柄の私でした から、ダイエットに都合が良い位に安易な気持ちでいたんですが、 食欲は無いので何も食べられずポカリで生活していても、おならは 出るがウンチが出ないという、なんとも悲しい状況で、今まで便秘 なんぞという物になったこともない私は、ちょっと身体の事が心配 になってしまっていました。 とにかく、私が電気カーペットとストーブを点け、毛布に包まっ て横になってテレビを見ていると、この間買った通販のねずみ退治 の機械が半値以下になっているのが頭に来て、チャンネルを変えた ときにそれが起こりました。 始めは何の気なしに自然に出たんですが、「消えろ」といいまし た。もちろん「消えろ」というのは、それが無くなれば面白いなと いう単純な気持ちであって、まさか本当に消えてしまうなんてこと は全然考えていませんでしたよ。あれは生番組だったからビックリ してしまいました。だって、鼻の穴が見えてましたからねぇ。 ところが、当然「しばらくお待ち下さい」ってのに変わるかと思 いましたし、きっとディレクターは首だろうなぁ、なんて事も一瞬 頭をかすめましたが、テレビはそのまま放送を続けたんです。 あぁ…。私がその「消えろ」という前には、どんな人でも鼻飾り をつけてたんですよ。でも皆さんは、鼻飾りという物を知らないん ですよね。鼻の穴を見えない様にする道具なんですが…。まぁ、た いした事じゃないです。 で、私はちょっと興奮してしまって、ものは試しという事で、半 信半疑のままテレビに映っていた女性アナウンサーに向かって「消 えろ」って言ってみました。そしたら驚いたことに、話かけていた 男性のアナウンサー、あぁニュースキャスターっていうんでしたっ け? その男性は一瞬ハッとした様子でしたが、何事も無かったよ うにニュースを続けてしまいました。もちろんその女性は消えてし まいました。 何故気付かない振りをしてるんだろうと始めは思いましたが、何 度か試しているうちに、振りじゃなくて初めから無かった事になっ ているという事に気付きました。 その時に消したのは、ニュースの中で男性がしていたネクタイと メガネ。それから吸っていたタバコですかね。 あぁ、それまではアナウンサーってタバコを吸いながらニュース を読むのが流行だったんですよ。そんな馬鹿な事と思ってるでしょ うけどね。 ただ、不思議に思ったのは、始めの鼻飾りは私のも含めてどのテ レビでも映っていないところをみると全世界の鼻飾りが無くなった ようですが、後は特定の物だけでした。これはきっと「あいつの」 っていう感情が入っていたからだと思います。 テレビに映っている人や物だけじゃなくて、そこいら辺にあるモ ノについても、消えろと思って声に出すと同じ結果でした。そして 誰もその存在を意識していないというか、初めから存在していない と思っているようです。 でもこれって風邪の所為で熱が出ていて、夢でも見てるんだろう 位に思ったのも事実です。馬鹿な夢を見るもんだなぁなんてね。 「ほぅ、夢だと思いましたか?」 今まで黙って聞いていた院長が話を止めた。 「えぇその時はね…。だってそんな事ありえないでしょ」 「まぁそうですね…。それからどうしました?」 いつのまにか寝てしまったようで…、あぁ本当はずっと寝ていた のかも知れませんが、とにかく目が醒めてエンジでも舐めようと思 ったらエンジがありませんでした。少し調子も良くなってきたし、 ずっと舐めてなかったもんですから、舐めたくなったんです。でも エンジはありませんでした。エイルはあるんですよ。でもエンジが 無いんです。 エンジとエイルって…、皆さん知らないでしょうけど、昔アメリ カ、ア・アメリカ、はありますよね? 良かった。そのアメリカを発見したコロンブスが、現地で大量に 発生しているのを発見したんです。昔はヨーロッパを中心にいたよ うなんですが、乱獲のせいで絶滅したと思われていましたが、現地 人が舐めているのをヨーロッパに戻したというんで有名になったん ですよ。タバコや梅毒と一緒にヨーロッパに蔓延したと私は聞いて ますが…、皆さん御存知、ないでしょうねぇ。 エンジっていうのは童話に出てくる妖精みたいな感じの動物なん ですが、スーパーの食料品売り場に1ケース500円位で売ってま した。エイルは植物でやっぱりセットで売ってましたねぇ。殆どの 家でオヤツみたいな感覚で舐めていました。エンジは余り高くは飛 べないんですが、今はもう無くなってしまったエイルをエンジに付 けるとエンジの頭に丸くエイルが合体してしまうんです。そして始 めは赤いんですが段々白くなって、ゼリー状に溶けるっていうんで すかね。どろどろになるんですが、それをペロペロっと舐めるんで すよ。なんていったらいいのか、舐めてるととってもホンワリとし て気持ちがいいんです。心が落ち着くんですよね。一種の麻薬みた いなもんなんでしょうが、人体に影響は無いという事で、スーパー やコンビニなんかでも売ってます。飲みこんでしまう人もいますが、 殆どの人は無くなるまで舐めましたねぇ。栄養価も高くてどこの家 でも台所に5・6匹は紐で繋いでありました。 でも多分これは寝ている間にきっと私が消してしまったんだと思 いますよ。そう考えたらエイルもいらないから、消してしまいまし た。結局どっちも無くなって、今じゃ誰も知らないから、証拠なん てありませんけどね。 えっ? 天使? さぁ、私は聞いた事はありませんが…。 ところで、お水を貰えますか? ちょっと喉が乾いてしまいまし て…。あぁ。どうもすいません。 「ところで、どうして精神科の方に来たんですか?」 「どうしてって。これって病気でしょ? 私はそう思ったから来た んですけど…」 「まぁ、精神的な事もあるでしょうが、風邪の熱が原因でしょうな」 「風邪の熱で、モノが消えてしまうんですか?」 「幻…、いや思い違いですな。貴方とは逆に、消さないで創造して しまうと訴えてくる患者さんもいますからな」 「でも、本当に消えてしまうんですよ」 私は院長にいったが信じてはいないようだ。まぁそれが当たり前 だろう。 「それでは、どうですか。今この場で彼を消して見ませんか?」 自分の息子を指して、院長は軽く笑った。 「えっ、消してしまっていいんですか?」 「どうぞ、どうぞ」 私は少し腹がたったので、若い男を睨んで言ってしまった。 「消えろ」 「どうです? 何も起こらないでしょう。まぁ栄養失調になってい ますんで、2・3日は安静ですが、すぐに退院できますから…。そ れじゃお大事に」 院長と担当医は二人だけで部屋を出ていった。彼には他に跡取と なる人がいるんだろうか?
