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第9回3000字小説バトル
Entry1

陽・画廊の結婚

作者 : 有馬次郎 [アルマジロウ]
Website :
文字数 : 2998
まるでトンネルの様な回廊は、暗がりの中にひときわ松脂の香りが
凛として静かに漂っていた。


雨上がりの夜明けの森の小径を歩いている気分にもよく似ている様
に思う。

ひっそりとした中で、安らかな気分にわたしは浸りながら、彼のこ
とを静かに思い出すことができた。そう、来るたびにいつも。

回廊の床は茶色で何度も丹念に磨きあげられていて、くすんでいる
のに静謐で清清しい印象を与えている。
わたしには昔からとても馴染んでいるこの壁や床のもつ柔らかな雰
囲気。

靴音のシンクロする中、右に左に絵画を眺めながら進み行くと、ス
テンドグラスから七色のプリズムが降りそそぐ静かなアトリウム式
のホールに辿り着く。

中央の巨大なシャンデリアの鎖は錆くれ、セピアカラーのランプは
永眠したままになっている。 遠いあの日のあの瞬間に金の粉が降
ってきた様に感じた午後から。クリスタルガラスのくすんだかけら
までもが、一瞬という名の永遠の期待にまぎれてわたしを心地よく
震わせたのを覚えている。

アールデコ調の柱と柱の間にいくつもの小窓があり、外の樹木が陽
光に輝いているのが見える。
風に揺れる葉音は聞こえないけれど、梅雨の中休みなのか緑の雫の
なかに鮮明に精が煌めいている。

わたしは何度この場所に足を運んだことになるのだろう。何かを見
つめ続けようとして......。

ホールの隣横にある部屋をまる窓から覗き込むと、彼が見えた。
黒木は無精髭を掌でなぞりながら、果実の静物画を見つめていた。

入館の受付で、今までにない胸騒ぎを感じたことに感謝したくなっ
た。

いつかこの日がくると思っていた。それが、あまりにもあっけなく
自然なので驚くというよりも、森の薄暗い小径を歩き続けて、もう
すぐ抜けられるという確信をもったその矢先に、本当にそうなって
湖畔にたたずむ人に、それも一番会いたかった人に出会った様な救
われた気分になった。 それも、もう二度と会えないと思ってた人
に。

あなたは何をそのように深く見つめ、何を求めているの.......。

ひとの横顔は嘘のない本当の表情を、寂し気なシルエットに見えか
くれさせる。
見覚えのある仕種がとてもやさしい。わたしには、はっきりとわか
っている。

あなたの心に今でも響き続ける女性は、わたしの親友の麻里子一人
だけということが。

その瞬間、肩の線がピクンと動いた様に見えた。

「お久しぶりね」無理矢理、下向きかげんに、ニッコリ笑ってみせ
た。

「やあ、これは驚いた。まさか、ほんとに会えるとは。来てたんだ。
 この絵の前にきたら、目眩がして、君が浮かんで健やかな表情の
 まま消えたのに。でも君の残り香が浮遊していつの間にか僕に紛
 れて......」
黒木の高揚した眼差しは泪で光っている。

「変わんないなあ君は。オレ老けただろう」
シャイな目の前の男性は、わたしの太陽だった頃の少年のままだ。

「あなたも変わってない...」笑ったそのえくぼが、はにかん
でいる。
 
「今も油絵やってるの、麻里子は元気?」
不安の陰りが後悔とともに、わたしの心の底に静かにこぼれ落ちる。
不しつけな質問をしてしまった自分がとても悲しくなった。

わたしと黒木は美大の3年生の時に油絵科の実習で知り合い、夏の
終わりに、とてもはかない恋におちた。

お互いに恋人がいた事をのぞけば、普通に出会って見つけた恋だ。

わたしの恋人は、黒木の親友の村木君だった。彼は卒業前の深夜に
湾岸線でタンクローリーに巻き込まれて事故死した。

それから、黒木は人が変わったようにわたしを無視するようになっ
て、麻里子もわたしを激しくさけるようになった。すべてを知った
のだろう。
彼とわたしの不貞を責めるでもなく、村木君の死に涙して彼女自身
を追い込んでしまった。とても後戻りできそうもない樹海の湖水に
深く沈み行く錘りになった様に。

