第9回3000字小説バトル
Entry19
清水豪はぬか喜びした。 1月15日は朝から抜けるような青空が広がり、日課となってい た川原での土管いじりを終えてアパートへ帰る足取りは心なしか軽 かった。彼はかつて修業を積んだカルカッタの空を思い出す。厳し い修業の成果を発揮する機会を与えられないまま都立高校の物理教 師として過ごした三十年あまりの記憶が、整理されないまま苦々し く彼の脳裏に漂っていた。 清水豪は防衛庁から届けられたダンボールを開封し、実直なエン ジニアが念入りに工具を整えるように調理を始めた。三種類の流動 食をゆっくりと飲み込み、新鮮な蛇の皮を背骨に沿って貼り付ける と、肛門から喉仏を通った小さな球体が前頭葉に達し、エネルギー が起動待機状態を回復したことを報せた。寝ている間に自動更新さ れていくエネルギーを朝の土管いじりによって放出し、決して口当 たりの良好とは言い難い朝食によって新しいエネルギーを満たす。 そのようにして彼は三十年間一日も欠かさず完璧な待機を続けてい た。 ただし、そうした朝の日課を終えてしまうと、清水豪は凡庸な人 間生活に呑み込まれていった。かつては敵対する人々の目を欺くた めに意識的な凡庸さを装っていたのだが、いつしかそれが彼の生活 として定着した。ミドリガメ、ボーキサイト、八目鰻をすり潰した 三種類の鉢を丁寧に洗うと、寿司屋でもらった大振りの湯のみ茶椀 に熱い番茶をいれた。それはどこから見ても老境にさしかかった凡 庸な男の所作に相違なかった。 茶をひと口すすった彼は、おもむろに立ち上がって神棚に二礼二 拍手一礼を捧げ、御神体の脇に奉納しておいた年賀状の束を手に取 った。なあに、取るに足らないことだがな。三十年間の凡庸な人間 生活で唯一身につけた口癖で自分に呟くと、彼は年賀状を抽選番号 によって分類し始めた。国家的機密が露見することを恐れるあまり、 自己の欲求をことごとく抑えて一般社会との融和を計ってきた彼の 人望は三十年間着実に堆積し、毎年送られてくる年賀状は優に三百 を超えていたのだった。 1969年1月、安田講堂から機動隊の手によって引きずり出さ れた清水豪は、拘置期間に大沢の面会を受けた。当時大沢は政権党 の若手議員に過ぎなかったが、キューバ危機からベトナム戦争へ進 んでいく世界情勢の中にあって、無力であり続ける日本に苛立ちを 深めていた。経済的な復興を成し遂げた日本が世界のパワーゲーム の中で生き残っていくためには、いずれ軍事力が必要となるだろう。 大沢は世界に対峙する学生たちの方法論を実質的な思考で切り捨て つつも、彼らの中に内包するエネルギーを一笑に付すことはできな かった。大沢は清水豪の中に、有効に転換し得るエネルギーを見出 したのだった。 東西冷戦が終結した後も、大沢は何くれとなく彼に励ましの言葉 を送り続けていたが、90年代の初めに政権党内の権力闘争で失脚 して以降、ほとんど音信が途絶えてた。区分け作業を終えた清水豪 は、個人的な不気味さと無邪気さが突出したような事象で埋められ た新聞を広げ、もはやこの時代に自分の出る幕などあるのだろうか、 との思いに駆られた。 それでも彼は取るに足らないことに没頭した。できるだけ時間を かけ、整理されたはがきと社会面に掲載されていた抽選結果とを照 合していった。まったく取るに足らないことだが、と思いつつ、彼 は当選に出喰わすと、おおっ、ひょうっなどとまんざらでもない口 吻を漏らし、抽選結果が上位に向かうに従って、特命戦士に似つか わしくない温かな汗を手のひらの中に滲ませていった。そして彼は、 一等の当選番号を手中のはがきに見出すや、恥ずかしいほどのガッ ツポーズを中空に掲げたのである。 