僕を初めて気を失うくらい激しく殴ったのは、僕をいじめと、そ して自殺から救ってくれた輝彦君だった。 僕は当時中学校でひどくいじめられていた。きっかけはすごく些 細なことで、入学式の日におじいちゃんとおばあちゃんから貰った 入学祝いを嬉しくて封筒のまんま財布に入れているのをクラスの神 崎君とその取り巻きに見られた。「お前金持ちやの」そう言って同 じ場所に立っているのに十五センチも上から見下ろされる視線で睨 まれ僕は動けなくなった。動けない僕の周りを取り巻き達が囲んだ。 その夜は大好きなおじいちゃんとおばあちゃんから貰った入学祝い のほとんどをあげてしまったのが悔しくて枕を殴りつけながら泣い た。 でも悔しさは次の日からみるみる萎縮していき豆粒ほども残らな かった。代わりに恐怖が僕を塗りつぶしていった。僕が彼等の要求 を断ると彼等は僕に暴力を振るった。最初に取り巻き達が僕の足を 肩を腹をそして顔を殴る蹴るして最後にいつも神崎君が刑事ドラマ であるみたいに腕を捻り上げた。 いじめはどんどんきつくなり、秋の終る頃には月に五万円くらい 取られた。その頃はどうしようもなくなってお父さんの財布からお 金を抜き取った。悔しかったけど殴られる度に恐怖がそれを忘れさ せた。輝彦君が転校してきたのはその頃だった。 輝彦君は中途半端な時期に転校してきたせいもあるだろうけどそ の容貌でなかなかクラスに馴染めなかった。すごく不細工という訳 ではない。むしろかっこいい。体つきもがっしりしてて背も高かっ た。ただ右腕の肘から先がなかった。噂で前の学校で野球部の練習 の帰りに交通事故にあって腕をなくしたという。 輝彦君の席は僕の隣になった。偶然か必然か、僕の隣の席が開い てたからだ。いじめの続く生活の中で新しい友達が出来そうな予感 に僕は喜び勇んで「よろしく」といって、思わず右手を差し出して しまった。謝る僕に輝彦君は「気にせんでええで」と笑いかけてく れたけど、なんか気まずくなってしまった。 もういじめはお金と暴力だけではなくなっていた。デパートで万 引きをさせられた。学校ではトイレで正座させられたり、昼休みじ ゅう椅子に縛り付けられたりした。でも誰にも相談できなかった。 先生はいじめを知ってて見て見ぬ振りを続けていたし、家族には、 とても言えなかった。僕は家では元気で強い男の子だった。耐える しかなかった。誰かに言ったら幸せな僕が住む世界までもが壊れて しまう気がした。 ある日の昼休みにみんなのまえで服を全部脱がされて箒でチンコ をつつかれ勃起させられた。服を全部脱げと言われたとき僕は首を 横に振った。いくら何でも許せなかった。なのに彼等の手が僕にの びてくると蛇に睨まれたカエルみたいに動けなくなってなすがまま 服を脱がされた。取り巻き達が僕の手足を押さえ付け神崎君がやわ らかい箒で僕のをいじった。男の子も女の子もクラスのみんなが僕 を嘲り笑うような哀れむような目で見ているのに気が付き涙が出て きた。そのとき輝彦君だけがただグラウンドを眺めて僕の方を一度 も見なかったのを憶えている。うまく言えないけど、たぶん嬉しか った。神崎君は箒の次には黒板消しで僕のをいじり始めた。背中を 電流が走る。僕は顔を背け目をかたくつむった。でも涙が流れた。 悔しくて、悔しくて。そして…。そして、その夜、遺書を書いた。 次の日の放課後に学校の裏のゴミ焼却場に呼び出されてお金を要 求された。僕はお金の代わりに遺書を渡して「もう死んでやる」と 言った。でも神崎君は「いつからそんな勇気できたッちゅーねん。 それにや、遺書わしに渡してどうすっちゅーねん」と言って笑い飛 ばした。遺書の中に彼等の名前と呪ってやると書いたときのかりそ めの勇気は情けないほどあっさり恐怖に塗りつぶされた。今、この ときが死ぬよりずっと恐かった。膝ががくがくした。「あほや、こ いつ。おい、いてまえ」神崎君のその合図で取り巻き達が僕を殴り 始めた。そのとき視界の端に一つの人影が見えた。先生かと思って 期待したけど違った。輝彦君だった。輝彦君は何も言わずつかつか と近づいてきて、なんだなんだ、という感じで輝彦君にガンを飛ば していた取り巻き達の一人のみぞおちをものすごい勢いで蹴り抜い た。体が一瞬浮いて地面に落ちたときには口から泡を吹いていた。 呆気に取られているうちに取り巻きの残りの二人も地面に倒れた。 立ちすくんで「なんや、おま…」といいかけた神崎君の顎を左の剛 腕が打ち抜いた。輝彦君は白目を剥いて倒れる神崎君の手から遺書 を取ると焼却炉にそれを投げ入れ僕の方を向くと、最後に助かった 安堵感と彼等がやっつけられた爽快感で微笑んでいた僕の顔面を、 思いっきり、たぶん一番強く、殴りつけた。 気が着くと僕はグラウンドのはしっこにある枯れて茶色になった 芝生の上にいた。輝彦君が側に座っていた。輝彦君はちらっと僕を みたけどそれっきり野球部の練習を眺めるだけで何も言わなかった。 僕には聞きたいことがたくさんあった。でも嬉しさやら腹立たしさ やらがもう訳が分からなくなって顔を真っ赤にして搾り出すように 「なんで…」と言うのがやっとだった。冬の風が二人のあいだを駆 け抜けた。だんだん僕の表情は普通に戻り、時間は正常に流れ始め た。そして輝彦君は言った。 「たいしたことないやろ」 「えっ?」 「気ぃ−失うくらい殴られたかてたいしたことあらへんやろ?」 顔は少しずきずきしたけど、確かにたいしたことなかった。僕が殴 られ続けたのも、殴り返せなかったのもそれを知らなかったからな のかもしれない。 「うん…たいしたことない」 「そういうもんやっちゅーことやな」 輝彦君はずっとグランドを眺めたまま左手でなくなった右腕をさす るようにしながら僕と話した。あるいは輝彦君自身と。 次の朝、学校に行く途中で予想通り神崎君達に捕まった。狭い路 地裏に連れていかれて襟首をつかまれコンクリートの塀に叩き付け られた。内心すごく恐かったけど僕はただ昨日から思っていた通り のことをやった。 何も言わずにただ神崎君の目を睨み返した。一瞬も目を放さず、た だじっと。神崎君の顔に怒りに満ちてきて、そして殴られた。次の 瞬間、本当に、呆気ないほど簡単に僕の腕は動いた。それまではい つも首をすぼめて手を前に突き出すか、殴られたところを両手で覆 うかだけだったのに、自分でも信じられないくらい力強く神崎君の 鼻っ面を殴りつけた。また殴られるかなって思ったけど、もう殴ら れなかった。神崎君は鼻血を流し始め両手で鼻を押さえていた。取 り巻き達は何も言わず突っ立っていた。なんか阿呆らしくて悲しく なってきた。溜息がでそうなやるせなさの中で、今までの自分の事 を思い、輝彦君の事を思った。 これは僕がどうやっていじめを克服したかという話ではない。僕 がどうやって輝彦君と友達になったかという話だ。今ではお互いあ の頃と同じくらいの子供がいる。僕は製薬会社の研究室で働き、妻 との間には男の子と女の子が一人ずつ出来た。輝彦君は中学校の国 語の先生になってクラブ活動で野球を教えている。子供は男の子が 一人だけど、うちの長男と同い年で一緒に輝彦監督の基で野球をし ている。 僕らはお互い数少ない子供の頃から付き合いが続いている親友で 名前を呼び捨てする間柄だ。なのに僕は心の中では今でも輝彦君と 呼んでしまう。それが少し、寂しくも、嬉しい。
