第9回3000字小説バトル
Entry16
久しぶりに夢で泣いたので目が覚めた。ああ夢だったんだよかっ たと思った次の瞬間、現実も夢と同じなのだと思い出してまたあた らしい涙があふれた。 起きたくない何もしたくないどうせ何もできやしないと自分にい いわけして、いつまでも布団にもぐりこんでいた。できるものなら このままどこかに消えてしまいたい。意識をまっさらにして無にな りたい。なのにそうはさせてもらえなくて、夢でもわたしは悲しく て嗚咽した。 雨だれのおとがさびしく響いていた。わたしは目をかたくぎゅっ とつぶってそのおとを心の中で勘定した。 ひとつ、ふたつ、みっつ……。 とうかぞえたときに、あきらめて体を起こした。春のひんやりし た空気がパジャマの上からわたしの体をなでまわした。両肩を手で 抱いた。するとさびしさがいっそう募ってくる感じがして、あわて て手を離して立ち上がった。 とにかく何かを食べてみよう。 時計を見るともうとうに昼を過ぎていた。お腹に何か入ればすこ しは元気になるかもしれない。そんなはずはないとわかっているの に、わたしはちょっとは努力してるというつもりになりたくてそん なことをつぶやいてみた。 冷蔵庫をあけてみた。が、やっぱり何も食べる気が起きなくて牛 乳をとりあえず飲んだ。うすく白い膜が内壁についたままの「ミッ フィー」のコップを流しに置いてトイレに入った。どうせ一人なん だからとドアをあけ放したまま用をたした。いちいちドアをあけた りしめたりなんか無意味じゃないかとぼんやり小さな窓の外をなが めた。隣の庭の桜の木が雨に洗われて澄んだ緑色にかがやいていた。 細かい雨つぶが吹きこんでくるのに、あいた窓をそのままにわたし はトイレを出た。 箪笥の抽き出しをあけて下着をとりだす。すこし寒いから半袖の シャツを着ようと思いながら中をかきまわすが、なかなか見つから なかった。抽き出しの中はうんざりするほどごちゃごちゃで、ぜん ぶひっくり返さないと何があるのかわからないありさまだった。 これがわたしの本質なのだ、とふと思った。 思い立てば抽き出しの中の整理をときおりした。そういうのは嫌 いじゃなかった。わけがわからない様子だったのがすっきり整然と ととのってゆくさまは気分がよかった。だけどそんな状態はきまっ て長くはつづかなかった。抽き出しの中はすぐに混濁の様を呈して、 ただ布きれがまるまったものがいっしょくたに詰め込まれているブ ラックボックスになってしまっていた。そしてそれがわたしは平気 だった。それがふつうの状態だった。 無理したってしょうがないんだから、と彼はいった。無理してほ しくはないんだよ。 わたしはだまって彼の顔を見つめた。泣いちゃ負けだと思ったか ら歯をぐっと食いしばった。 べつにどこが嫌だとかそういうことじゃないんだよ。そりゃやろ うと思えばいちいちあげつらうことはできるかもしれないけれど、 そんなこと意味ないんだよ。 だけどちょっとした誤解かもしれないんじゃないの、とわたしは よせばいいのに食い下がった。簡単に直せることかもしれないんじ ゃないの。 彼はゆっくり何度も首を横に振るとため息をついた。 きっとこれがわたしの本質で変わりようがないことなのだと思い ながらわたしは抽き出しをひっくり返した。だって本質は変わらな いじゃないか、と彼はいった。それはだって、きみがきみだってこ となんだから。アイデンティティってやつじゃないのか。 こんなふうにごちゃごちゃの箪笥で平気な生活なんかしてるから わたしは振られたのかもしれない。自分では気づいてなくてだけど 彼から見たら醜いところとか劣ったところがきっとたくさんあった のだ。それがわたしの本質でアイデンティティで直りようがないと ころで直ったらわたしじゃなくなってしまうところなのだ。 わたしは下唇をかみしめながらバラ模様のレースがちょっと破れ てしまっているブラジャーと襟首がへろへろにゆるんでしまってい る半袖シャツを身につけた。オレンジ色のギンガムチェックの長袖 シャツにあせたピンク色のよれよれのトレーナーを着てジーパンを 穿いた。 電話が鳴った。 ――あー、いたんだー 「ああうん、なに?」 ――授業。保健体育の授業こないからさー、どうしたのかと思っ てー 「うんちょっと、具合がわるくって」 ――えー、だいじょうぶー? 風邪? 「うん、そうみたい」 ――じゃあお大事にねー。タクちゃんが車で来てるからあそびに 行こうかってっていってたんだけどさー、じゃあ無理だよねー 「うん。ごめんね」 ――いいよ。じゃあゆっくりやすんでねー。またねー 「うんありがとう。またね」 ――ばいばい 「ばいばい」 振られたなんていいたくなかった。 台所で流しに置きっぱなしにしていた「ミッフィー」のコップを 洗剤をたっぷりふくませたスポンジでごしごしこすった。うすく張 った白い膜をきれいに剥いで水を入れてごくごく飲んだ。水はぬる くてまずかった。まずいけど仕方ないのでごくごく飲んだ。 やっぱり何かを食べようと思ってまた冷蔵庫をあけた。だけど食 べるものなどそんなにいろいろあるわけでもなかった。ヨーグルト があった。賞味期限を見るとあさってまでだったので食べることに きめた。ヨーグルトの横にはジャムの入った瓶があった。 手作りのジャムだった。郷里の姉が作ったりんごジャムだった。 わたしはまだ蓋をあけないままでいたそれをとって蓋をまわしてみ た。蓋はあかなかった。あきらめようかとも思ったけどそれも癪な ので蓋のへりを包丁の背中でがんがんたたいてみた。すると簡単に 蓋はあいた。 りんごのあまい匂いがした。こんなのよく作る気になる、とわた しは姉の趣味を不可解に思いながらジャムをスプーンですくってガ ラスの小さなうつわに入れた。 おいしいから食べてみてください、と添えられた手紙には書いて あった。いかにも姉に相応しい小さないびつな文字だった。わたし は姉をあまり好きではなかった。姉はなんだかわけもなく卑屈な人 間にわたしの目には映っていた。いつもまわりの目を気にして媚び ているように見えた。 なのになのかだからなのか、姉は来月結婚することになっていた。 相手は高校時代の同級生だった。姉はたぶんその人と生まれて初め てつきあってそのまま結婚することになったのだ。 りんごジャムを入れたガラスのうつわにヨーグルトを入れてスプ ーンでぐるぐるかきまわした。りんごジャムの黄色いつぶつぶがヨ ーグルトの中に一様に混ざりこんだ。それをスプーンいっぱいにす くって口に入れる。 おいしかった。 りんごジャムはふつうのジャムとはまったくべつのものと思える ようなしっかりした甘味を持っていた。甘味が欠けたり損なわれた りするはずのない本質的においしいジャムなのだ。 姉はこんなのを作れるから結婚することになったのかもしれない。 それでわたしはこんなのを作れないからきっと誰にも愛されないの だ。だけどそれでも仕方がない。わたしはアイデンティティのしっ かりしたジャム入りのヨーグルトをなめつづけながら、それでも姉 のようにはなりたくないと呪うように激しく思った。 ジャム入りヨーグルトを食べ終わると面倒だと思いながらも布団 をあげた。もう泣きたくないと思うのに何か動作をするたびに涙が あふれそうになった。それを飲み込もうと喉を鳴らすとりんごジャ ムの甘味が口いっぱいによみがえった。