「不思議ね。この絵の前だったような気がする」
「そうそう、君とキスしたんだ」
「もう後戻りはできないって、あなた何回も言ったわ」
「まわりには人もいなかった。もう一度抱きしめられて、わたしは
 あなたの唇についた口紅をバンダナで拭きとったの」
「オレ、躯が浮いてて覚えていないなァ」
「わたしは深呼吸して、じっと瞳をみつめて言ったの。あなたのこ
 と絶対嫌いになるって」
「激しく泣き崩れて、卒業したら麻里子と結婚してねって言ったよ」

それでも私達は、それから何度となく会って、深く融けあった。
別離の予感のゆらめきを、背後にいつも感じながら。

「村木君があんなことになって、麻里子はあなたの子供を産むって
 最後に手紙をくれて、あなたも目の前からいなくなった」
「すまん......」
「わたしにも事情があって、青い絶望の日々がしばらく続いたけど
 今ではそれも懐かしいの」

わたしには8歳になる拓真がいる。小学生絵画コンクールでよく入
選するほど、クレヨン画が大好きだ。

わたしは、この画廊の空間と拓真を行ったり来たりするだけで、他
には何も望まなかった。独りでずっと生きて来れたのも、そのおか
げだ。

「わたし、男の子が一人いて、もうときめくこともなくなったわ。
 完熟のおばさんね」
「オレは、都立の商業高校のしがない美術教師さ。古ぼけたよオレ」
「そうなの......」
「ここへは、いつも閉館まえに来ていたんだ。いつか会えないかと
 思いながら」
「何故、どうして会いたくなるの。嫌いになると約束したのに」
わたしは、狂おしいくらいに泪が溢れるのを止められなかった。

そして、届かぬ声でふりしぼってみた。
「麻里子とはどうなったの」

「彼女は村木の子供を産んだ後、北海道へ引っ越した。いろいろ
 あったけど、同僚の美術教師と結婚しているよ」
「何故なの、本当なの?村木君の子供を......」
驚くというより、村木君の魂が生き続けていることに、密かに安堵
した。
黒木も、きっと同じように感じていると思う。

「今日のことは一生涯忘れないよ。これではっきりしたんだから。
 いつも最高のことは、最善の状况で起こると君は言ってたよね」
「そうね、今でもそう思うわ」
「最高にうれしくて、とてもとても残念な気分だ......」
少年の目は失望の色を隠せないで沈み込んでいる。

「子供もいて幸せそうで安心したよ。迷惑でなければ、たまにメー
 ル送っていいかな?」
「何故、メールなの」ウサギの目で、しっかりと見つめかえした。
「線画でもたまに書いて送ろうかと...」
「わたしの子供は、クレヨン画が大好きで...そして」

その瞬間だ。ダンシングクィーンのメロディーが脳裏に鳴り響く中、
まるでベールが被いかぶさるように、金の粉が静かに降ってきたの
を感じた。遠いあの日の、初めてのキスが鮮明に蘇る。

「絵もうまくて、あの子の瞳はあなたにそっくりで......」
わたしは、もう息すらもできない。

突然ガクンと何かに倒れかかるように、とても激しく黒木は泣き始
めた。一生分の泪を流すみたいに、深い嗚咽を漏らしながら。

「君の言う通りだ。ほ、本当に起こってしまった!」

西の窓から射し込む夕陽の光の中で、止まった時間が揺れて、想い
出の絵画達が密やかに煌めいて共振した様に見えた。

閉館のベルを合図に、二人して廊下を抜け玄関ロビーまで来ると、
拓真が独り立って待っていた。

「ママー!」走り寄る子犬の様に、黒木の目にはかわいらしく映っ
た。
「だれなの?このおじさん」見上げる瞳が黒木の2年生の頃とかさ
なる。

黒木は、拓真を抱き上げ、泪声で言った。
「もう独りじゃないよ。僕がパパだ」

拓真はうれしそうに、両足をいつまでもいつまでも振り続けた。