私は、夫を愛している。 夫も、私を愛している。 光子は、何度も何度もつぶやいた。幸福を約束してくれる呪文の ように。唯一の真理であるかのように。 光子の夫は10歳年上で、仕事の都合で全国各地を転々としつつ、 20年来1人暮らしをしてきた。 初めて会った時に、転勤は定年まで続くこと、ゆえに家を持つのは 定年後になること、住宅は全国に社宅があること、などの話をされ、 それでも構わないだろうか、と尋ねられた。 仲人から、夫が社内では幹部候補生であることを既に聞かされて おり、社会で成功しつつある男から必要とされることは、光子のプ ライドを十二分に満足させるものだった。 光子は、自分の返答を待っている目の前の男に、我ながら驚くほ ど急速に好意を覚えたのだった。 結婚前、6回目のデートの時、夫はごく自然に光子をホテルへ誘っ た。光子は処女だった。緊張で息が詰まるひとときだったが、それ よりも他人との肌の触れ合いによる感動は大きく、総てを相手に委 ねかつ受け入れるという行為の心地よさに光子は夢中になった。夫 は、30歳の光子が処女であったことを素直に驚き、喜び、愛おしん でくれた。光子は、幸せだった。 結婚休暇も今日で最後、という日の夜、突然、夫は光子に告げた。 唐突に、と言ってもいいくらいに、それは出し抜けに語られた。 ・食事は総て和食、一汁三菜を基本にすること ・ダシは昆布とかつお節でとること ・なるべく添加物の無い調味料を使うこと ・出来合いの惣菜は一切買わないこと ・出勤の際は弁当を作ること 以上の旨を言い終わった時、夫はほっとしたように安堵の表情を 浮かべたが、聞かされた光子は、さっきの夕食に奮発したステーキ とワインが喉元から逆流しそうな気分になった。 しかし、要求されるのは悪いことではないはずだ。 最悪なのは、無関心なのだから。 少なくとも夫は私に期待をしている。そうだ。期待に応えたい。 応えることで、愛情を示すべきなのだ。 そこまで考えるに至って、光子はようやく心の落ち着きを取り 戻した。 明日から頑張らなくちゃ。 光子は、ふと寝返りをうった。すると、それを待っていたかのよ うに、夫が身体を寄せてきた。性急で短いセックスだったが、なぜ か光子は、いつになく強い快感を覚えたのだった。乾き過ぎた喉を うるおす水の味ほどではなかったが。 翌朝、光子は5時に起き、7時に家を出る夫のための弁当と一汁三 菜の朝食の用意に奮闘した。 夫は6時15分きっかりに起床してくると、光子に日本茶を要求し た。緑茶を、との言葉に、やっと一息つかんとしていた光子は飛び 上がって、薬缶に水を入れ火にかけた。お湯は、朝一番に沸かして おくものだ、と、広げた朝刊の向こうから夫が言った。淡々とした 声だった。光子は、すみません、と小さく答えるのが精一杯だった。 ふと気がつくと、夫の姿が食卓から消えていた。 慌てた光子が奥の部屋へ行くと、夫はさっさと一人で身支度を終 えたところだった。夫は、無表情だった。 間の悪さに、光子はいたたまれなかった。 その朝、7時きっかりに夫を送りだした後、光子はかつてない疲労 感を覚え、しばしの間玄関先に座り込んでいた。 だが、食卓を見た時の衝撃は、それに勝っていた。 光子がなけなしの智恵を絞って作った大根の味噌汁と卵焼きとお 浸しは、それぞれひと箸つけただけで残されていた。白飯と焼き海 苔だけが無くなっている。慌てて入れた緑茶もほぼ手つかずという 有り様だった。 気を取り直し、反省の気持ちを込めて、光子は夫の残り物で自分 の朝食をとった。 なるほど、確かに味噌汁のダシは夫の希望とは異なり煮干しだっ たし、卵焼きを作る時ついついうまみ調味料をひと振りしてしまっ た。ほうれん草はやや茹で過ぎで色も悪く、使った醤油は夫の希望 とは異なる大手メーカーのものだった。とどめは、正しい入れ方を 知らない緑茶で、色も薄く香りは失われていた。 それにしても、ほとんど、残すなんて。 でも、もしも、夫が、これを全部残さず食べていたとしたら? 私は、喜んだだろうか? 夫の、本当の気持ちに気づきもせずに? 違う。残してくれて良かったのだ。夫は、自分に、もっといい妻 になって欲しいと願っているのだ。期待してくれているのだ。 期待されている、という思いが、気持ちの滞りの総てを解決する ような気がした。期待に応えたい。頑張らなければ。 それに。 20年も独身生活をしてきて、せっかく結婚した妻が、こんな食事 しか作れない女だったなんて。夫は優しい人だから今まで何も言わ なかったけれど、きっととてもショックだったに違いない。夫は自 分を愛してくれている。愛してくれているからこそ。 今日は、やることがたくさんあるわ。 新婚旅行の荷物を全部ほどき終わっていなかった。まず、あれを 片付けよう。その前に布団をたたもう。 光子は、寝室に入りかけて、足をとめた。 布団はすでに押し入れに片付けられていた。がらんとした部屋の 隅に、布団のカバー類と夫のパジャマきちんとたたまれ、置かれて いた。 カバー類は、毎日取り替えること。 夫の声が、聞こえたような気がした。 まず、洗濯を、しなくちゃ。 光子は、頭の中が混乱した。 それとも、晴れているから、まず布団を干した方がいいかしら。 布団を、干そう。 敷き布団だけ?それとも掛け布団も? ふすまを開け、夢中で布団をひきずり下ろし、勢い余って尻餅を ついた。下の段に、旅行荷物が詰まっていたはずのトランクがしま われていた。 洗濯機を、回さなければ。 あたふたと洗濯機に水を入れ、洗剤を計っている途中で、布団を 干しかけていたことを思い出した。 布団、干さなくちゃ。 乱暴に突っ込まれた洗剤の計量カップが勢い余って、ざらあっと、 辺りに洗剤をまき散らした。 いけない。 雑巾を手にとった瞬間に、布団を干す前にフェンスを拭かなけれ ば、と思いつき、そのままベランダへ飛び出した。 ベランダは、箒の跡目が残るほどに掃き清められており、せっか く拭いた雑巾には、ほとんど汚れがついてこなかった。 掃除したのは誰か。決まっている。 惚けたように、光子はベランダにたたずんだ。 足下に取り落とした雑巾から水分が滲み出して、じわじわと黒っ ぽいシミがコンクリートの上に広がった。 電話が、鳴っていた。 ぼんやりと電話の方を見やった光子は、突然弾かれたようにサン ダルを脱ぎ捨て、受話器を取った。夫からだった。 8時半頃に帰宅予定、とのことだった。 時計は、いつのまにか10時にならんとしていた。 あと、10時間もない。 光子は、財布を胸にかき抱き、必死の形相で玄関を出た。 無添加の、醤油と、昆布と、かつおぶしと。 駅前のスーパーへと急ぐ途中、何度も足がもつれて転びそうになっ た。光子は、いつのまにか全速力で走っていた。 何人かの人が振り返って光子のことを見た。 光子の眼にはいま、何も映っていなかった。何も見えない。聞こ えない。 スーパーのカゴを手に取ろうとして、突然、窓も、玄関も、一切 の施錠をしてこなかった事に気がついた。 光子は、その場で気を失った。