当選したはがきは啓子からのものだった。あけましておめでとう ございます。先生、ますますモノはお元気でしょうか。わたしは次 男を産んで以来体重増加に歯止めがかかりません。今年はスポーツ ジムに通おうかと思っております。黒々とした蛇の絵を背景にそう した言葉が連ねられていた。清水豪は手のひらの汗を拭い、ほっそ りとした高校生だった啓子がセイウチのような容貌に変身した姿を 思い浮かべた。彼は一等賞品として記されている品物の中からデジ タルカメラを選び取る。そして、セイウチの啓子を撮影している自 分の姿を想像の中に描き出したのだった。 啓子が吾妻橋の欄干に立って清水豪と対峙したのは十五年前、彼 女が高校二年の夏休みのことだった。啓子は欄干に立ち、包囲する 警官隊に向かって金のどんぐり一升よこせ、と叫んでいた。刑事部 長は近所のメッキ工場で金色に塗装したどんぐりを一升瓶に詰めて 差し出したが、彼女はすぐに贋物と見抜いて今にも川に飛び込まん とする勢い。母親は、イニシエーションの手順を間違えたなどと呟 きながら地面に舌を這わせるばかりで動こうとしない。警察は担任 である清水豪に連絡を取った。 啓子と対峙した彼は、純金のどんぐり一升をすぐには調達できな い旨を率直に告げた。彼女は渋々それを承諾したものの、今度はロ ーマ法王に関節技を習いたいと言い出した。清水豪は困惑しつつも 欄干に一歩二歩と近付いた。じゃあわかったよ、先生がローマ法王 に代わって教えて上げるよ、と一気に啓子の腕を取り、カルカッタ 時代に習得したチキンウイングアームロックを仕掛けたが、啓子は 素早く彼の腕に飛びついて逆十字に移行、二人は腕を絡め合ったま ま隅田川に転落した。 もはやこれまでかと人々が息を呑んだ次の瞬間、二人は水面に急 浮上した。見れば苦しんだ様子もない。それもそのはず、水面下に 隠されていた清水豪の下半身は生涯初めて「スーパー清水くん」に 変身していたのである。巨大なエネルギーによって膨張した彼の下 半身は素晴らしい浮揚力を示し、啓子の体は軽々と支えられていた。 川面に叩きつけられた衝撃で魑魅魍魎の呪縛から脱した彼女は平生 の穏やかな表情に戻っていた。川原に駆け寄ってくる警官隊とマス コミの群れを眺めながら、いつまでもこうして先生にしがみついて いたい、としなやかな指で水面下のモノを擦ってさえいたのだった。 啓子からの年賀状を眺めながら、清水豪は十五年前の感触を蘇ら せていた。それは苦難の三十年間にあって唯一ノスタルジックに思 い返すことのできる出来事だった。彼の意識の深層には、しっかり と啓子の肉感が刻み込まれていた。何としてもセイウチ化した啓子 の体をデジタル画像に残しておきたい。彼は強くそう願った。 率直な感情が三十年間の過去を彼に直視させた。もう待機はごめ んだ。彼は安田講堂に立て篭もっていた当時の単純な情熱を取り戻 していた。残り少ない人生をデジタル画像で楽しんで何が悪い。こ れからは毎朝、啓子のデジタル画像を貼り付けた土管に膨張したエ ネルギーをぶちまけることにしよう。 郵便局員は差し出されたはがきと当選番号を照合すると小さな笑 みを浮かべた。 「デジタルカメラでお願いします」 郵便局員は相手のただならぬ様相にたじろいで、すぐに笑みを引 っ込めた。そして恐る恐るはがきの下部に記された「平成12年」 の文字を指し示した。啓子が何故に昨年の年賀はがきを使って賀状 を認めたのか彼には知る由もない。清水豪の前頭葉に待機していた 小さな玉は肉体の危難を察知して「スーパー清水くん」を起動した。 郵便局の窓口は巨大なエネルギーによってはるか後方へと吹き飛ば されたのだった。