第9回3000字小説バトル
Entry20
村へ向かう一本道を黒い牛が牛飼を背に乗せて歩いていきました。 牛はその地方でよく見かける農耕用の水牛でした。漆黒の体に黒い 目が光り、頭頂には二本の立派な角が生えていました。粗末な着物 をまとった牛飼は村に牛を売りに行くところでした。 売られる先は肉屋でした。牛はもう高齢でしたので、ただの肉と して売買されるのでした。牛はそれを知ってか知らずか鼻息を荒く して、村に向かう一本道を歩いていきました。 女房に先立たれ、一人息子を流行り病で無くした牛飼は、天蓋孤 独の身の上でした。牛飼は質素に暮らしていましたから、自分一人 の食い扶持は裏の畑で賄えましたが、年々かさむ租税を納める為に、 今年は家族同然にひとつ屋根の下で暮らした牛を金に替えねばなり ませんでした。 晩夏とはいえ、その日は特に蒸し暑く、太陽は天から牛の背中と 手拭を巻いた牛飼の頭に容赦無く灼熱を注ぎました。牛飼の汗は全 身から湧いてきて、牛の背中に後から後から滴り落ちて、牛の背中 を濡らしました。その湿り気とぎこちない牛の背骨の動きのために、 牛飼の股と尻は擦れて炎症を起こしていました。 その日の朝早く、博徒は村に着きました。博徒は村の中心から少 し離れた木陰に茣蓙を敷いて、商売の準備にかかりました。博徒は 茣蓙の上に座り込み、布に包まれた骰子を取り出し、手の上で転が しました。自分の思い通の目が続くまで、何度も何度も転がしまし た。小一時間も骰子を転がしていた博徒は調子が出てきたのか、快 心の笑みを浮かべ、舌なめずりを繰り返しました。 牛飼は峠に差し掛かりました。牛は息を荒くして、必死の思いで 峠を登っていきました。牛飼は掛け声とともに牛のわき腹を蹴り上 げて、勢いをつけました。炎症の為、牛飼の下半身は激痛を訴えま したが、痛みは当然の罰のように感じられ、牛飼はさらに激しく体 を揺らし、峠を登っていきました。そんな牛と牛飼の様子を山賊は、 峠の森の木陰から眺めていました。山賊は何を思ったのかむさ苦し い歯を見せて微笑み、刀を一振りしたかと思うと地面に座り込み、 目を閉じました。 牛飼はやっとの思いで峠を越えました。しばらく行くと、道の両 側は赤い花の咲き乱れる草原となりました。道沿いの大きな樹木迄 来ると牛飼は牛を降り、休憩をとりました。牛は大きな樹木に括ら れて、近くの草を食んでいました。牛飼はなんとか牛を殺さずに済 む方法は無いものかと考えていました。考えても仕方が無いことは わかっていましたが、考えずにはいられませんでした。 草原を渡る風に乗って黄色い蝶が一匹、牛の背中にとまりました。 牛は顔を上げずに尻尾で蝶を追いました。追われた蝶は、しばらく するとまた、牛の背中に戻って来ました。牛はまた蝶を追いました。 追われた蝶は、また舞いました。牛の尾が追い蝶が舞いました。牛 飼はその繰り返しを無言で眺めておりました。 いつの間にか黄色い蝶は何処かへ飛んで行きました。牛飼は牛の 背に乗り、牛はまた歩き出しました。 太陽が天の中心に昇る頃、牛飼は村に着きました。牛飼は肉屋に 行き、裏口に廻りました。肉屋の主人は汗をかきながら、大きな包 丁を砥いでいました。肉屋の主人の武骨な手が包丁を砥石に擦り付 け、砥石は濁った水を垂らしていました。牛飼は肉屋の主人に声を かけ、短い交渉の末に牛と引き替えにいくばくかの金を受け取りま した。肉屋の主人は牛の手綱を受け取ると、厳つい腕で牛を裏庭に 引いて行きました。牛飼は引かれていく牛の黒い目を最後に見まし た。牛は唸り声を立てるでもなく、肉屋の主人に引かれていきまし た。 村には市が立っていました。