玄関を出たところに、それはあった。 「いったいどこのどいつだ。こんなもんを人の家の前に置いていっ たのは」 私は憤慨して辺りを見回した。しかし人影はなく、雀がちゅんち ゅんと鳴いているだけであった。 普段と何ひとつ変わらぬはずの朝、先日銀婚式を向かえた妻に見 送られ、いつものように会社に向かおうとドアを開けた矢先の出来 事であった。 それはどう見ても『戦車』だった。 重量感たっぷりの巨大な鉄の塊。黒々と小山のように横たわるそ の姿から受ける印象は、『恐怖』であり『威圧』である。 戸惑う私たちなどにかまう事なく、それは頑として、ひたすら圧 倒的に目の前に存在していた。 「これはしかし、本物だろうか」 と、私は妻に向かって聞いてみた。 「さあ、どうでしょう」 私、本物の戦車なんか今まで見たことありませんもの、と妻は予 想通りの返答をよこした。 「とにかく警察に電話だな」 「あなた、あれ」 妻が、車体から前方へ突き出ている大砲を指差した。見ると砲身 の中程にテープで貼紙がとめてあり、そこにはマジックで 『お邪魔でしたら移動してください』 と、書かれてあった。 私はしばし妻と顔を見合わせたが、妻は、何しろ今のままじゃ近 所に体裁が悪くってしようがないから、そこの空き地まで移動させ てくださいな、と私に訴えた。 「じゃあ、そうするか」 私はしぶしぶ同意した。 「ここから入るみたいよ」 前掛けをつけたままの妻が、いつの間にか分厚い装甲板の上に身 体を乗り上げ、入り口らしき円盤状のハッチを起こしていた。声が どことなく嬉々としている。 車内は薄暗く、狭かった。私は運転席とおぼしき、小さな窓が正 面を見据えている座席に尻を落ち着けた。 「それよ、そのキーを回してエンジンかけて」 後ろの席から妻が指示してきた。どこから探し出したのか、その 手には『90式戦車----操縦マニュアル』なる分厚い説明書が開かれ ていた。 「こ、こうか?」 私は右手にあるキーを捻った。エンジンが唸りを上げ、計器類が 動き出した。ディーゼルの音と振動が腹の底から響いてくる。どう 考えても本物の迫力である。 「そこのレバーよ。二本あるでしょ」 「これか?」 「二本同時に、前に押すのよ。そうっとよ」 私は両手でレバーを操作した。その瞬間、 べりっ、ごききっ、ぐっしゃあん------ 凄まじい破壊音が後方から聞こえて来た。慌てて手を止め、ハッ チから首を出して音のした方を見ると、家の玄関の一部に車体後部 がめり込んでいた。 「前に押せって言ったでしょ!」 鬼のような顔で妻が怒鳴った。レバーを前に倒すところを間違え て手前にひき、バックさせてしまったのだ。 「すまん、すまん」 反射的にレバーを目一杯前に倒す。途端に鉄の巨体は尻から黒煙 を吐き、勢いよく前進を始めた。左右のキャタピラは強大な裁断機 と化し、側溝のコンクリートの縁石をお菓子のように噛み砕いた。 「あなた、右に旋回して、右よ!」 「うわっ、まに合わない!」 かわす間もなく、今度は隣の家の大谷石の塀を、数メートルに渡 りべりべりとなぎ倒してしまった。 「いいのよ、こんな塀」 妻は平然と言ってのけた。 「前から気に入らなかったのよ、私。何よ、少しばかり亭主の稼ぎ がいいからってさ。いい気味よ! おほほほほ」 私はそんな事を平気で口にする妻を半分呆れながらも、しかし頼 もしく思った。 「あなた、前、前!」 妻が再び声を裏返した。空き地に入ったとたん、駐車中の白い車 が視界に飛び込んで来たのだ。 慌ててレバーを右にきった。今度はうまくかわして止まれたよう だ。私はほっと胸を撫で下ろした。 が、落ち着いて目の前の車高の低い車を見て、考えを改めた。何 となればこの白い車が、近所の若い奴らの暴走族仕様の車だったか らである。 こいつらときたら時間も場所も関係なく、ぼんぼんでかい音を立 てて安眠を妨害してくれる。急発進、急停車を繰り返し、辺りに砂 利をまき散らす。何度10円玉でぎーと傷を付けてやろうと思ったこ とか。 後ろから袖を引っぱられた。 振り向くと、らんらんと目を光らせ、片頬をひきつらせてサディ スティックな笑みを浮かべる妻の顔があった。こんな顔は初めて見 た。彼女は決然と言った。 「あなた、やるのよ」 妻も私と同じ気持ちだったのだ。 「よっしゃあ〜!いっくぞお〜〜!」 「行けーーっ!!」 妻が車長席から勇ましい声を上げる。私はパワーを最大にして鋼 鉄の破壊マシンを繰り出した。ぎしゃぎしゃと音を立て、暴走族の 白い車体はあっというまにキャタピラのシュレッダーにかけられた。 「やった!」 「ザマーミロってのよ!」 「わはははは」 「おほほほほ」 私たちは高笑いした。どうしようもなく、笑いが止まらないのだ。 二人とも身体の中で何かがはじけたようであった。 私たちはそのままの勢いで表通りに飛び出していた。往来の車を 蹴散らし、中央分離帯を乗り越え、大型のダンプカーを引き千切り、 電柱をなぎ倒し、ガードレールを飴のようにひん曲げて街中をじゅ うりんした。私たちは無敵だった。 「わはははは」 「おどき!どくのよ!おほほほほ」 妻を見ると、その顔は完全にイッてしまっていた。私は25年間連 れ添ってきて初めて見る妻の姿を「こんな一面もあったのか」と恍 惚の思いで見とれていた。 妻はとても美しかった。 私たちの傍若無人なふるまいは、燃料タンクが空になるまで続い た。 「馬鹿な事をしたものよのお」 「本当ですねえ」 薄もやに朝日が差す縁側で、私たちは並んで腰をおろし、遠い昔 の苦い思い出に浸っていた。 「ばあさんたら『大砲よ、大砲よ』言うてなあ」 私は、妻が、装備された120ミリ滑腔砲を操り、辺りのビルやら 牛丼屋の看板やら目がけて阿修羅のごとく撃ちまくっていたことを 思い出していた。 「ほほほほ」 そんなこともありましたわね、と妻は笑った。 あれから30年。私たちはあらゆる意味で罪の償いを余儀なくされ てきた。金婚式を迎えたのは留置場の中だった。怪我人が一人も出 なかった事が救いであったが、犯した罪は『若気のいたり』の一言 で済まされる事では到底なかった。 何故あの時あんな行動に走ってしまったか、自分でも今だによく わからない。 「あの立場になったら、誰だって私たちと同じ事をしますよ。誰だ ってね」 と、妻は言う。 私は曲がった腰を上げ、散歩に出かけるべく妻を促した。 玄関を出たところに、それはあった。 「いったいどこのどいつじゃ。こんなもんを人の家の前に置いて行 ったのは」 私は憤慨して辺りを見回した。しかし人影はなく、雀がちゅんち ゅんと鳴いているだけであった。 F-15戦闘機。 翼の下を覗き込むとミサイルが8本搭載されていた。そして機体 には、 『お邪魔でしたら移動してください』 の貼紙が----。 何であろう、この気持ちは....。身体中の血が熱くたぎる感覚は ....。魂の奥底からふつふつと沸き起こって来る、身の震えるよう な衝動は....。 「あなた」 妻の凛とした声が響いた。 見ると背筋をぴんと伸ばし、全身に生気をみなぎらせた妻が立っ ていた。顔は血色よく艶があり、とても八十に近い女とは思えない。 私と妻は、互いの目を見て大きくうなづいた。 「行くわよ、あなた!」 「行かいでか!」 私たちは複座式コックピットに身を沈めるとエンジンを始動し、 マッハ2.5で大空へと飛び立った。
