第9回3000字小説バトル
Entry17
紙に書かれた一枚の絵。クレヨンで書いたものだろうか。権田刑 事は子供の書いた落書きのようなそれを眺める。空には沢山の太陽 。紫色の背景。そこに描かれている女は目が昆虫の複眼のようにな っており、腹が膨れ、下半身が裸であった。その股間にはペニスが 描かれている。その横にいる男は目が黒く塗りつぶされ、真っ赤な 口を広げて笑っている。中でも少女の姿が奇怪であった。少女の体 は真っ赤に塗りたくられ、口も鼻も無かった。その代わり、無数の 目玉が顔全体に書かれている。グロテスク極まりない世界。それは 異様な迫力を持って権田の心をえぐった。 「まず目につくのは「人間の目の数」です」 説明慣れた様子で、目の前の医師がゆっくりと話す。 「これは対人的過敏さを象徴しています。恐れ、と言ってもいいか も知れません。男、女、少女と目の扱いがそのまま彼の、それぞれ に対する感情を表しています。男はもしかすると彼自身でしょうか 。女性が奇形化しているのは、彼が無意識に恋人を殺してしまった ことを暗示しているかも知れません。ただ奇妙な点は、目しかない 少女です。これは彼が少女に対して強迫観念に近い過敏さを持って いることの証拠です。つまり、恐れを抱いているのです」 ふいに、権田は生温かい風を頬に感じる。背中を何かに撫でられ たような、ぞくりとする感触。どこからか、風が漏れて入ってきた のだろうか。 「強いショックで分裂症に陥る例は幾らでもあります」 医師が淡々と話す中、権田は寝惚けたように空を見上げている。 机には無造作に散らばった写真。 「彼女をそんな目にしたのが自分であると認めたくない。そのため 無意識のうちに自分の記憶を消してしまった。そして、抑圧された 記憶のストレスで分裂症が発生した」 机の上の写真が権田の目につく。海岸沿いの道路。真っ黒な海。 千切れ、歪んだガードレール。そこに一台の車が突き刺さっている 。助手席の方は完全に大破しており、めちゃくちゃに潰れている。 蜘蛛の巣のようにひび割れたフロントガラスには、びっしりと血が 飛び散っている。助手席の潰れたドアの隙間からも真っ赤な液体が こぼれている。恋人の変わり果てた姿を見て、彼は罪悪感の中で記 憶を消してしまったのか。権田は男の恋人の、発見当時の写真を見 て細い眉を僅かに曇らせる。ガードレールと車に挟まれ、すり潰さ れた姿はもはや人間には見えなかった。 「ただ、これだけは言えます。忘れたにせよ知らないにせよ今の彼 は、彼女が死んだことは分からないようです」 蝿のような目をした、ペニスの生えた女。稚拙だが、確かな暗黒 に包まれた絵。彼の精神の奈落が何を隠しているのか。 「次のテストを行ってみましょう。古典的な心理試験ですが、何か わかるかも知れません」 医師の言葉に、権田は写真から目を離し、ゆっくりと頷いた。 ガラス越しに、彼はその部屋を覗く。部屋には医師と、その男の 姿がある。 「海」 彼は疲れた目を俯かせながら「真っ黒」と答える。 「車」 あくまで無機質な医師の言葉。男はまるで魂を抜かれたように見 える。彼は「死体」と答えた。「言語連想反応」と呼ばれる、医師 が言う単語から頭に浮かんだ単語を被験者に語ってもらうテストで あった。無意識の内に潜むものを探るためである。こういったやり とりが繰り返される間、権田は男の顔をじっと観察していた。落ち つきなくキョロキョロと動く目。肩を少しすぼめ、窮屈そうに座る 姿は、何かに怯えているようであった。 異変は、医師がある単語を言った時に起こった。 その単語を聞いた後、男は暫らくそれまでと同じように無表情の ままであった。だが。