牛飼は市に並んだ様々な商品を見る ともなしに歩いていきました。市の外れの木陰には人だかりが出来、 博打を打っておりました。その様子にふと立ち止まった牛飼を目ざ とく見つけた博徒は、賭博に加わるよう勧めました。 最初のうちは辞退していた牛飼も博徒の甘言に乗せられ、試しに 小銭を張ってみました。骰子が振られ、歓声があがり、牛飼の掛け 金がずいぶん増えて返って来ました。気を良くした牛飼は、博徒に 誘われるままに、もう一度張って、もう一度当てました。そのうち 牛飼の頭には、牛の代金を増やして牛を買い戻して連れて帰ろうと いう考えが浮かび、掛け金をだんだん増やしていきました。骰子が 振られ、歓声があがり、勝負が繰り返されました。博徒は牛飼をそ こそこ勝たせ、牛飼は勝負に熱中していきました。骰子が振られ、 歓声があがり、勝負が繰り返されました。 太陽が西に傾き、蜩がけたたましく鳴き始めた頃には、牛飼は儲 けるどころか元手の金まですっかり使い果たしてしまいました。牛 飼は自分の犯してしまったたいへんな間違いにようやく気が付きま した。牛飼は博徒に早口で事情を説明し、いくらかの金の返済を要 求しましたが、博徒は聞く耳を持たず、牛飼を睨み返すと、新たな 鴨を求めて人だかりに目を泳がせました。 どうしようもない後悔と自己嫌悪の念を抱いて、牛飼は一本道を 帰っていきました。牛を無くし、その代金を無くし、この先どうや って暮らしていくか、牛飼は途方にくれました。牛飼は仕方なく、 途方にくれながら歩いていきました。 夕闇が迫る頃、牛飼は草原に差し掛かりました。一陣の風が吹き、 牛飼はここで草を食んでいた牛を思い出し、涙を流しました。牛の 尾が追い蝶が舞った光景がまざまざと蘇り、今頃は肉屋の主人の手 にかかって殺されてしまった牛を思って泣き出しました。いつの間 にか牛の尾は博徒の器用な手と成って、蝶は骰子に変わっていまし た。骰子が振られ、歓声があがり、牛飼いの金が巻き上げられてい きました。そのうちに博徒の器用な手は肉屋の主人の武骨は手とな り、包丁を研ぎ始めました。砥石からは牛の血がどくどくと流れま した。牛飼は大声で泣きながら一本道を歩いていきました。 ようやく峠にたどり着き、峠を上りきった頃には、牛飼の涙も枯 れていました。すると突然、刀を振りかざした山賊が飛び出して、 牛飼の行く手を遮りました。山賊は牛飼が牛に乗って村に向かった のを見て、帰りにその代金を巻き上げてやろうと待ち伏せしていた のでした。歩き疲れ、泣き疲れ、驚いて声も出ない牛飼は、ただた だ首を横に振り続けました。山賊は金を求めて牛飼を散々脅しつけ ましたが、言うことを聞かない牛飼に腹を立て、刀を振り回し始め ました。山賊は怒りに任せ狂ったように刀を振り回し、とうとう牛 飼を切り殺してしまいました。山賊は相手を殺したことにも気付か ずに刀を振り回し続けていましたが、やがて正気に返り、牛飼の死 体から金を奪おうと衣服を剥いで必死に探しました。いくら探して も金が見つかるわけも無く、山賊はようやく諦めて峠の森に引き上 げました。 手塩にかけた牛を無くし、その代金を無くし、命まで無くした牛 飼は天への道を歩いていきました。全てを無くしてしまいましたが、 暮らしを立てる心配も租税を納める苦労も暑さも寒さも痛みも無く なりました。 しばらくすると、行く手に黒い牛が見えてきました。牛は後ろか らやって来た牛飼に気付くと立ち止まり、首を垂れました。牛飼は 牛の前まで来ると牛の黒い目を見つめ、やがてその背に跨りました。 天に向かう一本道を黒い牛が牛飼を背に乗せて歩いていきました。 漆黒の体に黒い目が光り、頭頂には二本の立派な角が生えていまし た。