それは、津田善秀が豚バラのパックに半額のシールを貼ろうとし た時の事だった。 「待ちなさい」 「?」 振り向くと、初老と思しき痩せた男が立っていた。 「そのシール、貼るのを五分待ってみなさい」 「え?」 男はポロシャツにジーパン姿で、髪型は角刈り。穏やかな顔つき をしていた。 (妙な奴だな。フツー逆だよな) 津田が何か言おうとした時には、すでに男は立ち去っていた。 「……五分、ねぇ」 彼は白抜きで書かれた赤い『半額』の文字を見つめながら呟いた。 「やぁ、今日は売れ残りが少ないねぇ」 太った店長がご機嫌でモップを床に掛ける。 「あ、それって多分、バイトの津田の仕業っすよ」 中年の従業員が隣でモップを使いながら答える。 「あの津田君?」 「ええ。なんか、見切り品のタイミングがどーとかこーとか言って、 シールを少しの間貼らなかったんすよ」 「そんなのマニュアルができてるじゃないか」 「ええ。おれもまたサボろうとしてるのかと思ったんすけどね、ち ょっとしてからシール貼り始めて。そーしたらバカ売れですよ」 「へえー」 店長は丸い顔の丸い目をより丸くする。 「あいつ、本当は陰ですっげえ努力してたんじゃねえっすかね。感 心しましたよ」 翌日。 再び津田は見切り品のシールを貼ろうとして手を止めた。 (も少し、待ったらひょっとして今日も……) 声に出さずに呟いて、彼はシールをしまった。 数日後。 「……なんですって?」 朝礼で店長の言葉を聞き流していた津田は、思わず聞き返した。 「肉の仕入れを五割増やした、と言ったんだけど?」 しれっと店長は答える。 他の従業員たちがざわつく。 「売場の商品がなくなってしまうということは、もっと買いたいと 思ったお客様がいるかも知れないって事でしょ?」 「そりゃまあ、そうですが」 「これからの経営は攻めの姿勢が大事だからね」 「それは余裕のある店の話でしょう?」 「大丈夫大丈夫。多少売れ残っても、君が上手く見切り品にしてく れるでしょ?」 従業員たちのざわつきが止まり、津田に視線が集まる。 「い? 俺はそんな――」 「君には期待してるからね。そうだ、上がった利益で、慰安旅行で もやろう。どこがいい?」 顔中で笑いながら、店長は尋ねる。 「……箱根、辺りで」 「いいねぇ。ま、何はともあれ売ってからだ。頼むよぉ、津田君」 (信じるかなぁ、あんなホラを) 売場に山と積まれた肉の前で、津田は呆然と立ち尽くす。 (この店もおしまいかぁ? ま、知ったこっちゃねえや――?) ふと気付くと、店長を含めた他の従業員たちの期待に満ちた視線 が、津田に向けられていた。 (待てよ、ちょっと待てよ) さぁっと頭の中が冷えて来る。 (まさか、俺に掛かってるってのか?) 自分のせいでこのスーパーの経営が悪化したなんて事になったら。 (もの凄く恨まれる。やだ、そんなのやだぞ) じっとりと背中が汗ばんで来た。 (これというのも、あのじいさんの――じいさんの) 「――また、来ねえかな」 思わず、津田が呟いた時。 「失礼。出口はどこでしょう?」 聞き覚えのある声に、彼は振り向く。 「わ、わわ、あわ、いた、いたいた!」 声の主は正しく、例の初老の男だった。 「は?」 「ちょうど良かった――」 「あっ! お父さん!」 売場の反対側から、店長が走って来た。 「はぁ、はあ、はぁ、ごめん、津田君。父が迷惑かけたね」 「いや迷惑だなんて」 (父ぃ?) 「あなた、出口を知っていますか?」 不安そうな顔で、男は店長に尋ねる。 「はいはい。分かるよ。家まで案内するからね」 「そんな見も知らぬ方に申し訳ない――」 (え?) 「悪い、津田君。僕は二〇分ほど店空けるけどよろしく」 男を連れ去る店長の後ろ姿を見ながら、津田はポケットから値引 きシールを取り出す。 (スーパーの出口も自分の息子も分からんじいさん――今まで売れ たのも、ただの偶然……) 津田は黙って従業員用のロッカールームに入り、バッグを取り、 出て行こうとする。 「おお、津田。どうした?」 商品を並べ直していた中年の正社員が、津田に声を掛けた。 「いや、ちょっと外で一服」 「うん、今のうちに行っておけ。期待してるぞ」 駅前公園で、津田はベンチに呆然と座っていた。 (冗談じゃねえよ) どんよりと曇った空は、雨か雪が降り出しそうだった。 バッグをぎゅっと抱え込む。 「悪くなった商品を売りさばくために安くする、それだけの事にコ ツもなんもねえだろ」 言葉を切る。 (んなもん当てにして仕入れを増やすなんて) 「ひでえ経営者」 (潰れようがどうしようが知ったことか) きゅっと奥歯を噛みしめる。 (――でも、今の俺) 「格好悪いな」 ぽつりと呟く。 実際のところ責任はないはず。 だが。 ただのバイト、下らないこと、店長の責任。 「格好悪いのって、嫌いだな」 勢いを付けて立ち上がった。 「一丁、下らない事と心中してみるか」 店に戻った津田に、中年の正社員が駆け寄る。僅かに顔色が悪い。 「どこに行ってたんだ、津田! ――いや、まあいい、来い」 二人は売場に向かう。 「……減ってない?」 「そうだ。ほとんど客が手を付けない。なんでだ?」 「俺に訊かれても――」 「だよな」 売場に溢れるほど置いてある肉。別に質がいつもに劣るわけでも ない。 「どんなに津田が見切り品のコツを掴んだって言ってもこれじゃ駄 目だよな……」 (ほっ。これで正々堂々と逃げられる) 「給料減るかなぁ、車のローンも残ってるってのに」 「ローン?」 正社員の言葉が妙に耳に引っかかった。 (売れる――買う、買う?) かっ、と津田は目を見開いた。 「売れますよ、いや、買って貰えます。多分」 (売った) 肉のパックが僅かに残る売場の前で、津田は座り込んだ。 (俺の力で。俺だけの力で) 「あは、売れたね」 隣りに店長が座る。 「もうこういう無茶な仕入れは止めて下さい」 「善処するよ」 苦笑いを浮かべ、店長は軽く頭を下げる。 「最初は本当に売れなかったねー」 津田は切れかけた蛍光灯を見上げる。 「コツは見切り品です。お客さんは多すぎる商品を見て、売れ残り を確信したんです」 両手で頬杖を付く。 「早く買いたい、でも安く買いたい。このジレンマは小さな値下げ で一気に崩れました」 「確かに、三時過ぎに二〇円引きが出た途端、一気に半分以上売れ たもんね」 ふくよかな頬を震わせて、店長は笑う。 「見切り品は買い物最大の娯楽です。品質の劣化と値引きの損益、 他の客を出し抜く優越、店員との駆け引き」 津田の表情には穏やかな疲労の色があった。 「客の心理に立てば簡単に気付く事ですけどね」 「ふーん。いやあ、これからもよろしく頼むよ」 店長は丸っこい手を差し出した。 「はい」 頷いて、津田は彼の手をがっちりと握った。 「――あ、そうだ、今日はお父さんが迷惑掛けたね」 「いえ、とんでもない」 津田は小さく笑う。 「お父さんは僕同様スーパーで働いててねぇ。たまに助言してくれ るんだ」 「――え?」 (俺はボケ老人の妄言でひらめいて……) 「ちょっと短期的な記憶は欠けてるけど、仕事の知識はしっかり残 っててね」 「はぁ」 (見切りのコツを、自力で……) 「特に商品管理が上手くて、見切り師なんて呼ばれてたんだよ。今 回も、絶対売れるって言ってたから、心配してなかったけど、最初 は本当ヒヤヒヤしたねぇ」 誇らしげに話す店長の顔を見ながら、津田は微妙な表情で曖昧な 相づちを打ち続けた。