じょじょに彼の目がぴくぴくと震え出す。そ の痙攣は彼の身体全体まで伝わり、やがて椅子が跳ねるほどに激し くなっていく。目は大きく開かれ、あらぬ方向を見つめたまま虚ろ に光り続ける。突然耳をつんざくような絶叫が切り裂いた。彼の異 変に気づいた医師達が部屋に駆けこみ、彼を取り押さえる。彼はそ れでも痙攣しながら鳥のように絶叫する。突然の変貌に権田は暫し 呆然としていたが、すぐに隣にいる医師に、彼が何と言ったのかを 聞いた。 「『少女』ですよ」 意外な言葉に、権田は僅かに顔を歪めた。彼の脳裏に、彼の書い た絵がよぎる。真っ赤に塗りたくられ、目だけの少女。 「来るな! こっちを見るんじゃない! 背中が、背中が」 彼は、まるで怪物を見るような怯えた目で遠くを見ながら叫ぶ。 歯がガタガタと揺れ、必死に足を掻き、何かから逃げようとする。 彼はそんな男の過剰な反応を見て、医師が呟いた言葉を思い返し た。 彼は誰もいなくなった部屋で一人、机に座っている。その瞳の先 には、医師から借りた一枚の紙。先のテストの結果であった。 特に奇妙な反応に、彼はペンで印をつけていった。 少女ー反応できず 車ー死体 バックミラーー子供 死ー泥 彼はこの中で、とりわけ奇妙なバックミラーと子供の繋がりが気 になった。いかに分裂気味とはいえ、あまりに突飛の無い発想であ る。「死」と「泥」も分からない。 蛍光ペンのリストに「恋人」は入っていなかった。彼は「恋人」 には「○○(名前)」と答えている。2度目にも少しの遅滞なく、 同様の反応である。つまり、恋人に対しては全く異常は認められな かった。それと比較して、過剰すぎる「子供」への反応。 彼はその時の、男の様子を思い返す。「来るな」「背中が、背中 が」真っ赤に塗りつぶされた、目だけの少女の絵。「死」と「泥」 。医師の言葉(何故彼が少女を恐れるのか)。 彼の脳裏に様々な糸が絡み合い、やがて浮かぶ、一つの確信。彼 はジッポに火をともす。薄暗いオフィスに、ぽつりとその光が灯る 。その瞳は闇に隠れ、光を失う。 (彼は事故のために狂ったのではない。狂ったから事故を起こした のだ。そして彼を狂わせたものの正体は) 彼はぼんやりと見上げる。窓から見える空は、星も月も無い。た だ、漆黒であった。 「そうです、あの夜です」 事故が起きた○号線沿いにあるA県。山岳に囲まれ、周囲は田ん ぼが広がっている。 権田は地元の警官が指差す方を見た。僅かながらブレーキ跡が残 っている。その脇に広がる田んぼには、何か大きなものが落ちた痕 跡があった。 「ここらで、沼地というとどちらかね」 「向こうに見える△山です」 歩くごとに湿った枝がギシギシと音を立てた。あちこちからボコ ボコと涌き水が湧き出し、腐ったような臭いが鼻をつく。やがて見 えてきたのは一つの大きな沼であった。 真っ黒な泥水で埋められたその周囲には、地元の公安関係者が集 まっている。必死に泥水を捜索している。やがて大きな声が上がり 、それとともに周囲の声も大きくなっていく。おぞましい腐臭がた ちこめたが彼は気にする風もなく、ただ、目の前の沼から引きずり 出されたものに沈んだような瞳を向けている。ボロボロのワンピー スを羽織ったそれはもはや肉が腐り、あちこちから白い骨が見えて いた。ようやく人間とわかるそれは首が奇妙に捻じ曲がり、背中に 回っていた。既に細菌によって食われ、陥没した黒い目。そこには 僅かに残った長髪。 混乱が渦巻く現場の中で権田は、あの奇妙な少女の絵を思い出す 。あの、目しかない少女。彼女の亡霊が男の頭に住みつき、狂わせ たのだろうか。 彼は目の消えた少女の死体をぼんやりと眺めながら、煙草に火を 付けた。