6畳一間の狭い暗い部屋の片隅で、インスタントラーメンを食して いる風采のない男がいる。 不精髭が、痩せこけた顔を一層貧弱にさせていおり、薄汚れた パジャマが、その荒廃した生活の時間の長さを物語っていた。 その男の名前は、飯島真二 29歳である。 3年前は、大日本プラントシステムのエリート社員であり、 高級マンションで優雅な生活を楽しみ、将来の社長を約束された男 であった。 しかし3年前に、社運を賭けたタイ国向けのガス化溶融炉プラント 建設プロジェクトに失敗し、その責任を一身に背負いエリートの座 を追放されたのであった。それから2年間、エリートのプライドを 捨て工事現場の肉体労働者として生計を立てていた。しかし、最近 は建設業界の不況の影響で仕事が少なくなり、インスタントラーメ ンで飢えを凌ぐという毎日が続いていた。 それよりも、彼をここまで精神的に陥落させたのは、インターネッ トで知り合ったピアニストの美樹との別れであった。 美樹は、彼に「自分の夢を探しにアメリカへ行きます」と言う短い メッセージを残して、3年前のクリスマスイブの日に音楽の勉強の ためアメリカへ旅立った。もうそれから美樹からの音信は、彼に届 かなかった。もう夜の8時過ぎであろうか、アパートの窓越しに、 隣の家からクリスマスパーテイの暖かい歓談が聴こえてきた。 多分家族でクリスマスケーキを囲んで、クリスマスと言う特別な日 を楽しんでいるのであろう。 そんな僅かばかりの暖かさや幸せも今の彼にはなかった。 やるせない気持を振り切るようにインスタントラーメンの最後の スープを飲み干し、いつもの空腹感だけを満たす夕食が終わった。 「ああ!」と無気力な声をあげ、そのやるせない気持を打消すかの 様に、パジャマを思い切り下げ、ピストン運動で自分の欲望を発散 し、疲れ果てた心を慰めた。わずかばかりの快楽の中に、もう忘れ かけていた3年前の華やかな生活と彼女との出会いが浮かんできた。 携帯電話が鳴った。 「真二。わ・た・し。沙織。何しているの。」 そう言って沙織は、自分勝手に電話を切った。 沙織は、大日本プラントシステムの社長本城幸造の娘であった。 本城は、私が大学時代に発表した「燃焼解析制御理論」に目が止ま り、苦学生だった私に多大な援助をしてくれた。 社長の一人娘が、沙織だったが、社長令嬢を鼻にかけ、その傲慢な 態度で私を束縛し、今や婚約者同然の関係であった。 その反面彼女は、ナイトクラブのホストとも男女関係のうわさが多 く今日も、ナイトクラブからの遊びの帰りであろう。 私は、そんな沙織に愛情というものを感じていなかった。 ただ大日本プラントシステムの社長の座を確実に掴むための一つの 道具としか考えていなかったのである。 しかしながら、私は思い切り愛情と言う名の演技を最大限行い、 娘婿の地位を確実にしたかったのである。 「俺は、もう二度と貧乏な生活にはもどらない・・・」と思った。 「ピンポン・・・・・・」静寂な部屋に、チャイムが鳴った。 時間は、既に0時を過ぎていた。 私は、静かに立ち上がり、ドアの方へ向かった。 「沙織。待っていたよ。今日も素敵だね」 ドア開けるなり甘い言葉をささやきながら、彼女を抱きしめキスを した。沙織は、酔っており男性の安い香水の匂いがした。 「真二、お姫さまのお帰りよ。今日は、ここに泊まるから朝まで、 私を思い切りかわいがってね」と私を見つめた。 沙織は、いつもにも増して妖艶に感じた。 彼女は、シャネルのパンツスーツで全身を包んでいたが、バストと ヒップの線が鮮やかに写った。 抱きしめた私の手にその肉感が蘇り、快楽への世界へ引きずりこま れる自分を感じた。私は、そんな自分の欲望に自然に従うように、 彼女を抱き上げベットルームへ運んだ。 「どうしたの、今日は積極的ね。まあいいわ、早く〜」 私は、シャネルのスーツを脱がしながら愛を偽装したセックスと言 う演出に忠誠を誓い、ただ今は自分の男の欲望を満たそうとしてい る自分を感じた。やがて素晴らしい沙織の肢体がベットの上に演出 され、今日ほどこの肢体に対して欲望を感じことがなかった。 それから、1時間私は、この美しい沙織の肢体に愛撫を繰返しなが ら、彼女の奴隷を忠実に演じていた。 「ああ・・・・、いいわ・・・」 沙織は、うめくような声を張り上げ、快楽の渦の中をさ迷っていた。 私は、この女を征服する喜びを感じながらも、心のどこかにある 「社長の座」を冷たく計算していたのである。 「早く・・・・」 沙織は、私の熱いものを求めた。 「ああ・・・・、いいわ・・・強く・・・」 沙織の体は、弓の様にしなった。 大日本プラントを征服したい欲望の全てを沙織の熱い蜜の中にぶち 込んだ。無心で激しいピストン運動を繰返し、この女に奉仕するこ とだけを考えていたのである。 「ああ・・・・、いいわ・・」 沙織は、全身で快楽をむさぼり部屋全体に響く声をあげ続け、頂上 にのぼりつめた。 時間は、既に2時を経過していた。 沙織は、深い快楽の世界から目覚めると「よかったわ」と短い言葉 を残し自宅へ帰っていった。 そして、またチャットルームに1人残されたような無言の時間を訪 れたのである。 私は、ベットから立ち上がり心の疲れを癒すために、タバコに火を つけた。やがてパソコンへ近づき無造作にスイッチを入れ、決めら れた操作を機械的にこなし、インターネットメールの画面に切り替 えた。そのときこのメールが、私の人生を大きく変えるとは、その 時知る余地もなかった。私は、1枚のメモを取りだしかぐや姫と言 う女性のメールアドレスを確かめながら、メールを書いた。 昨日は、ありがとうございます。 少ない時間でしたが、楽しかった。これが最後かもしれません。 これが最初かもしれません。 それは、貴女が決めることです。 でも最後に貴女が言った「死にたい」ということが気にかかって しようがありません。もし、私にできることがあれば何でも相談 してください。私は、貴女との出会いは、偶然じゃなく運命的な ものを感じます。 かくや姫からの返事を期待しています。拓也より 私は、書き終えると中学生時代に初めてラブレターを書いた時のこと を思いだした。 体には、先ほどの沙織との激しいSEXのけだるさが残っていたが 久しぶりに、中学時代に女の子に憧れる初恋の純粋さ感じた。 しかしながら、今こうしてパソコンに向かっている自分は、飯島真二 じゃなくて拓也にどこかで変身している錯角を覚えるのである。 飯島真二自信にとって、かぐや姫なる女はどうでもいい存在である。 別に将来の自分にとって役立つ存在でもないし、特別に美人で私の 欲望を満たす存在であるとは限らないのである。 ただ単にチャットで偶然出会っただけの女だけなのである。 しかしながら、拓也なる別人に変身したとき、私は今まで忘れてきた、 置き去りにしてきたものを感じ、それをかぐや姫なる女の子に何か求 めているのではないかと思うのである。 そんな時、私の心のどこかで真二と拓也の葛藤が始まっているのを感 じるのである。 それが私と美樹の初めての出会いの時であった。(HPに掲載中)
信長がふと目を覚ますと屋根を打っていた雨音が、いつしか混乱 の声に変わっていた。 蔀戸が勢いよく繰られると、月光が闇を切り裂いて射し込み、そ の横顔を青く浮かびあがらせた。 光秀が謀反にござりまする! 勢いに任せて叫んだ蘭丸は、その後で主人の目に異様な光りが灯 っているのに気付いた。 (殿は御覚悟召されたか) そう思わせたほど主人の目は静かで、いつも筋金を入れたように 膨らんでいる額の青筋も見当たらなかった。 「蘭丸の初陣にございます」 蘭丸は落ちついてそれだけ言うと、中天で微茫のいろを放つ月を 仰いで、飛び出していった。 閉じ忘れた蔀戸に夜の名残を刷いた月だけが残された。 信長は自ら立って戸を閉じた。間は再び闇に返り、鬨も曇ったよ うに低くなった。 壁に立て掛けられた刀を把り、抜く。 へし切り長谷部 刀身に冴えた直刃の刃紋が濡れたように光っている。地鉄も摺上 も上等だが、最上ではない。名鍛冶の仕事にふと現れた、人がい かに冷徹に徹しても消せない甘さのために最上になり損ねた刀… 始めは折れても構わぬ程度に使い始めたが、いつしか、その点睛 を欠くことに愛着を覚えた。 戦場で殺戮の円弧を描く時、この刀は最上に挑むような恐るべき 切れ味を見せ、生血と、それに込められた業念を貪欲に吸おうとす る。 (未熟なやつよ) 信長は心中で唸ってから刀を収め、布団の上に座った。 (ワシは何を欲して、ここまで来たのか) ふと思った。 (人が死を逃れられぬことなど、知っていたはず、それなのにワ シはなぜ…) 光秀謀反の理由など考えなかった。死ぬと分かった以上、その 理由などを知った所で意味のないことであった。 (なぜ、ワシは天下人になろうと思った…) 信長が思い出すのは、覇道とは名ばかりの辛酸悩苦に満ちた道だ。 全てを捨てて遁世したい衝動を幾度こらえただろうか、自害へ の憧れをどれほど押し殺したか。 尭の如き仁君にならんとしたわけでも、王莽の如く王位簒奪を夢 見たわけでもなかった。 (まだすべきことがある) それだけを思って、ここまでやってきた。 けれど、そのすべき事とは何だったのか。 塀が崩れ、乱入する敵の足音が信長をはっと我に返した。 (舞うか) こんな時にそう思ったのは不思議な事であった。小姓と一丸とな って突破すれば生きる望みはあったかもしれない。 が、信長がした事は深い闇に沈んだ間の中で、一人舞う事であ った。 人生五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとく 万余の敵を屠り、安土に城を建てた。古い秩序を叩き潰してや った。旧弊な風習を破ってやった。この国で誰も成し得なかった ことを成してやった… (やめだ) はたと舞うのを止めた。 人生は夢幻のごとくだと。ふざけるな、信長はここにいる。黄 金の上に胡座をかき、弟を殺し、妹婿の髑髏で酒を飲み、従わぬ 民衆は皆殺しにした。それが全て夢だと言うのか。滅亡の恐怖に 眠れなかった夜が夢だと言うのか。 そんな言葉は弱き人間の遁辞、世迷い言に過ぎぬ。 (まだ存分に生きたとは言えぬ) 我が才を持ってすれば、天下統一など、ごく、当然であった。 敵の気配が少しずつ寄せてくる。それを食いとめようとする小姓 の叫び、森蘭丸の雄叫びとも聞こえる絶叫が、膨大な闇に紛れた 蔀戸の向こうからした。 (ワシが成したかったこと、それは才能を試すことよ。織田信長 という一人の男が、儚き一生のうちにどこまでできるのかを、そ れを知りたかっただけよ) 良く出来た芸術品を壊すような、六十年かけた天下統一の夢を叩 き潰すような、凄惨な悦びが、さすがに老を隠せない信長の体に 走った。 (そろそろ、ゆかねばなるまい) 「蘭丸!」 体に矢を刺したままの力丸が転がるように入ってきた。 「兄はたった今、討死いたしてござりまする」 「そうか…弓じゃ…弓を寄越せい!」 重藤の弓を握り締めた信長は戸を開いた。月は本堂前の庭に入り 乱れて戦う男達に便を与えるかのように皎々と輝いている。 信長は弓を引き絞る。 いくつも放たぬうちに弦がびんと鳴って切れた。 その時、障子を突き破って繰り出された槍が信長の脇腹に食い込 んだ。その衝撃に信長は大きくよろめき、縁に倒れた。次の一撃が こめかみを掠めて縁板に突き刺さった。 (こんな雑兵に殺される男なのか、ワシは!) かっと信長の血が燃えた。 「下郎が!ワシの首を望むなら、ワシが成した事の万分の一でも 成してからにせい!」 弭槍で雑兵を突き倒した信長は鮮血に染まった閨着を翻して立っ た。 「おみゃーらに、ワシが如何なる男かを、男冥利とは何たるかを 教えてやるぎゃ!」 鉦を打つような信長の甲高い声が響いた。信長はそのまま奥間の 愛刀を押取ると金箔を散らした障子を蹴破って外に出た。 じゃっと刀が柄走る音がした次の瞬間、信長が飛んだ。 縁から鮮血の尾を曳いて庭に下りると、雑兵が怒涛のように群が ってきた。信長は切った。羅刹の如く、際限もなく、無心の裡に 切り続けた。 信長の首によって一躍の出世をはかる者は、脳漿を散らし、臓物 を流し、また四肢を切断されて次々に落伍してゆく。 (手が着けられん) 男達はまさに魂の消える思いだった。 血まみれになって戦い続ける信長の姿は明らかに人間の領分を超 えた挑戦そのものだった。その生涯を貫いた、けた違いのエネル ギーだった。 男達は圧倒される。 人間には格の差がある。草の根を噛んで生きているような自分達 とは決定的に違う物があることを思い知らされる。 この男の眼は自分達と切り結びながら、自分達を見ていない。光 秀でもない。一向宗門徒が拝む木偶人形でもない。 天。天への挑戦。そう勘付いた時、体は魂とともに震える。 どれほど切っただろうか――。 信長の太刀は切るほどに冴え渡り、一点の濁もなく澄んでゆく。 刀傷はその体に無数に走った。閨着はもはや襤褸になり、返り血 と出血は到底、生きているだろうとは思われなかった。 「うぬ、さすが信長。簡単に首は獲らせぬか、この俺が相手して やる」 刀を閃かせて踊り出た巨躯にも、信長は一瞥もくれなかった。 「こちらを見ろ!」 男は言うなり突進し、信長の脳天めがけて激しく刀を叩き落とす。 ―殺った!― 誰もがそう思った。 けれど神速に見えた太刀は外れ、信長の太刀は男の腹を深々と刺 し貫いた。 見守る雑兵たちはその一部始終を舞でも見るような、信じられ ぬ、けれど爽快すら感じながら見た。 刀は男の体を支えながら、それを扱う男と共に静かに止まって いた。 「撃ち殺せ!」 鉄砲を構えた兵が彼を取り巻いた。 鉄砲!?けれどこの男なら…そう思ったのも無理はない。それほ どまでに彼の姿は、猛々しく凛としていた。 信長は握っていた手を柄から解き放った。 刀は男の腹に刺さったまま地に触れ、満足そうな音を立てて折れ た。 信長は何も持たぬ手をだらりと下げて、ゆっくりと空を見上げた。 「ふははははは…」 高く澄んだ笑い声が天高く響いた。 声は銃声にかき消され、男は後ろへと吹っ飛んだ。男はゆっく りと立ち、縁をあがり、蔀を開いて、その奥に渦巻く火焔の中へ と進んで行った。 襤褸を脱ぎ捨て、褌ひとつになって座った。短刀を左腹に添え て (是非もなし) そう思った。 それは決して光秀に発せられた物でなかった。人は天から与えら れた宿業を脱することが出来ぬのだという、諦念の言葉であった。 腹を掻き切って前のめりに倒れた男の残滓を包むように炎は崩 れる。 舞上がる火の粉は天に届くより早く燃え尽きて消えた。
場内が暗くなり、光と音の余韻が消え去ると幕が上がっていく。 舞台にはオレンジ色の光が注がれ、客席に顔を向けたまま倒れて いる女がひとり。ぴくりとも動かない。 黒のスーツ姿のふたり組みが現れ、女に近寄る。科白からふたり とも刑事役で、倒れている女は死体役だとわかる。声高な新米刑事 と鼻の下に付け髭のあるベテラン刑事。新米刑事が惚けた口調であ べこべな推理をはじめ、呆れたベテラン刑事は嘲笑いながら舞台か ら去って行く。新米刑事は慌てて追い、舞台上は誰もいなくなる。 ライトの光とバックミュージックが徐々に弱まり、静寂と闇が残さ れる。 ☆ ☆ 舞台に光が蘇ると、ふたりの女とひとりの男が互いの顔を見合わ せ、一瞥しては顔を逸らす。目線を忙しく動かしてはその行為が繰 り返される。時々短い言葉を交し合うがどことなくぎこちない。 一連の会話から三人とも死んだ女とは同じ大学の学生で、さらに 事件と何らかの関わりがあるということがわかる。 三人の内のひとりが、警察が死んだ女の身辺を念入りに調査して いることを重い口調で語ると、乏しかった会話が激しさを増す。揉 めはじめたところで、背の高い男が話に割り込んで場を制し、落ち 着いたところを見計らってから死んだ女に関する質問を一方的に浴 びせる。最後に会った日はいつか、そのとき変わった様子はなかっ たか、後で連絡はなかったのか、などと。三人とも口を閉ざしてい ると、警察に極秘に頼まれた、と探偵は諭すように告げて去る。三 人は顔を見合わせたままその場を動かない。 ☆ ☆ 死体役の女が舞台の中央に置かれたベンチに座り文庫本を読んで いる。文庫本にはカバーがかけられているのでタイトルまではわか らない。そこに先ほどの三人が現れ、和やかな雰囲気となる。講義 の愚痴や芸能人の噂などの他愛のない会話が続く。 ねえ、あのこと大丈夫?とひとりが口にすると、その科白が何か の呪文であるかのように突然、バックミュージックが止まる。 スッポトライトがベンチに注がれ、大丈夫だから心配しないで、 と死体役の女が言うとそのまま舞台から光が失われる。 ☆ ☆ グレイのスーツを着た女がベテラン刑事にしつこく事件の真相を 聞き出そうとする。女はこの事件を追っている記者で、大袈裟な身 振りで意気込みを示す。 ベテラン刑事は曖昧な返事を洩らすだけで相手にしない。記者は 諦め、今度は新米刑事に寄り添い甘い言葉で揺さぶる。思わず口に 出しそうになったところでベテラン刑事が間に割り込み、新米刑事 の袖を引っ張りながら記者の元を離れ、舞台から消える。残された 記者は腕組みをし、溜め息を漏らす。やがて何事かを呟きながら大 股で刑事ふたりとは反対の方向に歩みを進める。 ☆ ☆ 暗闇に包まれた舞台に青のスッポトライトが照らされ、そこに探 偵が立っている。探偵は何か決心したかのように口を開き、死んだ 女とは愛し合っていたと話を切り出す。そしてそのことに関する様 々な思い出を誰に向けるともなく語りはじめる。ゆっくりと左右に 歩きながら。ライトも動きに合わせて探偵を常に照らす。 突然足を止め正面を向くと、呻き声を漏らしながらうずくまる。 床板を叩きながら体を震わせているところで舞台は再び暗闇に包ま れる。 ☆ ☆ 学生三人が舞台の中央に、新米刑事とベテラン刑事が隅でその様 子を伺う格好となる。ひとりが恐る恐るポケットから手紙を取り出 す。三人の焦点はその手紙に集まり、他のふたりも確認したかのよ うに同じく手紙を取り出す。三人はそれぞれの手紙と相手の顔をち らりちらりと横目で交互に見る。まるで書かれている内容を既に知 っているかのように。三人は互いの顔を見合わせ、小さく頷いてか ら重い足取りでその場を去る。残された刑事ふたりは後を追う。 ☆ ☆ 探偵と記者が対峙する。記者は探偵が事件の犯人を追っているこ とを知っており、新たな情報を入手しようと迫る。 探偵は不意にペンダントを差し出すと、記者は、何でこれをあな たが?と驚きの声を上げる。 今度は逆に探偵が記者に問い詰めると、記者は溜め息を吐いてか ら、死んだ女とは親の離婚により離れ離れになった姉妹であること を目線を彷徨わせながら語る。探偵も死んだ女には父親がいなかっ たことを思い出し、さらに記者の目許をまじまじと眺め、納得した かのように頷く。探偵と記者は揃って舞台から消える。 ☆ ☆ 舞台が明るくなると、まず三人組が現れ、刑事二人は隅の方で屈 みながら様子を伺う。三人が落ち着かずにそわそわしていると、探 偵と記者が現れる。そこにベテラン刑事がわざとらしく咳をして近 寄り、各々の顔を覗き込む。新米刑事はおろおろしながらうろつき まわる。 膠着状態が続いているところに、死体役の女が身を低くして舞台 の中央まで行き、突然大声をあげる。全ての動作や表情、音までも が凍りつく。再び音が飛び交うと、それを合図にするかのように舞 台上の人物が各々の動作をはじめ、ライトが舞台を様々な色で染め る。 ☆ ☆ 「お疲れさん」 「あ、先輩お疲れ様です」 ベテラン刑事役の男が軽く声をかけると、死体役の女は姿勢を正 して軽く頭を下げる。ふたりとも舞台上で着ていたのと同じ服装の ままだ。 「それにしても」と男は言って少し間を取る。「舞台の上で舞台の 練習をしていたってことでラストを無理やり締め括るのはどう考え ても納得いかないんだよな」 「まあいいじゃないですか。それにしても先輩の刑事姿、本当に渋 くてカッコイイですよ」 「ふーん」 「その髭も似合ってますよ」 「またまた、どうせお世辞だろ」男はそう言うと鼻の下にある付け 髭を億劫そうに触る。 「そんなことないですよ。けど刑事よりはむしろ怪盗って感じがし ますね」 「俺としても刑事役なのに銃を撃つ場面がないのはな。水鉄砲でも いいから撃ちたかったよ」 男は右手を銃の形にして腕をピンと伸ばすと、バンバン、と声に 出しながら撃つ真似をし、人差し指の銃口を口元に近付け短い息を 吹きかける。 「先輩はまだいいですよ。私も死人なんかじゃなくて、どうせなら もっと活躍する役が良かったなあ」 「いや、君に適格な役だったよ」 「え?」 「何しろ君はこれから永遠に死を演じることになるのだからね」 「どうしたんですか?」 「さようなら」 男はナイフを取り出し女の胸元を突くと、舞台はライトで赤く染 まった。光の残像が飛沫となり、重低音が激しく飛び交う。そして 光と音を失いながら舞台に幕が降りる。再び幕が上がると、舞台で 演じていた者が横一列に並んでいる。新米刑事役が終幕の挨拶を述 べ、横の全員が一斉に頭を下げると幕がゆっくりと降りる。 ☆ ☆ 「どうしてさっき胸に刺したの?本当は腹を刺すはずだったのに。 もしかして私の胸を触るために?」死体役の女がベテラン刑事役の 男をきっと睨む。 「そんな、滅相もない」と男は言って、先ほどのナイフをいじる。 弱々しく光る刃が刃先を押されるたびに柄の中に引っ込む。 「正直に言えば特別に許してあげる」 「だって大きいから、一度くらいならいいかなと、つい出来心で」 と男はぼそぼそと言いながらも女の胸に視線をやる。 「変態、やっぱり許さない」 「すいません、すいません」 「嘘よ。それにあなたの手が触れたとき、ちょっと感じちゃった」
第8回3000字バトルチャンピオンは、
『爆進!』しょーじさん作に決定しました。
しょーじさん、おめでとうございます。
票を得た方もそうでなかった方も、次回でまた頑張ってくださいね。
感想票をお寄せいただいた読者の皆様ありがとうございました。
●爆進!(しょーじ)
●遺書を書く右手(伊勢湊)
●夢恋愛(森田英一)
●消える(太郎丸)
●おかえり(石井和孝)
●サンダルウッドの香り(山森瑞穂)